レプタ銅貨二つ - 津久野キリスト恵み教会

﹁レプタ銅貨二つ﹂
マルコの福音書一二章四一∼四四
てもいませんでした。 そこではパ
か調べられているとは、 全く考え
動機を読み取られるお方に、 まさ
目を持っておられ、 彼らの行動の
した。彼らの心の深みをも見通す
ことに、 全く気づいていませんで
いるのを見ておられるお方がいる
人々は、献金箱に金を投げ入れて
います。心が主のご人格に打たれ
ら、金額も正しいと主は判断なさ
られるのです。もし心が正しいな
う。主は金額ではなく、動機を計
れていることを思い起こしましょ
私の手にではなく、私の心に注が
かってすわり﹂
、主の聖い御目が、
れたときに、﹁イエスは献金箱に向
リサイ人たちが見えを張っていま ているなら、手は主のために開か
した。自分の富を見せびらかせて、 れます。キリストを真実に愛する
者であるなら誰しも、主に捧げ物
そらく、 心の冷めた格好だけの礼
高度で幸いな特権であると見なす
をするために犠牲を払うことは、
宗教深さを披露していました。 お
拝者もいて、 いつも通りの決まり
事として、献金箱に金を投げ入れ はずです。主がわざわざ身を低く
ていたことでしょう。主イエスは、 されて、私たちに捧げ物をするこ
り、すべてをさばいておられまし
すべてをご覧になり、 すべてを計
驚くべきことなのです。しかし主
とをお求めくださるというのは、
このことは、私達が主のための捧
ことができるのは、実に大きな喜
私たちが﹁収入に応じて﹂捧げる
はそうしておられるのですから、
げ物をする度に、 いつも考えるべ
びです。ですから、神は喜んで与
た。
きです。 私の手に箱や袋が手渡さ
(1)
節より
C・H・マッキントシ著
前田大度師訳
かってすわり、人々が献金箱へ金
を投げ入れる様子を見ておられ
た。多くの金持ちが大金を投げ入
れていた。そこへひとりの貧しい
やもめが来て、レプタ銅貨を二つ
投げ入れた。それは一コドラント
に当たる。
﹂
﹁それから、イエスは献金箱に向
Maranatha March
へひとりの貧しいやもめが来て、 ません。聖霊はほんとうのやもめ
た、ひとりの人がいました。
﹁そこ
衆の中に、主イエスの目に留まっ
を投げ入れるために押し寄せた群
取った行動です。献金箱に捧げ物
り上げたいのは、貧しいやもめの
しかしながら、マルコ十二章で取
ましょう。主はまさにそのような
つ捧げましょう。主をほめたたえ
える人を愛してくださると覚えつ
の実に素晴らしい姿を、テモテ第
やもめとは、到底呼ぶことができ
とばに該当しません。ほんとうの
です。そのような者たちは、みこ
れであることしか考えない者たち
ちも大勢います。自分が孤独で哀
のしるしが全くない自称やもめた
います﹂
。
︵Ⅰテモテ五 五:︶
やもめといっても、このみことば
絶えず神に願いと祈りをささげて
は、望みを神に置いて、昼も夜も
れたことでしょう。しかし、貧し
の言葉とともに、華々しく掲載さ
の金額の大きさを賞賛するお世辞
献金が、新聞の記事か何かに、そ
あったなら、金持ちの出す高額な
す。
﹄
﹂
活費の全部を投げ入れたからで
しい中から、あるだけを全部、生
ら投げ入れたのに、この女は、乏
いたどの人よりもたくさん投げ入
いやもめは、献金箱に投げ入れて
しかし、献金を捧げにやってきた
しかし、ほむべき私たちの主のお
もしもこれが現代の出来事で
れました。みなは、あり余る中か
レプタ銅貨を二つ投げ入れた。 そ
一の手紙五章十一∼十三節に記し
いやもめとその捧げ物は軽蔑され、
でした。しかし、それを捧げた人
この貧しいやもめは、ほんとうの
考えは全く異なっていました。 貧
(2)
御方であるからです。
れは一コドラントに当たる。
﹂
ておられます。
は﹁やもめ﹂
、それも﹁貧しいやも
やもめでした。彼女の心は、キリ
無視されたことでしょう。
め﹂でした。やもめというのは、哀
ストのお心と一致していたのです。 しいやもめのレプタ二枚は、 主の
寄せて、こう言われた。﹃まことに、 げ物にまさっていたのです。 私た
ご判断では、それ以外の全ての捧
身寄りもない者たちでした。
﹁ほん
あなたがたに告げます。この貧し
ちが蓄えた金の中から、数千円や
とうのやもめで、身寄りのない人
した。地上的な支えも、人間的な ﹁すると、イエスは弟子たちを呼び
れで、無力で、孤独な者の典型で
金額からいえば、それは実に少額
マラナ・タ 3月号
読者の皆さん、あなたは彼女が生
のです。何という特権でしょう!
しました。
﹂彼女は主の近くにいた
う熱心が、私の生活費を食い尽く
できたでしょう。﹁あなたの家を思
ものでした。彼女はこういう事が
そ、主ご自身の精神と全く同質の
携えてきたのでした。この精神こ
もめは、生活費の全てを神の家に
が難しいのです。ところがこのや
や楽しみを犠牲にして捧げること
それどころか、自分の一つの贅沢
の必要品を犠牲にすること、 いや
は、比較的容易です。しかし生活
数万円を十分の一として捧げるの
ために生活費の半分を捧げるなん
うしたとしても、私たちは、主の
できたのです。そして、たとえそ
の生活のために残しておくことも
枚あったのですから、一枚を自分
はありませんでした。けれども二
く捧げないかのどちらかしか方法
いなかったなら、全て捧げるか、全
もし彼女が硬貨を一枚しか持って
書き方は絶対にあり得ません。 そ
かったのでしょうか。そのような
ントを投げ入れた﹂ ですませな
ちと、みだらなことをし始めた。娘
まっていたが、民はモアブの娘た
﹁イスラエルはシティムにとど
心をこめた一途な献身の本当の色 どうか神が私達に、このような精
彩を描くことができないからです。 神を、いくらかでも持たせてくだ
れだと、この絶妙な美しさ、この
たちは、自分たちの神々にいけに
てるすべてを投げ出したのです。
うと確信するところに、自分の持
れ、彼女の心が神のご目的にかな
とや自分の関心は、完全に見失わ
て、何とすばらしい献身だろうか
で、民は食し、娘たちの神々を拝
えをささげるのに、民を招いたの
(3)
ピネハス ︵ 民数記第二五章より︶
山岸登師
活費を捧げた様子に、お気づきに
と判断するはずです。しかし、こ
た。それは一コドラントに当たる﹂ 神にささげていたのです。ここが
デヤン人の女といっしょに殺され
なっているでしょうか。なぜ聖霊
要点です。予備のものは、何も取っ
た者の名は、シメオン人の父の家
の女性は違いました。心を完全に
とわざわざお語りになったので
ておかなかったのです。自分のこ
は、﹁レプタ銅貨を二つ投げ入れ
しょうか。なぜ、
﹁彼女は一コドラ
んだ。
﹂
︵一、二︶
﹁﹁﹁﹁﹁その殺されたイスラエル人、ミ
さいますように!
Maranatha March
ツルの娘コズビであった。ツルは
た殺されたミデヤン人の女の名は
の長サルの子ジムリであった。 ま
がいたことは明瞭です。
しまいました。この背後にサタン
い男たちがそれに引っかけられて
バアル・ペオルを慕った者たちを
たがたは、おのおの自分の配下の
さばきつかさたちに言った。
﹃あな
殺せ。
﹄
﹂
︵三∼五︶
ラエルに対して怒りを燃やされ、
このサタンの誘惑に乗った者の
偶像を礼拝した者を殺せと命じら
ミデヤンの父の家の氏族のかしら
であった。
筆頭がシメオン族の族長の息子ジ
主主主主主はモーセに告げて仰せられた。 ムリであり、彼を誘惑した女はミ
れたことを厳しすぎる、余りにも
で、あなたがたを襲ってペオルの
彼らは巧妙にたくらんだたくらみ
に許可を与えたのだから自分たち
の若者たちは、族長が息子の行動
でしょうか。いいえ、それは全く
いることでしょう。それは正しい
短気すぎる、などと思う者たちも
クリスチャンの中には、神がイス
でした。恐らくイスラエルの多く
事件を引き起こし、ペオルの事件
がそれを真似しても悪くはないで
イスラエルの若者を誘惑させ、 売
た。それは、ミデヤンの若い女に
の民をさばかせる方法を考えまし
の民を堕落させ、神にイスラエル
怒りはイスラエルから離れ去ろ
前でさらし者にせよ。 主主主主主の燃える
らえて、白日のもとに彼らを 主主主主主の
た。﹃この民のかしらたちをみな捕
え上がった。主主主主主はモーセに言われ
ますが、創造主なる神の御存在を
間の存在の目的、理由を考えてい
無神論者、唯物論者はいろいろ人
ている理由はありません。
とです。それ以外に人間が存在し
愛に対して感謝し、神を愛するこ
(4)
﹃ミデヤン人を襲い、彼らを打て。 デヤンの氏族のかしらの娘コズビ
の神罰の日に殺された彼らの同族
はないか、と考えたことでしょう。 間違った考えです。
人間は神によって造られたもの
の女、ミデヤンの族長の娘コズビ
︵一四∼一八︶
春の代価として偶像を拝ますこと
う。
﹄そこでモーセはイスラエルの
モアブの王バラクはイスラエル
であったのです。イスラエルの若
ペオルを慕うようになったので、 です。人間が神によって造られた
主主主主主の怒りはイスラエルに対して燃 目的は、神によって愛され、その
の事件を引き起こしたからだ。﹄﹂ ﹁こうしてイスラエルは、バアル・
マラナ・タ 3月号
です。そして人間は偶像礼拝者に
を使って偶像礼拝に引き込む方法
段は、人間の男の女に対する情欲
ンが人間を滅ぼす最も効果的な手
決してありません。ですからサタ
生した人間に生きる理由も目的も
ります。理由もなしに、偶然に発
生したと言わなければならなくな
のです。
﹁ジムリ﹂たちは、自ら世
教会の牧師の中に﹁ジムリ﹂がいる
リスチャンと自称している者たち
と種々の手段を使っています。ク
教会を世俗化させ、堕落させよう
現在サタンは、キリストの愛する
子エルアザルの子ピネハスはそれ
を見るや、会衆の中から立ち上が
連れてやって来た。祭司アロンの
す。現在の教会にも﹁ジムリ﹂がい スラエル人が、その兄弟たちのと
ます。特に、神学校の教師の中に、 ころにひとりのミデヤン人の女を
の中にも、サタンの協力者がいま
り、手に槍を取り、そのイスラエ
と、彼らの目の前に、ひとりのイ
が会見の天幕の入口で泣いている
﹁モーセとイスラエル人の全会衆
した。
ここに、アロンの子エリアザルの
なり、無神論者になり、神に反逆
を愛し、世からの分離を否定し、ク
ル人のあとを追ってテントの奥の
ておられるのです。
し始めます。すると神はそのよう
リスチャンを世俗化させるような
否定するならば、人間は偶然に発
な人間を滅ぼさなければならなく
誤った教理を教えています。
(5)
子でピネハスという名の人がいま
なります。
そして、
﹁この民のかしらたちをみ
対して、またそれに協力している
者たちに対して怒りを発せられる
の神罰がやんだ。この神罰で死ん
それに対してキリストは、激しく 部屋に入り、イスラエル人とその
妬みの火を燃やしておられます。 女とをふたりとも、腹を刺し通し
て殺した。するとイスラエル人へ
のは当然です。キリストはご自分
主主主主主はモーセに告げて仰せられた。
える怒りはイスラエルから離れ去
ろう。
﹂と同じことを現代の私たち ﹃祭司アロンの子エルアザルの子
だ者は、二万四千人であった。
の教会を、ご自分以外のものを絶
にも命じておられます。
ピネハスは、わたしのねたみをイ
対に愛させないほど、激しく愛し
した。ですからキリストはご自分
の血をもって教会を買い取られま
な捕らえて、白日のもとに彼らを
主主主主主の前でさらし者にせよ。 主主主主主の燃
神がこのようなサタンの策略に
Maranatha March
人を絶ち滅ぼすことはしなかった。 真さと真実さとが奪われることが
たしのねたみによってイスラエル
から引っ込めさせた。わたしは、わ
したことで、わたしの憤りを彼ら
スラエル人の間で自分のねたみと
断力が汚されて、キリストへの純
を騙したように、あなたがたの判
は、蛇がその悪賢さをもってエバ
げて婚約させました。それで、私
愛する愛はありません。なぜなら
るならば、その人の中には御父を
ん。もし誰かが世を愛し続けてい
る物事をも愛し続けてはいけませ
て﹁あなたがたは、世をも世にあ
それゆえ、言え。
﹁見よ。わたしは 決してあってはならないと心配し ば、全て世にある物、すなわち肉
彼にわたしの平和の契約を与える。 ているのです。
﹂
︵Ⅱコリント一一 : を喜ばす情欲や目から来る貪りや
贅沢な生活へのあこがれは御父を
二、三︶
めておられます。実に、使徒パウ
妬みを自分の妬みしている者を求
キリストは、現在も、キリストの
教会を妬むほど愛しておられる
ル人の贖いをしたからである。
﹂
﹄
のためにねたみを表し、イスラエ
約となる。それは彼がおのれの神
とって、永遠にわたる祭司職の契
中に住まわせられた御霊は︵あな
あなたがたは、﹃神があなたがたの
神の敵にされるのです。それとも
れでも世の友となろうと思う者は、
知らないのですか。ですから、だ
ることが神への敵対であることを
たちよ。あなたがたは、世を愛す
聖霊がヤコブを通して﹁不貞の者
に、誠実な牧会者は、教会に霊的
て取り出します。それと同じよう
のように小さくても全力を尽くし
の癌を発見したならば、それがど
誠実な医者は、患者の身体に悪性
ネ二 一:五、一六︶と語られたこと
は当然です。
源としているからです。
﹂︵Ⅰヨハ
根源とするものではなく、世を根
(6)
これは、彼とその後の彼の子孫に
ロはそのような人であったのです。 たがたを︶ねたむほどに慕ってお
妬みとする牧会者は、群れの者に
ネハスのように神の妬みを自分の
られる。
﹄と聖書が語っていること 腐敗を引き起こすパン種を厳しい
を空しいと考えているのですか。
﹂ 妬みの目をもって見張ります。 ピ
はあなたがたを清純な処女として、 ヤコブ四 四:、五︶と語られたのは
当然です。また使徒ヨハネを通し
唯一の男性であるキリストにささ
もって熱愛しています。実に、私
﹁私はあなたがたを、神の熱意を
マラナ・タ 3月号
法によって︵呼び起こされた︶情
三節・しかし、夫が生きている間
六節・しかし、私たちは、かつて
だなら、夫に関する律法から全く
に他の男に行けば、姦淫の女と呼
私たちを拘束し続けていた律法に
キリスト以外のものを決して愛さ
がキリスト以外のものを愛するな
ばれなければなりません。しかし、
対して死んだので、今や、その律
欲が私たちのからだの部分の中で
らば、堕落の始まりであり、全て
もしその夫が死んだなら、︵婚姻
法から解放されています。その結
解放されています。
の祝福を失うという結果に至るこ
の︶律法から解放されており、た
果、私たちは、文字による古い法
せません。それは、クリスチャン
とが必定であることを知っている
とい他の男に行ったとしても、姦
則によってではなく、霊的な新し
ました。
働いて、死のために実を結んでい
からです。
淫の女にはなりません。
クリスチャンの歩み方
四節・私の兄弟たちよ。それと同
ローマ人への手紙の第七章は、特
じように、あなたがたも、キリス い法則によって︵神に︶仕えてい
﹂
トのからだを通して、︵モーセの︶ るのです。
律法に対して死なされたのです。
に﹁律法︵の原則︶を知っている
に著されたものです。彼らの先祖
人々﹂であるユダヤ人信者のため
よみがえらされた御方のものと
ナンの地に向かいました。その途
のイスラエル人は、紀元前約一五
五節・と言うのは、私たちが肉の
中で彼らは神から律法を授けられ
なっており、神のために実を結ん
支配の中にあった時、数々の罪深
ました。イスラエル人たちは、そ
〇〇年、エジプトから出て来て、カ
い情欲、すなわち︵モーセの︶律
でいるのです。
(7)
ローマ人への手紙第七章から
ています。しかし、もし夫が死ん
中の夫に、律法によって拘束され
二節・結婚している女性は、生存
を知らないのですか。
限り、その人を支配していること
︵モーセの︶律法が人が生きている
は律法︵の原則︶を知っている人々 その結果、今や、あなたがたは他
に語っています。あなたがたは、 の人、すなわち死者たちの中から
﹁一節・それとも、兄弟たちよ。私
山岸登師
Maranatha March
する神との関係を持つようになり
が、それを放棄して律法を土台と
る神との交わりを持っていました
の時点まで、神の恵みを土台とす
せることは不可能です。
﹂︵ヘブル
信仰によらなければ︵神を︶喜ば
とのない御使いであるならば、 そ
しかし、もし彼らが罪を犯したこ
たことが証されていました。実に、 うちから教え込まれていたのです。
ました。これは非常に誤った決断
一一 五:、六︶
の考えは全く正しいのですが、 罪
エノクには信仰がありました。そ を犯したために罪の奴隷とされた
れで神との交わりを求めたのです。 アダムの子孫がそのように考える
でした。彼らは自分たちには律法
を守る力があると思っていたので
自分の無力さを謙虚に認め、 神の
神は彼を助けられ、御自分との交 ことは、非常に傲慢なことであり、
わりの中を歩まさせられたのです。 間違っているのです。全ての人は、
ところがイスラエル人たちは、自
(8)
す。
ノアの大洪水の前の時代にいた
では主イエスを信じたユダヤ人
命令に従うべきであるのにその力
はどのように歩むべきであるので
分たちには律法を守る力があるの
志が特別に強かったのでしょうか。 約束したのです。その結果、第二、
しょうか。彼らは、アダムの子孫
エノクは三百年間も神と共に歩ん
三節が語っているとおり、彼らは
としての自分たちがキリストと共
がない罪人であることを告白すべ
生きている間、自分たちの意思の
に十字架の上で死んだということ
で、神の助けが要らないと思った
書は彼について何と言っているで
力によって律法を守り続けなけれ
ことを認め、キリストと共によみ
だのです。エノクが特別に善良な
しょうか。
ばならない義務を負っているので
がえらされ、キリストと一体とさ
きであるのです。
ないように移されました。そして、 す。しかも彼らは、神の被造物で
﹁信仰によってエノクは、死を見
ある人間の本分は、創造主でいま
れていることを認めなければなり
のです。それで律法を守ると神に
神が彼を移されたので、彼は見つ
す神の戒めを守ることであるとユ
ませんでした。そして彼らはキリ
人であったのでしょうか。彼の意
けられなくなりました。実に、彼
ダヤ教の教師たちによって子供の
いいえ、そうではありません。聖
は移される前に、神に喜ばれてい
マラナ・タ 3月号
中を歩まさせてくださると信じ続
ストが自分たちを神との交わりの
れいることを認めなければならな
ことを、そして律法から自由にさ
めが来た時、罪が生き返りました。
なしに生きていました。しかし戒
そして、私は戒律、しかもいのち
一〇節・それで私は死にました。
に導くはずの戒めが、実にそれが
いのです。そしてその自由は放縦
のための自由ではなく、律法によ
けなければならないのです。
なぜならば聖霊は私たちをキリス
一一節・なぜならば、罪は律法に
死に至らせるものであることが判
よって機会を捕らえ、私を騙した
らずに、キリストへの愛に基づく
さて、第五節の﹁私たちが肉の支
のです。そしてそれ︵律法︶によっ
トにある立場の真理に従って、立
配の中にあった時、数々の罪深い
て私を殺したのです。
﹂
りました。
私たちがキリストにあって天の所
情欲、すなわち︵モーセの︶律法
第七章の第七節から第二五節ま
信仰によって歩むための自由とす
に座らせられていると語っていま
によって︵呼び起こされた︶情欲
でを読むと、パウロはここで二種
場に相応しく歩む助けを助けを与
す。聖霊は、その真理に従って私た
が私たちのからだの部分の中で働
類の﹁私﹂について語っているこ
べきであるのです。
て歩むように助けてくださいます。 いて、死のために実を結んでいま
ちを、天の所に座っている者とし
した。﹂とはどういう意味でしょ
エペソ人への手紙第二章六節は、
ですから私たちは、先ず、自分がキ
立場に関して言えば、自分がキリ
です。
律法がなければ罪は死んでいるの
九節・すなわち私はかつて、律法
ストと共に十字架の上で死んだの
であり、律法に対して死んでいる
霊的である﹂
︵一三節︶ことを知っ
ている﹁新しい私﹂
、あるいは﹁内
なる人﹂
︵二二節︶と呼ばれている
(9)
えてくださるからです。
リストにあって天の所に座らせて
とが分かります。 一つの種類の
うか。
﹁律法は聖であり、ま
﹁八節・罪は戒めによって機会を ﹁私﹂とは、
ん。
捕らえて、私の中にあらゆる欲情 た戒めも聖であり、正しく、また
︵一二節︶と認め、
﹁律法が
それと同様に、ユダヤ人信者も、 を造り出しました。 と言うのは、 良い﹂
いることを信じなければなりませ
Maranatha March
いいのちは、新しい性質を持って
れた新しいいのちです。この新し
リストを信じたとき神から与えら
この﹁新しい人﹂は、私たちがキ
節︶いる﹁古い私﹂です。
奴隷として売られている﹂︵一四
は、
﹁肉的で﹂
︵一四節︶
、
﹁罪の下に
罪深いものとなるためでした。
﹂
ち、その戒めによって罪が極度に
を働き出しているのです。すなわ
たるか︶を明らかにするために死
の良いものを通して、罪︵のなん
せん。そうではなくて、罪が、そ
うか。絶対にそんなことはありま
良いものが、死となったのでしょ
人です。しかし、もう一種類の﹁私﹂ ﹁一三節・では、この私にとって
は無駄に死なれたことになるので
れるの︶であるならば、キリスト
ん。もし義が律法を通して︵得ら
です。私は神の恵みを無にしませ
じる信仰に基づいて生きているの
捨ててくださった、神の御子を信
私を愛して、私のためにご自身を
が肉体にあって生きているのは、
に生きておられるのです。今、私
﹁なぜならば、キリストの愛が私
罪を犯させてしまうのです。
いて死んでしまいました。私はキ
よって律法︿との主従関係﹀にお
方が全ての者のために死なれたの
ての者が死んだと。そして、その
(10)
おり、神に従うことを願っていま
はないですか。
﹂
︵ガラテヤ二 一:九
るだけで、勝利に導くことは決し
たちを攻め立てているからです。
∼二一︶
しかし、この新しい﹁私﹂が善を
てできません。ですから使徒パウ
﹁新しい私﹂が良いことを行おう
自分たちのためにではなく、 自分
は、生きている者たちが、もはや
とすることが、かえって﹁古い私﹂ リストと共に十字架につけられま
すなわち肉を一層罪深くならせ、 した。もはや私が生きているので
たちのために死なれ、またよみが
罪を行わせてしまうのです。
はありません。キリストが私の中
ある﹁古い私﹂の内にある罪が途 ロは次のように語っているのです。 私たちは、実にこのように判断し
端に刺激されて目を覚まし、 活発 ﹁実に、私は、神︿との主従関係﹀ ています。ひとりの人が全ての者
になり、新しい私を殺してしまい、 に お い て 生 き る た め に 、 律 法 に のために死なれたのですから、 全
行いたいと願うと、罪の支配下に
す。ですから、律法は良いもので
このように律法は良いもので
あり、霊的であることを認めます。 あってもクリスチャンを惨めにす
マラナ・タ 3月号
えられた御方のために生きるため
ると教えています。
奨励するような書物が増加してい
れは﹁契約神学﹂別名﹁カルビン主
とを認めない人々があります。 そ
救い主となられるためであったこ
めだけでなく、罪の力からも救う
たのは、私たちを地獄から救うた
キリストが十字架の上で死なれ
えられたのです。
架の上で死んでくださり、よみが
である放縦から救うために十字
またそのような教師自身がキリス
の恐れの余り、肉欲のままに生き
るようにと教えることを恐れ、 そ
師たちは、彼らに熱心に神に仕え
まうだけです。それで、彼らの教
だけで、信仰生活に疲れさせてし
このような教えは人々を苦しめる
ますが、善を行う力を与えません。
あられます。クリスチャンの喜び
責めず︵あるいは奨励し︶
、世から であり、そして模範であり、しか
分離すべきであるとは教えません。 もその歩みの力であり、導き手で
ることを許し、世的になることも
と勝利の秘訣は、キリストを、真
キリストこそ私たちの歩みの目標
キリストこそ私たちの勝利であり、
てキリストを証する者にします。
え、世から分離して、喜びをもっ
いのちの力によって熱心に神に仕
実にキリストを愛し、キリストの
義者にはならせず、その反対に真
真実な福音は、信じる者を律法主
ますので警戒が必要です。
義神学﹂と呼ばれる教理を唱えて
トにある勝利を経験せずに世的な
実に愛する愛に基づいて信じる信
ところが律法は善を行えと命じ
いる人々です。また、
﹁ホーリネス
生活をしているので、信者たちに
であると。
﹂
︵Ⅱコリント五 一:四、
派﹂と呼ばれる人々が持っている
守る努力によって生きるべきであ
も律法の下にあるのだから律法を
区別しませんので、クリスチャン
の人々はイスラエル人と教会とを
理を唱えている人々です。これら
﹁アルメニアン神学﹂と呼ばれる教
的傾向でこのような世との妥協を
れの悪書の典型です。最近、世界
者岡山英雄︶という小誌などは、そ
から発行された﹁小羊の王国﹂
︵著
るのです。最近いのちのことば社
も世俗的になることを奨励してい
い。
︺
﹂
︵Ⅰコリント一六 二:二︶
タ。︹私たちの主よ。来てくださ
イー︾者は、滅び失せよ。マラナ・
﹁だれでも主を愛さない︽フィレ
仰です。
(11)
一五︶
Maranatha March
﹁健全な終末論﹂
前田大度師
白する教会︶は、かつて、いのち
現することを、確信を持って主張
しました。他にも、いのちのこと
ば社から出版された、終末に関す
る書籍も、基本的にこのディスペ
ンセイション主義的終末論に従っ
ていました。山岸師がディスペン
書いた﹁これで聖書が解りやすく
セイション主義について体系的に
の後に発行された、シェーファー
なる﹂を、今から約二五年前に出
リストの黙示﹂などがその代表で
ション主義に立って書かれたもの
良書の中には、ディスペンセイ
その結果としての聖書の字義通り
くは絶版となり、 同じテーマを
ところが今日、これらの書籍の多
上再臨・千年王国・新天新地が実
またそれに続いて、患難時代・地
臨とを区別せずに再臨は一度だけ
ているのです。空中再臨と地上再
ている通りに、まず前兆なしにキ 扱った新しい書籍は、ディスペン
リストが空中に来臨されること、 セイション主義的終末論を否定し
の理解です。彼らは、聖書の語っ
るのは、神のことばである聖書に が多いのです﹂と書くことができ
対する揺るぎのない信頼であり、 ました。
す。これらの信仰書に共通してい
ス神学校の元校長であったジョン 版したとき、その最後の章には、
F.ワルブード著の﹁イエス・キ ﹁感謝なことに、非常に有益な信仰
著の﹁聖書の主要教理﹂や、ダラ
のことば社や聖書図書刊行会から
﹁キリストに対するこの望みをい
出版された、ディスペンセイショ
だく者はみな、キリストが清くあ
ン主義に基づく終末論に従った信
られるように、自分を清くしま
仰書によって養われてきました。
す。
﹂
︵Ⅰヨハネ三 三:︶
シーセン著の﹁組織神学﹂や、エー
健全なクリスチャンの歩みには、
リッヒ・ザウアーの著作、また、そ
健全な終末論が不可欠です。旧約
聖書を見るなら、旧約の聖徒たち
待望しつつ、忍耐をもって地上で
の信仰生活を送ったことがわかり
ます。また、新約聖書を見るなら、
そこにはキリストの再臨の希望が
至る所に記されており、彼らが、自
分たちの生きている間にでもキリ
ストの再臨があることを切望しつ
つ、迫害に耐え、福音伝道に励んだ
ことがわかります。
日本の、いわゆる福音派︵聖書を、
誤りのない神のことばであると告
(12)
が、来たるべき千年王国の到来を
マラナ・タ 3月号
とえば、いのちのことば社から二
が、多数を占めているのです。た
さらには千年王国を否定する考え
うことなのです。言葉の上では再
どころか、しばらくは来ないと言
と言うことなのです。今日来ない
ストの空中再臨は、今日は来ない
であるという考えや、空中再臨は でも起こりうることを否定してい
患難時代の最後に起こるいう考え、 ます。彼らの考えによると、キリ
大喜びしている聖徒たち、使徒た
き悲しんでいるこの世の者たちと、
業的バビロンが滅びたときに、 嘆
示録一七章を見ると、そこには商
思っていることは明らかです。 黙
この世が滅びてほしくない、 と
〇〇二年に出版された﹁子羊の王
空想話﹂だと言い、さらには﹁行き
い、近代の新説である﹂
、﹁単なる
の終末論を、﹁きわめて歴史の浅
あらゆる活動に積極的に参与し、 をすることによって、実質的に聖
実現し、政治、経済を含む社会の
﹁教会はこの世において神の義を
す。子「羊の王国 に」はこう書かれて
います。
書の権威を神の手から奪い、 聖書
否定します。そして、比喩的解釈
また彼らは聖書の字義的解釈を
ち、預言者たちが対照的に記され
ています。どうも岡山氏は前者の
過ぎた悲観論であり、終末論なら
社会そのものを改革していく。神
解釈者のものとしています。 彼ら
義と、それに基づく終末論をやっ
彼らは、ディスペンセイション主
配せよ﹂と命じられた。人は、神
鳥、地をはうすべての生き物を支
たせ。地を従えよ。海の魚、空の
のです。ですから、岡山氏は大胆
学者が自由に解釈して良い文章な
羅列、またシンボルに過ぎず、神
にとって聖書は、象徴的な言葉の
ん。
立場にいるように思えてなりませ
ぬ破局論でしかない﹂と断言して
は人に、
﹁生めよ。ふえよ。地を満
きになって否定していますが、 そ
から託された世界の管理と統治の
(13)
国 −黙示録は終末について何を 臨を信じると言っていても、彼ら
語っているのか−﹂︵岡山英雄著︶ のもっぱらの関心事は、この世で
います。
うすることによって生じる実際的
にもこう述べています。
彼らがこの世から離れたくない、 ﹁新しい世紀を迎えた今、過去の
使命を果たしていく。
﹂
彼らはキリストの空中再臨がいつ
な悪影響は多大です。まず第一に
は、ディスペンセイション主義者
Maranatha March
け、苦難の時代の研究を深め、そ
関する聖書の警告に真剣に耳を傾
られる必要はない。むしろ終末に
いる教理が、神の正しい御教えで
しょう。そして、私たちの立って
ますます献身的に主にお仕えしま
タイプライターがひとりでにカタ
待ち望み、この世から離れ、地上 か、
文字を打つかのどち
を旅人また寄留者として信仰の原 カタと動き出し、
則によって歩み、主の御前に喜び らかでしょう。しかし、ではだれが一
をもって出ることができるように、 本のペンが勝手に動き出し、紙の上に
遺産を継承しながらも、もはや前
れによって日本から世界へ、 独自
あることを、是非とも、私たちの
ペンセイション主義のこと︶ に縛
世紀の特殊な﹃神学﹄
︵注・ディス
の神学を発信することが、私たち
歩みによって実証し、神に御栄光
ところが旧約聖書の中には、
小預言
と呼ばれる非常に短い預言がありま
した。彼らは生きている間、神からの
ことばを語ったゆえに激しい迫害を受
け苦しみました。
す。これらの人々は、生きている間か
ら預言者であることが認められていま
書とするほうが、はるかに確実です。
イザヤ、エレミヤ、エゼキエルのよう
な大預言者の場合がこれに当たりま
それよりも神を恐れる敬虔な信仰者
であると皆から認められていた人たち
に神の御声を聞かせ、
それを書かせて
が証明できるのでしょうか。
これは非
常に難しいことになります。
字を書いたと証言するのでしょうか。
もしだれかがそれを証言したとして
も、
その人が嘘を言っていないとだれ
日本のキリスト者に求められてい
を帰しましょう。
問 聖書は人間が書いたものであるの
に、
どうして神のみことばであると言
えるのでしょうか。
神のみことばであ
ると言うならば、
聖書は神が直接書い
たものでなければならないはずではな
いでしょうか。
答 もし神がある書物を神ご自身で著
されるとしたら、
どのような方法で書
かれるべきでしょうか。多分、ペンが
勝手に紙の上で動き出し、
文書を書く
(14)
るのではないだろうか。
﹂
しく学び、主イエスの再臨を日々
書の語る終末についての教えを正
まれることを確信しましょう。 聖
信仰生活が健全な教理からのみ生
ります。しかし私たちは、健全な
全で不真面目で不道徳な歩みに至
健全な教理は、間違いなく、不健
る時代にいます。聖書的でない不
教理が大手を振って宣伝されてい
が堂々と許され、愚かしい偽りの
私たちは、このような高慢な発言
マラナ・タ 3月号
このことについて次のように語ってい
ます。
者に任命し、
預言者を通してみことば
を与えられたのです。
ですから聖書は
す。その中でも短いものはオバデヤ、
ハバクク、ゼパニヤたちです。ハガイ
書を除いて小預言書のほとんどが世界
の終末に関する預言で、
終末にならな
﹁聖書の預言は全て、︵預言の筆記者
の︶
個人的解釈からできているのでは
ないということを第一に心得ていなさ
でした。それで、彼の書いた諸教会宛
の手紙が保存されたのです。
同様の理由で使徒ペテロの手紙も聖
書として保存されました。
ヨハネの書
簡と黙示録も、
神に使徒として立てら
れたヨハネを通して著されたものであ
るゆえに聖書として保存されたので
(15)
ければ、
それが真実な預言であるかが
分からないのに、
どのようにして聖書
の中に神のみことばとして選ばれたの
ていることが明白でした。そして、彼
が使徒としての神の召しに相応しく歩
んでいることも全ての人の目に明らか
わっていました。マルコは、使徒ペテ
ロの福音伝道に協力し、
使徒パウロに
も役に立つ働き人と評価されました。
預言は決して人間の願望によって す。
でしょうか。それは、この預言者たち い。
彼らが主イ
が、生きている間に、神のしもべとし もたらされたのではありません。実 ヤコブとユダの手紙も、
て生き、語り、神に仕え、彼らが真実 に、聖霊によって動かされた人たち エスの肉の兄弟であるゆえではなく、
に神によって立てられて預言者である が、神から︵出てきたことばを︶語っ 彼らが新約聖書時代の預言者として立
﹂
︵Ⅱペテロ一 二〇、二一︶ てられていることが明白であったゆえ
ことが明らかにされていたからです。 たのです。
:
彼らの著作が聖書として新約聖書
神はこのような預言者を用いてご自分 さて、次に新約聖書ですが、書簡の に、
使徒パウロによって書かれ の中に保存されたのです。
のみことばをイスラエルの民に与えら 大部分は、
マタ
たものです。
パウロが使徒として立て では福音書はどうでしょうか。
れたのです。
十二使徒の仲間でした
だれの目にも明白 イとヨハネは、
もし神が、だれでもかれでも、全て られていることは、
彼らの証言は信用されていまし
でした。
パウロは、
そのしるしとして、 ので、
奇蹟を行うことが許され、
福音伝道と た。マルコはバルナバの従兄弟で、教
みことばを語る賜物が豊かに与えられ 会発足のごく初期から福音伝道に携
の者に個人的に語られたならば、
人間
は罪人ですので、
必ず神のみことばを
悪用したことでしょう。
神はご自分の
みことばを悪用させないために、
神の
みことばを忠実に取り次ぎ、
決してみ
ことばを悪用しない者を選ばれ、
預言
Maranatha March
彼が歳が若かったために、彼自身が
持っていた主イエスについての資料が
不足していても、
ペテロから十分に資
料を得ることができたはずです。
ルカは、
シリアのアンテオケ出身の
たようですが、
初代の教会は賢明にも
それらを聖書として採用しませんでし
た。
この四つの福音書で十分であった
からです。
ルカは、
彼の福音書と使徒の働きと
を一組として書いたのです。
使徒の働
きは、
紀元六二年までの使徒パウロの
働きの記録で終わっています。
パウロ
に神が異邦人伝道の権威を与えておら
れることが十分に明白にされたからで
す。それで、使徒の働きの前編である
福音書が著されたのが、
少なくても紀
元六二年前であったことは明らかで
す。それで、ルカの福音書が書かれた
のが、
主イエスが十字架に付けられた
紀元三〇年から、
最大でも三十二年以
内であったということです。
マタイの
福音書とマルコの福音書は、
ルカの福
音書よりも早く書かれたのです。
Ⅰコリントが書かれたのが、
紀元五
三年から五五年の間ですので、
﹁聖書
の示すとおり﹂
の聖書がマタイの福音
書であるとすると、
︵その可能性は非
常に大です。
︶マタイの福音書が書か
れたのは、主イエスの復活後、二十五
年以内であったことになります。
教会
外にも主イエスについて良く知ってい
る人々が、ごまんといた時代に、事実
に反すること書くは、不可能です。福
か
れ
た
当
イエス
音 書 は 、書
初 か ら 、主
を知っていた人々によっても真実の記
録として確信されていたのです。
マラナ・タ 値段 一部三〇円
-
E-mail:[email protected]
00960-0-57854
(16)
異邦人でした。彼は医者で、また病気
診断のカルテを書くことにも慣れてい
たせいか、
非常に時間について正確に
記録しています。
彼が著した福音書に
書き記したので、
あえて他の者たちが
彼らと競って書こうとはしなかったの
です。
この四つの福音書以外にも主イ
エスの言動の記録を書いたものがあっ
書を著すように導かれたのです。
彼ら
が、
正確に主イエスについての記録を
聖霊は、
この四人が福音書を書くの
に最も相応しいと思われ、
彼らに福音
は、歴史書としても価値があります。
彼は、使徒パウロによって信頼され、
貴重な協力者と見なされていました。
彼が主イエスの活動についての正確な
記録を持っていたからです。
マラナ・タ 3月号