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アジアから人間を考える
日本古代史とアジア総集
古館 晋(WRITTEN by SUSUMU FURUTACHI
)
[日本古代史とアジア 目次]
第一章 卑弥呼の世界とアジア(36号)
第二章 九州ヤマト王朝の東征とアジア(37号)
第三章 天の岩戸、神話化された歴史とアジア(38 号)
第四章 邪馬台国大和論と歴史学の三大(珍)発見(39号)
第五章 日本海文化圏 出雲、伊都国時代とアジア(40号)
第六章 難波王朝時代とアジア(43号)
第七章 アジアと歴史余話(42号)
第八章 記紀の改ざんとアジア(41号)
第九章 日本古代史とアジア総集(本号)
読者のご質問に答えて
一、古代歴史の要約
二、古代史の研究者たち
三、日本古代史年表
読者のご質問に答えて
奈良の黒塚古墳から三十四面の銅鏡が発掘された。無視しても良いのであるがご質問が多
いので簡単にお答えする。
黒塚古墳の銅鏡(他にも畿内の古墳遺跡からは銅鏡が多数発掘されている)や箸墓古墳(畿
内最古の巨大古墳)の存在は、
「1、西暦三〇〇年ころないしさほど遅くない時期に、巨大古墳を築造でき、銅鏡を大量に副葬
する大勢力が畿内にあった。
2、畿内の弥生遺跡、巨大古墳を築造できないだけでなく銅鏡の副葬もほとんど見られない、
とは不連続な文化である。
3、西暦三〇〇年ころないしさほど遅くない時期に、畿内に大変革があった。」
以上のことを示している。
畿内の大変革の概要については本文を、詳細は既刊の文をお読みいただきたい。私も奈良
の住民であり、黒塚古墳の銅鏡大量発掘はうれしいことであるが、邪馬台国論争とは大局的に
見れば関係ない。考古学者もマスコミも少々だらしないと思う。
なお、別の発見だが、弥生土器に文字が記述されていても当然なことであり、大発見ではな
い。(もし縄文土器なら大発見)
西暦一〇七年、伊都国王の帥升は生口一六〇人を献じに洛陽まで朝貢している。つまり、数
百人の大使節団が文明の中心地の洛陽を訪れている。漢字は当然知っている。
魏志倭人伝では邪馬台国や伊都国が漢字を駆使していることを記述している。さらに、卑弥
呼が親魏倭王に任じられたことは、大月氏国、魏、倭という大友好同盟、インド、中国、日本(九
州)という一大文明圏が形成されたことを示している。
伊都国王の帥升や邪馬台国の女王の日御子(卑弥呼)は、われわれよりも賢明な大政治家
であり、文明人なのである。
『日本古代史の旅はすべて終った。ここで、旅の道程を振り返ってみたい。本文では邪馬台国
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から入ったが、ここでは経年的に時代を見てみる。なお古代史の研究者たちについてもふれて
おく。』
一、古代歴史の要約
『古事記の前文、太安万侶の歴史要約では次のように表現されている。
1「参神作造化首」
参神(天之御中主神、神産巣日神、高産巣日神)が造化の首、始めとなった。
2「二霊為群品之祖」
二霊、イザナギとイザナミがすべての品(人や物)の祖となった。
3「懸鏡吐珠、而百王相続、喫剣切蛇」
懸鏡は天の岩戸の古事、吐珠は誓約の時の古事、喫剣切蛇はヤマタの大蛇退治である。誓
約をうけ百王、多くの大君が相続した。
4「議安河而平天下」
天安河で出雲は我が御子の知らす(治める)国とはかり、国譲りを行った。
5「番仁岐命、初降于高干穂」
ニニギ命が高千穂に降った。
6「神倭天皇、経歴于秋津島」
神倭天皇が秋津島を経歴し東征を行った。
7「覚夢而敬神祇。所以称賢后」
崇神天皇が夢を見て神祇を敬った。賢后とされている。(注)古代では后はきさきではなく王を
指した。
8「望烟而撫黎元、於今伝聖帝」
仁徳天皇が烟を望み、黎元、つまり人民を撫した。今も聖帝と伝えられている。』
さて、この歴史要約は正しいのか。
(一)出雲・伊都国時代
古事記の前文では1「参神作造化首」の時代である。参神とは天之御中主神、神産巣日神、
高産巣日神である。
天之御中主神は名前以外に手がかりがない。
神産巣日神は大那貴のパートナーであり常世に渡った少彦名の親でもある。ワニに襲われた
白兎神話の大国主を助けている。出雲国風土記では御子神が多い。出雲の王(神・女王の可
能性も高い)である。
高産巣日神は日御子のパートナーである。書紀では壱岐島の月神が「我が祖高産巣日神」と
神託したという。大伴氏の祖ともされている。伊都国王の可能性が高い。少なくとも北九州の王
(神)である。
書紀の最初の参神、国狭立尊(国狭槌尊)、豊国主尊、国常立尊(国底立尊)はもうすこし明
確である。国狭立尊は出雲の王であり、豊国主尊は豊国の王である。国底立尊は国の底(熊
襲を国と認めていない)の王、邪馬台国の王である。国常立尊は倭の盟主であり伊都国王から
邪馬台国の王へと交代したと想定できる。強国の誕生である。
いずれにしろ「九州勢力と出雲の勢力が歴史の始まりであった」ことを表している。
さて、周の戦国末期、秦の統一戦争と苛政、滅亡、さらに漢初の動乱によって十万、二十万と
いう民が東へ逃亡してきた。後漢書東夷伝によれば漢初の大乱だけで数万人である。日本全
土の人口(縄文人)が二〇万から三〇万人といわれる時代の人口数である。渡来人の波は朝
鮮(韓)半島北部から南部におよんだ。辰韓(新羅)は秦韓というべきかとか、亡民の国であると
もいわれた。
逃亡者、避難民の波は箕子の末裔を名乗る箕準を巻き込み、BC一九〇年ころ(恵帝のこ
ろ、BC一九五∼一八八年)箕準一族は衛満に追われて数千人が船で朝鮮(韓)半島の南へ逃
れ、さらに海中に逃れた。
さて、弥生文化は土器の変化に意味があるのではない。水田耕作・土木技術、養蚕・機織、
金属器文化に意味がある。金属器がない弥生文化の初期は散発的な渡来人によるものであろ
う。弥生中期の発展、国づくりの早さは箕準一族の渡来によるものであろう。箕準一族は渡海・
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造船技術と漢字をもたらした。
世界史では石器時代(旧、新)、青銅器時代、鉄器時代という時代区分がよく使われる。日本
では青銅器時代と鉄器時代で時代の差が少なく、二つの金属が入り混じって導入された。日本
の時代区分は石器時代、金属器時代とすべきであると考えている。
箕準一族の渡来に始まる出雲・伊都国時代は金属器時代であり、BC一九〇年ころからAD
一六五年ころまでの時代である。
出雲・伊都国時代の前半、BC一九〇年ころから紀元ころまでは、出雲の大国主を権威とす
る、平和な(縄文人との戦いは当然あったが)分散・拡大の時代であった。人口は少なく、開拓
できる国土は広大であった。国産み神話に反映している八つの島や半島から内陸部へむかっ
て環濠集落が広がった。
古事記の、1淡道之穂狭別嶋(出雲)、2伊予、3隠岐、4筑紫、5伊伎(壱岐)、6津嶋(対
馬)、7佐渡嶋、8豊秋津嶋(豊国、豊前)が国々の誕生の順序であると思う。
葦原中国(
葦が一面に茂った国)が瑞穂の国へと変っていった。旧暦の十月には諸国の長
(神)たちが収穫物を持って出雲に集まり、盛大な祭りを行った。出雲だけ神在月に、出雲以外
は神無月となる。
渡来人の一部は、漢人勢力が朝鮮(韓)半島北部に留まること、南部までは攻撃して来ない
こと、を確認して、新羅や伽耶諸国に出戻りもした。出雲と新羅を中心とした平和な日本海文化
圏の時代だ。
日本海文化圏、とくに出雲や但馬と新羅との人的な交流は多かった。新羅建国に倭人瓠公
がいる。新羅から里へ帰った后を追いかけて渡来した天日矛は但馬の王となる。新羅の脱解
王は但馬生まれと見られる。大那貴(大国主の古名)のパートナーの少彦名は新羅へ渡った。
脱解王と少彦名が同一人物の可能性もありそうだ。この時代の有力者は海を越えて気軽に往
来していた。なお、東夷の王(伊都国王か出雲の王)が渡海して楽浪大守に朝貢もしている。
出雲・伊都国時代の後半、紀元ころからAD一六五年ころまで、対馬海峡の制海権をにぎった
伊都国の時代となる。
弁韓(伽耶諸国)からの鉄の輸入を支配したことは伊都国の権力の増大に大いに役立った。
日本海文化圏では、伊都・金海(伽耶諸国)勢力と出雲・新羅勢力の対立の時代でもある。二
大勢力の抗争は日本よりも韓地の方が激しかった。新羅は陸上で伽耶諸国を圧迫し、金海の
水軍や伊都国の水軍はしばしば海上から新羅を襲った。伊都国の水軍は新羅の角干(最高
位)の羽島を討ち取ったり(七三年)、新羅の王都の民が倭兵が攻めて来るという噂で山に逃
げ惑う(一二二年)ほど、新羅を荒しまわった。
五七年、一〇七年の伊都国の洛陽への朝貢がビッグイベントであった。
五七年、倭(イ)国の極南界に位置する倭奴(イト)国が朝貢し、「漢委奴(イト)国王の金印」を
光武帝から授けられた。
なお、倭はイが普通の発音である。1周初に朝貢し、2戦国時代には燕の南の蓋の南に位置
し、3一七八年に鮮卑の王に滅ぼされた烏侯秦水から東の国、倭(イ)国が遼河の周辺に存在
していた。
漢から金印を授けられたのは、北狄の雄の匈奴と東夷の雄である倭奴(恰土、伊都)国であ
る。
「匈奴」 近くに居る、凶暴な奴。
「倭奴」 廻って遠い、柔順な奴。
漢人にとって、みごとな命名である。
この朝貢によって、倭(ワ、九州)という言葉・概念が洛陽で誕生した。倭(イ)から文字が吾
(ワ)から音が採られた。
一〇七年、生口百六十人を連れた伊都国王帥升が率いる数百人の大使節団であった。数百
人の大使節団、王が一年くらい不在でも権力基盤が揺るがないという自信、伊都国の強大な
権勢を示している。帥升等が訪れたとある。等は従者ではなく(有力者に従者がつくのは当然
で記述しない)有力者を意味している。伊都国傘下の国々の長、おそらく九州ヤマトの長も参加
した。倭(九州)の指導者たちが洛陽で先端文明を体験した。
出雲、伊都国時代の末期、桓霊の間、二世紀半ばころには数十年、倭国の大乱の時期があ
った。伊都国傘下の小国であった九州ヤマトは筑後川から南の肥後、東の豊後へと勢力を拡
大した。倭国大乱は強国による弱小国の併呑、強国と強国の争い、弥生人と、縄文人(熊襲)と
の争い、盟主交代の混乱であった。
この時代を表す青銅器の分布について少々ふれておきたい。
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・銅剣、銅矛(銅戈)は副葬された。さらに鉄の時代には実用性が失われたため、盛大に副葬し
た。結果として、銅剣、銅矛(銅戈)の分布が青銅器文化の分布を表している。
・銅鏡は副葬された。しかし、鉄の時代になっても実用牲は失われなかった。従って、銅鏡の分
布は青銅器文化の分布と移動した後の分布状況を示すことになった。
・銅鐸は副葬されなかった。さらに鉄の時代にも実用性が失われなかった。銅鐸の分布は青銅
器文化の分布とは無関係であり、不用になった時の所在地を示すにすぎない。
さて、銅剣、銅矛(銅戈)の分布を見る。
1集中した(王権が強かった)出雲勢力。
2銅矛(銅戈)主体の北、中部九州勢力。
3銅剣主体の伊予・瀬戸内勢力。
以上の三大勢力があった。出雲勢力は但馬や、時に山陽道に勢力を伸ばした。九州勢力は四
国南部に勢力を伸ばしている。伊予・瀬戸内勢力(ニギハヤヒ、越智、物部氏)はまもなく大和、
河内に勢力を伸ばしていく。
なお、2銅矛(銅戈)主体の北、中部九州勢力では銅鏡が数多く発掘されている。3銅剣主体
の伊予・瀬戸内勢力では銅鏡はほとんど発掘されていない。後の時代になるが、畿内の弥生
遺跡からは銅鏡がほとんど発掘されず、古墳遺跡からは銅鏡が多数発掘されることは、勢力
の交代を示している。
(二)九州ヤマト王朝時代
古事記の前文では2「二霊為群品之祖」、3「懸鏡吐珠、而百王相続、喫剣切蛇」、4「議安河
而平天下」、5「番仁岐命、初降于高千穂」と記述された時代である。
二霊・邪馬台国(九州ヤマト)の王イザナギと出雲の女王イザナミの結婚によって、覇権が伊
都国から入れ替わった。
二人の結婚を日本の誕生の時と言っても良い。九州から出雲、但馬という大勢力が形成され
た。さらに、それでも志半ばとする日本統一への明確な意志がある。その志は日御子から建国
の兄弟へと受け継がれていく。
懸鏡・日御子の天の岩戸や吐珠・日御子とスサノオの誓約、喫剣切蛇・ヤマタの大蛇退治が
ビッグイベントであった。
イザナギから国分けで、日御子は山の国=邪馬台国を継ぎ、スサノオは海の国=伊都国や
対馬、壱岐、豊国の統治権を得、月読は黄泉の国=出雲の大国主の地位を得た。
天の岩戸は二〇〇年九月一日午前七時ころの日食(OPP三三七二)を利用したビッグイベン
トであったと考えている。この点はもっと議論を重ねればよい。
スサノオが高天原(阿蘇)を追放され北九州から出雲に行き大国主となったことも当然であ
る。日御子の補佐役(武内宿禰)と出雲の大国主の地位を兄の月読と交換した。新羅を経由し
たとされるが、この新羅は伽耶諸国を示している可能性も高い。いずれにしろ、日本海文化圏
内での移動である。
議安河而平天下、天安河で出雲は我御子の知らす国とはかり国譲りがあった。「国譲りは九
州ヤマト王朝の覇権を出雲勢力、大国主が認めた」ということである。邪馬台国の王イザナギと
出雲の女王イザナミの結婚以来の歴史的な経緯がある。
九州ヤマト王朝時代は一六五年ころ(イザナギ、イザナミの結婚)から二九四年(東征の詔
勅)までの約百三十年の歴史である。
場所は、魏志倭人伝の女王の都であり、記紀神話では高天原と記述された阿蘇および北九
州、出雲が主である。太安万侶は中国南部の盤古神話を参考にして、上手に歴史を神話化し
ている。出雲を九州とほぼ対等にあつかっていることは評価できるであろう。
なお、この間に伊予・瀬戸内(ニギハヤヒ、越智、物部)勢力が河内や大和に伸び、一部は中
部地方にも進出していった。
東国は狩猟採集の石器時代である。
この時代に日御子の伽耶救援、倭…伽耶…百済連合の成立があった。日御子の還暦の年
二三〇年(魏の太和四年)には百済の仇首王から七枝刀を贈られている。景初二年の魏への
朝貢はみごとである。親魏倭王の金印や銅鏡百枚など数々の宝を入手した。親魏倭王はイン
ド西北部や中央アジアの親魏大月氏王とならぶ、大友好同盟である。この道はインドの神々や
文化を伝える道となる。
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魏の使者は「帯方郡(沙里院面)、狗邪韓国(金海)、対馬、壱蚊、末盧(松浦半島)、伊都(恰
土)、奴(那、博多)、不弥(玄海、宗像)、投馬(ツマ、豊国の字佐)、大分か臼杵、女王の都の
阿蘇」を通った。
邪馬台国(九州ヤマト)は、ほぼ筑後、肥後、豊後であり、女王の都は神話化された高天原、
阿蘇である。「帯方郡(沙里院面)から金海が七千里、帯方郡から女王の都が一万二千里」、
「周旋(伊都から阿蘇)五千余里」など数学的に証明できると共に、伊都国などが北、東の侏儒
国(児嶋、子州)、裸国・黒歯国(縄文人の国、河内、大和)まですべてが論理的、合理的に説
明できる。
地理はもとより、倭国の国情まで、正確な記述を行い、女王の都の場所も数学的に検証でき
るように親切に記述してくれた、魏の使者には大いに感謝している。
新羅と倭の戦争では、二〇八年の日御子と利音王子の対決、二四九年の于老王子の死にい
たる争い、後の二八七年から二九四年の弓月君一族の争奪戦など、倭は伽耶や百済とむす
び、新羅は単独で戦っていた。日御子は内政、外交の両面で卓越していた。
「九州ヤマト王朝時代は日御子の時代である」といっても過言ではない。
番仁岐命、初降于高千穂でホのニニギ命が阿蘇(高天原)から高千穂に降った。血統ではス
サノオの孫であるが、誓約(ウケヒ)によって皇孫(日御子の孫)とされる。
二六六年の祭祀の長である台与(豊)姫の名による、晋への朝貢も見逃せない。
使者は円丘(天檀)と方丘(地檀)があわさった新方式の祭祀を見た。前方後円墳(天円地方
墳)が中華の地から、朝鮮(韓)半島経由ではなく、直輪入された。
ニニギ命は魏志倭人伝にも記述されている日御子死後の内乱に苦しんだが、美人の后と建
国の兄弟の大君や祭祀の長になる倭姫という優秀な子供を育て、九州と出雲を維持した。ニニ
ギ命は幸せな人生であった。
なお、九州の風土記と出雲国風土記のほとんどがこの時代の記述である。
(三)東征と難波王朝時代
古事記の6「神倭天皇、経歴于秋津島」、建国の兄弟による東征は二九四年(甲寅年、兄大
君が四十五歳)から建国の弟大君の即位の三一三年までである。
7「覚夢而敬神祇。所以称賢后」、いわゆる崇神天皇(建国の弟大君)が夢を見て、神祇を敬
った。賢后と称される。建国の弟大君は事績が崇神天皇に時代はほぼ応神天皇に分割され
た。三三四年が建国の弟大君の崩御の年であろう。
8「望烟而撫黎元、於今伝聖帝」、仁徳天皇が烟を望み、黎元、人民を撫した。今も聖帝と伝
えられる。歴史の時代である。
東征以前の弓月君一族をめぐる、新羅との七年戦争二八七年から二九四年)が歴史の大き
な分岐点となった。弓月君一族によって古墳時代が誕生したとも言える。
建国の兄大君はオキナガタラシヒメ(
日御子)の死と相前後して生まれたため、継ぐ者として
オオタラシヒコと命名された。マキムクやカムヤマトイワレヒコは東征の前半を統率した業績に
基づく尊称である。
建国の弟大君は魏志倭人伝の日御子死後の戦乱の中で、火宅から生まれ、ヒコホホデミな
いしホ(火)ムタワケと命名された。ミマキイリヒコイニエやハツクニシラスは東征の後半を統率
したことに基づく尊称である。
景行天皇は九州時代の建国の兄大君であり、神武天皇は東征の時の兄弟の姿であり、崇神
天皇は東征後の弟大君の姿であり、応神天皇は建国の兄弟の時代を受けている。
書紀は「神功−応神」となっている。
歴史は「神功(日御子)−ニニギ命−建国の兄(神武、景行)−建国の弟(崇神、応神)」とな
る。
書紀は九六〇年ほど古くしたが、二九四年(甲寅年)、建国の兄四十五歳の時の東征の詔勅
が、ある意味では日本の建国年である。
建国の兄大君(本名、オオタラシヒコ)は熊襲征伐だけでなく九州各地を精力的にまわった。
出雲半島の出入口に健部を設け、出雲の国を安定させた。新羅と講和をした(三〇〇年)。安
芸と出雲の平定には古事記の記述に十五年もかけた。吉備の豪族の姫を后とすることも、相
互の幸せである。大和の地理や国情も調査させた。建国の兄大君は万全の準備を行って東征
に入った。
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なお最初から大和の平定を目的としていたかは多少の疑問もある。
吉備・播磨は南下する出雲勢力、海からの伊予、瀬戸内勢力、山陽道を東へ進む九州勢力
の交叉点であった。当時の文明の地のほぼ中央でもある。大君の年齢からみて、吉備・播磨攻
略が当初の目的地であって、後に目的地が変った可能性も感じる。
九州ヤマトの建国の兄弟大君による東征は、一方的な勝利ではなく、講和であった。
ニギハヤヒ・物部勢力は暗峠(日下)で勝ち、建国の兄大君を倒した。大和でも勝敗は決しな
かった。最後は、親魏倭王の金印や銅鏡などで講和になり、九州勢力の宗主権は維持できた
が物部勢力も実を取った。
物部氏は大和の中北部から河内、戦略地の大和川流域の支配権を維持した。独自の軍事、
警察権を持ち、大連(いわば大将軍)が九州以来の大伴氏と複数できることにもなった。三輪社
という出雲の神々を大和の中部に置いたのも妥協の産物ないし出雲、九州、伊予・大和の三勢
力の融和の象徴である。
戦勝であれ、講和であれ、呼称は別として日本の誕生である。
後、旧唐書には日本伝と倭伝があり、「日本は元小国で倭国の地を併せた」と記述されてい
る。新唐書では「日本は倭国によって併せられた」と逆の記述になっている。遣唐使などの豊か
な交流によって実情を知った訂正であると言えるであろう。
さて、仁徳天皇の時代、宮は難波であった。後に大化の改新の詔勅が下ったのも難波であっ
た。そういう史実はあまり知られていない。本書では難波王朝時代という言葉をあえて使った
が、古墳時代と飛鳥時代をあわせて、難波・飛鳥時代(あるいは飛鳥、難波時代)と呼ぶのが
適切のようにも思う。
日本武尊(
ヤマトタケル)の東国平定や四道将軍の覇権などで、日本のヤマト王朝が誕生し
た。もっとも、部族・都邑国連合の延長線上である豪族連合という色彩が濃い。
歴史の時代であり、事績をくどくど述べるのは止めるが、建国の弟大君や仁徳天皇、後の聖
徳太子など、立派な人格者が指導者であったことは日本にとって幸いであった。人民を大切に
し、文化国家をめざした。部族への帰属意識と共に、大君を象徴・中心とした日本人という意識
が育っていった。
播磨の国風土記は東征の建国の兄弟大君の記述が主である。常陸国風土記は建国の兄大
君の子供のヤマトタケルの巡狩(天子の視察、実質は平定をも意味する)の記録である。
冒頭に古事記の歴史要約をつけた。
太安万侶は歴史改ざんの主役の一人だった。しかし、太安万侶がウソをつくことを好む人、あ
るいは平気でウソをつく人であったならば歴史の解明はできなかったと思う。古事記の前文でも
「太安万侶は正しい、ウソでない歴史の要約を行った」のである。誰もが正しい歴史要約である
とは信じなかった。
神話化された歴史で、剣や矛や鏡が物語の主たる構成要素であること、剣や矛や鏡がないと
物語が成立しないことを考えていただきたい。つまり「長そうに見せている神話の時代は金属
器時代、弥生時代の中後期という短い時代のことである」という点に気づけば、この要約が歴
史の要約となる。
太安万侶の歴史要約には奇妙さもある。
淡海三船が選定した天皇名(諡号)で神という字が付いた大君が四人いる。神功、神武、応
神、崇神である。「神功、神武」と「応神、崇神」では前者が位が高いのは明確である。神の(よ
うな)功や神の(ような)武に対して、神に応じたり神を崇めることは相対的には低い。神功と神
武では功の方が武よりもやや広い。応神と崇神では応の方が崇よりもやや広い。微妙ではある
が上下の差がありそうだ。四者のうち、普通人にとって、崇神(神を崇める)は達成可能である
が、神功(神の功をあげる)は達成不可能という感じがする。「1神功、2神武」と「3応神、4崇
神」となる。こういう命名は淡海三船の歴史観であリ、歴史の要約である。
さて、太安万侶は神が付いた四者で、1の神功と3の応神の記述を歴史の要約からはきれい
さっぱりと切り捨てた。応神はともかく、神功の事績を記述しないのは大きな決断である。ウソを
記述したくないという太安万侶の心情も、ここまでいくと、みごとである。
ウソを記述したくないことは、本文においても、例えば東征で、「吾は日の神の御子でありなが
ら日に向かって戦ったのが失敗だった。次は日を背負って討つ」と同母兄弟の兄に堂々たる王
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者の言葉を述べさせている。大和でもナガスネヒコを(討ちたいという歌は記述したが)討ったと
いう記述はしていない。書紀のように、前者は弟の言葉にしたい、後者は討ったという記述をし
たい個所である。古事記にはウソをつきたくないという太安万侶の性格が随所に表れている。
太安万侶も淡海三船も根は正直で誠実な人柄であった。感謝したい。
さて、伊都国の時代や卑弥呼から難波王朝の時代は、中国では後漢、魏、晋の時代である。
後漢、魏、晋は禅譲による連続した王朝である。禅譲という美名がふさわしいか否かはともか
く、後漢の滅亡と魏の建国、魏の滅亡と晋の建国、その当日は禅譲という盛大なセレモニーが
行われただけである。
実は後漢も魏も晋も豪族に担がれた連合国であり、皇帝は、秦の始皇帝のような絶対的な権
威者ではなく、豪族連合の盟主であるにすぎない。王朝の交代と言うよりも連続した王朝内で
の盟主の地位の交代である。
卑弥呼から難波王朝まで、日本も同様に豪族連合国である。大君はまだ大きな君にすぎな
い。実態を見誤らないようにしたい。
聖徳太子から大化の改新へという古代国家の形成に思いはあるが別の物語である。
二、古代史の研究者たち
『最後に日本の古代史の研究者たちについて簡単にふれておきたい』
(一)新井白石と本居宣長
新井白石は歴史学者ではない。それでも、日本の古代史研究の土台を築いたと言える。魏志
倭人伝の解釈でも、新井白石以後、進歩よりも珍説や迷説でむしろ退歩している。また、箕子
の後裔という箕準の来日の有無にも注目している。白石は崇神天皇以後の書紀の記述を信じ
たために、そこで留まった。白石が現代の考古学の常識(崇神天皇がその時代ではありえない
こと)を知っていたら、容易に古代史の真相を解明していたであろう。
本居宣長の歴史観は「古事記の記述は、とくに神話は絶対に、正しい」、「従って日本は世界
のよろづの国のおや国で、本つ国である」、「天照大神を祀る伊勢神宮は、日本人だけでなく、
太場が照らす全世界の人が拝み奉るべきである」ということが基本になっている。反論に対して
は「漢意(からごころ)である」といって切り捨てる。古代史における宣長は狂信的なアジテータ
ーである。
一方、宣長は魏志倭人伝の「邪馬台国が奈良の大和ではありえない」という主張(馭戎慨言)
では、極めて理性的であり、論理的である(女酋論のもう一方の条件である神功皇后が大和に
いたことは自明とされている)。
さらに、神武東征では「東征の途中までは兄の五瀬命が天皇であり、兄の崩御によって弟の
時代に変った。東征途中で崩御したために兄を一代に数えなかった」、「東征の詔勅が下され
た時点では神武は五瀬命に仕えていた」(古事記伝)と主張している。
さて、本居宣長は国文学者としては偉大である。源氏物語や万葉集の研究はすばらしい。し
かし、日本の古代史の研究では、部分的には卓見もあるが、歴史観の土台があまりにも学問と
は乖離しすぎている。歴史学の世界からはお引取り願うしかない。
(二)津田左右吉、白鳥庫吉、橋本増吉
津田左右吉氏、白鳥庫吉氏、橋本増吉氏は古代史研究の三つの巨峰に見える。
津田左右吉氏は戦前は皇国史観と戦い、戦後は唯物史観と戦った。歴史的、社会的な意義
は大きく、高く評価すべきである。「神武天皇から仲哀天皇までの書紀の記述は史実ではない」
という指摘は当然である。
一方、記紀の批判や、皇国史観への批判に力を注ぐあまり、記紀の中にどういう真実が含ま
れているかへの探求は少ない。「皇室の祖は九州にあった」、「魏志倭人伝の邪馬台国は九州
である」と考えている。そこまで考えれば、九州時代の皇室が鏡、剣など金属器時代であること
から真相に到達されそうであるが、それ以上に踏み込んではいない。卑弥呼女酋論でもない。
そこを解明しようとすることにエネルギーが向けられていない。
現代は、「何があったのか」という歴史の解明に力を注ぐべきであると思う。その意味で、皇国
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史観亜流や唯物史観亜流は論外であるが、津田史観亜流もいただけない。
白鳥庫吉氏は真実に最も近かったと思っている。
・一〇七年の朝貢が伊都(怡土)国王の朝貢であることを解明した。
・烏侯秦水が遼河の上流のラオハー河であることを解明した。(中国科学院の中国歴史地図に
も鳥侯秦水と記述されている)
・倭(ワ)は倭(イ)であり、伊都国のイから言葉が誕生したとも考えた。
さて、ここまで考えれば、「一七八年に鮮卑の王が烏侯秦水から東を撃った倭(イ)人や倭人
国が遼河の周辺である」ことは一目瞭然である。「五七年に朝貢した倭(イ)国の極南界の倭奴
(イト)国」にも容易にたどりつく。漢委奴国王金印にワのナなどというルビをうつ非常識さを打
破できた。なぜ、思考を中断されたのか、不思議である。
さらに、白鳥庫吉氏は「邪馬台国は九州の中北部の大国であり、狗邪国は九州南部である」
とも考えた。なぜ、近畿ヘの東征まで思考が進まなかったのであろうか。
白鳥氏が一歩の壁を破れなかったのは、津田氏とは逆に「記紀は神典である」という思いが
じゃまをしたと推測している。
橋本増吉氏の誠実な研究態度にも敬意を払うし、歴史の真実に近かったと思う。邪馬台国九
州説ではあるが、いわゆる放射状説には断固として反論、論破している。それにも関わらずい
わゆる放射状説が教科書等に記述されているのは面妖としかいいようがない。橋本増吉氏の
「東洋史上より見たる日本上古史の研究」は名著であると思う。
さて、三氏の研究をもう一度考えたい。歴史学者には「1博識である。2好奇心が旺盛である。
3努力家である。4既存の学説を乗り越えようとする気概がある。5人間の心を洞察できる。」こ
とが必要である。
三氏の、博識、好奇心、努力、気概は驚嘆に価する。ちょっと余人には真似ができないレベル
である。ただ、最後の人間洞察の点だけは少々欠点がある。三氏とも「王や政治家や将軍の心
を読むのが苦手、普通人がウソをつかざるをえない時の心理や詐欺師の心を読むのはさらに
苦手」である。皮肉にも「古代史では王や政治家や将軍の働きが大きい。さらに記紀は歴史改
ざんという詐欺行為によってつくられた」ことが研究を阻害した。
不思議なことに、書紀の編者たちのそれぞれの個性的な声や古事記の太安万侶の苦悶の叫
びが三氏の耳には届いていない。
三氏の著作のレベルは高くて凄いけれども、象牙の塔内の芸術作品という感がある。
これから多くの若者に歴史を学んで欲しい。ただし、紙上の研究ではなく、生きた人間を学ん
で欲しい。「歴央をつくるのは人間、歴史を記述するのも人間」なのだから。人間理解では司馬
遷が卓越した師である。司馬遼太郎氏や北方謙三氏にも深い人間洞察がある。
(三)考古学者への感謝と苦言
考古学者の地道な努力と成果に対しては敬意を払い、深く感謝している。新井白石に現代の
考古学の常識があれば、古代史の真相を容易に解明したであろうと記述した。新井白石の替
りに白鳥庫吉、橋本増吉の名前をいれてもほぼ同様なことが言える。
一方で、考古学者が現代の世相にうといのは構わないが、「考古学者が古事にうといのは問
題である」とすこし苦言も呈したい。
重複になるが、例を示す。
・銅鐸
『1銅鐸は舌(振り子)に金属片をつければ金鐸と言い、舌に木片をつければ木鐸と言った。銅
鐸の二つの使い方である。商(殷)や周の時代「金鐸は武事に使い,木鐸は文事に使った」
。前
者は鉦鼓(進軍は鼓、退却は鉦)に変った。後者は「新聞は社会の木鐸たれ」などと今でも言葉
が生きている。
2商(殷)の高宗武丁の后である婦好の墓(安陽殷墟五号墓)から副葬品として銅鐸五個と銅
鈴十六個が発掘されている。
3銅鐸は、銅剣や銅鏡と違って、記紀や風土記や続日本紀での記述は少なく、記述されてい
る場合もあまり尊重されてない。
4銅鐸は、銅剣や銅鏡と違って、三種の神器ではないし、神社の神宝でもない』という歴史的
な事実が在る。
私は「日本の銅鐸は武事(主に縄文人の襲撃に対して)に使われた実用品であった」と思って
いる。「商(殷)の高宗武丁の后である婦好の墓の銅鐸と日本の銅鐸がつながっている。時間
空間の大きな隔たりを中華の名士箕子やその末裔の箕準が埋めた」と考えている。その点は
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議論してよい。しかし、銅鐸の研究者は前記の事実については常識として知っておくべきである
と思う。
・銅剣
『洋の東西を問わず、古代の戦場の主たる武器は矛、槍である。剣は補助的武器であるとと
もに帯刀者の権威を高める働きがある』なお、前者の矛と槍は金属と柄の部分の接続の差で
ある。矛は金属が柄の外側を包み、槍は金属が柄の内に入る。矛と槍では武器としての優劣
はない。後者の剣はしばしば殺傷力よりも見栄えをよくする。また、剣は銃砲の時代にも指揮
刀として残った。
さて、「考古学者が言う銅剣の大部分は銅槍」である。異論があれば考えていただきたい。銅
剣として使う部族と銅槍として使う部族が戦えば、常に後者の圧勝である。
考古学者は世間の常識を無視して、銅剣も銅槍もどちらも銅剣と定義している。金属が柄の
中に入るものは銅剣であるとする。剣か槍かと考えなくてよいから楽ではある。しかし、世間に
は通用しない約束事である。もし、そのように決めるなら銅剣(槍)という表示にするか、常に定
義を付けるべきであると思う。さらに、殺傷力よりも見栄えを重視した銅剣を実用性がなく祭祀
用であると考えるのも行き過ぎである。なお、考古学者が言う矛の一部は剣である。後代の指
揮刀や、現代でも管理者の机が大きいことと同様に見栄えということは権威を高める働きとな
る。見栄え優先は祭祀用だけではない。
・前方後円墳
『前方後円墳がつくられた時代、東アジアでは「天円地方」(天は丸く地は四角い)と考えられ
ていた。中国では漢代以後、都の南郊に天檀(円丘)が北郊に地檀(方丘)が設けられた。天子
は天と共に天檀で祀られた。晋の時代、天檀(円丘)と地檀(方丘)が併せられ、二六六年、台
与の使者は天檀と地檀が併さった新方式の郊祀の寸前に洛陽を訪れた』という歴史的な事実
が在る。
私は前方後円墳は、台与の使者によって日本に直輸入(朝鮮半島経由でなく)されたと考え
ている。また、前方後円墳という呼称は天円地方墳と呼ぶべきであるとも思う。異論があれば、
前と後の意味についてお教え願いたい。後者の名は天円地方という思想に従って、天子は天
円に祀るという意味がある。
前方後円墳の由来については、さらに議論すべきである。しかし、考古学者、とくに前方後円
墳の研究者は前記の事実は常識として知っておきたい。前方後円墳の解説でも「天円地方」と
いう概念は説明すべきである。
考古学者の地道な活動に感謝し、敬意を払いつつ、苦言を呈したい。
さて、「邪馬台国が大和であるという珍説や九州説でも放射状説なる珍説が大手をふるって
まかり通っている」、「漢委奴国王金印にワのナと平気でルビをうつ」、さらに「書紀の歴史の始
まりの辛酉革命説や神功紀百二十年後代説など珍説や妄説があまりにも多すぎる」、などは
古代の歴史学界の病気の重さを示している。この点について歴史学者からの反論があればい
つでも論争に応じたい。
これで古代史の旅はすべて終った。
少なくとも私が知りたかった古代史の謎についてはほぼ解明できた。読者の方が知りたかっ
た謎は解き明かされたであろうか。
古代史の年表と大君の糸譜を添付する。
読者に、とくにご質問やご批判をいただいた読者の方々に、心から感謝している。長編のご愛
読ありがとうございました。(完)
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