霊長類の樹上運動とヒトの直立二足歩行の進化 Primate Arboreal Locomotion and the Evolution of Human Bipedalism *1 中野良彦 *1 Yoshihiko NAKANO 1.はじめに 3.結果 ヒトは霊長類の一種でありながら、その進化過程において シロテテナガザルでは上肢が非常に高い位置に接地し、前腕 様々な面で独自の特徴を獲得してきた。その中でもっとも基本 部が上方を向くことから、上肢による引き上げが木登り運動に 的な特徴とされているのが、直立二足歩行である。その進化過 大きく機能していると考えられる。それに対して、下肢は接地 程についてはいまだに解明されていないが、その起源は霊長類 時にはほとんど動きが見られず、ほとんど利用されていない。 にみられる運動様式の中に求められるはずである(図 1) 。その コモンリスザルでは、 上腕が運動時に常に下方を向いており、 進化過程を探る一つの方法として現生霊長類における運動機能 離地時には前腕も下方を向くことから上肢では下方への押し下 の比較研究が行われている。しかし、霊長類では適応放散の範 げによる木登りを示しており、また下肢でも同様の傾向が示さ 囲が大きく、独自の運動適応を示している種も多い。そうした れ、同じように下方への押し下げによる木登りを行っていると 多様な運動を比較する指標として、どの種においてもみられる 考えられる。 基本的な運動である垂直木登り運動に着目し、6種の霊長類を シロガオオマキザルでもリスザルと同様の特徴が見られ、上 用いて運動計測を行った。その結果、同様の木登り運動におい 下肢ともにやはり下方への押し下げを行っていると考えられる て用いられる運動的戦略は種によって異なっていることが示さ が、接地時に足関節の回転運動が見られる点が異なっている。 れ、その比較からヒトの直立二足歩行への移行と左右差の進化 ジェフロイクモザルでは、上肢ではテナガザルと同様の引き の可能性について考察した。また、チンパンジーの木登り運動 上げが見られるが、下肢では足関節の回転による押し下げがシ 時における上肢の左右差について検討した。 ロガオオマキザルよりも強く認められる。 2.方法 ニホンザルではリスザルと同様に、上下肢ともに、下方への 被験体としてシロテテナガザル、コモンリスザル、ノドジロ 押し下げによる木登り運動が示された。 オマキザル、ジェフロイクモザル、ニホンザル、チンパンジー チンパンジーでは、ジェフロイクモザルと同様の上肢による の6種の霊長類、各1頭ずつを用い、垂直木登り運動の運動学 引き上げ、下肢では足関節による押し出しが示されるが、下肢 的データを計測した。ただし、実験場所、計測方法については の運動がより大きいことが示された。 同一ではない。また、ジェフロイクモザル、ニホンザルについ 1) ては Hirasaki et al. のデータを利用している。 運動の指標として、上肢の接地位置、体幹及び上下肢と支持 基体の成す角度、上下肢の関節角度変化を求めた。 以上の結果にみられる押し下げは四足歩行における後方への 推進と似た機能と考えられる。また、単なる押し下げは下方へ の直線的な力を示すが、足関節による押し下げでは、それに加 えて足関節の回転力を利用している。 図1.ヒトの直立二足歩行はどのような運動から進化したのか 4.考察:霊長類の運動と利き手について ジーも他所へ移送されたため、 現在はこの観察は中断している。 四足性の運動を行う動物にとって、左右差の存在は適応的に この観察研究においては、 木登り運動における接地パターン、 有利な特徴であるとは考えにくい。その点からすると、利き手 運動時間などの運動学的データに関しての左右差は認められな は上肢(前肢)がある程度自由になった霊長類において進化し かった。しかし、各個体は木登り運動を行う木製ポールの上端 たと考えられる。先述した垂直木登り運動における運動戦略に に触れるまで登るようにトレーニングされていたが、その際に おいて考えると、上下肢ともに下方への押し出し機能を示すコ 用いる手について、個体により左右差が認められた(表1) 。 モンリスザルやニホンザルではまだ四足性運動の傾向が強く、 左右差を示さないのではないかと推測される。また、シロテテ 表1.チンパンジー木登り運動時の上端接触に用いられた上 ナガザルやジェフロイクモザルでは上肢による引き上げが強く 肢の回数 機能しており、ぶら下がり型の運動が主体であることからも、 個体名 上肢の左右差は適応的に有利なものではないであろう。下肢を 用いた運動が強くなり、上肢の関与が少なくなる傾向を示すシ ロガオオマキザルやチンパンジーのようなタイプの木登り運動 を行う種の方が上肢の左右差を示す方向へと向かうのではない だろうか。同時に、この点は運動において上肢が利用されない 直立二足歩行へ移行を強く示す特徴でもあるともいえる。 * 性別 左 右 利き手指数 Loi M 88 80 -0.04 Zyamba M 79 83 0.02 Tsubaki F 43 120 0.47 Mizuki F 107 63 -0.26 2001-2012 までに計 23 回行った観察における結果 * 2) Hopkins による すなわち、上肢のぶら下がり機能が発達した種では、腕渡り 運動における左右の上肢の協調性が必要とされ、その結果、強 4頭のうちオス2頭では有意な差がなかったが、メス2頭に い把握機能は必要なくなり母指が消失する方向への進化が起き ついては、左右差が認められ、Tsubaki は右手を、Mizuki は左 ると考えられる。それに対して、下肢を利用した木登り運動を 手を利用していた。 進化させた種は、足関節の底屈機能を発達させ、いわゆるけり さらに、メス2頭について、10歳齢以降の結果のみを比較 出しや上体の直立を発達させることから二足性と上肢の解放、 すると、どちらの個体も 0.8 以上の利き手指数を示していた。 さらには精密把握の進化へと進み、それらの進化と同時に利き こうした、利き手についての性差や年齢変化については、先 手が出現するようになったのではないだろうか。 行研究があるが、今回の研究でも、例数は少ないが、同様の傾 5.霊長類の利き手についての研究 向が存在することが示された。 霊長類の利き手についての研究は、類人猿、オマキザル類、 引用文献 マカク類など様々な種で行われているが、とくにチンパンジー 1) Hirasaki E., Kumakura H., Matano S. 1993. Kinesiological で多くの報告がある。その結果、個体レベルでの利き手の存在 characteristics of vertical climbing in Ateles geoffroyi についてはほぼ認められている。しかし、ヒトの右利きの優位 and Macaca fuscata. Folia Primatol. 61:148‒156. 性のような集団レベルでの利き手については、Hopkins らのグ ループは飼育集団での実験研究から集団レベルでは右利きが優 2) 2) Hopkins WD. 2008. Locomotor limb preferences in captive chimpanzees (Pan troglodytes): Implications for 位であるとしている(たとえば Hopkins )のに対して、McGrew morphological asymmetries in limb bones. Am J Phys らは野生のチンパンジーでは集団レベルでの利き手はみられな Anthropol 137:113‒118. 3) いとしている(たとえば Marchant and McGrew ) 。その他、多 くの報告があるが、まだ論争が続いている。 3) Marchant LF. McGrew WC. 2007. Ant fi shing by wild chimpanzees is not lateralized. Primates 48:22‒26. 6.木登り運動における左右差の観察 2001年以来、霊長類における垂直木登り運動の年齢変化 *1大阪大学大学院人間科学研究科 を記録する目的で、チンパンジーの木登り運動について継続的 《連絡先》中野良彦 な観察研究を行ってきた。観察は林原類人猿研究センター(岡 〒565-0871 山県玉野市)において、同センターで飼育されている4頭のチ 大阪府吹田市山田丘1−2 ンパンジーについて、年2回(春、秋)行い、その木登り運動 大阪大学大学院人間科学研究科 をビデオ撮影により記録した。ただ、残念なことに林原類人猿 電話:06-6879-8055 研究センターは、2013年1月をもって閉鎖され、チンパン E-mail:[email protected]
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