(34)切腹で抗議、親米言論人も激怒した 「反米」決定づけた排日法 「事件」が起きたのは、大正13(1924)年5月31日の早朝だった。東京の赤坂区榎 坂町(現港区赤坂1丁目)の米国大使館に隣接する子爵(ししゃく)邸の植え込みの中 に、男の遺体が見つかったのだ。 翌日の東京朝日新聞によれば、短刀で腹を真一文字に切り、カミソリで右頸部(け いぶ)を切断しており、即死の状態だった。 「人品いやしくない」40歳前後の男だったが、身元を示すものは何もない。代わりに 「米国大使ウッジ氏を通じて」米国民にあてた「遺書」があり、「正義を標榜(ひょうぼう) する米国民が不法なる排日案を決議するとは…」という抗議文が書いてあった。 5日前の5月26日、カルヴィン・クーリッジ大統領の署名により成立した米国の「排日 移民法」つまり日本からの移民を禁じる法律への抗議の自殺であることは、日本人なら 誰でもわかった。 8日後には氏名不詳のまま、国家主義者、頭山満らによって「国民葬」まで開かれた。 それほど、この法律による「反米」感情は高まっていたのである。 実はこの法案は当初、第一次大戦後急増している欧州各国からの米国への移民を 制限、各国にその数を割り当てるものだった。それなら日本も制限を受けても仕方ない との構えだった。 ところが前年暮れ、米議会に提出された法案にはその趣旨と関係ない条項が入っ ていた。「帰化を許されない外国人移民」を全面的に禁止するというものだった。 「帰化を許されない外国人」とは中国、インドを含むアジア人を差別する規定だった。 そして日本人を除くと、すでに移民を禁止されており、日本だけは「列強扱い」で除外 されていたのだ。新移民法は、その日本からの移住も全面的に禁止するものであり、 日本人が反発するのは当然だった。 この新移民法に排日項目をもぐり込ませたのは、アルバート・ジョンソンら排日派とも いえる上下両院の議員たちだったが、排日運動の歴史は1890年代にまで遡(さかの ぼ)る。特に日本人移民の多い西海岸のカリフォルニア州などでは顕著だった。 日本人が低賃金で真面目に働くため、米国人の仕事が奪われる。さらに、日本人が 日本の風習をそのまま守り、米国社会に同化しない。低賃金ゆえに貧乏な日本人は 不潔に見える。といった理由が差別意識を育てたといわれる。 大正2(1913)年、カリフォルニア州で日本人の土地を取り上げる排日土地法案が 成立すると日本政府も真剣に抗議を始め、日米関係は悪化をたどる。 大正8(1919)年に開かれたパリ講和会議で、国際連盟設立が議題になったとき、日 本は「加盟国が加盟国を差別してはならない」という条項(後に宣言)を入れるように提 案し、賛成多数を得た。だが議長国の米国が「全会一致が必要」と否決し、さらなる日 本の反発を買った。 排日移民法はその4年後に提案されたが、クーリッジ大統領やチャールズ・ヒューズ 国務長官は日本の反米感情を恐れ反対した。 しかし当時の埴原(はにはら)正直駐米大使が「この法案が成立すれば、日米間に 重大なる結果を及ぼす」という書簡を米政府あてに送ったところ、これを議会の反日派 が「恫喝(どうかつ)だ」と騒ぎたてた。 ほとんど「イチャモン」と言ってよかったが、結局クーリッジも署名せざるを得なかった のだ。 その直後、清浦奎吾内閣に代わり発足した加藤高明内閣で外相についた幣原喜 重郎は移民問題に冷静に当たろうとし、関係改善につとめる。 だが日本の世論は「反米」一色に染まっていく。親米派のジャーナリストとして知られ た清沢洌(きよし)でさえ、米国が埴原の書簡を逆手に取ったことを「巨人は(打たれた 者の)抗議の文句が気に食わぬと言って激しく打ちのめした」と新聞のコラムで厳しく 批判した。 その後も改善の動きはあったとはいえ、開戦にまでいたる日米の亀裂はこのとき、決 定的に強まったのである。(皿木喜久) 【用語解説】日本人の移民 日本での近代移民は、明治元(1868)年、ハワイに移住した158人が始まりとされる。 明治10年代から本格化するが、満州国などへの国策的移民を除けば、北米や中南 米への農業従事者がほとんどだった。 先の大戦の敗戦当時の一般在外邦人は北米(約半数はハワイ)が約41万人、中南 米が24万人(平凡社大百科事典)とされる。移住する日本人の出身地は熊本、山口、 広島、沖縄など西日本が多かった。戦後はブラジルなど南米諸国と移民協定を結び、 移住が再開されたが、国内産業の発展で数は少なくなった。
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