オペラの風景(48)「オテロ」第4幕の〈柳の歌〉 本文 。> フリットーリ オテロ

オペラの風景(48)「オテロ」第4幕の〈柳の歌〉
本文
。>
フリットーリ
オテロの第四幕は筋書きではクライマックスですが、オペラの内実は、こ
れまでの激しい進行が止まり、異質のものになると私には思えます。ここ
は、エピローグの序章です。演劇では実質の変化はないのに、オペラでは
エピローグ。ここにこそ、不世出の名作を生んだ秘訣の一つのように私は
思います。今回、改めて調べ、オペラを聞いてみたところ、似た扱いの文
に出会いました。
(シュテファン・クンツ「英雄の没落」から)
「第四幕は無防備なものを殺害し、その後自刃して自らも生贄になる英雄
に寄せる結びの歌である。(つまりエピローグ)デスデモナは、犠牲のま
た犠牲であった。死の予感と悲哀にみちた彼女の〈柳の歌〉
、ならびに祈
り〈アヴェ・マリア〉は、英雄に、自分の愛に、さらに突然身に降りかか
ってきた不可解なものに捧げるレクイエムのようなものである。デスデモ
ナは最初から、悩める者、犠牲者なのである。それにしてもヴェルデイの
オペラで、デスデモナがどうしてのように頑なにカシオに肩入れするのか、
殆んど不可解である。デスデモナは、オテロのように気持ちを変えること
はしなかった。が、彼女はオテロにおこったことを理解できないままに、
すべてを傍観して過ごしたのである。オテロへの愛にとらわれて、彼女の
正常な意識もスイッチが切れたのである。
・・・・・・・・ひどく悲しく、
心を打つ〈柳の歌〉は、デスデモナの〈死者の歌〉である。それは、まる
であの世からのようにひびく。イングリッシュ・ホルンが悲嘆の声を上げ
始める。
・・・・・・・引き続いて主導権をにぎるのは、管の響きである。
管楽器は、昔から哀歌と神秘的に深い結びつきをもっていた。しかし、デ
スデモナの祈りの歌で、管楽器は、柔らかく目のつんだ音楽をかなでる弦
楽器の明るい音に席を譲る。漂い流れる弦楽器の音がしだいに弱まって鳴
り止むと、弦楽器で音を変質させコントラバスが、最低音からユニズンで
立ち上がる。それは幽霊のようであるが、冷酷で、何より非人間的
だ。
・・・・・・・・・・・」
ここでオテロが登場する。
デスデモナの柳の歌はこうである。
「“歌いつつ泣く
寂しい荒れ野の
悲しげな女
おお柳!柳!柳!と
座ってコウベを
胸のうなだれていたの!
おお、柳!柳!柳!と
歌いましょう。死の柳は、
私の花飾りとなりましょう。“」
〈柳の歌〉はヴェルデイ=ボーイドは情景の一つではなく、それまで進行
した激しい葛藤と対置されたエピローグです。シェクスピアではイアーゴ
の陰謀に撹乱される、ロドリゴ、カシオ、オテロ、デスデモナに纏わる出
来事のうちの一つが〈柳の歌〉ですが、ボーイドの〈柳の歌〉は事件全体
と対置される歌です。この取り扱いが代表するように、ボーイドはシェク
スピアの「オテロ」を単にオペラ化するだけでなく、彼の作品を超えたも
のをオペラで作ろうとしたと私は思います。第四幕がボーイドとヴェルデ
イの傑作で、古今東西にわたるオペラ文学のうちで最も美しい幕の一つに
数えられているのはその所為ではないでしょうか。この幕の雰囲気を乱す、
すべてを除外した詩人の功績は讃えられて然るべきです。このことはシェ
クスピアの当該箇所と比べると一層鮮明になります。
〈柳の歌〉の場面はシェクスピアでは第四幕の最終場面三場で現れます。
(1 幕少ないからオペラ第三幕最後というわけです。
)ボーイドの改変が大
変思い切ったものです。前述のように〈柳の歌〉は嫉妬に荒れ狂ったオペ
ラ第三幕の、コントラストとしておかれています。筋書きでは嫉妬でおこ
した殺人と文脈の延長にありますが。原作第四幕二場はオテロが不倫疑惑
を問い質してまわるのです。かなり冷静に。最初はエミリア。彼女は疑い
など全くないと否定します。次にデスデモナを呼びつけ、「目を見せろ」
と言い、
「賣女かどうか」問い質し、イアーゴとデスデモナの間の会話で
はオテロの疑惑のわけを彼女が質問し、最後はロダリーゴとイアーゴのデ
スデモナ奪回作戦の経過が話題になる、という、いわば殺人の周辺の出来
事です。続く第三場が〈柳の歌〉。
オペラでは第二場が完全に省かれています。〈柳の歌〉はシェクスピアで
は殺人前に一連の出来事の一つです。
その証として、原作第五幕第一場もデスデモナ殺人とは無関係です。ロダ
リーゴが当面の恋敵とイアーゴに炊きつけられてキャシオを切りつけ、返
り討ちにあう場面です。第ニ場になってオテロがデスデモナの寝室に現れ
ます。そして殺人です。そのあとイアーゴの悪巧みが明らかにされ、第五
幕第ニ場の最後にオテロは自害します。オペラと違ってロダリーゴ殺害は
事前に行なわれていますから、イアーゴの悪事はオペラより明快にドラマ
では説明されます。
こうみていきますと、原作ではオテロの嫉妬より、イアーゴの悪巧みに重
みが大きいようです。
ボーイドではデスデモナは恋のトラブルの中心にいたにしろ、オテロの嫉
妬に格別に強く結びつけられ、オペラ第三幕での激烈な嫉妬の表れ、オテ
ロの混乱だけですぎます。
〈柳の歌〉を 4 幕に移すことにより、全ての勢いが泊まり、無垢で局外者
のデスデモナの無抵抗な死で、オペラの大波が留まり、沈静される。この
切り替えに〈柳の歌〉が見事に使われている、といえるのではないでしょ
うか。だからこそ、この幕のデスデモナは無為であり、無表情が原則であ
る、必要があります。
〈柳の歌〉だけを手持ちのDVDから選んで見てみました。
フレーニ
1)(ミレルラ・フレーニ、カラヤン演出、指揮:ベルリンフィル・1977)
さっぱり歌って、過剰な演技を避けた名演です。格別に好きな映像、歌で
す。
全般的にもこの「オテロ」はカラヤンの傑作です。
2)
(キリ・テ・カナワ、モジンスキー演出、ショルテイ指揮:ロイヤル
オペラ・1992)
音楽は素晴らしいが、カナワの歌はロマンチックに過ぎます。演技も中途
半端です。全般的に平凡で面白くありません>
</div カナワ
3)
(ルネ・フレミング、ヴォルビ演出、レバイン指揮:メトロポリタン
オペラ・1997)
彼女のデビュー盤と聞き、買ってみましたが、演技はオーバーで、声は美
しいけれど、理想とは程遠く感じられました
)
フレミング
4)
(バルバラ・フリットーリ、ヴィック演出、ムーテイ指揮:スカラ座・
2001
全般的には優れた「オテロ」で楽しめます。フリットーリのデスデモナは
歌、演技ともややオーバー気味で、次のフィレンツエがずっと優れていま
す。演出は斬新で、同じ背景が戦場や寝室として使われ、斬新です。
5)
(バルバラ・フリットーリ、ドーディン演出、メータ指揮:フィレン
ツエ 5 月祭:2003)
抽象化されていますが、デスデモナは動きが少なく、歌唱も抑えられてい
て、好感がもてます。オテロというとドミンゴですが、これはガルージン
です。メータは美しい演奏という何時もの評価がなりたちますが、今回は
演出の狙いにはあっています。演出は 5 つの内もっとも現代的です。
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</div フリットーリ