27年度版教科書つれづれ 番外編2 「もうすぐ雨に」(光村図書・小学3年

27年度版教科書つれづれ 番外編2
「もうすぐ雨に」(光村図書・小学3年)の巻
加藤
郁夫(読み研事務局長)
このコラムは、23 年度版から 27 年度版にかけて教材や手引きの変更点を取り上げてきた。当初
は、それだけに限って書くつもりだったのだが、書いている内に新教材にも触れたくなってきた。
それで番外編として、27 年度版で新しく取り上げられた教材について述べようと思う。
「もうすぐ雨に」
(朽木祥)は、光村図書の小学3年(上)の物語である。
ある日、「動物の言葉が、分かればいいのになあ」と思った「ぼく」が、本当に分かるようにな
り、いろいろな動物たちが「もうすぐ雨になる」と言うのを聞く。そしてその言葉通り雨になり、
雨が激しく降る中で、また以前のように動物の言葉が分からなくなるという話である。
はじめに、手引きの課題を取り上げる。次のように書かれている。
ふしぎな出来事に気をつけて読もう
▼次の組み立て(流れ)は、多くの物語に当てはまるものの一つです。
(1)始まり──人物のしょうかいや、出来事(事件)がおこる前ぶれなど。
(2)出来事(事件)がおこる。
(3)出来事(事件)がへんかする。
(4)むすび──出来事(事件)がかいけつする。
この物語は、一行空きによって、九つの場面に分かれています。(1)から(4)に分けてみましょう。
行アキによって、全体が九つの場面に分かれているというのだが、それを教科書のページに従っ
て述べると以下のようになる。
*①②③…が場面の番号を表す
①
はじめ~p69・1 行目
②
p69・3 行目~p70・6 行目
③
p70・8 行目~p72 最後
④
p73・1 行目~p74・5 行目
⑤
p74・7 行目~p75・3 行目
⑥
p75・5 行目~p76・7 行目
⑦
p76・9 行目~p77 最後
⑧
p78・1 行目~p78・9 行目
⑨
p78・11 行目~終わり
⑦の場面の終わりの箇所がp77・11 行目になる。他のページは 1 ページに 12 行あるので、11
行目で終わっているということは 1 行空いていることになるのだが、ここに行アキがあることがと
てもわかりづらい。ページの中ほどにある行アキは、見ただけでそれとわかる。しかし、ページの
最終行が行アキになっている場合は、とてもわかりにくい。手引きに「九つの場面に分かれていま
す」とあるので、やっとのことで⑦の場面の終わりの行アキを探したのだが、こういう箇所のレイ
アウト(もしくは行アキをはっきりと示す工夫)には、配慮がほしい。
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では、手引きの課題に従って九つの場面を分けてみよう。
(1)始まり
……
①
(2)出来事(事件)がおこる。
……
②③④⑤⑥
(3)出来事(事件)がへんかする。……
⑦⑧
(4)むすび
⑨
……
*⑧の場面を(3)に入れるか、(4)に入れるかは、意見がわかれるかもしれない。この点は後
で触れる。
「(1)始まり」は、
「人物のしょうかいや、出来事(事件)がおこる前ぶれなど」とあるので、①が
相当する。
「(2)出来事(事件)がおこる」では、②から「ぼく」には猫のトラノスケをはじめとし
てからすやつばめなどの様々な動物の言葉が分かるようになる。
この作品の「出来事(事件)」を動物の言葉が分かることとすれば、確かに②ではじめて猫の言
葉を「ぼく」は聞く。では①は「出来事(事件)」が起こる前のことといってよいのだろうか。
①は、次のような場面である。
ある朝、
「ぼく」
(何年生とは書かれていないが、小学3年の教科書ということから小学3年生と
見ておいてよいだろう)は、窓ガラスと網戸の間にはさまって出られなくなっている蛙を見つけ、
窓を動かして蛙が出られるようにしてやる。その時、蛙が「ぼく」をじっと見つめるので「動物の
言葉が、分かればいいのになあ」と「ぼく」は思う。その時「チリンとすずみたいな音」がして蛙
はどこかにいなくなる。
蛙との出会いが、「ぼく」が動物の言葉が分かるきっかけを作ったということで、
「前ぶれ」とい
っているのであろう。そして②以降「チリンとすずみたいな音」がして、「ぼく」は動物の言葉を
聞くのである。その意味では、確かに「前ぶれ」といえるかもしれない。しかし、①でも「チリン
とすずみたいな音」がしている。
「ぼく」は蛙と出会い、そのことがきっかけとなって、
「チリンと
すずみたいな音」を聞くのである。その意味では、「出来事(事件)
」はここから始まっている。
つまり、この作品は冒頭=発端になっている。
ここで私の構造の読みを示しておこう。
○冒頭=発端
ランドセルをしょって、へやから出ようとした……
│
○山場のはじまり
空が暗くなったと思うと、雨がポツポツ落ちてきた。……
│
◎┼─
最高潮
│
だけど、雨がひどくなるにつれて、ふしぎな音も遠い歌声も、雨音にまぎ
れてきえてしまった。
│
○結末
……ぶるっと体をふるっただけだった。
│
○終わり
……ぼくには、ようく、分かったよ。
手引きの「始まり──人物のしょうかいや、出来事(事件)がおこる前ぶれなど」とした説明は、
読み研の言い方をすれば、導入部において人物紹介や事件設定が述べられることを説明しようとし
たものと思われる。しかし、「前ぶれ」という言い方はあまりにもこの「もうすぐ雨に」に付き過
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ぎた説明である。この作品なら「前ぶれ」といえるかもしれないが、他の作品でも「前ぶれ」とい
えるだろうか。たとえば「モチモチの木」の導入部では、夜のモチモチの木を怖がるおくびょうな
豆太のことが語られるが、これは「前ぶれ」と呼ぶにふさわしいだろうか。「ごんぎつね」の導入
部では、ごんのことを「ひとりぼっちの小ぎつね」と語るが、これは「前ぶれ」でいいのだろうか。
「前ぶれ」という言葉を用いることで、その物語の事件がどこから始まっているかという追求をか
えって曖昧にしてしまう。「もうすぐ雨に」の場合、①の蛙との出会いで、すでに事件は始まって
いる。
「(1)始まり」を「出来事(事件)がおこる前ぶれ」と説明し、「(2)出来事(事件)がおこる」
とする説明は、
「もうすぐ雨に」では、そこそこうまく適用できるかもしれないが、
「多くの物語に
当てはまるものの一つ」といえるほどの一般性を持ち得ないのである。
さらに、手引きを見ていく。
▼ふしぎな出来事がおこる前と後とで、「ぼく」にへんかはあったでしょうか。どこから、そう思
いますか。
この手引きに答えるためには、本文にその根拠を求めることが必要である。この話は、動物の言
葉が分かった「ぼく」が雨が降ったことで再び分からなくなるという話である。そこで「ぼく」に
どのような変化があったか、それを考えるのは以下の箇所を手がかりとするしかないだろう。それ
は物語の一番最後、家に帰った「ぼく」が濡れた猫のトラノスケを拭いてやった後のことである。
チリンという音は鳴らなかったし、トラノスケも口をきかなかった。でも、トラノスケがなんて
言いたいのか、ぼくには、ようく、分かったよ。
物語のはじめでは「ぼく」はトラノスケの言いたいことが分かっていなかった。それが分かった
というのだから、「ぼく」は変化したといえるのだろう。実はこの手引きの後に、次のように書か
れている。
自分の考えをもとう
さいごの場面に、「でも、トラノスケがなんて言いたいのか、ぼくには、ようく、分かったよ。」
とあります。「ぼく」は、どんな言葉をそうぞうしたと思いますか。
この手引きが「自分の考えをもとう」としてあるところから見ると、その答えは一つではないよ
うである。子どもたちが、それぞれに、自分で考える問題として設定されていると思われる。
しかし、子どもたちが自分で考えるにしても、もとの作品から離れて、勝手に考えればよいので
はない。あくまでも作品の中に根拠を持ちながら、考えていくようにしなくては、アナーキーな問
いにしかならない。
それでは、「トラノスケがなんて言いたいのか、ぼくには、ようく、分かったよ」という根拠は
本文の中にあるのだろうか。
②の場面で、「ぼく」は玄関に座っているトラノスケを見て「いいなあ、朝から遊びに行けて」
と言う。それに対してトラノスケは「ふん。遊びに行くんじゃないよ、だ」「ねこには、ねこのご
用が、たんとあるのさ」と答える。
ここから考えれば、最後の場面でトラノスケが言いたいことは「ねこのご用が終わって、一休み
しているところだよ」とか「まだ、これから別のごようがあるんだよ」といったことではないかと
読めてくる。
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③の場面のからすは「わたくしにもわたくしのじじょうがあるんですの。かわいい七つの子が、
巣で口を開けてまっているんですからね」といい、同じく③の場面のつばめは「いそがしくて、お
話しているひまなんか、ありませんよ」と虫取りで忙しいと話している。猫のトラノスケも、から
すも、つばめも、それぞれの用事をかかえていることが語られる。そこからは、学校に行かなくて
はならない「ぼく」だけが大変なのではなく、動物もそれぞれの事情を抱え、忙しくしていること
が見えてくる。その延長に、最後の場面のトラノスケの言いたいことを考えることもできるだろう。
ただ、つばめまでは用事を抱えていることが語られるのだが、④のみどりがめは、「もうすぐ雨
になるんだな」としか言わないし、⑤のうさぎやにわとりの言っていることも「もうすぐ雨に」の
ところしか「ぼく」には聞き取れない。⑦の場面でチリンチリンと「ひっきりなしに鳴って、遠く
から楽しそうな歌声」が聞こえるが、「ぼく」はそれを「雨がふるのがうれしかったり、ゆかいだ
ったりするだれか」と思うだけである。
事件は、「ぼく」がさまざまな動物の言葉が分かるようになり、動物たちの「もうすぐ雨に」と
いう予言が、本当になっていくという展開をとる。しかし、「ぼく」がさまざまな動物の世界や事
情を垣間見ることと、雨がふるという予言の二つに分裂してしまっている。その結果「ぼく」にど
のような変化があったのかがはっきりと分かるようには書かれていない。「ぼく」の人物像が十分
に描かれていないのである。動物の言葉が分かることで、「ぼく」にどのような変化があったのか
が、読者にはわかりにくいのである。したがって、「ぼく」の変化を問う手引きとトラノスケの言
いたいことを「ぼく」がどう思ったのかという手引きは、やや消化不良のものとなっている。
それは見方を変えればクライマックスの弱さともいえる。
先ほど構造よみを示したが、私にはこの作品のクライマックスの箇所が、正直わかりにくかった。
ただ、「ぼく」が動物の声が聞こえるようになり、再びそれが聞こえなくなるという事件の流れを
考えた時、それが確定する箇所をクライマックスと考えるしかないと考えた。それが下記の箇所で
ある。
だけど、雨がひどくなるにつれて、ふしぎな音も遠い歌声も、雨音にまぎれてきえてしまった。
動物の言葉が分かる前には、チリンという鈴みたいな音が聞こえる。そして動物の言葉が聞こえ
てくる。やがて、動物たちの言葉通り、雨が降ってくる。その時に、チリンチリンと鳴り始め、
「遠
くから楽しそうな歌声」が聞こえてくる。それらの音や歌声が聞こえなくなるところがクライマッ
クスにした箇所である。
音や声が聞こえなくなるという点での確定性はあるものの、クライマックスが持つ盛り上がりや
アピール性は弱い。むしろその直前にある下記の箇所のほうがアピール性は高い。
雨がふるのがうれしかったり、ゆかいだったりするだれかが、どこかにいるのかも。ぴょんぴょ
んはねている小さなかえるたちを、ぼくは心に思いうかべた。にぎやかにおどったり、うたったり
しているのかな。
ただこの箇所をクライマックスと考えると、雨が降ることの喜びや楽しさが強く出ることになる。
しかしこれ以前において雨が降ることを必ずしも否定的に見ているわけではない。「もうすぐ雨
に」という動物たちの予言が繰り返され、その通りに雨が降ったのである。その意味で、変化とも
いいにくいし、何よりも雨が降ることで、「ぼく」は再び動物の言葉が理解できなくなるというこ
とについては、ここでは何も述べていないのである。
クライマックスのところで⑦の場面は終わっているのだが、次の⑧の場面も雨が降り続いている
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ところであり、ここで改めて「ぼく」がトラノスケの言葉を理解できないことが示される。⑦の場
面と⑧の場面は時間的にも連続しているし、「ぼく」のいる場所も同じなのである。それゆえ⑧の
終わりを私は結末と考えたので、「(3)出来事(事件)がへんかする」なかに、⑦⑧の二つを入れた。
⑨の場面は、雨がやんだ後のことである。それゆえ、ここだけを「(4)むすび」としたのだが、
「む
すび」を「出来事(事件)がかいけつする」とする説明もいただけない。
「むすび」は「出来事(事件)
が終わった後のこと」とすべきである。「モチモチの木」の最後の場面は、翌朝のことで、元気に
なったじさまが出てくる。これを「出来事(事件)がかいけつする」場面とは誰も言わないであろう。
(1)始まり──人物のしょうかいや、出来事(事件)がおこる前ぶれなど。
(2)出来事(事件)がおこる。
(3)出来事(事件)がへんかする。
(4)むすび──出来事(事件)がかいけつする。
物語の組み立てをきちんと子どもたちに示そうとした点は、評価できるものの、肝心の「組み立
て(流れ)
」が、読みのものさしとしての汎用性をあまり持ち得ないものになってしまっている。
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