1 日中文学文化研究学会通信8月号 湯島聖堂の中国料理 中山時子

日中文学文化研究学会通信8月号
〒178-0063 東京都練馬区東大泉 6-34-21 大泉公館
2014 年 8 月 8 日
日中文学文化研究学会
電話&fax 03-5387-9081 Mail [email protected]
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湯島聖堂の中国料理
中山時子
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湯島聖堂の中国料理講習会も原三七先生の企画です。私は昭和 21 年に帰国し、東大に入
学しました。原先生は、遅れて 23 年に帰国されました。私が聖堂で原先生のお手伝いをす
るようになったのは大学 2 年生の時からです。
北京でなさっておられた書籍文物流通会を、帰国後聖堂の一室を借りて、日本で再開さ
れたのです。書籍や書画骨董の売買、計算は原先生がなさり、私は秘書でした。やがて中
国学術書の出版や中国語教科書の編集出版、さらに出張講習中国料理試食会まで事業を拡
げられました。
文字通り、出張料理もするし、料理に関する講習もするし、作った料理の試食もする、
何でもありの講習会でした。やれるものは何でもやる、ハングリーだったのですね。そも
そもの始まりは、聖堂の空いている部屋を貸しだして夜遅くまで研究されている先生方に
ちょっとした料理をお出ししたのが、料理講習会の始まりでした。もっともその前に遠因
となるものもありました。水世嫦先生が坊ちゃんを連れて聖堂に見えたとき、ちょうどお
昼時でしたからパンを買ってきて坊ちゃんに差し上げました。当時はまだ戦後の食糧難が
続いていましたからパンを見つけてきただけでも私たちは充分だと思ったのですが、パン
だけをもらった坊ちゃんは“媽、没有菜!”と言って泣き出すんです。中国人は“菜”(お
料理)がないといけないんだと痛感しました。ちょうど白米だけ出されて喰えと言われた
のと同じなのかもしれません。はじめは本当に子供だましの料理から始まったんです。
聖堂の料理作りは食材はりっぱなものはそろわず、燃料さえ満足にありませんでしたか
ら、薪割りも私の仕事でした。今だったら消防法に引っかかる危ないことをしていました。
幸い火事は出しませんでした。私は、冬には上海で作った毛皮のコートを着てお鍋を振り
ました。
口コミなどという言葉は当時ありませんでしたが、聖堂の中国料理は安くておいしいと
評判になり、
“一伝十、十伝百”というのでしょうか、聖堂の講堂が一杯になるくらいの来
場者がありました。本当に百人来てくださったこともあるんですよ。私たちは、原先生を
中心に北京でおいしいものを食べてきた人たちに合格点をもらえるようにいろいろ工夫し
て、中国料理のレパートリーを増やして行きました。
「食文化を知らずして中国文化を知るべからず」というのは原先生のお考えで、私もそ
1
れを信奉しております。
もう一つ「料理講習集会の講師は女性がよい」というお考えも原先生の信念でした。原
先生のいう「女性」とは大学を出ている人で、今だったら問題になるかもしれません。そ
の点、私が赴任したお茶の水女子大の学生はうってつけでした。講習会は私が料理を作り
料理に関連するお話をするだけでなく、お茶大に入学したばかりの木村春子さんたちにも
手伝ってもらいました。好評でしたね。戦後の女性の社会進出の象徴のように見られたこ
とも幾度となくありました。私は意識しませんでしたが、女性が外に出て料理して、しか
も料理の文化的背景なども講釈するのですから、評判になったのです。お肉を切るときも、
「庖丁,牛を解く」
、
《荘子》にあるお話しですが、普通の料理人は一年ほどで刃こぼれをし
てしまうが名人の庖丁は十年以上使っても刃こぼれをしない、それは……という話をして、
お肉を切るのです。こんな話を聞いてもお料理が上手になるわけではありませんが、香港
や台湾から来たコックさんたちは誰もやれませんでしたでしょ、人気がありましたね。
当時東大本郷の文学部で古代オリエントを学ばれていた三笠宮殿下がたびたび見えたこ
ともありました。私たちは親しみを込めて「みかちゃん」と呼んでいました。「ここの料理
はおいしいですね」と言って下さったことを覚えています。聖堂の中国料理には、お砂糖
を使いませんでした。日本の中国料理は南方の香港や台湾出身の料理人が作る料理で“甜”
(甘み)がまさっていました。北京の料理では砂糖は使いません。
昭和 35 年に料理講習集会が設立され、木村春子さんや高橋登志子さんなどが講師を担当
されました。聖堂での調理実習と試食提供だけでなく、宴会料理の提供や宅配サービス、
出張料理なども増え、中国料理修行の青年たちや女子栄養大学を卒業した若い女性たちも
増えました。
聖堂から巣立った料理人の皆さんは大勢います。千葉県柏市に「知味斎」を開いていた
小笹六郎さん、神田小川町に「龍水楼」を開いておられる箱守不二雄さん、吉祥寺に「知
味 竹爐山房」を開いていらっしゃる山本豊さん、皆さん聖堂の中国料理研究部から育った
方々です。
昭和 35 年の料理講習集会の設立に合わせ、8 月には『中国菜』という非売品の PR 雑誌を
発行しました。週刊誌の半分のサイズ、B6 判、今から見てもよく出来た雑誌だと思ってい
ます。日本は昭和 39 年(1964)の東京オリンピックで象徴される高度成長期に向かおうとし
ていた時代で、一方中国では 1966 年からは「文化大革命」が始まります。
昭和 42 年 3 月に第 7 号を出して休刊しました。原先生が病に倒れ、長い療養生活の後に
亡くなられたからです。
原先生が亡くなられると聖堂も斯文会も雰囲気がすっかり変わったように思いました。
北浦先生や水先生、私どもが続けてきた中国語講習会から、斯文会の一理事が従来の先生
方を突然全員解雇して台湾派の先生を連れて来て中国語の講習を続けられたのです。
また中国料理講習会も開店休業状態になりました。斯文会の執行部も扱い兼ねていたの
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でしょうね。そこで木村春子さんは南谷郁子さんたちと相談して、聖堂から離れ、営利を
目指すことをしない研究会を組織しました。それが中国料理研究会の発足です。
先日 7 月 20 日にホテル・ニューオータニ 翠鳳の間で、38 年の歴史に終止符を打つと称
して「お別れの集い」が開かれました。130 名の方々が集まり盛況でした。私は、木村さん
たちに「私より先に引退するのは残念です」と申しました。でもお疲れ様でしたというこ
とも伝えたかったのです。
中国料理に加え、服飾研究部というのもあり、中国服、チャイナドレス、旗袍チーパオ
のオーダーメードを承っていました。この方面は妹の幸子が担当しました。欧陽可亮先生
の御夫人の張禄沢先生に講師をお願いしたときは大勢の参加者がありました。普通の中国
の女性が着るチーパオだったからでしょうね。評判になりました。当時は東京ではチャイ
ナドレスが作れるところは六本木に一軒ありました。中国人のための店舗でした。聖堂の
服は日本人でも着られるものを意識しました。しかしチャイナドレスを実際の生活のなか
で着ていたのは日本人では私だけだったのかもしれません。水先生は、お写真も残ってい
ますが、授業ではチャイナドレスをお召でした。張先生は『中国服の作り方』という本ま
で編集なさったのですよ。やはり書籍文物流通会での出版です。
『老舎事典』の服飾部は私が担当しましたが、聖堂の服飾研究部の経験が大いに役立ち
ました。
戦後の湯島聖堂に於ける私どもの仕事の後始末をそれぞれ取り行ない、昭和 50 年には完
全に聖堂を去りました。後日、私はジープに乗って 75 日のシルクロードの旅に出ました。
多事多難、波乱万丈の私の前半生はシルクロードの旅によって完全に終止符を打つこと
ができました。
『中国菜』と「知味」――――――――――――――――――――――――――――――
『中国菜』は昭和 35 年 8 月に創刊された。株式会社 書籍文物流通会 代表取締役 原三七
の「発刊の辞」に「書籍書画骨董の売買・中国関係書籍の出版・中国料理出張講習試食・
中国服並に婦人子供洋服の調製を営業種目としております弊会の創業満十二ヶ年を期して
『中国菜』の名の下に機関誌を得た」とある。原三七が昭和 23 年に帰国後の 12 年間の総
括とこれからの展望を掲げた文である。これに先行し「せんじつめれば『中国料理賞味の
栞』と云った内容の中国菜専門誌をだしてゆきたい」とも記している。創刊から半年後の
昭和 36 年 2 月に第二号が刊行され、その表紙には,前年湯島聖堂を訪れた胡適の書が掲げ
られている。
“一九六十,十,二十”との日付が入った“人莫不飲食也、鮮能知味也”という
書である。訓読すると「人飲食せざるは莫し,能く味を知るもの鮮きなり」
、人間誰しも飲
食しないものはないが、その味を知るものは少ないという意味である。《中庸》第 4 章孔子
の言葉である。聖堂で育った中国料理人が「暖簾分け」してから「知味」の 2 字を冠する
のは胡適の書に由来するのであろう。『中国菜』は昭和 36 年に 3 号 4 号を、翌 37 年に 5 号
3
6 号を刊行したが、7 号は 3 年余りを経た昭和 42 年 3 月に出て、以降休刊となった。国会
図書館は 6 号まで所蔵するが 7 号が欠号になっている。全国の大学にもネットで調べた限
り全冊揃っているところがない。関係者のご高配をお願いする次第である。
(この欄編集部)
研究会発表要旨―――――――――――――――――――――――――――――
〈月牙児〉(21 節)、《駱駝祥子》(6章) 二つのシーンから
平松圭子
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1. 初出誌から単行本まで
(1)〈月牙児〉
1935 年雑誌《国聞周報》12 巻 12 期、13 期、14 期に連載。
1935 年 8 月《桜海集》人間書屋に収録。
1956 年 10 月《中国短篇小説選》人民文学出版社に再録。老舎は改訂しカットした。原型に
もどるのは 1981 年頃。
(2)《駱駝祥子》
1936 年執筆,1937 年《宇宙風》
(半月刊)に連載、1 年で完了予定。
1939 年 3 月人間書屋から単行本として出版(上海)
。
1941 年 11 月重慶文化生活出版。老舎は始めて手にする。
1949 年以降、長篇では《駱駝祥子》
、
《離婚》,短篇では上記《小説選》13 篇が出版される。
(a)1955 年人民文学出版社改訂本。6 章の一部分、12 章の阮明に関する部分、23 章白房子
の娼婦の一部分と後半、24 章全部。以後 81 年までこの版が通行。23 章本と称する。
これには約 5 種類ある。
(b)24 章本(但し 23 章中に一部カットのまま)は 8 種類ある。《老舎文集》
(巻 3.1982. 人
民文学出版社)
、
《老舎全集》(巻 3.1999.同前)も含まれる。
(c)24 章非カット版。建国以前の初版にもどす。約 7 種類の版本を見る。
①1993 老舎小説全集 巻 4. 舒済・舒乙編 長江文藝出版
②1998 老舎代表作集(上) 舒雨編 浙江文藝出版
③2000 老舎小説精編 舒乙編.丁聡等挿図 漓江出版
④2009《駱駝祥子》手稿本
舒済解説 北京人民文学出版
⑤1999 現当代名家作品精選之九 駱駝出版 台北 タテ組 繁体字
⑥ ? 香港南華書店 タテ組 繁体字
⑦ ? 香港鴻光書店 タテ組 繁体字
以上(a)から(c)まで《駱駝祥子》には約 20 種の版本がある。(b)の一部カットは恐らく
見落とされたのであろう。
上述の《老舎文集》
《老舎全集》所収の《駱駝祥子》が完全に原型でないのは残念である。
〈月牙児〉も修訂版が収められている。
4
2.王潤華《老舎小説新論》(1995 年 上海 学林出版)の指摘
(1) 改訂の状況について記す。
(2) 虎妞と父親である劉四爺との関係について新説を発表している。
(3) 李漁〈夏宜楼〉と老舎〈眼鏡〉を比較する。
3.自然描写と自然景物の巧みさ
(1)《趙子曰》16、《離婚》18:スコールの後、四合院の中庭で水浸しになり遊ぶ老李の子
供ら。暑さが一時おさまってすがすがしい描写。
(2)《駱駝祥子》13:劉四爺の古稀の宴の準備のため院子の雪を掃く祥子。彼の心中の
うっ憤と懸命に雪を掃く姿。また 17:冬の終わり春先の大雑院の風景。
(3)《老年的浪漫》
:吹きまくる北風を主人公劉老人の心理にからませる。
(4) 《微神》の冒頭:悲恋を暗示するかのような曖昧な描写、四季の自然風物が物語りに
色を添えている例は多い。
4.自然の擬人化の巧みさ
《趙子曰》2:小太陽撅着血盆似的小紅嘴… これは北京の 5 月の風景である。“血盆大口”
(ぱっくりと大きく口をあける[成語]
)を借りたユーモラスな表現。
5.
〈月牙児〉と《駱駝祥子》の二つのカットシーンの比較
(1)〈月牙児〉
(21 節)
:主人公の少女が自立する方法を求めて前の小学校校長を訪ねたが不
在で、応対に現れた青年に誘われるまま始めて男性と関係を結ぶ場面。“似乎正往葉尖花弁
上灌着白”
“把春収在那微妙的地方”
“像四外的花草似的,承受着春的透入”
“我覚得他的熱
力圧迫我”の 4 か所がカットされている。
(2)《駱駝祥子》(6章):
“天上很黒”から“星様的遊戯”まで 300 字ほどカットされてい
る。お抱え車夫になった家を 4 日で辞めて人和廠に舞い戻ると、意外にも虎妞が薄化粧し、
酒と料理を用意していた。彼女に無理やり白酒を飲まされる。最初はおずおずしながら次
第に大胆になって彼女の誘いに乗ってしまう。この段落はその時の祥子の体験である。
前者は春、後者は初秋の夜。前者には川の水、がまの葉、タンポポ、柳,後者は銀河、
錯綜する流れ星、蛍。いずれも極く平凡で身近な自然界の影物に託して人物の心理感情の
動きを表わし、彼らの身体に起こるであろう変化まで表現しようとしている。しかし裏返
せばすべて読者の想像にゆだねられている。物語りの構築の巧みさである。
両作品は 35 年、36 年と近い年代に創作されている。前者は売春婦、後者は人力車夫、と
もに社会の底辺に生きる人物であり、出口の見えない中で懸命に前途を開こうともがくが、
うまく行かない人達である。このような点に二作品の共通点を発見するのも読者にとって
は楽しいことである。
老舎は 1925 年から 27 年まで、ロンドンでエジャートンを手伝い《金瓶梅》の英文訳に
協力していた。
《金瓶梅》の英訳作業は老舎にとって、後の創作活動に役立ったことであろ
う。老舎自身は何も発言していないが私は推測している。
5
何満子《中国愛情與両性関係――中国小説研究》では、沈從文《邊城》と並べて老舎を
称賛している。具体的に作品名を挙げていないが参考に加える。
参考文献
平松圭子 1999「月牙児」の版本比較 『東洋研究』第 134 号
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N さんのこと
散歩好きの絵描き(2013 年 5 月 16 日)から
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赤羽台団地近くにあった旧居に 28 年間暮らし、その間に祖母と父を看取った。目を閉じ
ると、昭和 40 年代の子供で溢れていた団地の活気が目に浮かぶ。当時の住人は有名人が多
く、平幹二朗も母親とこの団地で暮らしていた。時折、NHK の山川 静夫アナウンサーが、
トレードマークの黒縁眼鏡で颯爽と出勤する姿を見かけたこともあった。
ここは団地萌えの聖地で、公団住宅の殆ど総ての原型があった。公園の遊具も総て手作
りで、同じものはない。姪たちが小さかった頃は、我が家に遊びに来ると団地の公園へ出
かけ、コンクリート作りの動物たちで遊んでいた。
団地住人の、お茶の水女子大で中国学を教えていた N さんと母は親しかった。彼女は戦
後東大が女性に開放されてから初入学した 3 人の才媛の一人だ。中国育ちの彼女は北京大
学を卒議した後、東大中国文学科を卒業した。
彼女は中国料理にも造詣が深く、中国の珍しい食べ物が手に入ると、母と私を呼んでご
ちそうしてくれた。腐乳の中でもっとも臭い臭豆腐を食べたのも彼女宅でだ。彼女の友人
が、ドブのような色と臭気のそれを中国から持ち帰る時、臭気が漏れないように飛行機に
持ち込むのに苦労したと聞いた。しかし、味はウォッシュタイプ・チーズのような濃厚な
旨味があった。
N さんは妹さんと二人暮らしだった。大変思いやりのある方で、訪ねて帰る時、建物前の
通路に立ち、私たちが見えなくなるまで見送ってくれた。深い木立の下にたたずむその姿
を、今も夢のように想い出す。
当時、彼女は食通の会のオブザーバーをしていた。彼女の紹介で母と私も月に一度、会
に参加して珍しい料理を堪能した。会の主なメンバーは中華料理店・料亭・レストランな
どの主人と料理人たちだった。参加者には、料理研究家や、大阪の料亭「吉兆」の創業者・
故湯木さんもいた。魯山人の器や、満漢全席のクマの手などの珍しい料理もこの会で知っ
た。若くして接した、最高の料理は私の大きな財産になった。
料理人ではなかった私に、料亭の板前さんたちは様々な裏話を気楽に話してくれた。総
理や大臣クラスの偉い政治家でも、おふくろの味が大好きで、芋の煮っ転がしなどを喜ん
で食べていたとか、大企業のトップは貧しい食事で勉強に打ち込んだ人が多く、味覚は全
くダメだったとか、とても面白かった。
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N さんに最後に会ったのは私が絵描きに転向した頃だった。
「画家はとても生活が大変ですよ。大丈夫ですか」
彼女は母のことを心配していた。大陸から日本へ引き上げ、焼け野原の東京で大変な苦
労をした彼女は、生活のことが真っ先に気になったようだ。その後、彼女は練馬に家を建
てて引っ越し、会うことはなくなった。
【某氏のブログより:文責編集部】
事務局から―――――――――――――――――――――――――――――――――――
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あれば、学会口座 00170-5-790607 に手数料なしで送金ができます。また三菱東京UFJ
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紀要購入のお願い
東方書店発行の『東方』7 月号(49 頁)に紀要『日中文学文化研究』№1~№3 の販売広告
が掲載されました。
1 冊 2,000 円です。
関係する組織で購入のご検討をお願い申し上げます。
大会発表者募集のお知らせ
来年 3 月に大会を開催します。二松学舎大学九段キャンパスで午後から始めます。発表
20 分と質疑応答 10 分で、発表を希望する会員は、11 月末日必着で事務局にメールも含め
た文書で発表題目と概要(200 字程度)をお知らせください。Fax は 03-5387-9081、メールア
ドレスは [email protected] です。
紀要『日中文学文化研究』第 4 号原稿募集のお知らせ
来年 3 月発行予定の『日中文学文化研究』投稿規程です。奮ってご投稿下さいますよう、
お願い申し上げます。送付先は〒178-0063 練馬区東大泉 6 丁目 34‐21 大泉公館です。
1.標記の紀要は毎年 1 回、3 月に発行する。
2.投稿者は会員とする。
3.原稿の種別は、論文・研究報告・研究ノート・研究資料・学会動向・翻訳・書評
などする。
4.原稿は基本的に 1 万字を目途とする。タイトル・氏名・要約を英文で作成する。
○なるべくA4・40 字×30 行の設定で作成すること。○ページ入れは不要。
5.投稿は電子媒体とハードコピー2 部をつけて 9 月末日まで。
6.原稿は未発表のものとし、二重投稿を禁ずる。
7.編集委員会で査読者を決定し、その結果を採択するものとする。
7
一部・大幅修正を求めることがある。当紀要は国会図書館へ納本しています。
楊逸講演会の続報
10 月 18 日学会主催講演会について、演題、時間、参加費が決まりました。
演 題:詩の行方
時 間:13 時半開場、14 時開始、16 時終了(予定)
参加費:1,000 円(資料代金などを含む)
9 月の開催案内―――――――――――――――――――――――――――――――――
紅楼夢研究会
9 月 6 日(土)13 時~15 時 日本大学通信教育部1号館1階学生ホール
読み合わせ:
『紅楼夢』第 53 回
人と題:水野力氏:
『紅楼夢』広告 100 年史
概要:この 100 年間、我が国における『紅楼夢』の翻訳はどのようにPRされてきたか。
先ずは資料を整理し、さらにそれぞれの時代背景との関連付けを試みる。利用する資料は、
新聞広告、出版社のPR誌、全集内容見本、文庫目録の解説、チラシ、本の帯など。
連絡:前日までは水野 03-3793-8703、 当日は栗原 090-8119-6944
道教文化研究会
9 月 13 日(土) 10 時~12 時 練馬区民・産業プラザ 研修室 3
読み合わせ 『抱朴子』の輪読
連絡:石黒 080-6539-4564
日中食文化研究会
9 月 13 日(土)14 時半~16 時半
ヒルズ 884 お茶の水ビル 9 階
人と題:大塚秀明氏 戦前日本における中国料理の受容について
概要:大正から昭和前期の料理マニュアル本から中国料理の名称を拾い、日本語辞書に収
録されて行く過程を追う。中国料理の受容を通して日本人の中国観の変遷を考える。
「すぶ
た」
「ギョウザ」
「はるさめ」などを取り上げ、近年の「酸辣湯」は話題の提供を予定する。
連絡:重森 090-6001-3874
日中文学文化を楽しむ会
参加費 1,000 円
9 月 21 日(日)13 時~15 時 練馬区民・産業プラザ 研修室 5
題:日本人と『西遊記』
(事務局企画)
概要:昭和 15 年度山本嘉次郎脚本監督作品『エノケンの孫悟空』
(135 分 モノクロ 東宝)
の鑑賞を通して、日本人はどのように《西遊記》を受容してきたかを《三国志》
《水滸伝》
などと比較しながら,その流れをたどり、日本人の中国観の変遷を考える。
連絡:大塚 080-1275-2404
老舎を読む会
参加費 1,000 円
9 月 14・21・28 日(日)10 時~12 時
講師と教材:賀蘭氏 《老舎幽黙詩文集》
中国語表現研究会
参加費 2,000 円(学割あり)
9 月 14・28 日(日)13 時~15 時
講師:劉嘉蕙氏
練馬区民・産業プラザ 研修室 5
練馬区民・産業プラザ 研修室 5
参加費 2,000 円(学割あり)
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浪乗り会
9 月 14・21・28 日(日)18 時~21 時 大泉公館
講師と教材:中山時子氏
『友情与橋梁』
(『生活与会話』
)
参加費 無料
上記 3 会とも連絡:中山 03-5387-9081
上記、道教文化研究会・日中文学文化を楽しむ会・老舎を読む会・中国語表現研究会の
会場が新しくなりました。日中食文化研究会も、9 月は新会場が取れませんでしたが、今後
は練馬での開催を予定しています。
詳しくは、学会ホームページを参照されるか、事務局あるいは各会の世話人まで電話で
お問合わせください。
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