香川直島における キリスト教史年表および 香川直島

香川直島 における
キリスト教史年表 および
香川直島伝道所の歩み
木村 一雄
2014.10.6
香川直島 におけるキリスト教史年表 および香川直島伝道所の歩み 木村 一雄
香川県の高松と岡山県の宇野との間の備讃瀬戸に国鉄(JR)宇高連絡船が就航していた頃、連絡船は宇野港沖にあ
る直島の近くを通っていた。船から見える直島は禿げ山が多く、「精錬所の島」というイメージであった。ところが、この島
が近年、国際的な「アートの島」へと変貌している。
直島は、香川県高松市の北約 13 ㎞、岡山県玉野市の南約2㎞に位置し、東西2㎞、南北5㎞、周囲 16 ㎞の小さな島。
この本島を中心に、葛島、荒神島、寺島、家島、屏風島、牛ヶ首島、井島など 27 島が香川県直島町を形成す。町の人口
は 3,196 人(2014 年 8 月 1 日現在。5 月末 3,174 人。1970 年 6,007 人、2000 年 3,705 人)。
島内には、フェリーの発着港を持つ「宮ノ浦」、戦国時代の海賊の城下町を原型とする「本村(ほんむら)」、古くからの
漁港である「積浦」という3つの集落のほか、北西部に三菱マテリアル直島精錬所の工業地帯あり。
直島の歴史は古く、「喜兵衛島製塩」遺跡に見るように、古墳時代から製塩集団が生活をしていた。
『日本書紀』の中にも、応神天皇(3 世紀後半)が吉備(今の岡山地方)に行く途中で、直島に立ち寄り、「本村」で何日
か過ごしたという伝承が残っている。応神天皇はまず今の「宮ノ浦」に上陸し、一旦、海岸伝いに南に出て、今の「揚島
(あげしま)」で休憩し、「積浦(つむうら)」に上陸して桃山を越えて「本村」まで行ったという。
平安時代末期には、「保元の乱」(1156 年)で敗れた崇徳上皇が讃岐へ流される際、3年間、直島の「泊ヶ浦(積浦)」で
過ごしたといわれ、「直島(なおしま)」という地名も、上皇が島民の「純真素朴さ」を賞賛して命名したという言い伝えがあ
る。
1500年代
戦国時代末期
江戸時代
直島は古くから製塩が盛んで自ずと京等へ塩を運ぶ際に警護役の水軍が発達していた。
戦国時代末期に小規模な水軍の将、高原次利が直島の八幡山に直島城を築き、その城下町
として本村の町並みや寺院群、神社などを整備した。ほかにも丸山城、八日山城、風戸城など
の出城を島内各地に作った。
キリシタン大名でもあった高原次利は、直島水軍の長であり、戦国末期に豊臣秀吉に仕え、
備中高松城水攻めの際には秀吉軍の海上警備、水先案内をした功績により 1582 年に男木
島、女木島、直島の 3 島 600 石の領主となった。
その後は秀吉の四国、九州、朝鮮への出兵(文禄・慶長の役)でも海上輸送での功績が認め
られ、1600 年関ヶ原の戦いのときは東軍に味方し、徳川初期の 1619 年に没するまで所領を
90 年間守り抜いた。
2 千石に加増なった旗本高原家は、引き続き江戸時代初期まで直島を治めた。所領である
直島・男木島・女木島で 600 石なので、他に飛び地的な領地を持っていたと思われる。
高原氏は、江戸時代、参勤交代する旗本(後に言う交代寄合)であったが、6 代数馬の時代に
親不孝を理由で改易され高原家は姿を消す。その高原氏一族の墓が廃寺となった菩提寺高
原寺跡に現在も残っている。特に戦国時代後半から江戸幕府時代初期の当主であった高原
次利の五輪塔は高原氏隆盛の立役者らしく大きく立派な五輪塔。
九州征伐では軍監を務め、作戦に反対する長宗我部元親や十河存保らを押し切り強行しなが
ら島津に惨敗し、真っ先に逃げた仙石秀久を収容した(長宗我部元親の嫡男信親や十河存保
は踏み止まり討死)。
子孫は 6 代目高原数馬の時に改易され、1671 年に<天領>となる。直島城は改易後も残って
いたが、1781 年の大火の際に焼失したと推測されている。
高原氏の後、1671 年、直島は幕府直轄領である<天領>となり、倉敷代官所の支配下に
入る。
この時代は、瀬戸内の地の利を生かした廻船業(北前船)や、製塩業の島として栄えた。水
軍時代の技術を生かして全国、遠くは北海道まで出向いていた。また天領であったため歌舞
伎や人形浄瑠璃などの公演が特別に認められ、島内外からの一座や観客で大変賑わった。
特に、淡路島から伝わったという人形浄瑠璃の人気は高く、明治時代に盛況を迎えた。その
後一時途絶えたが、第2次世界大戦後に女性ばかりで演じる女文楽として甦った。
直島は、元は小豆島・豊島とともに吉備国・備前国の児島郡に属していたが、幕末に高松藩
の預かり地となる。1868(明治元)年に土佐藩預かり地となった後、倉敷県(現在の岡山県)に
移管され、1871(明治4)年丸亀県の管轄を経て香川県の一部となった。
当時、備讃瀬戸の島々を香川県・岡山県のどちらに分類するかを決めるに際しては色々議
論があった。結局、桶を瀬戸内海に流して桶が流れた線で線引きすることで話しが纏まり、そ
の結果、香川側に有利に桶が流れ、直島も香川県に属することになったという。この逸話の真
偽は不明だが、今も実しやかに語られている。
1868年 (明治元年)
明治維新
≪王政復古、廃仏毀釈運動≫
1869年(明治2年)
1870年(明治3年)
1871年(明治4年)
≪大教宣布≫
≪寺社領没収、神社の社格と神官職制を決める≫
5月、一宮の田村神社を国幣中社、金比羅神社を国幣小社に列する。
≪廃藩置県令発布≫
7月 14 日、高松県・丸亀県となる。
11 月 15 日、高松・丸亀の両県合併により香川県となる。(香川県の歴史)
1872年(明治5年)
1873年 (明治6年)
キリスト教禁制の高札撤廃
2 月 28 日、香川県を廃し、徳島の名東県と合併。旧県庁は名東県高松出張所となる。
(香川県の歴史)
1876年 (明治9年)
3月 25 日(土)、神戸在住のアメリカン・ボード宣教師、J・L・アトキンソン師が鈴木清青年と小
野俊二青年とを同道して、松山伝道に来る。
3月 28 日(火)、午後三時に、四国最初の伝道集会が、官吏を対象に三番町の城戸屋旅館で
30 分間行われ、この日を以って四国におけるキリスト教の解禁となす。
4月 19 日(水)アトキンソン師ら、琴平神宮を訪ね、丸亀の城下町ではトラクトを配り、夜、多
度津港から出港した。(今治 125 年、松山古町年譜)
1898年 (明治31年)
1899年 (明治 32 年)
≪1890 年、町村制施行:香川郡直島村≫
ロバート・アラン、瀬戸内海伝道および沖縄伝道資金として、2,000 ポンドを寄付(その経緯
には母親がタムソンの沖縄伝道を支援していたことがある)。
5 月、ビッケル船長神戸着(翌年の条約改正を見越した上で)
7 月、日英通商航海条約が改正され、外国人の居住・旅行の制約無くなる。
7 月 24 日、日本基督浸礼派伝道会社と改称。
9 月 13 日、福音丸(一造:~1911 年)献造式。
12 月、バプテスト教会伝道船福音丸(船長 L.W.ビッケル)による伝道開始。小豆島の弁天島
に投錨、福音丸の最初の伝道地であった。(島々の伝道者)
直島伝道の黎明期
1907年 (明治40年)
伝道船・福音丸 宣教師時代 直島伝道の黎明期。~1912 年。
バプテスト派のビッケル宣教師が、福音丸で豊島に来島し、瀬戸内海の島々を開拓伝道す
る。(豊島四十年)
7月 5 日、ビッケル宣教師、福音丸にて直島本村に来島し、島屋織田杉太郎宅で講演。(直島
伝道史)
1908年 (明治41年)
7 月 15 日、ビッケル宣教師、直島に再び来島し、講演チラシ配布、幻燈持参。(直島伝道史)
11月、小豆島土庄町において、福音丸、聖書研究所設立。(土庄名簿)
1909年 (明治42年)
福音丸、直島に来島したが今井竹松が暴れ込み、ビッケル宣教師離島。(直島伝道史)
1910年 (明治43年)
8月、土庄の福音丸聖書研究所は、土庄福音丸基督伝道所と改称。(土庄名簿)
立石芳松氏、墓参のため直島に帰島し、小学校で講演。(直島伝道史)
県人口72万9989人、世帯数13万6271戸(香川県人口移動調査報告)(地域の本棚)
1911年 (明治44年)
9月5日、『教報』「ビッケル船長が帰国され福音丸は各島を巡航できなくなったが、各地の教
師たちは近島を巡回し伝道につとめているので求道者が起こり、聖書研究する者が増加して
いる。
1912年 (明治45年
大正元年)
1918年 (大正7年)
福音丸で小豊島や豊島の唐櫃港に寄船したが、楽隊行進のみで終わる。(豊島四十年)
福音丸、直島本村に投錨したが、ビッケル宣教師講演せず、楽隊行進だけで終わる。(直島伝
道史)
内海伝道の宣教師が豊島を来島した。(豊島四十年)
1919年 (大正8年)
内海伝道の宣教師が直島に来て、本村の三宅重教氏宅で講演。(直島伝道史)
1920年 (大正9年)
宣教師豊島を来島したが会場もなく講演せず。(豊島四十年)
1921年 (大正10年)
宣教師、直島を来島したが会場もなく講演せず、終了。(直島伝道史)
1922年 (大正11年)
立石芳松牧師(阿波池田教会)、直島に帰宅し、三宅重教氏宅で講演。(直島伝道史)
立石牧師時代 日曜礼拝
1931年 (昭和6年)
5月30日、立石芳松牧師、阿波池田教会より、直島に帰島し、以後、日曜礼拝を開始。本村
の立石芳松宅にて。(直島伝道史)
≪満州事変がおこる≫
1932年 (昭和7年)
8月 12 日、直島の西村満国氏(西村イツ子姉の父親)、立石芳松師より受洗。(直島伝道史)
1933年 (昭和8年)
3月 26 日、植田計之助氏、立石芳松氏より受洗。(直島伝道史)
岡山の玉野教会では、牧野力雄牧師の在任中、日本ホーリネス教会全群の信仰上の分離
問題が起こり、日本ホーリネス教団と日本聖教会・きよめ教会に分離し、玉野教会も日本聖
教会となる。(玉野教会史)
1934年 (昭和9年)
木村清松牧師、訪問。講演会開く。(直島伝道史)
1935年 (昭和 10 年)
8月、谷儀平牧師、来島。花岡門六氏受洗。(直島伝道史)
1936年 (昭和 11 年)
牧野力雄牧師、玉野ホーリネス教会より伝道に来島。(玉野教会史)
1937年 (昭和 12 年)
牧野力雄牧師、本村に伝道所設置したが、2ヶ月で閉鎖。(玉野教会史)
1938年 (昭和 13 年)
1939年 (昭和 14 年)
1940 年 (昭和 15 年)
1941年 (昭和 16 年)
6月24日、日本基督教団成立。プロテスタント系キリスト教会は合同教団日本基督教団に統合。
6月24日~25日、日本基督教団創立総会、於、富士見町教会。
藤崎盛一、美布兄姉来島、豊島唐櫃に定住して立体農業研究所を開設した。(豊島四十年)
12月8日
≪太平洋戦争始まる≫
キリスト教の弾圧厳しく、太平洋戦争勃発、賀川豊彦先生神子ヶ浜で軟禁された。(豊島四十年)
立石芳松牧師、中田重治牧師側に立ち、きよめ教会さらに日本自由基督教会、教団第9部に
属する。立石牧師、「造物主の外,神なし,天皇も被造物」の件で、召喚される。(直島伝道史)
牧野牧師、玉野ホーリネス教会は6部(聖教会)のグループに入る。(玉野教会史)
1942年 (昭和 17 年)
6月26日、政府は教団第6部・9部幹部教職者を検挙し所属教会に波及した。ホーリネス系
の教職者 97 名が治安維持法違反の嫌疑で全国一斉検挙された。きよめ教会では 62 名が検
挙された。
11月24日~25日、第1回教団総会にて、部制を解消し、完全合同を決議。(四国教区年史表)
この頃、牧師が相次いで出征のため無牧の教会激増。
伝道も事業も殆ど出来ない有様となった。(豊島四十年)
日本基督教団第一部年鑑(旧日本基督教会)によれば、当時、自給教会、伝道教会、伝道所
と三種類に教会が分類されていた。
1943年 (昭和 18 年)
玉野教会でも川村牧師が検挙され、教会は解散を命じられた。(玉野教会史)
4月7日、文部省は、第九部は第六部と共に教会設立認可の取り消し処分と教師について
は辞任させることを日本基督教団富田統理に通知した。それを受けて、教団は4月9日に獄
中にある教師たちと家族に、自発的に辞職するように求めた。辞任しなければ、権限により
身分を剥奪する旨を伝えた。
1944年 (昭和 19 年)
1月 26 日、宇都宮教区長より通達、「軍用機献納運動をさらに推し進めるように、各地で必
勝祈祷会を開催するように」。尚、この時点での募金集計は香川1,000円、愛媛30,000
円、徳島1,000円、高知10,000円。教職には「一ヶ月分の俸給を捧げて率先垂範するよう
に」勧められている(四国教区史年表)
3月20日~28日、教区長、教区内を間安。高松、諸教会を訪問。軍用機献納運動などのた
め。(四国教区史年表)
4月17日、教団伝道局より教区内第3種教会に補助金あり。1教会辺り15円送付される。
丸亀雑賀町、小豆島など。(四国教区史年表)
7月19日、高知・香川・徳島3支教区連合「戦時活動強化に関する練成協議会」が高松三番
町教会で行われる。講師、教団総務局長鈴木浩二、教学局次長比屋根安定。(四国教区史年表)
立石芳松牧師病気。(直島伝道史)
1945年 (昭和20年)
2月2日、総務局より各教会への通達。国策を具現するため教団、教区、支教区、教会の4
段階での常会を開くこと、常会では死生超脱等を教化すべきこと。(四国教区史年表)
立石芳松牧師、召天。(直島伝道史)
全国の教会、1,184のうち496教会罹災。
7月4日、高松市内の教会堂、牧師館、幼稚園舎など全焼。(旧三・七) ≪高松大空襲≫
高松・徳島・高知の 3 市空襲。高松三番町、高松東、高松香川、高松七番町、高知、土佐、下
街の諸教会全焼。(四国教区史年表)
7月19日~22日、教団より戦災教会慰問使、勝部伝道局長来る。教区長と共に多度津、高
松、等巡回する。(四国教区史年表)
8月15日
≪終戦の詔勅≫
8 月末終戦後、キリスト教伝道の障壁が取除かれ、広本久代姉、寺田徳太郎兄らが率先し
て、豊島では家浦、神子ヶ浜で日曜学校・路傍伝道再開。(豊島四十年)
1946年 (昭和21年)
≪日本国憲法発布 11 月 3 日≫
西村満国氏、直島村長時代
1947年 (昭和22年)
≪日本国憲法施行 5 月 3 日≫
1948年 (昭和23年)
L.W..モーア宣教師、来島。花岡門六氏、資材斡旋し、宮浦伝道所建設。(直島伝道史)
1949年 (昭和24年)
宮浦伝道所に高松より、野田辰夫牧師(高松東教会、教団離脱改革派高松教会)、2~3回
来島。以後、閉止。(直島伝道史)
1950年 (昭和25年) 金子益雄牧師、小豆島片城の内海教会より来島。(直島伝道史)
≪1954 年:町制施行により直島町となる≫
香川豊島教会(金子・小国)兼務期
1955年 (昭和30年)
金子益雄牧師、香川豊島教会主任担任教師として就任し、直島伝道を開始。(直島伝道史)
1956年 (昭和31年)
賀川豊彦牧師、三菱文化会館にて講演。(直島伝道史)
3月末まで毎週土曜、宮浦保育所にて集会。(直島伝道史)
内海伝道キャラバン一行11名来島。(直島伝道史)
1957年 (昭和32年)
12 月、金子益雄牧師、米国留学決まり、翌 1 月より6ヶ月神戸パルモア学院で留学準備。
1958年 (昭和33年)
4月1日、金子益雄牧師米国留学中、香川豊島教会代務者として、小国清子伝道師就任。
5月 17 日、小国清子師、宮浦第二保育所において毎月第一、三土曜午後 2 時より聖研。
夏期直島伝道のため、日本聖書神学校 2 年生加藤喜雄神学生8/1~31 迄、立石姉宅にて
伝道。(直島伝道史)
東京神学大学院生吉川一弥神学生 7/9~8/3 まで夏期伝道実習(教区より補助 1 万円)
7 月19 日、渕田美津雄先生特伝(元真珠湾爆撃総指揮官)。150 名出席。宮浦第二保育所に
て。(直島伝道史)
9 月 18 日、ピリーパルモア先生特伝。100 名出席。三菱製錬所集会所。(直島伝道史)
10 月 1 日、立石宅を改造し、伝道所とする。(直島伝道史)
11 月 2 日、日曜学校開始。毎月第 2・4 日曜日午後 2 時より宮浦保育所と立石宅にて行う。
12 月 28 日、日曜学校クリスマス。第一、第二保育所。(直島伝道史)
小国清子牧師兼務期
1959年 (昭和34年)
6 月 4 日、戒能団平牧師、特伝。三菱文化会館。(直島伝道史)
夏期直島伝道のため、日本聖書神学校3年生加藤喜雄神学生 8/1~31 迄、立石姉宅にて
伝道。(教区より補助 1 万円) (直島伝道史)
12 月 28 日、教会学校クリスマス。本村立石宅、第二保育所。(直島伝道史)
香川直島伝道所開設
1960年 (昭和35
年)
1月、日本基督教団香川直島伝道所開設許可を受ける。
1 月、香川豊島教会を親教会として教団CEC開拓伝道申請(不許可)。(直島伝道史)
1 月10 日、日曜礼拝開始。香川豊島教会の日曜夕礼拝を土曜日にし、毎日曜日午後出張伝
道。CS午後 2 時立石宅。保育所聖研休会。夕礼拝立石宅。金子牧師帰国まで8ヶ月継続。
礼拝出席者:立石不二よ、立石一二三、立石八重子、西村知子、植松さよ子、石川ケイ子、
宮本藤枝、歯科技工士、巡査など。(直島伝道史)
8月23 日、金子益雄牧師帰国、香川直島伝道所に赴任。9 月より香川豊島教会より毎月
1 万円援助。(直島伝道史)
9月4日、宮浦の谷宅倉庫改造し、牧師館兼集会所を作り、香川直島伝道所開設式ならび
金子益雄牧師就任式を行う。野町良夫牧師により記念特別集会を行う。40 名出席。
9月 11 日、高柳伊三郎牧師特伝。日曜礼拝再開。(直島伝道史)
12 月 25 日、福島豊氏受洗。当時礼拝平均出席者 2 名。金子牧師夫人、福島豊兄、宮本藤
枝、前田良明 (直島伝道史)
金子益雄牧師、特伝集会礼拝時代
1961年 (昭和36年)
3月 17 日、榊原千代女史特伝。香川豊島教会援助金毎月 7 千円。(直島伝道史)
9月、伝道所を宮浦地区に移転し、集会所兼牧師館建設決定。高松教会員小川篁ルカ病院
から病室の一部の寄贈を受ける。(直島伝道史)
11 月 21 日直島伝道所会堂定礎式。(直島伝道史)
12 月、香川豊島教会より直島伝道所への援助金毎月 7 千円とする。(豊島四十年)
1962年 (昭和37年)
3月 21 日、香川直島伝道所献堂式。教区議長上野光隆牧師来島し、特伝。
以後、香川豊島教会より援助金毎月 7 千円。(直島伝道史)
12 月17~20 日、クリスマス離島伝道集会開始。豊島、直島、小豊島に於いて、この年より毎
年伝道集会を行った。講師:グーデン宣教師(ワールドヴィジョン在日総裁)(豊島四十年)
1963年 (昭和38年)
1 月 31 日、特別集会 講師賀川ハル先生、直島三菱製錬所集会所。
11 月3日、金子益雄牧師辞任。(直島伝道史)(豊島四十年)
12 月 15~17 日、クリスマス離島伝道。豊島、直島、小豊島の離島で伝道集会をなす。講師:
グーデン宣教師、益田泉先生。(豊島四十年)
無牧期 小国清子牧師兼務
川真田正牧師時代
1964年 (昭和39年)
6 月 10 日、川真田正伝道師着任。教区より毎月 10,500 円の援助を受く。(豊島四十年)
7 月 23 日、川真田正伝道師就任式。教区長吉田光穂牧師来島。特伝:講師吉田光穂牧師(高
知教会)出席者 50 名。(豊島四十年)
12 月 17~18 日、クリスマス離島伝道。豊島、直島、小豊島の離島で伝道集会をなす。講師:
グーデン宣教師、益田泉先生。(豊島四十年)
1965年 (昭和40年)
1966年 (昭和41年)
12 月 11~13 日、クリスマス離島伝道。豊島、直島、小豊島の離島で伝道集会をなす。講師:
益田泉先生。(豊島四十年)
再無牧時代 小国清子牧師兼務
1967年 (昭和42年)
6月12 日、川真田正牧師辞任。(豊島四十年)
埼玉、大宮教会荒木清二郎牧師が主任担任教師兼務となったが、7 月 9 日より主に小国清
子牧師が来島礼拝応援。毎月第二・四日曜午後 2 時より。(直島伝道史)(豊島四十年)
12 月 14 日、聖霊福祉事業団理事長・長谷川保氏特伝を羽根田グーデン牧師と共に、第二
保育所にて開催。40 名出席。(直島伝道史)
クリスマス礼拝 13 名。年間来島して奉仕した諸牧師は小国清子、中山忍、小林(山崎)恵子、
野町良夫各氏。(直島伝道史)
離島伝道協力としてクリスマス離島伝道集会を開催、豊島は毎年行った。(直島伝道史)
3 月、受洗者:久保和男(直島伝道史)
分区伝道支援 小国清子牧師兼務
1968年 (昭和43年)
4月 28 日、香川分区は、香川直島伝道所を「分区集中伝道域」に指定。分区長:荒木
精司牧師(内海)67~71 年。65~66、72 年志村信夫(高松)、73~77 年小島誠志(一宮)、78~86
年土浜達司(善通寺)、86~87 年片岡健吉(琴平)、87~91 年野村和正(高松)、91~98 年三谷
保(丸亀)、98~08 年木村一雄(琴平)、08~10 年三野慶仁(内海)、10~12 年 9 月水野穣(屋
島)、12 年 10 月~ 福田哲(多度津)。
小国清子牧師兼務主任担任教師の就任。
7 月26 日、分区より野町良夫、中山忍、志村信夫、荒木精司、小国清子各牧師と四国学院コ
ーラス部の応援により宮浦第二保育所グランドにて野外音楽伝道を行う。40 名。(直島伝道
史)(豊島四十年)
8 月 15 日、『信徒の友』編集者原田洋一郎氏来島し取材、10 月号に香川直島伝道所掲載さ
れる。(直島伝道史)
当時の礼拝出席者:久保和男、小林房子、藤田義夫、岡内花子、松本敏信、菊田雅子、宮本
藤枝、今田喜未子、北島、立石一二三、福島豊 (直島伝道史)
12 月 11 日、キリスト伝道会益田泉先生伝道集会(伝道所)開催、小国清子牧師、吉村静枝氏
来島し出席。出席者 10 名。クリスマス離島伝道集会後、『シベリア女囚』で知られる益田泉
女史が午後 1 時より直島小学校・中学校の社会科の時間として講演あり。(直島伝道史)
1969年 (昭和44年) 久保和男兄、上京し進学・就職。
12 月 10~14 日、クリスマス離島伝道集会。豊島教会、豊島唐櫃特伝、豊島小学校、子供会、
直島伝道所、直島保育所母の会、小豆島バプテスト教会、小豆島老人ホーム等。講師:益田泉
先生。(豊島四十年)
1970年 (昭和45年)
小国清子牧師指導の下、立石一二三姉、松本敏信夫妻、小林房子姉等が礼拝を守る。
12 月 3~6 日、クリスマス離島伝道。講師:黒田四郎先生、益田泉先生。豊島小・中学校、直島
小・中学校、教会特別集会等。(豊島四十年)
1971年 (昭和46年)
12 月 12~13 日、クリスマス離島伝道。講師:吉野丈夫先生、神戸保専学生 13 名と教師 2 名の
応援あり、豊島教会、各施設、直島小・中学校講演、第一保育園母の会。(豊島四十年)
1972年 (昭和47年)
12 月 3~5 日、クリスマス離島伝道、講師・吉野丈夫牧師、神戸保専学生のコーラス応援。豊島
教会、直島伝道所集会。(豊島四十年)
1973年 (昭和48年)
7 月 26 日、直島夏期応援伝道、奥村真敏神学生実習 8 月末。(豊島四十年)
9 月、直島伝道所客員湯浅鉄郎兄、米国神学校へ入学。
12 月13 日、クリスマス離島伝道集会、講師:伊藤栄一牧師(鴨島兄弟教会) 豊島教会のみ。(豊
島四十年)
1974年 (昭和49年)
12 月 1~2 日、クリスマス離島伝道集会、講師:陳志豊牧師(台湾キリスト長老教会) 豊島教会
特伝、豊島中学校、直島伝道所。(豊島四十年)
1975年 (昭和50年)
12 月 7~8 日、クリスマス離島伝道集会、講師:武田暎四郎牧師(日基高松キリスト伝道教会)。豊島
農民福音学校、直島伝道所、豊島教会等。
1976年 (昭和51年)
11月29日、クリスマス離島伝道集会、講師:角井義雄牧師、ネパールとインド、幻燈と講演会を豊
島教会のみ。
1977年 (昭和52年)
6 月 26~27 日、直島伝道所、会堂修理屋根瓦運搬奉仕作業。
9 月 13~17 日、直島伝道所、会堂屋根瓦取り換え工事完了。
12 月 2 日、クリスマス離島伝道集会、講師:石川和夫牧師(松沢教会) 豊島教会のみ。
1978年 (昭和53年)
8 月 15 日、直島伝道所へ篠宮孝子伝道師が会堂守として居住。
8 月 27 日、臨時総会を開催、礼拝説教を担当。謝礼は毎月 3 万円。(豊島四十年)
篠宮孝子牧師就任
1979年 (昭和54年)
2 月 17 日、直島伝道所伝道協議会、会堂小修理。
4 月、篠宮孝子伝道師、香川直島伝道所主任担任教師として就任。(直島伝道史)
6 月 10 日、篠宮孝子牧師就任式。司式者:教区総会議長小島誠志牧師。豊島教会より毎月 1
万円援助。小国清子牧師兼務辞任。(豊島四十年)
11 月 5~6 日、クリスマス離島伝道集会、講師:春風パウロ先生、腹話術、豊島で5ヶ所、直島伝
道所で特伝を行う。
この頃、立石一二三姉、松本敏信夫妻、小林房子姉、等が礼拝を守る。
1980年 (昭和55年)
小国清子牧師代務
小国清子牧師兼務
1月6日、直島伝道所牧師篠宮孝子先生、榊原病院入院加療の為に小国牧師、1月~3月、
直島伝道所礼拝応援毎月2・4週16時に変更す。(豊島四十年)
3月 10 日、直島伝道所土地所有権登記完了す。
4 月 1 日、小国清子牧師、直島伝道所の代務者となる。篠宮孝子牧師1月~10 月入退院を繰
り返し、退院の際は伝道所より通院。(豊島四十年)
11 月 1 日、篠宮孝子牧師、直島伝道所辞任(病気の為)。
小国清子牧師、直島伝道所兼務主任担任教師、引き続き月第2・4週聖日礼拝応援。(豊島四
十年)
12 月 4 日、クリスマス離島伝道集会、講師:春風みや子姉による腹話術。豊島教会のみ。
1981年 (昭和56年)
1982年 (昭和57年)
10 月 25~26 日、香川分区第 1 回離島伝道協議会(於:内海教会)。(豊島四十年)
香川直島、香川豊島、小豆島(内海)の三島を持ち回り毎年1回開催している。
この協議会は、1999年より、大島(大島霊交会)を加えて、名称を「さぬき四島伝道協議会」と
して取組みを新たにして協議会を継続し、さらに 2011 年より「さぬき島しょ部伝道協議会」とし
て進めている。
12 月 7~8 日、クリスマス離島伝道集会、講師:久保賢太郎牧師(栗生ルーテル教会)、豊島農民福音
学校、神愛館、豊島教会等。豊島のみで開催。(豊島四十年)
1983年 (昭和58年)
10月 23~24日、香川分区第2回離島伝道協議会(於:香川直島伝道所)。(豊島四十年)
1984年 (昭和59年)
11 月 25~26 日、分区第 3 回離島伝道協議会、於・香川豊島教会。
1985年 (昭和60年)
この頃から、小国牧師と小林房子姉、西村イツ子姉、久保和男兄が礼拝を守る。
6 月 24 日、分区第4回離島伝道協議会、於・香川教会。
1986年 (昭和61年)
分区長:片岡健吉牧師(琴平)
4月、分区教師交代と共に分区内教会間の協力伝道が芽生える。多度津(岡隆正⇒宮岡利明・
有澤慎一)、善通寺(土浜達司⇒佐伯博正・松隈正徳)、坂出富士見(今井賢祐⇒村川政勝・河野言
使)、香川(中山忍⇒会沢とき江)、内海(渡邊一広)、さらに3年後、琴平(片岡健吉⇒木村一雄)。
6月 29~30 日、分区教師一泊研修会、於・小豆島海浜センター 8 名。
『離島伝道の幻を語る』発題者:渡邊一広伝道師(内海)、片岡健吉牧師分区長。
「離島伝道協議会」は、分区委員(教職三役、信徒委員 2 名)による島の各教会を問安。
内海:10 月 9 日(三谷保・辻康)、香川豊島:10 月 29 日(片岡健吉)、香川直島:11 月 23 日(野
村和正・土谷健一)
この問安により、次の課題が明らかになる。
①内海教会の今後の取組みのために必要な設備を整えること。
②香川直島伝道所の礼拝が毎週守れるような協力の方法。
10 月 29 日、分区第 5 回離島伝道協議会、於:香川豊島教会
1987年 (昭和62年)
1月11日、豊島教会、直島伝道所礼拝説教応援開始。永年に亘り毎月(第1か3)(第2か
4)週の聖日午後4時より、礼拝応援今年も実行する。(豊島四十年)
分区より、直島伝道援助費として豊島→直島間の海上タクシー代(8,000 円/回)年間 15 万
円を分区会計に予算化して毎年支援していく。
1 月 26 日、教区伝道協議会「教区の伝道を考える」、於:高知教会 小国清子牧師、現状報告
と展望を語る。(豊島四十年)
1988年 (昭和63年)
10 月 31 日、教区議長森分直樹牧師(八幡浜教会)、直島伝道所訪問 懇談会を行う。
1989年 (昭 64/平成
元年)
2 月 29 日、香川直島伝道所にて「離島伝道協議会」を開催。
1990年 (平成2年)
90 年代に、金子益雄牧師(湯河原『城山学園』)来島の際、立石肇兄、立石信也兄が受洗。
11 月 12 日、香川豊島教会にて「離島伝道協議会」を開催。5 名。
1991年 (平成3年)
9 月 15 日、分区青年会、直島伝道所でワークキャンプ開催。
11 月 3 日、内海教会にて「離島伝道協議会」を開催。5 名
1992年 (平成4年)
11 月8日、香川直島伝道所にて「離島伝道協議会」を開催。開会礼拝:松隈正徳牧師、11 名。
1993年 (平成5年)
8 月 13~14 日、分区青年会、直島伝道所でワークキャンプ開催。
11 月7日、香川直島伝道所にて「離島伝道協議会」を開催。開会礼拝:野町佳郎牧師、13 名。
1994年 (平成6年)
8 月 14~15 日、分区青年会、直島伝道所でワークキャンプ開催。
11 月 13 日、香川直島伝道所にて「離島伝道協議会」を開催。開会礼拝:北川正弥伝道師、発
題「香川直島伝道所の現状と将来に向けての展望」小国清子牧師。14 名。
1995年 (平成7年)
7月9日、内海教会にて「離島伝道協議会」を開催。発題「島の伝道のビジョンを語ろう」小国清
子牧師。12 名。
1996年 (平成8年)
渡邊一広牧師辞任に伴い内海教会再び無牧。
分区伝道協力体制は、坂出大浜教会の支援に止まらず、「無牧の教会応援」(高松、坂出、香
川、善通寺、丸亀、屋島、多度津)、「病気休職中の教師の教会支援」(多度津)、「さぬき四島伝
道」協力(内海、香川直島)、「教会堂牧師館建築」(香川、阿波池田、内海)、青年伝道、婦人会
活動、教誨師事業(丸亀少女の家)などの分区内教会に関わる伝道の諸課題を協議し、具体的
に協力を進めていく。
10 月 20 日、内海教会にて「離島伝道協議会」を開催。開会礼拝:北野久義牧師、発題「内海教
会の現状と将来に向けての展望」三谷保分区長。10 名。
小国・田中牧師兼務時代
1997年 (平成9年)
4月、香川豊島教会田中暉彦牧師就任。(四国教区年史表) 香川直島も兼務担任。
4 月、分区の伝道協力は、さらに「分区伝道協力委員会」として新たに発足させた。
7 月 20 日、内海教会にて、内海教会創立 50 周年記念礼拝に併せて、「離島伝道協議会」をも
って、無牧の内海教会のこれからについて協議した。
9月、香川分区離島伝道協議会開催。於:香川直島伝道所
1998年 (平成10年)
9 月 21 日、香川豊島教会にて、分区「離島伝道協議会」を開催。講演「豊島伝道の展望」講
師:籾井梅子氏(豊島神愛館長)13 名。
1999年 (平成11年)
分区が島の伝道を支援し、島の教会を孤立させない体制を整えること。 (内海教会人
事を通して分区全体が「島しょ部伝道」について教えられたこと)
無牧の内海教会を 6 月より分区教職が交替で礼拝応援し、12 月より分区長(木村一雄牧師)
が代務者となり、分区全体で礼拝・集会等の支援体制を開始。
「さぬき四島伝道」協力と支援献金、「無牧の教会応援」、香川教会移転建築。
伝道協力委員会(委員長:三谷保)の下に、さらに「さぬき四島伝道担当者会」を置く。定例会
議は年2回、年度中間(10 月)と年度末(2月)、ほか1回の計3回開催。
11 月 15 日、教区伝道協議会(松山済美会館)で「協力伝道を考える~教会に灯りが点るとき
~」発題:「四島伝道について」野町佳郎牧師。ほか城辺教会。松山城北教会。
2000 年度より教区長期伝道援助申請する。「さぬき四島にある教会・伝道所の働きを強化す
るため、香川分区は積極的に協力する」。小豆島、豊島、直島、大島。
2000年 (平成12年)
4月、香川分区「さぬき四島伝道」開始。四島は、内海(小豆島)、香川直島、香川豊島、大
島霊交会(大島青松園内のプロテスタントの群)。教区伝道部の長期伝道援助、分区伝道応援費、
分区さぬき四島伝道協力献金等によって年間百万円の活動費を祈りと奉仕と献金によって支
えている。
教区伝道部の長期伝道援助第Ⅰ期(30 万円、5年目から 40 万円)を受け、分区より「伝道
応援費」15 万円(01 年度から 16 万円)支出し、「分区伝道協力献金」(目標:20 万円⇒01 年度
からは 25 万円)を分区内教会伝道所に募り、「さぬき四島伝道」を推進。
4 月より、香川直島伝道所は分区伝道応援で、月 2 回の礼拝を3回となる。毎月第2週の
主日礼拝説教を分区諸教会の教師が担当し、第1・3週を香川豊島教会の小国・田中牧師。
香川直島への援助 29 万 7 千円(旅費:豊島→直島 12 万+直島→豊島 3 万 5 千+こころの友
21,000+応援牧師・駐車料金等 2 万 5 千+宿泊費 36,000+立て看板整備費 6 万)
11月12日、香川分区「さぬき四島伝道協議会」開催。於:香川直島伝道所・「つつじ荘」15 名。
「直島伝道と内海・小豆島伝道について」。直島伝道所の説教奉仕と礼拝について
12 月 26 日、「さぬき四島伝道」担当者会(第1回)開催(高松教会)。
2001年 (平成13年)
香川直島への援助 32 万 1 千 4 百円(旅費:豊島→直島 15 万 5 千+こころの友 8,400+応援
牧師・駐車料金等 2 万+伝道費 88,000+整備費 5 万)
5月より香川直島伝道所は分区伝道応援で、月3回の主日礼拝を4回(第1~4週)と
なる。
毎月第2週の主日礼拝説教を分区諸教会の教師が担当し、第1・3週を香川豊島教会
の小国清子牧師。第4週を主に玉野教会の阪西直和牧師が担当。
この間、直島伝道所では下水道整備、教会案内看板・掲示板の新設、教会敷地の整備
を行う。今後の課題として、宿泊して訪問・牧会が可能になるように牧師館整備、信徒訓練
等。
7 月 8 日、香川豊島教会にて、「さぬき四島伝道協議会」開催。11 名。
「豊島の伝道について」発題:田中暉彦牧師
2002年 (平成14年)
香川直島への援助 27 万 6 千円(旅費:豊島→直島 18 万+こころの友 8,400+応援牧師・駐車
料金等 2 万+伝道費 18,400+整備費 5 万)
7 月 14 日、内海教会にて、「さぬき四島伝道協議会」開催。14 名。
玉野教会の阪西直和牧師を交えて、「内海教会の伝道について」(木村一雄牧師)、「さぬき四
島伝道について」(野町佳郎牧師)の発題をもとに協議した。
2003年 (平成15年)
香川直島への援助 31 万 8 千円(旅費:豊島→直島 18 万+こころの友 8,400+応援牧師・駐
車料金等 2 万+伝道費 6 万+整備費 5 万)
8 月 31 日、香川直島伝道所にて「さぬき四島伝道協議会」開催。14 名。
発題「直島伝道の歩みと将来を語る」小国清子牧師。
直島と小豆島の伝道について話し合った。直島伝道所は引き続き、分区と玉野教会か
らの教職・信徒の応援を得て、礼拝を月 4 回(除く第 5 週)守っている。
2004年 (平成16年)
香川直島への援助 32 万 1 千円(旅費:豊島→直島 18 万+こころの友 12,600+応援牧師・
駐車料金等 2 万+伝道費 42,600+整備費 5 万+信徒応援 3 万)
9 月 21 日、香川豊島教会にて「さぬき四島伝道協議会」開催。10 名。当初 8 月 29 日であっ
たが台風により 9 月に延期。島内伝道の課題と方策について協議した。
協議会Ⅰ・発題「香川豊島教会の伝道方針を語る」田中暉彦牧師。
協議会Ⅱ・報告と発題「内海教会」野町太郎伝道師、「香川直島伝道所」小国清子牧師、「大
島霊交会」川染三郎牧師。
11 月 26 日、「さぬき四島伝道」担当者会(第 10 回)開催(坂出大浜教会)。
この年、台風 15・16・18・21・23 号等による高潮や床下浸水で、香川豊島・内海教会などに被
害があり、内海・香川豊島・香川直島・高松・多度津・琴平等の教会員に高潮・風水害・土砂崩
れ等の被害を被った。
2005年 (平成17年)
香川直島への援助 42 万 2 千 6 百円(旅費:豊島→直島 18 万+応援牧師・駐車料金等 2 万
+伝道費 42,600+整備費 5 万+信徒応援 3 万+特伝 10 万)
8月 28 日、内海教会にて「さぬき四島伝道協議会」開催。14 名。
協議会Ⅰ「内海教会の伝道の課題」、協議会Ⅱ「他の島の伝道の課題と取組み」
11 月、香川直島伝道所、「時田直也弾き語りコンサート」を開催。80 名。
香川直島伝道所には、阪西直和牧師(玉野教会)の健康上の事由により応援できな
くなり、分区内の教師と信徒で第3・4週の主日礼拝支援を行うことになった。
2006年 (平成18年)
香川直島への援助 25 万 2 千 6 百円(旅費:豊島→直島 18 万+応援牧師・駐車料金等 2 万
+伝道費 42,600+信徒応援1万)
6 月から香川直島伝道所は、毎月末土曜日に家庭集会を本村地区で始めた。
この年から、大島霊交会との交流会・合同礼拝の実施は、霊交会の皆さんの高齢化事情等
により、分区からの訪問応援は見合わせることなった。会への献金はさぬき四島伝道会計
から献げ、高松教会からの霊交会会員への訪問は継続する。
7 月 6 日、「さぬき四島伝道」担当者会(第 15 回)開催(香川豊島教会)。
8 月 27 日、香川豊島教会,中庭住宅ホームにて「さぬき四島伝道協議会」開催。10 名。
「豊島のキリスト教の歴史および豊島伝道の現状と展望」木俣努氏。
2007年 (平成19年)
「さぬき四島伝道協力献金」として首都圏の教会(中渋谷教会有志)から以後毎年献金有り。
香川直島への援助 26 万 3 千 9 百円(旅費:豊島→直島 18 万+支援牧師・信徒交通費・駐車
料金等 3 万 6 千+伝道費 42,600)
8月 26 日、内海教会にて「さぬき四島伝道協議会」開催。13 名。
協議会Ⅰ「小豆島伝道の現状と展望」、協議会Ⅱ「直島、豊島の伝道」について協議
2008年 (平成20年)
香川直島への援助 26 万 3 千 3 百円(旅費:豊島→直島 17 万 5 千+支援牧師・信徒交通費・
駐車料金等 6 万+伝道費 22,600)
8 月 31 日、香川豊島教会,中庭住宅にて「さぬき四島伝道協議会」開催。14 名。島々の教会・
伝道所の現状・課題・活動計画について協議した。また、豊島教会員との交流会をもった。
9 月 15 日、分区青年会、「直島日帰り奉仕」 於:香川直島伝道所、23 名。
「さぬき四島伝道」通信だより第1号発行。
2009年 (平成21年)
香川直島への援助 23 万 2 千 6 百円(旅費:豊島→直島 17 万+支援牧師・信徒交通費・駐車
料金等4万+伝道費 22,600)
8月 30 日、内海教会にて「さぬき四島伝道協議会」開催。
今後のさぬきの島嶼部伝道について協議した。
9月9日、「さぬき四島伝道」担当者会議(第 21 回)開催(香川豊島教会)。
10 月 23 日、分区四役会「さぬき四島伝道の今後と協議会の資料検討」
11 月6日、分区四役会「さぬき四島伝道の今後と協議会の資料検討Ⅱ」
11 月 10 日、分区教師会 発題「分区伝道協力の歩み~島嶼部伝道の歩みとこれから~」木村一雄
11 月 27 日、分区四役会「さぬき四島伝道の総括とこれからの展望と計画」短期・中期・長期
2010年 (平成22年)
1 月 5 日、分区教師会 協議会「分区さぬき四島伝道の総括とこれから」田中暉彦
1 月 12 日、教区伝道部「伝道協議会」(琴平教会)、主題『さぬき四島伝道のこれから』「分区
伝道協力の取組み~香川分区の島嶼部伝道の歩みとこれから~」発題者:木村一雄(琴
平)、木俣努(香川豊島)、三野慶仁(内海)
香川直島への援助 13 万 8 千円(旅費:豊島→直島本村 8 万 4 千+支援牧師・信徒交通費・
駐車料金等 3 万 7 千+伝道費 24,000)
この年から『瀬戸内芸術祭』開催に伴い、島しょ部間の高速船が就航し豊島直島間のアク
セスが大幅に改善された。それ故に、教師 2 名の交通費(6 百円×年 30 回) 36,000 円。教
師 1 名の直島本村→豊島間、年 15 回 9,000 円、宇野経由 1,050 円年 15 回 27,000 円、宇野
経由高松 690 円×年 30 回 21,000 円。計 48,000 円。支援教師・信徒応援交通費:高松⇔宮
浦往復 1,020 円、2 名分 24 回 25,000 円。信徒交通費年 12 回 12,000 円 計 37,000 円。
≪瀬戸内国際芸術祭2010 第 1 回開催≫
8 月 15 日、香川直島伝道所にて、「さぬき四島伝道協議会」開催。
2011年 (平成23年)
3 月「さぬき四島伝道」通信だより第 2 号発行。
香川直島への援助 15 万 2 千百円(旅費:豊島→直島 10 万+支援牧師・信徒交通費・駐車料
金等 2 万 8 千+伝道費 24,000)
7 月 27 日,教団内「島しょ部伝道」連絡会開催(香川豊島)。小橋孝一氏(新島教会牧師)を囲んで
11 月 3 日、分区役員研修会にて講演「分区伝道協力の歩み~島嶼部伝道の歩みとこれから
~」木村一雄(琴平)
2012年 (平成24年)
2月 12 日、小橋孝一氏(新島教会)、香川直島伝道所礼拝応援。
2月 27 日 小国清子牧師、卒寿(90 歳)を迎え、現役。豊島・直島伝道 53 年。豊島内の四つの
施設訪問・奉仕 150 回以上/年。香川直島伝道所兼務継続。月 3 回礼拝奉仕。第 4・5 週は分
区からの礼拝応援。
4月「さぬき四島伝道」通信だより第 3 号発行。
香川直島への援助 15 万 2 千百円(旅費:豊島→直島 11 万+支援牧師・信徒交通費・駐車料
金等 1 万 8 千+伝道費 24,000) 分区から毎年同等額の伝道支援を継続している。
5月 15 日~16 日、東京教区東支区「伊豆諸島連合修養会」に木村一雄(琴平)、木俣努(香川豊
島)を派遣。
9月23日、小国清子牧師休職に伴い、田中暉彦牧師、香川直島伝道所兼務主任担任教師就
任。司式:木村一雄牧師。
10 月 8 日、分区「島しょ部伝道協議会」を一宮教会で開催。伊豆諸島から小橋孝一氏来会。
田中暉彦牧師主担者兼務時代
2013年 (平成25年)
2月 13 日、小国清子牧師逝去。90 歳。教団現役牧師最高齢。伝道者 58 年。15 日香川豊島教
会で葬儀。1958 年より 54 年間、香川豊島教会・直島伝道所を牧す。
4月20日、分区総会にて、香川直島への援助9万7千円(旅費:豊島→直島4万+支援牧師・
信徒交通費・駐車料金等 1 万 8 千+伝道費 39,000)
≪瀬戸内国際芸術祭2013 第2回開催≫
香川直島伝道所は、故小国牧師より教会堂建築基金を受け、新会堂建築を決議。
「アートの島に祈りの教会を」と、2015 年 12 月竣工を目指し、分区の全面的な支援で建築
プロジェクトを推進している。設計者は大岡山建築設計研究所・田淵諭氏(多摩美大教授)。多
摩美術大学の環境デザイン学科の学生たちも加わり、プロジェクトを推進している。
10 月 9 日、第1回教会建築委員会開催。
11 月4日、分区「島しょ部伝道協議会」を直島伝道所で開催。伊豆諸島から一之木幸男氏(八
丈島教会牧師)来会。一之木氏は「伊豆諸島の5教会は、5本指である。末端まで生きていれ
ば、体全体が生きる」と語る。
12 月 18 日、第2回教会建築委員会開催。
分区島しょ部委員会、委員に担当教職のほか、信徒、分区長・書記も加えて推進している。年
4回開催。
2014年 (平成26年)
3月 26 日、第3回教会建築委員会開催。
4月 12 日、分区総会にて、香川直島への援助9万7千円(旅費:豊島→直島4万+支援牧
師・信徒交通費・駐車料金等 1 万 8 千+伝道費 39,000)
5月 17 日、第4回教会建築委員会開催。
6月8日、『信徒の友』編集者伊東正道氏、カメラマン小林惠氏(豊島出身、金子益雄牧師時代直
島伝道所に来会している)、直島伝道所訪問。『信徒の友』(9 月号)に特集掲載された。
6月 25 日、第5回教会建築委員会開催。
7月 30 日、第6回教会建築委員会開催。ホームページ開設。
9月2日、第7回教会建築委員会開催。
『香川直島におけるキリスト教史年表および香川直島伝道所の歩み』作成:木村一雄
10 月6日、第8回教会建築委員会開催。建築プロジェクトに会計担当者を増員。実施設計へ。
11 月3日、分区島しょ部協議会開催。於:香川直島伝道所。伊豆諸島から竹井真人氏(伊豆
大島・波浮教会牧師)来会。
11 月 10 日、第9回教会建築委員会開催。 2015年 (平成27年)
12 月「アートな島にアートな祈りの礼拝堂」竣工予定。
参考文献
四国地方キリスト教史年表稿(1)-明治時代-(四国キリスト教史料研究会)
南美宣教五十年史
(宣教五十年史)
Until the Day Dawn
高松司教区のあゆみ
(U)
J・A・Cogswell
(あゆみ)
松田 毅一
日本キリスト教団香川直島伝道所
創立四十周年記念誌
(豊島四十年)
日本キリスト教団香川豊島教会
創立五十周年記念誌(10年誌) (豊島五十年)
日本キリスト教団香川豊島教会
故小国清子牧師「祈り」の記念誌
日本キリスト教団香川豊島教会
香川県のプロテスタント宣教百三十年の歩み
四国学院大学キリスト教教育研究所
キリスト教年年表 2009
木村一雄資料
日本基督教団四国教区香川分区定期総会資料
日本基督教団香川分区
香川分区伝道協力のあらまし
木村一雄資料
香川分区島しょ部伝道の歩み
木村一雄資料
四国教区史年表 (1941年~2007年) (四国教区史年表)
日本基督教団四国教区宣教研究委員会
教区互助制度のあらまし (教区互助制度のあらまし)
日本基督教団四国教区宣教研究委員会
日本基督教團年鑑 昭和十八年版
日本基督教団年鑑 1988~2014年 日本基督教団出版局 日本基督教団玉野教会史
日本キリスト教団玉野教会
瀬戸内海伝道100周年記念
(瀬戸内海伝道100年)
日本バプテスト同盟内海部会
土庄バプテスト教会員名簿
高松教会二十年史
(高松二十年)
日本キリスト教団高松教会
日本基督教団高松教会合同四十周年記念誌
(高松合同四十年)
日本キリスト教団高松教会
合同50年のあゆみ
(高松合同五十年)
日本キリスト教団高松教会
創立四十周年記念誌
(内海四十年)
日本キリスト教団内海教会
創立125周年記念 日本基督教団今治教會史録 (今治125年) 日本キリスト教団今治教会
教会創立九十周年記念誌
(松山古町年譜)
日本基督教団松山古町教会
教会創立百周年記念誌
(松山古町年譜)
日本基督教団松山古町教会
岩城教会のあゆみ
日本基督教団岩城教会
恩寵の回顧 ~高松教会戦後史~ (改革派高松)
日本基督改革派高松教会
地域の本棚 新修高松市史
(地域の本棚)
高松市史
歴史シリーズ37 香川県の歴史
(香川県の歴史)
直島町史&町史続編 (直島町史) 直島町史編纂委員会
香川歴史年表~明治元年から現代まで~(四国新聞社、2000 年)
中本仁一著『福音丸と私』(燦葉出版社、1991 年)
キリシタン研究 第一部四国篇
(研究)
直島伝道所伝道史資料
(直島伝道史)
香川直島におけるキリシタンの歴史
戦国時代末期に小規模な水軍の将、高原次利が直島の八幡山に直島城を築き、その城下町として本村の町並みや
寺院群、神社などを整備した。ほかにも丸山城、八日山城、風戸城などの出城を島内各地に作っている。
キリシタン大名でもあった高原次利は、戦国末期に豊臣秀吉に仕え備中高松城水攻めの際に秀吉軍の水先案内をし
た功績により 1582 年に男木島、女木島、直島の 3 島 600 石の領主となった。その後は秀吉の四国、九州、朝鮮への出
兵でも海上輸送で功績が認められ、関ヶ原の戦いのときは東軍に味方し徳川初期の 1619 年に没するまで所領を守り抜
いた。子孫は 6 代目の時に改易され、1671 年に天領となる。直島城は改易後も残っていたが 1781 年の大火の際に焼失
したと推測されている。
「⾼高原⽒氏の墓標群」【本村地区(家プロジェクトのエリア)】 直島・男木島・女木島の領主、高原初代次利の墓標は、大きく立派な大名墓の風格がある。 五輪と石塔があり、塔の方には『西宗(せいしゅう)
』という文字が入っておりキリシタン大名の印。 その裏には数基の卵塔(らんとう)があり、屋根の部分の側面がクルス(十字)になっており珍しい。 キリシタン弾圧の以前のもので、
むしろ多くのインテリ大名が信仰していた。
特に瀬戸内沿岸部の大名豪族に多かった。
直島領領主⾼高原⽒氏墓標群(⾹香川県直島町) 直島を江戸時代初期まで治めていたのが 2 千石の旗本高原家。所領である直島・男木島・女木島の三島で 600 石なので、
他に飛び地的な領地を持っていたと思われる。
高原氏は、江戸時代、参勤交代する旗本(後に言う交代寄合)であったが、6 代数馬の時代に親不孝を理由で改易され高原
家は姿を消す。その高原氏一族の墓が廃寺となった菩提寺高原寺跡に現在も残っている。特に戦国時代後半から江戸幕
府時代初期の当主であった高原次利の五輪塔は高原氏隆盛の立役者らしく大きく立派な五輪塔である。
直島は古くから製塩が盛んで自ずと京などへ、塩を運ぶ際に警護役の水軍が発達していた。高原氏は直島水軍の長で
あり、秀吉が備中高松城を攻めていた際には海上警備を担当し、その後も九州征伐や文禄・慶長の役などに活躍。九州征
伐では軍監を務め、作戦に反対する長宗我部元親や十河存保らを押し切り強行しながら島津に惨敗し、真っ先に逃げた
仙石秀久を収容している(長宗我部元親の嫡男信親や十河存保は踏み止まり討死)。
高原次利はキリシタンであり、
この墓の裏側にはクルス灯篭があってイエス・キリストと思しき人物が彫られているら
しいが、残念ながら見つけられない。
香川県の高松と岡山県の宇野との間の備讃瀬戸に宇高連絡船が就航していた頃、連絡船は宇野の沖にある直島の
近くを通っていた。船から見える直島は禿げ山が多く、精錬所の島というイメージでした。ところが、この島が近年「アート
の島」へと大きく変貌している。
直島は、香川県高松市の北約 13 ㎞、岡山県玉野市の南約2㎞に位置し、東西2㎞、南北5㎞、周囲 16 ㎞の小さな島。
この本島を中心に、葛島、荒神島、寺島、家島、屏風島、牛ヶ首島、井島など27島が香川県直島町を形成している。町
の人口は約 3600 人。島内には、フェリーの発着港を持つ「宮ノ浦」、戦国時代の海賊の城下町を原型とする「本村」、古く
からの漁港である「積浦」という3つの集落のほか、北西部に三菱マテリアル直島精錬所の工業地帯がある。
直島の歴史
直島の歴史は古く、喜兵衛島製塩遺跡に見られる様に、古墳時代から製塩集団が生活をしていたと考えられてい
る。
『日本書紀』の中にも、応神天皇が吉備(今の岡山地方)に行く途中で直島に立ち寄り、本村で何日か過ごされたとい
う伝承が残されている。応神天皇はまず今の宮ノ浦に上陸し、一旦、海岸伝いに南に出て、今の揚島(あげしま)で休憩
し、積浦(つむうら)に上陸して桃山を越えて本村まで行ったと言い伝えられている。
平安時代末期には、「保元の乱」で敗れた崇徳上皇が讃岐へ流される際に、3年間直島の泊ヶ浦(積浦)で過ごされ
たと言われており、「直島(なおしま)」という地名も、上皇が島民の純真素朴さを賞賛して命名したという言い伝えがあ
る。
戦国時代末期には、水軍の将である高原次利が八幡山に城を築き、城下町として町並みや寺院群、神社などを整
備しました。次利は、豊臣秀吉に仕え、備中高松城水攻めの際に秀吉軍の水先案内を行った功績により 1582 年に男木
島、女木島、直島の 3 島 600 石を与えられた。その後は秀吉の四国、九州、朝鮮への出兵でも海上輸送で功績が認めら
れ、関が原のときは東軍に味方して徳川の旗本となり、90年間直島を統治した。しかし江戸初期の 6 代目の時に改易さ
れ、家系が絶えた。高原次利はキリシタンだったといわれている。
高原氏の後、1671 年、直島は幕府直轄領である天領となり、倉敷代官所の支配下に入る。この時代は、瀬戸内の
地の利を生かした廻船業(北前船)などや、製塩業の島として栄えた。水軍時代の技術を生かして全国、遠くは北海道ま
で出向いていた。また、天領であったため歌舞伎や人形浄瑠璃などの公演が特別に認められ、島内外からの一座や観
客で大変賑わった。特に、淡路島から伝わったという人形浄瑠璃の人気は高く、明治時代に盛況を迎え、その後一時途
絶えていたが、第2次世界大戦後に女性ばかりで演じる女文楽として甦っている。
直島は、元は小豆島・豊島とともに吉備国・備前国の児島郡に属していたが、幕末に高松藩の預かり地となる。
1868(明治元)年に土佐藩預かり地となった後、倉敷県(現在の岡山県)に移管され、1871(明治4)年、丸亀県の管轄を
経て香川県の一部となる。当時、備讃瀬戸の島々を香川県・岡山県のどちらに分類するかを決めるに際しては、色々議
論があった。結局、桶を瀬戸内海に流して桶が流れた線で線引きすることで話しがまとまり、その結果、香川側に有利
に桶が流れ、直島も香川県に属することになったという。この逸話の真偽は不明だが、今もまことしやかに語られてい
る。
近代の直島
直島は農業には向かない地形で、古来より製塩業に始まり、漁業や交易で生計を立てていたが、明治以降の我が国
の近代化の中で次第に取り残されるようになった。このような中、1916(大正 5)年、三菱合資会社から銅製錬所の受け
入れが打診された。この頃、足尾銅山など各地で銅の製錬の際に出る亜硫酸ガスによる煙害問題が起きており、三菱
は煙害の心配の少ない離島を探していた。
これに対して、将来のことを考えた直島は製錬所を受け入れる決断をした。以降、直島は三菱の企業城下町として発
展していくこととなった。この精錬所は銅鉱石から銅の精錬、またその過程で生産される金・銀を生産し、現在でも、金
(地金)は約5トン生産され東洋一を誇っている。三菱合資会社は、現在の三菱マテリアル。しかし、その代償も大きく、
精錬所の煙害で島の北半分および周囲の島々の木々はほとんど枯れて禿山となってしまった。
現代の直島
しかし、直島の南側は瀬戸内海国立公園に指定された緑豊かな海岸が残されていた。そこで、直島町は、島の南端
の風光明媚な地区を秩序だった観光地にしようと観光開発を誘致した。最初に観光開発に着手したのは藤田観光であ
ったが、その撤退した後を受けたのが岡山の福武書店(現・ベネッセコーポレーション)であった。ベネッセは、1987(昭和 62)年
に一帯の土地を購入し、1989(平成元)年に安藤忠雄氏のマスタープランによる「直島国際キャンプ場」を整備する。さら
に「直島南部を人と文化を育てるエリアとして創生」するための「直島文化村構想」(現・ベネッセアートサイト直島構想)
を発表し、1992(平成4)年には「ベネッセハウス」(現・ベネッセハウスミュージアム)の建設などへと事業を拡大させていった。
1997(平成9)年からは、直島に残る民家を修復・保存し、そこで現代美術作家が作品を制作・展示することで、古い民
家の空間を現代に甦らせるという「家プロジェクト」を進めて行った。また、2001(平成 13)年には、直島全体を舞台にそこ
での人々の暮らしや歴史と深く関わる作品を創作・配置する企画展を、「スタンダード」展として始めて開催した。その後
も、2004(平成 16)年7月に地中美術館をオープンし、2006(平成 18)年 10 月から「直島スタンダード2」を開催している。
このような取り組みにより、古い集落にもカフェや民宿等ができるなど徐々に変化してきた。また欧米などの高級リゾ
ートホテル誌に取り上げられ、直島に来る外国人観光客が大幅に増えてきている。直島に定着する人たちも増えてきて、
人口減少が鈍くなり、今日ではやや増加気味である。
一方、直島では、東隣の豊島(てしま、香川県小豆郡土庄町)で発生した産業廃棄物の不法投棄問題から端を発して、
産業廃棄物処理施設を総合的に整備する「エコアイランドなおしま事業」(循環資源回収事業)が展開されている。この
事業は、直島町に蓄積された製錬施設や技術、人材等の既存産業基盤を活用し、これまで再資源化が困難であり、最
終処分されていた廃棄物等を「都市鉱山」と位置づけ、これらから社会に有用な資源を回収するとともに、ゼロエミッショ
ンを目指し、広域的な循環型社会システムの構築に貢献しようとするものである。
「アートの島に祈りの教会を」建築プロジェクト推進
そうした状況の中で、香川直島伝道所は大きな決断をした。「アートの島に祈りの教会を」というキャッフレーズを掲げ
て建築プロジェクトを立ち上げ、分区の全面的支援を得て、大岡山建築設計研究所設計者・田淵諭氏(多摩美術大学教
授)および多摩美術大学がタイアップして、同大学の環境デザイン学科の学生たちも加わり、教会建築のプロジェクトを
推進している。田淵氏は「これまでの御自身の教会建築の集大成になる教会堂にしたい」と意気込んでおられる。2015
年 12 月竣工を目指している。また、『瀬戸内国際芸術祭 2016』参加の応募作品として、その準備も進めている。