( 73 ) 肥料科学,第33号,73∼106(2011) 古代中国の土壌認識について 久馬 一剛* 目 次 まえがき Ⅰ.土,壌,土壌 Ⅱ.社稷壇と五色土 Ⅲ. 「禹貢」にみる土壌認識 Ⅳ. 「周礼」にみる土壌認識 Ⅴ. 「管子・地員篇」にみる土壌認識 Ⅵ.土壌学の萌芽を何処に求めるか 謝辞 参考文献 * 京都大学・滋賀県立大学名誉教授 Kazutake KYUMA ; The Perception of the Soil in Ancient China ( 74 ) 古代中国の土壌認識について まえがき 土壌学の歴史に関しては,20世紀の初めごろから少なからぬ論文が書か れ, 本 が 出 版 さ れ て い る(Jarilow, 1913 ; Giesecke, 1929 ; Ehwald, 1962 ; Strzemski, 1975 ; Boulaine, 1989 ; Krupenikov, 1993 ; Yaalon and Berkowiz, 1997 ; Warkentin, 2006) 。それらのうちとくに初期のものは,土壌学が独立 した科学の一分科として確立されたことを承けて,その成立の過程を振り返 り発展の道筋を検証しようとする作業であり,大きな意義をもっていた。た だ,これらの論文や成書の多くは,土壌学の確立過程に大きく関わったヨー ロッパ諸国の人々の手に成るものであって,そのための幾らかの偏りをもつ ことを避けられない。とくに,土壌学の起源に関しては,ヨーロッパ文明発 祥の地としてのギリシャ・ローマには目が届いても,はるかに遠い東洋の寄 与にまでは,資料の制約もあって,十分な検証が行われてこなかったきらい がある。 本稿は,土壌学史におけるこのような欠落を埋めるための一つの試みであ って,古代中国における土壌に関する認識がいかなるものであったかを探ろ うとするものである。筆者の中国語,中国史に関する知識は極めて浅薄で, 一知半解のそしりを免れないが,このような作業を中国史の専門家に期待す ることはできないので,あえて習作を世に問うものである。 本稿における基本的な引用元は王雲森(1980)と林蒲田(1996)である。 文中の中国古文献からの引用はとくに記さない限り,上二書からの孫引きで ある。 Ⅰ.土,壌,土 壌 前漢の終わりに近い紀元前1世紀に,劉向(リュウキョウ)の書いた「説 苑(ゼイエン) 」の中で,孔子(BC552−479)の言葉として次が引かれてい 。 る*(林蒲田,1996) 「為人下者 , 其猶土乎!種之則五穀生焉,掘之則甘泉出焉,禽獣育焉,生 Ⅰ 土,壌,土壌 ( 75 ) 人立焉,死人入焉,多其功而不言」(人の下なるもの,そ(其)はなお土 か!これに種(植)うればすなわち五穀生じ,これを掘ればすなわち甘泉 出ず。禽獣は育ち,生ける人は立ち,死せる人は入る。その功多くして言 わず) 孔子が土について語った言葉を他には知らないが**,これはまさに土を 語って余すところがない。生産者としてあらゆる生命の根源にあり,分解者 として元素の生物地球化学的循環を司る土を語ったうえで,かくも大きな仕 事をしながらそれを誇らない土のゆかしさにまで言及している。春秋時代の BC6世紀半ばから5世紀はじめにかけて生きた孔子のこの言葉の中に,古 代中国における土壌認識の的確さが凝縮されているように思える。 * 孔子の弟子の一人子貢が「人の下たることの理」を問うたときの孔子の答え である。 「説苑」より早く,戦国時代に書かれた「荀子・堯問篇」にもほぼ 同じ言葉が見える。さらに前漢の韓嬰による「韓詩外伝」にもある。 ** 「論語・巻第二・里仁」には「君子懐徳,小人懐土」(君子は徳をおもい,小 人は土をおもう)という文脈で「土」が出てくる。また「巻第三・公冶長」 には「朽木不可雕也,糞土之牆,不可杇 杇也」 (朽木は彫るべからず,糞土の 牆(かきね)はぬるべからず)がある。いずれも土地であるか,壁土(糞土 はごみ混ざりの土)であって,植物を育む土のことを言っていない。しかし 孔子が土について精通していたことを示す記録がある。AD3世紀に魏の王 粛が編んだとされる「孔子家語」に,「孔子が中都の知事になって2年目に, 定公は彼を公共事業大臣(司空)に任命した。彼はそのとき初めて5つのタ イプの土の本性を区別した(別五土之性) 。それによって生きもの(すなわ ち作物や植林地)が適当な場所に播かれ育てられる―すなわちあらゆるもの が適所をうるようにしたのである」とある(Needham, 1986)。ここで「五 土」は,また「五地」ともいわれるが,「土地の5つの種類,すなわち山林, 川澤,丘陵,墳衍(崗地と平地),原隰(ゲンシウ)(高原と卑湿の地) 」 (諸 橋,1968)である。 古代中国における土への関心の高さは,後に述べる「禹貢」の記述にも表 れているが, 「禹貢」そのものの成立が孔子以後と考えられていることから, より明確な古代にその証を求めようとすると,殷墟出土の甲骨文中に「土」 ( 76 ) 古代中国の土壌認識について およびその類字が数多く見られることを挙げることができよう。梁家勉によ ると「甲骨文中には土の字の書き方が27形あり,土に由来する字も12見られ る。また金文中に見られる土の字の書き方には13形があり,土に由来する字 も22存在する」という(林蒲田,1996)。甲骨文は殷代の BC14世紀,金文 は殷・周時代にかけて青銅器に鋳刻された文字であるが,BC3世紀の篆書, AD3世紀の隷書を経て現代の漢字につながっている(貝塚,1964) 。 この土の字の成り立ちを後漢の許慎によって著された「説文解字」に見る と, 「 ‘土’者,是地之吐生物者也。‘=’ ,象地之上,地之中; ‘|’物出形 也」とあり,現代の解説では「地之上,地之中」とされる2本の横線を表土 層と底土層にあて,縦線を地中から地上へ伸びる植物を象ったものとしてい る。許慎は土を定義して「地之吐生物者」としたのであるが,それは植物を 育むものの意であり,ここで「吐」は「土」と音を同じくし,おのずから生 ずるという意味をもっている。 土を表すのに「壌」も使われる。秦による統一をもって終わりを告げる 戦国時代(BC403-221)に周の官制について書かれたという「周礼」につい て,後漢の鄭玄(ジョウゲン)の書いた注釈の中に,「壌亦土也,変言耳」 (壌もまた土なり。変じて言うのみ)とあるから,土と壌とを区別しなくて もよいのかと思えば,同じ本の中に「以万物自生焉則曰土,土猶吐也;以人 所耕而樹藝焉則曰壌,壌和緩之貌」ともあり,土は万物をおのずから生ずる ものであるのに対し,壌は人が耕して作物を植えるものをいう,とそれぞれ を定義して区別している。そして土の定義に付して「土猶吐也」といってい るのは,上の許慎の「吐生物者」と相通ずる。壌について「説文解字」では, 『壌,柔土也,無塊曰壌』というだけである。 「土壌」という言葉は「土」と「壌」をあわせ用いているが,これが上の 自然の「土」と農地の「壌」とを意識していたかどうかは明らかでない。鄭 玄の注釈よりも200年以上も早い前漢の BC1世紀初めに司馬遷の著した 「史記」の「孔子世家」の中に『今孔丘得据土壌』として初めて「土壌」が 見えるが,これは孔子が「土壌=封地」を得てそこを根拠としたというもの Ⅰ 土,壌,土壌 ( 77 ) で,少し用法が異なる(林蒲田,1996) 。しかし,同じ史記の「李斯列伝」 には,かの有名な『是以太山不譲土壌,故能成其大;河海不擇細流,故能就 其深』があり,ここでの「土壌」はまさに微細な粒子から成り,山容をかた ちづくっているものを指している。その100余年後に班固は「漢書」の中で, 「城郭所居尤卑下,土壌軽脆易傷」(城郭のあるところは最も卑湿であり,土 壌は軽くもろく砕けやすい)として「土壌」のコンシステンスについて述べ ており,当時土壌という言葉がかなり普通に使われていたことを窺わせる (林蒲田,1996) 。 ついでに⑴:ここでわが国における「土壌」という言葉のたどった道筋を見 ておこう。わが国に漢字が渡来したのは,応神天皇の治世に百済から王仁博 士が「論語」や「千字文」をもたらした AD4世紀ごろとの説もあるが,そ れより古く漢の金印がもたらされた AD1世紀以前とも言われる。また「史 記」も聖徳太子の時代よりも前にもたらされていたとされるから,すでに6 世紀ごろには「土壌」という言葉とその意味も,わが国で知られていたと考 えてよかろう。しかしその後この言葉は,何故かわが国ではほとんど使われ ていない。日本では江戸期に多数の農書が書かれたにもかかわらず,その中 に「土壌」が現れるのは,筆者の知る限り,次の3例に過ぎない。そのうち 最初の2例は農文協刊「日本農書全集(第Ⅱ期)別刊」の索引から引ける。 一つは元禄10年(1697)刊の宮崎安貞著[農業全書]である。安貞の自 序の中に「そもそも日本の地は南北の中央に当れるにや,陰陽の気正しく, ……国土又勝れて肥良なれば,万づ種植の類,物として成長せざるはなし。 もろこしの外にかかる上国はなきとぞ聞え侍る。欧陽子が日本の刀の歌にも, 土壌沃饒風俗好と称美せしも,ことはりなり」とある。これは北宋の学者に して顕官であった欧陽修が日本刀を詠んだ歌からの引用であって,当時のわ が国における通常の用語ではなかったと思われる。 もう一つは天保13年から安政3年(1842∼56)にかけて書かれた木下清左 衛門著「家業伝」である。ここでは「飯は像土壌と地肥与に」(めしは土壌 ( 78 ) 古代中国の土壌認識について と地肥とにかたどる)という文中にあり,土壌とその肥力は人における飯に 似ていると言い,その後に「土者常食にして」と受けている。 さらに他の一つは,1840年ごろに書かれた佐藤信季口述,佐藤信淵筆記 「培養秘録」巻五,第三十四章「客土の用法を論ず」の中にある。 「翁曰く, 客土(いれつち)とは,水の深き田地には,他処より土壌を運入し(はこび いれ),或は其土性の粘り強くして,作物の不熟する田畑には虚膨なる壚土 (のつち)を入れ」とある。 明治になっても,明治9年の旧勧業寮第一回年報には土壌という言葉は現 れず, 「分析」の項で「各種の土質に就て養質の含否を検し,或は肥料に属 する養分の多寡を試み」とあり,すでに肥料という言葉は使われているが土 壌は「土質」となっている。「下総国印旛郡開墾地土質分析表」と「内藤新 宿支庁桑樹園瘠地土質分析表」が示されている。 翌明治10年(1877)の勧農局第二回年報の農学校の項に,Edward Kinch をはじめ5人の英国人教師が来日して2月から農業博物館で授業を始めた とあるが,その教科目の中に「土壌の元始及天質」が見え,初めて公文書 に「土壌」という言葉が使われている。同じ第二回年報の中の分析の項に も「土壌其他の分析に着手し」とあり,農学校が置かれることの決った駒場 野の「乾燥土壌分析表」が出ている。しかし農業博物館の項には「土質原素 69種」 「琉球土の見本 120種」 「濠洲土の見本 100種」などとあり,ここで はまだ「土壌」という言葉は使われていない。 このように,わが国では明治10年を過ぎて土壌が使われ始めたのだが,な おしばらくは公文書中では土質と土壌が混用され,一方「土性調査」では 土壌と土性が混用される状態が続いた。例えば Fesca の地産論(明治24年; 1891)の中には「土壌学」と「土性学」が同じ Bodenkunde の訳語として 使われている。しかし恐らく一般には,明治15年ごろから後になると「土 壌」が広く使われるようになったものと思われる。そして「土質」は土木的 施工の対象となる土を指す言葉(例えば,土質力学)として残り,「土性」 は農学会法(大正15年;1926)以後,正式に土壌の粒度組成を指す言葉と Ⅱ 社稷壇と五色土 ( 79 ) して使われるようになったのである(ただし,「土性調査」あるいは「土性 部」など土壌と同義の用法は20世紀後半まで続いた;久馬,2009) 。 Ⅱ.社 稷 壇 と 五 色 土 現在でも北京の中山公園に行くと,1420年に明朝の太祖である朱元璋によ って築かれたとされる社稷壇を見ることができる。韓国にもソウルの景福宮 の近くに李朝の建てた社稷壇がある。社稷壇とは何か。 後漢の班固(AD32-92)の撰になる儒学書「白虎通(義)」に「為天下求 福報功。以‘人非土不立,非谷不食’。土地廣博,不可一一祭之也,故封土 立‘社’ , ‘社’為‘土神’ ;谷物衆多,不可遍祀,故封谷立‘稷’ ,‘稷’為 ‘谷神’之長」 (註:谷は穀の意)とある。人は土がなければ立つことができ ず,穀がなければ食べることができないが,土地は広くて一々祀ることがで きないので,土を封じて「社」を立てた。また穀物もいろいろあって,これ をあまねく祀ることはできないので穀を封じて「稷」をたてた。すなわち社 は土(地)の神であり,稷は五穀の神である。歴代王朝のトップは,一方で は農業の豊収を願い,他方では土地の功績に報いるために社稷を祀るのであ るが,そのための祭壇が社稷壇に他ならない。ちなみに,社と稷が一つの王 朝にとってもつ重要性から,「社稷」を即「朝廷」さらには「国家」とする 用法も生まれた。 来村(2000)は社稷壇の歴史は古く起源は新石器時代にまで遡るとしてい る。長江文明の良渚文化(BC3500-2200)に属する祭壇や祭祀用の玉器が杭 州市西北の余杭県の二ヶ所で発見された。祭壇はいずれも山頂に築かれた四 角い土壇で,その表面は紅色や灰色の土で色分けされている。来村はこれら が後に述べる五色土で造られた社稷壇につながる可能性を考えている。彼は また殷墟宮殿群の中心で発見された正方形の土壇が祭壇の遺跡であるとされ ていることから,玉器や土壇による祭りは殷王朝にも受け継がれたとしてい る。 しかし樋口(2003)は近年の考古学的知見をもとに,殷墟などの黄河流域 ( 80 ) 古代中国の土壌認識について に見られる祭壇址は,王朝の祖先を祀る宗廟であった可能性が高く, 「社」 の起源は,むしろ上の良渚文化の遺跡をはじめ浙江省や四川省など,長江流 域の遺跡(例えば,四川省成都市羊子山土壇遺跡や浙江省嘉興市南河濱遺 跡)に見られる土壇に求めることができるのではないかといっている。 林蒲田(1996)によれば,社稷を祭ることは皇帝にとって重要であっただ けでなく,郡県の官吏や老農たちにも重要であり,社稷壇は各地に設けられ た。中央王朝にあるものは太社あるいは国社,郡県にあるものは官社とか官 稷,民間のものは民社と呼ばれたが,民間では社を立てるのに農地の土を封 じて壇とし,その上に適当な樹木を植えて標識としたという。樋口(2003) 壝(=壇),而樹之田主」とあ は, 「周礼」の地官大司徒の条に「設社稷之壝 ることから,土壇の中心には樹または茅束を植えて田主(田の神)としたと 述べている。後漢の許慎による「設文解字」中の社の字は古い形をとってい て,その旁には土の上に木を書いており,林蒲田(1996)はこれを古代の礼 の習俗が伝えられてきた痕跡を示すものとしている。ご神木として栽植する 木はいろいろであり,論語・巻第二の八佾(イツ)の中にも松,柏,栗など が植えられたことが書かれている。これも社の伝統の古さを物語るものであ る。ちなみに論語・巻第六先進には「社稷」も見える*。 * 社稷という言葉は,五経の一つであり,中国最古の詩集とされる詩経にすで に見える。紀元前11世紀の西周の初めから東周の春秋時代までの詩305編を, 「国風」,「雅」 ,「頌」の3部門に大別しているが,そのうち「頌」には宗廟 の祭祀の樂を集めてあり, 「周頌」 , 「魯頌」 ,「商頌」の三つがある。この詩 経・周頌の中の二つの詩につけた序に次が見える。 載芟(サイサン)の序「春籍田而祈社稷也(春,籍田して社稷に祈る)」 良耜(リョウシ)の序「秋報社稷也(秋,社稷に報ず)」 上の二つの詩は,いずれも社稷に豊饒を祈り,また庇護を感謝する祭りに おける楽歌であるとされ(藤枝了英,1940), 「春祈秋報」という成語の出典 と考えられる。 樋口(2003)はこのご神木との関わりで,社稷壇の起源について次のよう に述べている。「社の原形は茂みであり,それが独立の樹となった。最初に Ⅱ 社稷壇と五色土 ( 81 ) 林叢に対する畏怖,霊的崇拝があって,それが樹木崇拝,大地の精気に対す る崇拝と結合して,土壇に木を植える形式ができた。それが発展して,土地 の神となった。穀物も土地と関係があり,その精霊に対する崇拝が同じ土地 の神である社と結びついて,社稷となった。林叢即ち森と穀物は長江流域の 環境にピッタリである。社稷が長江流域で誕生したことは,十分納得される ところである」と。樋口はさらに「初めて都城が建設されたころ,黄河流域 では都城の中心に宗廟があったが,長江流域では社稷壇があったのではなか ろうか。そして,戦国時代の頃,周代礼制の確立の際に,両方をとり入れて, 王室の左右に宗廟と社稷をおく構造が完成されたとみることができよう」と 述べている。 現在見られる社稷壇にはご神木的なものはない。Needham(1986)の記 述にも,社稷壇での祭祀に供犠をともなっていたことや,次に述べる封建領 主の任命式がここで行われたとはあるが,ご神木的なものには全く触れてい ない。樋口のいう周代礼制の確立された時以後に社稷壇へのご神木の植栽は 廃されたのであろうか。 前漢以降の社稷壇は5色の土をもって壇を覆い,「五色土台」と呼ばれる ようになった。五色土台の方位と土色を見ると,東面は青土,南面は紅土, 西面は白土,北面は黒土,中央には黄土となっており,「普天之下,莫非王 土」 (普天のもと,王土に非ざるはない)ことを表しているという。前漢の 孔安国(BC85頃 ?)は,封建領主の任命式がどのように行われたかについ て書いている。領主がどちらかの方角にある領土に封ぜられるときには,こ の祭壇のその方角の側壁から,その色をもつ土を与えられた。つまり領主の 印として黒い土を皇帝から与えられた領主は北方の領地を治めることになる。 彼はこの土を持ち帰り,それを核にして彼自身の社の祭壇を造営するのであ る。この孔安国の記述は社稷壇とそこでの儀式に関する最も古いものと考え られている(Needham, 1986: 「史記」にも詳しい記述があるが,Needham はこれを後代の付加としている) 。 ただ後に述べる,春秋戦国時代の編とされる「禹貢」の中に,9州の1つ ( 82 ) 古代中国の土壌認識について である徐州(現在の山東省の東南部と,安徽,江蘇の長江以北)の貢納物に 「五色の土」 (厥貢惟土五色)があり,もしこれが社稷壇の五色土と関わりが あるなら,さらに古い記録となるかもしれない。ただ林蒲田(1996)の記述 によると,社稷壇の五色土は全国からの貢納によるとあり,徐州だけが5色 の土を貢納したのではないと思われる。また後述するように五行説との関わ りを考慮すると,禹の夏王朝時代に5色の土が貢納されていたとしても,そ れで五色土台を築いたと考えることはできないであろう。 社稷壇に用いられている土壌の色は,中国の土壌分布の概貌をよく示して いるといえる。中国の中部は黄土高原と黄土由来の沖積平原,北方には有機 質を多く含む黒色あるいは暗色の森林土壌と黒土帯が,西方には砂漠と砂漠 鈣(カイ)土が,南方には紅壌地帯があ 縁辺を構成する白色(浅灰色)の灰鈣 り,東方には沿海地区の湿地のグライ土壌(水に漬かって青灰色を示す土) があり青色を呈するとしてよい。現代の土壌学の知識から見ても,方位と土 色との関係には大きな齟齬はないとしてよかろう。 ただこの五色土の考え方は,中国の戦国時代の陰陽家騶衍(スウエン)に よって唱えられた五行説と強く結びついていると思われる。五行説におけ る5方と5色とを組み合わせると,まさに五色土の配置と合致するのであ る。五行のひとつである「土」は方位としては中央に配され,色は黄にあた る。 「木」は東と青, 「火」は南と赤(朱,紅) , 「金」は西と白, 「水」は北 と黒(玄)である。この一致が何を意味するのかは大変興味深い。まずは五 色土台としての社稷壇が五行説以降のものであることは確かであるように思 われるが,それにしても中国の広い版図の土壌の分布を古代中国の人々はす でに知識としてもっていたのであろうか。もしそうであるとすれば,土に関 する知識(Bodenkunde)としての土壌学,中でも土の生成と分布に関わる 知識としての土壌地理学は,古代中国に胚胎したといってもよいのではなか ろうか。 Ⅲ 「禹貢」にみる土壌認識 ( 83 ) Ⅲ.「禹 貢」に み る 土 壌 認 識 帝舜の命をうけて大水害を治め,その功により舜から王位を譲られて夏王 朝を開いたとされる禹は,実在の人物ではなく神話中の英雄であるかも知れ ない。貝塚(1964)は「禹は実在の君主ではなく,がんらいは古代のある部 族が,土の神,または社神と呼んで土地の精霊として祭っていた超人間的な 存在である」といっており,先に述べた「社」と結びつけた説明をしている。 これは「社」の観念の古さをも示していて興味深い。この伝説上の聖王禹の 事跡を記述したのが「尚書(書経) ・禹貢篇」である。 夏王朝の実在はまだ確定されるに至っていない*。およそ BC2000年ごろ から500年ほど続いたが,最後の桀王が暴虐であったため,殷(商)王朝の 始祖湯王によって滅ぼされたとされる。この殷(ほぼ BC1520-1030頃)に ついては1920年代から始まった河南省安陽近郊の殷墟の発掘によって実在が 確かめられ,それ以後の西周の時代から東周の春秋・戦国時代を経て秦・漢 へつながることは周知のところである。前漢の終わりがほぼ西暦紀元の始ま りであるから,われわれがここで古代中国といっている夏・殷・周時代の歴 史は,およそ西暦紀元以後の世界の歴史と同じくらい長い。この長い時間に わたる歴史はいったいどのようにして後世に伝えられたのか。中国では古く 殷代の BC14世紀から甲骨文が残され,また殷末から西周時代を通じて青銅 器に彫られた金文が知られていたが,これらの文字は篆書,隷書などと字体 を変えながら木簡・竹簡などに墨で書かれて後世に伝えられるようになった と思われる。すでに前漢の BC150年ごろには最古の紙がつくられていたと する考古学的事実が知られているが,その半世紀後に成った「史記」はまだ 竹簡に書かれていたという。 * すでに河南省堰師県二里頭遺跡の発掘から夏王朝実在説が浮かび上がってい た(貝塚・伊藤,2000)が,その後洛陽の東南で見つかった「王城岡」遺跡 は,史記に記された夏の都「陽城」に比定され夏王朝の実在説が強まってい る(中国通信社, URL) 。 ( 84 ) 古代中国の土壌認識について Ⅲ 「禹貢」にみる土壌認識 ( 85 ) 「尚書・禹貢篇」の成立年代については多くの論議があり,Needham (1986)は, 「禹貢」の成立は前5世紀の前半よりも古く,ほぼ「論語」の 時期であり,「墨子(Mo Tzu) 」や「孟子(Meng Tzu) 」よりも確実に古い と考えている。彼は,「禹貢」の内容は確かに古代的であり,孔子の時代の 人々が商や初周(BC1100−700)の地理学,土壌学,植物学的な知識をすべ て,木簡や竹簡が失われてから後も長く口承によって知っていたと思われる と述べている。 しかし,内藤(1922)は「禹貢の中に時として戰國時代よりも古い材料 を多少含んで居るとしても,その組み立てた時代並びにその中に含んで居 る多くの材料は戰國以前にこれを上せることが難いと考へる」とし,貝塚 (1964)も戦国末から前漢の初めと考えている。土壌学者としては,菅野 (1958)が「禹貢」について論じた「ペドロジスト」の論文中で,やはりそ の成立年代について当時の専門家の論議を紹介しているが,結論として「禹 貢は BC2000年頃にかかれたものではなく BC 3∼4世紀の戦国時代に当時 の地理学的知識をもとにして夏の時代のものであるかのようにのべられたも のと考えられる」と書いている。このように「禹貢」の成立は戦国時代以降 とするのが妥当だと思われる。 兗・青・徐・ 「禹貢」では,当時の中国の版図を,図に見るように,冀・兗 揚・荊・豫・梁・雍の9州に分け,各州の主要な山岳や河川,土壌の種類, 特徴的な物産を記載し,それぞれの「賦」(土地税)の評価を与えている。 そのうち土壌については,各州の主要な土類として次表の9つを挙げている。 土類の名の多くは白,黒,赤,青,黄などの色と壌,埴,墳などの性状を組 み合わせたものとなっており,さらにそれぞれの土類についてその肥力を上 の上から下の下までの3等9級に分級している。 州名 冀州 兗州 土類 白壌 黒墳 青州 徐州 揚州 荊州 白墳 赤埴墳 塗泥 塗泥 海浜広斥 肥力 中中 中下 上下 豫州 梁州 雍州 壌 青黎 黄壌 下上 上上 下土墳壚 上中 下下 下中 中上 ( 86 ) 古代中国の土壌認識について これら9州の土類を,現在の土壌の特性や分布と比較検討している事例は, 鄧植儀 *(1957) ,張漢潔(1959),王雲森(1980) ,Needham(1986)ら多 数にのぼるが,そもそも各州を一つの土類で代表させること自体に無理があ り,詳しい考証を試みても労多くして功少なしのそしりを免れない。ただ, 「禹貢」の記述の中で現代土壌学的観点からもある程度合理的な解釈のでき る事例を幾つか挙げてみよう。 * 1888―1957,広東省出身,20世紀初頭せアメリカに留学し,近代土壌 学を学んだ最初の中国人の一人,中山大学教授など。 雍州,豫州,冀州は黄河の中流から下流にかけて広がる黄土の風積,沖積 地帯であって,その土類はいずれも黄壌,壌,白壌と「壌」であり,シルト 質のレス起源で粘性が低いこれらの土類は「説文解字」の『壌,柔土也,無 塊曰壌』に合致している。現在の陝西の黄土地帯をカバーする雍州が黄壌で 代表されているのは分りやすい。黄河下流の沖積低地をも含む冀州の白壌に ついて,その色を塩類の集積のためとする説が多い。現在の河南省を中心と する豫州の土類については後に述べる。 兗 州,青州,徐州は黄河下流から淮河の間に広がる東中国沿海の諸州で 兗 あり,土類として黒墳,白墳,赤埴墳といずれも「墳」をもつ。この墳に ついてはいろいろな解釈があり,丘陵地の比較的肥沃な土壌と考えるもの が多い。確かに青州は現在の山東省にあたり,この解釈でよいかもしれない が,兗州は現在の河北省東部,徐州は現在の江蘇・安徽北部にあたる地域で あり,そのほとんどが黄河と淮河の間の平原にあって丘陵地で代表するのは 難しい。一部には「墳」を膨張性粘土によって膨潤墳起する土壌として現在 の Vertisols に比定する見解もある。徐州の赤埴墳の埴は粘土質であること を示しているからこの解釈が当たるかも知れないが,土色が赤で代表されて いるのが気になる。以上のように「墳」を現在の土壌分布と結びつけること は難しい。青州には黄海から東シナ海に面する海浜が広く,そこに広斥(広 濶な斥鹵=塩性土)があるとするのはうなずける。 揚州は揚子江の河口に近い現在の江蘇南部,浙江などに,また荊州は揚子 Ⅲ 「禹貢」にみる土壌認識 ( 87 ) 江中流の湖北,湖南にまたがっていて全体に低湿であるから,これら両州の 土類が「塗泥」で代表されているのは分りやすい。両州の土壌の肥力はそれ ぞれ下下と下中とされているが,これは当時の黍稷(キビ・アワ)中心の畑 作農業の中での利用価値が低かったということであろうか。 梁州は現在の陝西・甘粛南部から四川の一部を主とする地域である。その 土類とされる「青黎」は,「黎」が暗色を意味するなら暗青色となるが,古 来の注釈の中には「黎」を土の性状の表現とし, 「小疏」あるいは「柔松 (=柔かく疏鬆) 」などとするものもあり見解は定まっていない。またそのい ずれであっても具体的な土壌をイメージすることは難しい。 豫州の土類は上述のように「壌」であるが, 「下土墳壚」については論議 が定まっていない。一つは「下土」を低地の土とするか,「下層土」とする かで見解が分かれる。鄧植儀(1955)や王雲森(1980)は前者であり,張 漢潔(1959)や Needham(1986)は後者である。また「墳壚」について も,とくに「壚」に「色黒而剛硬」と「棕(= 褐)黒色而疏鬆」の二つの 見解(鄧植儀,1957)があって,いずれをとるかで解釈が分かれる。 「剛 硬」をとれば,下層に生姜の根のような形をした石灰瘤塊である「砂薑」 畺土)をイメージすること (shachiang あるいは sajong)層をもつ土壌(砂畺 になる(Gong et al., 2003) 。実際,砂畺層は東中国の沖積平野の下層に広く 見られる(Needham, 1986) 。 ところで禹貢における「賦」は基本的に農地の生産力によって決まると考 えられるが,そうすると「賦」の評価と農地である「田」の評価が合致し ない場合が多いのが気になる。つまり「賦」が上の上(1等)である冀州の 「田」の肥力(生産力)は中の中(5等)に過ぎないし,「賦」が上の下(3 等)である荊州の「田」の肥力は下の中(8等)である。また「田」の肥力 が上の上(1等)であるにもかかわらず,雍州の「賦」は下の中(8等)に 過ぎない。こういった「賦」と「田」の評価の乖離は,例えば当時の人口密 度や地理的な位置を考慮することである程度説明できるかも知れないが,禹 貢における「田」の評価は,次に述べる周礼における各州の土地評価とも ( 88 ) 古代中国の土壌認識について 必ずしも合致しない。これを説明するのに,Needham(1986)は「田」の 上中下は地形上の位置を示していると考えるべきではないかと言っているが, これまでの注釈家でその見方をとるものはない。各州のおおまかな地形上の 特色を考えると,Needham の考え方にも一理あるように思われるのである が。 「禹貢」は世界最古の地理学書であるといわれるが,土壌についての記述 からも,それがかなりよく中国の土壌地理学的な特徴を把握していたこと を窺わせる。先に社稷壇の五色土に関連して,中国戦国時代における土壌地 理学的認識の的確さについて述べたが, 「禹貢」の各州の土壌の色も青,赤, 黄,白,黒と五行の色に対応しており,「禹貢」の成書の時期が五行説の確 立以後であること,さらにその土壌地理学的認識が五色土におけるそれと通 底するもののあることを示唆している。 ついでに⑵:中国から多くの文物を導入した日本で,農地の土について初め て記録を残したのは,奈良時代(8世紀)に編まれた「播磨風土記」であっ たと思われる。この中に見られる土の評価には,上に述べた「禹貢」にお ける3等9級の評価法が取り入れられており,当時の播磨国の10郡76里につ いて,その土地の地味の良し悪しを「上の上・中・下」から「中の上・中・ 下」を経て「下の上・中・下」に至る9段階に分けている。記録されている ところでは, 「上の上」は無く, 「上の中」は5カ所, 「上の下」2カ所, 「中 の上」21カ所, 「中の中」25カ所,「中の下」8カ所, 「下の上」8カ所, 「下 の中」5カ所,「下の下」2カ所となっているが,これが地租の基準とさ れていたので評価を低めたといった偏りがあるのかも知れないという。「禹 貢」に見るような土の性状や生産力を基にした土壌名が与えられていないの で,具体的にどのような基準を設けて評価したのかはわからないが,田中・ 松下(1994)は風土記の評価を,現在の土壌や地質・地形条件などと対応さ せて説明しようと試み,土性や水害の頻度などが考慮されているとしている。 わが国でも土の評価がこの時代にまで遡ることはたいへん興味深い。 Ⅳ 「周礼」にみる土壌認識 ( 89 ) Ⅳ.「周 礼」に み る 土 壌 認 識 「周礼」は周朝(西周 BC11∼8世紀,東周∼戦国時代末 BC231)の開祖 武王の実弟である周公旦が周の官制について書き遺したものとされるが,実 際は戦国時代あるいはそれ以降,例えば Needham(1986)は BC2世紀と いうが,に古い資料からコンパイルされたものであると考えられている。 「周礼」でも9州が区画されているが,新たに幽州と并州が置かれ, 「禹 貢」にあった徐州と梁州がなくなっている。図1の「禹貢」の9州図で見れ ば,新しい2州はそれぞれ冀州の東北沿海部(現在の遼寧省と河北北部)と 西北(現在の山西省)に位置し(Needham, 1986) ,その影響で徐州がなく なり,また梁州は雍州が南へ広がって包摂されたと見るのであろうか。 「周礼」が周朝における官制を記した書であることを上に述べたが,天・ 地・春・夏・秋・冬の6官を設け,土地や,その物産,農業などについても, それぞれを扱う専門の職制が定められており,例えば「夏官・司馬」に下属 する「職方氏」の職掌を見ると,「掌天下之図,以掌天下之地,弁其邦国… 之人民,与其財用,九谷,六畜之数要…」とあり,土地の管理を任務とし, 各州の人々とその財産や9種の穀類(黍・稷・稗・稲・麦・大麻・小麦・大 豆・小豆)と6種の家畜(馬・牛・羊・鶏・犬・豚)の数などを個別に把握 することが求められている。 「地官」の長官である大司徒の職掌については, 「大司徒以土会之法,弁 五地之所生,曰,山林,川澤,丘陵,墳衍,原隰」とある。諸橋(1968)の 「五地」の項には, 「土会之法」の「会は計也,土を以て貢税の法を計る,因 って此の五者を別つ也」という注がついている。すなわち周の制度では貢税 を決めるためにまず土地の類型区分をしており,その点で「禹貢」より進ん でいるといえそうである。この土地類型を鄧植儀(1957)は次のように説明 する。 山林―高山峻嶺の地; 川澤―江河湖澤の地; 丘陵―丘陵の地; 墳衍―水湿と低平地; 原隰―高にして平坦と低下湿地 ( 90 ) 古代中国の土壌認識について 墳衍を崗地と平地とする見方(諸橋,1968)もあるが,鄧植儀(1957)に よる川澤と墳衍は似たような条件にある。しかしその産物を見ると,前者は 水郷的で魚を産し,後者は湿原的景観をいうのであろうか,亀や鼈(スッポ ン)を産するという。原隰はそれに対し,台地と排水不良の低地をもつ谷津 田的な景観を指すらしく,虎や豹が出てくるとしている。 これらの土地に分布する土壌として騂(セイ)剛,赤緹(テイ),墳壌, 渇沢,鹵潟(ロセキ),勃浪,埴壚,疆 han(臨に近い字の下に木),軽 piao (興の下をワ冠に替えて火)の9種を挙げているが,土地分類との対応は示 されていない。どのような土かを鄧植儀(1957)や林蒲田(1996)によって 示すと次のようであるが,見解は必ずしも一致していない。 騂剛 赤色剛強土;赤剛土,土質は色赤く堅硬 赤緹 丹黄,紅赤色土;赤黄色的土,土質は騂剛ほど堅硬ではない 墳壌 墳起,相当鬆散の土;粘土の可能性 渇沢 以前低沢,今乾涸の地;湿土と干涸の澤地 鹵潟 鹹鹵の地;塩漬土 勃浪 土質粉散にして帯粘性の土;沙壌の可能性 埴壚 粘疏にして不墳起の土;土質膏肥で柔細の粘質壌土の可能性 疆 han 硬実の土;騂剛などに比し更に堅硬の土 軽 piao 軽浮の土;沙土 これらの土壌は,肥力によって「上地,中地,下地」と3等に区分できる というが,それぞれの土壌がどの等級に属するかは示されていない。しかし, これら土壌のそれぞれに異なる施肥をすべきことを, 「草人」に教えさせる。 「草人」は「土化の法」 ,すなわち農地の土地改良法を教えることを職掌とす る。例えば騂剛には牛と羊の糞と骨汁を種子と混ぜ,あるいは種子に浸ませ て肥料とする。また埴壚には豚の糞と骨汁を同様に肥料とする,というよう に,各土壌にそれぞれ異なる動物や植物の材料を肥料として使うのをよしと している。とくに糞だけでなく獣骨を用いることを推奨している点が注目さ れる。経験的にリンの給源となる獣骨の効用を知っていたのであろうか。 Ⅳ 「周礼」にみる土壌認識 ( 91 ) 農業の実際においては, 「土宜の法」によって適地適作を勧めたのが,「周 礼」の一つの特徴であるとされる。すなわち「土宜の法を用いて十有二土の 名物を弁じ」 ,それによって民を定住せしめ,鳥獣を殖やし草木を育て, 「十 有二壌の物を弁じて」その種を知り稼穡樹藝(農業と園芸)を教えるとし ている。引用文中の「名」は地理・地勢のこと,「物」は土壌性質等と鄧植 儀(1957)が註をつけているが,ここに出てくる「土」と「壌」は,先に 見た鄭玄の註における自然の土と,農地の土と読んでよさそうである。ただ 土地分類は5,土壌の種類は9であって,12という数の由来も12の「土」と 「壌」の内容も説明されていない。 上に述べたように, 「周礼」が後世に残した重要な考え方として,土地評 価の前提としての土地分類を進めた「土会之法」 ,適地適作を教えた「土宜 之法」,それに具体的に施肥法を教えた「土化之法」を挙げることができよ う。中でもすでに施肥によって土壌改良を図っていたこと,ことに獣骨を用 いることを勧めていたことは注目に値しよう。 ここで中国における施肥の歴史についてみる(林蒲田,1996)と,すでに 殷墟文物(BC11世紀以前)の甲骨文中に「糞田」の二字が見えることから, 非常に古くから施肥が行われていたと考えられている。中国における「糞」 はもともと人の生み出す廃物の総称であり,人畜の糞尿,食物の残滓,草木 灰などあらゆるものを含むとされ, 「糞田」はこれらの廃物を田(農地)に 施すことを意味する。中国で「土糞」は人畜の糞便,泥土,草木灰などを 主とする肥料をいうが,すでに甲骨文中にこの「土糞」を指す字があること から,林蒲田(1996)は殷(商)時代に土糞の施用が始まったと考えている。 同じ時期にすでに堆肥作りも始まっており,また周初からの詩を編んだ「詩 経」に「荼蓼(トリョウ)朽止,黍稷(ショショク)茂止」(荼ニガナや蓼 * ,があることから, タデなどの野草が腐らなければアワやキビが茂らない) 野草を用いる緑肥施用も西周(BC11世紀∼BC771)に始まったと考えられ ている。「周礼」に土地改良を所掌する官として「草人」の名があるが,王 雲森(1980)はこれをいろいろな草を農地に施用することが重視されていた ( 92 ) 古代中国の土壌認識について ことの反映であるとしている。 * 先に引いた「詩経・周頌」の中にある 「 良耜 」 の詩句である。 ついでに⑶:わが国では土の肥培に用いる資材を,古くから「こやし」と いう倭(やまと)言葉で呼び,江戸期の農書などではそれに「糞」 ,「糞培」, 「糞苴(ショ) 」などの漢字を当ててきた。林蒲田(1996)によれば,中国の 古代には「肥料」という名詞はなく,それを「糞」で表し,「肥」は土地の 肥痩をいう場合にのみ使われてきたとしている。ようやく1903年になって江 西地方の農書中に初めて「肥料」という言葉が現れ,それを最初に採録した 中国の辞典は,1915年に出版された《辞源》と《中華大字典》であったとい う。わが国でも明治になるまではもっぱら「こやし」であったのだが,明 治のごく初めには「肥糞」や「肥養」なども使われるようになった。しかし 明治9年(1876)の勧業寮第一回年報の中で,すでに「肥料」は現在の意味 で使われており,すぐに術語として定着した。中国に先んずることほぼ30年, 先に見た「土壌」に先駆けて公用術語としての市民権を得た模様である。さ らにいえば,現在の中国の学術用語の多くは日本でつくられたものだという から, 「肥料」ももとは日本から輸出された言葉だったのかも知れない。 Ⅴ. 「管 子・地 員 篇」に み る 土 壌 認 識 「管子」は春秋時代の BC7世紀に,斉の桓公の宰相となってその覇業を 助けた管仲の書とされるが,その成立の時期には諸説がある。Needham (1986)は,現在のテキストの多くは斉の「稷下アカデミー」で前4世紀に コンパイルされたと考えているが,戦国から前漢にいたる諸家の論文集で あるとする見解も多い。ここで土壌に関する論議の拠りどころとする「地員 篇」だけをとっても,やはり戦国時代の農業家の言とするものもあれば,前 漢初期の人の手に成るとする説もある。しかし王雲森(1980)は,これが管 子の重農政策に関わる土壌方面の具体的状況を扱っており,後人が引き継い で発展させた部分はあるとしても,内容の核心は管子の所説であると強調し Ⅴ 「管子・地員篇」にみる土壌認識 ( 93 ) ている。 「地員」の名については,土地の高低,地形の各種,土壌の変異から水体 の種類,深浅,さらには土地の育む植生の多様性と,それら地・水・生相 互間の関係までを視野に納めた記述であることを表すものと理解されている。 したがってそれは,生態系としての陸地自然の最も古い理解を記したもので あるといえる。土壌についても,その記述はつねに水湿条件との関係,植生 との対応を意識したものとなっている。 「十二衰」にみる「草土之道」 :土壌の記述は幾つかに分かれているが, 「管 子」の土壌と植物の生態学的な見方をよく示す「十二衰」の図から見ること にしよう。これは湖岸の浅い水底に根を下ろしたハス(葉)から水際のアシ (葦)をへて陸地の高みに生えるチガヤ(茅)まで,水湿条件に支配される 12の草本植物のシーケンスと,それを支える水成土壌から陸成土壌への一つ の土壌カテナを表している。十二衰の「衰」は「序列」の意である。管子の 記述は「凡草土之道,各有穀造,或高或下,各有草土,如葉下於…葦,葦下 於…萑,萑下於茅。凡彼草土,有十二衰,各有所帰」(…で示した部分には 順に漢字の植物名があるが,多くはフォントがない)であり,これを巡って は多くの注釈家が多くの説を出している。例えば鄧植儀(1957)はこの章句 の「土」を「木」や「物」に置き換える古人の注釈を採用しているが,ここ では Needham(1986)の訳を示す。「植物(生育)と土壌(条件)の Tao (道)についていえば,あらゆる場所がその特異性をもっていて何かの作物 ( 94 ) 古代中国の土壌認識について がそこでよく育つ。土地が低くても高くてもあらゆる場所はそこを特徴付け るような植物をもっている。例えば,植物xは植物yよりも低い場所を選 好し,植物 y は植物zよりも低い場所を選好する。したがってすべての種 類の植物の間には12の(生態学的な)場所がその優先序列に従って存在する。 そして各植物は特定の位置または場所をもち,そこに局限される(字義的に は,そこに帰する) 」となっている。これは「管子・地員篇」の最も基本的 なテーゼであり,王雲森(1980)も林蒲田(1996)もこの「Tao(道)」を 「規律性」としている。 土(地)のハイドロシーケンスと植物分布:土壌に関しては,平原及び丘 陵・山地について地下水位との対応で土壌を分類・記述した部分と,全国9 州に90種の土壌があるとし,それらを肥沃度によって分類・記述した部分と がある。ここでは先ず前者について述べるが,ここで平原といっているのが, 華北平原であるとすれば *,比較的乾燥した気候下にあって,黄土の堆積物 を主たる母材とする地域であることに留意する必要がある。 * 対象地域については,現代の注釈家によって華北平原の全体とする説と,陝 西省中部の渭水流域一帯を呼ぶ関中地域とする説とがある(原,1982)。 平原及び丘陵・山地の土壌を地下水位によって20に分けている。地下水位 は「施」という単位で計っているが,それは今日の4.9尺,1.67m にあたる という(林蒲田,1996) 。もともと「施」は「尋」 (ヒロ)の意味であり,管 子が書かれた時代の7尺にあたる。これら20種の土壌のうち地下水位が1施 から5施へと低下する(あるいは土地が高くなる)順に,黒埴,斥埴,黄 唐,赤壚,瀆田悉徙となるが,この最後の瀆田は灌漑可能地あるいは四瀆と 呼ばれる江淮河済(揚子江,淮河,黄河,済水)流域にある農地を指す言葉 であって土壌名ではないとする夏緯瑛の説もある。Needham(1986)は夏 緯瑛説に従い,土壌名としては「悉徙」をその音から「息土」と読む説を採 用し,シルト質の肥沃なレス堆積物上の土壌であるとしている。これら5種 の土壌については,それぞれに適応した作物,草本,木本をあげ,また地下 水の質をも述べている。土壌的に注目されるのは地下水位の高い低地にあ Ⅴ 「管子・地員篇」にみる土壌認識 ( 95 ) る粘土質の黒埴,斥埴である。これら土壌の地下水質が「黒而苦」あるい は「鹹」であるとされていること,さらに土壌名に「斥」(斥鹵)が見える ことから,これらが塩類土壌ないしアルカリ土壌である可能性の高いことを 知りうる。黒埴の名は,かつてアメリカの土壌名称で,アルカリ土壌のこと を black alkali soil としていたことを想起させる。あるいは下層に不定形の 石灰ノジュールをもち,この地域で砂薑(黒)土と呼ばれているものにあた るのかも知れないが,これにもアルカリ化したものがある。現在も華北平原 では,塩類土壌やアルカリ土壌の分布が広いことと,灌漑農業によってそれ らの面積が拡大していることが問題とされているが,すでに古くからこれら 問題土壌の存在が記録されていたことは興味深い。黄唐はどのような土かよ くわからないが,肥力が低くわずかにキビを作れるくらいで適作物はないと されている。これも塩鹹地であるとする説や砂漠的景観をもつ土地とする注 釈もある(原,1982) 。相対的な高みにある赤埴と瀆田悉徙の二つの土壌は いずれも「五種(= 穀)宜しからざるなし」といい,肥力の高い土である。 これら5土壌に続いて,さらに地下水位が1施ずつ低くなる順に6番目か ら20番目の土(地)の名を挙げている。地下水位6施の土地は「周礼」にも あった「墳衍」で,なお平原の高みにあると見られるが,7,8施の土地の 名には「陜」 (丘陵地の谷底か) ,9施から11施の地名には「陵」 ,また12施 から20施までのほとんどの地名には「山」の字を与えているところから,丘 陵・山地への地形の変化を読むことができる。これらの土地については地下 水位が与えられ,一部に白壌,灰壌などの土壌名らしいものが見られるが, 記述は簡単で,水質や植生の記載もない。 山地の高度別植生分布:さらにこれに続いて山地の高度に対応した植生の分 布を記述した部分がある。山の最高所を占める土地は「縣泉」 ,そこから下 るにつれて「復呂(山冠の下に復と山冠の下に婁)」,「泉英」, 「山之材(山 冠の下に豺) 」, 「山之側」と命名され(下線の字は王雲森,1980による),そ れぞれに適応した草や木の名が与えられている。Needham は次のように解 釈する。「最初のゾーン(夏緯瑛の推定では6000から9000フィート)の名は ( 96 ) 古代中国の土壌認識について hanging springs 縣泉であり,落葉樹レベルの上にある植生のまばらな地帯 で常時霧や雨が浸透し,水流や滝としてかなり大きな流去水があり,谷の 上部には湿地的な部分があることを意味している。4番目のものの名は明瞭 に森林で覆われた山をいっており,5番目のものの名は山麓の小丘と訳せる。 ……すべての植物が完全には同定されていないが,全体として古代の著者た ちの分類が意味のあるものであることは充分確かである。……」と。植生に ついては,まず「縣泉」には落葉松(カラマツ)林帯があり,次の「復呂」 には湿性な谷に生える柳の類が,「泉英」は高山帯の最も低いもので,楊 (カワヤナギ)の類が薬用植物や多分湿地性の急な谷底に生える草本を随伴 している。「山之材」には密な森林が現れるが,ヒサギ・キササゲの類が優 先樹種で,いろいろな草本を伴う。最後の「山之側」には明らかに落葉性の 森林が現れるが,ニレが特徴的な樹種であるとされている。 以上の丘陵から山地にかけての記述からは,先の「十二衰」に見られたと 同様,土壌あるいは土地の諸条件と植生との対応を詳しく観察・記載してい たことが窺われ,2000年以上も昔の古代中国で,すでに生態学的な視点から 自然や農業を見ていた人のあったことを知ることができる。 肥沃度による土壌分類: 管仲の生きていた春秋時代前期の中国の版図や, 各州の名称は与えられていないが, 「管子・地員篇」には「九州之土,為九 十物」とあり,全国9州の土を90種に分類していたことが記されている。た だしこの分類は,全国に出現する土壌の目録であるにとどまり,それぞれの 州に見られる土壌の特異性やその分布などの土壌地理学的な記述は与えられ ていない。 「地員篇」における土壌の分類は,土壌肥沃度の評価に基づく分類であり, まず「上土」「中土」「下土」にそれぞれ6土類を立て,全部で18の土類を 分けるが,各土類中にそれぞれ5種を細分して,全体で90としたものである。 「上土」6土類を2級に分け,最上の3土類の肥沃度を100,他の3土類の肥 沃度を80とし,「中土」をやはり2級に区分してそれぞれの肥沃度を70と60, 「下土」は2土類ずつの3級とし,それぞれの肥沃度を50,40,30とする数 Ⅴ 「管子・地員篇」にみる土壌認識 ( 97 ) 値的な肥沃度判定をしているのが特徴的である。いま幾らかの土類について, その性状を見たうえで,肥沃度の判定とどのようにつながるのかを考えてみ たい。ここでの土壌の記述は主として王雲森(1980)に従う。 「群土之長」とされるのが「粟土」であり,いうまでもなく第1級の「上 土」である。粟は黄河文明の基盤を支えたとされる重要な作物であり,中 国語では谷子(クーツ)といわれ穀物を代表する。あらゆる土の最上位に置 かれているのが,当時の主穀の名を与えられた土であることは理解しやす い。この粟土に5種を分けるので「五粟」ということになるが,それについ て「五粟之物,或赤,或青,或白,或黒,或黄」と,五行の色に対応したさ まざまな土色があることをいい(物は土の色や性状の意) ,さらに「五粟之 土,在陵,在山,在墳,在衍」といって,これらの土が湿性な低地を除くあ らゆる地形の上に出現する可能性のあることを示している。 觳,不◆ その性質については,「五粟之状,淖而不◆(肉月に刃) ,剛而不觳 「五粟之土,干而不格,湛而不澤,無高 (三水に宁)車輪,不汚手足」とか, 下葆澤之処」とあり, 「泥状にしても粘らず,しまっていて密ではあっても 堅硬ではなく,車輪や手足に粘着して汚すことがない」 ,また「雨が降らな くても旱魃にならず(格は土偏に各の字と同義で干の甚だしいことをいう) , 雨で濡れても水がたまらず,高いところにも低いところにも水溜りができな い」という。すなわち排水と保水のバランスがよく,堅密度や粘着性などの コンシステンスも良好な土壌をイメージすることができる。そういえば,粟 土の名前も,粟粒状の細かい団粒の発達した優れた土壌構造から来ていると も考えられ,有機物に富み物理性の極めて良好な土であるとすることができ よう。化学性についての記述はないが, 「其種大重,細重,白茎,白秀,無 不宜也」とあって,「あらゆる品種の穀物の栽培に宜しい」といっていると ころから,この土は養分にも富んでいると考えられる。 粟土と並んで肥沃度において最上位の土の一つが「沃土」である。沃土に ついても五種があり五沃となる。「五沃之物,或赤,或青,或黄,或白,或 黒;五沃五物,各有異則」とあるが,ここでは色の違いが肥沃度の差異につ ( 98 ) 古代中国の土壌認識について ながるとしている。しかしその内容は説明されていない。また「五沃之土若 在丘,在山,在陵,在崗,若在陬,陵之陽,其左,其右,宜彼群木」とあり, 丘陵・山地のどこにあっても多くの木の生育に適しているという(陬は隅の 意) 。 また沃土も粟土と同様「干而不斥,湛而不澤」とあって,乾いても亀裂が 入ることはなく,雨に濡れても水がたまることのない優れた物理性をもち, 多くの作物や樹木に宜しいとされる。 この沃土についての記述で目を引くのは「五沃之状,剽◆(朮の下に心) 橐土,虫豸穴処」の一文である。剽◆(朮の下に心,ジュツ)はやや堅く密 であること,橐土(タクド)は土に孔洞のあるさまをいう。虫豸(チ,ジ) はいずれも虫であるが,後者は足のない虫(蠕虫の類)をいう。つまり沃土 はやや堅密ではあるが孔隙に富み,ミミズなど土壌動物の多く生息する土で あるとする。このことはまた有機物に富むことをも窺わせる。 「管子」の時 代に,土壌動物の存在が土の肥沃度の要因として考慮に入れられていたこと は特筆に値しよう* * 土壌動物,特にミミズについては,戦国時代から前漢にかけての「荀子・勧 学」や「礼記・月令」,「説苑・雑言」にも記述があり,土壌を耕耘するミミ ズの働きが称揚されているという(林蒲田,1996) 。 以上に「粟土」と「沃土」の例について,肥沃な土のもつ性状を見てきた が,共通しているのは土壌構造が発達し,排水と保水のバランスがよく,粘 着性や堅密度などコンシステンスも良好なことである。土の粒度組成や有機 物については明示されていないが,物理性をもとに考えれば,細粒質で有機 物にも富む土であって,肥沃度も高くあらゆる作物の栽培に適していると考 えられる。 これらとの対比で「下土」とされるものを見れば,塩性土とみられる「鳬 (フ)土」や「桀土」が最も評価が低く,上述の第1級「上土」のもつ肥沃 度の30%,粘質で雨が降れば分散し,乾けば亀裂を生ずる「埴土」が40%, 「糞の如し」といわれる「猶土」と,その色が鼠の肝のような赤色とされる Ⅵ 土壌学の萌芽を何処に求めるか ( 99 ) 「◆(弓偏に土)土」が50%と評価されている。塩性土が最下位に置かれて いるのは当然として,その他の「下土」も物理性や生物性が悪く,風化が進 んでいて痩せているために低い評価になっていると見られる。そしてこれら のことからは,また良質の有機物に乏しく化学性にも劣ることが推定される。 18の土類の中から土の粒度組成を察知しうる土壌名を拾い上げると,今見 たように「埴土」の評価は低いが,「壌土」は第2級の「上土」で肥沃度は 80%, 「沙土」は第2級の「中土」で60%とされている。「疆力剛堅」な「壚 土」は,わが国の江戸期の農書で黒ボクをいう「壚土(ノツチ)」とは別物 のようであるが,第1級の「中土」で70%の肥沃度をもつとされる。 以上に見てきたように,「管子・地員篇」は,生態学あるいは植物地理学 における先駆的な知見を盛り込んでいる点で貴重な古典ではあるが,土壌学 的には小地域におけるハイドロシーケンスの記述はあるものの,大地域を対 象とした土壌地理学的な記述に乏しく,また多数の土壌名が挙げられてはい るが,それらの分布の条件や状態を読み取ることができないという難点があ る。ただ,肥沃な土壌の備えるべき条件を明らかにした中で,ミミズなどの 土壌動物に富むことを指摘している点は注目に値する。 Ⅵ.土 壌 学 の 萌 芽 を 何 処 に 求 め る か かつて Jarilow(1913)が「古代世界におけるペドロジーの萌芽」という 論文を書き,BC5世紀から4世紀の頃にギリシャで著わされた2,3の論 文* の記述に基づいて,原初的な土壌学に関する考察を展開した。 * 論文の一つとして挙げているのは Peri physioz paidioy(ラテン訳 de natura pueri;子供の本性について)である。Jarilow はこの著者が Diogenes of Apollonia(BC5世紀後半)の哲学(空気説)の強い影響を受けているが, 誰であるかは確認されていないという。一般には Diogenes of Apollonia と 同時代を生きた医学の父 Hippokrates の女婿である Polybos(BC4世紀前 半)とされることが多いが,Jarilow はそれに十分な根拠がないと考えてい る。 ( 100 ) 古代中国の土壌認識について これらの論文から,土壌学に関わることとして Jarilow が要約した事項の 中には,以下のようなものが含まれている。 あらゆる生物の成長には類似性がある。 植物は「湿気」によって養われている。 それぞれの植物の栄養は,人間の身体と同じく,4つの「湿気」,すな わち粘液,血液,胆汁,そして水から成っている。 似たものが似たものを養う。だからそれぞれの植物は,土地から自分に 似通ったものだけをとる。(註:18 19世紀の腐植説における基本的テ ーゼとなった) 生長と栄養の過程では,熱と冷の対立が重要な役割を果たす。“あらゆ る熱は,冷によって養われている” 。 土地は植物を養う無限の力をもっている。 土壌の肥沃性も不毛性も,植物の地理的分布と同様,所与の土壌中にそ れぞれの植物が必要とする「湿気」が含まれていること,過剰なこと, 乏しいこと,欠けていることによって決まる。 肥沃性を決める土壌の条件は僅かな距離でも容易に変わる。 以上は土壌の生物的条件についての要約であるが,土壌の物理的条件に関 するものもある。 初めて土壌の器械分析についての考えが述べられ,そのための装置のモ デルが作られた。ただし実用には至らなかったが。 土壌の構成の違いによって季節ごとの土壌の「湿気」と熱の程度が決ま る。 a)土壌「湿気」の放散と,b)土壌の「湿気」と,c)流水の豊富さ及 び水体の水位との間の関係が確認された。 土層上部と土層下部の加温性が異なることが確かめられた。 Jarilow は,これらの中に土壌学の最初の萌芽があると認めたのである。 また彼は,土壌学が最初の専門科学である医学と同時に生まれたというが, 土壌学が育った培地は,あらゆる実用性から解き放たれた真理の探究であっ Ⅵ 土壌学の萌芽を何処に求めるか ( 101 ) たとも言っている。 Jarilow の扱ったギリシャにおけるペドロジーの萌芽が BC5∼4世紀で あったのに比べて,本稿でとりあげた中国の古典が扱っている時代は, 「禹 貢」が BC20世紀ごろ, 「周礼」が BC11世紀ごろ, 「管子」が BC7世紀ごろ とはるかに古い。もっとも,これら中国の古典が実際に編まれたのは,早 くとも BC5世紀,一般には BC4∼3世紀の戦国時代以降とされる。実際, 戦国時代に成立した五行説の影響を強く受けていると思われる記述も多く, 書かれている内容のすべてを額面ほどに古いものとできないことは明らかで ある。しかし同時に,Needham(1986)が「禹貢」について,「孔子の時代 の人々が商や初周の地理学,土壌学,植物学的な知識をすべて……長く口承 によって知っていたと思われる」と書き,また「管子」について,「その内 容の多くは,安全には管仲の時代に帰し得ないとしても,彼の国の伝統は多 分この本の中に見られるだろう」といっていること,また王雲森(1980)が, 「管子」の内容は「管仲の重農政策に関わる土壌方面の具体的状況を扱って おり,その核心は管仲自身の所説である」と強調していることにも留意する 必要があろう。すなわち,これら古典が編まれた戦国から前漢の時代におけ る付加や修飾はあったとしても,内容の基本はそれぞれの時代における土壌 や植物に関する人々の考え方を反映している,としてよいのではなかろうか。 中国古典の土壌に関する記述が,Jarilow がギリシャの古典に見た土壌学の 萌芽よりも古いものを含んでいるのは確かだと思われる。 このように見るとき,古代中国における土壌認識には,その時代の古さに もかかわらず,次のような現代にも通用すると思われる特徴を数えることが できよう。 Ⅰ.自然の中での土壌の位置づけについて 1. 自然の重要な要素として土壌を見ている。 2. 気候や地形など自然の他の要素との関係で土壌を見ている。 3. いつも土壌を含む自然の諸要素と植生との対応関係を意識している。 ( 102 ) 古代中国の土壌認識について 4. 以上を要するに,すでに生態系として陸上の自然を捉えている。 5. そのため植生や土壌の地理的分布についてもよく知っている。 Ⅱ.農業上の土地・土壌の利用について 6. 国家財政の中での土壌の重要性への関心が高い。 7. 土壌の生産力を評価し肥沃度等級に基づいて貢賦を決めている。 8. よりよく生産するための適地適作を推進している。 9. 肥沃な土壌のもつべき特性を知っている(土性,構造,コンシステ ンスなど) 。 10. 土壌肥沃度増進のために早くから施肥を導入している。 Ⅲ.土壌学的な知見について 11. 土壌を色や土性によって同定し命名している。 12. 土壌の特性を示す多くの土壌名称を導入している。 13. 土壌の地形連鎖,とくにハイドロシーケンスを認識している。 14. 土壌地理学的に土壌分布の地域的変異を把握している。 15. 肥沃度にもとづいて土壌を分類している。 全体としていえることは,中国における土壌やそれを一部とする自然の認 識は極めて具体的・即物的であって,哲学的思弁に終始していないというこ とである。Needham(1986)はこの点について,「人はギリシャ人が中国人 よりも体系化に強い好みをもっていたことを認めるにやぶさかでないのだが, この(訳注:管子に見られる)極めて早い時期の生態学が,明らかに広汎で 徹底した野外での観察にもとづいていたことをみると,ギリシャ人が中国人 を凌駕するのは難しいと思われる」といっている。また彼は「地員篇」に記 載されている植物名を考証し,「全体として古代の著者たちの分類が意味の あるものであることは十分確かである」といっているが,神話の時代からほ ど遠くない時期の自然や植物・土壌についての記述が,これほど野外での具 体的な観察に裏打ちされていたことを知るのは大きな驚きである。さらには, 古代中国の人々の実際的なものの考え方にも驚かされる。彼らの土壌に対す Ⅵ 土壌学の萌芽を何処に求めるか ( 103 ) る関心も,もとは地租決定のための基準を求めるところから出ており,極め て実用への志向が強い。さらに土の肥瘠を弁ずることから,たちまち適地適 作的な対応(土宜之法)や,施肥による改良へ向かう(土化之法)といった, 具体的な施策への結びつきの早さにも,人々のプラグマティックなものの考 え方を見ることができる。そしてそれが2000年から3000年も昔のことである ことに,改めて驚かざるを得ない。 Jarilow(1913) の 向 こ う を 張 っ て, 時 間 的 に は 大 分 遅 れ る が, 菅 野 (1958)は「東洋における土壌学の萌芽」を「禹貢」に求めた。Gong et al.(2003)は,英語で「古代中国における土壌学の起源と発達」を発表し, 本稿に引いたような中国古典の記述を簡単に紹介しながら,ペドロジーは古 代中国に起源したと主張した。Needham(1986)は, 「植物学」の巻におけ る「草創期のジオボタニー」の章の多くを「禹貢」と「管子」の紹介にあて, 一方でテオフラストス,コルメラらギリシャ,ローマの学者たちの言説を批 判的に引用しながら, 「生態学,植物地理学とともに土壌学はまさに中国で 生まれたように思われる」と結論している。筆者は先に社稷壇の五色土との 関連で,土壌地理学が古代中国に胚胎したと考えたのであるが,ここにおい て土壌学のみならず,生態学,植物地理学の起源をも古代中国にもとめる Needham の見解に賛同するものである。ただし,Jarilow が論議の拠りどこ ろとしたギリシャの古典論文の妥当性には問題があり,むしろ Krupenikov (1993)の記述にみられる Herodotus(ca. BC485-425)の事跡,例えば黒海 北岸に広がるスキタイのチェルノゼムの認識や,ナイル河谷の沖積土と周縁 のアラビア半島や北アフリカ土壌との差別化など,を取り上げるべきではな かったのかとの思いがある。もっとも,その場合にも古代中国における土壌 認識の先進性が覆ることはないと思われるのであるが。 謝辞 本稿を草するにあたって,日本で手に入らなかった王雲森著「中国古代土 壌科学」のテキストを,筆者の要請に応えて提供してくださった国立台湾大 ( 104 ) 古代中国の土壌認識について 学の陳尊賢教授に深甚なる謝意を表する。また中国科学院南京土壌研究所の 龔子同教授からは,バンコクの第17回国際土壌学会の機会に,林蒲田著「中 国古代土壌分類和土地利用」一部を頂戴した。心より感謝申し上げる。これ らの文献をいただいてからすでに10年近い歳月が過ぎ,ここにようやく最初 の習作を世に問おうとしている。甚だ不充分な成果ではあるが,両先生のご 厚情なくしては本稿があり得なかったことを記し,重ねてお礼を申し上げた い。また筆者に Needham の Botany の巻を読むよう強く勧めてくれた古川 久雄京大名誉教授にもお礼を言わねばならない。古川さんの勧めがなければ, あの分厚い本を手に取ることはなかったであろう。結局ごく一部だけしか読 んでいないのであるが,多くのことを教わった。中国語については何度も高 知大学の康峪梅教授を煩わせて教えを受けた。また,いつものように文献の 入手やコピーで京都大学土壌学研究室の星野晴世さんのお世話になった。お 二人にお礼を申し上げる。 参考文献 Boulaine, J. 1989. Histoire des Pedologues et de la Science des Sols. INRA, Paris, 297p.(永塚鎭男訳 2011.人は土をどうとらえてきたか,農文協) 中国通信社 URL http ;//www.china-news.co.jp/node/525 張漢潔 1959.我国古代対“土壌地理”的研究和貢献,土壌学報,7 (1-2) : 23-27. Ehwald, E. 1962. 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