ドラッカー・ ドラッカー・ブックレビュー 高次の 高次の精神への 精神への飛翔 への飛翔 P・F・ドラッカー/上田惇生訳『[英和対訳]決定版 ドラッカー名言集』ダイヤモンド社 評者 井坂康志 ドラッカーという ドラッカーという人 という人を思うとき、 うとき、その相貌 その相貌は 相貌は私にとって常 にとって常に経営学者ではない 経営学者ではない。 ではない。まずも って卓越 って卓越した 卓越した言語 した言語の 言語の使い手だった。 だった。 その一 その一つの証左 つの証左として 証左として、 として、不思議なことに 不思議なことに、 なことに、同じ話を何度聞いても 何度聞いても得 いても得した気持 した気持ちになる 気持ちになる。 ちになる。 むしろ同 むしろ同じ話を何度でも 何度でも聞 でも聞きたい。 きたい。聞くたびに心 くたびに心に新しい波動 しい波動が 波動が生まれる。 まれる。 ドラッカーは ドラッカーは次の 100 年を創造する 創造する思想家 する思想家の 思想家の相貌を 相貌を帯びつつある。 びつつある。今さまざまな意味 さまざまな意味で 意味で 彼の真価が 真価が言われる。 れる。一種の 一種のブームでさえある ブームでさえある。 でさえある。少なくとも私 なくとも私の知る限り、本当の 本当の意味で 意味で 死して後現実世界 して後現実世界を 後現実世界を変ええたのは えたのはキリスト のはキリストと キリストとマルクスくらい マルクスくらいである くらいである。 である。ともに道具 ともに道具は 道具は言語だ 言語だ った。 った。 言語であるならば 言語であるならば、 であるならば、翻訳には 翻訳には原著 には原著と 原著と同等の 同等の責任がある 責任がある。 がある。ドラッカーと ドラッカーと上田氏の 上田氏の関係は 関係は、 ゲーテと ゲーテとエッカーマンのそれに エッカーマンのそれに似 のそれに似ている。 ている。ともに親子 ともに親子ほどの 親子ほどの年齢 ほどの年齢の 年齢の違いがありながら、 いがありながら、精 妙な親和力に 親和力に貫かれていた。 かれていた。しかも、 しかも、エッカーマンが エッカーマンが意図せずして 意図せずしてゲーテ せずしてゲーテから ゲーテから最良 から最良の 最良の思想 を引き出したように、 したように、上田氏は 上田氏はドラッカーの ドラッカーの頭脳にきらめく 頭脳にきらめく砂金 にきらめく砂金のような 砂金のようなフレーズ のようなフレーズを フレーズを見事 にすくいだしている。 にすくいだしている。 ゲーテはいう 「私 ゲーテはいう。 はいう。 「私の詩はすべて機会 はすべて機会の 機会の詩だ。すべて現実 すべて現実によって 現実によって刺激 によって刺激され 刺激され、 され、現実に 現実に根拠 と基盤を 基盤を持つ」(『ゲーテ 『ゲーテとの ゲーテとの対話 との対話』 対話』)。まさしく 。まさしく本書 まさしく本書も 本書もドラッカーと ドラッカーと上田氏の 上田氏の内面的対話の 内面的対話の 産物である 産物である。 である。 ところで、 ところで、名言の 名言の価値とは 価値とは誰 とは誰が決めるのか。 めるのか。話者が 話者が意図して 意図して吐 して吐いた言語 いた言語が 言語が名言になると 名言になると は考えづらい。 えづらい。少なくともその成立機縁 なくともその成立機縁は 成立機縁は話者の 話者の意図にはなく 意図にはなく、 にはなく、反対に 反対に言語の 言語の受け手の感 受性によって 受性によって創造 によって創造される 創造される。 される。 本来ならば 本来ならば水 ならば水がろ過 がろ過されて純度 されて純度を 純度を上げていくような長 げていくような長い時間的プロセス 時間的プロセスが プロセスが必要なのかも 必要なのかも しれない。 しれない。だが、 だが、ドラッカーのおもしろいのは ドラッカーのおもしろいのは、 のおもしろいのは、存命中から 存命中から名言集 から名言集が 名言集が出版されていたこと 出版されていたこと だ。いささか いささか拙速に 拙速に思えなくもないが、 えなくもないが、そこが生 そこが生きながらにして古典 きながらにして古典を 古典を書いた者 いた者の特権と 特権と いうべきなのだろうか。 いうべきなのだろうか。まさに彼 まさに彼こそそのような種類 こそそのような種類の 種類の書き手だったのも確 だったのも確かである。 かである。 ドラッカーが ドラッカーが自らのファーストレベル らのファーストレベルを ファーストレベルを書き手としたのも、 としたのも、自らの立 らの立ち位置を 位置を正確に 正確に理 解していた証 していた証だった。 だった。彼が若い頃尊敬してやまなかった 頃尊敬してやまなかったジャーナリスト してやまなかったジャーナリストに ジャーナリストにカール・ カール・クラウ スがいる。 がいる。ウィーン文化 ウィーン文化を 文化を代表する 代表する書 する書き手の一人であり 一人であり、 であり、長編戯曲『 長編戯曲『人類最後の 人類最後の日々』は 々』は 日本でも 日本でも知 でも知られたものの一 られたものの一つである。 つである。 そのクラウス そのクラウスが クラウスが言う。「思想 「思想とは 思想とは言葉遊 とは言葉遊びの 言葉遊びの結果紡 びの結果紡ぎだされる 結果紡ぎだされる」 ぎだされる」。この 。この名言集 この名言集をめくるほ 名言集をめくるほ どに、 どに、なにがなしクラウス にがなしクラウスのこの クラウスのこの一文 のこの一文に 一文に思いが及 いが及ぶ。 たとえば、 「日常化 たとえば、 「日常化した 日常化した毎日 した毎日が 毎日が心地よくなったときこそ 心地よくなったときこそ、 よくなったときこそ、違ったことを行 ったことを行うよう自 うよう自らを駆 らを駆 り立てる必要 。 てる必要がある 必要がある」 がある」 言葉が 言葉が一つの世界 つの世界として 世界として生 として生きて脈動 きて脈動している 脈動している。 している。韻律をはらんでいる 韻律をはらんでいる。 をはらんでいる。月並みな 月並みな人生訓 みな人生訓と 人生訓と も違う。何かを教 かを教えようとか説 えようとか説こうという姿勢 こうという姿勢はない 姿勢はない。 はない。ただそこにあるがままの状態 ただそこにあるがままの状態を 状態を自 然な言語の 言語の組み合わせで表現 わせで表現する 表現する。 する。言葉自体が 言葉自体が思想なのだということを 思想なのだということを教 なのだということを教えられる。 えられる。 さらに、 さらに、それまでの名言集 それまでの名言集と 名言集と異なるのは、 なるのは、英和対訳の 英和対訳のスタイルをとっているところにあ スタイルをとっているところにあ る。英文併記というのは 英文併記というのは、 というのは、実は英語学習以上の 英語学習以上の意味を 意味を持つことが多 つことが多い。というのも、 というのも、一般 に流通する 流通する英和対訳 する英和対訳の 英和対訳の書物の 書物の大半は 大半は文学書である 文学書である。 である。日本人は 日本人は明治時代から 明治時代から高度 から高度な 高度な訳詩文化 を持っていたが、 っていたが、同時に 同時に原語による 原語による作品鑑賞 による作品鑑賞を 作品鑑賞を怠ることがなかった。 ることがなかった。夏目漱石が 夏目漱石が漢詩の 漢詩の教 養を持ちつつホイットマン ちつつホイットマンや ホイットマンやワーズワースの ワーズワースの原詩を 原詩を愛したのはよく知 したのはよく知られる。 られる。 というのも、 というのも、言語にはある 言語にはある種 にはある種の美観というか 美観というか、 というか、ほのかな香 ほのかな香りのようなものが伴 りのようなものが伴う。どの 言語であれ 言語であれ、 であれ、作家の 作家の魂を表出する 表出する限 する限りにおいて文 りにおいて文章には凛 には凛とした状 とした状(すがた) すがた)が映しこま れる。 「文 れる。 「文」は人なりというが、 なりというが、それ以上 それ以上に 以上に「文体」 文体」こそがその人自身 こそがその人自身である 人自身である。 である。ドラッカー の発する一文一文 する一文一文は 一文一文は鋭く現実をとらえつつ 現実をとらえつつ、 をとらえつつ、同時に 同時に普遍の 普遍の次元にまで 次元にまで飛翔 にまで飛翔し 飛翔し時空を 時空を突き抜 ける。 ける。 すぐれたフィルム すぐれたフィルムを フィルムを見たあとのような生 たあとのような生の神経に 神経に直接触れるような 直接触れるような清冽 れるような清冽な 清冽な感覚を 感覚を呼び起 こす。 こす。あたかも、 あたかも、自ら直覚した 直覚した現実 した現実がそのまま 現実がそのまま第三者 がそのまま第三者の 第三者の視覚を 視覚を通して詩的言語 して詩的言語に 詩的言語に置き換え られたような錯覚 られたような錯覚を 錯覚をもたらす。 もたらす。その感覚 その感覚は 感覚は世の有識者や 有識者や政治家、 政治家、新聞記者の 新聞記者の言うことと違 うことと違 うし一般に 一般に流布された 流布された世間語 された世間語とも 世間語とも違 とも違う。虚飾なきあるがままの 虚飾なきあるがままの現実 なきあるがままの現実である 現実である。 である。 すぐれた詩人 すぐれた詩人が 詩人が人類になり 人類になり代 になり代わって言語 わって言語を 言語を紡ぎだすように、 ぎだすように、一人ひとりが 一人ひとりがドラッカー ひとりがドラッカーの ドラッカーの 言語に 言語に自らの精神活動 らの精神活動とその 精神活動とそのリズム とそのリズムを リズムを同期させる 同期させる。 させる。だから本当 だから本当の 本当の姿をとらえた言語 をとらえた言語ほどに 言語ほどに 人の心を癒すものはない。 すものはない。また、 また、勇気を 勇気を与えてくれるものはない。 えてくれるものはない。 最後に 最後に蛇足ながら 蛇足ながら、 ながら、本書に 本書にノンブル( ノンブル(ページ数 ページ数)がない。 がない。柱もない。 もない。せっかくの名言 せっかくの名言も 名言も 訓詁学になっては 訓詁学になっては意味 になっては意味がない 意味がない。 がない。言語とはその 言語とはその意味 とはその意味で 意味で常に諸刃である 諸刃である。 である。ドラッカーの ドラッカーの名言集 が、かつての「 かつての「毛沢東語録」 毛沢東語録」にならないことを願 にならないことを願う。扱いには気 いには気をつけなければならない。 をつけなければならない。 そのためには「 そのためには「読む」という強迫観念 という強迫観念から 強迫観念から解放 から解放されて 解放されて、 されて、ぱらぱらとめくるのがいい。 ぱらぱらとめくるのがいい。ノン ブルがないのははからずも ブルがないのははからずもポストモダン がないのははからずもポストモダン的 ポストモダン的なドラッカー流 ドラッカー流の粋なはからいにも思 なはからいにも思えてくる。 えてくる。
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