十字架の聖ヨハネ『霊の賛歌』による神のいつくしみの霊的読書 ≪霊の賛歌 第五の歌≫ 無数の賜をまき散らしながら この雑木林の中を 急いで通り過ごされた そして 通りすがりにお眺めになった ただ その方の姿を見つめながら その美に帰属する衣服を残された 十字架の聖ヨハネの『霊の賛歌』は、最初の歌から「神のいつくしみの気づき」の歌で す。人間の存在そのものの中に潜在するものへの気づきです。その存在と尊さと美しさ を感じ取るとき、神の創造された「私」と向き合うことができ、その出会いから神のいつ くしみに気づくものです。 この第五の歌は、神が愛によってのみ創造するという、意識への招きの歌です。暗闇 と感覚の喪失の中に生きているある霊魂<人間>が、信仰をもって愛する方(神)を 探すときに生まれた歌です。この愛する方はもう人間生活の中に歩んでいます。そして、 急いで雑木林の中を通り過ぎたとしても、この雑木林の中に、すなわち人間生活の中 に無数の賜をまき散らしています。そして、この愛する方はその有様を眺め、その方の 美の衣服をまとわせ、その姿をご覧になると歌っていますが、人間の存在の尊厳を神 の美をまとわせる神のいつくしみのご計画であると言い表しています。 ≪霊の賛歌 第三十二の歌≫ あなたがわたしをお眺めになったとき あなたの目はわたしのうちに賜を刻みました それゆえ わたしを激しく愛され そして そのときに私の目は あなたの中で見たものを讃えられるようになった この中の「お眺めになる」という言葉は、「お愛しになる」ということです。このことは『霊 の賛歌』の三十一の歌の No.5に説明しています。神が眺めるということは、愛しく接す ることであり、「神のいつくしみの表現」です。わたしたちの神の目のイメージは、「きつ いまなざし」、「怒りのまなざし」を連想しますが(両親のきついまなざしの幼児体験もあ るかもしれません)、十字架の聖ヨハネの神のまなざしは、「いつくしみ深い神のまなざ し」です。 ≪十字架の聖ヨハネのセミナーの抜粋より≫
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