石造九重塔修理概要報告

石造九重塔解体修理概要報告
【県指定文化財解体修理概要報告】
石造九重塔解体修理工事概要報告
ー1990年度県指定文化財解体修理事業に伴う調査ー
・所在地
豊岡市津居山八幡神社境内
・事業主体
津居山区 区長 小田数弥
・調査期間
平成2年3月5日∼4月19日
・調査担当者
潮崎 誠 1,はじめに
津居山区の八幡神社境内にある石造九重塔
は、堂々とした風格で知られ、地元の歴史的
シンボルとして長らく親しまれてきた。格狭
間の形式や種子の手法などから、鎌倉中期を
あまり下らない時期の建立と推定され、昭和
4 3年3月 2 9日に兵庫県指定文化財(建造物)
になっている。
ところが、昭和6 0年代になって、九重塔の
長大な塔身が次第に傾きを強めている、とい
う県文化財管理指導員のパトロール報告をは
じめ、地元や研究者からの保全要請が市教育
委員会に寄せられることになった。これをう
けて市教委は、県教育委員会と復旧・修理対
策について協議を重ねてきたところ、地元津
居山区を事業主体として、平成元年度の県指
定文化財修理事業(解体修理)に採択される
第1図 調査地点の位置 1/25.000
こととなった。
事業額は1,250,000円で、県の補助金および豊岡市の随伴補助金に、地元津居山区の負担金を加え、
事業が実施された。施工は、城崎町飯谷の松本石材店がおこない、修理工程の記録・石造遺物として
の実測や写真の記録・塔の基礎石下部の発掘調査などを市教育委員会がおこなっている。
なお、解体修理全般について、文化財建造物保存技術協会の持田武夫氏に指導・助言をお願いした。
石材鑑定は、近畿大学豊岡短期大学の垣田平治郎氏に依頼し、報告をいただいている(付載)。また、
調査では高木二三尾(旧姓・馬場)・中尾文彦が補助し、山口久喜・西尾孝昌の両氏には有益な助言
をいただいた。
ー43ー
とよおか発掘情報 第1号
1.九重塔の立地
津居山地区は、漁港をかかえた集落で、日本海に注ぐ円山川の河口左岸にある。集落の中ほどに突
き出た尾根上に、津居山湾を見下ろすように八幡神社が祀られている。
この尾根は、北側奥の標高113mの山頂から派生するが、山頂からさらに北側へ下降する尾根とと
もに、室町期に築城された津居山城の縄張りを形成している。日本海と瀬戸の切戸を天然の堀とした
堅個な山城といえよう。縄張りは、のちの時代に改修を加えられているが、八幡神社の境内は、山頂
の詰城とセットになる館城にあたるとみられている。社殿が建っている主郭の北端に土累、背後に幅
10mの堀切、南と西側には帯曲輪、2の支尾根には各4段の曲輪、などを配したものである。
境内は標高約50mで、北側からの参道を登りつめたところに石造九重塔が建っている。境内でのそ
の位置から、南西面を塔の正面として扱われており、基壇の各辺は、現状では神社本殿や拝殿の向き
と合っている。
2.解体前の観察
九重塔は、先端部の相輪を失っていたが、そのほ
かの部材は比較的良く遺存していた。塔の部材の構
成と状況について述べると、3段構造の石組基壇の
上に、まず格狭間文様を4面に彫刻した基礎石が置
かれている。次に、梵字がやはり4面に配された軸
石が載せられ、その上に九層の笠石が重なる。笠
(屋根)と上層の軸部を一石で造り出しているタイ
プである。
基壇は、最下段の石組に隙間が目立ち、北西辺が
沈んだ状態となっている。しかし、上の2段には大
きな影響は及ぼしていない。なお、基礎石の南東面
の下や基壇部各所に、部分的にコンクリートによる
目張りが認められた。
軸石の梵字は、南西正面をキリークとし、時計周
りに、アク・ウーン・タラークとなる。この軸石は、
下の基礎石の向きに比べて右周りにかなりずれてお
り、塔上部の歪みの原因の一つとなっていたようで
ある。
第2図 解体作業前のようす
軸石上には9層の笠部が積み上げられているが、
それぞれ少しづつ左回りに捻じれていっており、全体のバランスが悪くなっている。また、4層の石
材で2個所など、やや目立った欠損個所が7個所ほどみられる。
全体的には、石材表面の風化はさほどではない。しかし、軸石下部の蓮座付近から基礎石にかけて
は、地表に近いためか、かなり進行している。
3.解体修理工事の概要
(1)準備工事
・資材運搬用鉄索の設営 九重塔は、比高約45mの尾根突端部にある。通路は、八幡神社の参道が2
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石造九重塔解体修理概要報告
本あるものの、いずれも急斜面に作られた幅の狭いものである。このため、資材の運び揚げには鉄索
を設営することにした。これは、ふもとの照満寺の横地に、足場と動力機械を設置し、九重塔の前方
に荷が降りるようにした。
なお、途中の斜面で、鉄索に障害のある雑木の伐採をおこなっている。
・足場 九重塔の周囲に三叉構造の足場を設置した。主要な材料は径約15㎝の丸太を用い、必要個所
に水平足場を取り付けた。
(2)解体工事
足場の頂部にチェーンブロックを設置し、浮かせた石材を水平足場で中継して、地面近くの台板に
降ろした。下部の石材は、足場の中ほどの横木にチェーンブロッ
クを取り付け下ろした。さらに、塔の前方にチルホールを設置し、
傾斜のある台板上をこれで牽いて、前方の安置場所に順次移動し
ていった。このときには、石材の下に専用コロをかませ、一方、
急激な滑りを防止するために、ブレーキとして反対側からもチル
ホールを効かせた。
なお、各石材の養生はとくにおこなわず、必要によってクッシ
ョン用の板を用いた程度である。
本体や基礎石を解体したのち、基壇部の三段の石組については、
発掘調査の進捗にに合わせて順次取り外していった。
(3)石材補修工事
基壇の石材なども含めて、既存の石材はすべて復元に使用する
第3図 解体作業のようす
こととした。相輪部は、かつて転落していたものが神社拝殿に保
管されていたが、後世に再製作された可能性がきわめて高いものである。しかし、あえてこれを使用
することとした。
この相輪は、2つに割れており、両方の破断面にほぞ穴が穿たれている。再製作したものが、その
後に転落して割れ、補修して再度用いていたものであろう。請花の部分もみられず、九輪部の一輪が
不足している。基部のはめこみ用の突起も、先端の形状が不自然である。基部がかなり破損したため
に、下の一輪を削って突起をのばしたらしい形跡がある。落下して、伏鉢や請花も含めて破損してし
まったのであろう。
今回、受花部や不足した一輪などは、あえて復元しなかった。したがって相輪は、ほぞ穴での接合
を生かすこととし、ステンレスパイプの芯棒を入れたのち、ボンドで接着した。
笠部の欠損では、比較的目立つ7個所について、コニシ株式会社製のエポキシ系樹脂、ボンドPモ
ルタルとボンドE208Wを用いて補修した。さらに、表面に花崗岩を砕いた粒を混ぜて付着させ、
疑石の効果を出した。微小な欠損は補修しなかったが、基壇石材の一部にひびがみられたので、その
部分はボンドを流し込み、これ以上の拡大がないようにした。
(4)基礎工事
塔下部の調査が終了したのち、地面を一辺約2.5m、深さ約0.5mの方形に掘り込んで基礎工事をお
こなった。径20∼30㎝の山石を一重に敷きつめ、これに石材店にあった花崗岩砕片を入れてランマー
でつき固めた。
その上に、やや間をおいて、径16㎜の鉄棒を碁盤状に組んだ枠を設定し、コンクリートを流し込ん
で基礎固めを終えた。なお、地盤は赤土で、しっかりした質の地山である。
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とよおか発掘情報 第1号
(5)基壇部工事
コンクリートで固めた地下基礎の上に、解体前の石材配置どおり、基壇の石組を復旧していった。
石組内部の詰め石も、小さなもの以外は、ほぼ旧状どおりに戻した。出土した別の石造品の破片は、
今後の資料として埋めずに保存することとした。最終的に、詰め石および枠石は、基壇三段の枠石と
ともに、すべてコンクリートで固定した。
なお、各段の上面が水平になるように石材の積み位置を調整したため、格段の隙間が解体前よりも
大きくなるところがあった。これらは無理に矯正せずに、コンクリートとモルタル材を詰めて塞ぐこ
とにした。
(6)組み上げ工事
石材の積み上げ作業では、水平調整のためと、ねじれ現象の防止のために、鉛板片を要所にはさみ
こんで固定した。各石材を接着材料で固定することはあえて避け、水平と中軸位置に注意しながら組
み上げをおこなった。作業には、解体時とおなじく、チルホールとチェーンブロックを使用した。
なお、相輪の装着では、笠のほぞ穴と突起との隙間に雨水が入らないように、パテ状の材料で接合
部を取り巻いて密着させている。工事終了後の塔の高さは、地上から相輪先端まで、5m 55㎝になっ
た。
(7)その他
解体修理をした事実を後世に残すため、銅製の簡単な修理銘板を作成し、笠部の第1層と第2層の
接合部にはさみ込んでいる。
内容 平成2年(1990)春
兵庫県補助事業として解体修理を実施する。
津居山区・豊岡市教育委員会
4.調査の概要
(1)部材の観察
基礎石以上の石材は、解体工事にあわせて観察し、写真記録のほかに平面図、断面図、側面図など
を作成している。以下にそれぞれの部材の観察所見を述べておきたい。
・基礎石 上面で104×105㎝、ほぼ正方形である。厚さは中央で48.5㎝、側面部では 47㎝である。
上面の中央がやや高まるように加工され、これは上に載る軸石の下面が中くぼみに仕上げられている
ことに対応している。軸石やその上のすべての笠石も、基本的に凹凸の同じ加工を施している。中心
部のほぞ穴と突起による連結だけでなく、石全体の安定した組み上げをはかる工夫であろう。
基礎石上面のほぞ穴は、径13㎝、深さ3.5㎝である。下面は、当然であろうが上面よりも仕上げが
粗い。正面からみて右辺に、石材を割ったさいの矢穴が6個ならび、全面に石ノミの粗い加工痕が残
る。矢穴の幅は12∼15㎝、深いものでは8㎝ほど入っている。
基礎石の4側面には格狭間がみられ、それぞれ枠をしつらえた内部に、文様が掘り込まれている。
正面のものは、82×32㎝の枠内に、幅69㎝の文様が比較的鋭い線で描かれ、中ほどがふくらむように
仕上げてある。
・軸石 一辺が 66.5∼67.5㎝、厚さは側面で 66㎝。上下両面とも中くぼみに加工し、中心にそれぞれ
突起を作り出す。突起の高さは、いずれも2.5㎝ほどである。突起の部分での軸石の厚さは69㎝あり、
側面からみると、突起がわずかづつとび出して見えることになる。
上面には、四隅に鉄さびが残っており、各笠部にも2,3個所みられた。鉄製品の本体はすでに無
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石造九重塔解体修理概要報告
く、これらが当初からの痕跡かどうか疑問だが、石材安定のために鉄製のクサビなどが用いられたこ
とを示している。
側面には梵字を刻み、正面から左回りに、キリーク・アク・ウーン・タラークとなる。薬研彫りの
力強い字体で、径51.5㎝の月輪の中に刻まれている。下部には月輪を受ける7弁の蓮座が表わされて
いる。
・笠部 初重の笠は、一辺102∼103㎝。上部につくり出された軸部は、一辺64.5∼65㎝である。厚さ
は、突起もふくめて全体で42㎝ある。笠の四隅は、軒が小さく反り上がっているが、角の線は直に降
りていて、内には入り込まない。軒の下端には、3,4㎝内側に入って、厚さ2㎝ほどの段を作り出
しており、垂木部分らしい表現がある。8重の笠部までは、これを基本形に次第に小さく作られてい
る。
9重は一辺65.5∼67.5㎝で、軒隅の反りが、やや緩やかになっている。上部を高く作り、厚さは42
㎝である。上面には、一辺31㎝、高さ5㎝の方形に露盤を表現している。その中心部に、相輪をはめ
込むための、径14㎝、深さも14㎝の、ほぞ穴が穿たれている。
・相輪 相輪は、すでに述べたように、後世に再製作された可能性が高い。その時期は不明だが、そ
の後に破損したため、基部を再加工して全体が短くなったらしい。すなわち、九輪の最下輪・請花・
伏鉢の部分がみられないのである。また、九輪の上端でふたつに折れていて、接合するために、両側
にほぞ穴を穿っている。なお、破面には、しっくいが残っている。
現状の規模や形状をみておくと、下部材は長さ36.2㎝あり、九輪部と突起に分かれる。輪のそれぞ
れの幅は2.1∼2.5㎝、溝は幅1㎝ほどで、5,6㎜の深さがある。最大径は21㎝である。突起は、径
12.8㎝、長さ8㎝で、九輪の最下輪を削り取って突起をのばしたものである。
上部材は、宝珠・請花・水烟からなり、長さは35㎝ある。宝珠の径は 17.9㎝で、請花は、花の表現
がない単純なものだが、径19.1㎝をはかる。水烟は、四方に突起があり、幅3.7㎝、長さ8.5、高さ2.1
㎝のものがつくり出されている。
破面を接合するためのほぞ穴は、一辺3㎝ほどの三角形状のもので、深さは上部材で9.7㎝、下部
材では10.2㎝が穿たれている。
以上、各部材を観察したが、梵字と格狭間文様以外には文字などの記された形跡は認められず、紀
年銘などで建立時期をあきらかにすることはできない。
また、とくに笠部には、自然の状態では生じにくい欠損個所がいくつか認められたこと、すでにふ
れた鉄さびの原因であるクサビが無くなっていたこと、などから考えると、すくなくとも建立後に一
度は、倒壊している可能性が高い。
(2)発掘調査
・基壇の発掘 基礎石を除去したのち、3段の石組基壇と地下部の発掘調査を実施した。基壇は方形
で、下段で一辺228∼235㎝、中段で181∼185㎝、上段は137∼141㎝に組まれている。それぞれの高さ
は、正面中央で、ほぼ24㎝づつ。全体の地上高は、最大74㎝である。石材は、直方体のものを大小用
いており、下段から 11、8、4個の材で枠組している。調査は、復元することを前提に記録をとり、
内部の遺物に注意しながら、上段の枠石から徐々に外していくことにした。
上段は、基礎石を外すと、内部全体に茶褐色の土があらわれた。これを下げていくと、3㎝ほどで、
中央におさまっていた62×45㎝、厚さ12∼18㎝の石材がみつかった。上面が水平に置かれていて、こ
のまわりには、径3∼20㎝の山石が土とともにつまっていた。
中段の枠内には、直方体の石材5個などが、かなり整然とした配置であらわれた。
ー47ー
とよおか発掘情報 第1号
c
1
2
2m
3
2
1
0
第4図 基壇の調査実測図
ー48ー
香住ヱノ田遺跡発掘調査概要報告
第6図 基壇の調査2
第5図 基壇の調査1
すき間には小型の山石や、一部は川原石をつめている。なお、中央には、これら石材と上の石材とに
はさまれたように、50×22㎝、厚さは5㎝までの、板状の石材が割れた状態でみつかった。やや軟質
なこの石材(図中のa)は、片方の長片がよく整い、加工されたものと考えられた。文字などはみら
れない。なんらかの石造遺物の断片であろうが、山口久喜氏によれば、「石がん」の部材片の可能性
があるようだ。
下段内には、枠石に接して7つの直方体の石がならぶ。その内側は、5∼40㎝大の大小の川原石、
b
d
0
20cm
第7図 基壇内の石造遺物片
ー49ー
とよおか発掘情報 第1号
山石が乱雑に詰められていた。それらに混じって、別の石造品の破片らしい石材が3点(図中のb・
c・d)あったほか、発色の悪い青磁らしい小片1点、出石焼の小片2点、新しい時期の瓦片が3点、
みつかった。
・地下の調査 これら下段内の石や土を除去すると、ほぼ平らな地山の面となり、なんらの施設も
設けられていなかった。下段の石は、高さ調整のために、溝状に地山を掘り込んで据えているものが
あった。
・出土遺物 まず陶磁器と
瓦についてみておくと、1
は青磁らしい破片で、椀の
体部らしく、底部に近い部
2
1
分である。内外面ともに、
緑青灰色の釉と褐色の部分
が、まだらになっている。
0
5cm
3
断面は淡青灰色で、緻密で
ある。他の遺物よりも時期
が古いと思われる。2,3
は出石焼で、いずれも口縁
部の小片である。時期は特
定できないが、出石焼は江
戸後期以降である。4,5
は瓦で、ほかに小片1点が
ある。きわめて新しい時期
の瓦であろう。4は、針金
4
5
の通し穴をもっている。
石造品の破片は、4点出
ている。図化したのは2点
で、bは一辺2 4㎝ほどの方
形部材が欠けたものである。
0
5cm
五輪塔の火輪部などであろ
うか。dも方形部材の角部
第8図 遺物実測図
で、屋根の軒隅らしい表現
である。b・c・dの3点は、同一の石質で、きわめて軟質の凝灰岩である。
このように、基壇石組内や下部からは、当初の九重塔建立の時期や意図・背景をしめすような遺物
は出土しなかった。しかも、後世の磁器片や新しい瓦片が混じっていた。このことは、基壇そのもの
が当初のものでなく、きわめて新しい可能性、あるいは、基壇は古いが、新しく大掛かりな修復を加
えたこと、などを示している。また、一度ならず、基壇を組直していることも考えられよう。九重塔
が当初からこの場所にあったかどうかも含めて未解決である。
5.まとめ
以上のように、津居山の九重塔の解体修理事業と発掘調査を実施した結果、部材の加工状況や組み
ー50ー
香住ヱノ田遺跡発掘調査概要報告
1.5m
0
第9図 九重塔全体実測図
ー51ー
とよおか発掘情報 第1号
立ての方法などがあきらかになった。また、少なくとも一度は、部材が欠けるほどの倒壊があったこ
とも明白になった。しかし、建立の年代やその背景を明らかにするような文字資料、埋納遺物、遺構
は検出できなかった。九重塔の原位置についても不明な点が残ったが、石造品の本格的記録や発掘調
査として、但馬でも数少ない重要な資料となろう。
第10図 修理後の九重塔全体
ー52ー
香住ヱノ田遺跡発掘調査概要報告
【県指定文化財材質調査概要報告】
石造九重塔の岩質調査概要報告
ー1990年度県指定文化財解体修理事業に伴う調査ー
垣田平治郎
.はじめに
八幡神社の石造九重塔の解体修理に伴い、各部分の石材の岩質について調査の概要を報告する。第
一回は潮崎氏立ち会いのもとで3月20日、第二回は組み立てがほぼ終わった4月13日である。とくに
下層の部分は汚れがひどく岩相がわかりにくい状況であるが、表面が風食をうけ、かなりの年月を経
ている。岩相の相違から判断し、上部の相輪、九重塔本体部分、三層の台座のうち上二段と下一段、
台座の中へ埋められていた岩片の五部分にわけ、それぞれについて述べることにする。
1.相輪の岩質について
相輪はたびたび落下して手を加えているようであり、風食があまり進んでいないことから比較的あ
たらしいのではないかと考えられる。また上下の二段になっているが、岩質は同じであるが表面の色
が多少異なるようで、別々に造られた可能性がある。
石材本来の色や岩相をみることは難しいが、白褐色の石基から、はん晶が風化で抜け出たような窪
みが無数に見られる。八幡神社の登り口に約50㎝ぐらいの転石のようなものが運びあげられており、
ほぼ同質のものと考えられる。これは竹野町宇日を模式地とする照来層群の最下層の高山累層に属す
宇日流紋岩であり、日和山の西から竹野海岸へかけ広く分布している。
もともと流紋岩の溶結岩で、石英、斜長石などの、はん晶が肉眼でもよくみられる。
2.九重塔の本体の岩質について
九重塔の本体とは、九層の塔の部分と方柱形の文字のある台、さらにその下の紋様のある方状形の
台座である。全体がよく風化を受け、かなりの年月を経ているようである。かなり粗粒の黒雲母花こ
う岩で、大きい結晶は1㎝にも達している。このように粗粒の花こう岩であることから、鳥取花こう
岩か、宮津花こう岩ということになるが、優白色の鳥取花こう岩より、黒雲母・角閃石の多い宮津花
こう岩の可能性が高いと考えるべきである。
このように粒度が大きいことから、まず但馬地域の石材でなく、少なくとも出石郡但東町奥矢根よ
り東の地域の花こう岩と考えた方がよい。
3.台座三段のうち上二段の岩質について
地面に近いため、かなり汚れて風化も受けている。岩相はわかりにくいが、中粒の最大1㎝程度の
黒雲母花こう岩で、明かに上部の九重塔の本体とは、岩相を異にするものである。この場合は、むし
ろ但馬地域の花こう岩と考えるべきで、輸送の便から、竹野海岸の竹野川左岸から香住町訓谷の地域、
他の一つは円山川を利用して、上流の出石郡地域の可能性が考えられる。
ー53ー
とよおか発掘情報 第1号
4.台座三段のうち下一段の岩質について
地面に接しているため、たいへん汚れており岩相をみるのが難しい。しかし上二段と岩相が異なり、
おそらく瀬戸・津居山の地元の石材で角れきを含む瀬戸安山岩の凝灰岩と考えられる。
5.台座より発掘された岩片の岩質について
台座の基礎の石組より発掘された中に、新しい時期の瓦・陶磁器など後世のものが出土しており、
明治以降にも最小限、一回の解体修理工事が行なわれていると考えられている。
したがって、一緒に発掘された岩片も、その時にいずれかの所より持ち込まれているのではないか、
そして修復工事の時期がわかるのではないか、との期待感もあったが、二種類の岩片を調べてみると、
一つは台座三段の石組の上二段と同質の中粒から細粒の黒雲母花こう岩で、他の一種類は、台座の下
一段の石材と同質の地元の瀬戸安山岩の凝灰岩であった。
おそらく台座の築造のさいにできた岩片を、そのまま埋め込み、後の修復工事のさいも瓦や陶磁器
とともに再び埋め込んだものと考えられる。
あとがき
津居山八幡神社の九重塔の石材を調べ、各部分の石材の搬出した場所を考えると、まず九重塔の本
体部分は、かなり粗粒の黒雲母花こう岩で、但馬地域外の石材を用いている可能性が高い。
相輪、三段の台座、台座の中に埋め込まれていた岩片は、明かに地元の石を用いている。相輪の部
分は溶結岩の宇日流紋岩を、台座下一段と埋め込まれていた岩片の一種類は、津居山・瀬戸の瀬戸安
山岩の角れき凝灰岩を用いている。残りの台座上二段と埋め込まれていた別の岩片は、細粒の黒雲母
花こう岩であることから、但馬地域の石材を用いているものの、瀬戸・津居山付近には存在しないこ
とから、やや離れたところより石材を求めたと考えるべきであろう。
(1990年4月15日 近畿大学豊岡短期大学)
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