1 ヨハネの福音書11章25節 「死んでも生きるのです」 1.キリストご自身

ヨハネの福音書11章25節
「死んでも生きるのです」
1.キリストご自身の復活の望み
イエスは死人を蘇らせるという奇跡を行なわれました。ルカの福音書ではナインのやもめの息
子を死からよみがえらせました。またマルコの福音書ではヤイロの娘を蘇らせ、今日のヨハネ
の福音書においてはマリヤとマルタの兄弟ラザロを復活させました。このことはイエスが全世
界の命を支配しておられることを証明しています。命はキリストによって支配され、キリスト
によって生かされ、イチジクの木がイエスの言葉によって枯れたように、また取られたりもす
るのです。
創造のはじめを振り返ってみるときに、主が命をこの地上につくられたことが明らかになりま
す。しかしヨブ記にあるように時として命を取られる方でもあります。
そのキリストはご自身を十字架にかけられその命を自ら投げ出されたのでした、ご自分から降
りようと思えば天の軍勢を呼びだしてローマ兵を蹴散らし、あの十字架から降りることも容易
にできたはずのイエスキリストは人間の罪のあがないのために自ら十字架にかけられました。
それは創世記からの神のご計画でした。
創世記3章14節にはこうあります。「神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事
をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、
腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえ
の子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかか
とにかみつく。」
おまえの子孫とはサタンの子孫、女の子孫は人類の子孫を指しています。この間に置かれた
のが敵意、つまりイエスキリストです。このキリストが、人類の歴史に介入し、罪にけがれた
人間のあがないとして十字架にかかったのです。
このことはマルコの福音書でも預言されていました。(マルコ10章33~34)
「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学
者たちに引き渡されるのです。彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。
すると彼らはあざけり、つばきをかけ、むち打ち、ついに殺します。しかし、人の子は三日の
後に、よみがえります。」
イエスが預言した通りイエスは法廷にかけられ民衆の声に押されて十字架刑が確定するのです。
しかしイエスは墓に納められましたが、そのままではありませんでした。預言の言葉のとうり
に3日目の朝、よみがえられたのです。
これはイエスがラザロや、ヤイロの娘や、ナインのやもめの娘を蘇らせたのとは大きく意味
が違っています。
パウロがはっきりと告げているように、キリストこそが「眠った者の初穂として死者の中か
らよみがえられた」(第一コリント15章20節)のです。
主は十字架につけられた後,3日目によみがえると預言されました。聖書はイエスの十字架、
3日目の復活、墓がからであったことについて語っています。4つの福音書はどれも、からの墓
について記しています、弟子たちが墓を間違えたのだ、と主張する説もありますが、大切なイ
エスの遺体が入った墓を間違える、ということが果たしてあるでしょうか。しかも墓は数人の
番兵が番をしており遺体が盗まれたという可能性も果てしなくゼロでしょう。
しかも主が復活されたという主要な点においては聖書のすべての記事が一致しています。
このようなことから私たちはイエスの復活に確信を持つのですが、弟子たちの行動からもその
ことを知ることができます。 安息日(土曜日)を守っていたユダヤ人の彼らが,なぜ主の日
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を日曜として守るようになったのか。また聖餐を祝うようになったのか。これらのことはみん
なキリストの復活によって意義を持つようになったのです。またバプテスマは、キリストと共
に葬られ、よみがえらせられたことのしるしでした。キリストが一度死なれたように、信じる
ものも水に入って一度死に、水から上がることによってキリストの復活を表しました。
2.復活の意義.
復活はイエスを力を持った神の御子として示しています。また「 ですから、イスラエルのす
べての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主とも
キリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」とあるように復活
はイエスを主としてキリストとして確かなものとしています。(使徒2章36節)そして死を滅ぼ
す方となられました。またそのよみがえりによって、主は生かす御霊となられました「 聖書に
「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊と
なりました。」とあります。(Ⅰコリ15:45)またイエスは復活されたことによって大祭司と
なられ生きている者と死んだ者とのさばき主となられたのです。
また、復活はあがないの御業の核心的な部分を示しています。キリストは私たちの罪を贖い,
きよめるために十字架で死なれただけでなく、罪と死とサタンに打ち勝ってよみがえられまし
た。そして復活の主のみが生かす御霊となり、救い主となられたがゆえに、信じる者を永遠の
いのちへと導かれるのです。
復活は信じる者を個人的な意味において変革するだけでなく、神のつくられたもの全体を神
の意図された計画の成就の中へと導いていきます。
「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます」
とあります。(ローマ8章19~22節)
3.信者の復活
聖書はイエスの復活と共に、信じる者の復活をもあかししています。本日の聖書箇所「わた
しは,よみがえりです.いのちです.わたしを信じる者は,死んでも生きるのです」(ヨハネ
11章25節)という言葉はその代表的なものでしょう。パウロも「アダムにあってすべての人が
死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです」(第一コリント15章
22節)と書いています。ペテロもまた「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたこと
によって,私たちを新しく生まれさせて,生ける望みを持つようにしてくださいました」(第
Ⅰペテロ1章3節)と書いています。新約聖書の記者たちは、キリストの復活をひとつの孤立し
た現象としては考えず、人類のために大いなる結果をもたらした、神のみわざと見たのです。
神はキリストをよみがえらせることによって、罪と死に対する力を示されると同時に、人を救
おうとされたのです。それゆえ信者の復活は救い主の復活に続くわざであって、主イエスはそ
のことについて信者を「復活の子として神の子ども」(ルカの福音書20章36節)と呼んでいま
す。
新約聖書は信者と共にすべての人の復活を語っています(ヨハネ5章28節には「このことに驚
いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。」とありま
す。そして続きの箇所にはこうあります。「 善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪
を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」よみがえる者がみな祝福されるわけで
はないのです。主は「よみがえっていのちを受ける」者と,「よみがえってさばきを受ける」
者とについて語っているのです。
パウロも「義人も悪人も必ず復活する」(使24:15)といっています。すべての者がよみが
えるということは約束されているのですが、キリストを拒んだ者にとっての復活はさばきを受
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けるというまさに深刻な一大事となると言うことのです。
私たちは復活した後どうなるのでしょうか。ヨハネは「私たちはキリストに似た者となる」
と第一ヨハネの3章2節で語ります。パウロも「私たちの卑しいからだを,ご自身の栄光のから
だと同じ姿に変えてくださるのです」(ピリピ3章21節)と言っています。主のよみがえりのか
らだは、ある意味において普通のからだのようですが、またある意味においては異なっている
のです。そのため,ある時にはすぐイエスだと認識され理解されていますが、すぐには分らな
かったという場面のもあります。特にエマオの途上での例が印象深いと思います。
「 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオと
いう村に行く途中であった。 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道
を歩いておられた。 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。」
(ルカの福音書24章16節)
イエスは戸を閉めて室内にいる弟子たちのもとへ突然現れたり、あっという間に視界から見
えなくなったりされました。イエスは自分が肉や骨を持っているとも、おっしゃり食物を食べ
さえした。よみがえられたイエスは時間、空間の持つ制限に影響されなかったのです。パウロ
はこれを「御霊のからだ」と呼んで、肉のからだとは異なって、栄光と力という性質を受ける
と告げています。信者の復活の時には,このようになることを示しているようです。つまり信
者が復活する時にはこのイエスの復活のようであるわけです。いま私たちは時間や空間に縛ら
れて生活をしています。遠くへは電車に乗ったり車に乗ったりして移動しますし、時間もかか
ります。しかし復活の体となった時には信じるものはこの時間や、空間の制約から自由になる
のです。
4.復活の持つ意義.
「キリストが復活されなかったのなら,私たちの宣教は実質のないものになり,あなたがたの
信仰も実質のないものになるのです.……そして,もしキリストがよみがえらなかったのなら,
あなたがたの信仰はむなしく,あなたがたは今もなお,自分の罪の中にいるのです」と第一コ
リント15章14節にはあります。こう述べてパウロは,キリストの復活そのものが福音であり、
私たちの救いの保証であることを力強くあかししていいます。そしてまた、信者の復活も実際
的に深い意義を持つと述べています。なぜならもし復活がないとしたら、「あすは死ぬのだ.
さあ、飲み食いしようではないか」(Ⅰコリント15章32節)という刹那(せつな)的な生き方
を選ぶようになるからです。信じる者は、この地上での生活がすべてと考えるのではなく、希
望をキリストにおいているのであり、そうすることによって生活に深みを持つことができるの
です。
キリストの復活が私たちの救いと密接に結びついていることは,「主イエスは,私たちの罪
のために死に渡され,私たちが義と認められるために,よみがえられたからです」とローマ人
の手紙4章25節にある言葉からも理解されます。復活を抜きにしては救いはあり得ないのです。
パウロはさらに「キリストとその復活の力を知る」と述べて、昔の出来事とかこれから起る未
来に関することとしてではなく、現在、まさに今生きておられる主と出会い、その力を受けて
変革を体験することを強調します。キリストを死からよみがえらせたその同じ力が、キリスト
にある者の中にも今、働いているのです。
「死んでも生きる」キリストの復活の意味を聖書から考えてみました。「死んでも生きる」と
はすでに亡くなった方にも、そして今生きる私たちにも当てはまることなのです。
私たちにこの希望が与えられていることに感謝したいとおもいます。
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