ドイツ語教師40年 - 鳥取大学・教育センター

2014. 10
ドイツ語教師40年
たけ
だ
しゅう
し
教育センター教授 武 田 修 志
昭和50年(1975年)4月、25歳で旧教養部のドイツ語担当助手として採用され、以来40年、本学
の初修外国語教育に携ってきた。今、退職を前にして何よりも痛切に反省させられるのは、ほかでも
ない、自分にドイツ語教師としての十分な実力がなく、何一つ教育の成果らしいものをあげられなかっ
たことである。
教師になって1年目、ドイツ語初級の時間に、ナイフ、フォークといった単語が出てきた折であっ
たろう、一人の学生がすかさず、
「それではスプーンはドイツ語で何と言うのですか」と質問した。「ス
プーン?」私の頭には何も応答するものがなかった。「スプーンね…何と言ったかな…」私は懸命に
思い出そうとしたが、ついに何も出てこなかった。これには自分でも狼狽したが、質問した学生の「大
学教師のくせにスプーンも知らんとは何事か」といった憤慨した表情が、今も記憶に残っている。こ
ういう、語学教師としての「権威失墜」の場面は、無論これ一度きりのことではなかった。私はそれ
まで文学テキストをほんの少し読んだことがあるだけで、そもそも基礎単語5000といった、英語だっ
たら高校3年生でも克服しているようなことを、大学院生になっても、本気でマスターしようと努力
したことがなかったのである。
その後、私は国内やドイツでの教員研修に何度も参加し、その都度、日常語彙を増やしたり、会話
表現あるいは基礎文法をマスターすることにそれなりに努力した。研修期間中はいいのである。毎度、
最も会話力のない教員として白い目で見られるのは、私のような者にとってもいかにも惨めで、必死
で勉強するのである。しかし、研修が終わると、そういう「実学」にはどうしても根気が続かず、い
つまでたっても中途半端な知識しか身に付けることができなかった。
こういう人間が語学教師を務めるというのは、本人も苦痛であり、学生も迷惑である。しかし、今、
この40年を静かに振り返ってみると、ただ生活のために、苦痛をしのんでこの職務に耐えてきたとい
うのは、私の実感とは全く異なるのである。私はむしろこの仕事に愛着を持ち、この務めを相当に楽
しんできたのではなかろうか。その理由は少なくとも2つあるように思われる。一つは、確かに私は、
文法や会話表現を教えることに格別の熱意を持たなかったが、しかし、
「訳読」は無上に好きだった
こと、そして二つ目は、学生を相手に何かを教えるということに、人並み以上の喜びを覚える人間で
あったせいではないかと思う。
私が教師になって少なくとも最初の20年間は、医学科の学生を中心として、2年生までドイツ語を
受講する学生が相当多数いて、私は中級のテキストとしては、ヤスパースの「自伝」
、シュヴァイツァー
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No.39
の「私の生活と思想から」、ゲーテの「修業時代」の一部等、自分の崇敬する思想家や詩人の作品を
毎回取り上げ、これを正確に読み、きれいな日本語に直すことを楽しんだ。学生の中にも、文学や哲
学に関心を示す者が少数ながらいつもいて、教室での授業が終わると、しばしば研究室に所を移して、
談論した。そこから発展して、様々な名著を取り上げ読書会を催したことも決して1度や2度ではな
い。2年生の読解の授業に関する限り、注解のプリントなども作り、やる気のなさをとがめられるよ
うなことはなかったと思う。
問題は1年生の文法と読本であった。確かに、教師稼業を3年も務め、初級文法をまがりなりにも
一通り教えることができるようになると、さしてやる気もなさそうな学生を毎時間相手にすることに、
つくづく退屈を覚えた。7、8年目には、やっぱり語学教師は性に合わないと、気持ちの滅入る日が
続いた。そんなある日のことである。雑談に訪れた、日頃親しくしている学生からこう言われたので
ある、「先生は文学や人生論になると生き生きと話をされますが、文法のときはいかにも退屈そうで
すね」と。この一言に私は愕然とし、わが身を恥じた。何よりも、自分が退屈しながら教えているこ
とを、年若い学生から見抜かれていたことに驚いたのである。そして、それにも気づかず、自分の未
熟を棚に上げて教壇に立っていたことをたいへん恥ずかしく思った。
この日が私の教師人生の、本当の意味での始まりであったと言ってよいかもしれない。語学力もな
く、教師としてさしたるセンスもないけれども、その日から、ともかく思い着く限りの工夫をしよう
と決心し、実行した。テキストの問題を補う問題作りから始まって、歌を取り入れる、ドイツ事情を
知るためのビデオ教材の探索、資料作り、本の紹介、その冊子作り、対話練習を取り入れる、生き方
に示唆を与えるような格言・名言集の作成、教材としてのドイツ映画の選択、等、誰でも思いつくこ
とではあるが、ほとんどすべて私の実力でやれることはやってみた。授業改善の勉強会、研究会にも
出席して、学べることは学び取ろうとした。
そんな工夫を重ねて、ようやく自分なりの授業作りができるようになったと思った50代の半ば、私
は自分の授業の工夫改善について、地方学会で発表した。私の発表が終わると、大学院時代の同級生
M君がおもむろに立ち上がって、
「これは意見でも質問でもないが」と口を切り、こう言ったのである。
「武田君のことはよく知っているつもりです。この人の授業は独文解釈一辺倒。会話練習なんてしゃ
らくさいと、若い時はこの主張を絶対に変えなかった人です。ところが今日はどういう発表をしたか
…20年のうちにこれほど変貌するとは…。人間というのは変わるものなのだなあと、今、ある感慨に
ふけっているところです」と、出席者を笑わせた。
実際、私のドイツ語教師としての40年は、自分と闘い、自分を改変しなければ務まらない日々であっ
たのだが、さて今、この仕事を終わろうとして、どこを見回しても、何一つ成果らしいものは見当た
らない。言葉もなく呆然としているところである。
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2014. 10
平成6年度当時の鳥取大学教養部
教養部棟(現共通教育棟)
授業風景
教授会
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