ゴー・ストップ事件 - 前坂俊之アーカイブス

 <04年04月>
『兵は凶器なり』 ⑲ 15年戦争と新聞メディア −1926−1935−
ゴー・ストップ事件
前坂 俊之
(静岡県立大学国際関係学部教授)
五・一五事件で政党政治の息の根を止めた軍部の鼻息はその後いっそう荒くなって
きた。一九二五(大正 14)年五月一日に宇垣一成陸相は高田、豊橋、岡山、久留米
など四師団を廃止した、いわゆる〝宇垣軍縮″を実施したが、当時の軍人は肩身の
せまい思いをし、電車に乗るときも軍服姿が恥ずかしく、国民からは冷たい目で見ら
れた、という。
ところが、満州事変以降はムードが一変する。軍人たちは、国民を〝地方人″、背
広姿を〝商人服″と呼び、特権意識がいっそう露骨になり、国民も軍国熱、排外熱か
ら、こうした軍人の思い上がりを助長させていった。
軍人のなかでも特に、「将校は、〝治外法権的特権階級″にのし上がっていった」
(1)と言われる。
1・・軍部と警察が全面対立
当時、国内で軍部とかろうじて括抗できる権力集団は警察しかなかった。
軍部と警察。当時の日本の二大権力機構である。軍部が発言力を強め、横暴ぶりが
目立ってくるのと比例して、警察も一九三二(昭和7)年六月、警視庁に特別高等警察
部を設置、共産党や左翼への弾圧を徹底して行い、〝特高〟の存在は民衆の恐怖
のシンボルとなっていた。
その官僚機構の頂点にあり、警察の総元締めが内務省警保局であった。
国内で政党政治を倒し、怖いものがなくなった軍部は一層、傍若無人となり、一九
三三(昭和8)年六月のゴー・ストップ事件となって暴発した。警察との全面対決である。
軍部はこの事件で皇軍の名誉、威信をタテに横車を押し、国内の秩序、警察権を踏
みにじった。
1
国民は二大権威の衝突をかたずを飲んで見守ったが、無法を力づくで通した軍部は
警察を屈服させた。もはや軍部の暴走をくい止める勢力は国内から駆逐され、あとは
その威圧に恐れおののく状態となった。
その重大な岐路となったゴー・ストップ事件の発端とは、まことに愚にもつかぬ兵士
と巡査のけんかであった。
『大阪朝日』によると、事件はこうである。
昭和八年六月十七日午前十一時ごろ、大阪市北区天神橋筋六丁目の新京阪電車
前市電交差点で赤信号なのに歩兵第八連隊第六中隊所属の中村政一1等兵(24)
が横断した。これを見ていた曽根崎交通巡査、戸田定夫(27)が注意したところ口論
になった。
二人は天六巡査派出所内で殴るけるのケンカに発展、中村一等兵は左鼓膜が破
れる三週間の負傷、戸田巡査も下口唇に一週間のケガを負った。
昭和史に刻まれる大事件に発展したこの事件の発端は、このようなささいな一等兵
と巡査のけんかであった。赤信号なのに無視して渡った兵隊に過失があった。もし、
ここで中村一等兵が不注意を認め、謝っていたならば、ことは簡単にすんでいたであ
ろう。
ところが、事件は意外な方向へと発展した。
中村一等兵は「何ら手出しをしないのに巡査に撲られた」と主張した。
「停止信号に気づかず横断しかけたところはじめて赤信号に気づいた。線路手前で停
止したが、ちょうど自動車がきたので、危険と思い線路を渡った時、戸田巡査が飛ん
できて後ろから首筋をつかまれた。『見っともないから離してくれ』というのを聞かず、
交番へ連行しようとするので更に『行くから放せ』と言っても、どうしても放さないので
ふり切った。
ところが、同巡査は前から上着をひっつかんで派出所に連行、その際ボタンが全部は
ずれてしまったので、通行人が『兵隊に無茶するな』と言ったことから、戸田巡査と口
論になり、殴られた。その際、よけるために突き飛ばしたので、同巡査の第二ボタンが
2
取れた」(『大阪朝日』六月十八日朝刊)
2・・・軍と警察の言い分は 180 度違った。
戸田巡査の言い分は全く違っていた。
「信号を無視する軍人がいるので注意したところ、注意を聞かず進行して行くものです
から、天六の派出所へ同行を求め注意をあたえようとすると、突然、私のアゴを突き
上げ二週間のケガをさせ、その上、第二ボタンを引きちぎったのです。たとえ、相手が
軍人であろうと私の職分をつくしたことに間違いない」(同)
警察側は「兵士が先に手を出した」と、双方の言い分は180度くい違った。
こうした街頭における軍人と警察のトラブルはそれまでにもよく起きていた。兵隊が
日曜日に数人で町に遊びに出て、赤信号でも勝手放題に交差点を渡るなど、特別扱
いされていたことも事実あった。
この事件の前年の一九三二(昭和七)年二月、相次ぐテロや不穏事件の連発によっ
て内務省は「憲兵警察官吏連絡協調ニ関スル件」を通達した。内容は軍事と密接に
関係する警察上の執行については憲兵とよく協調して行え、というものであった。
通常、こうしたささいな事件は警察、憲兵隊の話し合いによって、ケースバイケースで
処理され、大きな問題となったことはなかった。
ところが、軍部はこれまでと違って強硬だった。二十二日、軍部はこの種の事件で
は例のない長文の声明書を発表。
「中村一等兵は全く抵抗しておらず、仮に非行をしたにしても憲兵隊に通知して引渡
せば足る」として「皇軍組成の一分子に対する警察官の不法暴行事件で皇軍感情に
関する重大問題」と非難した。
それまで、「一兵士一巡査の偶然的事故、警官が皇軍を侮辱したものではない」と
黙視していた警察側も俄然緊迫。
「軍人と警官が殴り合いをしたのは実に遺憾だが、軍隊が帝国の軍隊なら、警官も帝
国の警官で、その間断じて軽重はない。共に国家の重大任務を負担している点にい
ささかの軽重もあるべきでない」と真正面から受けて立ち、軍部を批判した。
3
事態は一挙にエスカレート、大阪地方検事局にもち込まれた。和田検事正は「事件
そのものはたいしたものではないが、両者の神経がかくも先鋭化している以上、検事
局は双方の体面を考えて処置しなければならぬ」と語った。
『大阪朝日』は六月二十四日社説で「問題の処理は冷静に−国際問題でも、国内問
題でも」を掲げ「世が非常時だというせいであろうか。とかく国民の神経が尖り、事の
処置に冷静を欠く。このために、国際的にも国内的にも行詰まっている問題が甚だ多
い」とした。
この社説ではゴー・ストップ事件の具体名はあげていないが、指摘されたように冷静
さを欠き、神経を尖らせ事態をこじらせたのは軍部であった。
事件後一ヵ月、大阪憲兵隊があっせん役を降り、中村一等兵は戸田巡査を名誉毀
損、傷害などで告訴した。警察側も負けておらず中村一等兵が交通違反をそれまで
に七回も犯していたことを暴露、ドロ試合と化した。
事件解決は長びき、第四師団対内務省の争いに発展、互いに意地とメンツから負
けられぬ一戦となった。 荒木貞夫陸相も現地に乗り込み、全国在郷軍人会が応援、
警察側も内務省警保局や各府警警察部がバックアップした。和田検事正はなんとか
円満解決を目ざしたが、軍側が謝罪と戸田巡査の処罰を要求して強硬姿勢をくずさ
ず事件は完全に暗礁に乗り上げた。
ところが、約五ヵ月後の11月18日、和田検事正の調停、白根兵庫県知事の斡旋で
急転直下、和解にこぎつけた。
3・・軍部の横ヤリに警察は屈服
十月中旬から福井県下で陸軍特別大演習があり、天皇が荒木陸相へ「大阪でゴー・
ストップ事件というのがあったが、どうなったのか」と御下問があった。
大あわての荒木陸相は内務省と急きょ、話し合うように指示したのである。
天皇のツルの一声で解決にこぎつけたわけだが、解決の共同声明では、警察が軍
部に屈伏したことは明らかだった。斡旋内容は互いに双方をたずねてあいさつをかわ
すというものだが、同二十日『大阪朝日』の「ゴーストップの渦解決した日」の大見出し
4
の記事では次のように〝強弱″が表われていた。
師団側は「本事件は軍部が特に意を注いで府当局の注意を喚起せし所以のものは
皇軍建設の本義を宣明し軍人の特殊地位を明徴にせんとせしに外ならず」と意気軒
昂だが、一方、警察側は「常に親善なる関係の下に進んできた両者の間に気まずい
ことの出来たのは残念に思っていましたが、円満解決をみたことは喜びに堪えず」と
弱々しい。
こうして事件は一応解決した。
しかし、「赤信号、軍人が渡ればこわくない」の無法が国民注視の中でまかりとおった
のである。以後、警察側は軍人に関する事故はすべて監察官に報告し憲兵隊に処理
をまかせるという、消極的姿勢となった。
ゴー・ストップ事件は警察権の行使範囲である道路上で、軍人が交通違反を起こし
たのに軍人は罰せられず、逆に注意した巡査が攻撃されたケースである。
軍部の横ヤリと横暴で市民秩序がねじ曲げられ、法律は踏みにじられた。師団声明
にも明記しているように、皇軍の建設のために、軍人は他の国民、警察以上の特殊
な地位を持っていることを主張したのである。
交通違反を犯しても、軍人ならば許される無法状態となった。
内務官僚が軍部に屈伏してからは、国内では軍部にタテつくものはいなくなった。あ
とは軍部による戦時体制が着々と築かれていく。
ところで、こうした軍部の横車を新聞はどう報道したのか。五・一五事件、滝川事件
などと比べても大新聞の抵抗する姿勢はいっそう後退していった。
事件の経過については社会面で詳細に報道しながら、たとえば、『大阪朝日』が同
事件を論説に取り上げたのはわずか四回だった。しかも、真正面から言及したものは
一回もなかった。
六月二十四日 「問題の処理は冷静に――国際間題でも国内問題でも」
七月 三日 「社会集団の争い――結局国家の損」
十一月十七日 「進止事件――喜ばしい円満解決の兆」
十一月二十日 「進止事件の円満解決」
5
以上の四回だが、ゴー・ストップ事件の名前を挙げて論じたものは「進止事件」と「進
止事件の円満解決」だけで、前者はわずか十八行、後者は三十行という短さであっ
た。
4・・大新聞は沈黙、お粗末な論説
普通の社説と比べると五分の一から十分の一という短さで、これでは十分論ぜられ
るはずもなく、批判すべきは真正面から論ずるという、『大阪朝日』の伝統もここでは
すっかり陰をひそめていた。
「進止事件−喜ばしい円満解決の兆」(十一月十七日)では−。
「いわゆるゴーストップ事件も各方面からの熱心な調停運動が功を奏して、いよいよ
法的裁断によることなく、常識的妥協による問題解決の見込みがついたと伝えられる
のは目出度いことである。かくて軍人の名誉をも傷つけず、警察の威信をも損うことな
しに、双方の釈然たる諒解ができ、ここに抗争を解消することは一般人心をおちつか
しめ、時節柄まことによろこばしい」
「進止事件の円満解決」(同二十日)も「かかる問題は単に一部面、一都市の問題に
あらず、その影響するところは極めて重大であった。しかるに、相互の立場、或は観
点よりすれば、なお主張すべきことも多かったであろうが、それらを各当事者が悉く一
擲し融和互譲の精神に基づいて、釈然過去を解消したことは、その心事に対して敬
意を表さなければならない。これを契機として軍隊も警察も一層相互の理解を進め、
全国民が融和団結して、この非常時局を突破するこそ、今日の緊急時であろう」
どうみても論説などとは呼べない代物であった。
『大阪毎日』は六月二十五日「人間的修養と同胞の情味−−交通事件からの感想」
で「要するに両者に同情と理解と人間味とが欠乏しているがために、常にこの不愉快
な街頭の小事故がおこる。すべてが人間的修養と反省との欠乏からくる」とこれまたト
ンチンカンな論説を掲げた。
大新聞がいずれも問題点をはずした論説ばかりのなかで、軍部の暴走に歯に衣を
着せず批判したのは『信濃毎日』の桐生悠々だけであった。
『朝日』『毎日』の黙して語らぬ態度にはがゆい思いだった悠々は、一九三三年七月
6
七日〝評論″欄「大阪に於ける進止事件の一教訓」でズバリと斬り込んだ。
「軍人と普通人とはもとより身分が違う。従って、同一には取扱わないにしても、軍人
が軍隊を離れて、一兵士として行動するときには、私たちはこれを普通人として取扱
わねばならない。
極端なる一例を挙ぐれば、そしてそれは私たちが日常市井において、往々にして、と
いうよりも常に見るところの現象であるが、軍隊を離れた一兵士が小料理屋に又、カ
フェーに酒を飲み、女中又は女給がこれに対して実は享楽的であるけれども、侮蔑的
行動を演じたときに、『統帥権』を言及して、憤怒したりとせば如何。『陛下の軍人』を
口にして、問題を重大化したとせば如何。
何人も公的生活を持つと共に、私的生活を持つ。軍人と雖も、もとよりこの例に漏れ
ない。彼が軍隊として、又軍隊の一員として、公的生活的に行動するときは、それこそ
『陛下の軍人』であり、直接に『統帥権』下にあるが故に、無論警察官などの命令には
服従しないのみならず、これを妨げれば、彼等はこの警察官を叩き殺すであろう。
だが、彼等が軍隊を離れて、一兵士として私的生活的に行動するときには、私たち
は警察官も、これを普通人として取扱わねばならない。何ぜなら、若もこの場合、警察
官の命令に服従しないで、強いて電車の踏切を突破すらならば、彼は、彼等は電車
の為に、轢殺される危険がある」
カフェーで酔って暴れた軍人を引き合いに出して批判するなど、巧みで、軍部の筋
のとおらぬ言いがかりを見事に浮き彫りにした。これに比べると、『朝日』『毎日』の社
説が問題の本質に目をつぶり、軍部の横暴をたたえ、警察も名誉が保たれた、と拍
手をおくっているのである。
当時、『大阪毎日』の社会部記者で府警キャップだった小林信司はこう回想する。
「当時、府側に味方し、朝夕刊に連日、軍攻撃の記事を書きまくった。具体的には違
反兵士の悪口にすぎないが、そのために軍側ににらまれ『どこから情報を入手した
か』と憲兵隊に何べんも呼び出され、憲兵曹長から軍刀をガチャガチャ突き鳴らしな
がら、きびしく『記事の出所を言え』と責めたてられた(2)」
小林記者が夕刊用に中村一等兵の召集前の交通違反の原稿を書いたことを同僚
の軍担当記者に問われるままに電話でしゃべると、盗聴していた憲兵が記者室に現
われ、大手前憲兵分隊に連行され、深夜まできびしい、取り調べを受けた。
7
「君は陛下の股肱である軍人と内務省の雇人との役人とどちらが大切と思うか」、「軍
の言うことを聞かないと、ほうりこむぞ」と脅した、という。小林は当時の言論弾圧には
新聞の抵抗は不可能だった、と次のようにも書いている。
「あの時代に軍の悪口はもちろん官僚批判も許されるはずはなく、よしんば勇敢に歯
向かってみたところで軍や内務省の検閲がこれを許さなかったろう。新聞の意識や自
覚が不十分だったというより、そういう時代だったのである(3)」
(つづく)
<参考文献>
(1) 『昭和憲兵史』 大谷敬二郎 みすず書房一九六六年刊 119P
(2) 『NHK 歴史への招待 23』 堺屋太一他著 日本放送出版協会一九八二
年刊 227P
(3) 『同右』 同 P
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/maesaka.html
8