第91号 - 鈴廣かまぼこ

:2
平成 22 年 9 月 1 日発行
(年 4 回 3・6・9・12 月の 1 日発行)
通巻 91 号 平成 12 年 12 月 21 日 第三種郵便物認可
小田原からのメッセージ
目次 ﹁如﹂第九十一号
平成二十二年秋
小田原からのメッセージ
小田原の砂 浜 を 蘇 らせたい
キヌヒカリ
日本 食 記
かまぼこ季 節のうれしい演 出
小田原にんげん紀 行
文 ・ 祖 父 江一郎
山 本 加 世 さん
トーク&とーく
株 式 会 社 いなば
代表取締役社長
稲 葉 勝 彌 さん
営業部長
小田原 ・ 箱 根 風 土記 /
晩 年の秋 山 真 之が愛 した 小田原
小田原 ・ 箱 根
江 戸 時 代のはじめは 、
うどんが主 流 だった
江 戸 時 代の食 風 景
文・永山久夫
そして、安心して毎日を送れる日。
多くの人々が再び集い楽しむ日。
小田原に美しい砂浜が蘇る日は、
この問題に取り組むことが求められています。
多くの市民が森と海の関係を学び、協力し合って
この問題を全国に先駆けて解決するために
記憶に新しく、さらに深刻な危機が迫っています。
数年前に大波で西湘バイパス片側が崩壊したことは
海に砂が供給されなければ、砂浜は波に侵食されるばかり。
砂が海に流れていかないのです。
ダムや堰に止められてしまい、
河口の取水堰があげられています。
近代の治水事業である酒匂川上流のダムや
こうした原因のひとつとして、
なかなか効果は上がってくれません。
いろいろ対策を講じていますが、
突堤をつくったり大量の砂を運んだり
小石ばかりで裸足では歩けないありさまです。
しかも細かな砂がなく、
たったの二十メートルほどしかありません。
西湘バイパスの橋脚から波打ち際まで
今ではまったく様変わりしてしまいました。
ところがその﹃御幸ヶ浜﹄が
夏の海を楽しむ市民であふれかえったものでした。
そして野球などを楽しむ人々までもが集まり、
砂の城を造っては波に削られる遊びをする子供たち、
﹁熱い!熱い!﹂と声をあげながら焼けた浜辺を走る若者や
かつては広々とした砂浜があり、
その名がついた小田原﹃御幸ヶ浜﹄。
地引網をご見学になったことから
明治六年、明治天皇、皇后両陛下が
小田原の砂浜を蘇らせたい
46
稲 葉 直 也 さん
第 十四回かまぼこ板 絵 国 際コンクール
作 品 展 示 会のお知 らせ
如 倶 楽 部 イベント
味わいを 生 む 道 具 / 蒸 籠
かまぼこ博 物 館 ・ 手づく り 体 験 記
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M
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46
昭和初期の小田原海岸海水浴風景
(『ふるさと小田原』郷土出版社 より)
酒匂川の水が育む美味しい米
キヌヒカリ
た ね
ぴかぴかのご飯と味噌汁にイカの塩辛でもあれば、
あとはいらないほど。
せっかくの新米の季節です。
お米の味をじっくり噛みしめてください。
ふだ
そ ら く 奈 良 時 代 の こ と。
﹁種 子
が各地で発掘されており、そこ
米が日本人を育てた
中国から稲作が伝わったのは、
に品種名らしき名前が記されて
札﹂という、荷札のようなもの
縄文時代晩期かそれより前のこ
いるという。
たちまちスーパースターとなっ
に 登 場 し た 品 種 コ シ ヒ カ リ は、
長い歴史を経て、二○世紀末
とらしい。この時代のものとさ
れる各地の遺跡からイネの遺物
が見つかっているからだ。
以来三○○○年余り、日本人
た。
コシヒカリは、倒れやすいが
は米を主食とし、貨幣と同じに
扱うなど、密接なつながりを持
いもち、病に強い〝農林 号〟を母
親に、いもち病をはじめ病気に
、 、
ってきた。米が、日本人を育て
てきたのだ。
はあまり強くないが収量の多い
〝農林1号〟を父親に、昭和三十
一年に育成された品種。食味の
ら品種改良の工夫をしてきたと
て、値段は高くても美味しいコ
食の豊かさを象徴する米とし
ロースが少なく、アミロペクチ
ンの比率によって変わり、アミ
するアミロースとアミロペクチ
の弾力は、米のデンプンを構成
いわれるが、日本でイネの品種
シヒカリは、あっというまに市
よさは両親ゆずりだ。
らしき記載が登場するのは、お
ンが多いと、粘り気があって食
味がよくなる。コシヒカリはア
広がる﹁米粉﹂
の
加工用途
目されている。製 粉 技 術の向 上
今、米を粉にした﹁ 米粉 ﹂
が注
だけでなく、
パンや洋菓子類、料
により、従来の和菓子の原材料
理の材料など幅広い用途への利
用が浸 透しつつある。米 粉の特
長として、
たとえばパンの材料に
米粉を加えると、
もちもち、
しっ
粉に利 用 すれば、サクサク軽い
とりとした食 感になり、天ぷら
口当たりに仕上がる。また、米粉
一〇〇%のパンは、
パンが食べられ
ない小 麦アレルギーの人の救 世
主的存在といえよう。
近 年の輸 入 小 麦の高 騰によ
見直されるようになったことも、
り、米 粉が小 麦 粉の代 替として
米粉普及の一因となっている。日
本 人の食 生 活の多 様 化に伴い
米の消費量が落ち込む中、米粉
製 品の可 能
性 は もっと
パ ー セ ン ト く ら い だ。
﹁粘 り が
食料自給率
ミロースが少なく、一五∼一七
の 生 産 量 は 年 間 三○九 万 ト ン、
あり、冷めてもおむすびにして
アップ の た
そのコシヒカリを超す食味を
持つといわれるのがキヌヒカリ
︵粘 り 気︶で、残 り が 甘 み な ど
がたは噛んだときの適度な弾力
何で決まるのだろう。六∼八割
持ち、粘りの強いコシヒカリが
上がったご飯はシルクの輝きを
員で、その名が表すように炊き
コシヒカリ・ファミリーの一
だ。
の味で決まるといわれる。ご飯
かまぼこの里﹁千
ヒカリの名がある。
世倭樓﹂のお品書きにも、キヌ
ったり。鈴
不向きといわれる
〝すし〟
にもぴ
がかかる。
めにも 期 待
せそ う だ 。
広 がり を み
これは日本の全水稲の生産高
も美味しいのがコシヒカリ人気
パーセントにもなる。
ご飯の美味しさは
何で決まるの?
中食にも外食にも最適なのだ。
︵八 四 七 万 ト ン︶の 約 三 六・五
午後の陽の中、
刈り取り作業の田んぼに鷺が群がる。虫がお目当てだからだ。
この時期ならではの光景
(磯崎農園にて)
。写真提供/菜の花クラブ
の秘密﹂というのが大方の見方。
二○○九年現在、コシヒカリ
た。
場でもてはやされるようになっ
人類は、農耕を始めたときか
スーパースター、
コシヒカリの登場
22
ところで、ご飯の美味しさは
おにぎりにすれば、米の良し悪しがわかる。
追随を許していない。
ンクで独走、神奈川県下各地の
神奈川県内各地のような海沿
水があるところ。水が果たす役
②山沿いで、山のきれいな良い
のだったのだ。
ターによれば、いい米が取れる
ろうか。神奈川県農業技術セン
ってきた理由はどこにあるのだ
田原地方が県下一番のお米を作
気候温暖化の加速する中、小
山を背負って流れが急な川であ
富な水がある。しかも、箱根の
流入が少ない酒匂川や狩川の豊
が、小田原地方には、雑排水の
りはなかなか難しいらしいのだ
が少ない地域では、うまい米作
いの地帯や、夏の昼夜の温度差
山から取水した酒匂川の水だと
曽我山の湧き水と、南足柄市内
とで、キヌヒカリをつくっている。
〝曽我山〟と呼ばれる里山のふも
上 曽 我 で 六 代 続 く 米 作 農 家 だ。
磯 崎 崇 さ ん の 家 は、小 田 原・
をしている。出穂期や、登熟期
気候温暖化に負けない米づくり
源 近 くで 米 をつくってました。ホ
きめ細かな水管理をすることで、
ネは丈夫になる。台風に備えて
太陽の光も十分に注がれて、イ
が 入 る か ら 下 葉 も 枯 れ な い し、
せる。これにより、土中に酸素
ことを繰り返して、粒を充実さ
ぼの水を切ったり入れたりする
磯崎さんの田んぼを潤すのは、 ︵穂 が 充 実 す る 期 間︶に、田 ん
小田原北部の鬼柳や開成町周
トケドジョウの棲むような湧き
※奨励品種制度/都道府県が、自県での生産に適合する品種を県内の農家に勧奨する制度。現在、神奈川県の奨励品種は、キヌヒカリ・コシヒカリ・さとじまん・祭り晴と醸造用の若水。
倒れにくく美味、
キヌヒカリの誕生
キヌヒカリは、倒れにくい上
に、コシヒカリに匹敵かそれ以
上とされる食味を持つ中生種と
して世に出た。母方の何代か前
には、倒れにくく多収のインデ
ィカ稲があるし、父親は栽培特
性 の よ い ナ ゴ ユ タ カ。おかげで、
好天下では籾数を多くつけ、天
候不順でも収量の低下が少なく、
品質の安定度が高い優等生であ
※
る。平成三年には、神奈川県の
奨励品種に加えられた。
その後のキヌヒカリの急躍進
を、米の情報・調査機関﹁米穀
データバンク﹂が毎年発行する
﹃米マップ﹄誌で見てみよう。
キヌヒカリ以前の神奈川県で
は、アキニシキの作付面積がト
ップだったが、食味の評判が高
かったことからキヌヒカリが急
速に伸び、九年には肩を並べた。
現在ではキヌヒカリがシェアで
七割と、逆転している。
﹃米マップ﹄誌ではこの他、外
観・香 り・味・粘 り・硬 軟 な ど
の食味官能検査の結果や、卸売
業者・小売業者などの評価を総
合して、各県ごとの五段階評価
︵県 内 各 地 の 相 対 評 価︶を 毎 年
発表している。それによると、小
田原市は平成五年産米以来Aラ
や
ったが、次の田んぼで作った米
と ば
は、そりゃあ美味しかった。谷
戸 場 の 田 ん ぼ︵千枚田のような
田︶は、水がきれいだからね﹂
条件は二つあるという。
るため、夏でも水温が上がりに
いう。
と語る磯崎さん。子どもの頃
①夏に昼と夜の温度差があると
くいという強みがあるのだとい
﹁昔は、うちでも、この沢の水
父祖伝来の
水管理でつくる
磯崎さんのキヌヒカリ
ころ。昼の間に光合成によって
う。
粒に蓄える。そのプロセスが、低
辺に産する良質の米が、古くか
倒れにくくもなるのだ。ことに
開花期の水温管理は、キヌヒカ
リには重要な仕事で、気を使う
という。
収穫の秋を待つ磯崎農園の田
オリ
んぼの一角で、もう一つのキヌ
ヒカリが育っている。鈴
ジナルの酒造に向けた酒米用の
キヌヒカリだ。
A
温の場合はゆっくりと進み、米
かぐや姫とお月見
から身に付けてきた父祖伝来の
デンプンを作り、夜にそれを米
割は非常に大きいと見られる。
﹁足柄米﹂を育てた
酒匂川の水
ご飯ものの美味は新米の季節ならでは。奥・左から時計まわりに「マツタケの焼きおにぎり」「マツタケご飯」「すっぽん豆腐」「お造り(メジ、イサキ、マグロ)」。松花堂の奥・左から「炊き合わ
せ」「カマスの柚香焼き」「俵おにぎり」「卵焼き」「小魚の甘露煮」「栗のチーズ巻き」「時鮭のアスパラ巻き」「うどの巨峰煮」「謹上蒲鉾」「さつまいも」
田植え前に元肥として施され
たのは、かまぼこ材料から生じ
る魚滓で作られた肥料﹁うみか
ら だ い ち﹂
。酒 用 の 米 づ く り は
初めてという磯崎さん。新酒の
季節が待たれる。
参考資料
﹃コシヒカリより美味い米 ﹄佐藤洋一郎
﹃ & ご飯とお米の全疑問 ﹄高橋素子
協力/志村屋米穀店
Q
水で、冷たいものだから、一番
かまぼこのピンク色の部分に
切り込みを入れて、可愛らし
いうさぎに。おもちつきをする
うさぎを思い浮かべながら…。
ら﹁足柄米﹂として名高いのも、
うさぎはねる、お月見
粒中のデンプンがきめ細かくな
かまぼこを笹と薄切りのにんじ
んで巻いたあと、三つ葉で結
びました。お皿を月に見立て
て…。
上の田んぼは穂が出ない年もあ
「お月見」をテーマした演出はいかがでしょう。
こうした川の水の恵みによるも
板わさに、珍味をそっとのせて。銀杏や紅葉をふんわり
添えれば、まるで秋の宝石箱のような華やかさです。
る。
秋。
焼きしめのお皿に
板わさを盛って。
さん
文・祖父江一郎
や
ま
も
と
か
よ
山本加世
︵三十九歳︶
新 しいかたちの児 童 館 設 立をめざす
NPO 法 人﹁ママズ・ハグ ﹂が
た実家の蕎麦づくりに飽き足ら
てくれたから久美子さんは安心
てもだれかが娘の居場所を教え
﹁ 小田原のママズ・ハグ ﹂として知 られるまでに育つのを
ずに手打ちの蕎麦づくりを学ぶ
して働くことができた。
町の商店街であった。物心つい
世さんが育ったのは調布市国領
の車屋で産声をあげながら、加
八百屋さんで歌っていたよ﹂
﹁加世ちゃんなら、さっきまで
さんがいう。
んが大声で呼ぶと向かいの肉屋
蕎麦屋の戸をあけて久美子さ
食事のときも弟子から先に食
﹁加 世﹂と 呼 び 捨 て に さ せ た。
﹁お 嬢 さ ん﹂と 呼 ぶ の を 禁 じ て
朗さんは弟子たちに加世さんを
し、弟子を持つ身となった。二
松田に手打ち蕎麦﹁星月﹂を出
急インストラクター、米国リトルキッズ協会認定小児タッチケアセラピ
加世さんは目から鱗が落ちた
﹁一生笑わせてあげるから、き
はかる尺度に﹁酸化還元電
そのひとつ。水の善し悪しを
ありますが、〝水〟の選択も
あのときの加世さんの気持ち
世さんは呆気にとられた。
している事実を告げられて、加
病院に運ばれた。そして、妊娠
でクルマに追突されて救急車で
ではと諦めかけたとき、交差点
誕生日を迎えてもう産めないの
かった。加世さんが三十二歳の
水の研究も進んでいます。
を錆びさせない水を求めて、
エイジング対策のために、体
近いところも。健康やアンチ
値の高い都会では七〇〇m V
は地域によって違いますが数
二〇〇∼三〇〇m V、水道水
市販のミネラルウォーターは
ど体の酸化を防いでくれます。
単位で表され、数値が低いほ
位﹂があります。m Vという
れいな服を着てもすぐ飽きちゃ
秀利さんと結婚してから足掛
画期的新発見
落とした。
と、長い時間をかけて口説き
思いでみずからに気合をつけ
睡眠などいろいろな対処法が
びつくのと同じです。食事や
を受けることで、鉄などが錆
によって体の細胞にダメージ
びる﹂とよくいいます。酸化
老化することを、﹁体が錆
体を錆びさせない水
ベビーマッサージ・キッズマッサージセラピストトレーナー、小児救
うだろうし、そつのないことを
なるのはもうよそう﹂
人を変えるのは人という。人
を変える力を持った他人との最
た。秀利さんなしの人生など考
け七年間を過ぎても子ができな
初の出会いが秀利さんであっ
えられない。加世さんは一大決
心をして秀利さんに気持ちを打
ち明けた。だが、加世さんの期
待は空振りに終わった。
﹁わかりました。じゃあ、迷惑
かけちゃいけないから、これき
りにします﹂
恰好つけて帰ったものの一晩
中涙が止まらなかった。好きな
だけ泣いて涙で気持ちがすっき
りしたとき、加世さんには恋愛
スト、股動整体協会ベビーリンバドレナージインストラクター。
夢 見る日々
働く女性を母に持つのは
特殊なことではない
たとき父親の諸星二朗さん、母
一人っ子の加世さんは商店街
べ、遅れて箸を取った加世さん
やがて、二朗さんは独立して
ためであった。
親の久美子さんは商店街のとあ
を我が家にして、今日は八百屋、
は早めしで真っ先に食事をすま
昭和四十六年に小田原市南町
振り返ってみれば、父方の祖
明日は寿司屋と渡り歩き歌をう
せて弟子たちに茶を給仕する毎
﹁加世 っ
―﹂
父も蕎麦屋だった。なのに父親
たって家族が揃う時間を待ちわ
る蕎麦屋で働いていた。
の二朗さんが調布の蕎麦屋で働
日であった。当時はそうするこ
秀利さんは私になくてはなら
びる日々であったが、どこにい
が好もしく映った。名を山本秀
ない人、加世は彼に必要とされ
いたのは、機械打ちの定食めい
利という。彼を悪くいう人はい
る人間になれるか。なれるとも。
を超えた自分の思いがはっきり
ないし、彼も嫌いな人がいない
ならば恋愛したときくらいは全
入りするようになった。そして、
という事実に、加世さんは新鮮
身全霊を傾けないと永遠に売れ
見えた。
な衝撃を受けた。
残ってしまうぞ。
楽しめる「新しい児童館」設立を目標に活動して今日に至る。
た。
が正念場で土壇場だ、仮に愁嘆
マッサージ・インストラクター講座を開講する。以後、大人も子どもも
やっても人生おもしろくないか
これほど簡単明瞭なことわり
20年10月、
NPO法人ママズ・ハグを設立して理事長に就任し、ベビー
﹁好きになれない人を好きにな
場になったとしても悔いたりは
了。会社勤務を経て、平成15年、ベビーマッサージ講師に転進。平成
ら、私とならきっとおもしろい
に今まで気がつかないで生きて
田中学を経て大井高校を卒業。横浜外語ビジネスアカデミー英語秘書科修
るのは不可能だし自分を誤魔化
すまいと気を取り直し、
昭和46年、小田原市南町に生まれる。調布第二小学校、松田小学校、松
人生があるから﹂
94年3月、
機械工具の会社で営業を
していた頃
(平成6年3月)
。
すようで嫌だ。だから、嫌いに
きたとは 。
…
から、相手も自分を嫌うよなあ﹂ 加世さんは自問自答してここ
﹁そうか。自分が嫌うくらいだ
加世さんの目に一人の男子社員
との意味がわからなかった。あ
とになってそれが諸星二朗とい
う人間の深さだと思い知らされ
るのだが、そのためには大きな
ドラマをいくつかくぐりぬけな
ければならない。
人を嫌うのは
もうよそう
中学から高校へ進み、専門学
校を出て就職したが、そこには
幼い日々に接してきた人々が持
つ人情が乏しかった。そのあま
りの違いように加世さんは戸惑
い、失望し、嫌悪を覚えた。気
づくと家族・身内以外は信じら
れなくなっていた。駅のホーム
を歩いても、町の通りを歩いて
いても、手に唾する感じで喧嘩
を売った。それが歪んだ姿だと
は 気 づ い て い た が、こ ん な に
尖った女にだれがしたと世の中
のせいにして、うっぷん晴らし
に明け暮れた。
そうこうするうちに最初に就
職した機械工具商社の営業とし
て加世さんは富士フイルムに出
2歳の頃
(小田原・祖父宅にて)
。
をどういい表したらよいのだろ
うか。妊娠初期に事故に遭わな
かったら、あのままクルマの運
転をつづけて、流産の危機が最
も高い三月目を迎えたはずであ
り、したがってももちゃんの誕
生はなく、ママズ・ハグも陽の
目を見ることなく終わったはず
であった。
奇禍に遭ったためにかえって
無 事 に 生 ま れ た 女 児 は﹁も も﹂
と命名された。ただし、いきな
り母になったため加世さんには
心の準備がなかった。どうしよ
うと迷ううちに、イギリスに一
万人の赤ちゃん言葉がわかるカ
リ ス マ ベ ビ ー シ ッ タ ー が い て、
﹁泣 か な い 育 児﹂を 提 唱 し て い
ることを知った。その人の著書
を書店に求めて代わりに見つけ
たのが﹁ベビーマッサージ﹂の
本だった。ベビーマッサージと
いうのは、おかあさんが赤ちゃ
んをマッサージすることを通じ
やりようでいくらでも可能なの
だということを、二朗さんは実
践で示したのである。加世さん
は死の間際まで大事なことに気
づかせてくれる二朗さんのため
に、まるまる一週間つきっきり
で看病した。しかし、二朗さん
のほうが逆に加世さんを心配し
た。
﹁やっと、おまえはママたちの
居場所をこしらえた。これから
というとき、こんなことしてて
母子を前に、
ベビーマッサージの指導。
か。
のバリエーションとでもいおう
母子の絆と愛情を深める育児法
た。発端は気軽なやり取りだっ
らも身に覚えがあることであっ
られた決定的な事実は、みずか
て コ ミ ュ ニ ケ ー シ ョ ン を 促 し、 加世さんがももちゃんに教え
が強いのかもね﹂
と、子が親を思う気持ちのほう
が子を思う気持ちよりも、きっ
でも親を守りたいんだよね。親
なカベにぶち当たった。パニッ
のの、加世さんはいきなり大き
ベーションに駆られて始めたも
めるのではないかというモチ
﹁愛 情 は 勝 負 で は な い か ら、
い﹂
だから、もものほうが愛情は強
ど、ももはママを選んできたん
﹁ママはももを選べなかったけ
とだろうか。
かあさんの気持ちが癒されるこ
ちに気づくだけでもどれほどお
示であった。子が親を思う気持
れこそ天がもたらすところの啓
んは目の前がぱっと開けた。そ
何気なくいってから、加世さ
ク 障 害 の お か あ さ ん、リ ス ト
ど っ ち が 強 い と か、勝 ち 負 け
た。ももちゃんがいった。
カ ッ ト し か ね な い お か あ さ ん、
そしたら、家が笑う
じゃないじゃん﹂
思わずやり返してから、加世
使命感から全身全霊を傾けた
くところへ、ももちゃんが思わ
が鍵を探しながら道を戻ってい
まないと思いながら、加世さん
眠くて早く家に帰りたい娘にす
我 が 家 の 鍵 を 落 と し て し ま い、
過日のことである。うっかり
がかつての兄弟子に電話する
かわからなくなって、加世さん
命わずかという。どうしていい
で入院した。しかも末期癌で余
のことであった。二朗さんが癌
ぬけてもらおう。それは二年前
う一つ不思議なドラマをくぐり
ついでだから、加世さんにも
結果、体より先に心が参ってし
ずいった言葉を久美子さんが
と、他人のはずの兄弟子が一緒
さんははっとした。
まった。我が家に引きこもりが
メールしてきた。
にこそやらなければ 。
…
こういうおかあさん方のため
日々が待ち受けた。
ちで笑顔すら忘れる日々がき
に嗚咽し始めた。
め、ごめんねと謝ってから何の
世さんはももちゃんを抱きし
を見つめているではないか。加
んが涙を浮かべてじっとこちら
んがちっちゃい手をいっぱいに
になじられているとき、加世さ
したという。久美子さんが親戚
は加世さんの幼いときを思い出
その言葉を聞いて久美子さん
ら、兄弟子たちは加世さんを実
加世さんの兄として扱ったか
い当たった。二朗さんが弟子を
うか、と加世さんは今にして思
つけを思い浮かべた。ああ、そ
幼いときに受けた二朗さんのし
えっという思いで加世さんは
気なしに鏡を見た。映るのは髪
広げて親戚の前に立ち塞がっ
加世さんの目の前で、ももちゃ
を振り乱した感じの見知らぬ中
の妹のように思うのである。情
としか考えられないから﹂
﹁でも、今は、おとうさんのこ
いいのか﹂
これじゃ本末転倒じゃん﹂
がきた。
ズ・ハグのスタッフからメール
た。同時にタイミングよくママ
気なく奇跡的な幕切れとなっ
﹁やっぱり、子どもって、いつ
ているのでしょうか?
まっ
塩って本来はどんな色をし
塩本来の色は何色?
ながりというか、同志的結合は
べてではない。後天的な心のつ
というものは血のつながりがす
て、久美子さんを庇った。
ああ、そういえば、そんなこ
﹁世の中のママにとって、ママ
﹁あなたが帰ってくる場所ちゃ
とがあったっけ
ズ・ハグのような居場所がどれ
んとあるよ。忘れないでね﹂
。
…
ほど大事か、熱く語ったおまえ
加世さんの胸になおも熱いも
のが込み上げた。
白だと不自然なので、自然の
兄弟子がいて、ママズ・ハグ
た。
も励ましのメールが届いてい
ママズ・ハグのスタッフから
ん は 思 っ た。家 に 帰 っ て も も
けど恩返ししたいな、と加世さ
ではなかったか。おこがましい
したのは二朗さんより加世さん
ある意味では死の淵から生還
どで白く見えるのです。岩塩
くさん集まると、光の反射な
も、答えは無色透明。粒がた
あのスタッフなら。人によっ
のスタッフがいる。むしろ、孤
ちゃんを抱き上げながら鏡をの
わせはない。世の中のママのた
塩には少し茶色っぽい色が付
軍奮闘はわたしに似つかわしく
ぞ く と 満 面 の 笑 み が あ っ た。
除いた塩が安心だと言えます。
て人の心は簡単に解けるんだな
なかったのかもしれない。二朗
尖った表情など跡形もなく消え
ただし、大切なミネラルまで
めにも、俺のためにも、こんな
さんの言葉と重なって、スタッ
去って、きらきら輝く瞳をした
取り除いてしまわない精製方
いているのが自然塩では⋮と
フへの思いが加世さんのぐらつ
魅力的なおかあさんの顔が見
あ。
きかけた気持ちを立ち直らせ
ていた。
﹁加世はもう大丈夫だから。だ
切なライフワークとしなければ
ハグを何物にも代えられない大
付 き を 得 た か ら に は、マ マ ズ・
かけがえのない諸星二朗のお墨
いいんだよとか、赤ちゃんの声
くるか。こうした育児をすれば
エーションをどのようにしてつ
あさんが微笑むようなシチュ
ら、家が笑う。しからば、おか
赤ちゃんが笑うだろう、そした
お か あ さ ん が 笑 っ て い れ ば、
がっていく。
き せぬ興味、無限の発見につな
と考えれば違うことが逆に尽
になってしまうが、教わるのだ
はその直後のことであった。誤
二朗さんの癌細胞が消滅したの
黙ってゆっくり頷いた。そして、
えようとすると違うことが問題
も違えば、赤ちゃんも違う。教
しない。一人ひとりおかあさん
か、聞いたふうなアドバイスを
を聞いてあげればいいんだよと
んだ 。
…
い けないんだ。なあんだ、なあ
教えようと考えてかかるから
け な い。そ う だ、そ う な ん だ、
だから、教えようとしてはい
二朗さんは病院のベットで
診ではなかったかと思うほど呆
。
…
から ﹂
…
とが大切といえるでしょう。
法でつくられたものを選ぶこ
を経て、泥やごみなどを取り
いるため。何らかの精製工程
ますが、鉄分などが混ざって
には赤茶色のかたまりがあり
思いがちかもしれません。で
た。胸 を 熱 い 思 い が 満 た し た。
ことでやめては駄目だ﹂
る子を持つくらい親としてしあ
を俺は尊敬している。尊敬でき
﹁こ の 子 の た め に 始 め た の に、
とした。
年の女だった。加世さんは慄然
かわいそう。
た。あ る 日、ふ と 気 が つ く と、 きっとママは、今、困ってる。
自慢でヨーイドンを繰り返す
中、電話が鳴りっぱなしの不幸
ローゼ寸前のおかあさん、一日
障害児の将来を悲観してノイ
これなら起業としても取り組
平成9年夏、
フードコーディネーターをしていた頃。
伊東で創業六十余年。
老舗だからこそ、いつも新しく
株 式 会 社 いなば
代表取締役社長
稲葉
勝 彌 さん
営業部長
稲葉
直 也 さん
伊豆を代表する観光地・伊東で、
古くから幅広い観光事業を
鈴木智恵子
蒲鉾本店
展開してこられた株式会社いなばさん。
現在は、緑豊かな松川の畔で、
お洒落なホテルライフに
ロカンダ
中国料理をプラスした
﹁盧歓談﹂を経営されています。
取締役会長
聞き手
株式会社鈴
豆にはなかった点に着目したの
国料理と本場のものがまったく
学んだのは、日本で食べる中
︵笑︶
。
使 っ て い け ば い い の か な、と
直也
ちょっとずつ、小出しに
歓談﹂オリジナルでお客様に喜
鈴木 女学校の同級生が、ご当
です。披露宴のお料理がフォー
違うということでした。食文化
学しましたが、その間にあちこ
地 の 旅 館 に お 嫁 入 り し て 以 来、
クとナイフでいただく洋風料理
の 違 い と い う こ と で し ょ う が、 中国産の珍しい食材を使った
十年、伊東駅前通りに結婚式場
何度も遊びに来たので、伊東は
だと、お年を召したお客様には
料理をお楽しみいただけるとい
んでいただけますね。うらやま
馴染み深いところです。こちら
とにかく範囲が広く、日本人好
しゃいますので、安全点検の証
敷 居 が 高 く な っ て し ま い ま す。
ウィグルでも、未知の味わいに
明書の無いものは一切使ってい
様の﹁いな葉﹂旅館では、
大女将、
結婚式場選びに今までに無い
魅かれました。
ません。
いのですが、ギョウザ事件以来、
選択肢が加わったということ
鈴木
私どもは、かまぼこの起
鈴木 小田原には、食の安全安
みの味に作り変えたら喜ばれそ
で、多くの方にご利用いただき
源は神宮皇后伝説にあると教
心を目指す若い人たち中心の有
それなら、お箸を使う日本料理
ました。
わったのですが、中国にも魚で
機栽培農法グループが活躍して
若女将の実力を目で学びまし
店 名 は﹁盧 歓 談﹂
、ス イ ス 修
作った団子があるそうですね。
おり、参加する農家の方々と私
中国から入れた野菜などに不信
業中に働いたホテルのレストラ
直也 北の方へ行くと、寒い土
どもも手をつないですすめてい
うな食材や料理がまだまだたく
ン の 名 前 か ら と っ た も の で す。
地柄から鍋料理が盛んで、その
ます。かまぼこをつくるときに
のほうがいいし、目新しい中国
楽しげな響きがあって、覚えや
中にすり身団子が入っていまし
生じる魚滓から作った肥料﹁う
た。
の修業をもとに、何か自分らし
すい名前でしょう? お子さん
たね。北の料理は、概して日本
みからだいち﹂で育てていただ
感を持たれるお客様もいらっ
い事業をと考えた末に、昭和五
でもすぐに覚えていただけます
で食べる中国料理とまったく違
いた野菜を﹁鈴 かまぼこの里﹂
ロ カ ン ダ
︵笑︶
。
い、カルチャーショックでした。
内のレストラン﹃えれんな ごっ
さ ん あ る の で す。チ ベ ッ ト や
を開業。
料理ならもっといいかと。
ちでもっぱら食べる勉強をして
東急不動産と共同事業で、会員制ホテル「東急ハーヴェストクラブ伊東」
を備えた中国料理店をオープン
な葉旅館」を継ぐ。昭和50年、
レストラン「盧歓談」を開業。平成5年、
しい!︵笑︶
メリカ及びスイスのレストランやホテルで働く。昭和40年に帰国後、
「い
きました︵笑︶
。
昭和14年生まれ。昭和37年、慶應義塾大学卒業後、単身渡米。ア
帰国後は「なだ万」で勉強ののち、26歳で㈱いなばに戻る。
しました。当時、中国料理が伊
昭和52年生まれ。成蹊大学卒業後、中国・杭州の浙江大学に留学。
勝彌 アメリカやヨーロッパで
日本料理の老舗に
こだわらず
いなば・かつやさん
いなば・なおやさん
保 存 食 材 を 多 く 使 う の で す が、
その製法の多様さに
直也
はい、そのように心がけ
か?
取り入れていらっしゃるのです
ようにいろいろと新しいことを
直也さんは、かつてのお父様の
鈴木 跡を継がれる営業部長の
て、こ れ か ら い ろ い
を見聞してこられ
鈴 木 本 場 の 食 文 化
ものでしたね。
多く、親 し み や す い
は海鮮を使うことが
対 し て、南 の 方 で
も驚きました。
て、今、頑張っております。
ろ な ア レ ン ジ の﹁盧
本場の中国料理を
アレンジした﹁盧歓談﹂
オリジナルを
私は、中国の大学へ二年間留
水と緑と光に囲まれる
「盧歓談」
の一隅で。
そ﹄で使っております。
前から作りたかったものの一つ
で、昨夏に実現しました。
直也
環境保全への循環にも着
大葉は、しっかりとしてもち
もよく、香りが高いし、ニンジ
手されているのですね。
鈴木 いろんなごちそう、とい
の言葉ですか? え ら れ た の は、い つ か ら で す
新しいスタイルの事業に切り替
鈴木 松川の畔で、このような
団体から個人の旅行へ。
変わる時代をとらえた
ンはとても甘いのが特徴です
ね。
勝彌 変わったネーミングです
う 意 味 の 小 田 原 言 葉 な ん で す。
か?
ね。
﹃えれんな ごっそ﹄はどちら
相模湾で揚がったばかりの魚を
勝彌 平成五年からです。経営
なば﹂がこれまで伊東駅前通り
刺し身にしたり、カレーライス
ば、もちろんかまぼこも。地元
に開いてきた中国料理﹁盧歓談﹂
の形態は、土地を提供した﹁い
産の食材を使った、いろんなご
と日本料理﹁竹の内﹂のレスト
も、揚げたてのコロッケもあれ
馳 走 を お 楽 し み い た だ け ま す。
ラン二カ所を経営し、ホテル部
られることでしょう。久しぶり
て、ますます発展の一途をたど
鈴木
力強い後継者を育てられ
いかなくては、と考えています。
こそ、いつも新しくを心がけて
す。のんびり滞在して館内施設
ルームなどが備えられていま
的ルーム、屋内プール、ゲーム
天風呂付き温泉大浴場や、多目
伊東﹂には、付帯設備として露
当﹁東急ハーヴェストクラブ
たのです。
ではないと、早くから考えてい
館経営にしがみついているべき
た。老舗といえども、旧来の旅
は必然だろうと感じていまし
が滞在型の家族旅行に変わるの
泊二食という日本型の団体旅行
ルで働いた経験から、旅館で一
アメリカやヨーロッパのホテ
制リゾートホテルです。
門を東急不動産が経営する会員
地産地消レストランは、かなり
で 憩 う も よ し、こ こ を 拠 点 に、
車 で 伊 豆 観 光 を 極 め る も よ し、
好みのリゾートスタイルを選ん
でいただけます。
鈴木
世 界 を 見 て こ ら れ て の、
に訪れた伊東で、父と子が思い
平成十二年に還暦を迎えた稲葉勝彌さんが、米国 欧・州留学体験の思い出
などをまとめて刊行された﹃私の皿洗い記﹄から抜粋しました。
スイスから南 仏ニースへ
一九 六三 年 、ケ ネ ディ大 統 領 暗 殺 で
騒 然 とするアメリカを 後にして、 渡 欧 。
半 年ばかりドイツ語 を 学んだ後 、スイス
でレストラン修 業に入りました。マジョー
レ湖 畔 、イタリア語 圏のアスコナという
高 級 保 養 地で、ヘミングウェイの有 名な
小 説 ﹁ 武 器 よさら ば﹂の 舞 台 と なった
ところでした。
レストランは、スイスの 財 閥エリコン
グループが経 営 するホテル、カステロ・デル・ソレ︵ 太 陽の城の
意 味 ︶の中にあり、ロカンダといいました。ロカンダとは、田舎
の館 とかカントリーハウスの意 味です。 昭 和五十 年に伊 東 駅 前
通りにオープンしたチャイニーズレストラン﹁ロカンダ﹂は、そこ
からいただいた名 前です。
客は大 部 分ドイツ人 。 戦 後 景 気に乗った成 金が多 く 、たくさ
んチップをくれる、いいお客さんばかりでした。
ホテルのスイス人は総 支 配 人 だけで、レストラン支 配 人 他ス
タッフはドイツ人 やイギリス人 、ウエイターは全 員 オランダ人 、
厨 房は全 員 イタリア人 という 国 際 色 豊かな 混 成チームでした。
完 成したばかりという社 員 寮も大 変 立 派で、驚いたものでした。
ある日 、オランダのフィリップス社の社 長一家が静 養に来まし
た。 日 本 人の私が働いているのを 知った社 長は、 最 近 日 本 を 訪
問 した ばかり とかで、﹁ 君 の 国 日
・ 本 は、 技 術 も 人 間 も一流 品
だ!﹂と云ってくれて、 大 変 感 激した思い出があります。
ホテルは、 春から 秋 までがシーズンで、 冬 場は閉めます。 給
料 もよかったので 資 金 も 増 えました。ここまで 来 ると、どうし
てもフランス語 を 修 得したく なり、 冬 場 を 南 仏のニースで 過 ご
すことにしました。
私の通った 語 学 校 ﹁ 地 中 海 大 学 ﹂は、 名 前の通り、 海 を 目
の前にした海 岸 通りに建っていました。ある日 突 然 学 校から私
に映 画 出 演の話が飛 び込んできました。ソフィア ロ・ーレン主 演
エル
でカルロ・ポンティ製 作の﹁レディL﹂という 映 画の中で、どう
けオーケーを得ました。
しても 日 本 人が必 要 だというのです。 早 速 オーディションを 受
しかしながら、プロデューサーと 女 優は結 婚してニース入りす
るつもりが、 先 妻か先 夫の都 合で 離 婚でき ず、 映 画 撮 影が半
年ほど延びてしまいました。
私は、 帰 国を延ばすわけにいかず、 映 画 出 演を諦めました。
帰 国 後 、しばらくしてから 出 来 上がった﹁レディL﹂を 見 ま
憧れの街、南仏ニースで(昭和39年11月)。
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フリーダイヤル 0120−136−320
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先見の明だったのですね。
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を 一 つ に 前 進 さ れ る 姿 を 拝 見、
内容量/ 300g
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直也 伝統を守りつつ、常に新
内容量/1包10錠(約3.3g)入×30包
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した。 汽 車の中で暴 漢に襲われたソフィア ロ・ーレンを空 手チョッ
プで守るカッコいいシーンを、私の代 役が演じていました。しかし、
内容量/ 150g
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心を打たれました。ますますの
さっとタンパク
しい風を取り入れ、つくり変え
良質なタンパク栄養補給
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映 画は駄 作だったので、 何かホッとしました。
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ご 繁 栄 を お 祈 り し て お り ま す。
アミノ酸補給に
ながら、独自の方法をつくって
練習前、試合前にも飲むようになっ
てからスタミナが最後まで続き、集
中力も途切れなくなりました。
本日は、どうもありがとうござ
曽根田盛将選手 ALA
いました。
湘南ベルマーレフットサルチーム
小田原市を本拠地とし、
Fリーグを戦う
フットサルクラブ。
「小田原観光大使」
として、地域振興へも力を注いでいます。
「東急ハーヴェストクラブ伊東」
1階の
「盧歓談」
の前で。
運動の30分後と就寝直後は成長ホルモンが多く分泌されるため、体のリカバ
リーの「ゴールデンタイム」
と呼ばれます。
このタイミングに体内にアミノ酸がある
ことが理想とされ、
体を効果的にリカバリーすることができます。
いく、という姿勢を父は見せて
■筋肉づくりのゴールデンタイムを有効利用。
くれました。私も、老舗だから
マリンサプリを飲んで、第一線で活躍している選手をご紹介します。
アスリートのご紹介
●
スポーツの秋に
登山・トレッキングに
●
この時期におすすめ
今も残る
古代の小麦粉文化
江戸時代の 風景︵その ︶
永山久夫
料理。粉食の歴史の中で、関東
きり込みなども同じ傾向の郷土
にはかなり普及して徳川家康も
が、室町時代に登場し戦国時代
する。これを﹁切り麦﹂と呼ぶ
これを煮て食べた。
して細ひものように切り揃え、
進歩し、棒を用いて平らにのば
食文化史研究家
西武文理大学客員教授
や関西のように細長くひも状に
名の由来。これがややこしい。
の土地の伝統を守ったのである。 問題は﹁うどん﹂という呼び
まって﹁うどん﹂になっている。
期になると﹁うんどん﹂から縮
小麦粉を切るから﹁切り麦﹂
うどんを食べている。
ぎったり、のばしたりしながら
さらにいえば、長野県のおやき
うどんのルーツは
飩と呼ばれ
とも呼ばれたが、室町時代の末
熱汁で煮込み、汁ごと食べる郷
系も、古代小麦粉文化を引き継
古代以来のものだろう。小麦自
ングリなどの粉を用いた縄文時
粉食は、トチの実やクリ、ド
したもの。やがて熱汁で食べる
のあんを詰めて団子状にし湯煮
菓子で、小麦粉で肉や野菜など
は、うどんと切り麦の作り方が
光の時代に出た﹃料理物語﹄に
江戸時代に入って三代将軍家
江戸のうどんの面影
体は弥生時代の遺跡から出土し
代からのもので、弥生時代にな
ところから温飩となり﹁饂飩﹂
出ていて、作り方はほとんど同
こんとん
土料理が日本各地にある。
た中国から入ってきた古代の唐
ており、小麦の粒食はむずかし
って大陸から小麦粉文化が渡来
となった。小麦粉であんを包ん
じ。この書物は室町時代の食文
やがて、小麦粉だけをこねて
は熱汁で食べるのに対して切り
な本。両者のちがいは、うどん
うんどん
いから、最初から粉食だったは
し、より簡単に粉食のうまさを
で焼けばおやきとなり、煮込め
ひも状にのばして食べるように
麦は冷やして用いる点。太さも
おんとん
ずだ。
味わえるようになったのである。
東北地方の﹁ひっつみ﹂は、水
化もうかがうことのできる貴重
で練った小麦粉を一口大にちぎ
やがて小麦粉を平らにのばし
なり、室町時代になってさらに
り薄くのばして、汁の中に入れ
煮込む食べ方で、すいとん、山
て包丁で細長く切るように進化
出現する。江戸というと何とい
っても蕎麦であるが、江戸時代
の前期は上方と同じように、江
戸でもうどん屋が主流。うどん
屋がうどんを商うかたわらで蕎
麦も細々と売っていた。
現代では、真冬に
〝冷たいうどん〟も珍しくない
ようですが、 江戸時代、
うどんは熱汁で食べら
れていました。
きたためである。
土地の人たちによって守られて
が、江戸前期のうどん文化が、
うどんなどが人気を呼んでいる
の加須、群馬県の水沢、武蔵野
か ぞ
なる。今でも東京周辺の埼玉県
り、十六文は三百二十円ほどに
算すると一文は二十円前後にな
一杯の値段は十六文。現代に換
蕎麦屋の数が急増した。うどん
︵一七四八∼一七五一︶の頃で、
逆転がおこったのは中期の寛延
江戸時代の蕎麦とうどんの大
きが多い﹂とある。
い﹂とあり、﹁江戸では蕎麦好
や大坂ではうどんを好む人が多
幕末の﹃守貞漫稿﹄に、﹁京
熱々のうどんに薬味にしょうがとねぎをたっぷり。体が温まります。
やがて江戸の町にうどん屋が
やや細い。
うどんの方が太くて、切り麦は
梨県のほうとう、群馬県のおっ
﹁うどん﹂と﹁切り麦﹂
ば饂飩である。
小麦粉のこのような食べ方は、
いだものだ。
小麦粉を水でこね、指先でち
切る方法をとらずに、古代以来
江戸時代のはじめは、
うどんが主流だった
75
官 学 校 に、弟・真 之 は 海 軍 兵 学
秋 山 兄 弟 も、兄・好 古 は 陸 軍 士
日天気晴朗ナレドモ波高シ﹂は
このとき、大本営に送った﹁本
本海海戦を勝利へ導きます。
秋山真之終篤の地、
対潮閣のあったあたり
箱根
板橋駅
西海子小路
故郷・宇和島を出奔した山下
対潮閣で静養しており、
で、この言葉を表すZ旗が旗艦
り 出 し た の は 三 十 六 歳 の と き。
﹁日々の散歩にすこし歩き疲れ、 最 後 は、俳 郷、松 山 の 人 に ふ
真之の友に俳人・正岡子規が
以来、旧海軍の兵員輸送そのほ
本 日 は 小 田 原 の 別 野 に 休 息 し、
が自前の船を持って海運業に乗
かで財を成し、海運業トップの
読 書 三 昧 に 日 を 暮 ら し 候︵略︶
さわしく、
た。
一角を占めるようになったので
と口にしたあと、障子を開け
放 さ せ、相 模 灘 の 黎 明 の 中、息
を引き取りました。五十歳でし
秋山真之終焉の地である対潮
た。
同年十二月、海軍中将に昇進
協力/小田原まちづくり応援団
ところです。
閑院宮家の小田原別邸もあった
も。こ こ は 昔、
﹁小 峰﹂と 呼 ば れ、
子短大のある城山四丁目あたり
策の足を伸ばすなら、小田原女
・南町を歩いてみましょう。散
をしのばせるお屋敷町、小田原
実業家や退役軍人たちの別荘跡
は 残 っていませんが、か つ て の
閣 は、関 東 大 震 災 で 崩 壊 し、今
りました。これから一人で逝き
﹁皆さん、いろいろお世話にな
未明、見舞い客に向かって、
一月末容態が急変。二月四日の
庵に訪ねることもありましたが、
最長老、山縣有朋を近くの古稀
暖かい日には、政界や陸軍の
す。
なった真之は、対潮閣へ赴きま
しましたが、体調を崩し待命と
送っています。
れたやすらかな思いを姪へ書き
と、小田原でようやく手に入
も此の様にと思ひ居り候﹂
白き事は無之、どうか何時まで
呑気に静養せば、是程気楽で面
新聞も見ずに世外に遠ざかりて
大正六年、盲腸を患った真之
小田原・対潮閣の
秋山真之
す。
﹁三 笠﹂に 翻 り ま し た。真 之 は、
人となりました。
く、山 下 は、真 之 の 棺 を 担 う 一
った交友は、終生変わることな
います。真之の大尉時代に始ま
の創業者となった山下亀三郎が
汽 船︵現 在 は 商 船 三 井 に 統 合︶
もう一人、真之の友に旧山下
終生の友となった
海運王・山下亀三郎
せん。
俳句が役に立ったのかもしれま
いたといいます。子規と競った
短文で内容を伝える才に長けて
小田原駅
日本海海戦を勝利へ導いた名参謀
晩年の秋山真之が愛した小田原
さいかち
城下町の面影を残す西海子小路のあたり。明治の高級官僚や実
業家たちが、別荘を設けた小田原・南町界隈を歩きます。小説
今秋の紅葉スポット
閑院宮邸の
あったあたり
古稀庵
﹃坂の上の雲﹄で知られる秋山真之も、日露戦争後たびたび静
養に訪れ、散歩の杖を引いたであろう道が残ります。
い え、幼 な じ み の 友 情 は 固 く、
日清戦争後に派遣留学生として
病の子規へ毛布を贈っています。
アメリカに渡った真之は、重い
明治の日本は、欧米諸国に追
子規は死ぬまでこれを手放さな
誰もが青雲の志を
抱いて
いつき追い越そうと、科学知識
日露戦争での真之は、連合艦
かったといわれます。
注 ぎ ま し た。人 々 が、青 雲 の 志
隊作戦主任参謀として、戦艦﹁三
と技術、ことに富国強兵に力を
を抱いて夢を追った時代でした。
校へ進みます。帝国軍人として
真之の電文。
﹁皇国ノ興廃コノ一
笠﹂で 東 郷 平 八 郎 を 補 佐 し、日
栄光の人生を歩み出したのでし
戦ニアリ﹂も真之の作ったもの
海軍省軍務局長時代の真之。
います。行く道が分かれたとは
さねゆき
た。
よしふる
四国・松山の貧家に生まれた
秋山真之終焉の地、対潮閣のあったあたりから相模湾をのぞむ。
(写真提供/坂の上の雲ミュージアム)
台ヶ岳の北西山麓に広がる大草原。日の光を
受けて一面のススキの穂が黄金色に輝く。初
秋の涼しい風の中で、雄大な景色を堪能する
ひとときを。
■見頃:9月下旬∼11月
■場所:箱根町仙石原
■交通:箱根登山鉄道「箱根湯本」駅から箱
根登山バス湖尻・桃源台行きで25 分、
「仙石
高原」下車すぐ
箱根町総合観光案内所
0460-85-5700
は、以 来 た び た び 山 下 の 別 邸、
こきあん
仙石原高原のススキ
ます﹂と別れの言葉を告げまし
■箱根登山鉄道・出山鉄橋付近
鉄道ファンを魅了する、正式名称「早川橋梁」
。
国の有形文化財に登録される出山鉄橋付近
の紅葉は“ 撮り鉄 ”でなくても見たい。
■見頃:11月初旬∼12月初旬
■交通:箱根登山鉄道
「塔ノ沢」駅下車
箱根登山鉄道
鉄道部
0465-32-6823
山 縣 有 朋の別 邸﹁古 稀 庵﹂。明 治 維 新 以 来の政
界の最 長 老であり、そのため﹁小田原の大 御 所﹂
と呼ばれ、七十歳から八十五歳までの生涯を閉じ
るまで当地で過ごした。
旧武家屋敷が並んでいた西海子小路界隈。
明 治 以 降は十 字 町(現・南 町)に含まれ、
日露戦争後は多くの別荘が建てられた。
■大雄山最乗寺
開創 600 年以上の歴史を持つ曹洞宗三大
名刹の一つ。境内約 2 万本の老杉に配した
紅葉の紅が美しい。
■見頃:11月後半∼12月初め
■場所:南足柄市大雄町 1157
■交通:伊豆箱根鉄道大雄山線「大雄山」
駅から伊豆箱根バス道了尊行きで10 分、終
点「大雄山最乗寺」下車
0465-74-3121
せいろ
蒸籠
年輩の方なら、餅搗きは年の
暮れの風物詩として記憶に残っ
ているでしょう。窯の大釜に重
ねられた幾つもの蒸籠から、勢
い よ く 立 ち 昇 る 湯 気 が﹁さ あ、
こ れ か ら 餅 を 搗 く ぞ!﹂と、家
その九
効率的で省エネ、実に合理的で
し 上 が っ て い る と い う よ う に、
き上げると、次の蒸籠の米が蒸
ものです。一つの蒸籠を餅に搗
向けられ、蒸し器が注目されて
野 菜 な ど﹁蒸 す﹂料 理 に も 目 が
健康志向の高まりもあって、温
台 所 か ら 消 え ま し た。そ れ が、
木製の蒸籠が、食生活の変化で
日本のどの家庭にも見られた
蒸し料理に注目です
す。赤飯、サツマ芋、茶わん蒸し
います。昔の大きな蒸籠でなく、
族の気持ちを一つにして高めた
蒸籠はハレの日を中心に
・・・・・・
れるのです。
ことでひと味ちがう料理が生ま
っさり味にというぐあい。蒸す
増し、肉は余分な脂を除いてあ
ども。蒸すことで野菜の甘味が
の水分も保ち、うま味がそのま
ま せ ん。焼 く の と ち が い、食 材
することですから、むらができ
一に食材を包み、じっくり加熱
すことは、蒸籠の中で蒸気が均
湯に溶け出してしまいます。蒸
ょうか。茹でるとうま味などが
出来たてを食べることができま
すから、人数が多くても次々に
下の蒸籠から順に蒸し上がりま
すことができます。熱源に近い
一つの熱源で何種もの食材を蒸
蒸籠をいくつか揃えておけば、
のを防ぎます。
逃がして、食材が水っぽくなる
ん。古 く は 土 器 製 の﹁甑﹂
︵こ し
揚げる﹂の西欧には見られませ
文化から生まれたもので、
﹁焼く、
そもそも蒸籠は、アジアの食
ているようです。
軽さが、蒸籠見直しにつながっ
蒸籠も出回り、小家族向きの手
中国の点心に使うような小型の
台所に欠かせない道具でした。
き︶と 呼 ば れ、弥 生 時 代 に 大 陸
から伝えられたといいます。鎌
倉時代に檜や杉で曲げ物が作ら
れ、江戸時代に発達したようで
す。餠、赤飯、酒造りなど日本の
ま残ります。したがって冷やし
蒸気を逃がし易く、食材に垂れ
蓋 が 竹 を 編 ん だ も の で す か ら、
が お す す め で す。中 華 蒸 籠 は、
使い勝手でいえば、中華蒸籠
す。
豆腐など、冷やしてどうぞ。
節、茶わん蒸し、ナス、豚肉、卵
ても美味しいのです。残暑の季
昨年生まれた娘の杏も元気に育ち、春からは
あん
に家 族で旅 行を、と親 子3人で伊 豆 の 温 泉に。
私も再就職することになりました。働き始める前
かまぼこ博 物 館にはその帰りに立ち寄りました。
遠出に加え、前日は嵐のような大雨…はじめてづ
食文化と関わり、普及しました。 温野菜なら茹でても同じでし
明治の後半にブリキ製の蒸し器
が、現 在 は ア ル マ イ ト 製 が、一
般家庭に重宝されています。
﹁蒸す﹂ことの利点
以前は、蒸籠を使うのは餅米
中華蒸籠が便利
かまぼこ博物館では手づくり体験教室への参加記念と
してお客様をデジタルカメラで撮影し、後日Eメール
でお写真をお送りするサービスを行っております。ご
参加の折にはぜひスタッフまでお声をおかけください。
など穀類と、せいぜいサツマ芋、
http://www.kamaboko.com
る水滴を防ぎます。和蒸籠に比
TEL
(0465)
24-6262
鈴 ホームページ
蒸し器には日本の和蒸籠、中
お問い合わせ先
茶わん蒸しくらいでした。現在
かまぼこ博物館
べ て 浅 く、扱 い 易 い し、大 き さ
しています。
華蒸籠、中敷を取れば鍋にも使
やってみたかったのかな? もうすこし大きくなった
では、中華料理の点心類はじめ、
ら親子でチャレンジしたいと、私も今から楽しみに
も直径十五㌢くらいから好みの
には2人とも大満足。娘にもぜひ食べさせてやり
え る ア ル マ イ ト 製 が あ り ま す。
たいと思いました。興 味 深そうに見ていたので、
温野菜など幅広く使われていま
ちょっと固めでしたけど、焼き上がりの香ばしい味
大きさを揃えることができます。
した。主人のつくったちくわはすり身を練りすぎて
アルマイト製の便利さはともか
勝手がちがうのか、なかなか苦戦をしているようで
す。ジ ャ ガ イ モ、ニ ン ジ ン、ト
ちくわに挑戦。家事はよく手伝ってくれる主人も
蒸籠一つで、食膳が変わること
をすぐにとろうとするのには手を焼きましたけど…。
く、仕上がりの美味しさは蒸籠
さすがに娘にはまだつくれないので、主人と2人で
請け合いです。
館内ではおとなしくしていました。頭を覆うキャップ
にかないません。蒸気を適当に
っすりと眠ってくれました。そのせいか機嫌もよく、
古くからお祝いといえばお赤飯だった。
左 か ら 宮 坂 麻 紀 子 さ ん、ご 主 人 の 浩 一
さん、杏ちゃん
小型の蒸籠は食卓にそのまま出せて便利だ。
くしのことに娘もはしゃぎすぎたのか、旅館ではぐ
ウモロコシ、カブ、キャベツ⋮ 、
宮坂麻紀子様(神奈川県横浜市)
野 菜 だ け で な く 魚、鶏、豚 肉 な
手づくり体験記
小田原鋳物研究所・上島國澄氏の
小田原鋳物についてのレクチャー。
﹃千世倭樓﹄のお食事&
あじさいの押し花体験
六 月
どを鑑賞しました。
歌川広重﹃東海道五十三次﹄な
め、葛飾北斎﹃冨嶽三十六景﹄、
瑠璃物語絵巻﹄全十二巻をはじ
要文化財の伝岩佐又兵衛筆﹃浄
浄瑠璃御前の恋物語を描いた重
の名作﹄展を開催中。源義経と
兵衛絵巻と北斎・広重風景版画
五月から七月にかけて行われた如倶楽部のイベントをご紹介します。
体験型イベント、参加者募集中!
五 月
のお食事処﹃えれんな
五月十九日︵水︶開催
﹃えれんな ごっそ﹄での
お食事と浮世絵鑑賞
鈴
ごっそ﹄でお食事と﹃おだわら
れもんビア﹄を楽しみました。
﹃おだわられもんビア﹄は魚の
料﹃うみからだいち﹄を使って
六月二十五日︵金︶開催
アラなどを利用した鈴 特製肥
栽培された小田原産レモン使用
に向かいました。
MOA美術館鑑賞のため、熱海
って箱根湯本へ向かいました。
楽しんだ後、箱根登山鉄道に乗
﹃千世倭樓﹄で季節のお食事を
日となりました。
作品に。美しい花を堪能する一
帯電話のストラップなど好みの
クリアファイルやマグネット、携
MO A 美術館は日
沿線に咲き誇るあじさいも見事
の地ビールです。食事の後は、
本や東洋の古美術を
でしたが、訪問先の﹃箱根ベゴ
小田原鋳物
風鈴づくり体験
七 月
中心に収集・展示し
ニア園﹄には特設会場が設置し
てあり、六〇種二〇〇株もの山
した。さらに、園内の﹃花の夢
い品種を鑑賞することができま
工房にて、風鈴づくりを体験し
NPO法人小田原鋳物研究所
七月十四日︵水︶開催
美術館﹄では、押し花作品づく
ました。銅と錫の合金は﹁さは
あじさいや西洋あじさいの珍し
りを体験しました。あじさいを
特別…特別会員様 一般…一般会員様
インフォメーション
﹁うみからだいち﹂を
元肥に使ったお米で
お酒を仕込みました
いよいよ、
お目見えします。
小田原・上曽我の米作農家、磯
崎農園さんに、
田植え前の元肥
として、
かまぼこをつくるとき
に生じる魚滓からつくられた肥
料﹁ うみからだいち﹂を使ってい
ただきました。しかも 、神 奈 川
県の奨励品種米、
キヌヒカリを
酒米用に育てていただく試みで
す。その新 酒がいよいよ出 来 上
ご一緒にいかがでしょう。
がります 。深まる秋 、板わさと
*キヌヒカリについては、
4ページからの
記事もぜひご覧ください。
す。
り﹂を素材にした風鈴づくりで
きました。今回はその﹁さは
ど︶として、古代より使われて
物材︵お寺の鐘や鈴類、楽器な
に心地よい音がでるために鳴り
青々としたキヌヒカリの夏の田んぼの風景。
各自の好きな図柄を描いた砂
れることが無いよう、
合理的な範囲内で厳重に管理いたします。
また、
お客様の個人情報は、
使用目的が達成され、
継続して保管する必要がなくなったと判断した場合は再生不可能な形で、
できる限り速やかに破棄致します。
●お問
り﹂といわれ、余韻の長い、耳
●個人情報の収集・使用・開示・提供……ご提供いただきますアンケートに記載される氏名などの情報
(以下まとめて
「個人情報」
)
は、法的義務を伴う開示請求を受けた場合を除き、今後のサービス・品質改善以外の目的には使
はじめ、様々な押し花を素材に、
観察を行います。
会員様限定特別サービス
ている美術館。﹃又
型をつくるところからはじめ、
十月
参加費/特別:二千五百円
銅と錫が赤く溶け合った金属を
流し込みます。熱い溶鉱炉など、 一般:三千五百円
はじめて目にするものばかりで
町︶など、往時の邸園文化を偲び
生涯を閉じた山下亀三郎別邸︵南
主人公・秋山真之が病身をおして
訪問した山縣有朋別邸︵板橋︶、
邸園巡り
皆さん興味津々でした。そして、
●十月二十八日︵木︶
型から取り出し、磨きをかけれ
●午前十時∼午後四時三十分
NHK ドラマ﹃坂の上の雲﹄の
ば、デザインも音色も世界にひ
とつだけの風鈴が完成。オリジ
ナル風鈴を手にすることができ
ました。
つつ街歩きします。
蒲鉾本店 如倶楽部事務局 TEL0465-23-0880 神奈川県小田原市風祭 245
い合わせ先……ご提供いただきましたお客様の個人情報の訂正・変更・その他のお問い合わせは、
右記窓口までご連絡ください。
(株)
鈴
参加費/特別:三千円
一般:四千円
十一月
﹃箱根ラリック美術館﹄
十一月十七日︵水︶
●
フランスを代表する宝飾やガラス
●午前十時三十分∼午後五時
箱根ラリック美術館で二十世紀
の巨匠ルネ・ラリックの作品を鑑
賞します。企画展﹃箱根寄木アー
ルデコ﹄もお楽しみに。
参加費/特別:四千円
一般:五千円
参加お申し込み・お問い合わせ
り日は開催日の十日前とさせてい
各イベントのお申し込み締め切
ただきます。ただし、定員に満た
ない場合は引き続き募集します。
また、お申し込みが定員を超えた
場合のみ、抽選となります。抽選
結果は電話、はがきでご連絡いた
E-mail [email protected]
次回イベント予告
九月以降のイベントスケジュール
あなたも参加しませんか?
は次のとおりです。
九月
では森林の保全を図る取組
森林間伐&水生生物の観察
●九月二十五日︵土︶
午前十時∼午後四時
●
鈴
します。お申し込み・詳細のお問
い合わせは、下記の如倶楽部事務
局まで。参加費は当日頂戴いたし
ます。
用致しません。
(また、統計処理をした結果を必要に応じて第三者に提供することがありますが、個人を特定できる形で第三者に提供することはありません。
)
●個人情報の保管・破棄……第三者がお客さまの個人情報に不当に触
個人情報の
お取り扱い
について
蒲鉾本店 如倶楽部事務局
四季折々の多彩なイベントを開催
7 鈴 の季刊誌 『如』をご自宅にお届け
TEL:0465-23-0880 フリーダイヤル:0120-5104-66
お好みの景品を進呈
5 ポイントに応じたお楽しみ
〒250-8790 神奈川県小田原市風祭245
MOA美術館で浮世絵を鑑賞。
『箱根ベゴニア園』
で、
美しい花を観賞。
ご清算時の提示でご利用 100 円(税込)ごとに1ポイント加算(100 円未
満切り捨て)
します。
『えれんな ごっそ』
で、
楽しいひととき。
み﹃かながわ水源林パートナー制
度﹄に参加しています。その水源
林へ行き間伐体験や、水生生物の
(更新時に別途2年会費が必要となります。
)
どをご用意しております。
いずれも会員規約をよくお読みになり、ご承認の上お申し込みください。
蒲鉾本店を始めとする特定店舗にて、ラウンジの優先ご利用な
鈴
ご入会時に<2 年会費 2,000 円>をお申し受けます。
4 ささやかなおもてなしでお迎え
◆特別会員
宅配送料の 5%を割引きいたします。
(2年間ご利用履歴がございませんと、
会員資格を失います。
)
制作に集中。
ポイントサービス
1 楽しく貯めて楽しく使う
気に入った押し花を貼付けます。
宅配便送料特別割引
3 ご贈答用にもご利用いただける
入会申込書に必要事項を記入するだけでご入会できます。
6 特別な一日を如倶楽部がご案内
株式会社 鈴
オリジナル風鈴の
完成です。
かまぼこの里ご利用券進呈
2 かまぼこの里で楽しく過ごす
ご入会方法
500 ポイント貯まるごとにかまぼこの里ご利用券
(1,000 円相当)
と交換します。
◆一般会員<年会費無料>
一般会員様・・・1∼4 特別会員様・・・1∼7
如倶楽部は、鈴 を日頃ご愛顧いただいております皆さまに、また
これからご利用いただく皆さまに、なお一層鈴 を楽しみ、ご満足い
ただくための会員制倶楽部です。会員となられますと、ポイント加算
システムによるお楽しみ、特定店舗における特別サービスなどの特典
をご利用いただけます。あなたもぜひ如倶楽部にご入会ください。
1∼4に加え、特別会員様にはさらなる特典やサービスをご用意しました。
如倶楽部についてのお問い合わせは
思い思いの図柄を
描いた砂型。
砂型に
「さはり」
を
流し込みます。
もっともっと楽しい
ごとし「如」
第 91 号 平成 22 年9月1日発行 第三種郵便物認可 編集 株式会社鈴 蒲鉾本店 ごとし編集室 編集人 鈴木博晶 発行所(株)
鈴
蒲鉾本店 神奈川県小田原市風祭 245 〒250-0032 電話 0465
(24)
3141
(代)印刷所 日立インターメディックス
3
0
0
本体
2
8
6
「私は、
国内外の多くの子供達の想像力が、
かまぼこ板に注ぎ込まれ新
たな創造物となるということに感心し、
全く別々な木目を持ついくつもの
かまぼこ板から、
木目をつなぎ組み合わせ、
ひとつの大きな樹を作ろうと
思いました。外界の自然や大地の影響を受けて大きく育つ樹のように、
様々なものの力が集まることでできる新しいエネルギーとその大切さ・安
らぎを表現したいと思い、
描きました」
絹谷香菜子