ここ - 東北大学経済学研究科

No. 759
リーン生産方式の「楽観的オプション」と体制転換
---チーム方式を中心に----
青木 國彦(東北大学)
名直喜、丸山恵也、宗像正幸(報告順)という
Ⅰ はじめに
日本的経営の批判的研究で知られる専門家であ
旧社会主義諸国の体制転換は、未だに疑念を
った。充実した報告であって多くを教えられた
表明する人も時にはいるが、むろん資本主義化
が、ただ体制転換との関りという点ではテーマ
である。それは同時に資本主義経済体制の一層
倒れのきらいがあった。
の修正の契機でありうるし、そうあってほしい。
実は私はこの共通論題の提案者(の 1 人?)
資本主義の修正はグローバルレベルでも、マク
であるが、それを思いついた直接のきっかけは、
ロ・ミクロのレベルでも、直線的にではないが、
94 年 3 月の東独企業視察であった。
「日本的経
多角的に進む。ミクロレベルでは工場の効率向
営に」特別大きな「社会主義的要素」を見る/1/
上の枠内でのいわゆる人間化と民主化である。
からではない。これから見るドイツ型リーン生
産のほうが「社会主義的」である。
旧社会主義国育ちの労働者はそれにどう反応
するのか、何かを寄与できるのであろうか。詳
日本的経営の欧米的把握であるリーン生産方
しい実態調査があるわけではないので、確たる
式が、東独企業(ないし東独工場)にも導入さ
ことは何も言えないし、私は労働経済学にも経
れ、カイゼン・アンドンその他の日本語が入って
営学にも十分な知識がないので、不十分な内容
いた。そのこと自体は、西独におけるリーン生
であることをお断りしつつ、このこととの関連
産方式ブームからすれば、当然とも言えるが、
で東独での最近の見聞に触発されて興味を持っ
工場でも、また東独の労働経済学者からも次の
たことについて記したい。
ような意見を聞いたことが極めて強い印象とな
1995 年 3 月 26・27 日に関西大学で開催され
った。すなわち、西独企業では従来の、骨の髄
た社会主義経営学会第 20 回大会は、ようやく
までしみついた権威主義的ヒエラルヒー構造の
学会名称を比較経営学会に変えることを決めた。
ために、リーン生産、とりわけドイツでその核
今大会の第 2 共通論題は、新名称にふさわしく
心と見なされているチーム方式の導入が困難で
と言うべきか、
「体制転換と経営学:日本的経営
あり、それに対して東独では社会主義時代に培
の可能性」であった。その報告者は林正樹、十
われた集団性とヒエラルヒーの緩さとのゆえ
2
/3/。
に、その導入が相対的に容易である、と。東独
これはGMのドイツ子会社アダム=オペル社
人は「社会主義の経験があるから西独よりもう
の東独アイゼナッハ工場のことである。ここで
まくやれるのだ」と胸を張っていた。
東独の工場での見聞を、当初は日本的経営の
は「労働者」のみの「日本流」への適応力が言
移植として理解したが、調べてみると、ドイツ
われているが、経営管理者についても西独的な
におけるリーン生産方式、ことにその中核をな
強い階級的権威主義がなく、少なくとも理念上
すとされるチーム方式は、日本のそれとは、作
の経営者と労働者の平等性の教育を受けていた
業ローテーション、主作業以外に保全や品質管
ことがチームワーク/4/や日本的現場主義など
理なども兼担すること、連帯責任、カイゼンや
の受容を容易にしたと言われる。要するに、こ
チーム会議など、個々の要素には共通性が多い
れまでの西ヨーロッパの企業内階級制が問われ
が、同時に基本線に違いがあるように思われて
ることになった。
日本の金属労協の調査団もこのアイゼナッハ
きた。
工場を「日本の工場のようだ」と評した。
「グル
わが国でその行き詰まりが論じられている
「日本的経営」についていまさら体制転換との
ープ作業はもちろん、事務・技術の大部屋方式、
関連で論ずる意味があるか、とも思われるかも
『5S』から生産管理の情報システムまでそっ
しれない。しかし、日本的経営が NUMMI(G
くり同じであった」/5/。
Mとトヨタの合弁工場)における実践と MIT
『ニューズウィーク』の上記の記事の約半年
の組織した調査/2/によって美化された形で「リ
前に、ドイツの新聞『フランクフルター=アル
ーン生産方式」として定型化され、それが欧米
ゲマイネ』
がこのアイゼナッハ工場について「ア
で衝撃的に受け止められ、ドイツではドイツ的
イゼナッハ人とリュッセルハイム人:ヴァルト
に修正されながら導入されている。その過程で
ブルクのオペル工場ではすでに未来が始まって
上記のような現象が発生しているとすれば、体
いる」という長いルポを載せた/6/。この記事に
制転換、市場経済移行の工場内現象の 1 つ、社
は後に触れることにする。
会主義計画経済を経験した人々の労働観が資本
「ドイツ自動車産業は 80 年代には眠ってい
制労使関係をどう受容し、どう変容させるかと
た」/7/が、ドイツ(西独)の経営者たちは MIT
いう問題として関心をそそられる。
調査によってショックを受けてリーン生産に目
現に、
『ニューズウィーク』日本版は 95 年初
覚めた/8/。そうして新設の東独工場で模範例の
1 つを作った。
めに、
「GMによると、旧東ドイツの労働者は日
本流の生産方式にすぐ適応した。小人数のグル
MIT 調査の「リーン生産方式」モデルが日本
ープで改善に取り組むやり方は、共産主義時代
的経営のはなはだしい美化であっても、もしそ
の『作業班』とよく似ていたからだ」と報じた
の美しい生産組織モデルが現実化されて既成の
3
資本主義的労使関係の改善になるとすれば、そ
とする株主集団と準終身雇用従業員集団の連合
れは MIT 調査の功績ということになる。
体であり、
企業別労組が発達しているために「企
本稿で言うリーン生産方式は、日本的経営、
業レベルでの有効な団体交渉枠組を設定すると
特にトヨタ生産方式そのままではない。それは、
いうことにおいて、世界の先頭を切って」
おり、
MIT 調査や青木昌彦氏の著作などによって美
その枠組みによって「ナッシュ解の達成(が)
化された形でドイツを含む欧米に伝わったが、
単純化」され、効率的である、と言う/11/。
しかしそのためには労組が独立の主体でなけ
ドイツではドイツモデルにチェンジされた。
MIT 調査はフォード型大量生産システムへ
ればならない。日本の企業別組合には御用組合
の明快な批判とリーン生産概念の提起と日本的
の性格が強いとの多くの意見にもかかわらず、
生産方式の光の側面を鮮明にした点において極
氏は、日本の企業別組合を「J企業の立派な構
めて刺激的かつ有意義であったと私は考える。
成主体」とみなす/12/。親企業と下請企業の関
が、同時に、それは日本型の影の側面を切り捨
係の見方も同様である。
ててしまった。
富士銀行に勤めていた娘の死(89 年)を「激
たまたま目にした批判を例示すると、丸山恵
務による過労死」と考えて訴訟を起こした岩田
也氏は、MIT 調査がリーン生産システムを 21
氏にとって組合は「出世の踊り場」であり、激
世紀のシステムと予想したが、21 世紀を待たず
務を組合に訴えるようにとの氏の助言に当の娘
にその「限界が明らかになってきた」
、その「フ
も生前、
「取りあってはくれない」と語っていた。
レキシビリティやその高い効率性は今日におい
このような例によって、朝日新聞の「戦後 50
ても変わることのない特質である。しかし、こ
年」特集の 1 つは、大嶽秀夫氏や佐高信氏のコ
のフレキシビリティと効率性のゆえに日本的生
メントを得ながら、
「過剰なまでの労使協調」に
産システムは産業空洞化と非人間的労働を避け
堕した労組の姿を描いた/13/。ここでの労使協
られず、その限界を露呈することになった」と
調とは主に労の使に対する協調であり、端的に
し/9/、野村正實氏は「あまりに非現実的な礼賛」
言えば、御用組合だという批判である。
こうした労組批判が当たっているかどうかを
「おとぎ話」と酷評する/10/。
青木昌彦氏の著作、例えば『日本経済の制度
全体的に判断する用意はないが、残業問題 1 つ
分析』は、ゲーム理論や危険負担理論など先端
とっても、多くの日本の労組が労働側の利益を
的理論が活用されているので学術的説得力に富
十分には代表していないと言わざるをえない。
むように見えるし、双対性原理をはじめ教えら
ではドイツ的にモデルチェンジされたリーン
れるところが大きいが、理論展開の前提をなす
生産方式はいかなるものか。それは日本での原
事実判断には一面性を感じざるをえない。
型とは相当に異なるように見える。ドイツモデ
ルにおけるリーン生産方式の焦点はチーム方式
例えば、氏にとってJ企業は経営者を調整者
4
にある。以下でもチーム方式を中心に見ること
しては不便極まるものであった。
にする。
ベルリンの壁開放直後の 89 年 11 月末には
なお、本稿では日本の原型におけるチーム方
KB 社幹部が、BBW 社を訪れ、早くも 90 年 1
式については詳しく触れる紙数がなく、またそ
月 22 日には両社は合弁企業設立で原則合意し、
のことは本稿の目的でもないことをお断りして
合弁会社の発足を 91 年 1 月 1 日と予定した
(実
おきたい/14/。
際は通貨同盟にあわせて半年早く発足)
。BBW
社労組側も、職場委員の全員一致(但し保留 1
Ⅱ クノルブレムゼ社と体制転換
票)で合弁計画に同意した。これは両独間最初
の大型合弁企業として話題を呼んだ。但し、両
ドイツの鉄道車両・商用車用ブレーキ製造大
社で合弁会社を設立するといっても、実態とし
手のクノルブレムゼ社(Knorr-Bremse、略称
ては BBW 社に KB 社が資本参加することであ
KB、
本社ミュンヘン)
の東ベルリン工場を 1994
って、BBW 社は KB 社の出資を得て新会社に
年 3 月に訪問した。それは龍谷大学の調査プロ
衣更えするということであった。
ジェクトの一環としての視察であった/15/が、
東独国民が両独通貨同盟への期待に胸をふく
ここで特に興味深かったのは、
「カイゼン」とい
らませた 90 年 2∼3 月には、BBW 社では、西
う外来語が飛び交っていたことであった/16/。
独大企業との合弁というバックアップを得た期
カイゼンは「継続的改善過程」を意味し、こ
待と市場経済化への緊張、部品供給がスムース
の意味を表わすドイツ語から KVP という略語
になったことなどが重なって、生産性が大幅に
も作られている。
向上した。月間売上げが前年の月平均のほぼ 3
KB 社は早くから東欧進出に積極的で、すで
分の 1 増となる一方で、月末恒例だった事務部
に 1969 年からハンガリー企業にライセンスを
門からの生産部門への人員投入による増産が不
供与していたし、89 年末にはその企業との合弁
要となり、残業時間も急減した。企業長と従業
でハンガリーに商用車用ブレーキの生産・販売
員代表の間では全員(1600 人)の雇用確保が協
会社を設立した。東独国有企業ベルリーナー=
定された。
ブレムゼンヴェルク(BBW、東ベルリン)に対
合弁原則合意調印当時 BBW 社は、従業員は
しても、1959 年以来ライセンスを供与し、1989
約 1600 人、
89 年年間売上高は約 1.45 億東独マ
年夏には、92 年 EC 共同市場を展望した生産協
ルク(これは報道による金額だが、聞き取りで
力の話し合いをしていた。BBW 社は、ベルリ
は 89 年売上げは 1.25 億東独マルク)
、
うち約半
ン中心部(オストクロイツの近く)に KB 社が
分が鉄道車両用ブレーキ、残り半分が自動車用
戦前 1923 年に建てたレンガ造りの社屋を引き
ブレーキによるものであった。BBW 社指導部
続き使っていた。この建物は 7 階建で、工場と
は、この合弁事業により希望に燃え、年間 7000
5
∼9000 万東独マルクの売り上げ増と 400 人の
ソ連から旧東独に返還されて国有の BBW 社と
従業員増員を見込みさえした。
なった。このようにベルリン工場は一旦ソビエ
だが、当時の報道が言ったように、
「販売先が
ト株式会社になった後に東独国有となったため
確保されていた時代は過ぎ去った」のである。
に、旧所有者への返還の対象とはならず、KB
90 年春から、すべての産業で西側製品が東独に
社による買い戻しとなった。
殺到し始め、ソ連東欧市場も困難を増し、BBW
合弁発足当時は、出資比率に応じて 3 人の取
社とその新会社にも市場競争の洗礼が待ってい
締役のうち 2 人が KB 社から、1 人は社長とし
た。
て元の BBW 社社長が選ばれ、ドイツ企業にお
新会社設立は当初半々出資と報じられたが、
いて重要な地位を占める監査役会は 9 人のうち
実際には発足時(会社設立総会は 90 年 6 月 6
4 人が KB 社から、
3 人が BBW 社従業員から、
日、業務開始は両独通貨同盟発足と同じ日の 90
2 人はメインバンクと主要顧客からということ
年 7 月 1 日)には KB 社が 65%、東独国営企業
になった。
管財人たるドイツ信託公社が 35%の持ち株比
合弁当初、BBW 社は技術的には「他の東独
率であり、91 年 2 月 25 日に KB 社側が全株式
企業に比べれば相対的にましな装備」
(ノイエス
を買い取り、100%子会社とした。91 年 12 月
=ドイチュラント)とされたが、オーバーヘッ
12 日に KB 社がこの子会社を吸収し、結局元の
ドコスト、ことに管理と事務の人件費の高さが
BBW 社は KB 社の一工場となった。92 年には
問題となった。従ってただちに人員削減が議論
工場を東ベルリンのマルツァーン地区に移転さ
されたが、当時 BBW 社側から合弁会社社長と
せ、現在に至っている。KB 社は、もう 1 つの
なった EJ 氏は、原則として人員削減せずに社
旧東独企業も買収し、これと元 BBW 社の両者
内配置転換で切り抜け、ことに 55 才以上の者
に対して 93 年までに総額約5500 万ドイツマル
と勤続 10 年以上の者、子持ちの単身者は解雇
ク(DM)の投資を予定したが、うち 33%は旧
されないと明言していた。両独通貨同盟発足直
東独地域向けの投資補助金/17/として国庫から
前に彼は、付属の幼稚園や診療所、バカンス施
支出されたはずである。
設も維持するつもりで、
「福利切り捨ては 1 回限
KB 社発祥の地はベルリンであり、両独分割
りの効果しかない。むしろ経営の将来に大きく
の結果、戦後に KB 社と BBW 社は別々の道を
影響する生産・研究開発コストにこそ集中的に
歩んできた。それが、再び合弁協力しあうこと
対策するべきだ」などと言明し、まだ鷹揚なも
になり、当時は両独協力あるいは両独融合の経
のであった。元の東独党機関紙ノイエス=ドイ
済面での象徴として報じられたものである。KB
チュラント紙も「これは東独国営企業の安売り
社のベルリン工場は戦後接収されて、いわゆる
ではない」と高く評価していた。
ソビエト株式会社になり、ようやく 1954 年に
ところが、業務開始直後から人員削減が始ま
6
り、
「5 月末時点で 1500 人いた従業員が、現時
た。この地は第 2 次大戦前にハッセ&ブレーデ
点では 1200∼1250 人」であり、
「厳密な数字は
社の工作機械製造工場(4000 人)があったとこ
分からない。というのは、今(90 年 7 月初め----
ろで、同社には KB 社も資本参加していた。同
青木)も人事課が従業員を呼んで個々に話し合
社は 1949 年に国有化されたが、西ベルリンで
って」おり、
「相互了解」による退職が増えてい
存続し、それを 1988 年に KB 社が支配した。
るからであった。期待が高いほど失望も深くな
それで、91 年に KB 社が信託公社から元の東ベル
った。ノイエス=ドイチュラント紙は、EJ の約
リン工場の土地を買い戻し、そこに元の BBW 社
束は単なる口約束としてホゴにされた、KB 社
工場を移転したのである。新工場での最初の操業
の企業構想は 10 日間ももたないほど場当たり
となった1993年には年間平均従業員数460人
(同
的なものだったのか、
「資本とその担い手は価値
年末は 421 人)
、売上げ 1.05 億 DM となった。
増殖を熱望している。その邪魔になる者は荒々
KB 社は、旧東独時代の国有企業「ベルリン
しくオフサイドに追いやられる。その点はカー
工作機械製造工場」
(略称 BWF)のマルツァー
ル・マルクスの時代と何も変わっていない」と嘆
ン工場の敷地の一部を信託公社から 91 年に取
いた。
得し、その一部に元 BBW 社工場を移すととも
ここには、市場経済への急激な移行がもたら
に、隣接してハッセ&ブレーデの工場や工業用
す摩擦を目の当たりにして呆然とする人々の心
圧搾空気工場を建てることになっていた。しか
理がよく出ていた。
し受注状況から計画は一部延期された。この土
BBW 社では管理部門の肥大のみならず、社
地は 98 年までに転売の際には差益を BWF 社
会主義諸国の常として過度の内製化も問題であ
(現在のマルツァーン工作機械工場)に支払う
った。大規模なガルヴァーニック(メッキ装置)
という条件付きだったとのことであり、この用
を持ち、大型機械や特殊機械、各種の形の鋳物
地取得は旧所有者への資産返還によるものでは
も内製し、大工や左官などの職人まで雇ってい
なかった。
た。工場は、これまた旧東独によくあることで
なお、旧工場の敷地と建物(オストクロイツ
あったが、7 階建てというまことに不便な建屋
近くのそれ)はある建設会社に売却され、その
であった。
また、トラック用のブレーキ製造も、
会社が建物等を改修して連邦保険公社に賃貸し
旧東独国営自動車メーカーの閉鎖に伴い、不要
ている。
となった。期待をかけていた東欧市場も日増し
新工場は、リーン生産方式の導入をめざした。
管理レベル数の削減(3∼4 レベルから 2 レベル
に縮小した。
結局、鉄道車両用ブレーキ生産に特化し、工
へ)や生産組織の製品群別再編、製品構成の圧
場も移転した。新工場敷地は、91 年に買収した
縮、各種のコスト削減策などとともにチーム方
もので、93 年初めから新工場での生産を開始し
式を導入し始めた。個人としてではなくチーム
7
意を喚起した。
(5∼15 人)として目標を持つ。これらの措置
によりコストの 30%削減を達成したと言う。
それに対してベルリン工場が導入しようとし
チーム組織では、
「ドイツでは、例外とまでは
た新制度は、第 1 段階においては、機械稼働率
言えないが、まだ始まったばかり」
(当工場生産
を基準とするチーム単位のプレミアムであり、
プ
準備責任者 AK 氏)の作業ローテーションも取
レミアムは稼働率 65%の際に基本賃金の約 3 分
り入れられたが、まだローテーション範囲は広
の 1 相当額であった。この方式では基本賃金の
くないとのことだった。
半分相当のプレミアムも可能であり、
この時点で
ドイツではリーン生産の核心はチーム組織に
西ベルリンの 92%である賃金水準の補充の可能
よる労働編成(チームワーク)と捉えられてい
性を提供する方式であったと言う。
ところが目下
る。当工場には 94 年 3 月時点で労働者の 3 分
受注不足のためにこの方式は適用できず、
納期と
の 2 のチーム編成が完了し、半年後に全体が完
品質指標にリンクさせることになった。
成する予定であった。チーム代表は、後述のド
「従業員を必要最小限にまで削減し予備人員
イツ型チームの常のように、チームメンバーに
を組み込んでいない。もし増産が必要であれば、
よる互選である。チームは自主管理機能を持ち、
現人員で何とかしなければならない。すなわ
それに応じてマイスターの役割もチーム内ない
ち・・・・各人が色々の作業をし、自発的に左右を
しチーム間の調整やカイゼン管理、教育などに
見回して改善点を探す」ことが要求されており、
比重が移っている。マイスターは 90 年には 13
「インディビデュアリストやスペシャリストか
人いたが、94 年 3 月には 4 人のみであり、1 人
らオールラウンダーへの移行」が必要である、
のマイスターが幾つかのチームを管轄している
と言い、そのためのプレミアムも用意している
/18/。
と言う。これらは日本発のリーン生産の諸要素
94 年から個人別ではなくチーム別の指標の
である。生産チームには直接の操作要員以外の
評価による「業績志向賃金制度」も導入し始め
補助的要員はもはやほとんど配置されず、共同
たと言う。そこで、AK 氏にこの新賃金制度と
責任で働き共同の成果で評価され、毎月業績プ
旧東独でホーネッカー政権期に推進された「業
レミアムが支給され、利潤分配としてコスト削
績志向賃金政策」との異同を質問してみた。旧
減プレミアムもある。
東独のそれは、基本給部分と一定のノルマを品
チーム方式は不生産的時間の大幅削減にも効
質基準も満たして超過遂行した場合に支払われ
果があった。93 年初めは、新工場での習熟の必
るプレミアム部分と、交代労働その他労働形態
要もあって、機械操作準備時間と不生産的時間
に関する諸手当とからなっていたが、彼は、そ
に各 25%取られ、機械の純稼動時間率は 50%
れは西側で言えば出来高賃金制度であり、業績
にすぎなかったが、93 年末にはそれが 75%に
評価指標が個人別の労働成果であったことに注
なり(残りは準備時間 13%と不生産的時間
8
12%)
、94 年にはさらに上昇していると言う。
をどうするのかがより問題となる。この点では
KB 社ベルリンはまだ経験を積んでいないよう
チーム方式は 2 つの仕組みを基盤にしている。
第 1 に「柔軟な労働時間」である。といっても、
である。恐らく成績評価をチーム別にすること
日本の 1988 年改正労働基準法に言うフリータ
により解決しようとしているのであろうが、そ
イム制とも、各人の出社・退社時間をコアタイム
れにはまた問題がありうる(後述)
。
以外は自由化するフレックスタイム制とも異な
ベルリン新工場には本社から 2 人の幹部が派
る。これは所定労働日の弾力的運用、つまり受
遣されたが、それ以外の従業員は幹部を含めて
注状況にあわせて柔軟に労働日を長くしたり短
すべて BBW 社時代からの従業員である。
くしたりすることである。従って、フレックス
AK 氏は、かつて 90 年 3 月に KB 社ミュンヘ
ワーク制の一種と言えよう。受注が多い時には
ン工場を見学して BBW 社の生産設備の遅れに
労働日を長くし、少ない時には短くする。月単
驚いたが、
「今やミュンヘンの同僚たちに生産組
位で所定労働時間内であれば長時間労働日も残
織について多くのことを示し、彼らを援助する
業扱いとならない。逆に、短時間労働日も操短
ことができる」と誇らしげに語った。
労働としない。目下は全体としては受注が少な
Ⅲ オペル社
いので、この方式で切り抜けたいというのが経
営幹部の意向である。
リーン生産への再編は東独工場が先というわ
第 2 に、チームによるカイゼン、つまり「継
けではなく、西独でも、というより、まずは西
続的改善過程」
(KVP)であり、目下導入中で
独、特に自動車産業で試みられた/20/。ここで
ある。生産現場には改善の成果や目標とチーム
はオペル社を取り上げよう。オペル社では東独
メンバーを図示したポスターが丁度かつての
工場がモデルの役割を果たしているからである。
「社会主義競争」ポスターの代わりに張られ、
「目下日本以外で新しい生産構想によって操
成果を示す現物の展示もある。
業しているすべての自動車生産工場は、日本企
チーム組織と職務転換により生産効率や技能
業の海外工場か日系合弁企業であるが、ただ 1
水準が上がるとしても、それが自主管理機能と
つ例外がある。それがわがアイゼナッハ工場で
結び付いてチームエゴイズムとなると、工場全
あり、それは初めからチームワークをリーン生
体での効率を保障するとはかぎらない。そこで
産の鍵とした」
。これはオペル社取締役 PE 氏
調整機構やその効果的運用(日本型におけるカ
(後述)の言明である。
ンバンシステムや集中的人事管理)が重要とな
オペル社の東独アイゼナッハ工場は92 年秋か
ると言われる/19/。ドイツ型チーム組織にあっ
ら生産を開始し、94 年 9 月時点で従業員約 1800
てはチーム代表互選に見られるように、自主管
人(当時 83 人を募集中)
、日産 600 台余であっ
理性が強い。それだけにチーム間の調整と管理
た。従業員のうち約 1000 人が元は旧東独国営
9
企業で小型乗用車ヴァルトブルクを生産してい
操業準備では、オペルの親会社たるGMと日
たアイゼナッハ自動車工場(Automobilwerk-
本メーカー(トヨタやスズキ)の合弁会社で働
Eisenach、略称 AWE、90 年末 7700 人、91 年
いていた米国人がコンサルタントとなり、
「ゲン
4 月ヴァルトブルク生産停止)の従業員であっ
バ、ゲンブツ、ゲンジツとは何か」などを説明
た。オペル社の他の工場では 94 年に 2000 人の
したものである。特権の廃止とチーム精神の尊
人員削減を進めていたが、アイゼナッハではコ
重ということから、幹部も含めて全員がグレー
ルサの需要増に応じるために 83 人を追加採用
のズボン、白いシャツにネームプレート、ノー
した/21/。
ネクタイとなり、西独の新聞は「幹部が清掃会
この AWE 社をめぐる騒動は、両独統一後の
社のユニホームを来た従業員のように見える」
ドイツ政府の対東独地域経済政策の一大転換の
と驚いた/24/。
きっかけとなった/22/。AWE 社は戦前は BMW
従業員なら誰でもいつでも自由に立ち入るこ
とのできる開放的な事務所、全員同じユニフォ
社の工場であった。
オペル社は 90 年 12 月にドイツ信託公社から
ーム、支配人から守衛までいっしょの駐車場、
AWE 社の利用地を 3000 万 DM で取得し、10
グラスノスチ(経営評議会はいかなるマネジメ
億DM の予定の投資で新工場を建設することと
ント会議にも出席できることになった)
。従業員
した。2600 人の雇用と遅くとも 92 年から年産
は各々7 枚の白いシャツと 5 本のグレーのズボ
15 万台という予定であった/23/。投資額の約 3
ン、夏用の T シャツ、冬用の厚手のセーターを
分の 1 は国家補助金が得られる。
受け取った。マネージャーもライン作業員も同
37 万平米という広大な敷地に、雇用は減った
じ品である(ND ルポ)
。日本風にブルーカラー
が、予定通りの額の投資がなされ、92 年 9 月
とホワイトカラーの隔たりを少なくしようとい
23 日に連邦首相コールも出席して大々的なオ
うわけである。
ープニングセレモニーがあった。子会社(Opel
FAZ ルポによれば、オペルの西独リュッセル
Eisenach GmbH)の形式をとり、小型乗用車
ハイム本社工場(オメガやベクトラなどを生産)
のアストラとコルサを年間 15 万台生産する予
の WS 氏は、3 年前まで自分の部屋を持った保
定であった。オペルの計算ではアイゼナッハ工
全責任者であり、
「価値のある 1 人」であった。
場は小型車ながら 1 台の生産に 20 時間、他方
ラインに障害が起こると、どんなことでも、彼
オペル平均では 31 時間、ヨーロッパ平均は 36
が駆けつけて欠陥を除去していた。ところが、
時間(FAZ ルポの数字とはヨーロッパ平均値が
リーン生産方式が導入されて、労働がチームで
異なるが委細不明)ということで、
「ヨーロッパ
評価され、各人が小規模修理を自分でできるよ
最新鋭の工場」と自賛された。ボッシュなどの
うに要求されることになれば、彼の職務のかな
部品メーカーも近辺に進出した。
りは余計になる。彼は、アイゼナッハ工場がそ
10
うした保全用の特別部隊を全く導入せず、ぜひ
はチームとかグループ作業とか言うものは、か
必要な整備作業も外注することにしたのを見て、
つてはコレクティブと言ったものであり、今で
彼の地位に将来性がないことを予感し、早い目
は継続的改善過程とかカイゼンと言うものはか
に生産現場に移った。そこで彼はマイスターと
つては社会主義競争と言った、かつては不足経
なり、
「価値のある」地位を維持した。
済ゆえに自分で道具を作った(り、作業の相互
こうして、リーン方式化が工場内のヒエラル
手伝いをした----青木補足)ものだが、今ではそ
ヒーを崩し、主に外国人労働者が担ったライン
うした工夫精神がリーン生産方式の最新流行と
の単純労働者とドイツ人専門労働者による分業
して要求されている、と。
いずれにせよ、アイゼナッハで始められたこ
が解消され、
「戦後西独の工業化モデルの終焉」
とを追って、リュッセルハイムの従業員は自分
と評された(FAZ ルポ)
。
アイゼナッハ工場は 1 台の車の生産時間につ
をすっかり変えなければならないことになった、
と FAZ ルポは言う。
いてヨーロッパ平均の 6 割くらいになったので
FAZ ルポと同じ頃の ND ルポも、元は長年の
あるが、それについて 2 つの見方を FAZ ルポは
間 AWE 社でヴァルトブルクを作り、今オペル
紹介している。
第 1 に、カナダ人工場長の見方で、人的資源
工場で働いている中年労働者たちから、旧東独
について 2 度とないような好条件であったこと
時代に「我々がいつもプロパガンダしてきたこ
と大規模な設備投資(投資補助金を含む)がな
とがここで行われている」とか、
「フレキシビリ
されたことの成果とするものである。AWE 社
ティとアドリブ、これはまさに我々の所では以
従業員約 1 万人から、チームワークへの適性テ
前に普通のことだった」
、チームは AWE 社では
ストを含む慎重な選考によって選ばれた少数者
コレクティブであった、各人に毎月 3 つの提案
(この点では第 V 節も参照)が、旧 AWE 社工
を義務づけるカイゼンは旧東独では「革新者運
場も利用した何ヵ月もの講習を受けた。従業員
動」
(いわゆる社会主義競争の一種)と言ってい
の平均年齢は 33 才と若く、しかも外国人は 6
たものと何も変わらず、しかも形式主義と官僚
人だけと均質である。これは高度にコミュニケ
制という点でも同じである、ゼロディフェクト
ーションに依存するチーム方式に適している。
生産も、オペルがまだ別の世界の存在であった
「アイゼナッハは古典的な西独自動車工場とは
時にすでにアイゼナッハでは語られていた、と
全く異なる社会構造」であり、アイゼナッハの
聞き取った。
おそらく事実は 2 つの見方の混合なのだろう。
奇跡は特殊ケースとみなされる。
第 2 に、従業員、特に元の AWE 社労働者の
オペルにおけるチーム方式導入の議論と試
見方で、新方式は「すべて周知のこと」だから
行はまず西独にあるボッフム工場でおこなわ
すぐに成果があがった、と言うのである。今で
れた/25/。
11
70 年代の労働人間化プロジェクト(国家助成
トプロジェクトについての協定が結ばれ、それ
つき)により一時、
チーム方式が試みられたが、
がその後のオペルのチーム方式の基本となり、
すぐに廃止された。ボッフム工場経営評議会は
91年3月締結の同社経営協定にも盛り込まれた。
84 年にチーム導入を要求したが、当時の経営側
ミンセン氏らは、ボッフムの 88 年協定とそ
はそれを拒否した。ところが米国GMの経験
の後の発展により「日本モデルの単純コピーで
(NUMMI など)から、西独のGM系工場でも
はないチームワークの 1 つの形態が形成された。
80 年代半ばからチーム導入論が高まり、当時の
むしろドイツの特殊な条件のもとで、日本モデ
ボッフム工場長が 87 年夏に「製造における新
ルと 70 年代の労働人間化構想に強く依存した
しい組織構造」という研究をまとめ、さらに 88
考えとの総合(eine Synthese)が形成されたと
年に「アダム=オペル株式会社の製造部門にお
思われる。これは企業にとっても労働者にとっ
けるマイスターの機能と地位」についての構想
ても許容可能なバリアントである」と評価した
が作成され、その中でチーム方式の導入が勧告
/27/。
ではオペル社のリーン生産構想はいかなるも
された。
この勧告は NUMMI などのGMの経験を肯
の か 。 ま ず 同 社 の 生 産 担 当 取 締 役 PE
定的に評価したものであり、チーム方式の長所
(P.Enderle)氏による説明を紹介し、次いでド
として、品質と生産性の向上、従業員のイニシ
イツ金属労組 KBO(K.Benz-Overhage)氏の
アチブと自己責任の促進、監督者(マイスター)
見解を見よう(次節)
。両者いずれについても、
削減、労働の満足感とモチベーションの向上、
以下は、93 年 3 月にマンハイムで開催されたシ
出勤率向上、技能資格向上とフレキシブルな労
ンポジウムにもとづいている/28/。
ノヴァク(H.Novak)氏は、このシンポジウ
働システム、
モノトーン作業の削減などをあげた。
チーム方式に対して経営評議会と金属労組は
ムにおいて、ドイツにおけるチームワーク概念
上記の経過もあってただちに同調した。但し、
はすでに 1919 年の『ダイムラー工場新聞』の
労働側にとって、NUMMI を典型とする日本モ
ランク(R.Lang)論文にあり、それは第 1 次世
デルは一面的に企業目標のみを追求し労働強化
界大戦後の経済再建とともに労働疎外克服をめ
と人員削減をはかるもので、拒絶対象であった。
ざしたものであり、
「トータル加工」
「職務混合
例のパーカーらのチーム方式批判/26/がすでに
作業グループ」
「概観知識」
「作業の多様性」
「調
伝わっていたのかどうか知らないが、米国から
整」
「協力」等々、後に(ドイツでは主に 1970
少なくとも同種の情報があったのだろう。また、
年代に--青木)
「労働の人間化」論争でテーマと
西独では元々日本ないしアジアの労働風土への
なる諸概念が見られたことを指摘している。
なお、本稿執筆中(95 年 7 月)に思いがけな
警戒感は強い。
労使交渉の末、88 年 12 月に最初のパイロッ
いことが起った。報道によると、工場建設の計
12
画、立案を担当するオペル社幹部社員が建設業
する国際競争を生き抜くための新生産システム
者からリベートを受け取っていた疑惑が表面化
がリーン管理とリーン生産であり、そこにはコ
した。彼らは発注に際して特定業者を有利にし、
アビジネスへの集中やカイゼン運動、カンバン
見返りに豪華旅行や自宅改修の費用を負担して
方式その他幾つかの要素があるが、チーム方式
もらうなどしたらしく、
既にPE 氏を含む約250
の形成こそ新しい企業構想の核心と考えてい
人(うちオペル社員は 65 人)が捜査対象にあ
る。
これは「リーンな工場の真髄はダイナミック
がった。費用を転嫁されたオペルの被害額は、
この時点の試算額 1100 万マルク(約 6.6 億円)
なチームワークにある」/30/とする MIT 調査を
を大幅に上回るだろうとの予想もある。7 月 20
文字どおりに、あるいはそれ以上に受け止めた
には PE 氏とオペル監査役 2 人とが辞任した
形である。しかも、
「リーンな生産の導入を図っ
/29/。相前後してドイツ=フォード社やフォルク
ている工場の調査で分かったのは、労使間に互
スワーゲン社にも類似の疑惑が報道されている。
恵的な関係がないと現場の協力が得られないと
現時点では容疑にすぎないが、もし事実なら、
いうことだ。経営側が労働者の熟練を評価して
少なくとも 3 社に共通であることと大がかりで
おり、彼らを職場に定着させるためなら犠牲を
あることから、ドイツ自動車産業の「企業文化」
払い、喜んでチームに権限を委譲する姿勢が必
の問題ということになりかねない。
要だ」/31/からこそ、単なる組織図の変更では
なく上記のように「企業文化」の変革の問題と
さて、ドイツにおけるリーン生産方式の推進
者の 1 人 PE 氏は、まず松下幸之助氏による欧
して受け止められた。
米経営批判を取り上げる。すなわち、古いテイ
これが生産効率向上とともに、労働の人間化
ラー主義モデル、つまり厳密な分業原理に従っ
や企業内ヒエラルヒー秩序の緩和と民主化の方
ているのは企業のみではなくマネージャーの頭
向に作用するなら、歓迎されるところである。
自体もであり、彼らは、考えるのはボスであり
理念はその実態化の様相で検証されねばならな
従業員はその指示によって工具を動かすもの、
いが、同時にこうした理念転換自体も意義のあ
と思っているという批判である。PE 氏は、こ
ることである。本稿はこの理念型が具体化され
の批判は「なお正しいか、それとも頭の革新が
たドイツの実態についてはまだ十分承知しな
すでに始まっただろうか。確かにそうした一般
い。
その理念を PE 氏の言葉で記すと、
「マネジメ
的認識は定着してきた。・・・・しかし哲学的な認
識から実際の実現までは長い長い道のりであり、
ントは F.W.テイラーの原理による、古い、どち
新しい企業文化は一朝一夕に」できあがるもの
らかと言えば保守的な組織構造から脱却しなけ
ではない、と言う。
ればならない。つまり、集権化、多段階のヒエ
PE 氏は、
「新しい企業文化」を形成し、激化
ラルヒー、役職権威主義、外側からの管理から
13
の別離である。それらに代わるのは、分権化、
に反映することもできるとされる。今後チーム
フラットなヒエラルヒー、専門家の助言者的役
独自の予算も設けると言う。自主管理権には同
割、チームにおける自主管理、・・・・フレキシブ
時に整理整頓からバカンス調整、人員融通、紛
ルなプロセスオリエンテーションを課題とする
争自主解決、品質管理、故障への対応、作業量
新しい文化」であり、
「指示を与える者と与えら
の変化へのフレキシブルな対応などに至る義務
れる者の間の固定的な役割分担を取り払い、代
が伴っている。チームがフレキシブルな対応を
わってチーム志向の協力」の樹立である。
するためにはメンバーの職業教育水準の底上げ
新システムは日本型の模倣にすぎないとの批
が必要であるが、これについてもマイスターと
判に、PE 氏は、基本アイディアについてはそ
の協力の下にチームが面倒を見ることになって
れを否定せず、
「しかし同時にオペル独自の構想
いる。
も」あるのであって、例えば従業員選抜方法、
定期的な開催が権利でも義務でもあるチーム
交代制、所定労働時間内の利用時間などが日本
会議をいつ持つかが大きな問題である。労働時
とは全く異なるものであって、
「こうした点で
間中にラインを止めるわけにはいかないという
我々は全く新しい道に踏み出した」と言う。
経営側と時間外に会議を持つつもりはないとい
さらに、後述のように、チームリーダー(チ
う労働側の利害調整として、ある種の交代モデ
ームスポークスマンと言う)が選挙制、しかも
ルを試行中であると PE 氏は言うが、詳細は記
チーム内からの選出であることが重要な違いで
されていない。
オペルは、PE 氏の報告時点で、全従業員の
ある。
オペルのチーム組織の原則について紙数の都
50%以上をチームに組織したと言う。94 年 6
合で詳細は省くが、要するに、チーム内は基本
月の金属労協調査によれば、オペルは 100%、
的に自主管理とし、メンバーはできるだけ長期
ドイツ全体では 10%程度である/32/。
に固定する。その代表もメンバーによる秘密選
このような理念を聞けば、社会主義国育ちの
挙で選ぶ。作業ノルマは個人にではなくチーム
労働者が、何か聞いたことがあるような、と思
に設定され、その達成を上司としてのマイスタ
うのは大いにありうることである。モスクワに
ーが監督する。各チームは 8∼15 人からなり、
進出したマクドナルドの非権威主義的労務管理
1 人のマイスターが 4∼5 チームを担当する。マ
にソ連人従業員が感激したように、社会主義諸
イスターにせよ保全や生産技術、労務などの専
国にも、国による強弱の差はあるとしても、多
門家にせよ、チームに対しては指示する人とし
かれ少なかれ権威主義的ヒエラルヒーが存在し
てではなく助言者としての対応が要求されてい
た。しかし、無階級化をめざす労働者国家であ
る。チームはチーム会議に彼らを助言者として
り経済的平等と連帯を旨とする集団化経済であ
呼ぶ権利を持ち、それを通じてその意見を彼ら
るという国家理念が教育されていた影響は大き
14
経営側はチーム組織について主として人的・
い。
従業員が一定以上の教育水準にあれば、同じ
物的資源の利用効率向上を至上とするリーン管
課題をこなすにも権威主義的階層区分に基づく
理の手段として位置付けつつ、同時に、対労組
指令によるのと、
「現場に相談する」姿勢のやり
の思惑から、疎外の克服の手段としての位置づ
方とでは大きな差が出るだろうことは容易に想
けもなされている。これが両立するのかどうか。
像される。現に西独の工場では、現場の声を聞
労組側の言い分を見よう。
こうとしてこなかった幹部の従来の姿勢への批
Ⅳ ドイツ金属労組
判があったと言われる。従って理念転換自体に
も価値はありうる。
経営側のリーン志向に対する労働側の代表的
同時に、非現実的ひびきも見え隠れする。特
見解として、上記マンハイムにおけるシンポジ
に、成績評価をチーム別に徹することなど可能
ウムでのドイツ金属労組 KBO 氏の見解を見よ
ではなく、一時的には可能でも長続きしないと
う。
思われる。そんなことをすれば、人より多く働
彼女は、まず 80 年代までの様子について、
くことのないようにという例のソロバン勘定
金属労組が長年、労働の人間化の観点から、テ
/33/が頭をもたげる。旧社会主義国の教訓の 1
イラー主義的抑圧や過度の分業からの離脱、質
つである。
の高いチームワークを要求してきたこと、経営
人にとって労働は単なる生活手段ではなく、
側はそれを拒否して、分業とヒエラルヒーの緩
生活自体でもあるが、仮に世界に映る日本人的
和ではなく機械化と自動化に賭けたこと、それ
労働観/34/が事実であっても、そのことは労働
によりある程度の生産性・品質向上が達成され
が生活手段で(も)あることを覆すものではな
たが、資本収益性が悪化しするとともにフレキ
い。そうであれば、個々の労働主体にとっての
シブルな複合的テクノロジーと旧来のテイラー
労働という給付と生活手段(賃金)という反対
主義的組織構造の結合に将来性がないことが分
給付の間の比例性が損なわれると、給付意欲が
かったことをあげる。
減退するのは当然である。チーム組織でも成績
収益性悪化の内容の記述がないが、トヨタ田
評価のチーム別と個人別を、後者を中核として
原工場(1991 年 10 月操業開始)の事例と基本
うまく結合することが不可避なはずである。そ
的に同じことだろう。深刻な労働力調達不足に
うなると、チームの自主管理もかなり違ってく
加えて新人退職率が激増(91 年には 85 年の 4
るだろう。他方、上述のように、チームを自主
倍)し、多数の不熟練臨時工に頼るという状況
管理化するにはチームエゴイズムのコントロー
を完全自動化によって打開しようとしたのが田
ルのためにチーム別評価が必要となる。ここに
原工場であった。だが、特にエンジン等の車体
1 つの矛盾があると思われる。
への組み付け自動化は巨額の投資を要したが、
15
設備の巨大化・複雑化のために車種変更や減産
職制による締め付けのきついヒエラルヒーに強
などへのフレキシブルな対応ができず、現場で
く組み込まれ」
、
「最大限の成績と労働密度をめ
修理が難しいために保全員が増加して省力化効
ざす人事考課」がなされ、
「協調的態度と----ヨ
果が上がらなかった。要するにコスト高と柔軟
ーロッパ人からすれば----個性や批判、建設的な
性の喪失となった/35/。
争いの放棄」が要求される仕組みである。
ところが、日本企業の進出と欧米によるリー
氏によれば、ドイツの経営側のチームワーク
ン生産模倣の中で、ドイツでも 90 年代に入っ
導入動機は当初は「ほとんど専ら合理化と生産
て「チームワーク導入に対する消極性がほぼ決
性向上」
、つまり日本的リーン生産の追求であっ
定的に変化した」
。このことがドイツの労組にと
た。従ってチームは何よりもカイゼンのための
って日本発の新生産方式がもたらした歓迎すべ
組織であり、ムダの排除によりドイツ自動車産
き革新力であったと思われる。それは人間化と
業では支払い労働時間の 35%相当の時間を節
民主化のバネになりうるからである。しかし同
約できると期待された。また生産性向上も 15
時に、KBO 氏にとって日本的生産システムは
∼30%の効果が期待された。しかし短いタクト
「ハイオルグ(high-org)と古い搾取のミックス」
や分業構造にはあまり手をつけようとせず、従
であり、その波及は労組にとって重大な危険の
業員の技能向上への取り組みも弱いものであっ
側面を蔵していた。
た。
ここで氏が日本的生産システムのハイオルグ
他方、金属労組が要求するチーム方式の「ド
面としているのは、
「チームワーク、カイゼン
イツモデル」は、労働内容を豊富化し技能水準
(KVP)
、ゼロディフェクト・ゼロバッファー原
を高めるための組織であり、自主管理組織であ
理、研究開発の効率的組織、部品供給機能の外
った。従って、専門労働者と不熟練労働者を高
延的統合、従業員コンセンサス志向を特徴とす
い技能水準で混合するような、教育と連帯の機
る」システムである。これには「労使協調の労
能を持ったチーム原理、短いタクト拘束の廃止、
働組合、国や地方自治体による企業保護の諸制
高い行動の自由度、分権的で弱い職制構造を要
度」/36/も加えるべきだろう。
求してきた。カイゼンも「従業員のモチベーシ
「古い搾取」として KBO 氏の念頭にあるの
ョンとやる気によってのみ達成されうる」ので
は、
「フレキシビリティのクッションとしての長
あり、従って「信頼の構造、テーマ選択の自由、
時間労働、部品供給産業における低賃金と劣悪
人間的な労働・給付条件を前提とする」というの
な労働条件、臨時工や季節工など多数の周辺労
が労組側の考えである。
働力、高い労働密度」である。また、日本にお
労組の考えでは、どちらの原理が優勢となる
けるチーム組織も、社会的文化的位置が違うの
かで、チームは「自己搾取」の組織にも、労働
みならず、
「オートノミーの余地の小さい、下位
者の「自己実現」と「細かい分業と強いヒエラ
16
ルヒーからの離脱」の組織にもなりうるもので
係争が少なくない)
、
その議題は、調査によると、
あり、労組としてはチーム方式導入過程に積極
社会的テーマと企業経営事項とのバランスが取
的に介入することにより労組側の原理の実現を
られていると言う。
ところがこのことが労組職場委員や経営評議
図った。
その結果、KBO 氏によれば、多くの点で労
会という既存の従業員利益代表の仕組みに矛盾
組側の満足できる協定が獲得できた。
全金属(経
をもたらした。チームスポークスマンは直接選
営者団体)の「イデオロギー的勧告」を打破し
挙による、つまり直接民主主義によるチーム代
て、チームワークについても経営評議会/37/の
表である。さらに職場や工場などのレベルでチ
共同決定権、チームの自主的組織化の原則(自
ームスポークスマン委員会が設置されることも
主管理)と広範な権限などが大多数の場合に確
ある。それは新たな労使協議ルート、しかも経
保された。
営側に取り込まれたそれの形成となりかねない。
経営評議会はチーム内の出来事、特にカイゼン
すべてのケースで、連帯原理が盛り込まれた。
つまり、成績の良い者だけを選別してチームを
による労働強化の過程をコントロールすること
編成するという、
「オリンピック級のチーム」の
ができず、そのため経営評議会の持つ共同決定
形成という考えではなく、技能や就労事情の異
権が空洞化しかねない。
なる従業員も 1 つのチームを構成すべきだとの
従って、チーム制を経営評議会や労組職場委
原理である。だが、
「実際には成績の悪い者をこ
員にとっての危機要因と見て忌避する考えも労
っそり追い出すという問題が存在する」
。
組内にはある。
しかし KBO 氏は、リーン生産化による工業
これは米国GMの実情でも指摘されたことで
労働形態の変化およびそれに伴う企業内の労使
ある/38/。
「個人的および集団的な技能資格向上」の原
関係の変化は不可避であるとみなし、それ故に
則がすべてのケースに盛り込まれたが、これも
労組側も既存ヒエラルヒーの変化、つまり責任
実際には企業により大きな差異があり、メルツ
が下に委譲されることに対応しなければならず、
ェデス=ベンツのラシュタット工場のような模
既存の従業員利益代表システムが「現場とチー
範もあれば、具体化されない場合もある。
ムによりしっかり根付く」方向こそが必要だと
チーム制により、経営協議会の共同決定権だ
考える。チーム民主主義は利益代表システムの
けではなく職場における共同決定権も拡大した。
「下」への拡大であり、そこには経営内の日常
選挙で選ばれるチームスポークスマンがチーム
の過程の民主化のチャンスが存在するのだから、
代表となり、チーム代表は職制ではなく命令権
これによりむしろ「職場委員の活動を改善し、
も懲戒権も持たず、チーム会議は労働時間中に
経営内の利益代表全体を活性化するチャンスも
持たれ(但し会議中の代替人員配置については
増大している」
。
17
環境の改善などである。しかし民主化について
経営側の内部にも問題があり、特にヒエラル
はまだ聞こえてこない。
ヒー構造を分権的なチームワーク構造に変化さ
せることへの抵抗が存在する。また節約と効率
KBO 氏は、
「ドイツと日本は将来の労働組織
向上の目標や短期の利潤期待が下位職制への圧
と技術姿態、企業組織と企業の社会的責任の理
力増加となり、
「従業員の着想力を閉ざしたまま
想像を発展させ、実現するために、相互に学ぶ
にするというリアクション」が引き起こされる
ことができるだろう。この『楽観的オプション』
ことがある。そこで、上記の PE 氏のがそうで
にとって決定的なことは・・・・新しい生産構想の
あったようにしきりに「新しい企業文化」が経
枠組みの中で人間の能力とフレキシビリティ、
営側から言われるが、その建て前と実態の間に
従業員のモチベーションと参加の意義が増大し
「明白な矛盾がしばしば存在し、それがモチベ
ており、そのことが----生産性という理由からも
ーション喪失という結果になりかねない」状況
人間化という理由からも----民主的な企業構造
がある、と KBO 氏は言う。
を要求している、ということである」と強調す
る。そのために氏は、共同決定権の拡大、技能
資格向上や決定参加の時間の保障、ヒエラルヒ
Ⅴ おわりに
ーと官僚的的コントロールの削減、職制の新し
KBO 氏は、日本発のリーン生産化の波を産
い役割などを上げる。
業進化の過程ととらえつつ、日本モデルに付随
日本の金属労協幹部も、ドイツ的多能工制度
している「古い搾取」を排除し、さらに民主化・
(状況変化への柔軟対応力を主とする日本型に
人間化の要素を注入しようとしている。それが
対して、複数工程の受け持ちやより難度の高い
リーン生産方式のドイツモデルである。その実
仕事の修得を主とする)について、
「現実の作業
現可能性を彼女は、ドイツや北欧の動きを参考
ではテイラー主義からの脱出という点で、今後、
にしたホンダやトヨタの新工場の様子と日本の
ドイツに学ぶことも多そうである」としている。
通産省の「21 世紀の生産戦略」研究などの中に
氏は、
チームの自主決定が尊重され、
「作業長
(職
見る。
「ドイツではまだ多くのマネージャーが勘
制)ではなく、選挙によって選ばれたスポーク
違いして日本的な成功モデルの後を追っている
スマンがメンバーの意向を聞き、作業の持ち場
が、日本は従来のトヨティズムを修正している」
。
を時間や日単位で決める自主運営方式」にも着
目している/40/。
トヨタ宮田・元町両工場やホンダ高根沢工場
などにおける工場改革ついて「人間化」の観点
「楽観的オプション」を日本でも実現するた
からも多かれ少なかれ肯定的な評価がわが国で
めの前提は真の独立労組の存在と工場への社会
もなされている/39/。つまり、完結工程化や作
的規制であろう。
ドイツでチーム方式がいかに人間化に位置づ
業負担軽減、自動機のインライン化、工場内外
18
けられようと、ミンセン氏らが言うように、あ
課題でもある。
今後ますます工場への社会的規制
くまで「チームワークは労働力活用の戦略であ
がなされるだろう。工場とて「無用のものは立ち
り、
その限りでは組織的な合理化の 1 形態」
、
「労
入るな」/42/というわけにはいかない。労組の独
働力の協業能力に目を向け」た合理化形態であ
立性や人材蓄積が不十分なら、なおさらである。
り、
「まさにそこからチームワークのアンビバレ
ところで、本稿としては肝心の東独労働者で
ンスが生ずる」/41/のであるが、旧社会主義諸
あるが、オペルに就職した者、つまり「選ばれ
国の工場を観察してきた者には、いかなる人間
た少数者」を別にすると、アイゼナッハ地域の
化も民主化もそれが生産性と効率と品質の一層
労働者にはオペルの評判は悪かった。少なくと
の向上を伴わないなら破綻をきたすだろうこと
も 93 年まではそうであった。当時のシュピー
も極めて明確である。社会主義諸国の教訓の 1
ゲルや週刊経済が伝えるところでは以下のよう
つは、市場動向を洞察し生産性と効率を追求す
であった/43/。
る独立した経営者と労働者の利害を代表する独
92 年 9 月のシュピーゲルによれば、
「ほぼ 5
立した労働組合の存在が持続的成長には不可欠
人に 1 人が公式に失業登録している」が、
「一時
であるということである。
的に再職業教育コースや雇用創出措置にいる
先進資本主義諸国ではおおむね経営側は人材
人々も職を探している」のだから、それも加え
に富み、明確な戦略とたくみな戦術を取ること
ると「たちまち失業率は 40%に膨らむ」にもか
が可能である。日本では強力な経営体制がある。
かわらず、何千人もが応募すると思われたオペ
しかし独立労組の存在と発展はなかなか難しい。
ルの求人に、当初数百人の応募しかなかった。
ドイツでさえ組織率が低下している。日本では
しかもそのうちの多くが応募から手を引いた。
93 年 8 月の週刊経済誌も、
「オペルはなぜ自
その存在意義自体が問われてさえいる。
そもそも労組が組織率を高く維持し人材を確
動車産業の中心地でありしかも失業者の多いア
保し持続的な戦いを組織することは容易ではな
イゼナッハでそんなに従業員獲得が困難なの
い。翻って考えれば、労働と工場の「人間化」
か」と疑問を呈した。
「アイゼナッハの労働市場
や「民主化」は労組だけの課題というわけでは
は我々にとっては干上がっている」とオペルの
ない。市民的、人間的課題であり、産業革命以
労務担当者は言い、93 年夏にも 10 月から採用
来、政治的、法的な課題となってきたことであ
の塗装工・組立工・電気工計 250 人の至急募集を
る。昨今の事例では男女雇用機会均等化問題や
新聞広告しなければならなかった。
介護問題がそうである。作業ノルマや残業の仕
失業者が多いといっても、その多くが自動車
組みなどの労働諸条件や長期の単身赴任、出稼
産業適格者というわけではない。求職者の 3 分
ぎの在り方、女性労働の扱いなどには非人間的
の 2 が女性であり、また多くの求職者が事務職
なやり方も残っており、これらは社会的市民的
の職業教育を受けており、また多くの元 AWE
19
社労働者はヘッセン州など何キロか先の西独地
「容赦なき」
(週刊経済)と評される選考方法
域で西独賃金での仕事を見つけた。それでも、
とチームワーク特訓のイメージがオペル忌避ム
この地に進出したボッシュその他の部品メーカ
ードを作ってしまった。東独労働者はオペルに
ーは求人に困っていない。
おける採用試験を「自己の価値意識への無礼な
これらの企業は「伝統的な採用面接」をする
攻撃と受け取った」
(シュピーゲル)
。オペル側
だけで採否を決めているが、オペルは、ボール
は、テストは労働者が共同で問題を解決できる
紙で椅子を作れとか粘土で象を作れといった、
かどうかだけを試験したのであり、今後も方針
いわゆる「白痴テスト」
(Idiotentest)によりチ
を変えないと言っていた。もともとオペル側は
ームワーク適性を厳重に審査するらしい。ドイ
「絶対的な個人信奉者はこの工場では幸福にな
ツ中でオペル=アイゼナッハほどにチーム能力
れない」と言明していた。
重視の採用をするところはなく、採用後も仕事
悪評は、不採用になった者や落伍者、事情を
に着く前にチームワークをトレーニングするた
のみこまないまま上下一律のユニフォームに驚
めに 9∼11 週間のコースに全員を送り込み、落
くような外部の者に由来するのであって、アイ
伍者も出るらしい。
ゼナッハ工場の内部から出たのではない。だか
アイゼナッハ工場の経営評議会委員長が労組
らこそ、上記の経営評議会委員長も不評を知っ
の会合で他の経営の仲間にオペルの求人につい
て驚いたのである。しかし、当時は悪評を吹き
て宣伝したところ、保留か拒否の反応であった。
飛ばすようなものもオペル側になかったという
彼は
「我々の評判はだめになっている」
と言い、
ことである。
ある大手部品メーカー支配人は、アイゼナッハ
94 年 9 月の ND ルポによると、83 人の募集
では「正真正銘の反オペルの空気が支配してい
に対して 1000 人の上級技能資格を持つ人々が
る」と言った。オペルに行く者は「白痴テスト」
応募してきた。何が変わったのか不明である。
を甘受し、1 日に 8 時間白いシャツとグレーの
このルポは 94 年 9 月だから、すでに両独間の
ズボンの中にほり込まれ、しかもボッフムやリ
賃金格差が大幅に縮小していた(協定賃金率で
ュッセルハイムの同僚の 3 分の 2 しか稼げない、
東独は西独の 9 割余)ので、この地域に 3000
との揶揄が投げつけられた。
人と見られる長距離の越境通勤者(Pendler)
がアイゼナッハ工場に求職したのかもしれない。
オペルのアイゼナッハでのやり方には、チュ
ーリンゲンの経済界からも「威嚇的」との声が
あるいは、操業 2 年にして評判が好転したのか
あり、ボッシュ自動車電気用品アイゼナッハ有
もしれない。
限会社の幹部は、バーデン=ヴュルテンベルク
(注)
州では「労働者がそんなことをさせないだろう」
と言う。
/1/ 凌星光「日本的経営にみる社会主義的要
20
/14/ 長所と短所双方に言及した、まとまっ
素:労使関係を中心に」
『龍谷大学計学論集』
32-3、
1992。
たものとして、丸山前掲書参照。
/15/ 『旧東ドイツ地域の市場経済化・民営化
/2/ J.P.ウォマック他『リーン生産方式が、世
界の自動車産業をこう変える』経済界、1990。
の現状』龍谷大学社会科学研究年報別冊シリー
以下これを MIT 調査と呼ぶ。
ズ第 5 号参照。
/16/ 以下のクノルブレムゼ社についての記
/3/ 『ニューズウィーク』日本版、1995 年 2
月 15 日号。
述は、上記視察の際の聞き取り/Berliner
Zeitung、1991 年 9 月 14 日/Die Wirtschaft、
/4/ ドイツ語ではグループ作業(Gruppenarbeit)と言う。これはチームワークの意味で
1990 年 7 号、同年 34 号/Frankfurter Allge-
あるが、ドイツではリーン生産方式におけるチ
meine Zeitung、1991 年 2 月 26 日/Neues
ーム制についてチームと言うべきかグループと
Deutschland、1990 年 6 月 25 日、同年 7 月 4
言うべきかの議論がある。ここではわが国での
日/日経産業新聞 1989 年 11 月 28 日、1990 年
慣用に従いチームと表現する。
2 月 5 日、1991 年 3 月 5 日による。
/17/ 青木國彦『体制転換』有斐閣、1992 年、
/5/ 森敏雄「ドイツの日本化、日本のドイツ
263-265 頁参照。
化」
『エコノミスト』1994 年 9 月 13 日 80 頁。
/6/ Frankfurter Allgemeine Zeitung、1994
/18/ マイスターは手工業親方に由来する資
年 8 月 6 日。以下これを FAZ ルポと呼ぶ。
/7/
格名称であるが、ドイツでは工業においても国
同前。
家資格ないし企業内資格としてマイスターがあ
/8/ N. Altmann, How Do German Trade
Union
Perceive
the
Japanese
Way
り、職長や係長のクラスに該当する。マイスタ
of
ーの役割変化は後述のオペルの場合と同様であ
Manufacturing?, 1994, mimeo.
る。また、野村前掲書によれば(305 頁)
、フォ
/9/ 丸山恵也『日本的生産システムとフレキ
ルクスワーゲン社も同様である。
シビリティ』日本評論社、1995、248 頁。
/10/ 野村正實『トヨティズム』ミネルヴァ
/19/ 青木昌彦前掲書、320 頁。
書房、1993、235 頁。
/20/ そのうちフォルクスワーゲン社とベン
/11/ 青木昌彦『日本経済の制度分析』筑摩
ツ社の場合については、野村正實前掲書に紹介
書房、1992、第 5 章。
されている。
/12/ 同前、272 頁。
/21/ Neues Deutschland、
1994年9月15日。
/13/ 朝日新聞 1995 年 7 月 19 日。
21
照。
以下これを ND ルポと呼ぶ。
/34/ あるドイツ人コンサルタントが、
「日本
/22/ 青木國彦前掲書、141 頁以下参照。
人は仕事のために、アメリカ人は仕事とともに、
/23/ Die Wirtsachaft、1990 年 40・41 号。
ドイツ人は仕事によって生きている」と述べた
/24/ Frankfurter Allgemeine Zeitung、1992
と PE 氏は言う。
年 7 月 23 日・同年 9 月 24 日。
/35/ 丸山前掲書、251-252 頁/小川英次編
/25/以下のボッフム工場については、H.
『トヨタ生産方式の研究』日本経済新聞社 1994、
Minssen u.a., Gruppenarbeit in der Automo-
第 6 章。
bilindustrie: Das Beispiel Opel Bochum,
/36/ 同前、46 頁。
WSI-Mitteilung 7/1991 による。この論文の作
/37/ 経営評議会は従業員代表組織であって、
成時点においては、ボッフム工場のチーム導入
労使協議機関ではなく、多くの場合労組の影響
は 800 人余からなる 71 チームのみで、主にシ
が強い。
ャシー製造部門であり、流れ作業部門には未導
/38/ 丸山前掲書、175 頁。
入であった。
/39/ 同前、253-264 頁/野原光「トヨタ・シ
/26/ M. Parker/J.Slaughter, "Choosing
ステムの新しい展開とテイラーリズムのゆく
Sides, Union and the Team Concept", 1988.
え」
『大原社会問題研究所雑誌』431 巻、1994
これについて私は原書を手にせず、抄訳しか見
/嶺学「作業組織と労使関係」
『社会労働研究』
ていない。M.パーカー他『立場を選ぶ:組合とチ
41-1・2、1994 など。
ーム方式』戸塚秀夫監訳・抄訳(
『賃金と賃金と社
/40/ 森敏雄前掲論文、82 頁。
会保障』1054∼1059 号、1991)
。
/41/ Minssen 他前掲論文、441 頁。
/27/ Minssen u.a.、前掲、436 頁。
/42/ K.マルクス『資本論』
、第 1 部第 4 章末
/28/ P. Binkelmann u.a.(Hrsg.), "Entwick-
尾。
lung der Gruppenarbeit in Deutschland",
/43/ Der Spiegel、1992 年 9 月 21 日/
Campus, 1993. 600 頁という大部の本書はマン
Wirtschaftswoche、1993 年 8 月 20 日。
ハイムにおけるシンポジウム(93 年 3 月)をま
とめたものである。
/29/時事通信 1995 年 7 月 12 日・同 21 日。
/30/ ウォマック他前掲書、124 頁。
/31/ 同前、124-125 頁。
/32/ 森敏雄、前掲論文、83 頁。
/33/ 青木國彦前掲書、
39・303・318・327 頁参
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