〔2〕竹の久保時代 - 長崎ウエスレヤン大学

鎮西学院1
2
5周年記念誌
鎮西学院物語
〔2〕
竹の久保時代〔鎮西学院物語〕
代院長は川崎
!
鎮
西
学
院
物
語
升氏(1921∼1
936)、第16代院長田川
鎮西学院が思い出残る東山手の老楠を後にし竹の久
精一郎氏
(1936∼1937)、第17代院長西条寛雄氏
(193
7
保へ移転したのは、
19
24
(大正1
3)年2月6日鎮西学院
∼1942)
であった。
以下下記、1.竹の久保校地・練兵場
の本館が暖房設備の不備により焼失全焼したことに始ま
払い下げの顛末、
2.川崎升院長伝−川崎院長の人格
る。
復興計画も進められたがこれを機会に現在の狭くて窮
主義教育と新校舎落成−、
3.竹の久保時代の思い出−
屈な校地から移転して適当な土地に校舎を建設しようと
学徒動員令と鎮西学院報告隊−、4.原子爆弾投下と鎮
の議が起こり竹の久保の土地を入手することができた。
こ
西学院−被爆5
0周年を迎えた鎮西学院はフェニックスで
の労に直接当たられたのは川崎升院長であった。
しかし、
ある−、5.千葉胤雄先生の1945年8月9日の順に掲載
1
94
5
(昭和2
0)
年8月9日のあの原爆により諫早への移
する。
転を余儀なくされたのである。
この時代を支えられた第1
5
1.
竹の久保校地・練兵場払い下げの顛末
鎮西学院が東山手より竹の久保に移転するについては、
考えであるなら、
旧重砲隊練兵場の跡はもっとも適当であ
その新しい校地となるべき地である竹の久保の旧重砲隊
ろう、払い下げの希望があるなら私も尽力してあげよう。
練兵場の跡地を獲得しなければならなかったが、
目的を
もっとも市が払い下げを受けたいつもりでいるから、市の諒
達するまでには容易ならぬ障害があった。
解を得る心要がある。市もいまのところ何に振り向けるとい
う確定的な用途がないようだから、市の諒解を得ることが
1)
もともとこの話
できるだろう、
と示唆したことから問題が始まった。
この話は、
1
9
2
4
(大正1
3)
年2月6日の火 災の後、
復
興に当たっては従来より広い面積の土地を選択し、
かつ建
2)
払い下げの経過
築資金の準備をする必要があった。
それについて県・市よ
!その翌日、川崎院長は建築費に対する補助を錦織幹
り相当の補助を受ける必要もあった。
市長に懇請したがこれに対して市長は同情的であり、
敷
そのため院長が県の内務部長の大森吉五郎氏を訪問
した際、大森の方から、
もし浦上方面に移転地を選定する
地の件についても市長は反対の態度を示すということでは
なかった。
院長はなお、市会議員であり議会の学務委員である中
川観秀氏に会い援助を懇請した。
その折中川は、北大浦小学校の校舎が腐朽して改築
の必要がある、
鎮西学院が移転した跡を市に譲ってもら
いたいと申し出てきた。
この話は進んで、結局長崎市長室で、
市長と川崎院長
との間で、長崎市は浦上錬兵場跡の払い下げは鎮西学
院に譲る、
そして学院の現在地は市が買い受けるという相
互諒解が成立したのである。
川崎院長は、
これは、
19
24
(大正13)年2月12・1
3日頃
練兵場跡に立ち上がった鎮西学院の校舎
のことであったと記している。
10月10日夜、
市会協議会が
79
$. 鎮西学院物語
開かれて右の件が附議されたが、
意外にも紛糾して議論
の移転地として希望のあるむねの報道記事さえもあらわれ
はまとまらないで散会となってしまった。
るに至った。6月のはじめには、市は先願権がありと主張し、
すでに市会の予算委員会でも充分諒解されていたし、
すでに3月には抗告書さえ大蔵省に提出されていることも
10月9日には、
市長は、
例の問題は明晩協議会に附する
判明するに至った。
1925
(大正14)年1月に、市は練兵場
ことを院長に語っていたのである。
跡地の払い下げの先願権を放棄して鎮西学院に譲ること
会議がまとまらなかった理由は、
鎮西学院の現在地の
として、
その意思を表わした副申書をつけて、
鎮西学院へ
坪単価3
5円という学院提示の価格が高いという点であっ
の払い下げ出願書を熊本税務監督局に進達したが、
市
た。
(この価格については市長は事前に院長に諒解を与え
商の移転改築地として市に払い下げを受くる要望が起
ていた。
)
こったので、
これらの書類を返付されたいとまでいっている
1
2月の半ばに至るも情勢ははかばかしくなかったが、
18
ことも判った。
しかも鎮西学院は市のこのような意思がある
日夜開かれた市の協議会では、
鎮西の東山手の土地を
ことを知っておりながら、
なお出願している。
これは不穏当
買うことは止めるが、浦上練兵場は鎮西に譲るということに
な行為であるとさえ陳述されていた。
川崎院長にすれば
なった。
この件については市長が19日院長と会見の節、
語
「市商側の希望は無理ならぬこととは思い、
したがってそ
るところがあった。
の事情は諒とする」
も、
「やはり鎮西としては迷惑なき能はさ
!1
9
2
4年1
2月2
8日、鎮西学院商議会
(理事会のことであ
る次第なり」
であったわけである。
ふん まん
る)
は開かれ、地価を3
0円とし、
19
2
6
(大正1
5)
年の夏休み
中に移転断行の議を決定した。
明けて19
2
5
(大正1
4)
年2月2
8日夜の商議員会では、
いかのごとく、強い口調をもって筆を走らせている。
「その後
市立商業学校より払い下げを市に迫られるにいたりしは、
%、
地価は坪3
0円とする。&、
代金は1
4年・
1
5年・16年の
市商側としてはいちおうもっとものことと同情すべきなり。
し
三回払いでよろしい。'、市に売却する時は、
鎮西学院の
かれども市長は、鎮西に与へたる諒解を反古にせざるよう
移転を1
9
2
6
(大正1
6)
年3月までに完了する。
市商側に説き、
練兵場以外他に適地を選定することを考
以上三点を決議した。
(この三つの条件は、
その日市議
慮せらるるこそ正当なり。
しかるにことここに出でず利益を
会の予算委員会が院長に出席を求め、
院長に要請した
争う商事件に見るがごとき醜運動を教育機関のためにな
条件であった。
)
さしむるにいたりしことはたして市長として公正の処置なる
このことはただちに予算委員会に報告された。
べきや。
かつ市長が市商を市の学校なりとしてこれが経営
3月3日委員長から院長に会見したいむね電話があ
に忠なるははなはだ善し、
しかれども鎮西学院を市の教育
り、
直後委員長宅を訪問した院長に対して委員長の話は、
事業に無関係のごとくにいいなし、
これを保護援助するより
委員会と市長が協議したところ市長は委員会のいうことを
は、
これを迫害せんとせらるるははなはだ奇怪のことと曰ざ
容れない、
市長のいうところでは鎮西学院が浦上練兵場
るべからず。」
に移転することは不可能である、
その第一の理由は、
鎮西
#じつは、3月4日市長が書類取戻しの公文を熊本税
が外国人の学校であるから払い下げの資格がない、第二
務監督局へ発送したということは、
ある事情によって院長
の理由は、
たとえ資格があったとしても払い下げを受ける
は知ることができたのであった。
よって3月4日夜行で熊
ための金がない、
とのことである。
第二の理由は内部に立
本に向かった。
6日朝、熊本監督局に着いたときは、
そし
ち入り過ぎるが、第一の理由については学院の方でも確か
て局長代理永井経理部長に会見できたときは、市長の公
めておられるところがありますかどうか……。大要はこのよう
文書はまだ到着していなかった。
な内容であった。
この時点で学院は、
市長が払い下げ反
80
川崎院長は、
ここにいたって胸中の憤懣を抑え切れな
院長は、
それまでの経緯の事実を詳細に意見を述べて
対の考えに立っていることを知ったわけであった。
いる。官庁側には好感を持たれた手心はあった。
ともあれ
"かつまた4月1
8日の夕刊の新聞では、
長崎市立商業
しかし、
ことは簡単には進まなかった。
暗雲漂って晴れやら
鎮西学院1
2
5周年記念誌
鎮西学院物語
ぬままに月日は経って行くのみであった。
1
9
2
4
(大正1
4)
年11月2
0日、
大蔵省に対する最後の運
長崎の秋永教頭の許に達したのは5時頃である。職員生
動をなすべく川崎院長は上京する。
21日汽車は東京着の
徒に発表されるとともに、各新聞社に電話で知らせた。
当
予定ではあるが、
22日は日曜、
2
3日は祝日。
よって22日朝
日開催されることになっていた市民大会の開始3
0分前に、
は静岡の義兄の受洗式に臨み、
その夜は乞われるままに
同大会の幹部たちにも伝わった。
ことは終わった。
移転の
日本基督教教会で、
説教をしている。川崎院長は、
その
話が始まってからじつに1年10か月を要したのである。
日はじめて2
3日が休みで大蔵省の用件も24日にならねば
1924
(大正13)年の2月から始まり1925
(大正14)
年11月
どうにもならぬことに気付いたのであった。
そして
(この急迫
27日、
ことはようやくにして解決したのであつた。
の場合2日間の遅延生ずるは苦痛のことなりと少なから
院長にとってはさぞやもどかしい1年10か月であったろ
ず失望の感ありしも、
……)
と記している。
23日夜東京の吉
う。
たいがいの者ならば、
堪忍袋の緒を切らしたであろうし、
岡誠明氏宅に旅装を解く。
焦り苛ら立ったであろう。
すでに秋永寿一教頭から電報及び書面をもって長崎
!
鎮
西
学
院
物
語
過ぎであった。
院長が成功の電報を打ったのが4時過ぎ、
それでも院長は、
その艱難に耐えている。
の状況が報じてきていた。
市民大会なるものが着々準備さ
美濃紙69枚、
12,
000字に余るこの文書を読んで感じる
れていることが知らせてあった。
院長にははなはだ心重い
ことは、川崎院長のけれんのない誠実な動きである。
策に
状況であった。
対するに策をもって応ずるというのではない。道理に従って、
「驚愕心根に徹せり。
ほとんど茫然自失両手を後頭部
道理のある動きをしていることである。神を信じ、
自分の動
に置きてうつ伏せになり深き沈黙に脆せられたり」
と記して
きに慎重である。
それはまことに、
誠実の勝利、
祈りの勝利
か
いる。
しかし
「斯くなりては最早致方なし。
ただ何とか対策に
とでもいうべきであろう。
熟慮するより外取るべき道なし」
ともいっている。
長崎の状況に対応しての方策は、
院長と秋永教頭との
3)
顛末書
間で電報による連絡によって、
打たれつつあった。大蔵省
「顛末書」
の最後に、川崎院長は次のように記して、
文を
では、国有財産課・司計課・文書課等の調印事務が、
つ
結んでいる。本件の発展は、意外に始まり意外に進み、
意
まり行政事務上の調整がまだ完了していなかった。
大臣・
外に行き詰まり、意外に展開し、
意外の発展と世間騒がせ
次官の内々の諒解はあって、
おおよその見通しでは、
認可
に陥り、意外の同情者、援助者を得、終始何物かに導か
の下りる傾向にはあったが、
26日の段階においても司計課
れて成功の終局に達せしことの感はなはだ深し。
感謝の
長も、
財団法人鎮西学院の資金についてなお疑問を持つ
裡になお天祐を祈り摂理の御手に導かれ祝せられて神国
ており、
まだまだ予断を許さなかった。
建設の教育機関として鎮西学院が完成せんこと発展せ
!事実すべての事務が終わり、
大蔵大臣の決済があり、
んことを祈りて止まざるものなり。
熊本税務監督局に指令が送られたのは2
7日午後3時半
2.
川崎升院長伝
−川崎院長の人格主義と新校舎落成−
バウン哲学を基に敬神愛人の標語を掲げキリスト教主
1924
(大正13)年学院本館が焼失したのを機に、
竹之久
義人格教育に情熱を傾ける一方、
体育館の建築、
運動場
保の旧主砲兵練兵場跡に校舎を新築、
1
930
(昭和5)年
の造成、恩給規約の制定、
財団法人組織化などに携った。
東山手から移転、
その後の大不況による財政困難を乗越
81
". 鎮西学院物語
川崎升院長・佐藤秀夫先生とクラスの生徒たち
川崎升院長
え、
また配属将校の理不尽な干渉や弾圧に毅然として対
キリスト教人格主義:
「西郷南洲
(隆盛)
のいわゆる敬天愛
処した。
人は人格主義の主張そのままである。神を敬う心は人を敬
川崎先生には
「絶望」
なる文字は不必要であった。
「望
みて喜び」
は先生の不断の処世態度であった。
なお、
「め
ぐみのひかりは わが行きなやむ やみ路を照らせり 神
う心を厚くするものである。人を敬う故に人を愛する。而して
忠孝仁義の心、
はこの間にあるのである。……。
鎮西学院はただ一つ人格主義の主張として敬天愛人
は愛なり」
の大思想に基づき、
敬虔自治を訓育上特に高調する点
これはじつに川崎先生の信仰であった。
が特色なのである。」
(川崎升院長講演より)
『望みて喜び』
(ローマ12
:
1
2)
。讃美歌「めぐみのひかり
配属将校:
1926年に全国一斉に陸軍省から将校を配属し
7番であり、
(望みて喜び)
は、
ローマ信徒への手
は」
は!―8
て軍事教練がはじまった。最初の頃は穏健な将校が配属
紙1
2章1
2節
「望みをいだいて喜び、
艱難に耐え、
常に祈り
され、
チャペルなどの宗教教育に協力的であった。戦時色
なさい」
の心そのものである。川崎院長は絶望する人でな
が濃くなると、配属将校の発言は軍の威力を背景に増大
かったようだ。艱難に耐え得る人であったようだ。苦難に耐
していった。
「日本の皇道こそ世界唯一の真理であり、
外
えるということはよほどの意志の強さを持つ人でなければ
国の思想や宗教は一切不要であるという発言や、
キリスト
できない。
そしてそれは単なる強がりではできないことであ
教倫理、聖書に基づく人格教育を行うことは敵性謀略行
る。
一時の我慢は誰にもできる。
世には見せかけの忍耐も
為だ、反軍思想だと批判し、
チャペルの説話の言葉じりを
ある。
しかしそんなものは永続きしない。必ずやその本性の
とらえては校長室に、宗教主任に、宣教師に対して露骨な
粗暴を暴露するであろう。
苦難に耐えるということは、強い
いやがらせをおこなった。
意志によってである。
しかもその強い意志は、神によりたの
むということから来る。
また
「他学校とくらべてこの学校には不具者、
病弱で教
練も出来ないような生徒が多いのは一体どうしたことか」
と
「わたしを強くして下さるかたによって、
何事でもすること
詰問した。川崎升院長「たとえ身体は不具者であっても日
ができる」
(ピリピ信徒への手紙4章1
3節)
、
川崎院長は、
本人同胞であって、
陛下の赤子です。教練は受けられなく
まことに祈りの人であり、
それと共に神の愛を信じた人で
とも教育をして立派な日本人に育てる責任が私どもに与
あったと思う。
だからこそ長い苦難にも耐え得る人であった
えられていると信じて入学させているのです」
と答えた。
こ
ろうし、
それゆえにこそ
「絶望」
する人ではなかったのであ
れに対してさすがの師団長もだまってうなずくほかはなかっ
ろう。
た。配属将校のすべての人がこのようにあったのではない。
静かに黙々と読書に耽ってばかりしていた人、柔和な文化
キリスト教人格主義と配属将校
82
人とおもわれる型の人、
「クリスチャンの婦人を妻にしたい
鎮西学院1
2
5周年記念誌
鎮西学院物語
からよろしく頼む」
と川崎院長に依頼し、
活水女学校出身
の人を妻にされた人がいた。
「聖書の教えは人間の道とし
て背骨に通じる」
として、
みずからチャペルの時には、讃美
歌・聖書を手にして、
生徒の入場、
着席の指導に当たった
人もいた。
〔川崎 升院長略歴〕
日本メソジスト教会牧師、
教育者。 日向飲
肥
(現・日南市)
で旧藩士の長男として1
8
7
0
(明治3)
年8月8日
に生まれ、
1
8
8
7
(明治2
1)
年長崎のカブリー英和学校を入学の目的
で下見に行き、
1
8
9
1
(明治2
4)
年校名が変わったばかりの鎮西学館
(現、
鎮西学院)
に入学、
1
8
9
8年鎮西学館神学科
〔神学科3回卒〕
を卒業とともに、
久留米・柳川・大牟田など九州各地で牧師として伝
道に従事。
1
9
0
1年に渡米、
ボストン大学で哲学を専攻、
教授バウン
(Bowne, Bordon Parker)
の高弟となり、
神学士の学位も授与され
た。
1
9
0
7年1
1月に帰国と同時に鎮西学院教師に迎えられ、
東山手
ウェスレー教会牧師および活水女学校
〈活水学院〉
教師を兼任。
1
9
1
3
(大正2)
年、
九州学院教頭として赴任、
同時にルーテル神学
校の教授として神学を講じた。
1
9
2
1年鎮西学院院長に就任。
1
9
3
6
年長崎で病没。
〔出典:
『鎮西学院9
0年史』
1
9
7
3、
日本キリスト教歴史辞典教文館
1
9
8
8、
鎮西学院百年史1
9
8
1、
鎮西学院史跡ガイドマップ 2
0
0
5年〕
!
鎮
西
学
院
物
語
3.
竹の久保校舎時代の思い出
−学徒動員令と鎮西学院報国部隊−
森
幹雄
私が学院へ就任したのは19
39
(昭和1
4)年の頃で、
当
この辺りは長崎市の工場地帯で、校舎の窓から三菱兵
時学院の校舎は長崎市竹の久保の旧陸軍重砲兵大隊
器、三菱製鋼等の重工業会社の工場をはじめとして大小
の練兵場跡の高台の上に建っていて、
鉄筋コンクリート4
の工場が目下に見渡され、
工場の騒音が、
あるいはけた
階建の堂々たる校舎であった。
この丘から浦上の野を一
たましいサイレンが聞えるといったありさまであったが、校
望に見晴らすことができた。
舎の裏側は稲佐山の山裾で、
のんびりした田園風景を楽
軍事教練
森先生とクラスの記念写真
キ配
リ属
ス将
ト校
教に
教よ
育る
反
対
宣
伝
森幹雄先生の授業
戦時下の木炭集め勤労奉仕
83
!. 鎮西学院物語
し れつ
しむこともできた。
19
39
(昭和1
4)
年といえばもうすでに日支
戦争が熾烈になりゆくに従って、
学校の生活も非常時ら
事変が勃発していて、
街には出征兵士を送る盛んな行列
しくなり、
まず食糧増産に学徒の労力奉仕が要請され、
田
が駅へ駅へと続いていることがしばしばで、
軍国日本一
植時、秋の収穫時には宿泊あるいは通勤で農家の加勢に
色に塗りつぶされようとしているときであった。
行った辛かった思い出もあり、
また大根や芋などをたくさん
しかし、
学院の中では静かに神への礼拝が続けられ、
平和への祈りがなされていた。
学院長西条寛雄先生の柔
御土産にもらって生徒たちと帰る楽しい思い出もあった。
グ
ライダーが軍より下附され、毎日校庭で職員も生徒もロー
はくはつしゃ がん
和な白髪赭顔、
独特のジェスチャーをなされる風格ある田
川精一郎教頭、
頚をすこしかしげ気味にしてもの静かに
プを引かされたり、無理に乗せられたりしたこともあった。
軍事教練査閲の厳しかったこと、防空訓練が激しかっ
語られる千葉胤雄宗教主任の温顔、
明朗なクリスチャン
たことなど思い出は尽きない。
1943・
1944
(昭和18、
19年)
剣士の梶原八郎先生、
古武士のようないかめしい顔つき
ともなると、学徒動員令が下り、
鎮西報国隊の出動が始ま
をしていられたが温情あふるる村上圭一数学主任、
口や
り、
ついに1944
(昭和19)年5月頃から3年生以上は完
かましい几帳面な国語の池袋春樹先生、
まじめ一方の今
全に工場勤務となり、正規の授業はまったく不可能の状態
坂啓四先生、
厳しい訓育主任として生徒から畏敬されて
となった。
いた佐藤秀夫先生、
若いが謹厳な秋永薫先生、
熱心なカ
ルビン研究家の正木次夫先生、首から補聴器をかけたス
空爆も次第に激しくなり、
真夜中に学校警備に非常召
集される辛さはいまも忘れることはできない。
コット先生、
柔和で優しいスコット老夫人、艶々たる図画の
生徒中より陸軍特別幹部候補生、
海軍予科練習生に
清島長治先生、
温顔そのものの百田虎八先生、呑気で愉
応募入隊する者が続々とあり、
また若手教師のほとんどが
快な村川正六体育主任、
生字引の事務の福田右馬之進
応召入隊した。
1945
(昭和20)年3月23日ついに私にも
書記、
ラッパ手の古川広次さん、
鎮西名物小使いさんの
召集令状がきた。
長崎茂里町の三菱兵器茂里町工場、
高木伊之吉老人等々、
教職員のほとんどが信仰に生きる
特殊魚雷工場に出勤中の生徒約300名と、
工場の前庭
人々で構成されていた当時の鎮西の雰囲気はミッションス
でお別れをして勇躍出発入隊をしたが、
それが愛する生
クールにふさわしいものであった。
徒たちとの永遠の訣別となるとは知らなかった。
194
5
(昭和
毎年の創立記念日には、
生徒によって組織されたブラ
20)年8月9日原爆が投下され、
学院の若い百数十名
スバンドによって、
校歌が吹奏されていたのも印象深い思
の生徒および職員は、一瞬にして犠牲となり、
あの思い出
い出である。生徒たちの中には昔も今も変わらず随分わん
多い校舎も無惨に破壊され、長崎市における鎮西学院の
ぱく連中がいて、
新任の頃はかなり困らされたこともあった。
終焉となる運命となった。
(当時中学校主事)
しかし毎日の学院の生活はけっして不愉快なことはなく、
生徒との交わりが深くなればなるほど毎日が楽しい生活
〔出典:
1
9
5
6
(昭和3
1)
年1
1月1
4日刊・鎮西中学新聞∼祝創立7
5
周年特集号∼〕
であった。
ほんとに素直で親しめる生徒が多かった。
4.
原子爆弾投下と鎮西学院
−被爆5
0周年を迎えた鎮西学院はフェニックスである−
長崎市竹之久保の高台にあった鉄筋コンクリート4階
84
秋永
薫
奇跡的に校舎の外に脱出し、眼前に広がる惨憺たる光景、
建ての鎮西学院校舎、
その南側二階の職員室で4、5
無惨極まる情景に思わず叫んだ言葉は
「戦争はまさに地
名の先生方と共に、
あの原子爆弾の炸裂を身近に受け、
獄だ」
であったと千葉胤雄先生の日記に書き留められて
鎮西学院1
2
5周年記念誌
鎮西学院物語
!
鎮
西
学
院
物
語
いる。
ただ一発の原子爆弾による脅威的な大量破壊と人
間殺戮、
とても筆舌には尽くせないのであった。
このことがあってから、
もう5
0年の歳月が経ったのが長
かったようでもあり、
短かったようでもある。私が5年近くの
戦地生活から故国へ帰還したのは1
94
6
(昭和2
1)
年5月
下旬、
そして諫早駅近くの永昌町、本明川沿いにあった
旧海軍病院の建物に仮住居していた鎮西学院に帰り着
いたのは、6月2
1日!であった。
あまりにも変わり果てた母
枚の姿に目を疑つた。
そこには西条寛雄院長、
先に復員
桜咲く竹の久保校舎
されていた森幹雄先生をはじめ7、
8名の専任の職員方
の家族が同居しておられた。
建物が職員寮であり、校舎、
寄宿舎は国鉄の鉄橋近くに建ち並んでいた大きな病棟の
3棟であった。
諫早における鎮西学院の第2の歴史は、
ここから始まったのであった。
西条院長が退任され、
教職員全員の要望にこたえて
千葉胤雄教頭(宗教主任兼任、旧中2
5回卒)が院長に
就任された。
原子病のため入院し療養され、
退院されて
から間もなくのことだった。
無一物となった私学、
当時は県、
市、
国などからの補助金はまったくない時代に、
学院を復
秋永薫先生とクラスの生徒たち
興させねばならないという重責。
先生は寝食をを忘れ、
心
身をなげうって尽力なさった。
学制改革に伴い新制中学、
高校が開設され、
男女共学制を採ることとなった。
戦前に
学院におられたタムソン先生が宣教師として赴任された
のは大きな支えとなった。
さらにスミス、
エルダーの二人の
若い宣教師が教師陣に参加したのは色々な面で強力な
プラスであった。
ある日突然米国の教会牧師ウイルキンス
氏が来訪、
1週間にわたり学校内に泊り込み、学院の実
情を調べ、
職員、
生徒の旺盛な復興欲に燃えている姿に、
すっかり感動され、
援助を確約して帰国、
その翌年、中井
中列右より百田虎八、
千葉胤雄、
秋永
進、
安部時次、
○の各先生
薫、
○、
佐藤秀夫、
福田右馬之
が原の旧ゴルフ場を購入出来る額を送金して下さった。
それから間もない2
5年の5月中旬、
惜しくも原子病再発に
より、
千葉院長は逝去されたが、
まさに殉職であった。
その
後任として鮫島盛隆院長を迎え、
千葉院長のこころざしを
受けついで復興事業を進めていかれた。
ウイルキンス氏
はさらに牧場主や実業家の教会員を次々に紹介し、
資金
の援助をつづけてくださった。援助は難しいといっていた
米メソジストのミッションもあるていどの援助の手を差し延
べてくださった。
戦前から理事となり戦後は理事長となって、
スコッ
ト先生送別記念写真
85
!. 鎮西学院物語
諫早における鎮西学院復興に大きな貢献をされた同窓生
に当り、
その校地、建造物を含め、全財産を母校に寄贈さ
西山祐三先生
(旧中2
2回卒)
のことも忘れてならない。
先
れた。
生は1
9
2
7
(昭和2)
年に諫早市内
(現在の市役所の隣接
母校の今日ある陰には、私たちがけっして忘れてならな
地)
に諫早女学院を創設し、
幅広く諫早の事情に精通し
いものがたくさんあります。
フェニックス
(不死鳥)
は、
みずか
ておられた。
中井が原の土地購入のための斡旋、
福田町
らを香木で焼死させ、
その灰燼の中から復活する鳥だと
の職員寮の土地購入、
現在は駅前島鉄ホテルの駐車場
伝えられています。
鎮西学院の今日の復興をみる時、
学
の土地購入、
新制中学、
高校開設の折の生徒募集にも懸
院はまさにフェニックスであると思わずにはおられません。
命に奔走してくださったり、復興の陰の大きな力となってく
〔鎮西学院第2
2代院長・旧中3
8回卒〕
ださった。
そして1
9
74
(昭和4
9)
年に女学院を閉校される
5.
千葉胤雄先生の1
9
4
5年8月9日
1
9
4
5
(昭和2
0)
年8月9日"晴れ
午前1
1時頃、職員室で仕事をしていると突然小型飛
もの すご
行機の急降下らしい物凄い音がきこえて来た。
敵機だろう
か味方機だろうかと思っている瞬間、
ドカンという物音に思
わず机の上に顔をふせた。
身近に起こる物凄い物音!こ
れはてっきり学院に、
しかも職員室に爆弾が命中したもの
だと思った。
立ち上がって歩こうとするが眼が見えない。
盲
目にでもなったのではないかと思って心配しているうちに室
内がだんだん明るくなってきた。
部屋には真っ黒い煙がもう
もうと立ち込めていたので視力がきかなかったのだという
千葉胤雄先生と先生方の団欒
(左より2人目)
事がわかってホッとした。
そのうち室内にいた外の先生たちの声が聞えてきた。目
茶苦茶に壊れた机、
本棚、
椅子の中、
まだ屋内に立ち込
めている煙の中を手探りで出口を探している。
夢中で外に
飛び出したが2階廊下は既に火を発していたので1階
予餞会
生徒
(左)
と千葉先生ほか先生方
(右)
ご しん えい
に下りて、
御真影(天皇の写真)
を奉安してある校長室に
かけつけたが、
その時既に校長室も隣の研究室も炎々と
燃えていていかんとも仕様がなかった。
下に降りるとまさに
あ
千葉先生の
日記の抜粋
(War is Hell:
戦争は地獄である)
び きょうかん
阿鼻叫喚
(苦しみに耐えられずわめき叫ぶこと)
の生き地
獄だ!至る所から救いを求むる声、
苦痛を訴える呻きが聞
えてくる。万一にも物凄い爆風のため御真影が校庭に飛
ばされているようなことはあるまいかと案じて校長室の窓下
一面を探したがどうしても発見できなかった。
ただちに玄関に引き返して負傷者の救出にかかる。
小
被爆を受けた鎮西学院の校舎
86
鎮西学院1
2
5周年記念誌
鎮西学院物語
せい さん
使室の前から、古川広次小使に古瀬給仕らしい声が聞え
ようやく周囲を見渡せば眼の届く限り凄惨な焼け野原だ。
るのでその方へ行く。
2人ともコンクリートの壁の下敷きに
あっちでもこっちでも火の手が上がっている。
そして市内
なっているのだ。
全体に紫色を帯びた黒煙らしいものが一面に立ち込め、
先ず古川を救い出そうと思って、
かぶさっている壁を取
天日もそのために暗い。
まさにこの世ながらの地獄である。
りのけようとするが針金のネットワークのためどうしても取り
“war is Hell”
(戦争は地獄だ)
の言葉を何べんも心の
て
こ
!
鎮
西
学
院
物
語
かい じん
除く事が出来ない。挺子を使っても駄目だ。古瀬の方を
中で繰り返した。
この分では恐らく全市灰燼に帰したので
やってみると案外簡単に助け出されそうだ。階上に火は、
あろう。運動場の真ん中に誰か1人、
東方を向いて正座
段々下へ迫ってくる。事務室も火の海だ。
やっとの事で古
している。
気が狂ってわけのわからない事をわめきながら
瀬の救い出しに成功した。見たところたいした傷もなさそう
走り回っている者もいる。
だ。
運動場へ抱えて行く。
すぐ引き返して古川の救出にか
校庭から川の方へ下りようとしたが火炎のため難しいの
かる。
あらゆる手を尽くしてみたがどうしても上になっている
で武道場のわきから倒れて目茶目茶になった家々の材木
壁をのけることが出来ない。
いよいよ火が身近に迫ってき
の間をかきわけかきわけ安全地帯へ向かう。
この時分より
た。
古川を励まし涙をのんで玄関を外に出る。落ち着いた
著しく疲労を感ず。
途中、住吉、山崎、栗山、馬場その他
声で
「天皇陛下万歳」
を唱えているのが聞こえてくる。
全部にて6、7名の自衛防護団員の避難せると遭う。
この
おう と
校庭にはまだ梶原八郎先生と有田邦雄先生の姿が見
頃より激しく嘔吐を催し、気分悪く立つことも歩くことも出来
える。
売店西側からふと上を仰ぐと3階階段の踊り場の窓
ず。附近に集まってくる負傷者数知れず。
午後5時頃。栗
から3年の前田が顔を出している。
「早く降りろ!」
と叫ぶ
山と2人で市営住宅へ向かう。火災のため城山の奥の方
けれども傷ついているらしくジッとしたまま動かない。2階
へ迂回してやっと自宅付近へたどり着く。
たね かず
廊下の上を用心しながら前田の救出に駆け上がる。
背中
有田先生、片岡先生等八幡神社下の道路にあり。胤量
を怪我しているらしく床を血だらけにして倒れている。抱くよ
(葉先生長男)
の姿を見たときはさすがに嬉しかった。大急
うにして運動場へ運び出し古瀬のかたわらへ置く。
目が見
ぎで倒れた家の方へ行く。喜久子ちゃんは軽い負傷で助
えなくなったらしい。
東和紀もそこへ来ていた。
かっているが愈(千葉先生妻)
の行方がわからないという
まさる
頑丈そのもののごとき4階建ての校舎は無残に破壊さ
れ西の方へ傾いている。控所、
武道場は木っ端みじんだ。
ので狂気のごとく探し回る。
ちょうど井戸のかたわらへ来た
とき、救いを求めている声が聞こえてきた。確かに愈の声だ。
「秋元の奥さーん、……。」
と呼んでいる。声のする方に
行ってみると、井戸の東側に井戸の縁に支えられた木材
下に仰向けに倒れている愈の姿が目についた。愈だ、
まち
がいなく愈だ、愈が生きていたのだ!早速、片岡先生の
協力を得て痛がる愈を負んぶして道路へ運んだ。体中負
しき
傷しているらしく!りに苦痛を訴える。
救急袋から薬品、
包
帯を出して応急手当を行う。
日が暮れると盛んに敵機が
みち こ
飛んで来る。
まだ勤務先から帰って来ない道子
(千葉先
生長女)
のことも気にかかる。一睡もしないうちに10日の朝
を迎えた。
〔旧中25回卒当時鎮西学院教頭〕
〔出典:
「鎮西学院創立1
1
0周年記念事業・原子爆弾被災記録集・
浦上原頭の廃虚の中より」
(千葉胤雄先生の日記、
鎮西学院発行、
1
9
9
1年)
〕
87