▼研究ノート ドイツ社会民主党の脱原子力政治 ニーダーザクセン州赤緑連立政権を中心に ― ― ︵ ︶ 佐藤温子 電所は新規建設が禁止され、現存の原発は通常の運転期間を三二年とし て、 段 階 的 に 停 止 さ れ る こ と が 定 め ら れ た。 二 〇 〇 五 年 の 総 選 挙 の 結 ット首相率いる社会民主党︵SPD︶と自由民主党︵FDP︶の連立政 ドイツで原子力論争が政治問題として浮上したのは、一九七〇年代中 頃である。一九七三年の石油危機の後、ドイツではヘルムート・シュミ れにもかかわらず、現在も原子力合意が効力をもち続けているのは、S も無に帰すといわれていたし、実際に政治家により発言されていた。そ こととなった。二〇〇五年の選挙前には、選挙の結果次第で原子力合意 果、大連立政権が成立した後も、CDUとSPDの間での原子力エネル 権により、即座に連邦政府初のエネルギープログラムが作成され、原子 PDが脱原子力政策を堅持しているためである。 ︵ ︶ ︵ ︶ ギー利用に関する不合意のため、この原子力合意が引き続き効力をもつ 力エネルギーの平和利用を推進する政策が採択された。 1 はじめに 2 教社会同盟︵CDU╱CSU︶との大連立政権への変化が挙げられる。 SPD╱FDP連立政権から、SPDとキリスト教民主同盟╱キリスト で、ドイツ連邦共和国では重要な変化が起きて それから現在に至るま ︵ ︶ いる。たとえば、緑の党の結成と発展、旧東独との統一、SPD主導の ーダーザクセン州に着目する。 明らかにする。その際、特に原子力紛争において重要な位置を占めるニ そこで本稿では、SPDがなぜ脱原子力政策を志向するようになった のか、という問いのもと、SPDがどのような政策を行ってきたのかを みならず、SPDの公式的立場を原子力推進から撤退へと転換させた。 ベル放射性廃棄物最終処分場の候補地として一九七〇年代から原子力紛 ニーダーザクセン州では、原子力政策上鍵となる最終処分場の候補地 ゴアレーベンが、紛争の問題であり続けている。ゴアレーベンは、高レ ︵ ︶ このことは、一九九八年のSPDと緑の党の連合、いわゆる赤緑連立政 争の焦点となった。原発の操業の際には、不可避的に放射性物質を含む 連邦政府と電力業界の間で定められた同合意により、国内の原子力発 5 廃棄物が産出されるが、一定レベル以上の放射能は人体に悪影響を及ぼ 67 ドイツ社会民主党の脱原子力政治 4 3 権の誕生とその後の原子力合意の締結へとつながった。 また、原子力紛争は、その経過の中で緑の党の結党と発展を促進したの 1 レーベンをめぐる論争は原子力エネルギー利用の可否そのものに密接な 法により要求されている廃棄物処理の証明が必要であることから、ゴア すため、適切に処理・処分される必要がある。原発の操業には、原子力 摘される。これに対し、本稿では一九九〇年から一九九四年の赤緑連立 挙分析と二〇〇〇年時点での脱原発社会の実現可能性を探った論稿が指 ニーダーザクセン州と脱原子力合意に関しては、一九九八年の州議会選 州の赤緑連立政権に関する優れた分析が行われており、特にその中でも ︵ ︶ 関係がある。 連邦制をとるドイツでは、連邦と諸州の政府間の役割・権限に補完関 係があり、通常、連邦が定めた法律を実際に監督・執行するのは州であ る︵基本法第八三条︶ 。また、その際の州政府の政策運営は必ずしも党 派的ではなく、地元の利害に少なからぬ影響を受けることがある。その 政権におけるSPDの政策運営に重点を置いて分析を行う。 ︵1︶SPDと原子力論争 石油危機の後、SPD╱FDP連立政権は、原子力エネルギー推進政 策を採択した。しかし、その後原子力エネルギーには、さまざまな問題 2 SPDと原子力論争の展開 な役割を担っている。ニーダーザクセン州では、州の執行の枠組みの中 が あ る こ と が 明 ら か に な り、 反 原 発 運 動 が 各 地 で 勃 発 す る 事 態 と な っ で、連邦政府と相容れない原子力政策上の目的を追求するために法律執 た。 ︵ ︶ ても、州政府は潜在的にすべての原子力施設の稼働の許可と指揮に重要 行を行った。本稿では特に一九九〇年から一九九四年まで、ニーダーザ ため、時折、連邦政府と州政府の間で摩擦が生じる。原子力問題に際し 9 のゴアレーベン最終処分場建設促進を阻止しようとした動きと、連邦政 年一二月二∼七日のベルリン党大会で決定 そ の よ う な 中、 一 九 七 九 された﹁エネルギー政策﹂において、SPDは、﹁核エネルギーの利用 けて行われていた脱原子力政策に着目し、事例の叙述をより深めること 着手された脱原子力政策より以前に、同州の赤緑連立政権によって先駆 れたため、緑の党を支持した人々をすべて周辺集団や工業社会のアウト は、三五歳以下の有権者のほぼ五分の一が緑の党に票を投じたと考えら その後、反原発運動やその他のさまざまな運動が寄り集まり、反原子 力 を 掲 げ る 緑 の 党 が 姿 を 現 し た。八 一 年 の 大 都 市 に お け る 地 方 選 挙 で はできない﹂と結論づけている。 面、エネルギー資源の消費も核エネルギーの平和利用も、放棄すること て い る。 し か し 一 方 で、 最 終 的 に は﹁ ⋮⋮ 現 代 の 知 識 水 準 下 で は、 当 利用方法の問題は、未解決の重大な安全性問題に突き当たった﹂と記し ことが明らかとなった﹂と述べ、﹁放射性廃棄物の処理、加工ないし再 10 で、地方政治の可能性に着目したい。わが国でも小野氏によりドイツ諸 8 ︵ ︶ は、われわれ自身が二年前に考えてきたよりももっと問題を孕んでいる 7 分析されている。しかし、本稿では、一九九八年以降連邦政府によって ︵ ︶ に よ り、 主 に シ ュ レ ー ダ ー の 取 り 上 げ ら れ て い る。 ま た、 Lees (2000) 政治的手腕を中心に、ニーダーザクセン州の赤緑連立政権の政策運営が ︵ ︶ 従 来 の 研 究 で は、 Jun (1994) に よ り、 連 立 政 権 形 成 へ の 着 眼 か ら 一九九〇年から一九九四年の間のニーダーザクセン州の赤緑連立政権が 目する。 府および電力業界と共にエネルギー合意に向けて協議を試みた動きに着 クセン州を統治した赤緑連立政権が、さまざまな措置によって連邦政府 6 ゲシヒテ第1号 68 サ イ ダ ー と 片 付 け た り、 無 視 し た り す る こ と は で き な い 状 況 で も あ っ ︵ ︶ た。 すでにSPD╱FDP政権末期には、原発の他にもNATOの中距離 核戦略︵INF︶配備の問題を巡り、これを推進するシュミット首相や ︵ ︶ ﹁ わ れ わ れ は 原 子 力 を 使 用 せ ず に、 一九八九年のベルリン綱領では、 ︵ ︶ 無公害で確実なエネルギーの供給をできるだけ早く達成したい﹂と述 べ、プルトニウム経済を﹁誤った道﹂と表現し、原子力エネルギーへの 反対を明確に表明した。 こうした流れの中、特にチェルノブイリの事故後、SPDまたはSP D/緑の党の連合の統治する州では、原発廃止への流れが如実に見られ ︵ ︶ 対立は明らかだった。一九八三年の連邦議会選挙後のシュミット政権崩 た。特にヘッセン、ニーダーザクセン、シュレスヴィヒ・ホルシュタイ ︵ ︶ 一九七七年にリュヒョウ・ダンネンベルク郡ゴアレーベンが、地質学 上及び政治的な地理上の点から最終処分場の所在地に選ばれて以来、現 チェルノブイリ以前から、ニーダーザクセン州では脱原子力に向けた 発言が行われていた。 ︵2︶ニーダーザクセン州SPDと原子力論争 ︵ ︶ 壊は、SPD党内におけるポスト物質主義的志向の改革派に有利に作用 ︵ ︶ ンの諸州で、脱原子力に向けた行為が行われたようだ。 る態度を軌道修正させていった。 23 22 労組らの﹁右派﹂と、それに反対する若者や高学歴層中心の﹁左派﹂の 21 し、その後、エコロジーやオルターナティブ思考がSPDエリートのイ デオロギー状況を特徴づけるようになった。 ︵ ︶ しかしもしSPDが原子力の利用を否定したとすれば、同党は非常に 重要な支持基盤である労働組合と対立することは確実であり、当時SP ︵ ︶ し労働組合は、チェルノブイリ事故の後、次第にエネルギー政策に対す Dが緑の党に接近するのは、選挙戦略上得策とはいいがたかった。ただ 14 ー政策 一九七八年一月一七日の段階で、SPD州議会会派のエネルギ ︵ ︶ に対する方針として、脱原子力の可能性に関しても言及していた。これ 地では反対運動が起こっていた。 子力の支持はわずか二票であり、七九年の党大会では原子力反対が四〇 に対して、一九七八年二月二三日には、ニーダーザクセン州議会におい ︵ ︶ ただし、SPDがエコロジー問題を重視し、青年層の獲得を目標に掲 げることと、緑の党と連合することは異なる問題であり、後者について た。 ︵ ︶ %、八四年大会では五〇%に留まっていたことを鑑みれば、大変な変化 ︵ ︶ てエーリッヒ キ ・ ュプカー経済大臣 F ( DP は ) 、C DU ╱F D P 州 政 ルンベルクで開か 一九八六年のチェルノブイリ事故後、同年八月ニュ ︵ ︶ れたSPDの党大会で、脱原子力の決議が採択された。この大会では原 24 13 12 だった。このことにより、労組やSPD党内の路線の対立も小さくなっ 16 15 ︵ ︶ いて原発から一〇年以内に撤退することが決議され、緑の党との連合結 の党内の合意はより困難だった。まずはこのニュルンベルク党大会にお 19 20 している。 ︶ に 対 し、 州 政 府 府のエネルギー政策に関する大質問︵ Großen Anfrage ︵ ︶ も﹁原子力エネルギーのさらなる拡充を諦めることはできない﹂と答弁 25 文書では、原子力エネルギーにこれ以上依存しないためにも、﹁ニーダ 一九八五年一一月三〇日のオルデンブルクで開かれたSPDニーダー ザクセン州党大会において決議された、SPDの州政策の重点に関する 26 17 成において最大のネックであった問題が一応は解消された。 69 ドイツ社会民主党の脱原子力政治 11 18 ︵ ︶ ザクセン州における再処理施設の建設を拒否する一方で、最終処分場場 れていた。しかし一方で、放射性廃棄物に対しては、SPDはニーダー ーザクセン州における巨大発電所と原発の増設には合意しない﹂と記さ 並行して、他の方法と他の候補地を指名﹂させるべきことを主張した。 査は、むしろ疑惑を根拠付けている。⋮⋮連邦政府に、ゴアレーベンと らかにした。そしてゴアレーベンに関しては﹁︵ゴアレーベンでの︶調 力エネルギーの拡充を可能にするための構想には、参加しないことを明 ︵ ︶ 所の調査、コンディショニング施設の建設、中間貯蔵施設の建設など、 ︵ ︶ ﹁原発から産出される放射性廃棄物の直接処分の解決に貢献する﹂とい 業中だった。選挙綱領の中では、次のように述べられている。﹁緑の党 ン州ではシュターデ、エーゼンスハム、グローンデの三箇所で原発が操 に向けて、緑の党は﹁原 一九八六年六月一五日に行われた州議会選挙 ︵ ︶ 子力エネルギーからの即時撤退﹂を打ち出した。当時、ニーダーザクセ が要求しているような全原発の即時停止は、SPDでは行うことはでき 賛成であることを意味している。この改革段階の構想の結論は、緑の党 れなければならないが、原則的に︵核廃棄物の︶一時保管と最終貯蔵に 右されない協議により最も適していると立証された技術と候補地が選ば ︵ ︶ ベンに関しても中間貯蔵施設および最終処分場建設を拒絶している。一 ︵ ︶ 身の州で廃棄物処理する責任に応じる。このことは、その際、利害に左 は、市民運動とともに原発の即時閉鎖を達成するために、あらゆる議会 ないということだ﹂。 34 33 および議会外の、法的可能性を利用し尽すだろう﹂。同様に、ゴアレー う見解を示している。 ま た、 彼 は、 イ ン タ ビ ュ ー の 中 で 次 の よ う に 詳 細 に 述 べ て い る。 ﹁⋮⋮同時に、SPDは、この過渡的科学技術を確実に、それも自分自 27 一九八六年の州議会選挙結果、SPDは、ゴアレーベン最終処分場候 補地ゴアレーベンを含む選挙区リュヒョウ=ダンネンベルクにおいて ︵ ︶ 二五・七%から三三・八%へと票を伸ばし、緑の党は当地が伝統的な牙城 でありながらも二・九%票を失い、一一・二%の得票率を得た。当地での ︵ ︶ ︵3︶シュレーダーと原子力政策 ︵ ︶ 高い八・一% だった。緑の党の票の喪失が、SPDの得票増加の説明に 37 して述べたことは、驚くほど皮相的である﹂。また、﹁SPDは原子力エ 子力の議論とは違い、原子力エネルギーからの撤退を断念した内容であ 一九八七年八月には、シュレーダーは、ハンブルクのSPD╱FDP 連立政権によって取り決められた連立協定文書が、選挙戦における脱原 31 ︵ ︶ ネ ル ギ ー か ら の 撤 退 に 妥 協 し な い﹂ 。このように脱原子力の立場を表明 り、﹁全SPDのエネルギー政策の信頼性﹂を損なうものとして非難し 39 ︵ ︶ し、最終処分に関しても、 ﹁最終処分構想には責任を負う用意がある。 ている。同年一一月には、シュレーダーは、原子力エネルギーをはじめ ︵ ︶ ︵ ︶ だが我々の意図するところは、現在運転中のものだけを最終処分しなけ もなった。 38 とした科学技術への反対を表明し、ニーダーザクセン州議会において、 一九八六年七月一〇日ニーダーザクセン州議会における演説で、シュ レーダーは次のように述べている。 ﹁首相がエネルギーや環境政策に関 SPDの得票の増加は、ニーダーザクセン州の選挙区の中でも二番目に 方、SPDはよりゆるやかな脱原発路線を呈示した。 35 28 ニーダーザクセン州の原子力政策上、看過できないのが、後に連邦首 相となるシュレーダーの役割である。 36 29 ればならないということである﹂と述べ、最終処分の証明によって原子 32 30 ゲシヒテ第1号 70 ︵ ︶ 目に位置した。 密接に関係していた。また、環境政策の中心的な目的として、シュレー ︵ ︶ ︶が最終処分 題となったときには、彼はコンラート坑︵ Schacht Konrad 場となることに反対し、CDUとエネルギー政策上での新しい合意に至 ダー首相は、原子力政策における誤った決定の修正を挙げた。さらに、 シュレーダー首相の政府声明では、女性政策と環境政策が前面に打ち 出された。またそれは、緑の党と交渉の結果取り決めた連立協定文書と るのは、原子力エネルギーからの可能な限り早い撤退に合意した後だと グリーンピース活動家のモニカ・グリーファーンを環境大臣として擁立 ︵ ︶ 表明している。この間、一九八六年から一九九〇年にかけて、チェルノ した。 中で、あらゆる可能性を利用し尽す﹂ことを明記した。この文書には、 PD州政府は、この最終処分場を許可しない﹂。 シュレーダーの原子力エネルギー撤退とゴアレーベン最終処分場建設 の反対の態度は、明確に打ち出されていたといえる。 ︵ ︶ 年二月一〇日においても、シュレーダーはゴアレーベンに関 一九九〇 して次のように言及している。すなわち、﹁岩塩ドーム︵岩塩層︶の調 ︵ ︶ 一 九 八 六 年 の 緑 の 党 の 選 挙 綱 領 の 影 響 が 如 実 に 見 て 取 れ る。 ま た、 ゴ ニーダーザクセン州政権与党に就任したSPDと緑の党は、合意文書 の中で﹁原子力経済からの撤退を達成するために、現行の法の枠組みの 43 査結果は明白である。ゴアレーベンの岩塩ドームは適してない。⋮⋮S い。 ブイリの事故から時間が経過しても、彼の態度に大きい変化は見られな 仏間の原子力上の協力でニーダーザクセン州が最終処分地の州として問 二二三票中一九〇票を得て議長として再選を果たした。一九八九年、独 40 ︵ ︶ る。それゆえ、両与党はゴアレーベンにおける放射性廃棄物の最終処分 処分場計画のための従来の調査結果は、適性が乏しいことを証明してい アレーベンに関しても、﹁両与党にとって、ゴアレーベンにおける最終 44 場立地を拒否する﹂ことを表明した。次節で詳細を見ていこう。 ︵2︶ゴアレーベン最終処分場候補地をめぐる対抗措置 ︵1︶赤緑州連立政権の成立と脱原子力政策の開始 一 九 九 〇 年 五 月 一 三 日 の ニ ー ダ ー ザ ク セ ン 州 の 州 議 会 選 挙 の 結 果、 一九九〇年からSPDと緑の党が州政権与党となった。この州政権の意 した。ゴアレーベン最終処分場候補地における調査作業を遅延させるの 来ないが、実際にはあらゆる手を尽くして原子力産業からの撤退を追求 一九九〇年から一九九四年までのニーダーザクセン州の赤緑連立政権 下で、州政府は制度上では連邦政府に対して表立って抵抗することは出 義 は 以 下 の 三 点 が 挙 げ ら れ る。 第 一 に、 緑 の 党 が ニ ー ダ ー ザ ク セ ン 州 は、その一つに数えられる。 力を掲げる赤緑連立政権が政権与党の位置に就いたという点である。な されないにもかかわらず、最初の西ドイツの原発の商業上の操業以来、 連邦の原子力政策には矛盾点があった。実は、原子力法により要求さ れている廃棄物の処理の証明なしには原子力発電所の操業は法的に保護 三に、原子力政策の観点からいえば、原子力の紛争を抱える州で脱原子 政 権 与 党 に 初 め て 就 任 し、 第 二 にS P D の 一 四 年 振 り の 政 権 奪 取、 第 3 赤緑州連立政権の脱原発政策 45 42 お、今回の赤緑連立政権の誕生は、ヘッセンとベルリンに次いで、三番 71 ドイツ社会民主党の脱原子力政治 41 放射性廃棄物の最終処分場所がまだ明らかになっていなかった。そのた め、ゴアレーベン最終処分場候補地への反対には、原発の操業証明を阻 止することにより原子力エネルギー利用を停止させる意図が指摘でき 与えうる余地がある。 例えば、ニーダーザクセン州環境大臣モニカ・グリーファーンは、連 邦憲法裁判所の判決により、連邦政府の要求であるゴアレーベンへの最 ︵ ︶ 終処分場の認可をせざるをえなかった時に、非常に細かな付帯条件をつ 要求である。ニーダーザクセン州の環境省の報告によると、ときどき落 る。 さらに、放射性廃棄物の最終処分場という、将来にわたって深刻な被 害の可能性があり続けるという負担をニーダーザクセン州だけに集中さ 石があり、一九八七年五月には一五トンの石が五メートルの高さから地 ︵ ︶ せるという点も問題だった。地質学的にも、ゴアレーベンの岩塩ドーム ︵ ︶ 下二三九メートルまで落下し、作業員に死者一名と重度のけが人六名を 出した。この安定性の件が、最終処分場建設において最も困難な問題と なった。 ∼840m 廃棄体 オーバーパック 充填材 また、一九七七年に、連邦政府の原子力推進政策の結果、当時の州首 相アルブレヒトによってゴアレーベンが最終処分場候補地に指名された が最終処分場に適しているかどうかは明らかではなかった。 けてなお抵抗した。その一つが、ゴアレーベンにおける安定性の鑑定の 47 二月二〇日 し か し、 シ ュ タ ー デ 行 政 裁 判 所 の リ ュ ー ネ ブ ル ク 部 は、 坑道 後すぐに二万人規模の反対デモが起こり、それ以後も激しい政治的闘争 (出所)『諸外国における高レベル放射性廃棄物の処分につ いて』、経済産業省資源エネルギー庁監修、原子力環境整 備促進・資金管理センター編集、2007 年 2 月、99 頁。 http://www2.rwmc.or.jp/overseas/pub/publication.asp が繰り返されてきた。それにもかかわらず、周辺地域の安全性について ︵ ︶ 埋め戻し材 の説明も十分に行われておらず、最終処分場の決定過程において実質的 に一般の人々の参加は無いに等しかった。この点は民主主義の問題を孕 んでいるといえよう。 ドイツでは高レベル放射性廃棄物処分場の設置責任は連邦政府にあ る。連邦政府においては、原子力問題全般を担当する連邦環境 自 ・ 然保 護・原子炉安全省︵BMU︶が管轄官庁であり、その下に設けられた連 邦 放 射 線 防 護 庁︵B fS ︶ が 処 分 場 設 置・ 運 転 の 実 施 主 体 で あ る。 な お、BfSは具体的な作業に関しては、ドイツ廃棄物処分施設建設・運 48 ∼840m ゲシヒテ第1号 72 周囲の地層 天然バリア 母岩 ド イ ツ 人工バリア 転会社︵DBE社︶と契約している。一方で、ドイツに特有の﹁連邦委 任行政﹂の制度により、原子力に関する事柄は州に委任される。高レベ ル 放 射 性 廃 棄 物 の 処 分 場 に 関 し て も、 許 認 可 当 局 は 州 の 管 轄 官 庁 と な る。そのため、ゴアレーベンの場合は、ニーダーザクセンの環境省が許 認可を行う。ここに、州政府が連邦政府の原子力政策に対して、影響を 廃棄物 施設建設・ に示されて です。多重 ク等のオー 包んだ上、 を天然バリ 隔離するシ ( DBE社等, Final Disposal and related Waste Managementより引用) 図 ゴアレーベンでの処分概念イメージ ゴアレーベンでの処分概念イメージ 00mの範囲 アレーベン 図では地下 分坑道がレ km2となっ ゴアレーベン 岩塩ドーム の大きさは り、地下約 約3,500mま ドイツ 49 計画処分場深度 地層の種類 選定手続の から調査が 塩ドームに 凍結されて 立坑2 立坑1 46 ︵ ︶ 指 令 で、 ゴ ア レ ー ベ ン 最 終 処 分 場 の 調 査 対 象 鉱 山 の 立 坑1 に お け る 作 業停止は、一度目の立坑2ではなく、ゴアレーベンの立坑 二度目の作 ︵ ︶ 1が該当した。ツェレの鉱山監督局は、ニーダーザクセン州の環境省の セン州の環境省は最初に全計画の広範にわたる検査を要求した。その点 を許可した。新しい枠組み操業計画に関する決定の前に、ニーダーザク は、両立坑の安定強化のために限り、ゴアレーベンにおける作業の継続 る調査作業を禁じた。昨年末、最終処分場のための最初の枠組み操業計 業の即座の停止を命じた。 ﹁連邦放射線防護庁は、この指令を承諾する に関して、DBE社は、上級鉱山監督局に動議を行い、枠組み操業計画 ︵ ︶ が、このことに対抗する法的手段を講じる﹂と、防護庁の長官代理ヘン に関する決定の前に立坑1における作業を続行することを求めていた。 に、ゴアレーベンの立坑︵ ニッヒ・レーゼルは表明した。鉱山監督局の指令は、ゴアレーベンにお その結果、二つの立坑での八五〇メートルまでの掘り下げ、および岩塩 1における掘り下げ作業は、特に、その際に発生する岩塩の適切な処理 で あ る ﹂ と、 ボ ン の 記 者 の 前 で 公 言 し た。 ま た、 後 に は シ ュ レ ー ダ ー シュレーダー州首相︵当時︶は、連邦環境大臣クラウス・テプファー ︵CDU︶に対して﹁原子力ロビーとの友情﹂を非難し、﹁連邦政府は計 さらにこの間、ゴアレーベンの岩塩ドームの採掘権の所有者のアンド レアス・グラフ・ベルンシュトルフと、ゴアレーベンのエルベ川の漁師 州首相はインタビューで次のように述べている。﹁我々は最終処分場施 いのは許されないことだ﹂。 ︵ ︶ のクリスティアン・ケートケは、ゴアレーベンの調査作業計画の許可の 設を提供する用意がある、そうであるからには他の州も追随すべきであ 画されているゴアレーベンの代わりとなる最終処分場の立地を探すべき 廃止を目指していた。しかし、この訴訟は棄却された。行政裁判所によ る﹂。そして、﹁負担は分散されるべきである。バイエルン州の強固な原 ︵ ︶ れば、 ﹁ゴアレーベンの計画に対して、近隣の人々は抵抗してはならな ︵ ︶ 子力支持者が、唯一の最終処分場施設をつくることに用意ができていな 措置が可能である﹂ことが示された。 ︵ ︶ このような州政府の政治方針に関して、連邦環境大臣テプファーは、 ニーダーザクセン州環境大臣が州政府にもかかわらず﹁全能の権力を持 57 っている﹂と揶揄した。 本節ではゴアレーベン最終処分場候補地における作業への州政府の対 抗措置を取り上げたが、一方で、このように対立するばかりではなく話 ︵ ︶ 58 性のため、内部の強化作業が行われる。ニーダーザクセン州の上級鉱山 における三度目の作業の停止を伝えた。それによれば、ゴアレーベンに 三度目の停止は、一九九三年九月一五日から一九九四年四月一八日ま で行われた。一九九三年九月九日頃、グリーファーンは、ゴアレーベン ︵ ︶ い﹂との結果が提示された。ただ、 ﹁詳細な認可に対しては、法律上の と特に立坑1の安定性が明らかにされなければ許可されない。 画は、いわば期間超過という結果になり、ニーダーザクセン州の環境省 ける作業の継続を巡る州と連邦の間での法的な紛争にさらなる道筋を呈 の山腹への堆積などの全計画は、原則的に許可される予定だった。しか ︵ ︶ 示した。二月二三日、鉱山監督局は、作業の進行のための主な操業計画 し、それを上級鉱山監督局は拒絶した。 ︶2における作業の継続を許可した。 Schacht 56 を許可はしたが、いくつかの条件と制限を設けた。それによれば、立坑 50 し合いにより連邦政府および原子力業界との和解が進められていた。次 55 ある二つの立坑のうち、一つは即座に作業が禁止され、もう一つは安定 59 54 53 監督局は、同州の環境省の指令で、ゴアレーベンの立坑1における更な 73 ドイツ社会民主党の脱原子力政治 52 51 節ではニーダーザクセン州政府と連邦政府および原子力業界の妥協への 過程をみてみよう。 原子力エネルギー、石炭、放射性廃棄物に関する問題の解明のため、 連邦環境大臣クラウス テ ・ プファー︵CDU ︶と経済大臣ギュンター・ レクスロート︵FDP︶は、一九九三年春、SPD、FDP、CDU、 ︵ ︶ 緑の党ならびに環境団体と電力会社の代表者を、ボンで開かれたエネル 一九九三年三月一日、ボンで大臣レベルの二回目のトップ会談が開か れた。この会談は、連邦政府与党から八人の代表者、六人のSPD政治 ギー合意に関する会談に招いた。 ー社の設立を目指した。VEBAは、ドイツで第二位の大手電力会社で 家、緑の党から二人という構成で、全員で一六人の参加者により行われ ︵ ︶ あり、その姉妹会社プロイセンエレクトラはニーダーザクセン州の原子 ︵ ︶ ︵ ︶ 妥 協 に 至 っ た ﹂ と 報 道 し て い る。 シ ュ レ ー ダ ー も こ の こ と に 対 し て、 セン州政府と共に新規原発建設とゴアレーベン最終処分場の断念という ︶紙は、﹁ドイツは原子力からの撤退に ァイトゥング﹄︵ Die Tageszeitung 近づいた。エネルギー供給会社VEBAとRWEの社長がニーダーザク あった。しかし、現存の原発の操業期間に関しては、テプファー連邦環 廃棄物は、コンラート坑の最終処分場において認められること、などで その間に他の候補地が探されるべきであること、④低・中レベル放射性 ゴアレーベンにおける最終処分場の建設は、二〇〇五年まで中止され、 63 原発の建設は、連邦議会の三分の二の多数の同意が必要であること、③ ﹁我々は、我々の政府の目標である原子力エネルギーからの撤退に、強 境大臣は最低四〇年とし、シュレーダー州首相は二五年を提示した。 ︵ ︶ 大な一歩を進めた﹂と述べている。また、原子力撤退に関して、シュレ 約一年半の間、産業界側とシュレーダー州首相の間で会談が持たれてい 64 ︵ ︶ ーダーは﹁我々が取り組んできた原子力エネルギーからの撤退には、エ たが、それでもなお両者の見解の相違は明白だった。CDUは、この会 ︵ ︶ ネルギー経済界や労働組合を参加させる合意なしには、近づけない﹂と 談によって原子力エネルギーの利用が次の世紀まで保証されるものとみ 69 68 年 秋 に あ と 少 し の と こ ろ で 挫 折 し た。 し か し、 連 邦 環 境 省 広 報 担 当 者 70 ︵ ︶ 述べていた。この提案の裏には、施設の維持・管理や安全対策への経済 ︵ ︶ なしていた一方で、SPDは同様の会談によって脱原子力エネルギーへ ︵ ︶ 的負担の増加や、原子力に対する批判的世論の強さ等の事情が指摘され ︵ ︶ 至る端緒と考えていた。結局、エネルギー合意の取り決めは、一九九三 テプファー連邦環境大臣とシュレーダー州首相の間で承認されたエネ ルギー合意は、①研究用の原子炉は許可されること、②今後の商業上の 相容れなかった。 67 た。そのような状況下で、州政府と連邦政府の間で原子力の合意を得る 現在稼動中の原発を段階的に廃止する提案を行っていた。﹃ターゲスツ 62 を懸念して脱原子力を拒絶し、脱原子力を志向するSPDと緑の党とは ていた。CDUは原子力からの撤退によりドイツ経済が脅かされること ︵3︶エネルギー合意への取り組み 一九九一年以降、ニーダーザクセン州の赤緑連立政権は、同州と電力 会社VEBAとが協働で行うニーダーザクセンエネルギーエージェンシ 66 力エネルギーの七〇%を生産していた。 ︵ ︶ が、同年九月二一日付けの親書で、当時のヘルムート・コール首相に、 。九二年 この共同作業の効果は見られたとシュレーダーは述べている 末に報道されたことだが、エネルギー供給会社VEBAとRWEの社長 61 60 べく、数回にわたり会議が設けられていた。 71 65 ゲシヒテ第1号 74 る。しかしこのときにはエコロジー的志向は後退し、ベルリン綱領は忘 ︵ ︶ によれば、このエネルギー会談を行うことにより、﹁妥協の道筋がはっ れ去られていた。経済危機からの脱出が最大の課題と有権者の多くが考 ︵ ︶ きりと示され﹂ 、決して無為に終わったのではなかったと評価されてい える中、エコロジーへの関心は下火になっていった。SPD内部でもシ ︵ ︶ る。ゴアレーベン最終処分場候補地は、二〇〇〇年に連邦政府と電力業 ュレーダーの原子力政策の独自性が指摘される。 ︵ ︶ 界の間で締結された原子力合意では三年から一〇年の間調査が中断され ︵4︶選挙分析 、同年四月末のチェ 一九八六年六月のニーダーザクセン州議会選挙は ︵ ︶ ルノブイリの事故により、少なからぬ影響を受けた。八六年の選挙戦で ることになっており、かなりの類似性が看取される。 た。その合意には、SPDの同意がなければ新しい原子炉は建設されな は、緑の党とSPDがそれぞれ程度は異なるものの原子力エネルギーか 子力エネルギー利用の断念を拒否した。緑の党が原子力からの即時撤退 を主張する一方で、SPDはより穏健な、段階的期間を設けた﹁撤退へ のアプローチ﹂を主張した。 この州議会選挙の結果、CDUは絶対多数を失ったが、FDPを連立 相手にして再び州政権を続投した。ただし、CDUとFDPは合わせて ニーダーザクセン州のSPDは、一九九四年の選挙綱領では次のよう に述べている。 ﹁ゲアハルト・シュレーダーのエネルギー合意へのイニ るがした。すなわち、初めて、原子力エネルギーからの撤退が現実的な 七八議席であり、SPDと緑の党を合わせた七七議席との差はわずか一 ︵ ︶ 見通しとなった。ニーダーザクセン州は、その際にオピニオンリーダー 議席だった。CDUはアルブレヒト州首相が留任し、FDPは与党とな ︵ ︶ の地位を引き受ける﹂ 。ゴアレーベンに関しては、拒絶の態度を固持し り、SPDは約六% 得票率を伸ばした。緑の党は得票率を〇・六% 伸ば ︵ ︶ た。 ﹁最終処分場を我々は拒否する﹂ 。 緑の党の﹁即時停止﹂よりも、SPDの原子力エネルギーからの﹁撤退 ︵ ︶ しかしながら、シュレーダーの主導による示談はボンの連立政権のみ ならず、SPD内部でも議論の余地のあるものであり、SPD幹部会で への着手﹂の方が、投票者に受け入れられたことを示していた。政策能 ︵ ︶ は、彼の路線にならうべきか協議された。結局、一九九四年の選挙を控 力に関する世論調査において、SPDがCDUに勝てたのは環境保護の 84 75 いことを決議していた。確かにSPDにも、エコロジー的革新を中心に ︵ ︶ えていたため、重要なテーマにおいて歩み寄りをすることは不可能であ みだった︵表1︶。 ︵ ︶ り、SPD幹部会はシュレーダーの脱原子力政策の方向性には協力しな 74 シ ア テ ィ ブ は、 絶 望 的 に 行 き 詰 ま っ た よ う に み え て い た 戦 線 を 再 び 揺 80 その後、緑の党は招待を取り消されたが、約二年間の交渉の結果、連 邦政府とSPDは、一九九五年六月に妥協点へと達するまでに至ってい いという内容を含んでいた。しかし、SPD党首ルドルフ・シャーピン らの脱却を訴えた一方で、CDUとFDPは同事故後にもかかわらず原 ︵ ︶ グおよび副党首オスカー ラ ・ フォンテーヌは、この妥協は党大会で定め られた脱原子力エネルギーの決議と相容れないとして拒否した。 78 77 したが、貴重な機会を十分に生かすことが出来なかった。このことは、 82 81 83 がどこまでチェ 勿論選挙には複数の要因が存在し、今回の選挙の結果 ︵ ︶ ルノブイリ事故の影響を受けたかは明確にはできないが、当時の連邦政 85 76 据 え、 原 子 力 の 利 用 を 明 確 に 否 定 し た ベ ル リ ン 綱 領 の 存 在 が 指 摘 さ れ 75 ドイツ社会民主党の脱原子力政治 79 72 73 表1 どちらの州政権のほうが政策能力があるか(%) CDU主導 SPD主導 失業 42 31 農業保護 37 19 環境保護 30 38 経済活性化 46 24 (出所)Forschungsgruppe Wahlen e.V., Wahl in Niedersachsen. Eine Analyse der Landtagswahl am 15. Juni 1986, Mannheim 1986, S. 40. 表2 全政党の連邦議会選挙結果(%) CDU╱CSU SPD FDP 緑の党 左派党╱PDS * 1976.10 48.6 42.6 7.9 - - 1980.10 44.5 42.9 10.6 1.5 - 1983.3 48.8 38.2 7.0 5.6 - 1987.1 44.3 37.0 9.1 8.3 - 1990.12 43.8 33.5 11.0 5.0 2.4 1994.10 41.5 36.4 6.9 7.3 4.4 1998.9 35.1 40.9 6.2 6.7 5.1 2002.9 38.5 38.5 7.4 8.6 4.0 2005.9 35.2 34.2 9.8 8.1 8.7 * 2005 年から左派党(Die Linke)の票。それ以前は民主社会主義党(PDS)の票。 (出所)Deutscher Bundestag, http://www.bundestag.de/parlament/wahlen/sitzverteilung/index.html 表 3 ニーダーザクセン州議会選挙結果(%) CDU SPD FDP 緑の党 1978.6 48.7 42.2 4.2 3.9 * 1982.3 50.7 36.5 5.9 6.5 1986.6 44.3 42.1 6.0 7.1 1990.5 42.0 44.2 6.0 5.5 1994.3 36.4 44.3 4.4 7.4 1998.3 35.9 47.9 4.9 7.0 2003.2 48.3 33.4 8.1 7.6 * 緑のリスト環境保護(GLU, Grünen Liste Umweltschutz) (出所)Niedersächsisches Landesamt für Statistik, http://www1.nls.niedersachsen.de/statistik/ より筆者作成。 ゲシヒテ第1号 76 10.9 7.0 6.8 0.5 1.5 1.1 24.9 1.9 0.5 1.4 1.4 26.5 4.0 REP 1.1 0.8 その他 1.0 0.3 府政権与党から野党に票が移行する際、両者の志向する原子力政策の差 6.1 69.0 1.4 異は明確であり、その結果ニーダーザクセン州では、両者の得票率の差 1.8 2.5 3.5 4.3 が著しく縮小したことが看取される。 58.3 0.9 ︵ ︶ 43.1 5.8 続く一九九〇年のニーダーザクセン州議会の選挙戦で、SPDのシュ レーダーは、原子力エネルギーからの撤退を掲げ、ゴアレーベンにおけ 33.3 25.2 5.9 ︵ ︶ 10.3 9.1 FDP る最終処分場の計画を拒否した。さらにモニカ・グリーファーンという 17.6 緑の党 グリーンピース活動家を環境大臣として擁立した。緑の党は、﹁ニーダ 4.4 31.9 5.9 ーザクセンのエコロジー的転換﹂というスローガンを掲げ、政党結成の 4.3 89.8 87.8 43.8 際の諸運動と同州緑の党の関係の強さを強調した。 無投票 42.4 によれば、 一九九〇年のニーダーザクセン州議会選挙の際、世論調査 ︵ ︶ 政治上の最も重要視された問題は環境保護︵三二%︶だった。続いて住 その他 SPD 宅市場︵一六%︶ 、ドイツ再統一問題のような国内政治︵九%︶、東独移 住者問題︵八%︶、東独情勢︵七%︶ 、幼稚園問題︵六%︶、農業︵五%︶ であった。特にドイツ再統一のような政治問題は、CDUとFDPに有 利に働いたが、緑の党は一九八六年のチェルノブイリ事故後、原子力エ ︵ ︶ ネルギー利用への根本的な批判を中心に票を伸ばした。さらにSPDに とって当時連立可能な政党は緑の党だけだった。 ︵ ︶ 一九八六年の州議会で緑の党に投票した人々のうち、一九九〇年時に 再び緑の党に投票したのはわずか五八・三% にとどまった一方で、SP Dに三一・九%もの票の移動があった︵表4︶。 挙では、主な争点は失業問題 一九九四年のニーダーザクセン州議会選 ︵ ︶ であり、他の政治的テーマは後景に退いた。同州における最重要問題と ︵ ︶ FDP CDU 88 して、失業問題が六八%を記録し、一方で一九九〇年当時に三二%を記 緑の党 CDU 87 た、一九九〇年に経済状況が良いと答えた人が三五%に上った一方で、 77 ドイツ社会民主党の脱原子力政治 89 SPD 全体 選挙(90)第2票 90 91 録した環境保護のテーマは、一九九四年には一五%でしかなかった。ま 92 ニーダーザクセン州議会選挙(1986) 86 表 4 政党間の票の移動(%) (出所)Forschungsgruppe Wahlen e.V., Wahl in Niedersachsen. Eine Analyse der Landtagswahl vom 13. Mai 1990, Mannheim 1990, S. 33-34. ︵ ︶ 一 九 九 四 年 に は 六% で し か な か っ た。 ニ ー ダ ー ザ ク セ ン 州 のS P D は 93 一 九 九 四 年 の 州 議 会 選 挙 の 政 治 的 争 点 を 失 業 問 題 に 集 中 さ せ、 そ の 結 果、単独政権を樹立するに至った。 5 31 14 (出所)Forschungsgruppe Wahlen e.V., Wahl in Niedersachsen. Eine Analyse der Landtagswahl vom 13. März 1994, Mannheim 1994, S. 44. 5 結論 これまで、ニーダーザクセン州における脱原子力をめぐる政治過程を 叙述してきた。主に一九九〇年から九四年にかけてニーダーザクセン州 は、一九八五年一二月のヘッセン州をはじめ、 SPDと緑の党の連合 ︵ ︶ 諸州で政権を担ってきた。特にニーダーザクセン州は、原発の操業に不 適切な処置をとってこなかった。 む負担を一地域に集中させ、当該地域の住民の反対行動にも関わらず、 の際に産出される放射性廃棄物の処分について明確に定めてこなかった の赤緑連立政権は脱原子力政策に取り組んだが、その動因には、連邦レ 34 住宅市場 一九九四年まで、シュレーダー前首相はニーダーザクセン州の赤緑連 立政権においてキャリアを積み重ね、脱原子力を志向しつつも実務担当 環境保護 ベルの原子力政策に関わるいくつかの問題点が挙げられた。すなわち連 14 能力とそれによる信頼を勝ち得ていた︵表5︶。大胆な構造改革を訴え 21 28 邦政府は石油危機後に原子力推進政策を採択しておきながら、原発操業 27 る彼にとって、脱原子力政策は重要な要因の一つであった。同時に、彼 経済 失業問題 ことに加えて、その際の廃棄物処分地というきわめて重大な危険性を孕 CDU主導 SPD主導 の躍進は、原発を社会的 経 ・ 済的に穏当なやり方で段階的に減らしてい くべきという人々のメンタリティの表れでもあったといえよう。 表 5 どちらの州政権のほうが政策能力があるか(%) ー か ら 撤 退 す る と い うS P D の 政 策 は、 原 子 力 推 進 を 固 持 す るC DU 党内の世代交代があったことが指摘されよう。段階的に原子力エネルギ に変化したこと、ならびにシュレーダー前首相の躍進に見られるように 党内のイデオロギー状況がエコロジーやオルターナティブ思考へと有利 挙げられる。さらにはSPD党内において、シュミット政権崩壊後に、 SPDが脱原子力政策を行う背景には、チェルノブイリの事故のドイ ツ社会への衝撃の大きさ、比較的好景気の経済状況、緑の党の台頭等が 志向した電力業界と連邦政府との話し合いが進められていた。 終処分場建設の促進を遅延させる試み、ならびに脱原子力エネルギーを 二〇〇〇年の原子力合意に先駆け、連邦政府のゴアレーベンにおける最 で あ っ た。 同 州 で は、 シ ュ レ ー ダ ー の 主 導 す る 赤 緑 連 立 政 権 に よ り、 可欠である最終処分場の候補地を旧西独の連邦諸州の中で唯一抱える州 94 ゲシヒテ第1号 78 ╱CSUに対してSPDの独自性をうちだすことのできる諸要因の中の 一つに数えられ、かつ緑の党が主張する原発の即時撤退ほど極端でもな く 経 済 性 を ふ ま え た も の で あ り、 人 々 に と っ て 受 け 入 れ や す い も の で あった。ニーダーザクセン州のSPDは、一九八六年の州議会選挙では 脱 原 子 力 を テ ー マ と し、 一 九 九 〇 年 も 環 境 保 護 を 争 点 と し て、 そ し て 一九九四年には、翻って失業問題を政治的争点として勝利した。ニーダ ーザクセン州SPDの経験は、ドイツ連邦共和国と自身の政党における 重大な変化を反映した結果生じたものであり、かつ、その時々の情勢に よって柔軟に対応する左右の振れ幅を保持することによって、安定した “DIE も一貫して﹁緑の党﹂と呼 “BÜNDNIS90/DIE GRÜNEN” ︶ 現在の正式名称は も GRÜNEN” ︶ 原 子 力 合 意 に 関 し て は、 以 下 の ホ ー ム ペ ー ジ を 参 照。 ぶこととする。 。本 稿 で は 、 “BÜNDNIS90/DIE GRÜNEN” 票を獲得するSPDの選挙戦略の実証の一つとなるものである。 ︵ 注 ︵ Vereinbarung zwischen der Bundesregierung und den Energieversorgungsunternehmen vom Gemeinsam für Deutschland ︵ http://www.bmu.de/atomenergie/doc/4497.php ︶ . 14. Juni 2000, Berlin 2000 SPD, Berlin 2005, S. 41. ︶ トリッティン前環境大臣の発言などがある。 BMU, Pressemitteilungen, – mit Mut und Menschlichkeit – Koalitionsvertrag zwischen CDU, CSU und ︵ ︶ CDU╱CSUとSPDの連立協定を参照。 ︵ Nr. 148/05, Berlin 12. Juni 2005. ︵ ︶ 詳細は、次の資料を参照。 Rucht, Dieter, Von Wyhl nach Gorleben. Bürger gegen Atom- programm und nukleare Entsorgung, München 1980, S. 2. ︵ and Power, Manchester 2000. ﹂ ﹃ 労 働 運 動 研 究 ﹄三 四 二 号、 一 九 九 八 年、 ― ︶ 小野一﹁ドイツ・ニーダーザクセン州議会選挙 PD ︶の記録的勝利 二三頁 小 ﹃技術と人 ; 野 一﹁ ド イ ツ の 脱 原 発 協 定 を め ぐ っ て ﹂ ― 二五頁。 ― ﹄ありえす書房、一九八七年、 ― 国民政党の実践と課題 ― ﹄ 三 元 社、 ― そ の党内対立の ― ﹂ 日 本 ド イ ツ 学 会 編﹃ ド イ ツ 研 究 ﹄ 三 一 号、 ― 思 想史的位 ― ﹂ ﹃ ロ バ ア ト・ オ ウ エ ン 協 会 年 報 ﹄ 二 四 号、 ― ︶ 小野一﹁ドイツにおける﹃赤と緑﹄の実験とその挫折 二〇〇〇年、一二三頁。 歴史的位相と現状 ︶ 西 田 慎﹁ シ ュ レ ー ダ ー 社 会 民 主 党 の ジ レ ン マ 一九九六年、一六七頁。 ツ社会民主党の戦後史 ︶ ペ ー タ ー・ レ ッ シ ェ / フ ラ ン ツ・ ヴ ァ ル タ ー︵ 岡 田 浩 平 訳 ︶ ﹃ドイ 二五四頁。 ゴーデスベルク前後のSPD ― い る。 ズ ザ ン ヌ・ ミ ラ ー︵ 河 野 裕 康 訳 ︶ ﹃戦後ドイツ社会民主党史 ︶ ここで 挙 げ る 該 当 箇 所 は、 そ れ ぞ れ 次 の 本 に 資 料 と し て 掲 載 さ れ て 間﹄一〇月号、二〇〇〇年、一八 二〇 シュレーダー︵S ― Lees, Charles, The Red-Green Coalition in Germany. Politics, Personalities Landerebene seit 1949, Opladen 1994, S. 189-206. Betrachtungen, Dokumentaion und Analyse der Koalitionsbildungen auf Jun, Uwe, Koalitionsbildung in den deutschen Bundesländern. Theoretische S. 181-189. Sendler, Horst, Anwendungsfeindliche Gesetzesanwendung, in : DÖV, 1992, ︶ ゼンドラーの呼ぶところによる﹁撤退を目指した法律執行﹂である。 ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︵ ︵ ︵ ︵ 置づけのための試論 二〇〇〇年、二三頁。ただし、SPDは脱原子力という価値観一辺倒 79 ドイツ社会民主党の脱原子力政治 6 7 8 9 10 11 12 13 1 2 3 4 5 ︵ ︶ 永井、前掲書、一一一頁。 のではあった。住沢、同上、二一三頁。 観が混在しており、一方では環境、一方では経済を重視するというバ ︵ ︶ ではなく、経済を優位とする側面もある。SPD党内には多様な価値 ランスが指摘される。このことは、SPDのアイデンティティーをめ ︵ Münster 2001, S. 217ff. Parteivorstand der SPD (Hrsg.), Sichere Energieversorgung ohne Atomkraft. Beschluß zur Energiepolitik der SPD. Parteitag in Nürnberg 25.-29. 8. 1986, Bonn 1986. ︶ バ ー ト・ ゴ ー デ ス ベ ル ク 綱 領 か ら ベ ル リ ン 綱 領 へ の 変 化 の 解 説 お よ び 西ドイ ― 七八五頁。 ― Hatch, Michael, “Corporatism, Pluralism, and Post-industrial Politics”, in : West European Politics, vol. 14, 1991, p. 88. ︶ 一九七八年当時のニーダーザクセン州のエネルギー政策に関する詳細 は、次の資料を参照。 SPD-Fraktion im Niedersächsichen Landtag, Sichere SPD-Landesverband Niedersachsen (Hrsg.), Macht unser Energie und eine menschliche Umwelt für Niedersachsen, Hannover ca.1978, S. 19. Ebd., S. 26. ︶ 以下の資料を参照。 Niedersachsen stark. Unser Programm, Hannover 1985, S. 15. ︶ 反 対 の 理 由 と し て、 大 事 故 の 危 険 に 加 え て、 森 の 枯 死 と 放 射 能 の 関 係 性 に つ い て も 言 及 さ れ て い る。 Die Grünen / Landesverband Rede des Vorsitzenden der SPD-Landtagsfraktion Gerhard Niedersachsen, Programm zur Landtagswahl 1986, Hannover 1986, S. 30. Ebd. ︶ 以下の資料を参照。 Ebd., S. 22. ︵ ︵ ︶ ︵ ︵ ︵ ︶ ︵ ︵ ︶ 詳細は、以下の文献を参照。 三・四号、二〇〇二年、七五九 松 本 和 彦﹁ ド イ ツ にお け る原発 廃 止の法律問題﹂﹃ 阪大法学﹄五二巻 ︶ 新原子力法制定への経緯と憲法問題に関しては、次の論稿が詳しい。 “Wir wollen den Reaktor”, in : Der Spiegel, Nr. 1/1996, S. 23. ぐってブラントとレーベンタールの間で行われた論争にも垣間見られ よう。両者の論争に関しては、次の文献を参照。レッシェ/ヴァルタ ー、前掲書、一六三頁以下。 ︵ ︶ ミラー、前掲書、七九頁。 ︶ ︵ ︶ 詳細は、次の文献を参照。 Mohr, Markus, Die Gewerkschaften im Atomkonflikt, ︵ ︵ 抄訳は、次の文献を参照。永井清彦﹃われわれの望むもの ツ社会民主党の新綱領 ﹄現代の理論社、一九九〇年、一六〇頁。 ― ﹂住沢博紀・坪郷實・長尾伸一・阪野智一・長岡延 ― 二一 ― Schröder in der Debatte zur Regierungserklärung am 10. Juli 1986 im ︵ ︶ Ebd., S. 23. ﹄ 河 合 文 化 教 育 研 究 所、 ― ︶ もっともこの脱原発路線は明確なものではなく、党内の諸グループや ︵ ︶ Ebd. Niedersächsischen Landtag, Hannover 1986, S. 19. 電力事業に関連する化学 公 ・ 務員組合などの産別組合との妥協の産物 ︵ ︶ 二四九頁。 ― であり、一〇年という期限や条件についてはさまざまな解釈を許すも 一九九二年、一八六 世紀に向けたエコロジー戦略の可能性 孝 ・ 伊 藤 公 雄 編 著﹃ E C 経 済 統 合 と ヨ ー ロ ッ パ 政 治 の 変 容 における意義 ド イ ツ 社 会 民 主 党・ ベ ル リ ン 綱 領 の 成 立 過 程 と 統 合 ヨ ー ロ ッ パ ― ︵ ︶ 次の文献に詳しい。西田、前掲論文。 ︶ 以下の論稿を参照。住沢博紀﹁新しい社会民主主義と改革政治の復権 ︵ ︵ 23 22 21 24 25 27 26 28 30 29 33 32 31 15 14 16 17 19 18 20 ゲシヒテ第1号 80 ︵ ︶ Ebd., S. 24. Berlin 2006, S. 12. Abfall? Perspektiven für eine sozialwissenschaftliche Endlagerforschung, 定 性 ﹂ は 天 井 や 壁 面 が 崩 れ た り、 岩 石 が 崩 落 す る か し な い か に 注 目 し ︶ 本 稿 で の 立 坑 の﹁ 安定 性 /安全 性 ﹂に関しての語 句 の用い方は、 ﹁安 “Rot-grüne Hürden für Gorleben“, in : taz, 08. 03. 1991. Schröder, Gerhard / Gatter, Peter, Der Herausforderer. Gerhard Schröder im ︵ ︵ ︶ ︵ ︶ Gespräch mit Peter Gatter, München 1986, S. 135-136. ︶ こ の 点 に 関 し て は、 特 に 一 九 八 六 年 の リ ュ ヒ ョ ウ ダ ン ネ ン ベ ル ク 郡 Pätzmann, Holger, Analyse der た場合︵作業員への危害は関係ない︶ 、﹁安全性﹂は坑道が崩れるとい Rede des Vorsitzenden der SPD-Landtagsfraktion und Spitzenkandidaten Die neue Zeit hat einen Namen: soziale Demokratie. Auszüge aus der “Turbulenzen nach der Flucht aus Wackersdorf”, in : taz, 08. 06. 1989 “SPD-Niedersachsen weiter mit Schröder”, in : taz, 30. 11. 1987. “Schröder kritisiert Hamburger SPD”, in : taz, 19. 08. 1987. Ebd., S. 15. Ebd., S. 12-13. ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ “Schachtbau in Gorleben gestoppt”, in : taz, 10. 09. 1993. “Klan gegen Gorleben abgewiesen”, in : taz, 17. 07. 1991. “Klage gegen Gorlebener Atommüll”, in : taz, 03. 07. 1991. “Arbeiten am Endlager Gorleben gestoppt”, in : taz, 26. 04. 1991. “Gericht legt Morsleben vorläufig still”, in : taz, 26. 02. 1991. “Baustopp in Gorleben aufgehoben”, in : taz, 21. 02. 1991. ︵ に 着 目 し た 選 挙 分 析 が 作 成 さ れ て い る。 Landtagswahl 1986 in Niedersachsen – mit besonderer Berücksichtigung des う問題以外にも、メタンガスなどが充満して換気していないと窒息す ︵ ︶ für die Landtagswahl, Gerhard Schröder, beim Landesparteitag der SPD ︵ ︶ “Griefahn: Atommüllendlager Gorleben am Ende”, in : taz, 10. 09. 1993. SPD-Unterbezirks Uelen-Lüchow / Dannenberg, Uelzen 1986, S. 4. ︵ ︶ Niedersachsen am 10. Februar in Delmenhorst, Hannover 1990, S. 15. ︵ ︶ “Gorleben ungeeignet für Atommüll”, in : taz, 07.09.1993. る危険性や爆発事故の危険性など、範囲が広い場合に用いることとす ︵ ︶ Anda, Béla / Kleine, Rolf, Gerhard Schröder – Eine Biographie, Berlin 1996, ︵ ︶ “Das ist vor der Wahl gefingert worden”, in : Der Spiegel, Nr. 29, 1994, S. 61. ︵ ︶ ︶ S P D と 緑 の 党 の 連 立 協 定 を 参 照。 Greenpeace e. V., Atommüll-Endlager Gorleben – eine Fata Morgana, Hamburg 10/2005, S. 5. Ebd., S. 18. Schröder, Gerhard, Reifeprüfung. Reformpolitik Ebd. ︵ ︶ ︵ る。 ︵ ︶ S. 134. Landesverband DIE GRÜNEN ︵ ︶ “Das ist das Aus für Gorleben”, in : taz, 09. 10. 1993. ︵ ︶ ︵ ︶ Niedersachsen (Hrsg.), Koalitionsvertrag zwischen SPD Landesverband ︵ ︶ ︶ Niedersachsen und DIE GRÜNEN Landesverband Niedersachsen für die ︵ ︶ シュレーダーの自伝を参照。 ︵ Wahlperiode von 1990 bis 1994, Hannover 1990, S. 7. ︵ ︶ Grunwald, Armin / Hocke, Peter, “Die Endlagerung nuklearer Abfälle als ungelöstes “Atomkraft jetzt Übergangsenergie”, in : taz, 05. 12. 1992. am Ende des Jahrhunderts, Köln 1993, S. 17. ︵ ︶ ︵ ︶ 60 59 58 57 56 55 54 53 52 51 50 Problem, in : Hocke, Peter/ Grunwald, Armin, Wohin mit dem radioaktiven 81 ドイツ社会民主党の脱原子力政治 48 47 49 35 34 36 42 41 40 39 38 37 43 44 46 45 62 61 ︵ ︶ ︵ ︶ Ebd., S. 10. Schröder, a. a. O., 1993, S. 18. ︶ 澤 井 正 子﹁ 脱 原 発 を 選 択 し た ド イ ツ の 事 情 ﹂﹃ 世 界 週 報 ﹄ 九 月 五 日 Anda / Kleine, a. a. O., S. 142. ︵ ︵ ︶ また、連邦政府や “Strohfeuer oder Energiekonsens”, in : taz, 02. 03. 1993. 号、二〇〇〇年、一九頁。 ︵ ︶ 原子力業界との協議により段階的な脱原子力を実現させようとする ︵ 一九九九年、四頁。 Roth, Reinhold, “Die niedersächsische Landtagswahl vom 15. Juni 1986. Normalität 選挙結果分析と赤緑連合 く。 小野一﹁ドイツ総選挙で政権交代 ― 政権の今後│ ― ﹂﹃労働運動研究﹄第三四九号、一九九八年、四頁。 一九九八年のニーダーザクセン州議会選挙の大勝でようやく決着がつ は シ ャ ー ピ ン グ や ラ フ ォ ン テ ー ヌ と い う 強 力 な ラ イ バ ル も い た。 ︶ S P D 党 内 で は む し ろ 彼 は 冷 遇 さ れ て き た の で あ り、 ま た そ の 際 に ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ “Hauch von Ausstieg”, in : Der Spiegel, Nr. 3/1995, S. 83. Ebd. ; “An die Wand fahren”, in : Der Spiegel, Nr. 11/1997, S. 25. “Ein Kinken zuviel”, in : Der Spiegel, Nr. 44/1993, S. 22. “Konsens über atomaren Wiedereinausstieg”, in : taz, 07. 10. 1993. “Grüne Drohungen”, in : taz, 22. 11. 1993. い は、 ニ ー ダ ー ザ ク セ ン 州 赤 緑 連 立 政 権 の 存 続 の 危 機 に も な っ た。 指 摘 さ れ る。 エ ネ ル ギ ー 合 意 を め ぐ る S P D と 緑 の 党 と の 見 解 の 違 ︵ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ ︵ ︶ Roth, a. a. O., 1987, S. 10. ︵ ︶ なお、 ﹁環境保護﹂に原子力エネルギーからの撤退も含まれる。 Michaela ︵ ︶ “Weniger Gorleben, mehr Wohnungen”, in : taz, 12. 02. 1990, S. 22. Ebd., S. 12. “Ein Schiff kann lange brennen”, in : Der Spiegel, Nr. 1/1986, S. 11. Schmidt, Josef, “Ein Hauch von Risko”, in : SZ, 8. Juli 1986. des Wählerverhaltens”, in: ZParl, 18. Jg. (1987), H. 1, S. 9. ︵ ︶ “Atomstromer wollen nicht mehr buddeln”, in : taz, 20. 04. 1994. “Gummi und Stroh”, in : Der Spiegel, Nr. 43/1993, S. 134. ︵ ︶ “Fest in der Luft”, in : Der Forschungsgruppe Wahlen e.V., Wahl in Niedersachsen. Eine Analyse der Landtags- Spiegel, Nr. 5/1990, S. 68. よる政権参加を切望していたため妥協した。 ︶ こ の こ と に 関 し て、 緑 の 党 か ら は 批 判 が あ っ た が、 赤 緑 連 立 政 権 に 二月二〇日 。) ︶ の 注 釈 に よ る︵ 二 〇 〇 八 年 Forschungsgruppe Wahlen e.V. ︵ ︶ Anda / Kleine, a. a. O., S. 143. ︵ ︶ wahl vom 13. Mai 1990, Mannheim 1990, S. 14. なお、表3と表4 Forschungsgruppe Wahlen e.V., a. a. O., 1990, S. 33-34. Fünf-Prozent-Hürde”, in : HAZ, 10. 05. 1990, S. 3. ︶ Ebd., S. 11.すでに選挙の一ヶ月前からCDU とFDP が連立を組む こ と は 明 確 に 表 明 さ れ て い た。 “Kampf um eigenes Profil und gegen die ︵ ︶ ︵ 氏︵ Langner ︵ ︶ Niedersachsen SPD, Worauf Sie sich verlassen können. Wahlprogramm 1994, ︵ ︶ 現 実的 変 革 な く 第 一 段 階 終 了・ ト ー タ ― ﹂ ﹃ A T C ╱ 市 民 の 政 治 ﹄ 第 一 一 三 号、 ― ︶ 小野 一﹁﹃ 赤 と 緑 ﹄ の 実 験 野、前掲論文、二〇〇〇年、二五頁。 ︶ ベ ル リ ン 綱 領 の 革 新 的 性 格 と 限 界 に つ い て は 以 下 の 論 稿 を 参 照。 小 “Ein Kinken zuviel”, in : Der Spiegel, Nr. 44/1993, S. 22-23. ︵ ︵ ルな評価で未来を探る 87 86 85 88 89 90 Hannover 1994, S. 23. ︵ ︶ SPDに対して、早急に原発から撤退することを望む緑の党の反発も 79 80 84 83 82 81 65 64 63 67 66 74 73 72 71 70 69 68 77 76 75 78 ゲシヒテ第1号 82 ︵ ︶ の﹁全体﹂の数値における不整合は、世論調査に基づく誤差によるも の で あ る。 ま た、 選 挙 の 際 第 二 票 を 投 じ る 制 度 は、 ニ ー ダ ー ザ ク セ 氏︵ Matthias Jung Forschungsgruppe ン州では一九九〇年から導入されたものであるため、九〇年の方にの み 第 二 票 と 記 し て い る。 以 上 は、 ︶の注釈による︵二〇〇八年三月五日︶ 。 Wahlen e.V. Forschungsgruppe Wahlen e.V., Wahl in Niedersachsen. Eine Analyse der Landtagswahl vom 13. März 1994, Mannheim 1994, S. 46. ; Jung, Matthias / Roth, Ebd., S. 43. 一七三頁。 ― ﹂ ﹃ 一 橋 論 叢 ﹄ 第 一 一 八 巻 第 二 号、 一 九 九 七 ― ド イツ連邦諸州 ― Dieter, “Die Rückkehr der großen Parteien”, in : Die Zeit, 18. März 1994. ︵ ︶ Ebd. 年、一五七 における経験から ︶ 小野一﹁﹃赤と緑﹄の実験の終わりと社会民主党 ︵ ︶ ︵ 付記 本 研 究 は、 平 成 一 九 年 度 の 大 阪 大 学 大 学 院 国 際 公 共 政 策 研 究 科 ︵ OSIPP ︶魅 力 あ る 大 学 院 教 育 イ ニ シ ア テ ィ ブ 事 業︵ 平 成 一 八 年 度 文 部 科 学省採択プロジェクト︶の研究助成を受けた調査結果および研究成果であ る。 ︵さとう ながこ・大阪大学大学院︶ 83 ドイツ社会民主党の脱原子力政治 91 94 93 92
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