昔の話を伝えていこう - 株式会社 日本ルミナリア

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第1回
作品集
作文コ ン ク ー ル 開 催 の 経 緯 と ﹁ 想 い ﹂
この企画を提案させていただきました際に、快く徳島県教育文化研究所に
つないでくれました津田中学校時代の恩師・坂本和生先生、そして作文コン
ている人は、相手の良さや文化も理解することができ、その人たちにとって、
いろいろな良い行いをすることができます。
自分が生まれ育った地域を愛する気持ちはどこから出てくるのだろうと考
えてみると、その根元は両親や祖父母から日頃聞いた話をはじめ、自分を育
んでくれた地域との つながり なのです。
今回応募してくれた君たちの作品はどれもキラキラしていて宝石のようで
した。まだまだ素晴らしい環境が君たちの周りにはたくさんあります。
クールの主催、全面的なバックアップを頂きました徳島県教育文化研究所理
事長・西川達也先生、並びに徳島県教育文化研究所の先生方に厚く御礼申し
どうか、この素晴らしいモノを心の奥深くに留め大切に想ってください。こ
私二十三歳で徳島を出て東京で住んだのですが、その時初めて徳島ってい
もこのコンクールに携わることができたことを大変うれしく思いますし、こ
この活動は今年を一回目とし、毎年続けていきたいと考えております。私
です。
れはきっと君たちが大きくなったときに何物にも代えがたい財産になるはず
上げます。
私は現在、東京と中国を中心としたアジアを行き来しながら事業を展開し
いところだなあと思いました。そして三十六歳の時から海外で仕事をするよ
の活動は大きな意味のあるものとなっていくと確信しております。
ています。
うになったのですが、その時初めて、日本は素晴らしい国だと身に沁みて感
のデザイン・事務局の相良社長、審査委員長の竹内先生、開催主となって頂
今回のコンクールのきっかけを与えてくださった関先生をはじめ、ポスター
故郷から出て生活すると、自分を育んでくれた環境や地域を愛する気持ち
きました徳島県教育文化研究所の先生方、スポンサー企業様に厚く御礼申し
じました。
が大切であると気づきます。世界で戦い成果を上げていく為には、アイデン
上げます。そしてコンクールに応募してくれた君たち本当にありがとう!
松屋
篤史
︵徳島市津田出身︶
代表取締役
株式会社日本ルミナリア
ティティが重要であると分かります。しかし現在の子供たちが育つ環境の中
ではそのアイデンティティ形成に必要な要素︵地域とのつながり︶が失われ
つつあることを危惧しておりました。
今年の五月にその気持ちを高校時代の恩師に話したところ 子供たちがお
じいさんおばあさんから昔の話を聞くのはどう? というアイディアが出て、
夏休みに今回の徳島県下の小中学生を対象とした作文コンクール 昔の話を
伝えていこう を行いました。結果、
104作品の応募がありました。振り返っ
てみますと、時間的余裕はあまりなかったのですが、開催して本当によかっ
たと感じています。
県外や海外に出たとき、自分の生まれた街、育んでくれた環境を愛してい
ない人は尊敬されません。自分が生まれ育った街、日本を愛する気持ちを持っ
-1-
ごあい さ つ
﹁昔の話を伝えていこう!﹂作品集が創刊されますことをお祝い申し上げま
ごあいさつ
家族でお墓の掃除をしていたとき、墓石にかたつむりが一匹いました。娘
がそれを捕ろうとしたとき、妻が﹁お墓にいる生き物はご先祖様の使いだか
おいては平成24年度から全面実施となり,我が国の伝統と文化を尊重し,
さて,新学習指導要領が,小学校においては平成23年度から,中学校に
命の不思議さと大切さを学んだことと思います。真偽はともかくとして、昔
一緒にお墓参り行った祖父から聞いたようです。何気ない一言ですが、娘は
かも。﹂と言いました。妻はじいちゃん子だったらしく、その話も子供の頃に
す。
その基盤となる国や郷土を愛するとともに,他国の文化に対する理解を深め,
話や言い伝えの中には、先人達が自然や他者とよりよく関わりながら生きて
らそのままにしておき、亡くなった母さんのじいちゃんが喜んで出てきたの
国際社会に生きる日本人を育てることが求められております。
きた叡智が込められています。
の教育∼未来へ育て受け継ぐ美しい日本人の心∼﹂とし講演会や研究集会を
開催してきました。今年度初めに株式会社日本ルミナリアの松屋氏から﹁昔
徳島県教育文化研究所︵徳教研︶では、今年度の主題を﹁明日を拓く徳島
を創造し,未来を切り拓く人﹂や﹁郷土への誇りと国際的な視野を持ち,社
の話を伝えていこう!﹂の作文コンクールのお話をいただいたとき、私は、
2期︶
﹁阿波っ子みらい教育プラン﹂を策定し,
﹁地域とともに,新たな価値
会に貢献する人﹂を育てるという基本理念のもと,その実現に向けて取り組
その趣旨と思いに共感し﹁協力させてください。﹂と即答していました。
本県におきましても,この国の趣旨を踏まえて,徳島県教育振興計画︵第
んでおります。
このような中で,地域社会のお年寄りとつながり,郷土に対する愛着や先
のご後援並びに市町村教育委員会のご協力、県内外の企業の皆様のご協賛に
かを心配しておりました。しかし、徳島県教育委員会をはじめ県内各情報誌
第1回ということや準備期間が短かったこともあり、作品が集まるかどう
祖に対する感謝の気持ちを育みたいという趣旨のもと,徳島県教育文化研究
よりこうして作品集発刊の運びとなりました。
とさせていただきます。
じめすべての関係者の皆様に今一度感謝の辞を申し上げ主催者代表のご挨拶
おわりになりましたが、企画及び作品審査にご尽力をいただいた方々をは
上げます。
と思います。今後も徳教研の活動にご支援ご協力を賜りますようお願い申し
これからも徳教研は、徳島の子供達の教育のために歩みを進めて参りたい
所主催のコンクールが開催され,優秀作品集が刊行されますことは意義のあ
ることであり,本県教育の充実・発展に寄与するものであると考えます。
貴所におかれましては,教育行政の理解者として,今後もこれまで同様,御
活躍を期待しております。
徳島県教育委員会教育長
佐野
義行
徳島県教育文化研究所
理事長
西川
達也
-2-
優秀作品 ︻小学校の部︼
-3-
金賞︵ 小 学 校 の 部 ︶
黒い小 さ な 仏 像
川内北小学校 三年 佐藤 優実
とんと昔、あったと。
﹁下別宮のお薬師さん﹂という、徳島市川内町に伝わってい
おじいさんは、
る民話を読んでくれました。
このお話は、海でひろったありがたい仏様のお話です。今もこの仏様は薬
師寺のご本ぞんとしておまつりされているそうです。
おじいさんは話をおえた後、仏だんから黒い小さな仏様を持って来て、﹁ひ
ょっとしたらこの仏様はこの民話とつながっているのかもしれない。﹂と、こ
の仏ぞうがなぜ家にあるのかを話してくれました。
言い伝えによると、ずっと昔のご先ぞ様が、海へ漁に行って大水で流され
た仏様をひろいました。それをお寺にとどけたおれいにといって、小さな金
色の仏様をもらいました。それがずっと大事にまつられてきました。けれど
も長い年月の間に、色がはげて、ただのみすぼらしい木ぞうの仏様になって
しまいました。おじいさんの子どもの時に、仏様のかた方の手がとれてしま
いました。おじいさんのおじいさんが大切な仏様だからと、しゅうりをして
もらいました。手が直されて、帰ってきた仏様は、真っ黒の仏様になってい
ました。でも、よく見ると、すわって手を組んでいる仏様は、とてもやさし
い顔をしています。 川内町は、昔は別宮浦村といわれていたそうです。こ
の民話の時代は、今の吉野川はありませんでした。阿波のとの様が徳島へ来
てから、こう水で、家や畑の作物がたびたびひがいにあったので、水はけの
ためにはば二十メートルのよう水を作ったのが吉野川のはじまりです。台風
が来るたびに川はばが広くなり、今のような大きな川になりました。げんざ
いの高いていぼうができるまでは、川の中にもたくさんの家や畑があったそ
うです。わたしは、川近くにすんでいますが、吉野川の向こうがわにも別宮
という地名があったそうで、川が別宮浦村の中を流れていたことがわかりま
す。
去年、おじいさんのおじいさんの五十回忌とご先祖様の三百回忌をお寺で
行いました。ひいばあちゃんからわたしまで九人の家族で供養しました。そ
の時おじいちゃんが、﹁今みんながここにいるのはご先ぞ様がいたおかげだ
よ。﹂と話してくれました。佐藤家は、ずっと昔からこの土地にすんでいた
んだなと思いました。
今もう一ど仏様の顔を見てみると、ご先ぞ様がこの仏様に見まもられなが
ら生活してきたのだなとしみじみ思いました。
小さな黒い仏様ですが、この仏様にはいろいろな物語があるような気がし
ます。これからもわが家の宝物として代々伝えていきたいと思います。
-4-
赤ちゃんをおんぶしてよろよろわたろうとしたときはしのりょうわきにいた、
アメリカのへいたいやすこさんを後ろからだきかかえてわたしてくれました。
銀賞︵ 小 学 校 の 部 ︶
無題
だきかかえられたとき、やすこさんはふ安につつまれしぬかと思いましたが
たいです。
つれて帰ってきてくれたんだね、ありがとう、と八才のやすこさんに、言い
すのはできないと思います。おなかがすいても、がんばっておじいちゃんを
ばしくてあられみたいでした。だけど私だったら二カ月もいり米だけですご
わたしはおばあちゃんの家でいり米を作ってみました。食べてみるとこう
ているそうです。やすこさんから聞いた話はここまでです。
日はちょうどお祭り十月十五日だったということを今でもはっきりとおぼえ
来てくれていました。親るいに会えて本当に、うれしかったそうです。その
石井駅には、私のひいおじいちゃんのお兄さんが大八車を引いてむかえに
井駅までかえって来ました。
山口けんから汽車で大阪へ行って小松島まで船にのり、そこから汽車で石
やさしいなと思いました。
そのへいたいがはこんでくれたのだということが分かってアメリカ人なのに、
国府小学校 三年 佐藤 響
わたしのおじいちゃんは、今年で六十八才になります。日本がせんそう
に負けたときは、まだ0才7カ月でした。そのころ、おじいちゃんのお父さん・
お母さん・八才上のお姉さんの四人家族でした。お姉さんの名前は、やすこ
と言います。かん国に住んでいたそうです。
﹁日本人は、せんそうに負けたのだから帰れ帰れ﹂と言われて、引きあげるこ
とになりました。お金やざいさんはほとんどおいてきました。おおじょうの
えきから、ふ山という所まで、汽車にのったりして行きました。私のひいお
じいちゃんは、家族のふとんをせおい、私のひいおばあちゃんは、料理する
道具をもてるだけもって行きました。八才のやすこさんは、0才7カ月の私
のおじいちゃんをおんぶしていり米の入ったぬのふくろ二つをペケじるしに
かけて、あまりにもおもいのでふらふらしながらついて行きました。今の私
と同じ年ごろなのに、すごくがんばったんだなあと思いました。
ふ山にある、りょ館みたいなところに日本人があつまってじゅん番に日本
に帰っていました。やすこさんたちに船のじゅん番がまわってくるまで2カ
月近くかかりました。ようやくのった船は嵐にあって本当だったら九州につ
く予定だったのに山口けんのやないという所につきました。わたしが﹁それ
までごはんはあったん?﹂ときくと﹁いり米だけよ。おなかはすいてもいり
米はもうええ、っていう気もち。
﹂とやすこさんが言ったのでとてもおどろき
ました。
やないみなとは漁船がつくところだから下りるかいだんみたいなのがあり
ませんでした。板をならべて、ゆらゆらする所をわたりました。やすこさん
-5-
きょうだいだけではないけど、その子たちのものもあるときいて、わたしは
すぐにおはかまいりにいきました。そして、おこめをおそなえしました。タ
銅賞︵ 小 学 校 の 部 ︶
無題
マエばあちゃんがかみさまの子になって本当によかったです。タマエばあちゃ
んには、千さいまで長生きしてほしいです。
北井上小学校 二年 はしもと さつき
わたしのいえのおはかは、二つの大きなおはかと、そのうしろに、ランド
セルより少し大きいくらいの、小さいおはかがたくさんならんでいます。
﹁なんで大きいおはかと、小さいおはかがあるのかな。
﹂
と思っていました。これは、わたしのいえのひいばあちゃんから聞いたお話
です。
わたしのひいおばあちゃんのタマエばあちゃんは、ひいひいじいちゃんの
じん三ろうさんと、ひいひいばあちゃんのスエさんの、六ばん目の女の子で
した。だけど、一ばん目から五ばん目までの子どもたちは、一さいになるま
えにしんでしまいました。それは、ひいひいばあちゃんのおちちが出なかっ
たからかもしれないし、やはりやまいにかかってしんでしまったのかもしれ
ません。それは、タマエばあちゃんもよく知らないそうです。
どうしてタマエばあちゃんは、しなずにすんだのでしょう。
じん三ろうさんはタマエばあちゃんを、大あさひこじんじゃのかみさまの
子どもにすることにしました。そのほうほうは、じんじゃのけいだいに、生
まれたばかりの赤ちゃんをおきます。そして、赤ちゃんをおたゆうさんにひ
ろってもらいます。おたゆうさんは、おいのりをして﹁タマエ﹂と言う名前
をさずけました。それからかみさまの子どもとなっていえにもどってきまし
た。それまでつぎつぎとしんでしまった子どもたちとちがって、タマエばあ
ちゃんだけは、元気にそだちました。タマエばあちゃんは、今年九十三さい
です。毎日草むしりや、おはかまいりに出かけています。
あの小さいおはかは、タマエばあちゃんより先に生まれてしんでしまった
-6-
たいうんよ。後に、小さなやしろを建てて、おまつりするようになったんやな。
とした小山ができたんやと。それから、そこを は
「だかづか 言」うようになっ
はだか づ か と 、 と ど め の 橋
銅賞︵ 小 学 校 の 部 ︶
富岡小学校 四年 薦田 貴良
んから聞きたいと思った。
ある所を見た回りたい。そして、これからもいろんな昔の話を、おばあちゃ
おばあちゃんの話はこれでおしまいだった。ぼくは、家の近くにこんなに
悲しい話があったことにびっくりした。今度ぼくは、新開さんの言い伝えの
おまつりしてあるというんよ。
領家の岡川の堤防のしたにある五輪とうや、土倉にあるほこらは、新開兵を
新開さんの落ち武者の悲しい話は、この辺りに一ぱいあってな、富岡町に
ある 泣
「き石さん の
」 話や、富岡小学校南側にある い「くっさん と
」いうつかや、
めの橋 と
」 よぶようになったんよ。
新開兵の血で七見川の水は真っ赤になったいうんよ。それからこの橋を と「ど
とったんやな、とうとうここで、次々とうたれてしもうたんやと。うたれた
それから、七見川にそうてにげた新開兵達も、川にかかっとう橋の所まで
来て、追手につかまってしもうてな。うち続く戦いで身も心もぼろぼろになっ
ぼくの住んでいる地くに、はだかづか神社と書かれた小さなやしろがある。
そして、そのそばの七見川を下って行くと、とどめの橋とかかれた小さな橋
がある。このつかと橋には、悲しい言い伝えがあると、おばあちゃんが次の
ように話してくれた。
昔、昔、日本中がいくさをしとった戦国時代のことよ。土佐に長そか部元
ちかいう強いぶしょうがおってな、四国をせい服しようとして、まず、あ波
に二万三千もの大軍でせめてきたんよ。海部や、むぎや、日和佐はまたたく
間にせめほろぼされて、とうとう富岡までせめて来たんよ。今の富岡町あた
りは牛きのしょうと言われとって、新開遠江守実つなという強いぶしょうが
おさめとったんよ。このとの様はいくさが上手な上に、しろはせめ落とされ
にくい山の上にあって、北がわには琴江川の深いふちがあってな、さすがの
長そかべ軍もなかなかせめ落とせんかったんよ。たまりかねた元ちかは、な
「
か直りをしよう。 と
」 だまして、新開さんを丈六寺によび出し、お酒を飲ませ
てゆだんさして、切り殺してしもたんやと。それから、大軍で牛きのしょう
にせめこんで来たんよ。大しょうのいなくなった兵士は、
はげしゅう戦こうて、
多くは、はなばなしゅううち死にしてしもうた。生き残った新がい兵たちは、
この は
「だかづか の
」あたりまでにげて来たんや。ここは、昔はあわ島道言わ
れとった主な道やったけんな。戦こうて、戦こうて、刀もいたんで、つかも
にぎる所がとれてしもて、つばものうなって、ようけの兵士がそこでうち死
にしてしもうた。ほんで、土地の人達は、その場所に、なくなった人達と一しょ
に、ようけのぼろぼろになった刀もほうむったんよ。田んぼの中にこんもり
-7-
銅賞︵ 小 学 校 の 部 ︶
あばれ じ し
」
鳴門教育大学附属小学校 二年 岸本 安史
ド
ドコドン
ドコドン
ドコドン
「ン
ぼくは、この音を聞くのが大好きです。
九月になると、夜は涼しくなり、気持ちのいい風がふいてきます。風といっ
しょにやって来るキンモクセイのにおいが、母はとても好きみたいです。す
ず虫の鳴き声も聞こえてきて、ぼくもこの季せつが、大好きです。その鳴き
声の向こうから、太この音が聞こえてきます。ぼくは、生まれた時からずっと、
太この音を聞いています。
ぼくの住む応神町では、秋まつりの時に、ししまいと太こが出てきます。
九月に入ると、夜、太この練習が始まります。その音を聞くと、ぼくは、ワ
クワクしてきます。
ぼくは一才の時から、練習を見に行っています。大きいお兄さんたちにま
じって、一才の時から、太こをたたかせてもらっていました。小太こは大人が、
大太こは子供がたたきます。太このほかに、ししまいやかさぎがあります。
ししまいは大人がふって、かさぎは、子供がおどります。この大好きなしし
まいや太この事を、もっと知りたくて、昔から町の事をよく知る、吉
「崎さん 」
に話を聞きに行き、たく山の事を教えてもらいました。
この応神町のししまいや太こが始まったのは、せん後すぐ。町の青年団が、
北島町の人に教えてもらい、始まったそうです。昔は、わかい男の人たちが
ししまいをふり、子供たちはきものをきて、ししゅうのたく山入った前かけ
をし、
わらじをはいたりして、
とてもはでで、
にぎやかだったそうです。しかし、
青年団は昭和三十五年ごろになくなり、その後、青壮年会という名前で始まっ
たけど、昭和六十二年になくなりました。でも、またふっかつさせようと、
平成元年に七成会が出来、今もつづいています。
ししまいのしし頭は、文楽人形師の四代目大江巳之助という、すごい人が
作ってくれたそうです。
このししまいは、一九00年 明
( 治三十三年 ご
) ろ、山形県からつたわって
来たと言われています。ししまいの名前は、あ「ばれじし と
」いいます。まつり
の日に、
一、お米や野菜がたく山とれますように
二、家の人がびょう気になりませんように
三、子どもがたく山できますように
というねがいをこめて、うじ神様にほうのうするそうです。この 三「 の」ねが
いをこめたししまいは、応神町にしかないそうです。昔の人は、色んな事を
神様におねがいして、そのおれいに、まつりの日には、ししまいや大こをほ
うのうしていたんですね。
この あ「ばれじし は
」、平成二十二年に、徳島市の無形民俗文財にしていさ
れました。こんなすばらしいでんとうは、これからもずっとつづいてほしい
と思いました。ぼくは、この町に生まれて、本とうによかったです。
-8-
銅賞︵ 小 学 校 の 部 ︶
う
「わあ、なんじゃこりゃ。 」
よ「うきた、ようきた。 」
鳴門教育大学附属小学校 四年 益田 英典
ぼくのひいおばあちゃんが十八才で結婚が決まった日のよく朝、庭をみて、
びっくりした。庭になんと、はか石がずらっとならんでいたんだって。ひい
おばあちゃんの時代は結婚相手は、親が決めるのがふつうで、もちろんおば
あちゃんもそう。ひいおばあちゃんのことをすきだった人が、くやしまぎれ
にいやがらせをしたらしい。ひいおばあちゃんもびっくりしたけど、ぼくも
この話を聞いてびっくりしたよ。それに、はか石というのは、ぼくの家のま
わりには全くないけど、ひいおばあちゃんの時代には、家の周りにも、小さ
なおはかがたくさんあって、きっと今よりずっとご先祖さまとのきょりが、
つよかったんだなって思う。
ようきた、
ひいおばあちゃんは、ぼくたちが行くと、いつも大きな声で、 「
ようきた。と
」いってよろこんでくれる。ぼくはちょっとはずかしくて、あん
まり話さなくなってしまう。ひいおばあちゃんは、なんでもいっぱい知って
いる。かぶと虫やバッタのいる所、しいたけやたけのこのはえる所。ひいお
ばあちゃんちはみかん山をしているから、みかんのことはプロだ。昔は、今
のような大きなれいぞうこもなかったから、みかんを保存するのも大変だっ
たよ。ひいおばあちゃんちには、いまだに、気でつくったみかんの貯ぞう庫
があって、ぼくはのぞかせてもらったよ。しっくいのかべの小屋の中に、た
ながたくさんあって、窓がひらいたりとじたりできるようになっていて、風
通しがとってもいいんだ。そこにおいておくと、長い間保存ができるんだよ。
最近、奥の山から、さるがおりてきて、ひいおばあちゃんちのすいかを抱いて、
にげるんだって。その格好を想像して、ぼくは思わずわらってしまったけど、
きっと、それは、山の中にエサがへってしまっていることを意味しているん
だろうなって思うとかなしくなったよ。
ひいおばあちゃんちの居間には、古い白黒の写真と賞状がかざってある。
それは、ひいおばあちゃんのお父さんの写真と国からもらった賞状なんだっ
て。戦争に行ってなくなったという話をきいたよ。山の中の静かなひいおば
あちゃんち。ぼくはこんなところまで、戦争のかなしい出来事があったんだっ
て、はじめて知ったよ。ひいおばあちゃんは、今の佐古のあたりが空しゅうで、
焼け野原になったことをおぼえているっていってたよ、今はいっぱいマンショ
ンが建っていて、その当時と全くかわってしまったことにびっくりするって。
ぼく達が元気に大きくなることをいっぱいよろこんでくれる、ひいおばあ
ちゃん。お正月にみんなで集まるのが楽しみだよ。今度はぼく、はずかしが
らないから、また大きな声で、よ「うきた、ようきた。っ
」ていってね。
-9-
ました。そして、近くを国道55線道路ができ、自動車が普及して人の流れ
も変わっていきました。その間にも、日中戦争や、室戸台風も経験されたそ
銅賞︵ 小 学 校 の 部 ︶
無題
うです。おじいさんは﹁八十と余年の人生の中にも、思い起こせばいろいろ
ありがとうございました。
話はぼくの心の中の一冊の本として生きつづけると思います。おじいさん、
す。もっともっと話を聞きたかったです。おじいさんにお話してもらったお
いさんのところに一番に持って行って見せようと思っていたのに、悲しいで
に、おじいさんは脳出血で急に亡くなってしまいました。完成したら、おじ
歴史の辞書があるんじゃないかとぼくは思いました。この作文が完成する前
さんの中にはつまっているようでした。おじいさんの頭の中にはたくさんの
な体験をしてきたなあ。﹂と話していました。まだまだいろいろな話がおじい
羽ノ浦小学校 五年 井本 壮真
ぼくの隣りの隣りに、八十六歳のおじいさんとおばあさんが住んでいまし
た。今回は、こちらのおじいさんにお話を聞くことにしました。おじいさん
は中学・高校で理科の先生を若い時はしていたそうです。退職してからは、
地球一周 4(万キロ を
) 歩こうという計画をたて、毎日少しずつ歩いていたそ
うです。現在、三七二五〇キロまで歩いて、病気をしたためにストップして
いる状態だそうです。そんなおじいさんから聞いたお話です。
昔、一九一六年 大
( 正五年 に
) 中田駅から古庄駅までの六、九キロの阿南鉄
道が完成しました。その頃の徳島県は徳島から鴨島までと、徳島から小松島
港までと、中田駅から分かれて古庄駅までしか鉄道はなかったそうです。な
ので、古庄駅があったぼくの町は県南では唯一の鉄道で、終着駅だったそう
です。その頃は、車とかがなかったので移動手段として一日七から八本蒸気
機関車が石炭を燃料に四両編成の客車がいつも満員でした。町への人の出入
りも次第に増え、おじいさんが生まれた古庄もにぎやかになっていきました。
その後、一九三六年 昭
( 和一年 に
) 羽ノ浦駅から南に線路は伸び 牟
( 岐線 、)
は全国の
(JR)
客車も羽ノ浦駅から南に流れたため、古庄駅に人が降りなくなり、何日かに
一度貸車が材木を運んでくるだけになりました。そして、国鉄
赤字路線を整理することになり、徳島県では、小松島港から中田駅の2キロと、
羽ノ浦駅から古庄駅間の1.8キロを撤去することになりました。その跡は
どうなったのかというと、駅は公園になり、路線は道路にほそうされ、僕た
ちが毎日通っている安全道路 通
( 学路 に
) なりました。人が来なくなった古庄
地区は火が消えたようにさみしくなり、宿や飲食店が次々になくなっていき
-10-
銅賞︵ 小 学 校 の 部 ︶
お盆の 話
平 島 小 学 校
4年
重成
快晟
僕は海部のおばあちゃんにお盆の話を聞いてきました。
お盆には仏まつりをしていてご先祖をお迎えします。お墓の掃除をすました
後、家で祭だんを作ってお花を立て生前の好物だった食べ物や飲み物をお供
えします。
いつもは出さない盆どうろうや飾りどうろう、ちょうちんもつってにぎや
かな祭だんになります。
﹁くり出し﹂という位はいを重ねて入れてある箱から位はいを出して、きれ
いな水、新品のタオルで一枚一枚やさしく洗ってきれいにふいていきます。
この時に子供もいっしょに手伝って、
﹁この人は長生きしたな。この人は江戸
でなくなった人、じいちゃんの兄弟、ひいじいちゃん﹂など思い出を話した
りします。今年は僕も手伝って洗いました。
位はいがかわいたら、祭だんへきれいに並べておまつりしてお盆の用意が
出来ます。
祭だんが出来あがったらいよいよお墓へ出掛けます。ご先祖さんの霊に﹁お
迎えに来ましたよ。
﹂とお参りします。帰りにはご先祖さんをおんぶして子供
達は﹁重い。
﹂などといって笑いながら帰りますが、より道してはいけません。
ご先祖達が帰りに迷うと言われるので、真っすぐ家に帰ります。家に着くと
一番に祭だんに、線香を立てて﹁どうぞ、ゆっくりして下さい。﹂とお参りし
ます。
お盆の間は、すりょうぐというきれいな器に食事をまつった物やローソク、
線香、お水などを何度もお供えします。そしてお寺からお坊さんに来て頂い
てお経を上げてもらい供養してもらいます。
子供には、これだけのご先祖さんがいつも見守っていてくれる事、ご先祖
さんが悲しむことはしないように話したりするそうです。
﹁孫達には今自分が生きているのは、父さん母さんだけでなく、父方、母方そ
れぞれの大勢のご先祖さんがいたおかげである事を知って欲しい。また、ご
先祖さんに感しゃして、自分を大事にして生きて欲しい。﹂とおばあちゃんは
話してくれました。
おばあちゃんは戦争も経験しているので、命や食べ物の大事さ、ありがたさ、
今の生活がどんなに豊かで幸せな事なのかをよく分かっています。僕たちに
はあたり前の便利な生活が地しんや津波、戦争ではあっという間にこわれて
しまいます。今の生活がいつまでも続くとは限りません。家族がいつまでも
元気でそばにいるとは限りません。
家族、友達、町の人、みんなが生きている今に感謝して、おばあちゃんの言
うように、自分を大事にして、周りの人も大事にして、ご先祖さんが喜んで
くれるようにしっかり生きていきたいと思います。
-11-
て出て、みんなはたすかったそうです。きっとうれしかったでしょうね。
まえの土をさすと、水がわいて出てきました。それから、ずうっと水がわい
わたし の お う ち の む か し ば な し
銅賞︵ 小 学 校 の 部 ︶
徳島文理小学校 一年 ふじもと すみれ
をあげた人もいたことをわすれないで大きくなっていってくださいとね。
おはなしのおわりにおじいちゃんはいいました。いっしょうけんめい人げ
んのためにはたらいてくれたおぼうさまがいたこと、その人においしいお水
が出るようにしてくれたんだとおもいます。
でいったんだね。そのこころが、おぼうさまにつたわったから、ちかくに水
だいじにするこころをもっていたから、じかんはかかるけど、たにのそこま
たくて、たにまでくみにいったのだといいます。がんばっているえらい人を
あたらしくてつめたくておいしい水を、つかれたおぼうさまにのんでもらい
とのむ水はあったとおもうそうです。だから、むかしのふるいおじいちゃんは、
なことにつかうので、むかしはいえに水をくんでかめにためていたから、きっ
﹁でも、ちょっとだけふしぎなところもある。﹂としんけんです。水はいろん
とわたしがいうと、おじいちゃんは、
おはなしがおわって、
﹁じいじちゃん、おいしい水をたびのおぼうさまにあげれてよかったね。
﹂
﹁素水﹂ってじをかいて、
﹁しらみず﹂とよんでいたそうです。わ
むかし、
たしのおじいちゃんのおうちのなまえは﹁素水 ソ
( ミズ ﹂)です。むかしから
いいつたえがあって、本やしんぶんにのったことがある、こうぼう大しさま
のおはなしを、白水のおじいちゃんがわたしにつたえてくれました。
大むかしのあつい日、一人のえらいおぼうさまが、山の中をたびしつづけ
ていました。ずうっとあるいていて、のどがかわいてしかたなかったけど、
どこにも水をのむところはなっかたそうです。ないてしまいそうです。
あつくて、くるしくて、こまったなあとおもっていたら、一けんだけいえ
が見えたのです。おぼうさまは、いえのまえで、
﹁たびのものじゃが、水を一ぱいもらえんかいのう。
﹂
というと、いえの中から出てきた人がいいました。むかしのふるいおじいちゃ
んです。
﹁いいですよ。あつかったでしょう。水をあげますから、ちょっとまってくだ
さい。
﹂といいました。やっと水がのめるぞ。すぐだとおもったら、なかなか
いえの人はもどりません。どうしたのかとおもっていたら、やっと木おけに
水をくんできて、のませてくれました。つめたくて、おいしい水でした。水
がくるまでながいじかんかかったので、おぼうさまは、
﹁水は、どこからくんできたのですか。
﹂
とたずねると、
﹁あのたにのそこからくんできました。
﹂
そういったのです。それをきいたおぼうさまは、もっていたつえで、いえの
-12-
銅賞︵ 小 学 校 の 部 ︶
母子を つ な ぐ 遊 山 箱
徳島文理小学校 六年 近藤 千洋
遊山箱。私の素敵な宝物入れの名前を知ったのは、つい最近のことだ。小
さいころ両親がプレゼントしてくれたもので、その時、お弁当を入れる重箱
と教えてもらったことだけは覚えている。なので、三段の箱におもちゃの野
菜や果物、ビーズなどを入れて、よくままごとをして遊んだ。金具の持ち手
がついた赤い花柄の木箱。中の赤黄緑と上品な色にぬられた三段重ねの箱は
見た目も作りも美しく、他のおもちゃとはちがっていた。いつのころからか、
箱の中身はアクセサリーや小物など、大切な物を入れる宝物入れに変わった。
今年の阿波踊りを見に行った日の夜、私が夜店ですくった宝石を箱に入れ
ていると、
﹁ちいちゃん、その箱、遊山箱って言うんよ。
﹂
と母が教えてくれた。母の話によると、徳島では昔、ひな祭りにお弁当をつ
めた遊山箱を持ち子供達だけで野山に遊びに行く風習があったそうだ。︵子供
達だけでピクニックなんて探検みたい︶と思っている私に母が言った。
﹁お母さんは使ったことないけど、おばあちゃんなら使ったことあるかもしれ
んな。
﹂
次の日、
私は近所に住む祖母を訪ねた。祖母は今年で八十才。植物が好きで、
きれいに手入れされた庭にはいつも季節の花が咲いている。話し好きで、いっ
しょにいると時間を忘れてしまうほど話題豊富だ。さっそく遊山箱のことを
聞いてみた。祖母はなつかしそうに話し始めた。祖母の遊山箱は小さな黒い
木箱に私のと同じ色ちがいの箱が三つ入っていたこと。戦後の物の少ないこ
ろだったため、妹は普通の重箱を代わりに使っていたこと。
祖母は小さいころ徳島市の佐古に住んでいた。ひな祭りには二人の妹と遊
山箱を持ち、近くの諏訪神社に出かけたそうだ。桜の花のつぼみがふくらみ
始めた木の下で、石段に座り遊山箱を開けるときの気持ちはそれは幸せだっ
たそうだ。中身は祖母の母が作った巻きずしと卵焼き、野菜の煮物。特にう
れしかったのは赤青白に色付けした寒天ようかん。味はどれも格別においし
かったと話す祖母の顔は、うっとりして子供のころに戻ったようだった。
五人兄弟の長女で、忙しい母に代わり小さいころから弟や妹の面倒をよく
見ていた祖母。きっと、祖母の母はひな祭りのおめでたい日に、そんな娘の
成長を感謝し、心をこめて遊山箱にお弁当をつめたのだろう。その遊山箱に
入った母手作りのささやかなごちそうが食べられることを祖母はとても楽し
みにしていたのだ。その時の喜びは七十年以上たった今でも祖母の心に残っ
ている。遊山箱の思い出とともに母を思い出し、胸がほんわかと温かくなっ
ていたにちがいない。私は会ったことのない祖母の母を近くに感じ、うれし
くなった。そして、なんだか急に家に帰って私も母の作るご飯が食べたくなっ
た。
徳島の子供と母をつなぐ愛情のたっぷり詰まった宝物入れ、それが遊山箱
だったんだ。
-13-
銅賞︵ 小 学 校 の 部 ︶
オッパ シ ョ 石
徳島文理小学校 六年 井上 裕稀
オッパショ石の伝説がいつごろから伝えられているのか、私は知らない。
でも、八十六歳になる祖父が小学生のころには知っていたというから、少な
くとも八十年以上前からあった伝説なのだろう。
今の徳島市西二軒屋町に大小のお墓が並んだ一角がある。オッパショ石は
今もそこにひっそりと立っているそうだ。
﹁当時、その辺りは、なみだ町と言っていてな。近くを通る人に﹃オッパショ、
オッパショ﹄と話しかけるんだよ。
﹂
祖父は子どものころを思い出すかのように、ゆっくりと話し始めた。それ
はこんな内容だった。
石は力士の墓だった。墓を建てた当初は何も起こらなかったが、三カ月く
らいたってから石がしゃべり始めたというのだ。
夜遅く付近を人が通りかけると﹁オッパショ、オッパショ﹂という声が石
から聞こえてくる。そんな奇妙な話が広がるにつれてみんな怖がり、石があ
る所を通る人はいなくなったという。
その話を聞いた相撲取りが、本当かどうか確かめるために石を見に行った。
そうすると聞いていた通り﹁オッパショ、
オッパショ﹂としゃべり始めたので、
相撲取りは言う通りにおぶってやった。歩き出すと最初は軽かったが、一歩
進むごとにずしりと重くなってくる。とうとう耐えられなくなって地面に投
げつけた。石は真っ二つに割れ、それ以後、声はしなくなったそうだ。
﹁わしも子どものころ、友達とそこを通ることがあってな。うわさ通り、その
石が確かにあったことを覚えとる。
そう話す祖父に私は
﹁おじいちゃん、通る時は怖くなかったの。﹂
と聞いてみた。すると祖父は
﹁そんな気持ちは全然なかったなぁ。考えてもみろ、石がしゃべるはずがない
だろう。﹂
とわらいながら答えてくれた。でも私はなんだか背筋が寒くなった。
父も子どものころ、オッパショ石の話を祖父に聞かされたことがあったと
いう。家からそう遠くないところにあるので、行ってみようということになっ
た。私は覚悟を決めて父に付いていった。
本当にあった。その石は私よりずっと背が高く、真ん中に裂け目が入って
いる。前面に﹁南無妙法蓮華経﹂と刻まれていた。案内板もあり、タヌキの
霊をまつった石と書かれていて祖父の話とは少し違っていた。私も石がしゃ
べるなんて絶対ないと心では思っていたが、実物を目の前にすると、本当の
ことのように思えた。
オッパショ石の伝説が、妖怪漫画家の水木しげるさんの作品にも載ってい
ることを後で知った。徳島にそんな有名な話があったなんて。私は友達にも
話してあげようと思った。
-14-
銅賞︵ 小 学 校 の 部 ︶
ひいお ば あ ち ゃ ん の 昔 話
松 茂 小 学 校
五年
松屋
日向子
わたしのひいおばあちゃんは、大正六年七月生まれで、とても元気です。
今九十六才です。やすこばあちゃんは、鳴門の黒崎の﹁たび屋﹂の生まれで、
代々うけつがれている酒屋にとつぎました。﹁森酒屋﹂と言って、
六代目でした。
森は昔、岡崎港に続くむや街道の入口にあり岡崎港は大阪へ行ききする人
が多くまた、四国八十八ヶ所まいりの出発点で店の前には社のついたお地ぞ
うさんと、へんろ道の石印の一番があります。岡崎は港町で人でにぎわい旅
館もたくさんあり造船所で働く人々や徳バスの出発点であり、夜もにぎやか
で店もはんじょうしたそうです。
森は大昔の海ぞくであり、森水軍が先祖です。昭和五十二年ごろお墓に金
銀財宝があるかもしれないとほらせてほしいといわれてほったのですが、何
もなかったそうです。
森酒店は、代々小売業をしていましたが、戦争中は配きゅうで売る酒がなく、
色々な所で安い酒をかってきたりとても苦労したと聞きました。
酒は、﹁種類小賣業免許證﹂︵小売免証︶がなければ酒はうれませんでした。
昔、
今ではスーパーマーケットでうられるようになり酒店が少なくなって、やす
こばあちゃんが生まれた家のタビ屋も洋服になりタビをはかなくなったので、
鳴門産業とともに無くなりました。やすこばあちゃんは、色々な経験をして
いたそうです。
そして、やす子ばあちゃんが子供のときにしていたじゃんけんの歌も教え
てもらいました。題名は、
﹁徳道のわらべ歌﹂です。その歌は、
﹁子供と子供がけんかして おやおや親が怒って人さんのあいさつなかなかす
まんとおっしゃって おエビスさんが酒飲んで すました すました。﹂
です。手はちょんちょんと指の先をあわせて遊びます。そして、最後にジャ
ンケンをします。わたしは、やすこばあちゃんに他にも教えてもらいました。
題名は﹁一かけ二かけて﹂です。
﹁一かけ 二かけて 三かけて 四かけて 五かけて 橋をかけ 橋のらん干
手を腰に はるか彼方を 眺むれば 十八七の 姉さんが 花と線香を
手に持って もしもし姉さん どこ行くの 私は九州の かご島の さいご
うたかもり むすめです 明治十年の 戦役に 切腹なさった 父上の お
墓の前で 手をあわせ 南無阿弥陀仏と 拝みます お墓の前には たまし
﹂
いが ふうわりふわりと ジャンケンポン。
です。遊び方は、歌をうたいながら二人ですわって手を動かしながらおどり
ます。最後にジャンケンをします。やす子ばあちゃんは色々経験していてもっ
と話を聞いてみたいです。
-15-
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
昔の話 ∼ 塩 田 に つ い て ∼
藍住北小学校 六年 松田 瑞穂
私は、鳴門市が昔、塩田というのがさかんにおこなわれていた話を私の祖母、
尾崎公子六十四才から、鳴門市の、祖母の家で聞きました
まず、塩田というのは、塩を作る田の事で、初めは、入浜式、次に、流下
式という二通りのやり方で塩を作っていたそうです。
入浜式は、田に海水をまき、日光を当てて、海水を蒸発させ、塩を作るのを
くり返すやり方でおよそ三百六十年間も続いていたそうです。一方、流下式
は昭和二十八年、五年もの間計画し、開発したやり方だそうで、
﹁塩がよく取れる。
﹂
﹁生産量が増える。
﹂
﹁重労働が少なくなる。
﹂
という事で、多くの人が流下式を使うようになったそうです。そのやり方は、
まず、笹を家の屋根のように重ね、その上から海水を流しておき、塩を取り
やすくしたそうです。
祖母によると、
﹁それをくり返して、塩の濃度をこくしたのではないか?﹂
と言っていました。
しかし、その便利な流下式も、出来て十年後に終了したそうです。それか
らは、直接海水を工場に送り、塩を作るようになったそうです。
でも、今ではその面影はどこへやら。の土地は、マンションや住宅地、サッ
といろんな建物がたち並び、面影がまったく無いため、今
カー場に野球場 …
では、市民の半分も知らないのでは?と考えるようになってしまいました。
私は、この作文を通して思ったことは、塩田だけではなく、今後残してお
きたい文化、伝統は、その面影をきちんと残しつつ、なおかつ、人が快適に
暮らせるよう、考えながら、この徳島県がどんどん発展していって欲しいなぁ
と、改めて思いました。
-16-
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
ひいば あ ち ゃ ん の お よ め い り
藍 住 西 小 学 校
二年
山田
ひかる
ひいばあちゃんのおよめいりは、今から六十五年前のことです。
およめいりの前の日に、二人のかみゆいさんが朝早くから夜まで、そして、
およめいりの日は、その二人が午前三時にきてくれ、二日がかりでかみをゆっ
てくれ、ふりそでをきせてくれたそうです。
およめいりは夕がた四時ごろで、下大野のいえを出て、今の広いみちがなかっ
たので、むかしのせまい大野のぎんざ通りを歩いて上大野のひいじいちゃん
のいえに行きました。そのころは、ふりそでをきる人がすくなかったので、
たく山の人が見にきたそうです。
むかしは、大八車と言うのがあって、その車ににもつをのせて、人がひいて
行きました。ひいばあちゃんのよめいりどうくは、車十だいぐらいあったそ
うです。
ひいじいちゃんのいえにつくと、ちょうちんにひをつけて、ご近じょまわり
をしました。その後、けっこんしきをしたのですが、たくさんのおきゃくさ
んがきてくれ、朝までかかったそうです。
ひいじいちゃんは、おとうさんとおかあさんとおじいさんとおばあさんと五
人のきょうだいが一しょにすんでいました。ひいばあちゃんは、その後、じ
分の子どもとひいじいちゃんの小さいきょうだいも一しょに子そだてしたそ
うです。
とてもまずしくて、それはそれは大へんだったけど、一生けんめいがんばっ
たそうです。
今は、わかいふうふが大切にしてくれて、ひいじいちゃんのおんきゅうも
あるので、しあわせだそうです。
これからも、元気でいてほしいです。
-17-
こをしてあそびました。むくの木は、どんどん大きくなって村で一ばんせい
が高くなりました。それなのにかみなりがおちません。それは、となりのお
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
とんで じ ぞ う と む く の 木
じぞうさんが、かみなりが大きらいで、ゴロゴロなると、かみなりをにらんで、
木と村を大じにまもっていこうと思います。
のに井どをほり、ていぼうをつくりました。ぼくも、おじぞうさんとむくの
を見てきたから、わすれてはダメだと言いました。昔の人は、きかいもない
に行きなさい。むくの木にさわってきなさいといいます。八百年も村のこと
す。おじいちゃんは、ぼくたちが北今宿にかえった時は、かならずおまいり
きょ年と今年は、おじぞうさんとむくの木をおまつりするやくのとうばんで
おじぞうさんは、村人をまもり、むくの木は、村をかみなりからまもりま
した。だから村人は、
大じいまもってきたのです。おとうさんもやく年なので、
ありません。むくの木とおじぞうさんは、なかよしなのです。
こっちへくるなとおこるからです。だから村には、かみなりがおちたことは
藍住東小学校 二年 吉田 泰規
八十二さいです。ひめじしの北今宿にいます。北今宿には、
おじいちゃんは、
村の人が大じにまもっているものが二つあります。おじぞうさんとむくの木
です。むくの木は、ひめじで二ばん目に古い木で、八百年もたっているそう
です。どうして大じなのか、おじいちゃんにききました。
北今宿には、むかし、ゆめさき川という大きな川がながれていました。雨
がつづけてふると、川の水があふれて村中水びたしになります。天気がつづ
くと田畑に水がなくなりこまりました。そこで、井どと大水をふせぐていぼ
うをつくることにしました。
まず、井どをほりました。川の近くなので石がたくさんでました。今でも、
そのへんは河原と書いて﹁ごうら﹂とよびます。石がごろごろ出るからです。
ある日、ほっているとたくさんの石の中から手のひらにのるほどの石が﹁ぴょ
こーん﹂ととびだしてきました。みなおどろいて石をよく見ると、上がすこ
しかけて、下は、おじぞうさまににていました。それでその石をおじぞうさ
んとして、おどうをつくっておまつりしました。ぴょこーんととび出てきた
ので、
﹁とんでじぞう﹂と名前をつけました。どんなに雨がふらなくてもその
井どは、水がいつもいっぱいあるのです。そしてふしぎなことに、村の井ど
もかれなくなりました。村の人は、みなよろこびました。おじいちゃんの家
の井どもかれません。
井どができたので、井どの外がわに、ていぼうをつくりました。ていぼう
には、くずれないように、むくの木をうえました。むくは毛虫がつかないし、
みがたべられるからです。子どもたちは、夏は木かげで、ふゆは、ひなたぼっ
-18-
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
ひいば あ ち ゃ ん か ら 聞 い た む か し の 話
藍 住 南 小 学 校
三年
山田
凌聖
ぼくは、とく島市ないにすんでいる、ひいばあちゃん︵西テル子、しょう
わ三年生まれ八十五才︶に、おばあちゃんが子どものころの話を聞いてみま
した。
おばあちゃんは、むかしは、かみなか町という山おくにすんでいました。
むかしは、小学校の事を、じんじょう高とう小学校といっていたそうです。
ランドセルはなくて、ふろしきに本やえん筆をつつんでもって行ったそうで
す。せい服もなくて、着物を着て行っていたそうです。くつもなくて、おじ
いさんに作ってもらった、わらぞうりという、わらで作ったくつをはいて行っ
たそうです。
きゅう食もなくて、家からごはんとうめぼしをもって行って食べたそうで
す。おやつはさつまいもやじゃがいもを食べていたそうです。おかしやアイ
スクリームはなかったそうです。
どんな事をしてあそんでいたかを聞いてみると、竹とんぼや、竹と木ですべ
り台を作ってあそんだりしていたと言っていました。
ぼくは、ゲームはなかったのか聞いてみると、そんな物はむかしはなかった、
と言っていてびっくりしました。おふろやトイレも家の外にあったと聞いて
びっくりしました。山からとってきた木をもやして、おふろのおゆをわかし
たり、ごはんをたいたりしていたそうです。
おばあちゃんが子どものころは、せんそう中だったそうで、色いろとせんそ
うの話もしてくれました。
B29という、ばくだんを落とすひこうきがとんでくると、木のかげに
かくれたりしていたそうです。人間はかくれていたけど、田んぼにいる牛が、
ばくだんを落とされてたくさんしんだそうです。
おばあちゃんのお兄さんも赤紙という、へいたいに行かないといけない手
紙が来て、とうなんアジアの方へへいたいに行って、しんでしまったそうです。
ひいじいちゃんも、中国にへいたいに行って、てっぽうで足をうたれて、
太ももにあなが開いたそうです。
ひいばあちゃんは、こんなかなしいせんそうが二どとおこらないように、
今は食べる物が何でもあって、本とうに平わな時代だ、と言っていました。
ぼくは、こんなしあわせな時代に生まれて本とうによかったな、と思いま
した。ひいばあちゃんに聞いた今日の話をわすれずに、これからは、あまり
ぜいたくをしすぎないように、かんしゃの気もちをわすれないようにしてい
こうと思いました。
-19-
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
昔の遊 び や 生 活 の よ う す
生比奈小学校 六年 青木 耀大
ぼくは、一緒に生活しているおばあちゃんとおじいちゃんに話を聞かせて
もらいました。昔は子どもがたくさんいたので、近所にいっぱい友達がいた
そうです。そのころはお友達と家の外に出てよく遊んだそうです。
おばあちゃんは、なわとびをしてよく遊んだそうです。それに﹁かげふみ﹂
という遊びもよくしました。また、お手玉もしていました。三つのお手玉で
友だちと競い合っていたそうです。けまりやあやとりもよくしていたそうで
す。
今ならくつやスリッパでしていますが、おばあちゃんが子どもの頃は、わ
らぞうりを上に放り投げて、
﹁表が出たら晴れ、裏が出たら雨﹂という遊びも
していたそうです。
ぼくが意外だと思ったのは、おばあちゃんの頃にもトランプはすでにあっ
て、よくあそんでいたということです。
男の子は﹁めんこ﹂をしてよく遊んでいたそうです。今で言ったらカード
のようなものですが、遊び方はカードとは全然違っていて、相手のめんこを
すくったり、ひっくり返すといいんだそうです。それに、
﹁ばい﹂というこま
回しも男の子はよくしていたそうです。今は、プラスチックや木でできてい
るものが多いですが、
﹁ばい﹂は、いものという鉄でできていたそうです。
たまにチリンチリンと鳴らしながら、自転車でアイスクリームを売りにき
たそうです。でも、おばあちゃんの家は山の上にあって、お金をもらいに坂
道を上がって家まで取りに帰るのがつらかったそうです。
昔は、今のように店があまりなかったから、柿や椎の木の実を食べたり、山々
で取れた果物などでお腹を満たしたりしておやつがわりにしていたそうです。
家には水道が無かったので、谷まで水をくみに行っていたそうです。それに、
勉強より家のお手伝いをいっぱいしていたのだそうです。特に農繁期には、
田植えや稲刈りを手伝って、家族みんなが助け合っていたそうです。
昔のしきたりについてもおばあちゃんとおじいちゃんに教えてもらいまし
た。
体の悪いところがあったりしたら、神社に﹁願かけ﹂という願い事をして
を食べないようにして、
いて、良くなれば、﹁お礼参り﹂などをしていたんだそうです。おばあちゃん
は、耳が悪かったから、嫁に行くまでは、お雑煮の
願かけをしたりしていたそうです。
おじいちゃんが言っていたのですが、一月七日には、農家の家は農作物が
よくできるようにと、畑にお参りしていたそうです。
おばあちゃんやおじいちゃんに話を聞くと、今とは全然違う生活の様子は
よくわかりました。ぼくが一生懸命に話を聞くと、おばあちゃn やおじいちゃ
んは、昔の事を思い出しながら、とてもにこにこと笑いながら話をしてくれ
ました。
-20-
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
手作り お も ち ゃ を 作 っ た よ
池 田 小 学 校
三年
井上
陽和
わたしは友だちやきょうだいと遊ぶのが大すきです。夏休みは近所の友だ
ちやきょうだいといっぱい遊びました。家にはおもちゃがいっはい。この前
もわたしはゲームのソフト、弟はミニカー、妹は魚つりのおもちゃを買って
もらいました。遊んだままでかたづけをしてないこともよくあります。また、
出しっぱなしにしていてお母さんにしかられました。そのとき、おじいちゃ
んとおばあちゃんが子どものころのことを話してくれました。
おばあちゃんはお手玉、あやとり、きせかえ人形、おはじきやけんけんぱー
などをよくしていたそうです。とくにお手玉がとくいだったと言っていまし
た。おじいちゃんはきょうだいでへいたいごっこをするのが楽しかったみた
いです。かんけり、なわとび、かくれんぼ、竹馬、木のぼりなどもよくしていて、
たちめんというめんこによくにたおもちゃも手作りしたそうです。おもちゃ
は、あるものや自分で作ったもので遊んでいたそうです。
わたしはおもちゃ
を作って遊んだことがほとんどありません。そこで、おじいちゃんといっしょ
に竹とんぼを作ってみることにしました。まずはじめに、切ってきた竹を2
センチメートルぐらいの細さにわりました。ここからが大へんです。竹とん
ぼの羽にするためにうすく、うすくしていきます。小刀を使って切りました。
はじめて使う小刀はむずかしかったです。おじいちゃんがするとかんたんに
どんどん切れるのにわたしがしてもなかなか切れません。すぐにゆびがいた
くなりました。手つだってもらいながらけずっていくと、だんだん竹とんぼ
らしくなってきました。羽は軽いほどいいのでなるべくうすくして、いらな
いところもけずりました。おじいちゃんはいろいろなことを知っています。
羽のはばは二.三センチメートル、長さは十四センチメートルぐらいにする
とよくとぶと言っていました。じくとのバランスも大切で、十七センチメー
トルぐらいの細い竹のぼうをつけました。
かんせい。いよいよとばしてみます。手のひらでぐるぐる回して、パッ。
いきおいをつけて、はなしました。でも、わたしの作った竹とんぼは、すぐ
下に落ちてしまいました。おじいちゃんの作った竹とんぼは、ふわっと高く
とんでいきました。
﹁うわぁ。﹂
思わず声が出ました。おじいちゃんはすごいなあと思いました。それから、
のこった竹で竹馬も作ってくれました。
今はおもちゃがほしいと思ったらかんたんに手に入ります。しかし、むか
しはほとんどのおもちゃを手作りして大切に使っていたことがわかりました。
自分で作るのは本当に大へんです。わたしは、家にあるおもちゃの整理をす
ることにしました。たくさんありました。これからは、このおもちゃを大切
に使っていこうと思います。そしておじいちゃんといっしょに竹馬の練習を
しようと思います。
-21-
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
﹃がん ご じ ﹄ が 来 る ぞ !
石井小学校 三年 横畠 惺
﹃がんごじ﹄が来るぞ!﹂
﹁
夕方おそくまで遊んでいる時や、テレビを見てなかなかねない時、おぼん
に川遊びがしたいと言った時、穴吹のじいちゃんによく言われる。ぼくの心
の中で﹁そんなのおるはずない!﹂と思うけれど、やっぱり少しこわい。
﹃がんごじ﹄ってなに?﹂
﹁
と聞くと、じいちゃんは﹁ごっついこわい顔しとるんじゃ﹂とか﹁まっ赤な
顔して追わえてくるんじゃ﹂とか言う。聞くたびにすがた形がかわる。それ
がまたこわい。うそだと思うけれど、じいちゃんがしんけんに言うので、やっ
ぱりこわい。ばあちゃんは横でにこにこわらってるけれど。
そこで、
﹃がんごじ﹄についてじいちゃんとくわしく調べることにした。じ
いちゃんこと﹁横畠康博﹂さんは昭和十一年生まれの七十七歳だがパソコン
がとくいだ。パソコンでねんが状やあんない状をちゃちゃっと作ってしまう。
すごいじいちゃんだ。ぼくとじいちゃんは、インターネットで﹃がんごじ﹄
をけんさくしてみた。
がんごうじ と
﹁がんごじ・がごじ﹂とも
) いうお寺がある。
奈良に元興寺 (
言われているようだ。そのお寺のかねつき堂に出た鬼のことが伝説としての
こっている。それが人々のうわさとして古くから伝えられていたそうだ。子
どもにいうことを聞かせるために、おどしとして鬼の話をしたり、鬼のよう
なこわい顔をしたという。じいちゃんも子どものころ、おじいちゃん ぼ
(く
にとってはひいひいじいちゃん か
) ら﹃がんごじ﹄のことを聞いていた。ぼ
くのお父さんも、じいちゃんによく言われたと言っていた。
﹃がんごじ﹄は幼児用のことばで、足を﹁あんよ﹂とか魚を﹁びんび﹂とい
うようなものと同じだそうだ。なぜ﹃がんごじ﹄
という名前なのか分からなかっ
たけれど、お寺の名前がもとになっていたんだ。おもしろいと思った。じいちゃ
んといっしょに一度、奈良にある元興寺のかねつき堂へその伝説をたしかめ
に行ってみたいと思う。
じいちゃんは、おもしろい話をたくさんしてくれる。じいちゃんが子ども
だった時の話や、お父さんが小さかったころの話。中にはうそか本当か分か
らない話もあるが、じいちゃんは話し方が上手だから、ぼくはすぐに信じて
しまう。だから、﹃がんごじ﹄の正体が分かった今でも、
﹁﹃がんごじ﹄﹂が来るぞ!
じいちゃんに言われると﹃がんごじ﹄が近くにいるような気がする。やっぱ
り少しこわい。
-22-
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
無題
牛島小学校 五年 礼美
私は、お年寄りの人に、昔の言い伝え、しきたり、昔遊びなどをいろいろ
聞きました。私は、この話を聞いて、私が今まで知らなかったことが、たく
さんありました。また、とてもびっくりするお話も、たくさんありました。
昔の言い伝えでは、阿波 徳
(島 に
) は阿波たぬきがたくさんいると聞きまし
た。そのたぬきが、たぬき合戦をするそうです。これを聞いて私は、阿波た
ぬきがいて、たぬき合戦をするなんて、ありえないと思いました。でも、私
の住んでいる吉野川市にも、たぬきがいるのかなあと思いました。また、た
ぬき合戦も見てみたいです。また、こんな言い伝えもありました。男性が女
性に を送るのは、プロポーズの意味があるそうです。反対にはのおれた
を拾う
の
には身代
を相手に送るのは別れの意味があるそうです。それに、落ちている
のは、いけないそうです。なぜなのかなと思って聞いてみると、
わりや別れのしょうちょうなどの意味があるそうです。その、いろんな
言い伝えにびっくりした理由は、 にはちょっとしたことでいろんな意味が
あるからです。 がわれていないと、プロポーズの意味。 のはがおれてい
ると、別れるという意味。のようになっているから、びっくりしました。
昔のしきたりでは、女の人は男の人より、さきにおふろに入ったらいけない、
というのがありました。また、
ご飯は、
お年寄りより、
さきに食べてはいけない、
など他にもたくさんありました。私は、このしきたりが今でもあったら、お
ふろもさきに入られないし、ご飯も、待たないといけないので、いやになっ
てしまうと思います。なので、昔の人は大変なんだと思いました。
昔遊びでは、たくさん聞きました。はねつき、こままわし、けん玉、おて玉、
めんこ、竹馬、竹とんぼ、おはじき、ビー玉、あやとり、まりつきなど、今でも、
知られている遊びです。私は、1、2年のとき、学校におじいさん、おばあ
さんが来て、昔遊びのことを教えてもらったことがあります。でも、なかな
か上手にできないし、
ずっとこの遊びをしていたらあきると思います。なので、
ゲーム好きの私は、こんなに遊び続け、今でもみんなが知っているような遊
びを作ったり考えたりした人は、とてもすごいなあと思います。
私は、お年寄りの人たちに、いろんな話を聞いて、とてもよかったと思い
ました。理由は、昔の話をたくさん聞いて勉強になったし、お年寄りの人と
接することができたからです。また、これからは、ゲームばっかりしないで、
昔遊びなどをしたいです。話をしてくれた菅イシエさん。ありがとうござい
ました。
-23-
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
﹁ひい お ば あ ち ゃ ん の は な し ﹂
内 町 小 学 校
一年
やまもと
さおり
わたしのひいおばあちゃんは、
87さいです。80ねんまえ、
ひいおばあちゃ
んは、さだみつのおおたしょうがっこうのいちねんせいでした。ことしの4
がつに、わたしは、1ねんせいになりました。それで、ひいおばあちゃんが、
しょうがくせいのころのはなしをきいて、みんなにつたえようとおもいまし
た。
しょうわ6ねん、ひいおばあちゃんが、しょうがっこう1ねんせいのとき
には、えんぴつやノートはありませんでした。かわりに、せきひつやせきば
んを、つかっていました。さいしょにならったじは、カタカナで、
﹁ハナ﹂、
﹁ハ
ト﹂でした。つぎに、
﹁マメ﹂
、
﹁マス﹂をならいました。きょうかしょは、し
ろくろでした。
2ねんせいになって、しょうがっかんのカラーの、きょうかしょを、もら
いました。ほんのひょうしが、とよとみひでよしさんでした。ひらがなやく
くを、2ねんせいでならいました。えんぴつとノートもできました。しょう
わ7ねんに、いまのてんのうへいかがうまれました。そのとき、おたんじょ
うのうたを、うたいました。
らんどせるはなかったので、ふろしきに、きょうかしょをつつんでいきま
した。きものをきて、がっこうにいきました。ようふくを、きていってたのは、
しょうがっこう3ねんせいのときでした。くつではなくて、
わらぞうりでした。
つうしんぼは、
﹁こうおつへい﹂の3だんかいがありました。こうがいちばん
よかったそうです。
しょうわ12ねん、しょうがっこう5ねんせいのとき、ヘレンケラーが、
にほんに、はじめてきました。ひこうきは、あまりとんでいなかったそうです。
いまのように、くるまはなかったので、がっこうのせんせいはじてんしゃで、
きていました。せんそうがおわってからじどうしゃやばすがふえてきたそう
です。ばすはいちにちに、2ほんだけでした。じょうききかんしゃが、はしっ
ていました。
しょうがっこう6ねんせいのとき、しゅうがくりょこうが、ありました。
おおさか、なら、きょうとへいきました。おおさかじょうや、ならのだいぶ
つをみたり、えいがを、みたそうです。りょこうだいは5えんでした。むかしは、
1えんよりちいさい、1せんというおかねがありました。1せんで、てにいっ
ぱいのあめだまが、かえるじだいでした。しゅうがくりょこうには、くらす
のぜいいんはいっていません。いまのように、みんながいけるじだいでは、
ありませんでした。
ひいおばあちゃんからはなしをきいて、ものや、ふくがいまとちがうとお
もいました。おやつには、ほしいもや、あめだまやせんべいもあったそうです。
でも、いまのようにおみせにうっていませんでした。むかしとちがって、も
のがゆたかになったとおもいました。
-24-
野原になったそうです。ひいばあちゃんが住んでいたアパートがあったとこ
ろも全部焼けて、何ものこっていませんでした。いっしょに内しょくしたり
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
無題
北陸へ汽車に乗って買い出しに行ったりした大家のおばさんも、どこに行っ
なと思います。
私の知らない話、初めてきく話がたくさんありました。戦争の話も身近に
感じる事が出来ました。ひいおばあちゃんからもっといろんな話を聞きたい
今私が生きていられるのもひいおばあちゃんのおかげだと思います。
しゅうの前に徳島に帰ってきたひいおばあちゃんは、運がよかったと思うし、
そして私のお父さんや私もこの世には居なかったかもしれません。東京大空
東京にそのままいたらひいおばあちゃんは空しゅうで死んでいたかもしれ
ません。そしたら、私のおばあちゃんが生まれることはなかったでしょう。
たのかわからず会えませんでした。
海南小学校 四年 長尾 由子
﹁昔の話を聞かせて﹂と言うたら戦争の時の話をしてく
ひいばあちゃんに、
れました。
結婚してひいおじいちゃんと二人で、東京のどまん中の世田谷に住んでい
ました。東京でサラリーマンをしていたひいおじいちゃんは徳島の人なので
徳島の三十六連隊に召集されました。ひいおばあちゃんは、東京で一人にな
るので、後から徳島に帰りました。その時ひいおじいちゃんは、馬糧係で軍
そうでした。下から、二等兵、一等兵、上等兵、兵長、伍長、軍そうとあり、
ひいおじいちゃんは下士官なので、机に向かい書類をつくることが仕事で、
兵隊にくらべて楽だったそうです。
海南に帰ってきたひいおばあちゃんは、畑仕事をしながら、子育てをしま
した。海南にも飛行機が屋根すれすれに低空飛行して鉄ぽうで、ばんばんうっ
てきました。そのたびにこわくて近くの柱とかに、
﹁びょえ∼﹂と言ってかき
つきました。その飛行機はかんさい機といって大きな軍かんにつんでくる小
さい飛行機でした。見上げるとパイロットの目がギロッとこっちをにらんで
いるのが見えるほどでした。
そのころ女学校を軍事工場とまちがえて、落とした大きな爆弾がはずれて
近くの弘法寺の前に落ちていました。ものすごい音としん動で家のしょう子
がびりびりやぶれるほどでした。後で見に行ってみると、すりばちじょうの
大穴がぽっかりあいていて近くの木に飛ばされた牛がひっかっていました。
ひいおばあちゃんが徳島に帰ってきた後、東京大空しゅうがあり、アメリ
カの飛行機がいっぱい来て、十万人もの人がころされ、見わたすかぎり焼け
-25-
してくれなかったら、今でもこの地いきは、こう水になやまされていたかも
しれません。そう思うと、たけしじいちゃんがしたことは、すごい事だしほ
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
無題
いきたいです。
事や地いきのためにがんばった人々の思いを大切にし、これからも生活して
こりに思います。わたしはこの地いきが、大好きです。たけしじいちゃんの
)
神宅小学校 四年 上原 花音
わたしのひいおじいちゃんをしょうかいします。
わたしが住んでいる上板町神宅には、大山谷川という大きな川が流れてい
ます。この川は昔、天井川とよばれ、川ぞこがまわりの家の屋根より高かっ
たのです。そのため、台風や大雨になると、こう水になり人々を苦しめてい
ました。
上原 けい次・六十四才
その時の地いきのことを、わたしのおじいちゃん ( にくわしく聞きました。今はじょうぶな大山谷川も、昔は、台風や大雨のた
びに川がこわれ、津波のように多くの物が流されたそうです。家もこわされ
住むところがなく、たいへんだったそうです。
﹃はね木﹄という知えを考えだし、こう水とたた
そこで、地いきの人々は、
かったのです。
﹃はね木﹄というのは、木を切りたおし水のいきおいを弱め、
流れる向きをかえ、こう水になるのをふせいだのです。はね水をするために、
けがをした人もいて、命がけの作業だったそうです。
このままでは、けがをしてあぶないし、地いきがよくならないと立ち上がっ
たのが、わたしのひいおじいちゃんの、上原 たけしじいちゃんだったのです。
こう水にならないように川ぞこを二メートルほり下げようと町役場におねが
いに行きました。しかし、ほり下げるには、たくさんのお金がかかるため、
はんたいされてしまいました。でも、たけしじいちゃんたちは、あきらめず
におねがいをしつづけました。その熱い思いに心を打たれ川のかいしゅう工
事が行われ、今の平和な川があるのです。
もし、たけしじいちゃんが、川のかいしゅう工事をあきらめずにおねがい
-26-
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
むかし の 話
加茂小学校 三年 西 俊介
ぼくは、いっしょにすんでいるおばあちゃんから二つの話を聞きました。
一つはおまつりの話です。日本中にはいろいろなおまつりがありますが、
かもにも春まつりや秋まつりがあります。
まつりでは、だんじりと言う車に、きれいな着物をきた子どもが乗って、
たいこをたたきます。だんじりにもいろがみやテープできれいにかざりをつ
けて、たいこをうたない子や親たちがつなをひっぱって、町をじんじゃをめ
ざしてとおります。
おみやでは女の子が、み子のまいというのをおどります。とてもまつりら
しいまつりです。
ぼくのすむしんまちでも今では、子どもがすくなくなりだんじりもみこし
もでなくなりましたが、ほかのちいきでは、今でもこのまつりのためになん
日もまえからあつまって、れんしゅうをしています。
二つめは、大くすの話です。
みかも町には、大くすというなんねんかんも立っている大きなくすの木が
あります。その大くすには、
むかしからまもりがみの白いヘビがいるそうです。
そのヘビは、いつもは見えません。おまいりにいったときに出てくるときが
あるそうです。それをみたひとは、ねがいがかなうといういいつたえがある
そうです。
ぼくはともだちと大くす公園のところまであそびにいくこともたくさんあ
ります。おかねは、
いれないけどみんなでおがみます。だけど出てくることは、
ひとつもありません。ぼくは、白いヘビを見たことがないので、とてもみて
みたいとおもっています。また友だちとあそぶときにいって白いヘビを見て
みたいです。 -27-
﹁分かれ道はここじゃ。わしはこっちに行くから、おまはんはあっちに行きな。﹂
と言ったそうです。分かれ道を通ると、たしかにおじいさんが言ったとおり
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
昔話を 聞 い て
家についたそうです。家に入ろうとしたとき、山の上の方を見ると、赤いラ
おばあちゃんは、ぶじに家に帰れてよかったなぁと思いました。
ぼくも、この話を聞いた時とてもびっくりしました。この話を聞いて、お
もしろいとこもあったし、こわいところもあったので、それがよかったです。
と言ったそうです。おばあちゃんはとても、びっくりしたそうです。
部食べてかわりに、牛のふんをいれたんだ。﹂
﹁それは、たぬきがばかして、はらをすかせていたから、ふくろの中の物を全
母さんが、
しかも、お祭りからもって帰ってきた、食べ物のふくろの中をみると、食
べ物ではなく牛のふんがはいっていたそうです。そして、おばあちゃんのお
たそうです。
ンプみたいなものがうごいていたそうです。それは、たぬきのちょうちんだっ
加茂小学校 四年 川原 青依
ぼくは、昔のお話を聞いたり、本を読むことが大好きです。今日は、ぼく
のおばあちゃんから、こんな昔話を聞きました。
ぼくのおばあちゃんは三加茂町毛田きとうという、三加茂でも山のおくに
すんでいたそうです。
その日はお祭りで、家からずいぶん遠いけど下までおりてきて、祭りを楽
しみ、そろそろ暗くなる前に帰ろうと出発したそうです。もちろん、車では
なく歩いての山道。でも、おばあちゃんは歩くのが当たり前だったので、い
つものように山道を登りはじめました。 しかし、行けども行けども、いつ
もの分かれ道にとうたつしません。日がしずみはじめ、だんだんと暗くなっ
ていくことにも、不安を感じながらも、どんどん進んで行きました。まよっ
ていると中、たき木をせおったおじいさんがいました。そのおじいさんは、
﹁こんなに暗いのにどこに行ってるの?﹂
と聞きました。おばあちゃんは、
﹁家に帰っているんだけど、いつもの分かれ道につかなくてまよっているんで
す。
﹂
と言いました。おじいさんは、
﹁この上に行っても家もなんにもないよ。
﹂
﹁それはたぬきにばかされとるわ。ついてきな。
﹂
と言ったそうです。おばあちゃんは、
﹁え∼っ﹂
と言って、おじいさんについて行ったそうです。おじいさんは、
-28-
収かくをお祝いする﹁おいのこさん﹂という行事もあったそうです。お米が
とれる時になると、畑で飛び回る白い虫を﹁おいのこバエ﹂と呼んだそうで、
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
昔の話 を 伝 え て い こ う !
とれた野菜でおすしを作ったり、もちをついたりしてくれて、おばあちゃん
おじいちゃんやおばあちゃんが、どんな生活をしてどんなものを大事にし
て、あんなにやさしい人になったのか少し分かりました。
いました。
と思います。でも、れいぎやあいさつをとても大切にしていたんだなあと思
食べられなかったそうです。なんだか、男の人がえらいようでおかしいなあ
全員がそろい、一番年上の人がおはしをとって食べはじめなければ、だれも
上のざしきには男の人がすわり、女の人は板の間にすわったそうです。家族
勢の友達と遊んでいたんだなと思いました。 変だなあと感じるしきたりも
ありました。食事をする場所には、上のざしきと下の板の間があったそうです。
ゴム跳び、ビー玉、おはじきなどで遊んだそうです。土や石、自然の中で大
遊びについてもきいてみました。かくれんぼやおにごっこは、ぼくと同じ
です。他には、缶けり、くぎ立て、人間糸取り、めんこ、石けり、川遊び、
ました。
は子どものころ、うれしかったそうです。おいのこの歌もあって歌ってくれ
加茂名南小学校 五年 細井 康平
ぼくの周りには、とてもやさしいお年寄りの方がたくさんいます。まずは、
ぼくの事をいつも大事にしてくれる二人ずつのおじいちゃんおばあちゃん。
それから、おじいちゃん達の兄弟のおじちゃんおばちゃん。毎日のように声
をかけてくれる近所のお年寄りの方です。どの人もどの人もとてもやさしい
です。
ぼくの家のおじいちゃん達に昔の話をいろいろと聞かせてもらいました。
ぼくが、おもしろいなあと思ったのは、たぬきの話です。じいちゃんの住
む神山の大埜
地の山には、
﹁お染だぬき﹂が住んでいて、そのあたりでだれか死んだ人が出
ると、お染めだぬきたちも、ちょうちん行列をしておくやみをしてくれ大埜
地の山に小さく灯がともるのだそうです。たぬきって本の中だけじゃなく本
当にそんな話があるんだとおどろきました。
おばあちゃんのお父さん が
) 一番に起きて、ちょうけの
お正月には、家長 (
たるに、しめ縄をはり、清水をくんでその水でおぞうにをたき、みんなで食
べたのだそうです。年上の人順に、その清水で顔を洗ったそうです。年下の
者は、年上の人に一人ずつ正座をして
﹁おめでとうございます。
﹂
と言わなければいけなかったそうです。
ぼくも剣道の時には、正座で手をついてあいさつをしますが、家の中でも、
そんなきまりがあったんだなあと思いました。
初もうでや、節分の豆まき、七夕祭や秋祭り、辰の祭りは、今も続いています。
-29-
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
﹁心をつなぐ宝物﹃川崎しし太こ﹄﹂
ここにぼくは住んでいる。そして、じいちゃんはよく言
川崎小学校 五年 梅本 竜次
三好市池田町川崎
う、
﹁この川崎は、ほんまにええとこじゃ。
﹂
たしかに、じいちゃんの言うように、春は山が桜色に、夏は青葉と清流吉
野川でのあゆつり。やがて山々は赤や黄色でそめられ、きびしい寒さの冬が
やってきてまっ白な静かな姿にかわっていく。四季それぞれに日本の美しさ
を代表しているんじゃないかと思うほど、すばらしい自然がここにはある。
そして、それに負けないくらいすばらしいのが地いきの人たちだ。
ぼくの通う川崎小学校は、全校児どう数、六人。そう言うとたいていの人は、
﹁へえ、少ない。
﹂とおどろくだろう。本当に子どもが少ないのだ。反対に、
お年よりの数はとても多いようだ。しかも、そのお年よりは元気いっぱいだ。
。学校の行き帰りには、まるで親せきの人の
‥‥
朝早くから畑仕事に、草取りに、
そしてグランドゴルフにと
ように声をかけやさしくしてくれる。
﹁困った時、おたがいさま精神﹂で助け
合えるという話を聞いていると、まるで﹁チーム・カワサキ﹂で心がつながっ
ているようで、うれしくなってくる。
川崎には、地いきみんなの自まんがある。毎年、秋の祭りで三所神社に奉
のうされる﹁川崎しし太こ﹂である。このしし太こは、町の無形文化ざいに
定められ、地いきあげて大切に受けついでいる。
﹁しし太こ﹂は、じいちゃんが生まれるずっと前からあったそうだ。昔、さ
ぬきからきた杜氏というお酒を作る職人の中に太こ打ちのうまい人がいて、
氏子たちがこれを習い、祭りの出し物にしようとしたのが始まりだそうだ。
それが、今も毎年、十月十九日の秋祭りで奉のうされている。
じいちゃんも父さんも、そして兄や姉も子どものころには太こ打ちとして
活やくしたらしい。今、子どもがだんだんへっている中で、ぼくたち六人は
その伝とうや文化を残していくためにがんばっている。きびしい練習には、
ちょっぴりつらいこともあるが、祭りの日、えぼしに舞い衣しょうを身につけ、
バチをにぎると体がひきしまる。大人の人のししが大きく、そして勇ましく
おどるとますます打つ太こもリズムにのってくる。ふるさとでの祭りを楽し
みに帰ってくる人もいるのだろう、だれもが大きなはく手をくれる。そんな
時には、﹁このしし太こをなくならせたくない。﹂という気持ちが、ぐっと強
くなってくる。
かね、太こに合わせ二頭のししが地いきの人々の幸せをねがって勇ましく
舞いおどる﹁川崎しし太こ﹂
。ぼくたちのふるさと川崎の人と心をつなぐ大切
な宝物に思えてきた。
まだまだ暑い夏の夕方。ぼくに昔のことを話してくれながら、じいちゃん
は子どものころにおどったことや友達と遊んだことを思い出しているのかな
あ、ふとそんな気がした。
-30-
われていました。人間も神社で、おたゆうさんをよんで夏バテをしないよう
におがんでもらっていました。私は、牛を家でかうなんてゆめみたいな話だ
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
昔の話 を 伝 え て い こ う !
なあと思いました。牛が夏バテをすることも初めて知りました。牛はふだんは、
今は、車で送ってもらうことが多いけどこれからは体力をつけるために、
近くに行く時に自転車に乗ったり、歩いていこうと思いました。
もったいないのでのこさずすききらいせずに食べようと思いました。
このことから、昔と今ではちがうことがたくさんあることが分かりました。
今は、食べ物にあふれているけど昔は食べ物がなかったので、私はこれから
は足も手も力がついたと思います。
昔、吉野川に橋がなかった時はわたし舟で対岸にわたっていました。昔は
橋がなかって今はあるので、今の方が楽だなあと思いました。でも、昔の人
こんだだろうなあと思いました。
草とかをもらって食べていたけどおだんごをもらった時は お
「いしい と」よろ
国府小学校 四年 岩城 杏奈
私は、ばあちゃんとじいちゃんから昔の遊びや昔の田植えの仕方や昔の生
活していた様子などを聞きました。
じいちゃんは、鉄ぽうを竹で作っていたそうです。鉄ぽうの玉を、やき玉
というものでしていたそうです。それから、にん者のシュリケンを飛ばして
遊んでいました。シュリケンは、まきの葉で作っていたそうです。私は、シュ
リケンをおり紙でしか作ったことがないけどまきの葉で作るなんて、まきの
葉ってどんな形の葉なんだろうと思いました。
また、夏の暑い日にはため池や用水ではだかで遊んでいたそうです。ため
池や用水は危なくなかったのかなあと思いました。また、カニにはさまれた
りしないのかなあと思いました。今は、水着もあるしプールもあって私は幸
せだなあと思いました。昔は、水着がなかったからはだかで遊んでいたなん
てはずかしくなかったのかなあと思いました。
後、鉄のこまをとますので上で紙ぶくろをしいてよりというひもでこまを
飛ばして遊んでいました。そして、相手のこまを飛ばした方が勝ちです。
ばあちゃんは、家の周りのみかんの木に登っておにごっこをしたり、夏に
はせみをとったりしていたそうです。また、木に登っておやつにかき、いち
じく、くわの実、ムクえの実などを取って食べてました。たまに、吉野川に行っ
てしゃしゃぶという小さい実を取って食べていたそうです。
昔ばあちゃんの家は、牛をかっていたそうです。夏には、牛が夏バテしな
いようにおだんごを食べさせていました。また、家族の人数のおだんごを森
の中にまつっていたそうです。それを人が食べると夏、病気にならないと言
-31-
いました。牛でたがやすのはまっすぐ牛ができるのなかあと思いました。
とっていました。田んぼの水は、谷の水をみんなでうばいあいながら入れて
昔の話 を 伝 え て い こ う !
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
国府小学校 五年 岩城 陽心
具も大切にしていこうと思いました。
なかったけど今はあるからもっと食べ物を大事にしたいし、遊ぶ物も筆記用
ももっと、お手伝いをしたりして、協力していきたいです。昔は食べる物が
です。今は便利になったけど会話をたくさんして家族で助け合ってこれから
昔は、不便だったけどじいちゃんとばあちゃんの話を聞いていると幸せに
くらしていたんだなあと思いました。なぜならみんなが助け合っていたから
少しは、へらそうと思いました。昔の話を聞いて昔は不便だなあと思いました。
あるから前のことを考えると、残さず食べようと思いました。すききらいも
ている果物しか食べれなかったけど、今はお菓子もあるし食べ物もたくさん
に行ってしゃしゃぶという小さい実を食べていたそうです。前は、木になっ
おやつは、かきやいちぢくやゆみやくわの実などを家の周りに植えていて
学校から帰ってきたら木にのぼってとって食べていました。たまには吉野川
ぼくは、ばあちゃんとじいちゃんから昔の遊びや昔の田植えの仕方や昔の
生活していた様子などを聞きました。
じいちゃんは、昔の遊びは、やき玉の実を鉄砲の玉にして鉄砲を竹で作っ
ていました。やき玉の実は、本当によく飛ぶのかなあと思いました。あと、
にんじゃのシュリケンをまきの葉で作っていたそうです。飛ばすのは、思っ
たところに飛ぶのかなあと思いました。あと、折り紙でないのにまきの葉で
折るなんて昔の人は手先が器用だなあと思いました。あとじいちゃんは、と
ますの上で紙ぶくろをしいて、よりと言うひもで鉄のこまを回し、相手のこ
まを外に飛ばした方が勝ちという遊びもしたそうです。今のこまの遊びとに
ているなあと思いました。
ばあちゃんは、木の上でおにごっこをしたり、セミをとって遊んでいたそ
うです。
昔の話は、ばあちゃんの家に牛をかっていて牛が夏バテをしないようにお
だんごを牛に食べさせていたそうです。また、家族の人数のだんごを森の中
へまつっていたそうです。夜に行くときはこわかっただろうなあと思いまし
た。そのだんごを食べると夏に病気にならないと言われていたそうです。な
ぜおだんごを食べると夏に病気をしないのだろうと不思議に思いました。は
甘いものがあんまりなかったからかなあと思いました。昔の田植えの仕事も
じいちゃんから聞きました。昔はトラクターがないから家でかっていた牛で
土を耕していました。田植えは、田植え機がないから人がじょうぎを使って
いねを植えていました。田んぼの草は、今みたいに薬がないのでころで草を
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佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
無題
富岡小学校 二年 祖父江 結子
わたしのおじいちゃんは、あなんし大がた町で生まれてそだった。山と海
にかこまれたところで、たのしいあそびがたくさんあったと、ねる時よく話
をしてくれる。思い出のばしょにつれて行ってくれることもある。おじいちゃ
んや、おじいちゃんの友だちの話を聞くと、むかしのあそびは、今よりもワ
イルドだったみたいだ。聞いた話をまとめてみた。 りょうし町だから、夏は、
もちろん海。まい日、朝から海であそんでいた。同じ地いきの大きい子たち
について、小さい時からみんなで海へ行く。わざわざ、たのんだわけではな
いけれど、小さい子のお世話やおよぎをおしえるのは、あたりまえのように
近くの大きい子たちだった。大きい子のまねをして、
自分たちで魚をとったり、
貝をとってたべたりもしていた。だから、どんな魚や貝がさわってもだいじょ
うぶか、たべられるかなどしらない間におぼえていた。ぜったいに、行って
はいけないばしょや、あぶないばしょも小さい時から大きい子についてあそ
んでいたので、いつもの間にかおぼえていた。
秋は、山で木のみをよくとっていた。山へのぼる近みち、木ののぼりかた、
おいしいくりの木やたくさんとれるしいの木のばしょもしらない間におぼえ
ている。そして、いつの間にか自分たちも小さい子をつれてあそぶようになっ
ていた。
近所のじんじゃでのほうのうずもう大会もあった。小さい子からすもうを
とって、だんだんと年れいがあがって大人まですもうをとる。大人のわざを
見たり、聞いたりして、近所の人たちみんなで、にぎやかにおうえんしてた
のしんでいた。近くのみんながかぞくみたいに協力をしていたし、いたずら
をすると、ほかの家の人にもよくおこられた。
そんな、おじいちゃんたちが、なんとなくうっすらおぼえている思い出で
おそろしかったのが、つなみだった。なきながらひっしで大人に手をひかれ
てうら山へにげて行く。にげているとちゅうで、こしぐらいまで水がきた。
うらに山があったからたすかった。あとは、
こわかったことだけおぼえている。
今、地しんやつなみがおこると言われている。おじいちゃんの話を聞くま
では、自分にかんけいのないとおくの話だと思っていたけど、近くでもあっ
たとわかって、かぞくでにげるばしょやみちを話しあった。
わたしは、おじいちゃんおばあちゃんが前にすんでいて、むかしからここ
にすんでいるので、近所の人もみんなよくしっている人ばかりだ。朝、学校
に行く時も、まい朝、たくさんの人とあいさつをする。近くに小さい子はす
くないけれど、お年よりの友だちはたくさんいる。これからも、いろんな話
を聞いて、むかしの人のちえをおしえてもらいたい。そして、わたしも、お
とうとやいもうとに、聞いたことをおしえてあげたいと思う。
-33-
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
無題
富岡小学校 五年 小塚 有珠
私はお仏壇に手を合わせました。ちょうど今日はお盆、
話を聞き終わった後、
お墓参りにも行ってきたところです。その時は何も考えずに手を合わせまし
たが、
今は違います。生まれてきたこと。生きていることのありがたさを感じ、
ご先祖様に感謝したくなり、手をあわせました。あ
「りがとうございます。 」
私のひいばあちゃんは若松スワコ。すわ神社から名付けられたそうです。
家から車で二十分くらいの港町、大潟町に住んでいます。大正九年生まれ九
十三歳です。前から昔の話はよくしてくれますが、私は正直、阿波弁がきつ
すぎて分かりづらいので、今まで二人きりで長く話したことがありませんで
した。今回色々教えてもらうと、とても面白く勉強になる話をたくさんして
くれました。
私がまず気になったのは夏の過ごし方です。昔はクーラーはありません。
小さい時はうちわだったそうです。行水か、打ち水をして涼みながら、庭に
一脚というベンチのような長いイスを置いてみんなで夕御飯を食べていたそ
うです。私は母と二人暮らしなので仕事の日は一人で食べることもあります。
兄弟もたくさんいて家族みんなで夕食はうらやましいです。でも私はすぐに
昔の生活のきびしさを聞いておどろきました。水道はなく、井戸。お風呂も
なく、銭湯、トイレはくみ取り式で、洗濯板で洗濯をし、下の子を背負いな
がら家のことをする子も多くいたそうです。学校は制服がなく着物で、体操
服はあったけれど買えない子が多く、給食も部活もありません。一番おどろ
いたのは、ノートがなく石板に石筆で書き、布で消して、また書いていたそ
うです。復習することができないので勉強もなかなかできないのに国語の文
章やいろんな事を覚えていてすごいなと思いました。
何が一番楽しみだった? 私
」 は思わず聞いてしまいました。ほ
「うかな、み
「
んな生きることに一生懸命だったんよ。十八から戦争で兄弟もほとんど亡く
なったんよ。私」は胸が熱くなりました。生きていく事は当たり前すぎて、今
まで生活か生きていくことに一生懸命になった事はありません。今ある生活
がどれだけ幸せで、ご先祖様のお陰かと気付きました。手を合わせた後ひい
ばあちゃんに こ
「れからは普段の生活の中でええことがあった時、健康で一日
が過ごせた時、幸せやなあと思った時には、心の中で、いつもお守り頂きあ
りがとうございますって唱えよ。と
」言われました。ひいばあちゃんかご先祖
様がいるから今の自分がいる。今までそんな単純なことも考えたことがあり
ませんでした。単純だけどとても大切なこと。また、家族に対しても感謝をし、
今をもっと大切にしたいと思いました。家族がいてこそ自分の毎日があり、
幸せがあると感じました。これからは感謝の気持ちを言葉で伝えていきたい
です。そして、いつか私の子供ができたら、ご先祖先を家族のことを大切に
する気持ちを持つことをひいばあちゃんの言葉をかりて伝えていたきいです。
-34-
はり箱を作ってやりました。 こ「んだけあったらおよめにいけるな。かわい
いおよめさんになんなよ。 」
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
たぬき の よ め 入 り
い顔をしていたんだろうなと思います。
いろいろな話を聞かせてくれて、ぼくたちをたのしませてくれます。 ひい
ばあちゃんの顔は、知りません。けれど、きっとばあちゃんのようなやさし
ら笑顔で話してくれたのだと思うのです。 なるとのばあちゃんは、今年六
十九歳。足の調子がわるいけれど、ぼくや弟にいつもやさしくしてくれます。
のあたたかい心を、まごのぼくにも受けついでほしいという願いをこめなが
この話を聞き終わったとき、なるとのばあちゃんのやさしい笑顔の意味が
わかりました。困っていたたぬきを気持ちよく助けてあげたひいばあちゃん
んは、 し
( あわせになりよ と
) 手を合わせて見送ってやりました。
えました。すぐ、たぬきのよめ入りの行列だとわかりました。ひいばあちゃ
それから何日かたった満月のばん、ひいばあちゃんが雨戸をしめていると
き、うらのぼうぐい山をみると、点々とあかりの列がつながっているのがみ
といって送り出してやりました。
ゆ
「うま、おもっしょい話したぎょうか。 」
富田小学校 三年 泉 悠真
「の話はな、ゆうまのひいばあちゃんが、ばあちゃんに、ようしてくれた
こ
話なんじょ。と
」やさしく笑いながら、なるとのばあちゃんが話しはじめまし
た。ぼくは、どんな話かと、わくわくしてばあちゃんの顔を見つめました。
ぼくのひいばあちゃんの家はお寺で、ぼうぐい山のふもとにあります。そ
のお寺でのお話です。
ある雨がしとしとふるばん、ひいばあちゃんがねようとふとんに入ると、
雨戸をトントンとたたく音がしました。 こ
( んなばんにだれだろ と
) 思って雨
戸を開けて、あたりを見回しましたがだれもいません。変だなと思ってふと
んにもどりました。すると、またトントンと雨戸をたたく音がしました。耳
をすましていると、しくしく泣く事もしました。ひいばあちゃんは、ふとん
からとびだして、いそいで雨戸を開けました。ふと見ると、一ぴきのメスの
たぬきが、びしょぬれになって泣いていました。
あらまあ、こんなばんにどしたんで。と
」声をかけて抱き上げてやりました
「
が、たぬきはめそめそ泣くばかり。体をそっとふいてやるとホッとしたのか、
ポツリポツリと話しはじめました。
「ちは、うらのぼうぐい山のたぬきなんよ。今度の満月のばんに、およめ
う
にいくことになったんやけど、よめ入り道具がそろわんのよ。困ってしもて、
お寺のおかみさんにそうだんにのってもらおと思って来たんよ。 」
たぬきの話を聞いたひいばあちゃんは、あわれに思って助けてやることに
しました。お寺にあった大きなマッチ箱を集めて、たんすにけしょう箱、お
-35-
体当たりするのです。だれのために、国の何のために、いかなくてはいけなかっ
たのかと、話を聞いていて感じてしまった。だって、命がその時点で終わる
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
無題
のだから。もう二度と、おいしい物も食べられないし、好きなこともできな
ら聞くことができた夏休みでした。
をきざんでいる。命は続く。先祖のことや、太平洋戦争のことを祖母の話か
ように、ぼくは、人のために役立つ人になりたいと思っています。 祖母か
らもらった、ひいおじいちゃんがあい用していたかい中時計が、コチコチ時
命にかえてまで守りたかった日本のために、二度と戦争や争いが起こらない
は大学生のお兄さんや十代の子もいたことを知りました。そのお兄さん達が、
の特攻機の多くは、九州の鹿児島県知らん基地から出げきしていて、なかに
ぼくは、徳島へ帰ってきてから、特攻隊のことを少し調べてみました。徳
島の松茂にも白ぎく隊という特攻部隊があったことが分かりました。旧陸軍
かったそうです。
ぱいに来ていたそうだけど、祖母にも飛行機のことは、あまり話したがらな
市ヶ谷駅でおり、暑かったけど汗をいっぱいかきながら、歩いて靖国神社
へ向かった。ひいおじいさんは、死ぬまで毎年八月に一人で、靖国神社に参
くなるんだから。
鳴門教育大学附属小学校 五年 椎橋 海斗
夏休みに、東京の祖母の所へ遊びに行った。東京駅で、待ち合わせをして、
その後、先祖の墓まいりをした後に祖母が、
靖「国神社に、参ぱいにいくよ。 」
と行って、一しょに行くことにした。祖母は、今年六月に七十才 古
(希 に
)な
りました。満州 今
( の中国 で
) 生まれて、終戦まで住んでいました。満州か
ら日本に帰ってくる時、大人の人が日本に帰ってくることも大変だったらし
く、子供を満州へ置いてくる人も多くいたそうです。祖母も船つき場で、ま
わりの人から置いていくように言われたそうだけどひいおじいさんは、必死
で祖母のことを船に乗せて、日本へつれて帰って来たのです。
み「んな、こんらんしていたんだよ。 」
と、祖母は静かに語った。当時子供で、残った人が、今も中国に残っている
そうです。
靖国神社まで行くまでの電車の中で、ひいおじいさんは、昔、陸軍の飛行
機の設計をしていたことを祖母は始めて話しをしてくれた。
ひいおじいさんの設計した飛行機が、昭和の時代に大空をたくさん飛んでい
たそうです。でも、悲しい話で、その飛行機が太平洋戦争に使用されて、多
くのパイロットが大空にちっていったそうです。昭和二十年代に入るとひい
おじいさんの設計した飛行機が、特攻機という二百五十キロの爆弾を飛行機
に積み、燃料も片道分しかもらえない飛行機に利用されたそうです。片道の
燃料ということは、二度と家族や友達の所へ帰ってこれないのです。その飛
行機を操じょうしながら、当時、敵国であったアメリカ軍の艦に飛行機ごと
-36-
る里のぎふけんに行った時、大きな川が流れていたなあ。
と言ったので、びっくりした。そういえば、きょ年の夏、家族でばあばのふ
じいじ と ば あ ば の む か し の あ そ び
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
鳴門西小学校 三年 森本 遙海
とれるね。じいじ、ばあば、これからもいっぱいあそんでね。
じいじとばあばと虫とりもいっしょにしたいな。カブト虫やクワガタ虫は、
つかまえるのがむずかしいけど、じいじはじょうずだから、きっとたくさん
へやの中だったら、ビー玉であそびたいな。ゆびではじくのがむずかしそ
うだけど、じいじにこつを教えてもらおう。
じいじとばあばと、ぼくと、弟たちと、五人で石けりをしたら、楽しいだ
ろうな。
じいじとばあばは、ほかにも、石けりやかくれんぼやビー玉でもあそんで
いたんだって。石けりがおもしろそうだから、今ど、教えてもらおうかな。
ろうな。
ぼくは、いいなあと思った。川の水でひえた野さいは、とってもおいしいだ
て。あそんでつかれた時によくひえたキュウリやなすを食べていたと聞いて、
ばあばは、夏は一日中、川で水あそびをしていたんだって。川に行くと中で、
畑のキュウリやなすびをもらって、それを川の冷たい水でひやしておくんだっ
カラーン、カラカラカラ。
いきおいよく、空きかんがころがっていくと、ぼくたちは、家のかげや門
のかげにかくれる。どきどきしながら、すきを見つけて、かんをけりに行く。
ぼくは、かんけりが大好き。いつも、弟たちや、近所の友だちと、家の庭
でかんけりをしている。
いつものように、かんけりであそんでいると、じいじとばあばが、
﹁じいじも、小さいころ、ようかんけりしよったわ。
﹂
﹁ばあばもしよったよ。
﹂
と教えてくれた。
じいじは七十六才ばあばは七十二才。時々、一しょにかんけりやサッカー
やキャッチボールをしてくれる。
ぼくは、じいじとばあばに、
﹁じいじとばあばが子どもの時にも、かんけりしよったんやなあ。ほかに、ど
んなあそびがあったん。
﹂
と聞いてみた。すると、じいじが、
﹁いつも、木のぼうをもって山へ行って、カブト虫をとったりクワガタ虫をとっ
たり、くりをひろったりしよったなあ。
﹂
と教えてくれた。ぼくも弟たちも、虫とりが大好き。
﹁夏は、北なだの海で一日中水あそびしよったわ。
﹂
ぼくも、水あそびが大好きなので、同じだなあと思った。すると、ばあばが、
﹁ばあばは、海がなかったから、川であそびよったよ。
﹂
-37-
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
おじい ち ゃ ん と お ば あ ち ゃ ん の お や つ
西 麻 植 小 学 校
三年
前田
雪乃
わたしは夏休みの間、おじいちゃんとおばあちゃんの家に行っていました。
その時、いっしょに直売所に買い物に行きました。すると、おじいちゃんが
みどり色のまんじゅうを買いました。おじいちゃんは、
﹁このおまんじゅうはおいしいぞ。
﹂
と言ってみんなで分けて食べました。あんこがそら豆でかわはよもぎいりで
した。
﹁おじいちゃんが子どもの時、お母さんがそら豆をたいて、それをつぶして、
さとうをいれてあんこにしておまんじゅうを作っとったんぞ。それがすごく
うまっかたんじゃ。
﹂と教えてくれました。わたしも食べておいしいと思いま
した。
ほかのおやつも聞いてみました。むかしはおやつにすいかやとうもろこし
などを家のはたけで作ったものを食べていたそうです。プールがなっかので
吉野川でおよいで、それから食べるすいかはかくべつにおいしかったと言っ
ていました。れいぞうこがなかったからいどの中にすいかをひもでくくって
いれてひやしたそうです。とうもろこしは、ゆでてハーモニカのようにかじっ
ていたそうです。むかしのとうもろこしは家でとれたものでかたかったそう
です。
さつまいものおやつもありました。白いさつまいもを切って、たいて、な
わにとおしてかわかしたものです。かたいけどよくかむとあまくなっておい
しかったそうです。わたしたちが今食べているほしいもとは少しちがうと言っ
ていました。今のほしいもはあまくてやわらかくてわたしはだいすきでやめ
られません。
それから、なべやきというおやつがあったそうです。それは今のホットケー
キみたいなのでぼうしの形をしたおやつです。
﹁すごくおいしくて、五人きょうだいで食べるとすぐなくなったんよ。﹂
とおばあちゃんがおしえてくれました。どんな味だったのか食べてみたいで
す。
それから、うわの実もよく食べたそうで、わたしは何かわからなかったの
で聞いてみました。くわはかいこのえさでどこにでもうえられていたそうで
す。それになる実がとてもおいしかったと言っていました。
おじいちゃんとおばあちゃんの子どもの時のおやつは、家で作ったものば
かりだなあと思いました。はたけでとれたものをそのまま食べたり、ゆでて
食べたり、手作りのものを食べていました。今はお店に行ったらいろんなお
かしが売っています。ほしいもやおまんじゅうもふくろに入って売っていま
す。あまくておいしいものはいっぱいあります。むかしのおやつはかたかっ
たりしておいしそうじゃないけど体にいいおやつだなあと思いました。むか
しのおやつの話しをはじめて聞いてまた、おばあちゃんとむかしのおかしを
作って食べたいと思いました。
-38-
をしたそうです。
で、ともだちとおいかけっこやかくれんぼ、はごいたなど、いろんなあそび
とっし い の 小 さ い こ ろ
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
八万南小学校 一年 さいとう はるか
た。
たしのしらないとっしいのこどものころのはなしをききたいなとおもいまし
がたくさんあるじだいに生まれて、いいなとおもいました。もっともっとわ
いえの中はふべんだったこともあったみたいだけど、しぜんやおいしいもの
たり、さかなやえびがとれる川もちかくにあったそうです。いまとくらべると、
うやくりやすもも、かきやみかんなどたくさんのくだものの木がうわってい
ろをおもいだして、なつかしいなとおもっているからかもしれません。ぶど
いです。あきになると、とっしいがまつたけをかいたがるのは、こどものこ
そうです。わたしは一年に一かいしかたべられないので、すごくうらやまし
おおきくてかさがひらいていたので、あたりじゅうににおいがぷんぷんした
いえから一じかんはんくらいあるいたところには、ぞろぞろまつたけがは
える山があって、よくおじさんととりにいったそうです。むかしのまつたけは、
とっしいは、わたしのひいばあちゃんです。ママがこどものころから﹁とっ
しい﹂とよんでいたので、わたしもこうよんでいます。とっしいのなまえは、
﹁さいとう としこ﹂です。いっしょにすんでいるので、おうちでおはなしを
ききました。
とっしいは、七月二十二日で、八十六さいになりました。でもほんとうに
うまれたのは、このいっかげつまえの六月二十二日です。とっしいがうまれ
たとき、とてもちいさくて、すぐにしんでしまうかもしれなかったので、と
どけをだすのをおくらして、たんじょう月を七月にしたそうです。いまでは、
六月にも、
七月にもりょうほうおめでとうをいいます。わたしは六さいなので、
八十もはなれています。
とっしいがうまれたのは、いたのぐんほりえのまつむらというところだそ
うです。おもやや、しんたくや、ほかのしんせきのいえがあつまっていて、
おもやによくあそびにいっていたそうです。むかしのいえにはげんかんをは
いると、どまがありました。だいどころでは、
﹁おくどさん﹂でおりょうりを
します。おふろはそとにあります。
﹁ごえもんぶろ﹂だから、かじにならない
ように、はなれたところにあります。おふろのおみずは、いどでくんでから
いれなければいけません。とっしいは、いつもいちばんぶろにいれてもらっ
ていたそうです。雨の日や、さむい日は、いやだろうな。
﹁おくどさん﹂も、﹁ご
えもんぶろ﹂も、おもしろい名まえだな。だけど、すいどうもガスもないの
だから、
すごくたいへんだろうな。トイレも
﹁どっぽんべんじょ﹂
でくさいから、
やっぱりはなれたところにあったそうです。おもやはとってもひろかったの
-39-
女の人は、﹁わかれてもいいけど、このいえのなかにある大きいおけを下さい。﹂
と言い、男の人が大きなおけをわたすと、
﹁おまえもじゃー。
﹂と男の人をつ
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
みよし に つ た わ る む か し 話
かみ、おけの中へほおりこむと女の人は、それごとかついで、山のおくのお
とくしまには、たくさんのむかし話があるみたいで、ぼくもいろんな話を
おしえてもらい、つたえていけたらいいなとおもいました。
ぼくは、この話をきき、こわかったけど、さいごはたすかってしあわせに
なれてよかったとおもいました。
なあかん。﹂と言い、ふつうのよめさんとしあわせにくらしたそうです。
きえたそうです。なんとかたすかった男の人は、﹁よめさんは、ごはんをたべ
と言うこえがきこえ、あたりをさがすも見つからず、女の人は、山のおくへ
すると、﹁うわー。﹂とさけび声がきこえ、
﹁どこぞで、おとしてしもうたー。
﹂
男の人は、こわくなり、おけからとびだして、山のしげみにかくれたそうです。
くへとものすごい、いきおいではしったそうです。しばらくはしっていて、
林崎小学校 二年 竹口 こういちろう
おじいちゃん、おばあちゃんから、むかし話をおしえてもらいました。そ
のお話は、このあたりの山でつたわる話だそうです。
むかしむかし、山おくのところに、けちな男の人が一人ですんでたそうでう。
どうして一人ですんでたかと言うと、
﹁よめさんをもらうと、せっかくたくわ
えてある米がへるから。
﹂というわけで、まわりの人が、やさしいよめさんを
おせわしても、
﹁あかん、あかん、どんだけやさしくても、口がある。口があっ
たらあかんのじゃ、米がなくなる。
﹂といってだれもあい手にしなかったそう
です。けれどあるときに、
﹁わたしは、口があるけど、なんじゃ、たべんでも
ええよ。
﹂と、むちゃなことを言う女の人がやってきて、男の人は、気にいっ
ていっしょにくらしはじめたそうです。その女の人は、
ほんまになにもたべず、
男の人は、
﹁よかった。こんなうれしいことはない。
﹂と大よろこびしました。
男の人は、あさ早くから日のくれまでしごとをし、いえにかえると、女の人
がごはんのよういをしてくれてあり、ごはんをたべるせわをしながら、女の
人は、なにもたべず、にこにこしてたそうです。けれど、ある日、男の人が
うらのなやに入ると、なやの中につつんであった米のわらが、おおかたなく
なってて、びっくりし、まさかよめさんがとおもって、しごとに行くふりを
して、てんじょううらにかくれて見ていると、女の人がなやから米だわらを
右手に一ぴょうをはこんできて、大きなかまでつぎからつぎに米をたいて、
たけたごはんを、かみの毛の中にある、大きな口に、ぺろりっとすべて入っ
たそうです。それを見た男の人は、びっくりして、こしをぬかしたそうです。
男の人は、こわくなって女の人に、
﹁たのむから、わかれてくれ。﹂と言うと、
-40-
回せませんでした。昔は布を切ってぬって草の実を入れて自分で作ったそう
です。きせかえ人形は、はじめは紙の人形でいろいろな服をきせてあそびます。
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
むかし の あ そ び
おばあちゃんの子どもには、手づくりの人形を作り、はぎれで服やスカート
私も大きくなったら、教えてもらい、自分で作ったものであそんでみたい
と思いました。
大へんうれしいし、たのしいだろうし、大じにしたいきもちが分かりました。
自分で作るには、なかなかできないと思いますが、できた物であそぶのは、
ますが、自分で作ったりしません。なんでも売っているからです。けれど、
私も作ってもらった手作りのき物をもらっています。昔のあそびは今もあり
やき物をぬって作り、大じに箱に入れてあそんでいたと話してくれました。
徳島文理小学校 二年 沖野 友香
私は、ゲームきや、買ってもらったきれいなおもちゃであそんでいます。
おじいちゃんの子どもの時のあそびを聞きました。ビー玉、メンコ、ベイゴ
マや、川へ魚をとりに行ったり、山へ鳥をつかまえに行ったりしたよと、話
してくれました。ビー玉は、丸いガラス玉でわたしももっています。昔は道
ろでにぎったビー玉をはなして、広がったら、ビー玉をねらって当たれば自
分にもらえる。ころがった所から次のビー玉を当て、自分のビー玉をふやす
あそびです。昔の道ろは車もあまり走っていなかったので、あそびは家の前
の道ろでしていたそうです。メンコは、いろいろな絵をかいてある四角やま
るいカードをメンコとよび、すくったり、打って風でひっくりかえしてとり
あうあそびです。いたの上やセメントのひらたいところでします。ベイゴマは、
てつのコマで自分で、ひもをまきつけてコマを回します。相手のコマをはじ
き出してとりあうあそびです。いつもコマをみがいて、よく回るように手入
れをしていたそうです。今は道具を使って回すプラスチックのコマになって
います。川へ行ったり、山へ行ったり、自ぜんの中で一日中あそんでいたと
いいます。今は道ろもあそべないし、川はきけんで泳げないし、家の近くに
も川はないので、うらやましいです。ビー玉もコマもありますが、かざって
あるだけです。
おばあちゃんにもききました。おはじき、お手玉、きせかえ人形や、あや
とりがあそびでした。おはじきは、いっしょにしたことがあります。たくさ
ん広げたおはじきの間を小指が通ると当て、当たると、とっていきます。お
手玉もおばあちゃんは、三コを回しますが、私は、二コがなかなかつづけて
-41-
持つだけで、スパイや裏切り者扱いされたと聞き、僕は、とても心が痛んだ。
地は地理。どちらも日本のことしか教えられず、外国の歴史や地理に興味を
七十年 目 の 通 信 票
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
徳島文理小学校 五年 高井 彪向
僕は、整った学習環境や今に感謝し、生き抜く力をつけたいと、強く心に誓っ
た。
僕は感動した。
僕は感心した。祖母が辛い苦しい戦時中を一生懸命生き抜いてきたことに、
らなかったから。この飢餓でも、畑の大根一本盗む子はいなかったと聞き、
祖母の当時の思い出は、勉強は好きだったけれどあまり楽しく思わなかっ
たとのこと。理由は、お腹が空き過ぎ、胃がキリキリと痛み、勉強に身が入
しなかった。
の縫玉を作り兵士の安全を祈願するもの。家は家庭科。調理実習は食糧難で、
兵士へ渡す千人針を縫った。千人針とは、千人の女性が赤糸で一針ずつ千個
清書の時に半紙や画用紙を一枚もらえた。工は工作。主に農作業。裁は裁縫。
芸能科は、音・習・図・工・裁・家。音は音楽。足踏みオルガンで﹁雪﹂
等の童謡を歌った。周は習字。図は図画。紙が足りず、
新聞紙に練習書きをし、
体錬科は、体・武。体は体育。講堂でラジオ体操ばかりしていた。武は武道。
竹やりで、敵を刺す練習。僕は、悲しい気持ちになった。
理数科は、算・理。算は算数。旧そろばんの五つ玉を使用。理は理科。理
科室で人体模型での授業だったと聞き、僕は意外だった。
﹂
﹁うわぁ、何これ。
僕は驚いて、自然と声が出ていた。昔話を隣に住む祖母に尋ねに行った時、
棚の奥から何気なく出してきた、戦時中の祖母の通信簿。
それは、昭和一九年度のもので﹁三縄村国民学校・通信票﹂と書かれてあっ
た。この時、祖母は一三歳。古いけれど大切に保管されていて、過酷な環境
の中で、めげずに生きてきた祖母の姿が、すぐに僕の頭の中に浮かんだ。
今、僕は十一歳。僕と同じ年頃の、当時の祖母の学校生活や通知表に興味
を持ち、更に詳しく聞きたくなった。
祖母が、当時、毎朝、登校時にしたことは、
﹁まず、校門を入ってすぐのほこらに掲げてあった天皇陛下の御写真に一礼、
次に、二宮尊徳先生の像に一礼、続いて、職員室の方に向かって一礼をした
んよ。
﹂
と教えてくれた。当時の学校は、体育館も校庭もなかったと聞き、僕は驚いた。
祖母の話では、校庭は、戦時中の食糧不足で、体育の授業中に、自分たちの
手で芋を植え畑に変えた。子どもながらに、クワを担ぎ登校していたそうで、
僕は大変さに胸がしめつけられた。子ども達の衣類は、着物にわら草履。着
物一枚あれば良い方。食べることに必死だった。
通知票の内容は、国民科、理数科、体錬科、芸能科の、四科目に大きく分
かれていた。
国民科の中に、修・国・史・地とあった。修は、道徳のようなもの。国は国語。
当時は、お国のために命を惜しむなという内容の本や授業だった。史は歴史。
-42-
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
ばあち ゃ ん の 宿 題
徳 島 文 理 小 学 校
六年
川添
碧
︶祖母の家へと向か
︵ばあちゃんは、どんな話を聞かせてくれるんかなあ。
う車の中、私はわくわくする気持ちをおさえきれません。
それは、祖母が子供の頃、どんな遊びをしていたのか、昔の話や思い出を
聞かせてほしいと、お願いをしていたからです。私から祖母への宿題です。
祖母は、いつもとちがって少し困った顔をしています。だけど、何かを思
い出すように遠くをみながら、ゆっくりと、
﹁ばあちゃんの子供の頃は、戦争で食べる物も何もない時代。生きて行くんが
精いっぱい。ほんまに何もなかったなぁ。
﹂
祖母の顔がくもります。祖母が生まれたのは昭和十三年。日本が、いえ、世
界中が第二次世界大戦へとつき進む、悲しい時代だったそうです。祖母の口
から初めて戦争の話を聞いた私は、少しとまどいます。それに気がついたの
か祖母は、散歩にさそってくれました。 祖母と行った先は、八坂神社でした。
小松島で生まれ育った祖母は﹁ 園さん﹂と親しみを込めて呼んでいます。
祖母は、なつかしそうに、
﹁ばあちゃんは、この 園さんの境内で、友達と遊んどったんよ。かくれんぼ
をしたり、ケンケンパしたり、木に登ったこともあるんじょ。
﹂
そう言いながら、木の枝で丸を描いてケンケンパを作ってくれました。
﹁碧は、こんな遊びを知っとるか。
﹂
そう聞かれて、私は、
﹁うん、学校でしたことある。
﹂
と、とんでみせました。 女の子は、あやとりやお手玉。一番人気があったのはおままごとだったそ
うです。男の子はメンコやチャンバラ、コマ回し。ガキ大将が中心になって、
けんかをしても仲直り。祖母の話を聞いていると、私はどんどんうらやまし
くなってきました。だって、私は大勢の友達と遊ぶ機会なんて滅多にないの
です。そのことを話すと、
﹁今の子は、今なりに大変なんやなぁ。
﹂
と、祖母はやさしく頭をなでてくれました。
そのあと祖母は、
﹁碧と一緒にこんなに長く話したんは久しぶりやなぁ。なかなか碧と会えんし
なぁ。ばあちゃんは、ほんまにうれしい。碧の宿題のおかげやなぁ。﹂
祖母のうれしい顔はくしゃくしゃで、私も笑顔になって、
﹁ばあちゃんの宿題は百点満点。﹂
宙に指で大きな花丸を描きました。
散歩の帰り道、祖母にアイスを買ってもらいました。二人で食べたアイス
はとても美味しくて、忘れられない味になりました。
祖母と一緒に過ごした時間は、私の心を豊かにしてくれるとても大切な時
間になりました。ばあちゃん、ありがとう。
-43-
祖様が何十年もかけて開拓したおかげだよと、祖父は教えてくれた。
ぼくは、なるほどと思った。ぼくが毎日食べている米や野菜は、泉斎やご先
ご先祖 に 感 謝
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
徳島文理小学校 六年 三島 佑一朗
この土地に生まれてよかった。そう祖父に改めて教えてもらった。
先人がきり拓いてきた土地でぼくが生まれ今のぼくがある。すべてのもの
に感謝する気持ちと同時に泉斎をはじめ、ご先祖そして祖父をほこりに思う。
いなと思った。
ついできた田で米を作り、田畑を守っている。祖父もまたすばらしくてえら
ようになり、宅地造成が進み田畑が少なくなっている。祖父は先祖代々受け
いに整地された田畑を見て喜ぶだろうな。最近では、自動車がたくさん走る
町のことをもっと知りたいと思った。今、泉斎が生きていれば、こんなきれ
じいさんになったら子や孫に話してあげたいと思った。ぼくの生まれ育った
町の人々の感謝の心を感じた。祖父がぼくに話してくれたように、ぼくがお
塔にある石ひには、﹁報本反始の恩念を持ち得るのは勿論、後世に翁の偉大
なる功徳を伝え遠す義務を負う﹂とある。立派な塔や石ひをみて、ぼくは、
そして、塔のところへつれて行ってくれた。こんなに近くにすんでいるの
に今までじっくりと見たことがなく、少しはずかしく思った。
ぼくの家の近くの神社の横には、りっぱな供養塔がある。学校へ行く時、
帰る時毎日見る。ぼくは、なんだろうとすごく気になっていた。それで、母
にそのことを聞くと、
﹁お母さんも、よう知らんからおじいちゃんに聞いてみたら。
﹂
といわれたのでぼくは祖父に聞いた。
﹁三島泉斎﹂という人の塔だった。三島泉斎と
ぼくが気になっていた塔は、
いう人は、三百五十年前に私財を投げうって新田開墾の事業を起こした人だ
と話してくれた。ぼくはまわりにある田んぼが何百年前には、あれ地になっ
ているなんて想像もつかなかった。
﹁じゃあ、泉斎のおかげでぼくの町の人たちは美しい田畑で作物を作ることが
できるんだね。
﹂
とぼくが祖父にたずねると、
﹁ほなけど、泉斎は事業の途中で、なくなったんじょ。
﹂
ぼくは、おどろいた。新田開墾を完成せずに亡くなったのならどんなに残念
だっただろうか。ぼくがこう思ったように、昔の町の人も泉斎の意志を受け
継いで耕地を開拓したのだろう。本当に偉大な人だ。
﹁あの塔は泉斎を後々に伝えていくために建てた塔なんじょ。
﹂
ぼくは、おどろいた。新田開墾を完成せずに亡くなったのならどんなに残念
だっただろうか。ぼくがこう思ったように、昔の町の人も泉斎の意志を受け
継いで耕地を開拓したのだろう。本当に偉大な人だ。
﹁あの塔は泉斎を後々に伝えていくために建てた塔なんじょ。
﹂
-44-
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
おばあ ち ゃ ん に 聞 い た 昔 の お 祭 り
南 小 松 島 小 学 校
五年
村田
優愛
私は、おばあちゃんに昔のお祭りについて聞きました。お祭りは、日本に
ある伝統的な行事だと思ってたので、おばあちゃんが子供だったころのお祭
りはどんな感じだったのか聞いてみたかったからです。
お祭りが好きです。昔のお祭りはいろいろな和楽器などで、もりあがっ
私は、
ていたのかな想ぞうしていました。おばあちゃんに聞いてみたら、なつかし
そうに秋になり、稲刈りが終わり、米の収かくを感謝する秋祭りの話をして
くれました。秋祭りは、地いきごとに屋台をかついでいたそうです。
﹁けんか﹂と言って、屋台と屋台がぶつかり合いもしていたそうです。屋台と
は、祭りの時に踊りなどをする台のことを言っていたそうです。その屋台の
上では、男の子がお化しょうをして踊っていたり、和だいこなどの楽器でも
りあがっていたそうです。女の子は屋台の上にはあがれなかったそうです。
屋台に出る人は、学校から早く帰ることができたようです。秋祭りには、親
族がたくさん集まりわいわいすることが多かったそうです。お祭りのお料理
として、アジの寿司や甘酒などを作って食べていたらしいです。もちろんお
店もでていたそうです。円型のものが三∼四個ついていて、その中にアイス
が入っているものがあったり、水あめのくじびきやかき氷などがあったらし
いです。私は、昔と今はお店︵屋台︶で同じなのは金魚すくいと、射的ぐら
いだと思っていました。お祭りには、ししまいもおどっていたそうです。
秋には運動会もあり、どこの家も誰もいなくなるぐらいみんなが運動会に
集まったそうです。運動会にもおすしを作って親族のみんなで食べていたそ
うです。面白いなと思ったのが、さとうきびを持って行ったということです。
さとうきびなんか、今ではまわりでみかけません。この前、沖縄におばあちゃ
んと旅行に行った時に、実さいにはじめてさとうきびを見て、食べ方をおば
あちゃんに教えてもらいました。おばあちゃんは、子供のころを思い出しな
がら食べていましたが、私はあまりおいしいものと思わなかったです。
今でもあったらいいのになと思うのは、お金でなくてもおもちゃやじゃが
いもなどを持っていって、水あめと交かんしてもらっていたということです。
水あめを食べながら紙芝居を見るのが楽しみだったそうです。お祭りの時で
はなくて、学校から帰っての楽しみだったそうです。
私は、おばあちゃんから昔の話を聞いてお祭りは昔からの大切な行事だと
改めて知りました。そして、私の住む町小松島にある港まつりを残していき
たいと思いました。花火やお店︵夜店︶もずっとずっと残したいと思いました。
そして、昔からの伝統を残していきたいです。
-45-
か三回は作りなおしていたみたいです。ガードレールがつけられたのは今か
ら二十年前だそうですが、ガードレールがなかったころは、人や自てん車︵当
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
むかし の く ら し
時の会社いん一ヶ月のきゅうりょう︶自どう車がよく川におちてあぶなかっ
りたいです。
いきたいです。自分の子どもやまごに色いろな話をしてあげられる大人にな
わたしは、八多町が大好きです。山にかこまれ、きれいな水が流れホタル
がたくさんいる川、まだゴミひろいくらいしかできないけれど大切に守って
今、あたりまえにある物は、むかしの人が色いろ考えてくれて生活にべん
りなように工夫されています。ありがとうの気もちで使っていきたいです。
たそうです。
宮井小学校 三年 青山咲希
わたしの家は、八多町というみどりがたくさんで空気のおいしい所です。
家のひいおばあちゃん八十六才、近所のはるおはん八十才、かよちゃん八十
才に聞いた話です。
ひいおじいちゃんが子どものころは、びょう気になっても今みたいによい
くすりがなくて、お医者にかかるのもお金がたくさんいるので、一さいのた
ん生日をむかえられずに、なくなる子がたくさんいたそうです。ひいおばあ
ちゃんは、六人兄弟でしたが、びょう気などで兄弟はなくなってしまい一人っ
子になってしまったそうです。この話を聞いてわたしは、びょう気になった
らすぐびょういんへつれていってもらえて九さいのたん生日をいわってもら
えてしあわせだなと思いました。
せんそう中や、せん後は、食べる物が少なく、いつもおなかがへっていて
つらかったそうです。イモをかわかしたものを主に食べていたようです。学
校では、べんきょうよりも畑をたがやしたり、竹やりでてきをやっつけるけ
いこの方が多かったそうです。空しゅうけいほうがなったら近所の子をおん
ぶしてぼうくうごうというあなの中へひなんして、夜はこわくてねむれなかっ
たと聞きました。
﹁夜、大の字でねてコロコロしているわたしたちはしあわせやね。﹂
と、いっしょに話を聞いていたお母さんがしんけんに言いました。むかしは、
あそぶ時間などほとんどなくて、家の手つだい、草とりや、川から水をくん
できてお風ろをわかすのが子どものしごとだったそうです。
はしは、木で作っていたため川に大水が出た時は流されてしまい年に二回
-46-
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
いくいな夕立ち音ばかり 宮井小学校 六年 瀬畑 力生
この夏、雷がよく鳴りました。ぼくは、雷がこわいです。晴れていたと思っ
ていても、急に周りが暗くなってとつ然の雷雨になったりします。ぼくが雷
で一番こわいなと思う所は、雷が近くに落ちる時の地ひびきです。光ったと
同時にバリバリッと落ちた時は、どこかにかくれたくなるくらいです。
この話を、お母さんの多家良町の実家に行った時に、ひいおばあちゃんに
聞いてもらいました。ひいおばあちゃんは、北原兼子といいます。八十五さ
いになります。今でも、家族のごはんを作っています。八十さいも過ぎてい
るのにすごいなあと思います。そんなしっかり者のひいおばあちゃんが、教
えてくれました。
﹁りっくん、ばあちゃんも雷が苦手なんよ。光るんも、鳴るんもこわいなあ。
でも、この辺りの雷はこわくない時が多いんじょ。
﹂
ぼくは、雷が苦手なひいおばあちゃんが、どうやってこわくないと思えるの
か知りたくなって、くわしく雷のことについて聞くことにしました。
﹁なんで、こわくないん?近くに雷が落ちたらこわいでえ。
﹂
ぼくが言うと、ひいおばあちゃんは、にこにこしながら答えてくれました。
﹁この辺では、
﹃いくいな夕立ち音ばかり﹄って昔から言われよるんよ。﹃いく
いな﹄っていうんは、この山の向こうの勝浦にある地名で、地形の関係で雷
がいくいなの方から鳴っても、あんまり多家良や八多の方には来んのよ。音
だけの時が多いけん、
﹃いくいな夕立ち音ばかり﹄って言われよるんよ。﹂
﹁ほな、雷が鳴ってもこわくないなあ。
﹂
ぼくは少しホッとして言いました。
﹁でも、来るかもしれんけん、雷が鳴ったら建物の中に入らなあかんよ。あぶ
ないけん。﹂ひいばあちゃんがいくいな夕立ちのことを、教えてくれたおかげ
で、前よりこわさがやわらぎました。
そしてもう一つ、雷のことについて教えてくれました。それは、﹃一つ雷雨
ふらす﹄という言い伝えです。雷が一回で鳴り終わったらその後たくさんの
雨がふってくるそうです。外にいる時、もしこのような事があったら大変です。
ひいおばあちゃんのこの話を聞いて、一回だけ鳴っただけだから、外で遊び
続けようと思わず、雷が鳴ったら、ひとまず建物に入らなければいけないと
改めて思いました。
これからは、ぼくも、特に雷をこわがっている人にこの話をしていきたい
と思います。ひいおばあちゃんの話を聞いて、雷について改めて考えたぼく
のように、他の人にも少しでも考えてもらいたいからです。ひいおばあちゃ
んありがとう。また、色々と教えてね。
-47-
佳作︵ 小 学 校 の 部 ︶
無題 鷲敷小学校 六年 西川 遥
仁宇山城 と
) いう城がありました。ほか
私が住む地域に戦国時代、和食城 (
にどんな城があったのかと思い調べていると、八張原地区にも城があったこ
とがわかりました。その城は ヶ岡城といいます。私は、 ヶ岡城のあった
井ノ原に住む田中君栄さんに、自分たちの住む地域の戦国時代の様子につい
て教えていただきました。
戦国時代、八張原一体に山城の ヶ岡城がありました。城山には、石がき
が浅っており、みはり台だったと考えられています。城山には、今は登れま
せんが、田中さんの子どものころは登れたそうです。今は、私の友達の岡本
さん宅の上に ヶ岡城の石ひが建てられ、大切にされています。
そして、井ノ原には室町時代阿波の守護だった細川真之氏のお墓がありま
す。戦国時代、細川氏は三好氏にせめられました。そして、この井ノ原で三
好氏に細川真之氏はうたれました。真之氏の家来は真之氏の首を持ち、今の
徳島市にある丈六寺までにげたそうです。 私はこのことを聞き、分かった
ことが二つあります。一つ目は、地域の人が石ひやお墓を建て、大切にして
いることです。 ヶ岡城の石ひは、岡本さんがきれいにそうじをしてくれて
いるそうです。細川真之氏のお墓に行くと、おまいりに来た人が書く名ぼが
ありました。その名いぼを見るとたくさんの人たちが細川真之氏のお墓に来
ていたことがわかりました。私もおまいりをし、
名ぼに名前を書いてきました。
石ひやお墓を建てて、
それらを地域の人たちが大切にしていました。二つ目は、
その地域に住んでいる人は、その地域に何があったか、何がおこっていたの
かをよく知っているということです。田中さんは、 ヶ岡城のことや細川氏
ヶ岡城のことをよく知っていました。
のことなど自分の住んでいる地域のことをよく知っていました。
石ひがある岡本さんも、
ヶ岡城の
この歴史は語りつがれていっています。この歴史を守っていくのは、私た
ちだと思います。この ヶ岡城や細川真之氏のこと、私も父も知りませんで
した。私は自分たちが住む地域の歴史や大切さを知りました。このことを知
らない人に教えて、自分たちの住む地域の歴史を守っていきます。
-48-
優秀作品 ︻中学校の部︼
-49-
金賞︵ 中 学 校 の 部 ︶
犬の墓
富岡東中学校 二年 安本 拡史
僕の祖母は海陽町浅川に住んでいます。昭和九年生まれで七十九歳です。
僕は祖母の話を聞くのが好きで浅川に行くのを楽しみにしています。祖母も
僕や兄が来るのを楽しみにしているようで、丹精こめて作った筍や芋を掘ら
れてくれたり、栗を拾わせてくれたりします。ここでは僕が祖母から聞いた
不思議な話を書きたいと思います。
それは、祖母が十六歳、昭和二十五年頃のことです。祖母の家は浅川伊勢
田にあり、浅川といえば漁村のイメージがあるかもしれませんが、伊勢田は
港から数km も奥に入った山合いの地です。伊勢田川という小さくて美しい
川が流れていて、僕たちは毎年一度は泳ぎに行って鮎をとったりします。そ
の伊勢田は海部川上流の川上地区や牟岐町の山間部ともつながっており、そ
の当時は山道を歩いて行き来していたようです。祖母の家は百姓で米を作っ
ていましたが、それだけでは一家十人を養っていくことはできなかったそう
です。梅を植えたり、山菜を採ったり、また海で を捕ったり、海水から塩
をとったりしそれらを川上や牟岐に売りにいったのだそうです。あるお盆前、
新制中学校を卒業して寺に和裁を習いに行っていた祖母が、曾祖母に連れら
れて墓参り用によく売れるというシキビを川上にとりに行ったそうです。山
の木はどれを切ってもいいというのではなく、一列おきに切るとか、細かい
枝は残すとか取り方にもきまりがあったようです。一部残しておくことで、
再生が早いからだそうです。
その日、事件が起こりました。夢中になってシキビを切っていた曾祖母が
ふと気がつくと祖母がいません。何度も呼びましたがいないので必死で探し
ていると下の川に、シキビを背中に背負い額を砂利につけたままうずくまっ
ている祖母を見つけました。目は虚ろで、心配して駆けつけてくれた山師た
ちが水を飲ませたらいいと教えてくれたので川の水を飲ませると、ごくごく
と何杯も勢いよく飲んだそうです。また持っていた握り飯を差し出すとがつ
がつと食べ始めたのです。その様子を見た山師が言ったそうです。
﹁おばさん、この娘はんには犬がとりついとるじぇ。この川のにきには昔、
主人を大蛇から守って首をはねられた犬の墓さんがあるんよ。ほの犬がのど
乾いて、腹減ってこの子にのりうつっとんよ。握り飯を食べれたけん、もう
いけるわ。だいじょうぶや。
﹂
その山師の言葉通り祖母はすぐに正気にもどり、山師が煮炊きしている灰
の上に﹁おじさん、ありがとうございました。
﹂と置き書きして帰ってきたよ
うです。僕はこの話を聞いて、犬は優しい祖母に何かを訴えたかったのだろ
うと思いました。
夏休みに母と県立図書館に行ったとき、何気なく﹃阿波の語りべ﹄を見て
いると、﹁玉笠明神社の由緒﹂として海陽町小川の中川守さんが書いた文章が
目に留まりました。
﹁何百年も昔、小川の玉笠谷に、狩人が来て野宿をした。連れていた犬が急
にけたたましく吠え、狩人に迫ってくる。狩人は殺気を感じ、犬の首を切り
つけた。犬の首は血しぶきを引きながら宙を飛び、狩人を狙っていた大蛇の
喉首に噛みついた。大蛇はのたうって落下し息絶えた。狩人は己の短慮を恥じ、
愛犬の死を哀れみ、猟犬の屍を背負ってヤレヤレ峠を越えようとしたが重さ
に耐えられずその麓に墓を作った。一方、大蛇の祟りを恐れ、その霊を鎮め
るために創建されたのが今の玉笠明神社で里人たちの信仰を集めている。
﹂
僕はこれを見て、興奮気味に祖母に電話をしました。祖母は六十年も前のこ
とだけれど、犬の墓がどこにあるのかずっと気になっていたそうです。そこ
で祖母と中川さん宅に行き、玉笠明神社に案内してもらったり犬の墓の場所
を近くまで行って教えてもらいました。中川さんは九十二歳ですがお元気で
犬のことも大蛇のことも詳しく話してくださいました。玉笠明神社前の渕は
深く青く、今でも大蛇が棲みついている気配が感じられました。地元民の信
仰を今も集めるオーラがありました。祖母はずっと心につっかえていたこと
がはっきりし、また犬の墓にお参りすることができて心が晴れたようです。
犬
「神さん、ここにおったんやな。こうじのおかげでやっとこれたわいな。
ありがとう。ゆっくりやすみよ。と祖母は朝顔にでも何にでも声をかけるけ
」
れど、墓の中にいる犬にも声をかけ、
忠犬の霊を慰めていました。僕も犬が笑っ
ているようでほっとしました。
僕は祖母の昔話を聞くのが好きです。そこには歴史があり、昔の人が大事
にした心があるからです。山に埋もれていた犬の墓の存在を僕は今まで知ら
なかったけれど、話を聞いたり墓へ行ったりして僕の心の中で忠犬が生き生
きと動き出すのを感じました。僕はこの話をたくさんの人に伝えていきたい
です。
-50-
銀賞︵ 中 学 校 の 部 ︶
無題
上八万中学校 二年 住友 裕哉
僕の祖母の母、長岡イチエひいおばあちゃん、大正七年生まれ九十五歳に、
ひいおばあちゃんの家で 昔「の話 を
」約二時間三十分聞かせてもらった。
まず、結婚した当時の話をしてくれた。
「
十九歳で黒のすそ模様の着物を着て歩いてお嫁さんに来た。花嫁道具は 五
さお 」今
( の五セット と
) いって、そのうち 二「さお が
」 夜具入れ ふ
( とん・ま
くら等 残
) り 三「さお は」たんすでそれらはリヤカーで運ばれてきた。その時、
今は亡くなっているひいおじいちゃんは、黒の羽織はかまで、家で待ってい
たという話だ。そして二人の芸者さんが三味線でむかえてくれた。結婚式は
今はホテルの式場で行われているが、昔は家の床の間で座って行われ、三三
九度のさかずきは親せきの人がしてくれ、両家のあいさつも親せきの代表の
人がしてくれた。お嫁さんは着物を訪問着に着替えて宴会が一日中行われた。
この宴会も始めに親せきのみでして、続いて近所の人が集まってしてくれた
ということだ。
結婚してから戦争もあり十一年目でやっと赤ちゃんを授かったという話も
してくれて、出産も家で産婆さん 今
( の助産婦さん が
) 来てくれて赤ちゃんを
とりあげてくれたらしい。 次に電気や水のことについて、話をしてくれた。
電気は家の中に一つしかなくて、隣の部屋に行く時に、その電気のコードを
延ばして明かりをつけていた。また水は、今では水道を回すとすぐに水が出
てくるけれど、昔は井戸水をくんできていた。風呂の水も井戸水からバケツ
にくんで運んでいたので、とても苦労する作業だから、そうそう毎日は入れ
なかった。又洗濯物は普段は井戸水を使って手で洗うが、夏になるとふとん
のシーツなど大きなものがあるので川に行って、洗ったりしたこともあった。
食料に使う水は 水がめ に
「
」保存していたということだ。
「まど を」使い、たき木は山で拾ってきて、火はマッチで
料理をする時は か
つけて、ご飯を炊いていた。ご飯は白米と麦を混ぜたものでおかずは梅干と
おこんこ た
( くあんのこと で
) 、魚や肉や卵は食べられなかった。にわとりを
飼っていたので卵を食べることもできたが、売ってお金にしていたそうだ。
やぎも飼っていたこともあり、やぎの乳を飲んでいた。やぎの乳しぼりも簡
単ではなく、やぎも乳をしぼられるのが痛いみたいで、後ろ足をバタバタと
暴れ、けがをしそうになったこともあった。
また、牛も飼っていてその牛は農作業に使っていた。田んぼを耕すのに、
牛の後ろにくわをつけて、連れて行くのだが、牛はあまりこちらの思うとお
りに動いてくれないし、田んぼに仕事をしに行く時はゆっくり歩き、夕方に
なり帰る時は速く走って自分の家の牛小屋に入っていたそうだ。たまに、仕
事をさせられるのがイヤな牛は田んぼまで行くが、油断をしている間に逃げ
て、勝手に家へ戻って来ていたりして困ったらしい。
僕はこれとらの話を聞いて、家で大切な行事をしていたのですごいと思っ
た。食べ物も今とちがっておかずも少ない上に栄養になるようなものを食べ
れなくても元気で過ごせていたのだなあと思った。また、何でも手作業でし
て苦しかったと思うのに、ひいおばあちゃんの話を聞くとあまり苦労はなく
明るく暮らせていたのだなあと思った。
」 言いながらも、昔の遊
それから、も「う、ばあさん昔のこと忘れたわい。 と
びやおやつや服装の話も続けてくれた。遊びは、女の子なのでおじゃみ お
(
てだま=手作りで中身は麦や米を入れてある物 や
) ビー玉やおはじきを使っ
て楽しんでいた。おやつは やさつまいもをふかしたものだった。ひいおば
あちゃんの実家は裕福だったのか、 やようかんを買ってもらえていたそう
だ。服装は着物に靴を履いていた。靴もこの当時高価なものでなかなか買え
ない物だった、という話も聞いた。
今も家で息子夫婦と孫夫婦とその子ども、全員で七人と一緒に暮らしてい
る。ひいおばあちゃんは、時々畑へ出て行って草を抜いたり、息子夫婦の農
業の手伝いを少ししたり、家族で一緒にお参りに行ったりもしているようだ。
近「所の友達が減ったんでよ。誰も遊びに来てくれんわ。と
」か寂しく話するこ
ともあるけれど、元気でいてほしいなと思った。
-51-
佳作︵ 中 学 校 の 部 ︶
中2
故郷の昔話について
市 場 中 学 校
二年
七條
魁
僕が保育所や幼稚園・小学校に通っていた頃、老人会の方々が度々訪れ、
大俣地区の自然や史跡、民話についてお話して下さった。
今でもよく覚えているのは、 1( 岩
) 滝用水や隧道探検、 2( 亀
) の甲羅の上
に建てられた真田昌五郎 怪
( 獣退治 の
) 話、 3( 岩
) 野の大岩、 4( 大
) 影の六地
蔵、 5( 大
) 変恐ろしかった首切れ馬等の話である。老人会の会長をしていた
祖父が近くに住んでいるので、故郷の民話について尋ねてみた。
市場町日開谷地区は、自然や史跡、民話の宝庫であるとのことだ。数多く
の民話の中から し
「らみず の」地名について話をしてもらった。
昔々、みすぼらしい旅の僧が日開谷地区を通っていて、喉が渇いたので一
軒の民家に立ち寄り、旅
「をしている者だが、喉が渇いて困っています。どう
か水を一杯飲まして下さらぬか。と言った。一人の老婆が出て来て、し
」
「ばら
くお待ち下さい。水を持って参ります。と
」言って家の中へ入ったが、待って
も待っても水を持って現れない。みすぼらしい身なりをしているので水をも
らえないのではないかと思い家を出ようとした時に、桶に水を入れて老婆が
現れ、お待たせしました。どうぞ水をお飲み下さい。と
「
」言った。お坊さんは、
水を飲み落ちつくと老婆に尋ねた。水
「は何処から んできたのですか。老」婆
は このあたりには泉はありません。崖道を下りて、日開谷川まで行って水を
「
んで来ました。と
」言った。お坊さんは、お婆さんの優しい心に感動すると
共に、人々が生活するのに必要な水を苦労して得ていることを知り、大変気
の毒に思った。お坊さんは、水に苦労することのないように、貴方の家の近
くに泉を作ってあげようと言って、錫伺を地面に突き立てると水が噴き出し
泉が出来たそうです。このみすぼらしい僧が弘法大師様で、地域の人々は、
泉の近くに大師像を造り、花を供え、いつもお墓参りしているとのことだ。
この地区の地名も泉を上下に分解して白水 し
( らみず と
) なり、市場町日開谷
字白水として大師伝説が残されている。
白水のすぐ南には、犬ノ墓大師堂もあり、弘法大師が犬を連れて歩く石像
や戌墓と刻まれた球形の墓が祀られている。旧遍路道には道しるべの石が数
多く残され、昔の人の信仰の様子を偲ぶことができる。
-52-
佳作︵ 中 学 校 の 部 ︶
無題
不動中学校 二年 華奈
私にはおじいちゃんがいます。とてもやさしくてみんなを笑わせてくれる
楽しいおじいちゃんです。そんな私のおじいちゃんはいつも昔の話をたくさ
んしてくれます。ではその中の一つを紹介したいと思います。
まずはおじいちゃんが小さい頃の家族構成を紹介します。おじいちゃんの
他に弟二人、妹二人、祖父母、両親の合わせて九人の大家族でした。その頃
はまだ戦争がありましたからおじいちゃんのお父さんはおじいちゃんの小さ
い頃に亡くなりました。
そしてもちろん弟や妹は小さいですから、おじいちゃんのお母さんとおじ
いちゃんは家庭を二人で養っていました。家で蚕を飼いその下で寝る、豚や
鶏を飼い自給自足の生活だったそうです。今とはとても比べれるような生活
ではありませんが、とても大変だったそうです。授業の間にはまたかまたか
というふうに空襲が多くあり、まともに授業など受けられるレベルではなかっ
たそうです。家に帰っては勉強も遊ぶこともできず、家の手伝いばかりだっ
たそうです。
そして今になっては戦争もなくなり、平和な世の中になりました。ですが
私の小さい頃におじいちゃんのお母さんが亡くなりました。おじいちゃんは
とても悲しんでいました。やはり一番多く、おじいちゃんはお母さんを長く
見守ってきたからだと私は思います。そしてお母さんを見守ってきたおじい
ちゃんのやさしざが私に対してやみんなに対してのやさしさだと思います。
私はそんなおじいちゃんみたいに優しい心を持った人になりたいです。そし
て私は何よりおじいちゃんの事が大好きです。
-53-
佳作︵ 中 学 校 の 部 ︶
おじい ち ゃ ん の 話 を 聞 い て
鳴 門 市 第 一 中 学 校
三年
東條
愛果
私には、おじいちゃんがいます。私の家のとなりで住んでいます。お父さ
んとお母さんが仕事をしているので、学校が終わるとおじいちゃんの家で過
ごします。おじいちゃんは私が、学校から帰ってくると、笑顔で お「帰り。と
」
言ってくれます。雨が降っているときは、学校に迎えに来てくれます。とて
もありがたいです。
おじいちゃんは、いろいろな話を私に聞かせてくれます。例えば戦争の話
です。朝の連続ドラマを見ていたとき、空襲のシーンがありました。そのと
きに、おじいちゃんが、五歳のときにあった徳島大空襲の話をしてくれました。
大空襲のときには、夜なのに、空が赤かったそうです。おじいちゃんは、逃
げているとき、家族と離れ離れになって、気がつくと、吉野川の橋の下にい
たそうです。どうしたらいいのかわからなくて、困っていたおじいちゃんに、
知らない人が、ぼく、そんなところにいたら危ないよ。と」言って、安全なと
「
ころへ連れて行ってくれたそうです。安全なところは、
防空壕です。防空壕は、
地面に掘った穴です。空襲でけがをしないように避難する場所です。
空襲のときにはみんな防空壕に避難するので、知らない人がたくさんいた
そうです。おじいちゃんは、知らない人ばかりの防空壕で、一晩過ごしました。
窓もないので、とても暑かったそうです。一人で不安でお母さんをさがしに
行きたかったけれど、我慢したそうです。それで、おじいちゃんは、助かっ
たそうです。次の日、おじいちゃんは、家族の人とも会えたそうです。その
時はすごくうれしかったんだなあと思います。吉野川の橋の下でいた人は、
けがをしたり、亡くなっていたりしたそうです。知らない人が声をかけてく
れたこと、我慢したことで、命が助かり今の生活につながっているのだと思
います。今は、知らない人について行かないという学習をしているけれど、
戦争のときには、人と人が助け合っていたんだなあと思いました。人の心は
平和であったんだなあと思いました。おじいちゃんは、今、七十四歳なのに、
五歳のときのことをはっきりと覚えているのです。今、私は十五歳ですが、
五歳のときのことは、あまり覚えていません。すごい経験なんだなあと思い
ました。私ももしかしたらこんなことがおきたら、おじいちゃんみたいに覚
えているのかなあと思います。
私は、今まで怖いこともなく、悲しいこともになく生活できています。
いしい野菜もおじいちゃんが作ってくれているので、食べることもができま
す。おじいちゃんの戦争の話を聞いて、私は、とても幸せなんだと思います。
私は、時々、いやなことや気に入らないことがあると、お母さんやお父さん
に反抗したりすることがあります。でも、我慢することも必要なんだなあと
思えるようになりました。おじいちゃんが戦争の話を聞かせてくれたからで
す。これからも私に話をいっぱい聞かせてね、おじいちゃん。 -54-
講評 ﹃つながる命﹄
夏休み。久しぶりにじいちゃんやばあちゃんと会った?
お父さんやお母
さんと話しをするのとはちょっとばかりちがうよね。そこで聞いた話が集まっ
て来ました。小・中学生のみんなから104点も。第一回と言うことで、ど
んな話が聞けたのかなと興味深々でした。ふたをあけてみたら内容は﹁昔の
遊び﹂が一番多くて、﹁昔の衣食住﹂﹁地域の伝説﹂﹁戦争の思い出﹂と続きました。
金賞を受賞したのは川内北小学校3年生、佐藤優実さんの﹃黒い小さな仏
様﹄
。話してくれたのは76歳の祖父。ご先祖が海で仏様を拾って寺に納め、
その縁で小さな仏像をもらった話です。同じく金賞受賞したのは富岡東中学
校2年生、安本拡史さん﹃犬の墓﹄
。話し手は海部町に住む79歳の祖母です。
祖母が犬神に取りつかれた不思議な話です。内容も面白かったけれど2人と
も、真剣に話に聞き入っている姿が浮かんできます。
﹁他人の話を聞く﹂とい
うことは、実は大変エネルギーのいることです。でも、一生懸命に聞いてく
れているとわかると、
つい話し手も真剣になってくる。話が面白くなってくる。
身を乗り出して聞いてくれる相手が孫や、孫のような子だったらよけいに力
が入る。そんなやりとりが文面から伝わってきます。銀賞の国府小学校3年生、
佐藤響さんの﹃朝鮮から引き揚げてきた祖父の話﹄は読みながらドキドキし
ました。そばで聞いていた佐藤さんも同じだったと思います。いえ、それど
ころか驚きの連続だったでしょう。0歳7か月の祖父と8歳の姉が戦争が終
わって、朝鮮︵今の韓国︶から日本に帰ってくる話です。応募作には祖父母
から聞かされた戦争によって悲惨なめにあったことや、その後の苦しい生活・
食糧事情などの体験話が多く出てきました。そこから、戦争によって人がど
んなに悲しく苦しい目に合うか、こんな悲劇は繰り返してはならない、とい
うメッセージが語られ、聞いている小・中学生のみんなの心に届いたことで
しょう。でも、もう一つ、佐藤さんや他の人の作文にはこういうことが書か
れています。﹁先祖や、祖父母がいたから、今の私たちがいる﹂。
読んでいて驚くことも多くありました。﹁昔の賑わった鳴門の話﹂︵松茂小・
松屋さん︶﹁祖父家の珍しい苗字の由来﹂
︵文理小・藤本さん︶﹁阿南鉄道の話﹂
︵羽ノ浦小・井本さん︶﹁応神町のあばれじしの話﹂
︵鳴門付属小・岸本さん︶。
他に﹁オッパショ石﹂
︵文理小・井上さん︶﹁はだかづか神社ととどめ橋﹂︵富
岡小・菰田さん︶﹁大麻比古神社にまつわる話﹂
︵北井上小・橋本さん︶など
民俗学的にも貴重な話が出てきました。日常の暮らしの中から﹁遊山箱﹂︵文
理小・近藤さん︶など郷土にまつわる昔の遊びや食べ物の話なども豊かに生
活を楽しんでいる様子を生き生き伝えてくれた人も多くいました。
よくぞ聞いてくれました、話してくれました。読ませていただいてありが
とう。来年も、また楽しみです。
審査委員長
児童文学者
日本児童文学者協会・徳島支部長
竹内 紘子
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あとがき ﹃心からのエール﹄
民俗学に携わるようになって数十年が経ちますが、子どもたちがこれほど
までに素晴らしい聞き手であることに感嘆せざるを得ません。金銀の受賞者
のみならず、一つ一つの作品が貴重な民俗資料と言えるでしょう。﹁海部のお
盆の話﹂
︵平島小・重成さん︶
﹁大麻比古神社で神様に拾ってもらった赤ん坊
の話﹂
︵北井上小・橋本さん︶
﹁おばあさんの婚礼が決まった日庭に墓石が並
んでいた話﹂
︵鳴門教育大付属小 益田さん︶
﹁酒屋さんの話﹂
︵松茂小・松屋
さん︶などまことに興味深く読ませていただきました。
また、聞き手と話し手の間に流れた温かな時間をしみじみと感じさせてくれ
ました。文中に、お話を伺った方が間もなく他界された由、書かれていたも
のもありました。
松屋篤史氏は私が奉職していた高等学校の卒業生です。現在、東京を拠点
に上海、厦門︵アモイ︶と経営コンサルタント業を精力的にこなしています。
彼はしばしば、日本人のアイデンティティについて言及し、家族や故郷や国
を愛する気持ちの大切さが失われつつあるのではないかと危惧をしていまし
た。
おじいさんおばあさんから昔のお話を聞くのはどう?﹂
それは﹁子供たちが、
という何気ない一言から始まりました。一か月後には﹁作文コンクールをし
ましょう﹂という具体的な案として、実行していくことになりました。
コンクールは徳島県教育文化研究所の諸先生方の熱いご支持とご活躍によ
り実現することが出来ました。その結果これほどの作品が集まろうとは思い
もよらないことでした。
冊子を作ることも当初からの目的でした。書いて残すこと、後世の人々に伝
えていくことに大きな意味があると考えたからです。
珠玉のような百四の作文に心からのエールを送りたいと思います。
これが次年度への大きな足掛かりとなりますように。
審査員
日本民俗学会 徳島民俗学会 会員
徳島地域文化研究会理事
関 眞由子
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徳島県小中学生作文コンクール
第1回 昔の話を伝えていこう 2013
作品集
発行 2014 年1月 19 日
イラスト・編集 HIKO S DESIGN STUDIO