ぶれない頭と眼を養う「哲学的訓練」 ――指 針 なき現 代 の一 歩 先 を読 み解 くための実 践 講 座 佐藤 優 (聞き手・小峯隆生) ※ 外 交 の 最 前 線 で 培 っ た 対 人 術 の 要 諦 を ま と め た 書 籍『 人 た ら し の 流 儀 』で 、佐 藤 優 さ ん の 聞 き 手 を 務 め た 小 峯 隆 生 こ と 、私 は 、筑 波 大 学 で『 コ ミ ネ 語 り 』と 称 し た 講 座 を 不 定 期 で お こ な っ て い る 。私 の 講 座 に 、佐 藤 優 さ ん を ゲ ス ト ス ピ ー カ ー と し て 招 き 、始 め た の が 、こ の ワ ークショップ。新しい世界観を身に着けるべく、今月も、ともに学んでいこう。 第四回 虹は七色ですか? 佐藤 われわれ日本人は「虹の色は何色?」と問われれば、七色と答えます。おそらく小 1 学 生 で も そ う 答 え る で し ょ う 。 誰 も 「 三 色 」 だ っ た り 、「 十 色 」 だ っ た り と は 言 い ま せ ん 。 で も 世 界 に は 、 三 色 で す 、 十 色 で す 、 と い う 人 々 も 大 勢 い ま す 。「 七 色 の 虹 」 と い っ て 通 じ る の は 、日 本 の 文 化 圏 の 中 だ け な の で す 。つ ま り 日 本 人 の 間 に は 、 「 虹 は 七 色 」と の 共 通認識があり、それがいわば常識となっているわけです。 こうしたことについて、廣松渉さんの『新哲学入門』では、共同主観性(間主観性)と いう言葉をよく使って説明しています。自分と他人の間に共通の認識があるから、物事や 世界が成り立っているという考え方です。 ― ― な る ほ ど 。す る と も し か し て 、虹 が 見 え た ら な ん と な く ラ ッ キ ー と 思 っ て し ま う の は 、 日本人だけなんでしょうか。 佐藤 それも、日本の文化の中での話です。中国では、子どもは親から「虹を見ると目が つぶれる」と言われることがあります。 それに中国の政治家は、虹を好みません。古来、虹は、地上の秩序に怒っている天の不 だい き きん 満の表明だと伝えられてきたからです。大飢饉、天変地異、政変の象徴のように言われる こともあります。 ― ― な ん だ か 、日 本 と 真 逆 で す ね 。で も 、ハ リ ウ ッ ド 映 画 な ど で は 、ラ ス ト シ ー ン と か で 、 希望の虹が彼方に……なんてシーンたくさんありますよ。欧米は虹に対する感覚が日本に 2 近いのでしょうか? 佐藤 ハリウッド映画などで、虹が希望の象徴のように描かれるのは、ユダヤ・キリスト はこぶね 教の影響が大きいと思います。旧約聖書に出てくるノアの方舟の物語ですね。 さいだん 大洪水がおさまった世界で、祭壇を築き、捧げ物をしたノアたちに対し、神はもう大洪 水を起こさない証として空に虹をかけるのです。 今の日本人が虹に良いイメージを抱いているのも、近代以降に欧米化が進んだことが大 きいでしょうね。 わ れ わ れ は 、 三 角 の 島 に 住 ん で い る !? 佐藤 廣 松 さ ん の 哲 学 の キ ー ワ ー ド に 、「 物 象 化 」 が あ り ま す 。 人間は、その社会的環境において他者との関係を有します。その関係がモノのように見 えてしまう現象を「物象化」と、廣松さんはいっているのです。マルクスの考え方からさ らに発展させた考え方です。 マルクスは、近代以降、人間は自らが作り出した社会システムに取り込まれ、いつの間 3 に か 、主 導 権 を 持 た な い 歯 車 に な っ て し ま っ て い る 、と い う 考 え 方 を 示 し 、そ れ を「 疎 外 」 と 呼 び ま し た 。そ し て 、人 間 性 を 取 り 戻 さ な く て は な ら な い と 主 張 も し ま し た 。そ の 主 張 ・ 考え方を「疎外論」と言います。もっとも「疎外」という元には、取り戻されるべき「本 来の姿」があるという前提があります。 廣松さんは、この「本来の姿」なんていうものはなく、関係性こそが常識だったり、社 会のシステムだったりをつくりだしている、と考えたのです。 お米で考えてみましょうか。 A さ ん と B さ ん が お 米 を 生 産 し て い る と し ま す 。同 じ 時 間 を か け て 、同 じ だ け の 収 穫 を 得て販売しました。しかし、Aさんの生産したお米は、コシヒカリ。B さんのお米は一般 のごくごく普通のお米でした。結果、Aさんのお米の方が高く売れ、多くの収入を得まし た。 いわば、Aさんのお米は「ブランド米」だからこそ売れたわけです。生産者と消費者、 消費者と消費者の関係性から生まれたものです。 「 ブ ラ ン ド 米 」と い う の も「 物 象 化 」の ひ とつの現われなんですね。 さて、この「物象化」ですが、じつは仏教の考え方に似ています。 ユ ダ ヤ ・ キ リ ス ト 教 で は 、「 世 界 」 は ど う や っ て で き た と な っ て い ま す か ? ――光あれ、ですよね。 4 佐藤 び だつ ま そ う 。で は 、仏 教 は ? ゆいしき あ と な る と … … 。答 え を い っ て し ま い ま す が 、 「 唯 識 」と 、 「阿 く しやろん 毘達磨倶舎論」で展開されるアビダルマ哲学が重要になります。 「唯識」は、大まかにいえば「世界は心にあり、外界はない」という考え方です。 一 方 、 ア ビ ダ ル マ 哲 学 で は 、「 世 界 は す べ て 関 係 性 に よ っ て 成 り 立 っ て い る 」 と 考 え ま す。 アビダルマ哲学は、上座部(いわゆる小乗仏教)の考え方ですが、大乗仏教の経典にも アビダルマ哲学をふまえたものが少なからずあります。たとえば、法華経に出てくる宇宙 観です。 こ くう 虚空の中に風が吹いてくる。やがて、風はグルグルと回っているうちに、上部に水の層 (水輪)ができる。その層が厚くなってくると、牛乳を沸かした時にできる膜のようなも のができる。しかも、それは金属の膜。 そ の 膜 を 金 輪 と 呼 び ま す 。そ の 水 輪 と 金 輪 の 境 目 を 金 輪 際 と い い ま す 。 「お前とは金輪際 付き合わない」なんて言うときの「金輪」の語源です。 そ の 金 輪 か ら 、山 が 出 て く る 。そ の 山 の 名 が 、須 弥 山( シ ュ ミ セ ン )。こ こ は ス メ ー ル 世 界とも呼ばれます。 や が て 、そ の 須 弥 山 を 中 心 に 、四 つ の 島 が で き あ が る 。四 角 い 島 、丸 い 島 、三 日 月 の 島 、 三角の島の四つです。 5 我々は、その三角の島に住んでいるというのが、阿毘達磨倶舎論の創世の考え方です。 空は、なぜ青いのかも、きちんと解説されています。 ――地球には大気があるから、太陽光の青い光をその空気が散乱させて……。 佐藤 スメール世界は少し違います。須弥山の側面にエメラルドの青い壁が嵌めこまれて いる、だから、空は青い。別の島に行くと、空の色は違います。 須弥山の上の方には天上界、我々の住む三角の島のある地上の少し下がった所には、畜 生道、さらにその下には餓鬼道、その下には地獄があります。 これがアビダルマ哲学の宇宙観ですけど、実体としてあるわけではなく、すべて関係性 (物象化)からできています。 さ ら に 関 心 が あ る の な ら ば 、『 存 在 の 分 析 「 ア ビ ダ ル マ 」 ― 仏 教 の 思 想 2 ― 』( 角 川 ソ フ ィア文庫)があります。大谷大学名誉教授・櫻部建先生と京都学派の哲学者・上山春平氏 が書いた本です。興味があれば、そちらも参照してみてください。 人間は文化的拘束の結果を体現する 佐藤 さて、関係性から生まれることを物象化と言いましたが、この物象化は文化的に拘 束されている面もあります。 6 ここで、質問です。 インドに、ボランティアとして汲み取り式公衆トイレを作りに行ったとします。どうな ると思いますか? ――そりゃー、現地の皆さんは、衛生的になると、喜んで、使うに決まっています。 佐藤 いいえ、誰も使いません。何の役にも立たないでしょう。 彼らの排泄物にもカースト制があるからです。先の廣松さんは「摂食のしかたや排泄の しかたでさえ本能のままではなく、文化的拘束」をされていると指摘しています。 ――排泄物にも偉いのと、偉くないのがあるのですか? 佐藤 あります。 カーストの違う人々の排泄物が混ざるのはタブーなのです。 インド人は、朝起きて排泄をしようとする際、カーストが違う他人の排泄物が自分のも のと混ざることを嫌がります。 だから、公衆トイレを作っても使用する人がおらず、何の役にも立たないとお話しした のです。 近代になる前まで、排泄物は、ある意味「宇宙」を反映していました。それは、身体か ら 出 て く る 残 余 で あ り な が ら 、全 部 人 格 が あ り ま す 。だ か ら 、そ の 話 を イ ン ド 人 と す る と 、 7 本 当 に 薀 蓄 の あ る 話 が で き た り も し ま す (笑 )。 人間は生まれたときは、精神も知能も未成熟で、その後の教育の成果で、一人前の大人 になります。この教育によっても文化的な拘束は生まれます。 また、歴史的背景も見逃すことはできません。戦前の日本では、こんなこともありまし た。 和式便所は足腰のバネを強くするから、洋式便所を使うなといった動きがあったのです。 なかやまただなお 早稲田大学出身で、中山忠直という論壇人がいましたが、この人が書いた『日本人の偉 さの研究』の中に、トイレの話が出てきます。 日本人は米の飯を食って、粘りっこい排泄物を出す、よって日本人は粘り強いのだと。 とくに重要なのは便所で、洋式の腰かけるスタイルではなく、跨ぐ便所だから足腰のバ ネが強くなり、喧嘩も強くなって、白人に打ち勝つ、と、こんな論を主張したのです。 大正デモクラシー直後は、周囲から「馬鹿じゃねーの」と軽蔑されていましたが、昭和 13 年 に な っ て 、 一 躍 注 目 さ れ ま し た 。 ――なんで、また、急に? 佐藤 昭 和 13 年 の 戦 時 体 制 下 で 、 こ の 本 の 第 二 版 が 出 版 さ れ た こ と も 影 響 し て い る と 思 います。 「一昔前は皆から馬鹿にされてきたが、今は周囲も、私と同じような主張をするようにな 8 った。日本はだいぶ、良くなった」と書いています。 太 平 洋 戦 争 に 向 か う 流 れ の な か で 、「 素 晴 ら し い 、 こ れ こ そ 、 日 本 思 想 で あ る 」 と な っ たようです。 お だ また、昭和 3 年のアムステルダム・オリンピックで、三段跳びで金メダルを獲った織田 みき お 幹雄氏も、きっと子供の時から和式便所で踏ん張ることを繰り返した結果、足腰のバネが 強くなったのだと、大真面目に当時の人々の間で語られていました。 いま、こんなお話をしても、多くの共感は得られないでしょう。これなどは、歴史的背 景による拘束の典型的な例ですね。 <つづく> 今月の内容をより深く学ぶための本 『新哲学入門』 廣松渉著 岩波書店(岩波新書) 『存在の分析「アビダルマ」―仏教の思想2―』 櫻部建著/上山春平著(角川ソフィア文庫) 9
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