Genesis 13-2, 14-1 ロト、ソドムへ (創世記13:10)「ロトが目を上げてヨルダンの低地全体を見渡すと、【主】がソドムとゴモラを滅 ぼされる以前であったので、その地はツォアルのほうに至るまで、【主】の園のように、またエジプ トの地のように、どこもよく潤っていた。」 当時、そこは美しい場所でした。 (創世記13:11-12)「それで、ロトはそのヨルダンの低地全体を選び取り、その後、東のほうに 移動した。こうして彼らは互いに別れた。アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に 住んで、ソドムの近くまで天幕を張った。」 面白いですね。おそらく、アブラムと一緒にかの地で過ごした間ずっと、ロトは夜になると天幕の入 り口を押し上げて奥さんにこんな風に言ったのではないでしょうか?「あの下の場所、あそこはき れいだねえ。」朝に起き出すと「あの下の場所は魅力的だねえ。」などと言ったかもしれません。隣 の芝生はいつでも青いのです。ロトが自分で決断してどこかに行けることになったとき、彼の行っ た方向はいわずと知れていますね。突然落ちる人は誰もいません。少しずつそうなって行くのです。 天幕の入り口を押し上げて見ていれば、ソドムの近くまで天幕を張ることになります。そしてこれは ほんの始まりです。ロトは目を上げて低地のほうを見、そして彼はそちらの方角で進んで行きまし た。これは、ロトの人生最大の過ちでした。 ロトは知らないことがありました。 (創世記13:13)「ところが、ソドムの人々はよこしまな者で、【主】に対しては非常な罪人であっ た。」 ロトと、彼の奥さんと家族にソドムで何が起こったかはあとで見ることにしましょう。 神さまがアブラハムに現れ、ご自分の約束を再確認される (創世記13:14)「ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。『さあ、目を上げて、 あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。』」 「ロトがアブラムと別れて後、【主】はアブラムに仰せられた。・・・」神さまがアブラムに現れたのは これが3度目です。 「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。」その土地こそ神さま がアブラムにくださろうとしている土地です。神さまが続けてアブラムと彼ののちの族長たちに現 れたとき、神さまはこの土地のまわりにしるしをつけられました。言い換えれば、神さまはこの土地 に境界線をもうけ、どこからどこまでがまさしく神さまが約束されている土地であるかを語られたの です。神さまは非常に具体的に語られました。 ひとつの考えを差し挟んでもいいですか?この考えは「いずこにかある美しき小島よ」という歌 を片付けてしまうはずです。お葬式で歌う必要の“ない”歌があるとすれば、これこそがその歌です。 アブラムが「いずこにかある美しき小島よ」の歌を歌いながら、まさにその真ん中に立って東西南 北を見回している姿を想像できますか?天国は、まさに約束の地が現実のものであったと同じよ うに現実のものです。いずこにかある美しき小島では“ありません”。神さまのことばにかなり具体 的に書かれている確かな場所です。黙示録の中で、神さまは天国についてとても具体的に語って おられます。神さまはそのすぐまわりに境界線をもうけられ、私たちは天国について何がしかを知 ることができます。神さまは理論上だけのものを取り扱われるのではなく、実際的で現実のものを 取り扱われるのです。 (創世記13:15-16)「『わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなた の子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数 えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。』」 神さまがアブラムに何をしてくださるか、見てください。神さまはこの土地に名札をつけ、おまえは そこにいるんだよ、と言われます。神さまはまた、アブラムが膨大な数の子孫を持つようになると いう事実を再確認されました。 (創世記13:17)「『立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与え るのだから。』」 死海写本のひとつが、創世記のこの特別な部分を説明していること、また、この土地についての アブラハムによる一人称の記事が載っているのは非常に興味深いことです。その時代、この土地 はすばらしい土地でした。 (創世記13:18)「そこで、アブラムは天幕を移して、ヘブロンにあるマムレの樫の木のそばに来 て住んだ。そして、そこに【主】のための祭壇を築いた。」 アブラムはよく祭壇を建てますね。アブラムは証しを残したので、彼がどこにいたかはすぐに分か ります。人間は月面に足跡を残しました。彼らは旗と、「われわれは平和のうちに来た(We have come in peace)」という小さな標語を月に残しました。でも、彼らはそこに神さまのことばである聖 書を残しては来ませんでした。アブラムの考え方と私たちが住んでいるこの時代の考え方の違い が、このことではっきりしますね。アブラムにとって大切なのは主のための祭壇で、まさに彼はその 大切なものである祭壇を建てたのです。 “マムレ”の意味のひとつは「豊かさ」、そしてヘブロンは「親しく語り合う」ことを意味します。 住むのに素晴らしい場所ですね。今日、アブラムが住んでいた場所の木と井戸が見つかっている ことはかなり確実です。 私はそこに行ったことがあります。アブラムが住んでいたその場所はヘブ ロンとマムレの間にある、かなり興味深い所です。豊かさと、神さまとの親しい語り合いの場所・・・ 住むのに良い場所ですね。ここがアブラムの定住地となり、死んだあと、彼はここに葬られました。 14章 —————— テーマ:東の王、ソドムとゴモラヲを攻略する。アブラハム、ロトを救出する。 アブラハム、戦利品を拒否する。 14章には、アブラムがロトを救った、最初の戦争の記録が書かれています。そして、最初の祭司 が登場し、アブラムはその祭司メルキゼデクから祝福を受けます。この章に、2つの偉大な真理が あります。ある意味では、この章はもっとも特筆すべき章です。物語の中にまったく当てはまらない ように思えます。ここにこの物語がなくてもつじつまが合うし、この章なしに物語の流れがあります。 でも、この章は、創世記の中でももっとも大切な章のひとつです。 東の王、ソドムとゴモラを攻略する (創世記14:1-2)「さて、シヌアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドル ラオメル、ゴイムの王ティデアルの時代に、これらの王たちは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシ ャ、アデマの王シヌアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ベラの王、すなわち、ツォアルの王と戦っ た。」 まず始めに、これは歴史的な文書であることを言っておきましょう。1~11節の中に東の王たちが ソドムとゴモラの王たちを破ったことが記録されています。何年もの間、批判的で急進的な学者た ちは、これらの人物たちの名前は一般の歴史に全く出て来ないし、まったくばかばかしい物語だと 言ってこの記事を拒否していました。でも、これらの王たちの名前は記念碑や石版に刻まれてあり、 彼らが本当に存在したことを示していることをご存知でしたか?事実、アムラフェルは、ほかの一 般の歴史ではハンムラビとして現在知られています。ここにある記録は、非常に意義のあるもので す。 これは、聖書の中で最初に記録されている戦争です。人間は早いうちから戦争を始めました ね。この戦争は記録されているものとしては最初のものですが、これが実際に起こった初めての 戦争であったかどうかは私には分かりません。著者はどうも、そうは言っていないように思えます。 この戦争が記録に載っているのは、アブラムの甥であるロトが関わっているからです。 (創世記14:3-4)「このすべての王たちは連合して、シディムの谷、すなわち、今の塩の海に進 んだ。彼らは十二年間ケドルラオメルに仕えていたが、十三年目にそむいた。」 東の王たちは、ソドムとゴモラに反逆して立ち上がりました。これらの王たちは明らかに以前に戦 いました。なぜなら、東の王たちがこれらの低地の町々を征服したからです。でも、町々は反逆に 達しました。5―11節に東の王たちがどのようにして死海の低地の部分の周りで連合した王たち を負かしたかという記事が書かれています。 (創世記14:12)「彼らはまた、アブラムのおいのロトとその財産をも奪い去った。ロトはソドムに 住んでいた。」 ロトはソドムに住んでおり、捕まってしまいました。ここにアブラムが自分の甥に関係して何をする かが明らかにされているので、この戦争をここに記録する意義があるのです。 アブラハム、ロトを救出する (創世記14:13)「ひとりの逃亡者が、ヘブル人アブラムのところに来て、そのことを告げた。アブ ラムはエモリ人マムレの樫の木のところに住んでいた。マムレはエシュコルとアネルの兄弟で、彼 らはアブラムと盟約を結んでいた。」 東の王たちが捕囚を連れてソドムとゴモラの地域を離れたとき、彼らは死海の西岸にそって北上 して行きました。死海の西岸は、アブラムの住むヘブロンとマムレからさほど遠くありませんでした。 死海に向かって何か動きがないかとアブラムがその日に立った場所にアナタも今日立つことがで きます。だから、アブラムに知らせがもたらされたとき、彼は即座に北上して敵を追ったのです。 「彼らはアブラムと盟約を結んでいた。」アブラムには盟約を結んだ人々がいたことに注目して ください。彼らは、敵を追ったり敵に近づくために、当時、共に立ち上がらなければなりませんでし た。一緒に頑張るか、あるいは自分ひとりで頑張らなければなりませんでした。 (創世記14:14)「アブラムは自分の親類の者がとりこになったことを聞き、彼の家で生まれたし もべども三百十八人を召集して、ダンまで追跡した。」 これは驚くべきことです。そしてこの記録で、アブラムがどれほどの財産を所有していたかが分か りますね。これで、アブラムが何人ぐらいのしもべを持っていたか、だいたい見当がつきます。彼の 家で生まれたしもべのうち、318人を召集することができました。召集できない人々は何人ぐらい いたのでしょう?たとえば、そこには女性や子どもや年よりもいたはずですが、アブラムは318人 を召集できたのです。それほどたくさんの雇い人がいたということは、アブラムの酪農ビジネスは かなりのものだったことを示しています。 「ダンまで追跡した。」ダンは北のほうの町です。 (創世記14:15)「夜になって、彼と奴隷たちは、彼らに向かって展開し、彼らを打ち破り、ダマス コの北にあるホバまで彼らを追跡した。」 アブラムは彼らをはるか北のダマスコのほうまで追撃しました。これはかなりの距離です。アブラ ムはしもべたちをふたつに分けたようです。ひとつのグループが敵を追いかけて背後から攻撃し ました。もうひとつのグループはぐるっと回って敵が最初のグループと戦うために後ろを振り返った ときに、背後から彼らを責めました。その結果、アブラムは勝利を得ることができました。最低、敵 を蹴散らすことができたので、彼らは砂漠を越えて散り散りに逃げ、とりこも戦利品もそこに残して いきました。 (創世記14:16)「そして、彼はすべての財産を取り戻し、また親類の者ロトとその財産、それに また、女たちや人々をも取り戻した。」 彼らは、女性たちやほかの人々を奴隷にするために連れて行っていました。甥のロトのためにア ブラムはすごいことをしました。このすべてのことは、それを知らせるためにここに書かれているの です。この章は、物語に関係のない章などではありません。これはアブラムの人生の一部であり、 非常に大切な部分です (創世記14:17)「こうして、アブラムがケドルラオメルと、彼といっしょにいた王たちとを打ち破っ て帰って後、ソドムの王は、王の谷と言われるシャベの谷まで、彼を迎えに出て来た。」 ソドムの王はアブラムを迎えに出て来ました。でも、今もうひとりの人がアブラムを迎えに出て来ま した。彼が出て来たことは良いことでした。というのは、ソドムの王はアブラムの前に、非常に危険 な誘惑を出してくるからです。 (創世記14:18-19)「さて、シャレムの王メルキゼデクはパンとぶどう酒を持って来た。彼はい と高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。『祝福を受けよ。アブラム。天と地を造 られた方、いと高き神より。』」 私はこの箇所にいくつかの疑問があります。あなたもきっとそうでしょう。まず第一に、このメルキ ゼデクという人物は一体全体どこからやって来たのでしょう?彼は、聖書の1ページにパンとぶど う酒をもって出て来てアブラムを祝福し、そして聖書のページからまた消えてしまうのです。それだ けです。この人がどこから来たのか、どこへ行くのか、彼のなりわいは何なのか、不思議です。 彼はシャレムの王で、しかもいと高き神の祭司でした。さて、ここで、もうひとつの質問です。彼 はどのようにして「いと高き神」について知ったのでしょう?どこかで分かったのです。 “エル・エロ ヒーム”はいと高き神さま、天と地の造り主、言い換えれば、生ける神さま、創世記1章の神さま、 ノアの神さま、エノクの神さまなのです。この方は、一部地域の神ではありません。H・C・ルーポル ドは創世記についての本の中に、これは「厳格に一神教的な概念」であると書いています。サミュ エル・M・ツウィーマー博士は、彼の本“宗教の起源”の中で、このことは多神教よりも以前から一 神教があったことを示していると言っています。言い換えれば、すべての人間は生けるまことの神 さまの知識を持っていると言えるでしょう。 (ローマ1:21)「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせ ず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。」 パウロは続けて、人間は造り主ではなく、造られたものを礼拝し始める地点まで堕ち続けたと 書いています。 しかし、アブラムの時代に、その時代の世界のための大祭司がいました。彼は生けるまことの 神さまの知識を持っています。彼は生けるまことの神さまの祭司です。彼はアブラムのためにパン とぶどう酒を持って出てきます。パンとぶどう酒といえば聖餐式のためのものではありませんか! 彼は何を考えていたのでしょうね?メルキゼデクはどれくらいのことを知っていたのでしょう? メルキゼデクは聖書の中に3回出てきます。創世記のこの箇所に加えて、キリストのことを預 言している詩篇110:4に出てきます。 (詩篇110:4)「【主】は誓い、そしてみこころを変えない。『あなたは、メルキゼデクの例になら い、とこしえに祭司である。』」 最後には、へブル人への手紙の中に何度か出てきます。へブル人への手紙を読んだあと、私 は、創世記の中にどうしてメルキゼデクの成り立ちのことが書かれていないかが分かりました。彼 の両親について、何も書かれていません。創世記は家系の書物ですから、何も書かれていないと いうのは不思議なことです。創世記は家系の始まりについて書いてあるのです。このメルキゼデク のように、系図の中で大切な人物が登場すると、その人の両親のことが書かれます。「彼はだれ それの息子であり」とか、「これらが、だれそれの世代の人々である」とかです。メルキゼデクの世 代の人々は書かれていません。ヘブル人への手紙の著者は、メルキゼデクの父も母も、彼の始ま りも終わりも書かれていないことの理由はキリストの祭司職の始まりは、メルキゼデクの位に等し いからだと言っています。 主がご自分を犠牲にしたこと、今は天である至聖所に入られたことという“奉仕”においては、 キリストの祭司職はアロンの位に等しいのです。でも、人格において、私たちの主は、初めもなく 終わりもなく、主の祭司職はメルキゼデクの位に等しいのです。王として、キリストはアブラハムの 子であり、ダビデの子です。マタイの福音書に書かれています。でも、ヨハネの福音書には、こう書 かれています。 (ヨハネ1:1、14)「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であっ た。・・・ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもと から来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」 主には被造物と同じ意味での始まりや終わりはありません。主は、永遠の神さまです。主は 天の栄光をあとにして来られました。ことばは人となり、私たちはこの方の栄光を見たのです。メル キゼデクのうちに、私たちは素晴らしい主イエス・キリストの肖像を見るのです。 「パンとぶどう酒を持って来た。」なぜメルキゼデクがそのようなことをしたか、今は分かります。 聖書に (I コリント11:26)「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来 られるまで、主の死を告げ知らせるのです」 と書かれているからです。メルキゼデクは、キリストの死を予期したのです! それを基にして、メルキゼデクはアブラムを祝福しました。「祝福を受けよ。アブラム。天と地を 造られた方、いと高き神より。」エル・エロヒーム、創造主です。この人物は当時の世界の大祭司で した。主イエスが今日の世界の偉大な大祭司です。主イエスは、アロンのではなく、メルキゼデク の位に等しいのです。アロンはただイスラエルのためであり、幕屋のためだけでした。人格におい て、キリストはメルキゼデクの位に等しい方なのです。 (創世記14:20)「『あなたの手に、あなたの敵を渡されたいと高き神に、誉れあれ。』アブラムは すべての物の十分の一を彼に与えた。」 アブラムは、一番最初にメルキゼデクに十分の一を払いました。なぜ、十分の一を治めることを知 っていたのでしょう?明らかに、ほかのことに関してと同じように、このことに関して神さまの啓示 があったのでしょう。
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