西川緑道公園におけるまちづくり小史

Discussion Paper Series
西川緑道公園におけるまちづくり小史
西川緑地計画から西川パフォーマー事業まで
岩淵 泰(岡山大学地域総合研究センター)
Discussion Paper No.6
2015年3月
岡山大学 地域総合研究センター
(AGORA)
西川緑道公園におけるまちづくり小史
西川緑地計画から西川パフォーマー事業まで
岡山大学地域総合研究センター 岩淵泰
はじめに
本稿では、岡山市から受託した西川緑道公園まちづくり歴史経緯調査におけるヒアリング
活動を基に、第二次世界大戦後から現在までのまちづくりの歴史を整理し、岡山市民におけ
るまちづくりへの参加を明らかにする。現在、西川緑道公園では、西川パフォーマー事業を
通じて年間 70 程のイベントが開催され、賑いの創出が行われている。しかし、その課題とし
て、当該地域では同じようなまちづくり活動が繰り返されてきたが、その活動サイクルは短
期間で終わっていることである。言い換えるならば、それぞれの時代におけるまちづくり活
動は、世代間で断絶が起きており、本稿では、西川緑道公園のまちづくりを持続的なものに
するために、歴史的系譜を整理することで西川緑道公園の持つ空間的意義を明らかにするも
のである。
そこで、本稿では以下の点を論じていく。第一に、西川緑道公園誕生に向けたまちづくり
の原点を振り返ること、第二に、まちづくり団体の誕生と解散、第三に、産官学による協働
のまちづくりである。本稿で注目するものは、行政主導によるまちづくり政策であったとし
ても、西川においてはまちづくり団体による参加が存在してきたことである。しかしながら、
本稿が分析していくように、岡山市におけるまちづくり団体と行政は、十分な協働体制を築
くにはなかなか至らなかったという側面を持っている。それは、市民と行政が対立していた
からではなく、各団体の思惑が一枚岩ではなくそれぞれの距離感を保ってきたからである。
一方で、西川パフォーマー事業の成功は、岡山市がパフォーマーを募集する形で市民と対話
の機会を持っていることが背景にあり、対話の継続こそ西川緑道公園のまちづくりを持続的
に機能させるのである。
本稿で歴史的分析を試みる理由は、時代や社会の変化に合わせて、市民が抱く西川緑道公
園の位置づけも変化しており、その中で、岡山市中心市街地における市民参加の変遷を提示
するためである。例えば、西川緑道公園の誕生前、岡崎平夫市長は、昭和 38 年から「緑と花、
光と水」を掲げた緑化政策を推進している。昭和 47 年には、岡山・大阪間、昭和 50 年には
博多・岡山間で新幹線が開通するなど、岡山市は都市化が急激に進む中で都市アメニティを
充実させようとしていた。また、昭和 63 年には瀬戸大橋も開通し、バブル経済に沸く中で、
中心市街地の快適な暮らしや景観を考えるようになっていった。そして、平成 26 年には、イ
オンモール岡山の出店を受けて、岡山市は、西川緑道公園沿いと県庁通りを回遊性の拠点と
位置付けるように変化した。このような時代の移り変わりの中で、西川緑道公園は、岡山市
における水と緑のシンボルでありながら、中心市街地活性化の政策に関わる市民参加の舞台
となってきた。重要なことは、岡山市民は西川緑道公園に様々な思いを投影しており、本稿
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では、住民、まちづくり団体、行政職員、経済界からのヒアリングを整理することで、岡山
市における市民参加の源泉を探ろうとするものである。
西川緑道公園に関する先行研究として、土木史(竹内・小野)、水辺とリーダー論(大野)
などがあるが、本稿では、それら研究を参考にしながら、市民参加によるまちづくり史を整
理し、岡山市中心市街地の持続的なまちづくりへの提案を行うものである。
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西川緑道公園誕生前史
1.1 西川の原風景
西川界隈は、昭和 20 年 6 月 29 日の岡山大空襲で焦土と化しており、かつての風景を知る
ためには、ヒアリング参加者の記憶を辿ることが有効な方法である。大空襲により、郵便局、
電話局、岡大病院以外は跡形も残っておらず、西川界隈の住民も多く戦災に遭った結果、戦
後西川には新しい住民が集まってきた。
ヒアリングを纏めてみると、西川の水は、暮らしの水であり、子供の遊び場あったという
ことである。特に、田植えの前に行われる川干では、農家が川掃除をするだけではなく、子
供たちが、干あがった川から魚を取るのを楽しみにしていたという話が多い。ホタル、ゲン
ゴロウ、ヤゴ、ヤンマなど生物に溢れており、岡山市中心市街地において人と自然が接する
場であった。西川は、まさしく親水性の高い地区であったといえる。また、西川界隈は、倉
敷美観地区のように古い町並みが残っており、武家屋敷や蓮昌寺や蔭涼寺など寺社も多く、
落ち着いた街並みであった。更に、伊達病院を始め病院も多く、官公系の人々も多く暮らし
ていた。
1.2
高度経済成長下の西川用水
戦後復興の中で西川には、岡ビル百貨店や岡山バプティスト教会など新しい施設が生まれ、
まちの暮らしが戻ってくることになるが、西川には生活ゴミなどが投げ込まれるようになる。
西川は市民の暮らしに近いからこそ、市民のライフスタイルの変化を直接受けていたといえ
る。
昭和 29 年から昭和 48 年まで、日本は、高度経済成長期を迎えていき、経済的な豊かさの
向上に邁進していたが、その一方で、大気汚染や水質汚染などの公害問題は焦眉の課題とな
っていた。岡山市中心市街地も例外ではなく、まち中がゴミで溢れていたようであり、西川
用水へのごみの投げ捨ては、岡山市民のモラルの問題とも受け止められていた。西川用水は、
中心市街地だけのゴミ問題だけではなく、広範囲にゴミが溝に溜まることになる。
用水へのゴミ捨て問題に動き出したのは町内会であった。昭和 27 年頃には、西川用水の中
で泳ぐ人が少なくなり、昭和 37 年の岡山国体の頃には、ゴミの不法投棄は増えるようになっ
ていく。そこで、西川の町内会では、町内のゴミを一か所に集めるゴミステーションを市内
でいち早く設置していた。昭和 44 年 1 月、町内会連合は西川流域環境美化運動推進協議会を
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設置し、清掃や啓発活動を始めている。昭和 46 年 5 月の記事によれば、西川用水組合が、田
植えの前に川ざらいを行っているが、川底のゴミを遊歩道に残したままで帰ってしまうため、
酷い悪臭を漂わせていたということである。西川用水組合にとっては、田んぼへの流水を確
保することが目的であるが、西川用水組合は、大量のごみの処理まで手が届かない状態にな
っていた。当時のごみ問題の背景には、ゴミ捨てマナーの欠如はさることながら、家庭ごみ
が大半であり、深夜営業のバー、飲食店の経営者などのゴミ回収が間に合っていない状況が
存在ししていた。対策として、岡山市環境衛生課も、4 月から 10 月まで毎月一回ゴミの不法
投棄を取り締まり、町内会は、独自でごみ回収をするなどしていたが、ゴミの量が急激に増
えていった。
1.3 岡山青年会議所による西川歩行者天国
西川界隈では、新しいまちづくり運動も始まっていた。昭和 47 年 7 月 24 日、岡山青年会
議所(木原祐一理事長)は、平和町西川派出所から下石井公園まで歩行者天国を行い、約 5
万人もの参加者を集めている。歩行者天国のテーマは、ベトナム戦争や公害への反省を込め
人の繋がりを重視した「人間性の回復」が掲げられていた。イベントの日には、植木市、ガ
ラクタ市、音楽祭、フォークダンス、人形劇など夜店が並び、7 月 29 日の歩行者天国では、
午後 3 時のスタートから 10 万人を集客している。西川での歩行者天国は、現在行われている
岡山の夏祭りの原型を作るものでもあった。昭和 48 年には、西川から桃太郎大通に歩行者天
国の会場が移っており、岡山青年会議所などの若手がまちづくりの気運を高めていたのであ
る。経済界としては観光業に対するテコ入れの意味もあるが、歩行者天国という新しい西川
の活用法を生み出すことになる。
更に、岡山市議会の中にも、経済界の活動に連動するように、西川を昔のようにきれいに
したいと考える議員も存在していた。ここで付け加えておきたいことは、岡山市民や経済界
が西川のまちづくりに関わり始めていた頃、岡山市も緑地政策として西川に関心があったこ
とである。
1.4
西川の緑化計画
岡山市は、昭和 38 年から「緑と花、光と水」をスローガンに緑のまちづくりを積極的に進
めてきた。昭和 46 年 12 月には、緑の回復と保全を図り、健康で清潔なまちを目指す緑化条
例を制定している。昭和 47 年には、緑化に関する諸資料、情報を集め関係部局の調整を図り、
総合的な都市緑化対策を推進する緑化推進本部が設置されている。この緑化条例では、緑化
に関する重要事項を審議するために国・県の関係機関及び市民の代表からなる緑化審議会を
設置することを定めていた。昭和 47 年 2 月 2 日、岡山市は梶谷忠二・岡山商工会議所会頭を
会長と横山民・岡山市連合婦人会を副会長からなる緑化審議会を設置している。同年 2 月 18
日には、渡辺圭介建設局長が、緑化審議会に対して緑化基本方針案や緑化条例の説明を行い、
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同年 2 月 26 日には、岡山市は、市議会にゴミ処理条例案を提出している。ゴミ処理条例案は、
ゴミ捨てに関して、住民と業者の責任を明確にし、溢れるゴミの収集に対処しようとするも
のであり、ごみ収集の効率化とマナー向上を目指すものであった。昭和 47 年は、岡山市が中
心市街地の緑化に向けて大きく動き出す年となっている。岡山市は、緑地化の必要性を科学
的に裏付ける為、昭和 47 年 2 月 26 日と 27 日、宮脇昭・横浜国立大学助教授に中心市街地の
緑地調査を依頼している。これは、緑化条例に基づく緑化政策を診断するものであるが、宮
脇助教授は、岡山市の緑化は想像以上に進んでおらず、更にポプラなど外来種の植樹が多く、
在来種が少ないと指摘している。宮脇助教授は、岡山市にグリーン・マップを提出し、岡山
市はそれに基づいて町全体の緑地化を進めていく。
続けて、岡山市は、緑化政策に留まらず、緑化の市民運動を醸成することに力を注いでい
た。岡山市では毎年 10 月に功労者を表彰する緑化推進大会を行っているが、昭和 47 年から
は 10 月を緑化月間と定め「市民の植樹祭」を行っている。市民が緑に触れる機会を作り、市
民運動を通じて緑化を盛り上げようとしていた。緑地政策と市民への教育活動に併せてまち
づくり運動を展開していたことになる。昭和 47 年 12 月 1 日、緑化審議会では、岡山市の緑
化に関する具体的施策を答申している。その答申によれば、市全域を都心、都心周辺、保全
という三つの地域に分け、それぞれの公園化を目指すものであった。この提案の中には、全
国的に珍しく、西川を通る道路を公園にすると大胆なものが含まれていた。詳細は、岡山青
年会議所が行った歩行者天国区間を全面車輌乗入禁止にするものであり、西川用水の西側を
緑地にし、東側は、幅四メートルの緊急車両用道路に変え、電柱も地下ケーブルにするとい
うものであった。このような大胆な提案を通じて、岡山市は、西川、烏城公園、後楽園を核
として旭川ラインパークという市全体を公園都市にする戦略を持っていたが、西川は緑地の
シンボルゾーンとして位置づけていた。続けて、昭和 47 年 12 月 7 日には、岡山市は、国、
県、県警察本部を集めて緑化連絡会議を開き、参加者全員が、西川の緑地化に賛成の意を表
している。しかしながら、県警は西川の裏通りに車が集中することやガソリンスタンドや駐
車場経営者への補償なども懸案事項も挙げている。
1.5
西川緑化計画反対運動
このように昭和 47 年は、岡山市が緑地政策を提示した時期となるが、昭和 48 年、岡山市
は緑地政策に反対する住民の対応に追われることになる。岡山市は、昭和 47 年から昭和 48
年 7 月まで町内会、団体への説明会を 10 数回に渡って開催している。しかし、昭和 48 年 2
月 13 日、西川沿線の約 100 人が岡山市役所にて計画中止の陳情を行っている。その反対理由
として、市は町内会長と話し合っているが、一般住民や商店などに対しては個別に説明がな
されていないこと、そして、商売への影響や利害影響のある住民の意向を汲み取るべきだと
いうものであった。昭和 48 年 3 月 9 日の議会では、岡崎市長は、議会に対して、交通規制を
しても、他の道路で調整でき、南北道路に影響はなく、西川緑地化は是非必要だという立場
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を鮮明にしている。昭和 48 年 4 月には、岡山市は、建設局公園緑地課を公園課と変え、緑と
花課を新たに設置する機構改革を行っている。昭和 48 年 5 月 17 日、岡山日日新聞は、住民
の猛烈な反対によって、西川緑化計画が滞っていることを記事に残している。その頃、西川
緑化反対期成同盟会は、反対運動を繰り返しており、岡山市は賛成派と反対派の板挟みとな
る。これら賛成派と反対派に分れて西川の緑化計画は議論されてきたが、その一方で、岡山
市民にとっては歩行者天国が夏の楽しみへと成長していた。昭和 48 年 8 月 3 日から 5 日まで
の「夏まつり・おかやま」では、駅前から柳川筋までの区間で歩行者天国を行っており、25
万人の集客に成功している。歩行者天国の成功は、車社会よりも歩きやすい社会への期待も
込められていた。昭和 48 年 8 月 11 日には、昭和 43 年に設立された岡山市市政顧問会議から
西川緑地公園計画について議論が行われた。この諮問会議は、岡山市のまちづくりを議論す
る場であり、福祉、環境政策、教育問題の他、新幹線開通を控えてオリエント美術館の建設
や西川緑地公園計画など重要政策を取り扱っていた。特に、西川緑地化について、委員は、
計画そのものは良いものであるが、反対もあるために、一気に進めずモデル地区を設けて関
係者の理解を得るべきだと述べている。昭和 48 年 9 月 20 日の岡山市議会からも同じく、西
川緑地公園の早期実現について意見が出されており、西川緑地化を後押ししている。
1.6
西川緑地計画の妥協
昭和 49 年は、西川緑地公園の最終的な妥協点が提示される。西川緑地計画は、昭和 47 年
12 月の市緑化審議会の答申を受けて始まっているものであるが、昭和 49 年1月 14 日、岡山
市は、西川道路縮小計画反対協議会石井会長に対し、第一に、駅前電車通りから国道2号線
までの 1 キロを公園化すること、第二に、西側市道は現状のままにし、東側市道は9m から
6mに縮小し、3mを緑地にする計画を提示する。岡山市は同協議会 10 名の代表に説明し、
協議会は 70 名の役員と相談するとした。その後も市は、地域での説明を行っていくが、昭和
49 年は西川の緑地化に対する大枠のコンセンサスが取れ、西川緑道公園建設に向かっていく
年となる。市民の意見としては西川の緑地化が本当に整備してよかったと思うような魅力的
なものにしてもらいたいという意見も出ており、岡山市は、岡山市のシンボル地区を創るた
めに伊藤造園設計事務所にデザインを依頼する。そして、西川の緑地を成功させるためにも、
市民が主体的に緑化を推進する体制づくりが強く求められるようになる。
当時の西川界隈の様子は、駅前は繊維倉庫が多く、一階が店で二階が店舗となっており、
旅館も数件あった。また、路上で車を停車できるくらいの車量であった。昭和 49 年 6 月 29
日、第 7 回岡山市議会緑化問題特別委員会では、西川は裏町的様相を呈しているので、西川
が地元住民や外来者が目的を持って集まるような市の表玄関としてのシンボルになるような
まとまりのある整備を目指してくこと、そして、岡山市はそもそも公園が少ないので緑中心
ではなく公園的な明るい要素を織り交ぜ、鯉のたまり場を設けるなどの手直しがいると提案
している。この提案が出される前の昭和 49 年 6 月 5 日には、市民が 5000 匹の鯉を放流し、
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「西川に鯉を育てる会」を結成している。
1.7
西川緑道公園設置に向けた国と県の支援
西川の緑地計画は、岡山市の緑化政策だけではなく、国や県のサポートも受けている。昭
和 49 年 10 月、建設省は、岡山市を含めた新潟市、郡山市などの六都市を「緑化モデル都市」
に選抜した。建設省は、日本緑化センターとともに緑化現状などの基礎調査を行い、緑化の
マスタープラン作成することになる。国と市が歩調を併せて緑化に動き出すことによって、
都市の中に公園があるというものから都市全体が公園になるという積極的なまちづくりを進
めることも可能となり、更に、岡山県も緑化の動きに連動することになる。昭和 49 年 10 月
11 日、岡山県都市地方計画審議会の場で、梶谷忠二会長は、西川緑地の原案を承認し、知事
に答申した。岡崎市長自身も、できる限り国庫補助を受けての建設を目指しており、建設省
及び県も西川の緑地化を好意的に受け止め、総工費約 2 億 5000 万円で昭和 50 年 10 月に本格
的な工事が進むことになる。
国は岡山市の緑化政策に対し、具体的な指示も行っている。昭和 50 年 2 月、建設省は、都
市化による緑地減少を食い止めるため緑の都市づくりを目指す「緑のマスタープラン策定委
員会」を設置している。更に、同省は、岡山市に対して緑化モデル都市岡山を推進するめに
緑化推進基本構想を岡山市に説明している。これによると、岡山市を緑で覆う緑地計画の推
進のために、昭和 50 年市民一人当たりの公園面積を 3.1 ㎡から昭和 55 年には 7.9 ㎡の倍に
増やし、15 年後の平成 7 年にはヨーロッパ並みの 24 ㎡を目指すものとした。建設省の構想
は、児島湾や操山に大規模なレクレーション施設や、百聞川に運動公園、水島工業地帯に公
害に遮断地帯として整備するなど広範囲な計画を提示していたが、岡山市中心市街地では、
公園整備と平行して旭川などの河川や水路、道路沿いの緑化をすすめ、これらと公園を緑で
つなげる市一帯に緑のネットを設けるとしていた。西川緑地建設のプロセスでは、第一期工
事が、昭和 51 年春に完成、第二期工事が昭和 55 年南側に枝川緑道公園の設置、第三期工事
が、昭和 58 年 3 月に完成している。西川緑道公園第一期工事の成功を受けて、公園建設に難
色を示していた住民も岡山市に対して西川緑道公園建設区間の延長を申し出ており、第二期
工事、第三期工事へと進むことになった。
1.8 西川緑道公園建設小括
西川緑道公園の建設は、市長、議会、経済界、市民を巻き込んだ大型公共工事としては、
明治時代小田安正市長の水道施設建設運動以来のことであった。賛成派と反対派に分かれて
難産の中で誕生したが、水と緑によるまちづくりのシンボルを作り上げたことは、岡山市の
まちづくり史にとって大きな功績とするべきであろう。以後、西川緑道公園は、憩いの場で
あると共に、まちづくり団体による活動空間としての性格を帯びるようになる。
西川緑道公園が持つまちづくりの空間について、設計を担当した伊藤邦衛氏は興味深いコ
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メントを残している。まず、西川緑道公園の特徴は、ひとりの設計士が 2.4 ㌔という長い距
離の公園デザインを一手に引き受けており公園の一体感や調和がとれているユニークな公園
であると共に、公園が子供の遊びとして考えられていた当時、文芸的にも観賞的にも堪えら
れる水準を保ちながら、かつ、公園が市民活動の拠点になるように設計したということであ
る。このように伊藤氏が、公園の役割を人や生活が中心となる舞台装置として位置づけたこ
とで、まちづくり団体は公園の中に活動の場を手に入れることができたのである。西川緑道
公園が持っている市民の舞台というコンセプトを、まちづくり団体が意識せぬまま継承し、
活動を続けていることは興味深いと言える。
しかしながら、西川緑道公園の誕生で留意しなければならないのは、行政にとっては、西
川緑道公園が管理の対象であり、市民が活用する空間だというコンセプトが浸透していたか
は定かではなく、まちづくり団体も、西川緑道公園誕生の背景や舞台性のコンセプトをやや
すれば忘れがちだということである。明らかであることは、岡山市は、西川緑道公園設置に
向けて大きなエネルギーを使ってきたのに対して、設置後は、公園の維持管理が中心となっ
てきたという点である。そこで、まちづくり団体は、西川緑道公園の活用を通じて中心市街
地の将来図を提示するようになっていく。以後、西川緑道公園における行政と市民団体の関
係は、付かず離れずの距離感が保たれ、岡山市中心市街地のまちづくりは、個人間のネット
ワークはあるが、団体間の連携は乏しい状態が続くことになる。
2. 西川緑道公園のまちづくり-市民、行政、経済界のそれぞれの活動
まちづくり団体は、彼らの考える将来像を西川緑道公園に投影させてきたといえる。例え
ば、西川緑道公園のイベントを通じて自らの目的を達成しようとしていた。ある団体は、中
心市街地の景観を維持し、人が住むまちづくりを展開することを目指し、他の団体は、公共
交通を発展させることなどである。西川緑道公園の特徴とは、まちづくり団体のユニークで
バラエティのあるメッセージを発信する場として機能していることである。
西川緑道公園の設置後、公園ではホタルの飼育、朝顔市など市民の憩いの場として使われ
ていたが、まちづくり団体は、権利や意見を主張するアドボカシーの場として西川緑道公園
を活用している。言い換えれば、まちづくり団体は、西川緑道公園の活性化を通じて市民に
対してまちづくりの意識を醸成し、彼らのまちづくりを実現させるための土壌を作っていた
といえる。
2.1
チーム25による西川のモール化計画
第三期工事完成後の翌年、昭和 59 年 12 月 23 日、西川緑道公園で若者の文化祭「西川アク
エリアンフェスティバル」が開催される。これは、岡山大学新聞「NUTS」を中心とした委員
会は、21 世紀は透明な知性を持つみずがめ座(アクエリアン)の時代と位置づけ、次世代を
担う若者が、文化力の乏しい岡山のまちづくりを刺激することをイベントの目的にしていた。
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委員会は、バプテスト教会の中で「若者文化と街」についてシンポジウムを開催し、午後 7
時からは下石井公園にてアマチュアバンドや演劇を披露し、約150名の参加を集めている。
実際には、アクエリアンフェスティバルは、学生単独で運営されたものではなく、世代の近
い大人たちが、若者のまちづくりを支援して開催されたものであったが、大人たちの狙いは、
まちづくりを通じて民主主義の経験を若者に積ませることであった。
西川緑道公園誕生から 10 年が経過した昭和 61 年、西川緑道公園のまちづくりの中心とな
るチーム 25 が誕生する。建築士 4,5 名が集まって、25 坪のアトリエを借りたことが団体の
始まりである。昭和 61 年 8 月に結成されたチーム 25 は、若手の建築家やデザイナーなど 34
名から構成されており、都心部に豊富な水と緑を持つ全国的にも類まれな景観をまちづくり
に活かすべきだと考え、まちづくり活動を行ってきた。彼らの問題関心は、全国的にも珍し
い都市型公園である西川緑道公園を市民があまり利用していないことを懸念し、まちをデザ
インし直すことで市民空間に密着したまちづくりの可能性を探っていた。チーム 25 は、活動
の目標を定める為に、「西川まちづくり憲章」を作成している。その憲章の柱には、第一に、
公園両サイドにある車道のモール化(散歩道化)
、第二に、公園の中に“集い、憩い、楽しむ”
要素を取り入れること、第三に、両側の建物を景観にマッチさせるなどをことの三つが掲げ
られている。これらの実現に向けて、チーム 25 は、西川緑道公園に人が集まるように様々な
仕掛けを行った。
チーム 25 が結成され解散するまでの 13 年間続けられたのが、西川フリーマーケットであ
る。チーム 25 が西川フリーマーケットを開催したきっかけは、認可手続きや人手・資金不足
の課題からフリーマーケットが開催できなくなった団体があり、その活動を引継いだことで
ある。チーム 25 は、年 4 回、13 年間で 50 回の開催を行っており、市民団体が公園を活用す
る西川の文化を築き上げた。西川フリーマーケットの目的が紹介されている文献があり、そ
の一文を引用する(がんばるまちコレクション 50(上巻)25-2)
。
「西川緑道公園は水と緑を生かした全国的にもユニークな市街地ですが、当時利用する市民
は少なく、せっかくのすばらしい景観も街づくりに活用されていなかった。この岡山市の宝
を、より市民生活に密着した空間にするべく、
『人間味のある公園づくり』として、人々が楽
しくつどえるフリーマーケットを開こう。そしてこれを積み重ねて、公園に人が集い、周辺
の街が潤うようになれば、モール化案も地域に受け入れられ、岡山独自の顔づくりになるの
ではないかといった皆の意見で始められた」
チーム 25 は、フリーマーケットという手法で公園に市民を集め、モール化の実現という明
白な目標を掲げている。西川フリーマーケット実行委員会は、チーム 25 の他に、岡山未来デ
ザイン委員会のメンバーも参加していた。また、初回から二回まで西川沿いの歩行者天国を
行ったが、周辺のガソリンスタンドや駐車場からクレームがあり、以後、西川緑道公園の中
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でイベントが行われることになる。チーム 25 は、歩行者天国によるモール化を掲げていたが、
その実現は 2 回で終了してしまい、モール化の実現を主としていたメンバーは活動のエリア
を変えることになる。
昭和 62 年 9 月 20 日、チーム 25 は、「西川ライトアップフェス」を開催し、第四回西川フ
リーマーケットでは、50 の店舗を集めている。昭和 63 年 7 月 10 日から 16 日まで、チーム
25 は、二年間の活動を踏まえた整備構想とシンポジウムを開催している。「どう変わる西川
PART4・西川はモールになるか?」と銘打ったシンポジウムでは、西川沿いを歩行者天国に
することや建物の概観を工夫し、国際的な評判に耐える通りにするべきだと提案があった。
更に、昭和 63 年 9 月 27 日「水と緑の街づくりシンポジウム」を開催している。
「西川ライト
アップ・フェスティバル」に併せたメーンイベントでは、立正大学短大学部富山和子を招待
している。
2.2
岡山市の街並誘導計画
西川沿いの歩行者天国であるモール化は、昭和 40 年代の西川緑地計画に通じていたが、市
民団体の提案の域を超えることができなかった。一方、岡山市は、西川緑道公園沿いの街並
み指針を纏めることで景観まちづくりに力を入れている。昭和 61 年 4 月に建設省は、地域に
根差した住まい、まちづくりの推進を目指す HOPE 計画(地域住宅計画)に岡山市を認定して
いる。西川界隈の HOPE 計画は、一階と二階を店舗とし、それ以上を住まいにする提案を行っ
ている。続けて、岡山市は西川・枝川緑道公園沿いの街並誘導整備指針も纏めている。これ
は、公園沿いの建物は、バックアップにより空間を作り、そこに植栽やプランターなどで公
園と一体化を図らせ、緑のオアシス回廊を作るというものである。具体的には、三階建以下
のものは道路から 1.5m以上、四階建て以上は、道路から 2.5m 以上のスペースを作ること、
続けて、緑道沿いの建物は環境に配慮した外壁にすることや塀を置かないなどのルールを作
成している。
2.3
まちづくり団体の広がり
昭和 61 年、建築家が中心であったチーム 25 に対して、同年 1 月に「岡山未来デザイン委
員会」も結成されている。チーム 25 が、西川界隈をまちづくりのターゲットにしていたのに
対して、岡山未来デザイン委員会は、表町 3 丁目や京橋地区など広く中心市街地の活性化を
目指していた。昭和 61 年の第一回西川フリーマーケットには、岡山未来デザイン委員会も関
わっていたが、それ以降、岡山未来デザイン委員会は、京橋地区のまちづくりへ力を注いで
いく。昭和 61 年、高松から京橋間までホバークラフトを走らせており、平成元年 9 月 3 日に
は、第一回京橋朝市が開催されている。京橋朝市は、地元町内会、商店街、岡山未来デザイ
ン委員会でつくる実行委員会が中心となり、毎月第一週目の日曜日に行われている。昭和 62
年には、岡山未来デザイン委員会は、表町の活性化のため路面電車環状化を目指していた。
9
チーム 25 も岡山未来デザイン委員会も、西川緑道公園沿いや県庁通りなど中心市街地のト
ランジットモール化という目標は共有していたが、岡山未来デザイン委員会は、経済団体と
の結びつきが強く、まちづくりを通じた政治へのロビー活動も帯びるようになる。例えば、
平成元年、岡山商工会議所都市委員会の福武總一郎は、岡山都心にある路面電車路線の拡充
を踏まえたまちづくり構想を立ち上げている。平成 7 年、岡山商工会議所は中心市街地のコ
ンパクトシティ化を目指す「人と緑の都心1km スクエア構想」を提言している。これを踏ま
えて、岡山未来デザイン委員会のメンバーの中には、スクエア構想の実践部隊として「路面
電車と都市の未来を考える会 RACDA」の結成に参加するものもいた。RACDA は、岡山商工会議
所に所属する 80 社が毎年 10 万円を出し合い運営しているため、経済団体の意向を汲む団体
であった。
更に、
まちづくり団体の横断的な連携を目指して「岡山まちづくり連絡協議会 UPCO」
も結成している。
2.4
西川トランジットモール実験
チーム 25 は、活動期間を 10 年間に区切っていたため昭和 61 年から平成 8 年までを当初の
活動期間としていたが、西川フリーマーケットの継続を要望する声も多く、平成 11 年まで西
川フリーマーケットを開催した。チーム 25 におけるまちづくり活動の最後は、平成 10 年 11
月 29 日から 4 回、西川フリーマーケットの同時開催で行われた西川トランジットモール実験
であった。この実験には、チーム 25 だけではなく、RACDA も深く関わっている。RACDA は、
建設省岡山国道工事事務所、警察署、岡山商工会議などの調整役をしていた。平成 11 年 11
月 28 日には、県庁通り 600m の範囲でバストランジットモール実験を行っている。県庁通り
では、2 車線のうち1車線をバスとタクシーの専用道路にし、1車線を歩行者天国にした。
チーム 25 は、昭和 61 年フリーマーケットによる歩行者天国を 2 回開催するが、RACDA は、
平成 10 年、「西川トランジットモール」実験を 3 回実施し、平成 11 年、
「県庁通りトランジ
ットモール」を1回開催した。
西川緑道公園が誕生後、西川界隈でのモール化に向けてチーム 25 も RACDA などの諸団体が
まちづくり活動を続けているのは興味深いことであるが、このように具体的提案を持ってい
た背景には、岡山市にいては、LRT などを利用して歩きやすいまちづくりが実現するのでは
ないかという気運があったからである。一方、西川緑道公園のまちづくりが、アドボカシー
としての役割は果たしてきたが、諸団体の活動と共に平行して、産官学の協働関係が築かれ
てきたかは検証の余地が残されている。
西川緑道公園の誕生時におけるまちづくりの原点は、水と緑のまちづくりであるならば、
次世代のまちづくり団体の目的は、アメニティを通じて都市改造であったと指摘することが
できる。
3.
サステナブルなまちづくりへ
10
平成 10 年にチーム 25 による西川フリーマーケットが終了したあと、西川緑道公園と市民
団体の関わりは薄まり、イベントそのものも減少していく。平成 15 年、岡山商工会議所と岡
山市観光協会は、西川緑道公園を観光資源として活用できるかを調査するために「西川を考
える会」を結成する。
「西川を考える会」のメンバーは、平成 15 年 10 月、カフェ&野だてア・
ラ西川を開催しており、その主要メンバーは、平成 16 年 3 月、NPO 法人タブララサが設立に
向かっていく。平成 16 年 2 月、
「西川を考える会」は、経済界、観光協会、市民から構成さ
れる「西川倶楽部」へと発展する。西川倶楽部では、西川アートフェスタを企画し、西川の
中にパソコンの入ったピーチボールを流したりした。平成 18 年 8 月には、西川倶楽部は、第
一回キャンドルナイトを行っている。キャンドルナイトは、平成 19 年から 8 月の開催から 4
月から 6 月の開催に変更されていく。キャンドルナイトは、国や観光協会の助成金によって
賄われてきたが、これらの活動が NPO 法人タブララサに継承されていくことで、西川緑道公
園のまちづくりにアドボカシーだけではない女性の参加という要素を付け加えることになる。
それは、女性が、西川緑道公園のまちづくりの中核となり、若者をまちづくりに巻き込む呼
び水となっていく。NPO 法人タブララサは、イベントでリユース食器を使うなどエコロジー
の視点や都市と農村を繋げながら人と自然に配慮するサステナビリティをコンセプトに持っ
ており、西川緑道公園のまちづくりに女性的な暖かさや優しさを与えるようになっている。
21 世紀に入り、チーム 25 や RACDA が主張する都市改造のまちづくりとは異なり、若者や女
性が中心となっている団体は、サステナビリティやエコロジーの柱の中で、環境に配慮した
ライフスタイル、食の安全性、都市と農村の交流、アートなど生活の質を高める活動へと発
展していく。これは、設計や交通などの専門家から日々の暮らしを見つめる生活者へと参加
の幅が拡大することを意味している。一方、岡山市における西川緑道公園の転換点は、平成
18 年 4 月、岡山市が市民懇談会を開き、平成 19 年 1 月に市民懇談会から将来ビジョンの提
出を受けたことである。この将来ビジョンの中には、西川緑道公園の目指すべき役割として、
歩けるまちづくりの起点、水と緑のネットワーク起点、そして、まちなかの魅力空間を向上
させることが掲げられている。岡山市は、その提案を受ける形で、道路の無電柱化、イベン
トデッキの新設による空間を拡張、段差の解消、街路樹の整備を通じて公園内を明るくする
などハード面の整備を行うことになる。そして、岡山市は、西川緑道公園をどのように活用
していくのかというソフト面において重要な転機を迎えていく。
3.1
西川パフォーマー事業の誕生へ
平成 21 年 3 月、
「第 26 回全国都市緑化おかやまフェア」では、西大寺がメイン会場となっ
ていたが、西川緑道公園を含む岡山城・後楽園エリアが協賛会場として利用された。岡山市
は、市民イベントを企画するために、市民提案協働事業を募集し、公開審査を経てライブ、
ダンス、オープンカフェなどの 39 事業を採択し、66 日間のほぼ毎日イベントを開催するこ
とに成功している。岡山市が、市民団体と協働して公園活用の可能性を広げたことは、まち
11
づくりに参加や話し合いの機会も増やすことになった。この市民主体のイベントを後押しす
ることは市にとってもメリットがあった。行政は、公園の管理を中心とするのか、もしくは、
公園を活用していくことに重きを置くのかによって、市民との向き合い方が異なってくると
考えるようになる。例えば、公園の管理を中心に据えると、市民団体が公園を利用しない方
が、メンテナンスなどコストがかからなくなる。しかしながら、公園の活用を優先すると、
岡山市が、公園でのイベントを企画し、実行するよりも、市民団体の自由な発想に任せる方
が、企画そのものも面白くコストも下がっていくことになる。岡山市庭園都市推進課では、
後者を選択し、おかやま緑化フェアの経験を踏まえて、市民協働による公園活用へと舵取り
を切っていくようになる。
平成 22 年 5 月、前年度の緑化フェアを引き継ぐ形で「花・緑ハーモニーフェスタ in 西川」
を野殿橋周辺で開催している。また、同年には、
『西川緑道公園にぎわい創出事業:西川パフ
ォーマー事業』を展開している。西川パフォーマー事業は、市民が電気や水の利用を行うこ
とに対して市は問題としてこなかったが、イベントを行う場合には申請など煩雑な手続きが
あったものを、市が公募するパフォーマーの認定を受けることで、市がその手続きを受け持
つというものである。現在、西川緑道公園活用事業協議会では、西川パフォーマー事業の採
択事業者、西川緑道公園沿道の地域団体と行政の三者で公園活用について話し合いをする体
制を構築している。
3.2
若者のまちづくりを支援へ
西川パフォーマー事業が西川緑道公園に与えた影響とは、伊藤氏が公園は舞台と形容した
ように、西川が岡山市中心市街地におけるまちづくりサロンの性格を帯び始めたことである。
21 世紀に入り、西川緑道公園のまちづくりの変化とは、NPO 法人タブララサの活動が、若者
世代のまちづくりの呼び水となり、更に、岡山市西川パフォーマー事業が、公園内での市民
活動を広げていくことで、岡山市とまちづくり団体の協働の活動が格段に増えてきたことで
ある。
例えば、西川緑道公園を起点にユニークな活動が増え始めている。平成 23 年 3 月 13 日、
「第一回西川周辺飲み歩きイベント“ハレノミーノ”」が開催されている。ハレノミーノは、
中心市街地の飲み歩きイベントであるが、その背景にはキャンドルナイトの開催で西川界隈
の飲食店とまちづくり団体の交流が強まったことである。更に、平成 23 年 11 月には、第一
回有機生活マーケットいちが開催されている。このいちでは、東日本大震災の後、オーガニ
ックだけではなく暮らしを見つめながら都市の生活者と農村の生産者を繋げる場を提供して
いる。平成 24 年 6 月、満月 BAR も開催されている。満月 BAR とは、満月の日にお洒落な若者
が料理やお酒を西川緑道公園の中で提供するイベントである。平成 24 年からは、岡山市は、
NPO 法人タブララサが行っていた西川用水の清掃活動を引継いでいる。これは、用水の水量
が下がるお盆の時期に、岡山市が地域住民、まちづくり団体、大学生に声をかけて、用水に
12
溜まったゴミを拾う活動である。平成 25 年 4 月 15 日には、西川緑道公園の中で、いち、満
月 BAR、西川キャンドルナイト、ハレノミーノ代表が、平成 26 年 11 月の ESD 国際会議に向
けて「おもてなし」など連携した活動を行うことを宣言している。このように西川緑道公園
では、これら若者の団体が、クリエイティブなまちづくりを企画する環境が生まれているの
である。
3.3
岡山市と岡山大学の協働体制
西川緑道公園のまちづくりの新しい要素に、先に指摘したように、若者と女性の参加が挙
げられるが、更に、大学の参加も重要になっている。岡山市庭園都市推進課は、平成 23 年 6
月 11 日、西川魅力づくりフォーラムを開催し、その中で若者に西川緑道公園の活用について
議論を行う場を設けている。岡山市は、学生参加者 70 名を集めることに成功したが、その中
で西川に来たことがある学生はわずか一人であり、岡山市庭園都市推進課は西川緑道公園と
若者が疎遠になっていることに危機感を抱いていた。そこで、岡山市庭園都市推進課は、岡
山大学と共に、平成 23 年 10 月 29 日第 7 回岡山大学『地域創生ネットワーク・アゴラ』in
西川を開催することになる。ネットワーク・アゴラでは、岡山大学の教員が産官学でまちづ
くりに関する対話の場を提供しており、このシンポジウムを出発として岡山市と岡山大学は
西川緑道公園のまちづくりで連携を取るようになる。
平成 24 年度からは、岡山大学地域総合研究センターが岡山市の「西川パフォーマー事業検
証及び西川緑道公園界隈まちづくり基礎調査」を受託しており、この調査の中では大学生が
西川緑道公園のまちづくり調査に参加することを通じて、西川緑道公園に関心を持ち、賑わ
いづくりに貢献することを意図した契約となっている。平成 26 年度には、岡山市と岡山大学
は、西川緑道公園界隈のまちづくり連携を強化するためのまちづくり協定を結び、その拠点
として西川緑道公園沿いに西川アゴラというまちづくりスペースをオープンしており、岡山
市と大学はまちづくり戦略を協働で練り始めている。
結びに変えて
平成 23 年の西川パフォーマー事業を起点として西川緑道公園のまちづくりは、女性や若者を含
んだ市民、大学、行政による協働体制を模索し始め、諸団体との対話の機会も増え、ユニークな
まちづくりが展開できている。時代ごとの変化に注意をしなければならないが、西川緑道公園に
まちづくり団体が集まってくるのは、問題関心を持つ団体がまちづくりを通じてメッセージを送
ることや新しいチャレンジを行いたい人々が集まるなど岡山市民の公共空間として成長してきて
いるからである。しかしながら、西川緑道公園の歴史を振り返ってみると、このようなまちづく
りの連携は初めてのことであり、多くの経験が継承されていないことも西川緑道公園のまちづく
りの特徴とも言える。例えば、西川緑道公園が岡山市全体の緑地計画のシンボルとして誕生して
いること、チーム 25 などのまちづくり団体が、フリーマーケットを通じて西川沿いの街並みを変
13
えようとしていたこと、そして、西川緑道公園では先代の団体が似たような活動を繰り返し続け
てきたことなどが挙げられる。現在は、諸団体による協働のまちづくり体制が芽生え始めている
ことは、評価に値するが、一方で、西川緑道公園の誕生以来、地区住民との関係が弱いままで、
経済界も含めたより多様な団体の参加が西川には求められるところである。
続けて、西川緑道公園のまちづくりを支えるための方策を二点挙げておきたい。一つ目は、西
川緑道公園のまちづくりでは、行政や諸団体を跨ぐ人的ネットワークで形成されているため、そ
のネットワークを切らせない努力が必要となる。ネットワークは、目的が重なれば繋がっていく
が、岡山市は、西川緑道公園の建設に大きな力を入れた後は、まちづくり団体と疎遠となり、ま
ちづくり団体も、他の団体との交流も十分ではなかったと言える。それぞれがオープンとなり、
手を取り合うまでは至らなかった。一方で、西川パフォーマー事業は、質の高い賑わい創出を目
指す岡山市と人の繋がりを深めたいまちづくり団体の利害が噛み合うことで成立していることを
強調しておきたい。ただし、西川パフォーマー事業の継続も盤石であるわけではない。キーパー
ソンが抜けてしまうと連携は崩れてしまう可能性があり、行政やまちづくり団体は、一人のリー
ダーに頼るのではなく、複数による対話のチャンネルを確保し、まちづくりを継承する人材も育
成しなければならない。二つ目は、対話の姿勢に併せて、複数団体が共有する目標を持つべきで
ある。例えば、チーム 25 の関係者は、西川緑道公園の提案を岡山市に提出しても、資料の一部と
して扱われただけでまちづくりは徒労感に終わった経験を語っている。岡山市中心市街地のまち
づくりを見てみると、まちづくりの提案が実現しないことよりも、行政から諸団体に至るまで、
不信感を抱くことで身動きが取れなくなり、まちづくりが停滞することに問題がある。大切なこ
とは、行政は資金を提供するだけではなく、市民と手を取り続けることでまちづくりの火を消さ
ない努力を行うことである。一方で、まちづくり団体も西川の雰囲気や節度を守りながら、公共
の空間をみんなで使っていることを意識すべきであろう。市民は、西川緑道公園を単なるイベン
トの場として捉えるのではなく、そのイベントから何を生み出しているのかを検討するべきであ
る。そして、第三者機関としての大学は、行政とまちづくり団体を繋ぐ触媒として機能している
が、各団体の共有するアウトラインを描くことも必要となっている。
最後に、西川緑道公園が、なぜ岡山市中心市街地のまちづくりを語るうえで不可欠な位置を占
めているのかを述べて締めくくりたい。西川緑道公園の特徴は、この市民空間の蓄積を掘り下げ
ることで、岡山市民が抱いてきた暮らしやすい社会の姿を表していることである。例えば、都会
の喧騒よりも水と緑の豊かさを求め、車から歩きやすいまちを目指し、新しい人との出会いを大
切にし、お洒落でエコロジーを基層とした文化的生活などが挙げられる。
ここで西川緑道公園に期待されるものとは、日々私的な生活に追われる人々であっても、西川
緑道公園に触れることで、まちづくりを通じた公的な生活に関わる機会を与えていくということ
であり、岡山市民にとって市民社会形成の場として成長していくことである。そして、西川緑道
公園の歴史的系譜には、岡崎市長による『花と緑、光と水』の言葉に代表されるように、市民と
自然の対話の姿が含まれており、言い換えるならば、西川緑道公園のまちづくりとは、岡山市民
14
が持つサステナビリティの意識を表すものであるということである。
謝辞
西川ヒアリング活動は、平成 25 年から岡山大学教員と学生が、西川緑道公園界隈で生活している
人々、まちづくり団体、行政職員などに西川の思いや西川との関わりについて対話を通じて記録
に残していく活動である。現在まで 30 名以上の方に協力を得ている。本稿では、その一人一人の
方の名前を挙げることはできないが、協力していただいた皆様へ心から感謝の気持ちと御礼を申
し上げたい。
西川緑道公園まちづくり史
戦後復興と西川の暮らし
1945 年(昭和 20 年 6 月 29 日)
岡山大空襲
1962 年(昭和 37 年)
岡山国体
1963 年(昭和 38 年)
岡崎平夫市長誕生『緑と花、光と水』の緑化政策
西川緑地から西川緑道公園へ
1969 年(昭和 44 年)
西川流域環境美化運動推進協議会
1971 年(昭和 46 年)
岡山市緑化条例
1972 年(昭和 47 年 2 月 2 日)
1972 年(昭和 47 年 7 月)
岡山市、緑化審議会を設置
岡山青年会議所、歩行者天国(平和町から下石井公園まで)
1972 年(昭和 47 年 12 月 1 日)
岡山市緑化審議会、岡山市に緑化施策を答申
1973 年(昭和 48 年 2 月 13 日)
公園建設反対派 100 名が岡山市に計画中止を陳情
1973 年(昭和 48 年 3 月 9 日)
岡崎市長が議会に西川緑地化を説明
1973 年(昭和 48 年 8 月 11 日)
岡山市市政顧問会議、西川緑地計画の段階的実現を提案
1973 年(昭和 48 年 9 月 20 日)
岡山市議会、西川緑地公園の早期実現を意見
1974 年(昭和 49 年 1 月 14 日)
岡山市、西川道路縮小計画反対協議会に緑地計画を説明
1974 年(昭和 49 年 6 月 5 日)
西川に鯉を育てる会を結成
1974 年(昭和 49 年 6 月 29 日)
第七回岡山市議会緑化問題特別委員会
1974 年(昭和 49 年 10 月)
建設省、岡山市を「緑化モデル都市」に選抜
岡山市緑化審議会が岡山県都市地方計画審議会にて西川緑地の草案を県知事に答申
1974 年(昭和 49 年)
西川緑道公園(延長約 1.0Km)工事着手
1975 年(昭和 50 年)
山陽新幹線開通(岡山~大阪)
1976 年(昭和 51 年)
西川緑道公園(延長約 1.0Km)完成
1979 年(昭和 54 年)
枝川緑道公園(延長約 0.5Km)工事着手
1981 年(昭和 56 年)
第一回緑の都市賞・建設大臣賞
15
1983 年(昭和 58 年)
西川緑道公園(上流)(延長 0.9km)完成
まちづくり団体の誕生
1984 年(昭和 59 年)
若者の文化祭「西川アクエリアンフェスティバル」開催
1986 年(昭和 61 年)
まちづくり団体「未来デザイン委員会」
1986 年(昭和 61 年)
緑化推進運動功労賞内閣総理大臣賞
第一回手づくり郷土賞(テーマ:ふれあいの水辺)
建設省、HOPE 計画(地域住宅計画)
高松から京橋間でホバークラフト試運転
1986 年(昭和 61 年 8 月)
まちづくり団体「チーム 25」
「西川まちづくり憲章」を作成
初回 2 回を歩行者天国にする
西川フリーマケットは、年 4 回 13 年間で 50 回開催する
1987 年(昭和 62 年 9 月 20 日)
チーム 25・第 4 回西川フリーマーケット(約 50 店舗)
「西川ライトアップフェス」
1988 年(昭和 63 年)
岡山空港開港
瀬戸大橋開通
第三回美しい都市づくり賞・経済同友会賞
(水と緑のプロムナード)
1988 年(昭和 63 年 7 月 10 日から 16 日)
チーム 25、「どう変わる西川 PART4・西川はモールになるか」
2 年の活動を踏まえた整備構想とシンポジウム・歩行者天国
1989 年(平成元年)
岡山商工会議所都市委員会、路面電車構想を提示
1989 年(平成元年 9 月 3 日) 京橋朝市開催
1991 年(平成 3 年)
岡山シンフォニーホール開館
1992 年(平成 4 年)
都市景観大賞(都市景観百選)
1995 年(平成 7 年)
岡山商工会議所、「人と緑の都心 1km スクエア構想」提言
未来デザイン委員会のメンバーが、
「路面電車と都市の未来を考える会 RACDA」結成
1996 年(平成 8 年)
中核市
1997 年(平成 9 年)
岡山城築城 400 年
1998 年(平成 10 年)
第一回西川トランジットモール開催
(西川フリーマーケットの開催)
1999 年(平成 11 年 11 月 28 日) RACDA「県庁通りバストランジットモール実験」
最後の西川フリーマーケット開催、チーム 25 解散
2000 年(平成 12 年)
後楽園築庭 300 年
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西川緑道公園活用の模索
2003 年(平成 15 年)
岡山商工会議所、岡山市観光協会「西川を考える会」
「カフェ&野だてア・ラ西川」開催
西川アートフェスタを開催
2004 年(平成 16 年 2 月)
西川を考える会、「西川倶楽部」へ発展
2004 年(平成 16 年 3 月)
NPO 法人タブララサ設立(北川あえ理事長)
2005 年(平成 17 年)
岡山市デジタルミュージアム開館
第 60 回岡山国体、第 5 回全国障害者スポーツ大会
2006 年(平成 18 年 4 月)
岡山市、市民懇談会を開催
2006 年(平成 18 年 8 月)
西川倶楽部、第一回キャンドルナイト開催
2007 年(平成 19 年 1 月)
岡山市、市民懇談会の提案を受け取る
2009 年(平成 21 年)
政令指定都市
2009 年(平成 21 年 3 月)
第 26 回全国都市緑化おかやまフェア
協働のまちづくり
2010 年(平成 22 年 5 月)
「花・緑ハーモニーフェスタ in 西川」
「西川緑道公園にぎわい創出事業:西川パフォーマー事業」
2011 年(平成 23 年 3 月)
第一回西川周辺飲み歩きイベント「ハレノミーノ」開催
2011 年(平成 23 年 6 月)
岡山市庭園都市推進課、
「西川魅力づくりフォーラム」開催
2011 年(平成 23 年 10 月)
岡山大学「地域創生ネットワーク・アゴラ in 西川」開催
2011 年(平成 23 年 11 月)
有機生活マーケット「いち」開催
2011 年(平成 23 年 11 月)
岡山大学地域総合研究センターの設置
2012 年(平成 24 年 4 月)
地域総合研究センター、岡山市より調査委託
「西川パフォーマー事業検証および
西川緑道公園界隈まちづくり基礎調査」
2012 年(平成 24 年 6 月)
満月 BAR 開催
2012 年(平成 24 年 8 月)
岡山市、西川清掃
2013 年(平成 25 年 4 月)
西川まちづくり 4 団体、ESD 世界会議に向けた連携を宣言
2014 年(平成 26 年 10 月 8 日)
岡山大学・岡山市「中心市街地まちづくり協定」
2014 年(平成 26 年 10 月 20 日) 岡山大学がまちづくり連携拠点「西川アゴラ」開設
2014 年(平成 26 年 11 月)
ESD 世界会議
2014 年(平成 26 年 12 月 6 日)
イオンモール岡山出店
17
参考文献
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神奈川県商工労働部商業観光流通課(2000)
『がんばるまちコレクション 50 上巻』
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集 Vol.29.pp.261-266
特定非営利活動法人公共の交通ラクダ(RACDA)(2013)『グリーンモバイル都市・岡山を目指して』
西川フリーマーケット実行委員会(2000)
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西川流域美化運動協議会(1985)
『住民運動史:西川流域』
西川緑道公園市民懇談会(2007)
『
“西川緑道公園”から始める人間的まちづくり≪提言書≫』
NPO 法人タブララサ(2014)
『ラサッシ vol.3』
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