伝えよう つなごう つくろう ふるさと 常陸大宮

常陸大宮市郷育読本
伝えよう つなごう つくろう
ふるさと常陸大宮
「みんなでお囃子の練習、
がんばるぞー!」
鷲子祭囃子保存会の小学生たち
(第2章 受け継いだ伝統文化)
常陸大宮市
はじめに
常陸大宮市長
近年、教育を最優先にしたまちづくりを推進する「教育立市」を謳う市町村が増えています。
この「教育立市」の考え方を尊重しつつ、
「郷育」を加味したものが常陸大宮市の掲げる「郷育立市」
です。「郷育」とは生まれ故郷である常陸大宮市の誇れるものやかけがえのないものから学び、一
人ひとりが生まれ故郷で輝くとともに、故郷遠くにあっても故郷を愛し、慈しむことのできる心
を醸成する教育であり、ひいては生まれ故郷を輝かせ、活性化させることができる教育のことです。
しかし、平成 16 年 10 月に常陸大宮市が誕生してからすでに 8 年が経過しましたが、市域が広
くなったために、市のイメージを具体的にとらえにくい人もいるようです。そこでまずは「私た
ちのふるさとである常陸大宮市を知ろう」というところから、市の誇れるところを紹介する『伝
えよう つなごう つくろう ふるさと常陸大宮』が作られることになりました。私たちの周り
には誇れるものがたくさんありますが、生まれたときから慣れ親しんでいるために、かえってそ
の素晴らしさに気付かずに過ごしている人もいるかもしれません。本書が、ふるさと常陸大宮市
を見つめ直すきっかけになれば幸いです。
また本書の発行にあたり、ふるさとでご活躍されている方を取材し、郷土の誇れるものを伝え
る役目をお願いしました。大変お忙しい中ご協力いただいた皆様に、この場を借りて厚く御礼申
し上げます。 ともあれ、常陸大宮市の何より自慢できる一番の宝物は、無限の可能性を秘めた未来輝く子ど
もたちです。「郷育」によって、子どもたちがより一層強く光り輝くよう、本書を学校での総合学
習やご家庭での団らんの時間などに、幅広くご活用下さいますようお願い致します。
目 次
はじめに
2.注目される常陸大宮市の弥生時代……… 18
目次…………………………………………………1
3.古墳の造られた時代……………………… 20
(1)古墳… ………………………………… 20
第1章 恵まれた自然
(2)横穴墓… ……………………………… 21
1.久慈川と那珂川……………………………2
4.常陸国風土記の世界……………………… 22
(1)大地を潤す三大江堰… …………………2
(1)鏡岩… ………………………………… 22
(2)経済を潤した河岸… ……………………4
(2)玉川のメノウ… ……………………… 23
(3)命を守る堤防… …………………………5
5.信仰のよりどころ………………………… 24
2.山と共に生きる……………………………6
(1)神社・寺院… ………………………… 24
(1)こんにゃくの神様… ……………………6
(2)親鸞上人にまつわる話… …………… 25
(2)伝統のうるし… …………………………7
6.戦いの世…………………………………… 26
(3)名木の数々… ……………………………7
(1)城館… ………………………………… 26
(2)戦国を生きた水墨画家・雪村… …… 27
第2章 受け継いだ伝統文化
7.佐竹氏と金山……………………………… 28
1.全国に知られる農村歌舞伎の舞台…… 10
8.幕末から明治維新へ……………………… 30
2.みんなの思いがこめられた祭り……… 12
(1)江戸時代の教育改革・郷校… ……… 30
(1)祭り… ………………………………… 12
(2)社会の動き… ………………………… 31
(2)お囃子… ……………………………… 13
9.大正ロマンから激動の昭和へ…………… 32
3.水戸藩一の産品・和紙………………… 14
(1)未来に伝えたい町並み・高部宿… … 32
(1)西ノ内紙… …………………………… 14
(2)青い目の人形クリッシー… ………… 33
(2)紙漉き場跡… ………………………… 15
(3)常陸大宮を変えた巨大プロジェクト・
水戸北部中核工業団地………………… 33
第3章 悠久の歴史
1.常陸大宮市の夜明け
第4章 新たな発見
―旧石器・縄文時代―………………… 16
1.古代象ステゴロフォドン………………… 34
(1)人が作ったもの… …………………… 16
(2)人が暮らしたあと… ………………… 17
おわりに…………………………………………… 35
1
め ぐ
し
ぜ ん
第1章 恵 まれた自 然
く
じ がわ
な
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
か がわ
1.久慈川と那珂川
か せん
り よう
おんけい
常陸大宮市を流れる河川を農業や商業に利用して、私たちはたくさんの恩恵を受けてきました。
うるお
え せき
(1)大地を潤す三大江堰
え
ど じ だい
ひ
で
つづ
しゅうかく
へ
こま
江戸時代のはじめ、日照りが続いて田は水不足になり、米の収穫が減って困っていました。そこで
み と はん
しょうほう
げんざい
やまなし
、現 在の山 梨県出身で、常陸太田市
水 戸藩 は久慈川や那珂川の水の利用を考え、1645 年(正 保2)
まち や ちょう
さいくつ
なが た も え もん
町屋町で金の採掘をしていた永田茂衛門に工事を命じました。
たつ の くち
❶辰ノ口江堰
かん え もん
さ
とも
じゃかご
あ
まず茂衛門は子の勘衛門と共に、常陸大宮市辰ノ口で、流れの速いところを避けて蛇篭(※竹で編
つ
こうてい さ
はか
んだ長い篭)を積んで久慈川をせき止め、竹や木の道具で土地の高低差を測って地形を上手に利用し
ようすい ろ
きず
けいあん
やく
た用水路を築きました。そして 4 年後の 1649 年(慶安2)には常陸太田市まで約 15km の用水路が
かんせい
完成し、久慈川の水が田に利用されるようになりました。
いわさき
❷岩崎江堰
つづ
続 いて常陸大宮市岩崎の久慈川で、
1649 年に工事が始まりました。堰は本
な
流に蛇篭を用いて築かれ、2 年後には那
か し きた さか いで
珂 市北 酒 出 まで 22km に及ぶ用水路が
完成し、田に水を引くことができまし
た。なお現在の水の取り入れ口は、川の
すい い
水位が下がったため、上流の常陸大宮市
やまがた
うつ
山方へ移されています。
2
第1章 恵まれた自然
お
ば
❸小場江堰
めいれき
しも え
ど
1656 年(明 暦2)
、那珂市下 江 戸の那珂川に
水の取り入れ口を作り、用水路を築きました。し
よくとし
こうずい
ふ じゅうぶん
かし、
翌年の大洪水で取水が不十分となったため、
2 年後に上流の常陸大宮市小場に取り入れ口を移
よ
したので「小場江堰」と呼ばれるようになりまし
た。
み たん だ
用水路は小場からひたちなか市三 反 田 まで約
こうはん い
28km に及び、広範囲に水を引くことができるよ
うになりました。なお現在の水の取り入れ口は、
川の水位が下がったため、さらに上流の常陸大宮
み よし
市三美へ移されています。
三つの江堰のあるところ
岩崎江堰
辰ノ口江堰
永田茂衛門親子の作った
しゅうへん
三大江堰のおかげで、周辺
りょう おおはば
では米の収穫量 が大 幅に
ふ
たいへんよろこ
増え、大変喜ばれました。
こ れ ら の 江 堰 は、 そ の
後コンクリートなどで直
さ れ ま し た が、 現 在 で も
その水が田で利用されて
います。
小場江堰
常陸大宮
昔
ばなし ❶
ひ と ばしら
むすめ
ぼうれい
人 柱 にされた娘 とその亡 霊
ず せつ
(『図説永田茂衛門親子と三大江堰』より)
くい
こわ
昔の堰は、蛇篭を杭 で止めて石をつめただけの作りだったので、洪水のたびに流されて壊
れてしまいました。そこで村人たちは、丈夫な岩崎堰を築くことを相談しましたが、なかなか
めいあん
こま
は
しょうや
やわ
えら
名案は出ません。困り果てた庄屋は、「川の神様の心が和らぐように村の娘を選んで人柱とし
ささ
ていあん
だれ
て捧げてはどうか」と提案をしました。「誰の娘がよいか」となると、なかなか決まりません。
みな
さいりょう
ついに庄屋は「皆さんのために私の娘を捧げるのが最良の道だ」といい、庄屋の娘は人柱とな
かわぞこ
う
しず
じゅんちょう
って堰の川底に生き埋めにされました。そのおかげか川の流れも静まって工事は順調に進み、
い ぜん
以前のように用水路へ水が取り入れられるようになりました。
な
ところがこの後、夜になると娘のすす泣きが堰の方から聞こえるようになり、堰のわき道を
やみ よ
闇夜に歩くと、娘の亡霊の足音がスタスタと追いかけてくるようです。村人たち数人でここを
いや
通る時は一番後ろを歩くのをみな嫌がり、いちもくさんにかけだすようになったということです。
3
けいざい
か
し
(2)経済を潤した河岸
ふなつき ば
ふる
さか
河岸とは、川の流れを利用して荷物や人を運んだ舟付場のことで、古くから栄えました。しかしト
りくじょう
はったつ
さび
ラックなどの陸上交通が発達すると、次第に寂れていきました。
❶久慈川にあった河岸
やまがた
山方河岸は常陸大宮市山方
いわ い ばし
の久慈川にかかる岩井橋のた
ね もとまご ざ え もん
もとにあり、根本孫佐衛門に
いとな
よって営 まれました。久慈
たなくら
はなわ
川上流の福島県棚 倉・塙 地
こうぞ
もくざい
方などの米・紙・楮・木材・
炭などが運ばれ、河岸で陸
あげされた品物は、牛や馬
によって那珂川の小野河岸
へ運ばれ、那珂川を下って
水戸や江戸へ送られました。
たかわたり
また常陸大宮市高 渡町に
たか わ だ
おお が
は高 和田河岸があり、大 賀
じ ろう え もん
治 郎衛 門によって営まれま
した。
山方河岸のあった岩井橋付近
❷那珂川にあった河岸
すいりょう
おおがた
つみ に
那珂川は水量が多く大型の舟も使われたため、積荷が多く、河岸はとてもにぎわいました。
長倉河岸のあったところ
かみ
なか
しも
小野下河岸のあったところ
小野河岸にははじめ上・中・下の 3 つの河岸がありましたが、途中で上・下の 2 つになりました。
な す
ちゅうけい き ち
那珂川上流の那須地方や久慈川の河岸から運ばれた品物を、下流の水戸や江戸に運ぶための中継基地
として栄えました。
ご ぜんやま
の ぐち
ながくら
の だ
えんきょう
御前山地域には野口、長倉、野田の 3 つの河岸がありました。野口河岸は 1746 年(延享 3)から
せきざわ
ご よう か し
関沢家によって営まれました。長倉河岸は西田河岸とも呼ばれ、江戸時代には水戸藩の御用河岸とし
ほ かんそう こ
かわ ぞ
のこ
いま せ
て火薬を運んだともいわれ、現在でもその保管倉庫が川沿いに残されています。野田河岸は今瀬河岸
とも呼ばれていました。
4
第1章 恵まれた自然
郷土を伝える❶
う
る
の さと こ
小野上河岸の家に住む宇留野里子さんの話
たいしょう
そう こ
小野の上河岸は、大正時代まで営まれていました。倉庫が2つあり、陸あげさ
れた品物が河岸近くの一番倉に保管され、水につかりにくい高い所に二番倉があ
うまかた
せんどう
りました。また舟を利用する人や荷物を運ぶ馬方、船頭のために「今村屋」と
いう飲食店もありました。
に ぬし
しゅくはく
私の家も元は土間が広く、荷 主が宿泊する部屋もいくつかあり、女中さんが
せっきゃく
おおぜい
いて、その接 客をしていました。馬小屋や米つき場もあり、大勢の人が出入り
うら
ちょうば ご や
しました。現在、家の裏に古びた小屋がありますが、元は「帳場小屋」といって、
舟に積み下しをする品物を管理する小屋でした。この辺りは、昔はとてもにぎやかだったんですよ。
ていぼう
(3)命を守る堤防
もう い
ふる
じゅうみん
こうずい
ど りょく
時に河川は猛威を奮いますが、住民を洪水から守るため努力した人がいました。
新しくつくられた堤防
那珂川の 1938 年(昭和 13)と 1941 年(昭和 16)
年の 2 度の大洪水で、堤防のなかった常陸大宮市野
しんすい
こう ち
りゅうしつ
ひ がい
口では、家屋の浸 水や耕 地の流 失など大きな被 害が
ねが
ていぼう
出 ま し た。 住 民 た ち の 強 い 願 い で、1941 年 に 堤 防
き せい どうめいかい
けっせい
期 成 同 盟会が結 成され、当時地元の区長をしていた
みながわひろかず
えら
こうしょう
皆 川広一が会長に選 ばれ、県との交 渉を行いました。
せんそう
はたら
戦争中のため男性が少なく、女性が中心となって働き、
およ
1943 年(昭和 18)7月に 1200 mに及ぶ堤防が完成
しました。
皆川広一の努力によって完成したこの堤防は、今で
も住民の命を守り続けています。
ちくてい き ねん ひ
ほくたん
築堤記念碑(昭和 27 年2月 堤防北端にある)
5
とも
2.山と共に生きる
ささ
常陸大宮市の広大な山々の恵みに、私たちは支えられてきました。
ゆた
のこ
めいぼく
また豊かな自然の残る常陸大宮市には、たくさんの名木があります。
(1)こんにゃくの神様
げんさん
さいばい
てき
こんにゃくは東南アジア原産で、雨が多く水はけのよい土地が栽培に適しています。常陸大宮市山
おく く じ
方から大子町にかけての奥久慈地方山間部は、こんにゃくの栽培に向いていたため江戸時代にもさか
んに作られていました。
ふ べん
くさ
り えき
しかし、当時こんにゃくは生玉のままで売られていたため運ぶのが不便で、腐ったりして利益も少
なんてん
ないのが難点でした。
かいりょう
このことを研究し、改良したのが常
もろざわ
とうえもん
陸大宮市諸 沢の藤 衛門でした。1776
あんえい
ひ
、畑の中に干 からびて白
年(安 永5)
くなったこんにゃく玉を見つけ、それ
こな
をヒントに粉こんにゃくを作ることに
せいこう
べん り
成功しました。おかげで運ぶのも便利
ほ ぞん
になり、保存もできるのでより遠くま
で売ることができるようになりまし
た。また、藩でまとめてこんにゃくを
あつか
しゅうにゅう
取り扱うことで藩の収入が増えたので、
水戸藩ではこの藤衛門の働きをほめ、
ぶん か
、名字を与えました。
1806 年(文 化3)
なかじま と う え も ん
そのため中 島藤 衛門と呼ばれるように
なったのです。
こうしてこの地方を中心にして茨城
せいさん
県はこんにゃく玉生産が日本一になり
げんしょう
ましたが、その後生産が減 少し、現在
ぐん ま
しも に た
では下 仁 田を中心とする群馬県に日本
ざ
ゆず
一の座を譲っています。
6
第1章 恵まれた自然
郷土を伝える❷
中島藤衛門生家を守っている
なかじまてい こ
中島貞子さんの話
中島藤衛門生家に生まれ、小学生
のころ、近くの畑で作っていたこん
にゃく玉を運ぶ手伝いをしました。
でも今では生家はもちろん近くの農
家もこんにゃく栽培はしていません。
1976 年(昭和 51)に大子・山方
けんしょうかい
を中心に「中島藤衛門顕彰会」が作ら
こんにゃく
れて、大子町に蒟蒻神社を作り、昔から藤衛門をまつっ
さんそん
あらた
ぼ ち
ていた山尊神社を石造りにして藤衛門神社と改め、墓地
かいしゅう
の改修もしました。
ほ
大子町に蒟蒻神社が作られる前には、大子や塙など保
ないごう
内郷でこんにゃく栽培をしている農家の人が「藤衛門講」
ふだ
を作り、よくお参りに来たので、山尊神社のお札を作っ
わた
て渡していました。今でもそのお札は残されています。
した
多くの人に慕われているんですね。
でんとう
(2)伝統のうるし
郷土を伝える❸
かみながまさのり
奥久慈うるし生産組合長神 長正則さんの語るうるし
うつわ
うるしは、器などを長持ちさせるために考え
さいしゅ
と りょう
られた昔からの塗 料で、うるしの木から採 取
されます。うるしの木は水はけがよく養分の
くらい
ある土地で栽培され、15 ~6年位たった木か
かき
ら「うるし掻」という人によりうるしが採取
とお
ふく い
されます。昔は遠く福井県などからこの「う
るし掻」が来て採取していました。
現在では山方地域を中心に「奥久慈うるし生産組合」を作り、
いくせい
こうけいしゃ
里うるしと呼ばれる木を植え、うるしの生産や後継者の育成をし
こうぼう
たいけん
ています。現在地元ではこのうるしを使った工房ができ、体験教
く ふう
せいひん
室や工夫された製品が作られています。
あと
掻き跡のあるうるしの木
(3)名木の数々
み うらすぎ
❶三浦杉
お
だ
の
よし だ はちまん
常陸大宮市小 田野にある吉 田八幡神
けいだい
じゅれい
社の境 内にあり、樹 齢約 850 年、高さ
みきまわ
約 58 m、幹 周り約9mの2本の杉で、
ぶん か ざい
1931 年(昭和6)に県指定文化財にな
りました。
常陸大宮
なし ❷
ば
昔
三浦杉の伝説
かまくら
さ が み
か
鎌 倉 時 代、 相 模( 現 在 の 神
てんのう
みうらのおおすけよしあき
奈川県)の三浦大介義明が天皇
めいれい
と ば
きさき
の命令により、鳥羽上皇の妃に
きゅうび
きつね
たい じ
化けた九尾の狐を退治するため
な す の が はら
に栃木県那須野ヶ原へ行きまし
たたか
た。苦しい戦いとなりましたが、
き がん
この神社に祈願したところ、大
さく
神に策をさずけられ、ついに狐
を退治することができたそうで
す。そのお礼として三浦大介が
植えた 2 本の杉は、当時鎌倉杉
と呼ばれていましたが、江戸時
とくがわ みつくに
代に水戸藩主徳川光圀によって
三浦杉と呼び名を改められたと
いわれています。
な がわ
7
とりのこさんしょう
❷鷲子山上神社のカヤ
この木は常陸大宮市鷲子にある鷲
しゃめん
子山上神社の南斜面に生育し、樹齢約
600 年、高さ約 25 m、幹周り 5.3 m
もあり、平成 10 年1月に県指定文化
財になっています。
あたた
茨城県北部は、暖かい南方で育つ植
ぶんぷきょうかい
物と、寒い北方で育つ植物の分布境界
しゅるい
にあるため、多くの種類の植物が生育
い なん
しています。カヤの木は岩手県以南の
ひ かくてき
比較的高い山に多く植生します。この
ひょうこう
鷲子山は標高 426 mです。
みつぞういん
❸密蔵院のカヤ
ほんどう
常陸大宮市山方の密蔵院の本 堂前にあるカヤの木は、樹齢約 400
年、高さ約 25 m、幹周り 6.8 mもあり、1980 年(昭和 55)5 月に町、
のち市指定文化財になっています。
しんごんしゅう
なかしゅく
真 言宗のお寺である密蔵院は、常陸大宮市山方の仲 宿に 1492
めいおう
そうけん
か さい
年(明 応元)に創 建されましたが、江戸時代に火 災にあったため、
ほうれき
しんちく
1759 年(宝暦9)に現在地に本堂を新築して移ったと言われてい
ます。
常陸大宮
昔
ばなし ❸
あんえい
じ ぞう
カヤの木地 蔵
けいしょうしょうにん
か
じ ぞう
江戸時代の安永年間(1772 ~ 80)
、密蔵院の第 22 世の慶頌上人は、枯れたカヤの木に地蔵
そんぞう
ちょうこく
なま き こ やす
尊像を彫刻しましたが、不思議にもそのカヤは生きた木によみがえったので、生木子安地蔵尊
とな
にん ぷ
しゅ ご ぶつ
いた
うやま
と唱え、妊婦の守護仏として敬われ、今日に至っています。現在でも近くの妊婦は、このカヤ
の木地蔵のお守りを受ける者が多いそうです。
8
第1章 恵まれた自然
こうはん じ
❹江畔寺のイチョウ
このイチョウは、樹齢約 450
年、 高 さ 40 m、 幹 周 り 5.6 m
の大木です。1976 年(昭和 51)
12 月に村、のち市指定文化財に
なりました。
かみ お せ
常陸大宮市上 小 瀬にある江畔
りんざい しゅう
さ たけ
寺は臨 済宗 のお寺で、佐 竹氏出
よしはる
しろ
身の義 春が鎌倉時代にここに城
たかしげ
を築き、のちに、その子孝 繁が
こうはん じ
寺を開き孝繁寺としました。
その後江戸時代になって、現
在の江畔寺と呼び名が改められ
ました。
つた
言い伝 えによると、江戸時代
のはじめには江畔寺のとなりに
しんがん じ
信 願寺という寺がありました。
徳川光圀が江畔寺を参拝したと
き、この信願寺によそへ移るよ
じゅうしょく
う命じたところ、信願寺の住 職
が江畔寺の庭先にこのイチョウ
さ
を植えて立ち去ったそうです。
かぶと
ご しんぼく
❺ 甲 神社の御神木
しもちょう
常陸大宮市下町に
ある甲神社の御神木
となっているスギ
は、樹齢約 420 年、
高さ 30 m、幹周り
5.1 m も あ る 大 木
で、1976 年( 昭 和
51)3 月に町、のち
市指定文化財となっ
ています。
言い伝えによる
だいどう
と、
807 年(大同2)
ふじわらよしつぐ
に藤原良継が天皇の
命令を受けて甲明神
をまつったのがはじ
まりと言われていま
す。また代々佐竹氏
き ふ
から寄付を受けてい
ます。
❻大ケヤキ
このケヤキは樹齢約 400 年、高さ 30
m、幹周り6mもある大木で、常陸大宮
きたちょう
え び ね
市北町の海老根家の庭にあります。
9
つ
で ん と う
第2章 受け継 いだ伝 統文化
そ せん
み らい
● ● ● ● ●
つた
常陸大宮市には、祖先が守り、私たちに伝えてくれた文化があります。未来に伝えていくのは、現
在を生きる私たちの役目です。
か
ぶ
き
ぶ たい
1.全国に知られる農村歌舞伎の舞台
にししお ご
まわ
❶西塩子の回り舞台
めぐ
まね
この舞台は、地方を巡 る役者を招
し ばい
いたり、地元の人が演じる芝 居のた
めにそのつど組み立てられた組立式
回 り 舞 台 で、1933 年( 昭 和 8) を
最後に組み立てられませんでした。
ちょう さ
平成 3 年の調 査で、舞台の床の一部
てんかん
を回転させて場面転 換の出来る組み
おおまく
ぶんせい
立て式であることや、大 幕に「文 政
三」とあることから 1820 年(文政3)
げんぞん
に作られたもので、現 存するものと
さい こ
しては日本最 古のものであることが
わかりました。
せ たい
その後、地元西塩子地区全世 帯に
ほ ぞんかい
よる保 存会が結成され、平成 9 年に
舞台が組み立てられて記念上演が行
われました。平成 10 年 11 月には、
じ し ばい
西塩子で第 9 回全国地 芝 居サミット
が開かれ、3 千人もの人が集まりま
した。
その後も保存会が中心となって舞
てい き てき
こう
台の組み立てが行われ、定 期的に公
えん
演を行っています。
10
郷土を伝える❹
西塩子回り舞台保存会
あくつふみや
元会長圷文也さんの話
けいしょう
この舞台を保存し、地元で継 承し
こ
ていくために、西塩子地区全 74 戸
で平成 6 年に保存会を結成しました。
そして平成 9 年にはじめて組み立て
をすることになりましたが、なにし
ろその組み立て方がわかりませんで
した。私は子どものころ、父に連れ
られて戦前の舞台作りを見ていたので、柱の立て方など
とても役に立ちました。
ぐうぜん
また舞台作りに使う「こも」も地元にはなく、偶然知
たたみや
しょうかい
せんだい
まい
り合いの畳屋さんの紹介で、仙台まで行って 700 枚も注
かんそく
文して作ってもらいました。公演の期日も、水戸観測所
き ろく
で過去 30 年間の記録を調べてもらい、秋に決めました。
がん ば
ふくげん
みんなで頑張って復元した回り舞台ですが、こんなに
むく
たくさんの人に足を運んでもらって報われたと思います。
第2章 受け継いだ伝統文化
平成 20 年には第 23 回国民文化祭に合わせて組み立てられ、全国から地芝居の団体などが集合して
公演が行われました。写真は小学生も出演した国民文化祭の様子です。
しも お せ
❷下小瀬歌舞伎舞台
ぶん か
江戸時代の文 化年間(1804 ~ 18 年)ごろ作
ようざい
そう ち
られたこの歌舞伎舞台は、舞台用材や装置、ふす
ほんゆか
だい き ぼ
ま絵、本床、大幕などかなり大規模なものです。
地元が行ってきた村歌舞伎は、栃木県などの歌
舞伎を招いて上演され、秋の収穫も終わった近く
の人たちがごちそうを持ってきて、むしろの上に
すわ
座って芝居見物を楽しんだといいます。
またこの舞台は地元で使うばかりではなく、近
な か みなと
くの村にも貸し出され、遠くは那 珂 湊 方面まで
運ばれました。
ぎ
だ ゆう
えんそうせき
写真は本床(チョボ)とよばれ、義太夫の演奏席に
かざ
わく
取りつける飾った枠
かど い
❸門井の組立式舞台
この組立式舞台は、江戸時代の終わりごろから
か しま
舞台道具をそろえ始め、地元鹿 島神社の祭りの
よ きょう
わかしゅう
余 興公演のときに、地元の若 衆によって組み立
てられて、人形芝居や歌舞伎の上演などを行って
きました。明治以降にはふすまや本床などが新し
ふっかつ
くされ、戦後に復活しましたが、1950 年(昭和
さい ご
25)を最 後に舞台の組み立てなどは行われなく
なりました。
しろうとえんげい
昭和 25 年の門井青年会素人演芸大会
11
2.みんなの思いがこめられた祭り
(1)祭り
とりのこぎおんまつり
み
わ ち いき
❶鷲子祇園祭(美和地域)
へいあんきょう
ご りょう
茨城・栃木県境にある鷲子山上神社の夏祭りである祇園祭は、昔平安京で病気が流行したのを御霊
しず
のたたりと考えて、
それを鎮めるために行われた祭りです。かつては7月 16・17 日の 2 日間でしたが、
れいたいさい
みこし
現在は 16 日だけ行われています。4年に一度は鷲子山上神社夏例大祭として、神社より神輿が出て、
だ し
や たい
じゅんこう
はやし
うじ こ
えんそう
6つの組から山車・屋台も出て地元を巡行します。この時演奏されるのがお囃子で、山車の上で氏子
かな
の人によって奏でられます。
郷土を伝える❺
まつり ば や し
小学生が語る鷲子祭囃子保存会
この保存会では月 2 回、祇園祭で演奏する
お囃子を、夜に地区の集落センターで練習し
ています。今は小学 2 年から中学生まで 10 人
おり、大人も 20 人ほどいます。大祭がないと
きには、文化祭や地元のふるさと祭、JA まつ
ろうじんふく し し せつ
りなどに出演したり、地区の老 人福祉施設の
き かい
夏祭りに出演して発表の機会を持っています。
そのため毎回練習の前には、2人一組で「バ
チ打ち」などくりかえし、体力をつけて練習
をしています。やがて大人になっても保存会
さん か
に残って、この祭りにはぜひ参 加したいと思
っています。
12
第2章 受け継いだ伝統文化
鷲子祭囃子保存会で活動している小学生
❷祗園祭(大宮地域)
えきびょうがみ
この祭りも疫 病神をなだめて、遠くの地
に送り出してしまおうという、甲神社境内
そ が
にある素 鵞 神社の祭りです。お宮出しとい
わかもの
はだか
われ、神輿が出て、多くの若 者が裸 でぶつ
かり合うので「裸祭り」とも呼ばれています。
はげ
激 しくもまないとその年は疫病が流行する
といわれ、かなり激しくもみあいます。
この祭りは7月 25 日~ 27 日の3日間で
じ じょう
したが、交通事 情の理由などによりいった
ん中止され、1978 年(昭和 53)から復活
して、現在は7月末の金曜日に子ども神輿
が、土曜日には大人の神輿が出て、町内を
ね
じっ し
練り歩くという形で毎年実施されています。
はや し
(2)お囃子
みょうじん
❶明神ばやし(甲神社・下町)
明神ばやしは、甲神社の4月例大祭で、
つ
しんこうさい
大宮に春を告 げるといわれている神 幸祭
ほうのう
ふえ
たい こ
の行列で奉 納されるもので、笛 や太 鼓の
お囃子です。横笛 8 人、大太鼓・小太鼓
さが
は
ば か
の 4 人で「下 り葉 」「馬 鹿ばやし」の2
曲が演奏されます。下り葉は、行列の出
る時に歌いはやしながら、馬鹿ばやしは、
祭礼に出社する山車のはやしとして演奏
されます。
この神幸祭も、交通事情により 1965 年
(昭和 40)に中止されましたが、現在で
は甲神社から十文字付近まで神輿が出社し、この明神ばやしが演奏されています。
とお
ばや し
にしかな さ
❷通り囃子(西金砂神社・諸沢)
ごと
西金砂神社の7年毎の小祭礼で神輿が
なかぞめ
わ だ
ば ば
出社し、中染・和田・馬場(常陸太田市)
さいてん
でんがく
まで行き祭 典・田 楽を行って、また神社
もど
かみみやかわうち
へ戻ります。そのときに諸沢や上宮河内・
しもみやかわうち
あかつち
下 宮河内・赤 土(常陸太田市)から、そ
わ
れぞれ「花まとい」
(割った竹をぶら下げ
いろがみ
たものへ、色紙で作った花をつけたもの)
を先頭に行列を組み、通り囃子を演奏し
けいだい
こつづみ
ながら境内に入ります。太鼓・小鼓・笛・
かね
「ヒキョウメ」
「ニヘン
鉦 で「トッキキ」
ガエシ」
「シヘエガエシ」の曲を境内で演
奏します。
13
さんぴん
3.水戸藩一の産品・和紙
にし の うちがみ
(1)西ノ内紙
江戸時代のはじめ、
にし の うち
常陸大宮市西 野内の
ほそがい
細 貝家が近くの農家
ふくぎょう
す
で副 業として漉 かれ
ていた紙を一手に取
り 扱 っ た こ と で、 西
ノ内紙の名が広まり
ま し た。 フ ネ と 呼 ば
すいそう
こうぞ
れ る 水 槽 の 中 に、 楮
しょ り
の皮を処 理してでき
ざいりょう
る 材 料 を 入 れ、 そ れ
ほ
を す く い 上 げ、 干 し
て和紙とする作業が
かみ す
紙漉きです。
郷土を伝える❻
わざ
きく ち せい き
紙漉きの技を今に伝える菊池正氣さんの話
じょうたつ
現在、紙漉きは息子たちが行っており、私がいつまでも手を出していては上達
むずか
しないので、一番難しい紙漉きから取り組ませています。伝統を守っていくこと
ぎ ほう
でんしょう
はなかなか大変で、昔からの技法を伝承するだけでなく、時代に合ったものを
せいひん
作っていかねばなりません。和紙の製品には限りがあるので、改めて原点に立
ち返り、生活に役立つものと考え「紙ざぶとん」を作り、使い古しの西ノ内紙
よ
お
し ふ
を細く切り縒りをかけた糸で織った「紙布」など、苦心して生み出しました。し
へ
ひょう ぐ や
かし現在、和紙を作る工場は減り、それを利用する表具屋さんも困っています。
こうてい
き かい
またこの紙を漉く工程は機械化することも難しく、生活様式の変化によって製品の販売もなかなか大
がん ば
変なことですが、頑張って続けていきたいと思います。
おしえて
①
だいふくちょう
西ノ内紙利用の大福帳
きんがく
き ろく
大福帳とは、江戸時代に売買の金額を記録したノートのこ
とで、福運が来るのを願って表紙に「大福帳」と記しました。
こうぞがわ
せん い
西ノ内紙は楮 皮の繊 維だけで漉かれており、ねばり強く、
虫もつかず保存に適していたので、江戸の商人はこの西ノ内
紙で大福帳を作りました。
や
当時江戸は火事が多かったため、商売の記録が焼けてしま
たいさく
ひも
わないよう対策が必要でした。このため大福帳に長い紐をつ
けておき、火事の時には井戸の中へ投げ入れ、後で引き上げ
かわ
ると一枚一枚よくはがれて天日で乾 かすと元に戻るという、
とくちょう
西ノ内紙の特徴を生かした使い方がされていました。
14
第2章 受け継いだ伝統文化
かみ す
ば あと
(2)紙漉き場跡
まつ の くさ
常陸大宮市松之草に紙漉き場の跡
があります。昔、紙漉きの材料の楮
に
ひた
の皮をとるため煮て、それを川に浸
お せ
しておく「川さらし」をここの小瀬
ざわがわ
沢川で行っていました。
徳川光圀は、紙をむだづかいする
女中たちに紙の大切さを教えよう
と、松之草に行かせて「川さらし」
を見学させたと言われています。
た
紙漉き場跡に建てられた和紙資料
館には、紙漉きの道具や、原料とな
る楮や「みつまた」が展示されてい
ます。
紙漉き場があったところに建てられた
和紙資料館と「水戸藩指定紙漉場跡」
の碑
常陸大宮
なし ❹
ば
昔
おくじょちゅう
かんちゅう
奥女中に寒中紙漉きを見学させる
(『黄門様の知恵袋』より)
しい か
げんこう
そん
光圀公はふだんから手紙の裏や短い紙をつないで使い、詩歌の原稿には書き損じた紙を使う
おおおく
つか
など、紙を大切に使っていました。水戸城の大奥に仕える奥女中に対しても、紙をむだにしない
ようにとたびたび注意をしていましたが、なかなか紙のむだづかいはなくなりませんでした。
そこである年の冬、光圀公は奥女中達に寒中の紙漉きを見学させようと、松之草村につかわ
わた
しました。光圀公は前もって、紙漉き場のある川の上に板を渡し、すき間のある板の上にむし
し
ふ
すわ
ろを敷いただけの見学席を用意させました。その当日、奥女中達は四方吹きさらしの席に座っ
しょくにん
はたら
く姿を見学し、
て紙漉きを見学しました。奥女中達は、男女の紙漉き職人達が水の中に入って働
こお
かんぷう
やがて城に帰って、彼女達自身が吹きさらしの寒風に苦しめられたこと、凍るような冷たい水
ほうこく
の中で紙漉きをする職人の大変さを口々に光圀公に報告しました。
じっさい
よう い
そこで光圀公は、
「そなたたちが実際に見てきたように、紙を漉き、作るということは容易
なことではないので、今後は紙のむだづかいをしないよう心がけるべきであるぞ」といましめ
られたということです。
おしえて
②
こうぞ
「楮ってなあに?」
らくようていぼく
くわ
に
しつ
うす
あら
楮はクワ科の落葉低木で、葉が桑に似て質はやや薄くて粗く、高さは約3m
きょうかい
ふせ
位です。よく山間部の段々畑の辺りや境界に植えられ、畑の土の流出を防ぐの
にも役立ちます。
和紙の材料として最も多く用いられており、木の皮の繊維が和紙を漉く時の
材料となります。
15
ゆ う きゅう
れ き
し
第3章 悠 久 の歴 史
こんせき
● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ●
い せき
昔の人が生活した痕跡が土地に残っているものを遺跡といいます。常陸大宮市にもたくさんの遺跡
つ
があり、これらを調べることで、私たちの祖先が積み重ねた歴史を知ることができます。また書き残
ぶんけん
された文献からも、多くの歴史を読み取ることができます。
きゅう せ っ き
じょうもん
1.常陸大宮市の夜明け―旧石器・縄文時代―
か
りょう
さいしゅう
常陸大宮市に人が住み始めた時代で、狩りや漁、採集によって食べ物を集めていました。
(1)人が作ったもの
せっかくせっ き
❶石核石器
わ
だ せいせっ き
石を打ち割 って作った道具を、打 製石器といいます。
打製石器の中でも、石器を作るために石を打ち割ってい
しん
き、残った芯 の部分を利用したものを石核石器といいま
す。この石器は山方小学校の裏にある山方遺跡から出土
にぎ
したもので、手で握れる位の大きさです。これは今から 3
万~ 2 万 8 千年前の旧石器時代のものと考えられており、
じんるい
き
常陸大宮市内で人 類の活動の痕跡が認められる最古の記
ろく
みんぞく
録です。歴史民俗資料館山方館で見ることができます。
こうぎょくせいたいしゅ
❷硬玉製大珠
かた
あな
ヒスイなどの硬 い石で作られ、穴 が開けられている細
だ えんけい
ほくりく
長い楕円形のかざりを硬玉製大珠といい、縄文時代の北陸
や関東など東日本に多く見られます。左は、常陸大宮市
しもむら た
つぼ い うえ
下 村田の坪 井上遺跡で、ショッピングセンター建設工事
はっくつ
前に行われた発 掘調査時などに出土した約5千~4千年
前の縄文時代のものです。なお一つの遺跡から 8 点の大
珠が出土したのは国内最多です。
にいがた
いと い がわ
また、この大珠の材料であるヒスイは、新 潟県糸魚川・
せいかい
か こうひん
かく ち
青 海地域のものだとされ、加 工品が各 地へ運ばれたと考
えられています。
おしえて
③
「とても硬いヒスイに、どうやって穴を開けたの?」
①管状の道具
を回転
かんつう
縄文時代の遺跡から、穴の貫 通していない硬玉製大
珠が見つかることがあります。その中には回転によっ
てついたあとやヘソ状の高まりが残っていることがあ
すなじょう
けんまざい
くだじょう
るため、砂 状の研 磨剤といっしょに管 状の道具を回転
させることで、穴が開けられたのではないかと考えら
れています。
16
第3章 悠久の歴史
けず
②少しずつ削
り進め、貫通
砂状の研磨剤
をいれる
く
(2)人が暮らしたあと
かじはば
❶梶巾遺跡
郷土を伝える❼
がら
こいわい
常陸大宮市小 祝の
しき ち
大賀小学校の敷 地と
なっている、旧石器
時代の終わりごろの
遺跡で、久慈川に面
はし
い ち
した台地の端 に位 置
します。石器を作っ
た 跡 が あ り、2 千 点
以上の出土遺物があ
ります。
左は、昭和 59 年の
こうしゃけんせつ
校 舎建設前に行った
調査の様子です。
の がみきみ お
梶巾遺跡の地元に住む野上公雄さんの話
みちばた
ど
き へん
仕事柄、道路を歩くことが多く、よく道端で土器片などを見つけたことから、
きょう み
考古学に興味をもちました。その後、自分の畑から土器などが出るため、遺跡が
かくしん
るい
あると確信し調べたところ、石器類のみで土器が出ない場所があり、これがき
っかけで「大宮町にも旧石器時代の遺跡がある」として梶巾遺跡が発掘されま
す
した。何気なく通り過ぎる畑の道も、目をこらせば色々なものが見えてきます。
み
「見る」から「観る」へ、そして興味を持ち調べることで、人とのつながりも広
がります。みなさん、まずは「観る」ことから始めてみてください。
こう こ がく
つぼ い うえ
にしはなわ
❷坪井上遺跡
❸西塙遺跡
常陸大宮市下村田の玉川左岸の台地上にある、
主に縄文時代の遺跡で、現在ショッピングセン
ターなどが建っています。硬玉製大珠や土器か
じゅうきょ
ら、北陸地方との交流がわかります。住 居が多
く見つかっており、東北と関東の文化が重なっ
た地域にあった、大きなムラだったといえます。
常陸大宮市野口の那珂川左岸の丘の上にある、
主に縄文時代の遺跡です。この地方に多い形を
とくちょう
しょくりょう
ほ ぞん
した、特 徴的な住居の跡と、食 料などを保 存し
ちょぞう けつ
ておいた貯 蔵穴 が見つかっています。この時期
とくしょく
の集落の特色をもったムラの跡です。
おか
17
や よ い
2.注目される常陸大宮市の弥生時代
きしょう
さいそう ぼ
私たち日本人の主食、お米が作られ始めた時代です。常陸大宮市には希少な再葬墓遺跡があること
で、全国の学者の注目を集めています。
いずみさかした
❶泉坂下遺跡
常陸大宮市泉にある弥生時代(約 2300 ~ 1700 年前)の遺跡です。再葬墓がたくさん見つかってお
じんめんつき
り、出土した人面付土器は高さ 77.7cm と日本最大です。
人面付土器が発見されたときの状況
おしえて
④
さいそう ぼ
「再葬墓って?」
い たい
う
ほうむ
再葬墓とは、遺 体を埋 めたり、ほら穴などに置いたりして一度 葬 っ
つぼ
ほね
かめ
はか
たあと、骨だけになってから遺体を壺や甕などの土器に入れて埋めた墓
です。縄文時代や弥生時代に行われ、特に弥生時代の中ごろの東日本に
多くみられます。
つぼがた ど
き
弥生時代の再葬墓は、骨を入れる容器として壺型土器を使うのが特徴
です。また、ひとつの穴に壺をいくつも埋めるので、個人の墓ではなく
しゅうだん
集団の墓だといえます。そして、泉坂下遺跡や小野天神前遺跡から出て
いるように、人面付土器がいっしょに出土するのも、特徴のひとつです。
人面付土器
愛称は「いずみ」ちゃん
郷土を伝える❽
きく ち えいいち
発見の手がかりをつくった菊池榮一さんの話
き ぞう
昔から、畑を掘ると土器片などが見つかり、小学校へ寄贈したりしていまし
か
た。平成3年、畑の木を植え替えたときに壺形土器が見つかり、資料館へもっ
て行きました。もともと畑から土器などがたくさん出ていたため、その後平成
18 年に発掘が行われましたが、弥生時代の見事な再葬墓が発見され、人面付
土器も出たということです。遺跡というのは実に身近にあるものです。資料館
おとず
でいずみちゃんを見たら、発見された現地にも子供たちが訪れ、確かめるよう
になってくれれば ・・・ と思います。
18
第3章 悠久の歴史
小野天神前遺跡
泉坂下遺跡
2つの遺跡の位置
お
の てんじんまえ
❷小野天神前遺跡
常陸大宮市小野にある弥生
時代の遺跡で、那珂川に面す
る丘の上にあります。茨城県
北部で初めて知られた再葬墓
で、畑仕事の最中に人面付土
器などが見つかったため発掘
が行われました。その結果、
壺形土器がいくつかまとまっ
ど こう
て埋められた土 坑(※あな)
き
が 20 基 確認され、さらに人
面付土器が二つも見つかり、
はんだん
再葬墓であると判断されまし
た。ムラがあった跡は見つか
っていません。
人面付土器
おしえて
じんめんつき
き
⑤
「人面付土器ってなあに?」
人の顔のモチーフがついている土器で、東海から東北南部にかけての地域に見られます。そのほ
かんけい
とんどは弥生時代の再葬墓に関係するものであり、土器の口から首のあたりにかけての部分に顔が
れい
つけられています。1つの再葬墓遺跡から1つの人面付土器が出土する例がほとんどですが、小野
天神前遺跡からは3点が出土しています。
19
こ ふん
3.古墳の造られた時代
やまとちょうてい
し はい
おさ
大和朝廷の支配が常陸大宮市にも及び、地域を治めた人物の墓である古墳が造られるようになりま
した。
(1)古墳
ぬかづか
❶糠塚古墳
糠塚古墳全体図
ぜんぽうこうえんふん
えんぷん
大賀小学校の南方、常陸大宮市小祝にある前方後円墳です。昔は前方後円墳が 3 基、円墳が 10 基
けず
ぐん
あった古墳群ですが、現在は前方後円墳1基しか残っておらず、さらに前方部は削り取られ、後円部
すいてい
せい き
のみが残っています。推定される大きさは全長 90 mの大型古墳であり、5 世紀ごろに大宮地方を支
ごうぞく
配していた豪族によって造られたと考えられています。
いっ き やま
❷一騎山古墳群
常陸大宮
ちょうじゃ
なし ❺
ば
昔
ぬかづか
長 者と糠 塚
昔、小祝に長者が住んでいました。長者
ほうこうにん
は多くの奉公人を使っていたので、毎日た
くさんの米をつき、その糠を小祝台地の南
す
の方に捨てさせました。糠はやがて塚とな
り、糠塚と呼ばれるようになったと言い伝
えられています。
の
上に述べたとおり、糠塚は実は前方後円
けんりょくしゃ
墳なのですが、権力者によって塚が築かれ
し てん
たという視点は面白いですね。
ほくせいかん ご せんもん
常陸大宮市下村田の茨城北西看護専門学校(元県立大宮工業高校)の北側にある、前方後円墳 1 基
はにわ
えんとう
と円墳 3 基からなる古墳群です。うち前方後円墳からは人物埴輪・動物埴輪・円筒埴輪などが多く出
ふくそうひん
たまるい
ぶ ぐ
りゅういき
土していて、副葬品として玉類や武具が出ています。6 ~ 7 世紀に、玉川流域を支配していた豪族が
造った古墳だと考えられます。
20
第3章 悠久の歴史
おうけつ ぼ
(2)横穴墓
らいじんやま
❶雷神山横穴墓群
二段に分けて造られて
おり、上段に1基、下段
に4基の計5基がありま
す。上段にある1号墓の
げんしつ
みがドーム形の玄 室(※
おさ
横穴の一番奥の遺体を納
める場所)をもち、ほか
はアーチ形をしています。
このことから、1号墓が
中心的な人物の墓だと考
えられています。常陸大
はっ た
宮 市 八 田 に あ り、7 世 紀
ごろのものです。
いわかけ
❷岩欠横穴墓群
南から西にかけて 5 基がおおよそ横一
なら
列に並んでいます。もっとも東にある1
号墓のみが家形の玄室をもち、ほかはア
ーチ形のため、1号墓が中心的な人物の
墓と考えられます。常陸大宮市八田にあ
り、7世紀ごろのものです。
おしえて
⑥
「横穴墓ってなあに?」
いっしゅ
横穴墓は、古墳時代終わりごろの墓の一 種です。
いわあな
ほ
こ
がけめん
台地や丘の崖面に、横方向に岩穴を掘り込んで造り、
せま
入り口をふさいだ形のものです。入り口が狭 く、中
ぐんしゅう
は広く造られており、いくつも群 集するのが特徴で
す。九州北部に 5 世紀後半に出現し、7 世紀前後に
は東北地方まで広がりました。茨城県内の横穴墓の
ぶん ぷ
分 布は県北が中心です。また、県北の横穴墓は、絵
も よう
えが
や模 様が描 かれていたり彫刻されていたりすること
が特徴です。
雷神山
岩欠
21
ひたちのくに
ふ
ど
き
4.常陸国風土記の世界
な
ら
さんぶつ
風土記は、奈良時代のはじめ(8世紀ごろ)
、風土・産物・文化などを地方別にまとめた本で、天
へん
皇の命令により編さんされました。現在確認できるのは五つのみで、その一つである茨城県の『常陸
かんれん
き さい
国風土記』には、常陸大宮市に関連する記載があります。
かがみいわ
(1)鏡岩
すがた
おどろ
鏡岩は常陸大宮市
てるやま
照山の山中にありま
すいちょく
かたむ
す。垂直に近く傾い
だんそう
た岩の面は断層運動
によってできたもの
みが
で、昔は磨かれたよ
なめ
うに滑らかで、近づ
かげ
くと影がぼんやりと
うつ
映りました。しかし
ふう か
風化(※岩石などが
ねつ
空気・水・熱などの
くず
ために次第に崩れて
砂や土になること)
がひどく、残念なが
ら現在ではほとんど
映りません。
この鏡岩について
は、
『常陸国風土記』
にも「石鏡」として
おに
紹介され、
「鬼 が岩
に
に映った自分の姿を見て、驚いて逃げ去った」と書かれています。
しんぺん ひ た ち こく し
げっきょうせき
「面が平らで光っ
また江戸時代に編さんされた『新編常陸国誌』にも「月鏡石」として紹介され、
ており、まるで鏡のようだ」と書かれています。
郷土を伝える❾
せきよしかず
な
み
こ
ふ さい
鏡岩の近くに住む関喜一 ・ 南海子さん夫妻の話
てんじんさま
戦後の子どものころ、この鏡岩のある広場で、天神様のお
えだ
祭りがあり、小太鼓を木の枝につるしてたたいたりしました。
あずき
はん
そしてそこで小豆の入ったご飯を、しゃもじで紙の上に分け
てもらって食べましたが、それがとても待ちどおしく、楽し
みの一つでした。
この鏡岩の東側にはかつて山があり、日が当たらないため
すず
の ら
きゅうけい
に夏は涼しく、近くの人は野良作業の合間にここで休憩して
ぼくじょう
いました。現在はその山が削られてなだらかになり、牧場と
なっています。またここには「おつき場」があり、神輿が出たときにはここで休むこの地域の広場で
した。近くの小学校の遠足で、よく子どもたちが来てはお弁当を広げたりもしました。現在でも5月
しゅうい
の連休には、小グループが来てバーベキューをすることもあります。現在、私は定期的にこの周囲の
くさ か
つま
つと
草刈りを、妻は草むしりや落ち葉かきなどをして、その保存に努めています。
22
第3章 悠久の歴史
たまがわ
(2)玉川のメノウ
あた
き ぞう
寄贈
され、戦前より大宮北小学校(旧玉川小学校) 圷さんが小学生のころより玉川辺 りで拾い集めた
ほ かん
に保管されている、玉川から出たメノウ
メノウ
く じ の こおり
『常陸国風土記』の久慈郡のところに、こう書かれています。
し どり
を がわ
あか
いし ま じ
へき
に
(中略)北に小水あり丹き石交錯れり。色は、ひん碧に似て、
「郡の西□里に静織の里有り。
き
よ
なず
火を鑚るにいと好し。もちて玉川と号く」
しず
きたがわ
(意味)「久慈郡に静織の里(現在の那珂市静)というところがある。北側に小さな川があり、そこで
と
ひ じょう
採れる赤い石は、火打ち石にすると非常に良い。これを玉川と名付ける」
玉川という名前は奈良時代から続いていて、古くから「火打ち石のメノウが採れる川」として有名
だったのです。
おしえて
郷土を伝える❿
あくつのぶひろ
⑦
「メノウってなあに?』
せきえい
けっしょう
メノウは、石英の細かい結晶
こうぶつ
が集まってできた鉱物です。常
陸大宮地域では昔から、火打ち
いっ
石と呼ばれていたようです。一
ぱんてき
とうめい
般 的にメノウの多くは透 明か
ら白色ですが、玉川のメノウは
赤色からオレンジ色をしてい
ふく
ます。これには、含まれる鉄分
の量が関係しているともいわ
せいぶん
れ、少しの成分のちがいでさま
へん か
ざまな模様や色に変化します。
メノウコレクター圷伸博さんの語る玉川のメノウ
小学生のころから石を集めるのが
好きで、よく近くの玉川へ遊びに行
き、いろいろな石を拾っていました。
とく
そのうち、集めた石の中には特にメ
き づ
ノウが多いことに気付き、だんだん
きょうみ
メノウに興 味を持つようになり、本
などを使って調べるようになりまし
た。大人になってからも興味は変わらず、仕事が休みの
日には車で玉川へ出かけ、石やメノウを集めました。そ
れらの集めた石は、家で保管しています。現在では、そ
たず
の玉川で採れたメノウを目当てに訪 ねてくる人もおり、
大学関係の先生などもメノウを見にやってきました。ど
けいぞく
んなに小さなきっかけでも、興味をもったことを継 続す
ることが大事だと思います。
23
しんこう
5.信仰のよりどころ
ささ
私たちの心を支え続けた、神社・寺院が常陸大宮市にはたくさんあります。
(1)神社・寺院
とりのこさんしょうじんじゃ
❶鷲子山 上 神社
この神社は、茨城県と栃木県
けんざかい
との県境にある鷲子山上にあり、
言い伝えによると 807 年に紙生
えきびょう
産の神を、またこの地方に疫 病
が流行し死者が出たので、824
びょうなんしょうじょ
年ごろに病 難消除の神をまつっ
たといわれています。
しゅげんじゃ
ま た こ の 山 は、 修 験 者( ※
れいげん
さん や
え
しゅぎょう
山 野にて霊 験を得 るための修 行
をする人)たちの修行の場でも
さんがく
れい ち
あり、山 岳信仰の霊 地でもあっ
たので、古くから鷲子地方(茨
む も
城県)や武茂地方(栃木県)の人々
から信仰され、今日に至ってい
ほんでん
ずいしん もん
ます。神社の本 殿や随 神門 は県
指定文化財となっています。
そうせん じ
❷蒼泉寺
えんげん
ながくら じょうしゅ
よしつな
ぜんけい じ
1338 年(延元2)
、長倉城主の長倉義綱が善慶寺を建
てましたが、その後長倉氏はよそへ移ったので、この寺
けいちょう
いっしょ
うつ
お だ
、小田
も一緒に移りました。その跡へ 1596 年(慶長元)
わら
あんそうしょうにん
まね
原より安叟上人を招いて、蒼泉寺が開かれました。
か さい
その後 1811 年(文化8)
江戸時代に二度の火災にあい、
さいけん
いた
に再建されましたが、傷みがはげしく、平成2年に大改
修が行われました。下のように多くの文化財が伝わって
います。
市指定文化財(蒼泉寺本堂内)
いた ど
え
ア.板
戸絵(8枚)
かのう
つ むら う りん
狩野派画家・津村雨林の作といわれています。
ごうてんじょう
イ.格天井の絵画(112 枚)
同じく津村雨林の作といわれています。
らん ま
ちょうこく
ア
イ
ウ
エ
ウ.欄ざい
間の彫刻(3枚)
ぼ
けやき材のすかし彫りです。
しゃ か ね はん ず
エ.釈迦涅な槃図(1812 年(文化9)作)
お釈迦様が亡くなった時の絵です。
24
第3章 悠久の歴史
し ん ら ん しょうにん
(2)親鸞上人にまつわる話
じょうどしんしゅう
親鸞は、鎌倉時代に浄 土真宗を開い
そう
き ぞく
た僧で、京都の貴族の子として 1173 年
じょう あん
しゅっけ
(承 安 3)に生まれました。9 歳で出 家
ひ えいざん
ほうねん
して比叡山で修行し、のち法然の弟子と
せんじゅねんぶつ
なりました。専修念仏(※ひたすら念仏
とな
さと
を唱えて修行する)を悟り、多くの人々
ぶっきょう
し じ
から支持を得ましたが、それまでの仏教
にいがた
る ざい
けい
勢力により、現在の新潟県に流罪(※刑
として地方に流す)にされました。のち
ふ きょう
ゆる
たいざい
許 され、関東に約 20 年間滞 在して布 教
活動をしながら多くの弟子を育てていま
す。
ちょくせつ
親鸞に直 接教えを受けた 24 名の弟子
に じ ゅ う し はい
を、二十四輩といい、そのうち6名の開
いた寺が市内に残っています。
親鸞上人見返りの桜
常陸大宮
ばなし ❻
昔
ていおう
さくら
親鸞上人見返りの桜
ねんしん
こ ぶね
そ まつ
いおり
た
1222 年(貞応元)ごろ親鸞上人の弟子の念信が常陸大宮市小舟に粗末な庵を建てて布教し
おとず
ふ し ぎ
まん
ていた所へ、親鸞は何回も訪れていました。ある年の早春、不思議にも庭の桜が一夜にして満
かい
ふ
開となりました。その不思議さから、親鸞が去りぎわに振り返って念仏を唱えたことにより、
この桜を「見返りの桜」というようになったといいます。その後庵は鷲子へ移りましたが、江
戸時代になって徳川光圀によりこの桜も移され、今日に至っています。
親鸞の弟子が開いた市内の寺院
ぜんとく じ
じゅみょうじ
しょうがんじ
ほうせん じ
じょうこうじ
ほんせん じ
寺院
善徳寺
寿命寺
照願寺
法専寺
常弘寺
本泉寺
弟子
善 念
入 信
念 信
明 法
慈 善
唯 円
地区
ぜん
ねん
鷲
子
にゅう
しん
野
口
常陸大宮
ねん
しん
鷲
子
ばなし ❼
昔
みょう
ほう
東
野
じ
ぜん
石
沢
ゆい
えん
野
上
やまぶしべんねん
親鸞と山伏弁円
とう の
鎌倉時代、弁円という山伏が常陸大宮市東
野で道場を開いていました。そのころ親鸞上人が
と
いな だ
かさ ま
稲田(現在の笠間市稲田)に来て法を説いていました。弁円は親鸞の布教の様子を聞き、信者
にく
ころ
いたじき
が増えていることを知り、親鸞を憎み、ひそかに殺そうと考えました。親鸞が布教のため板敷
さん
の じゅく
あらわ
「自
山を通ることを知り、弁円は部下を連れ、板敷山で野宿して待ちましたが親鸞は現れません。
き
ふ
分が稲田へのりこみ一刀のもとに斬り伏せよう」と、稲田にのりこみ「親鸞はいるか 出て来い」
しず
とどなりこみました。やがて親鸞は静かに現れ、「あなたが弁円どのですか。お待ちしており
せっ
ゆう き
もんどう
ました」とおだやかに、温かい心で接しました。弁円はもう刀で斬る勇気もなくなり、問答を
くりかえしましたが、深く教えに感じ、「あなた様の弟子にしてください」とひれ伏し、親鸞
みょうほうぼう
ほうせん じ
の弟子となりました。そして明法房と名乗り、法専寺を開いたということです。
25
たたか
6.戦いの世
せんらん
せんごく じ だい
戦乱に明け暮れる戦国時代が常陸大宮市にもありました。
じょうかん
(1)城館
へ た れ じょう
❶部垂城
だんじょうづか
❷弾正塚
きょうろく
う
る
の じょう
さ たけ
よしあつ
1529 年(享禄2)、宇留野城にいた佐竹 17 代義篤の
よしもと
しろ
せ
弟義 元がこの城 を攻 めて城に入り、部垂氏を名乗りま
てんぶん
した。しかし佐竹本家との対立により、
1540 年
(天文9)
らくじょう
こうげき
は かい
に兄の佐竹義篤の攻 撃により落 城し、城は破 壊されま
しろあと
した。現在城跡は大宮小学校となっています。
常陸大宮
弾正塚
なし ❽
ば
昔
1540 年 3 月、部垂城主の部垂義元が、佐
竹本家の兄義篤から攻められたときのこと
お ば
お せ
です。義元は急いで味方の小 場城主や小 瀬
城主に救いを求めました。
か ろう
こ ぶね
舟城主でもあった内
小瀬城の家 老で、小
け らい
とも
ぶ
田弾正左衛門は、家 来 たちと共 に急いで武
か
そう
装 を整え、その夜ふけに部垂城めざして駆
た ご うちざか
け進みました。夜明けごろ田 子内 坂に着く
も
と、
赤く空をこがすように火が燃えています。
「部垂城だ。部垂のお城が燃えているのだ」
弾正たちは驚き悲しみました。せっかく駆け
つけてきたのに間に合わなかったのです。間
との
もなく城の使者から「城は落ちました。殿は
うちじに
一族と共に討死されました」と聞いた弾正は
おそ
わけ
「われら遅かったか。申し訳ない」と、かた
か えん
わらにあった石にすわり、部垂城の火炎を見
せっぷく
ながら、切腹しました。家来たちは、弾正の
首を小舟に持ち帰り、切腹した所と小舟城に
く よう
塚を築き、ねんごろに供養しました。
26
第3章 悠久の歴史
た
ご うち
この弾正塚は常陸大宮市田 子内 町に
うち だ だんじょう ざ え もん
あり、内 田 弾 正左 衛門 をまつった塚で、
ゆう し
1951 年(昭和 26)に地元の有 志 により
建てられました。
郷土を伝える⓫
しん わ
田子内親和会会長
い さかじつ お
井坂實男さんの語る弾正塚
じ がい
内田弾正自害の
伝 説 は、 長 く 語 り
伝えられて来まし
く ようとう
たが、供養塔はな
く、 戦 後 の 1951
年( 昭 和 26) に、
地元有志の人達の
ひ
手により、この碑が建てられました。
この弾正塚は代々、田子内高齢者ク
ラブ「田子内親和会」の手により、毎
めいにち
年弾正の命日とされる 3 月 14 日に、こ
しゅうへん
じゅもく
せんてい
せいそう
の周 辺の樹 木の剪 定や草刈り等の清 掃
せんこう
を行い、花や線 香をあげてお参りをし
ています。
最近では、地元の人でもこの由来が
わからない人が増えてきているので、
かんれん
し りょう
はい ふ
関 連した資 料をコピーして配 布し、そ
り かい
の歴史を理 解して活動できるようにし
ています。
すいぼく が
か
せっそん
(2)戦国を生きた水墨画家・雪村
ふであら
❶雪村筆洗いの池
常陸大宮市
下村田にある
池 で、 言 い 伝
え に よ る と、
雪村が絵筆を
洗ったのがこ
の池だと言わ
れ て い ま す。
すずり
また「雪村 硯
い
の井 」とも呼
ばれていま
す。
ご りんどう
ふ く じゅう じ あ と
❷五林堂
言い伝えによると、雪村は五林堂で出家した
あざ
といわれ、その五林堂は、玉川沿いにある字 五
ご りんとう
林堂の五輪塔のある場所と言われています。
おしえて
❸福聚寺跡
あざてらあと
や しき
字寺跡の雪村屋敷跡と言われていた場所がこ
へいたん ち
の福聚寺跡です。南向きの山の斜面に平坦地が
あって、寺院跡と考えられています。
⑧
「雪村って?」
つぼ い
室町時代、雪村は常陸大宮市下村田の坪井というところに住んでいたので、坪井雪村と名乗った
という言い伝えがあります。雪村がどこで生まれたのかははっきりしませんが、佐竹氏の一族と
えい しょう
たんじょう
せつ
生したという説
が有力です。雪村が 1542 年(天文 11)に自ら書いた
して 1504 年(永 正 元)に誕
じょうしゅう へ たれ ぐう じゅう
が ろん
せつもんていしいう
べつ
画論『説門弟資云』に「常州辺垂寓住」と記しており、辺垂とは「部垂」の別表記で現在の大宮地
たし
域のことですから、大宮地域に住んだことは確かです。
りんざいしゅう
しょうじゅうじ
すいぼく が
すみ
のうたん
雪村は臨済宗の僧として、常陸太田市の正宗寺で修行しました。水墨画(※墨の濃淡により自然
け しき
えが
せっ しゅう
こ
の景色などを描く絵)を大成した雪舟の描き方を学び、雪舟を超えるといわれる多くの名画を残し
ました。
はげ
あいづ
あしな
お だ わら ほうじょう
ばんねん
ふたた
会津の芦名氏や、小田原の北条氏などの戦国大名たちに招かれて、画業に励みました。晩年は再
ふくしま
み はる
いおり
な
び会津の芦名氏のもとに行き、最後は現在の福島県三春町の庵で、86 歳のころに亡くなったと伝え
せっそんあん
られており、三春町には雪村庵や雪村の墓と伝えられる石が残っています。
27
きんざん
7.佐竹氏と金山
金がとれた地区のひとつ・盛金地区
かく ち
ざいせいりょく
ぐん じ
ち す い
こうざん
戦国時代、各地の大名は財政力を高め、軍事力を強めるために、治水や鉱山開発をさかんに行いま
した。茨城県北部を支配していた佐竹氏も、さかんに鉱山開発を行い、多くの金山が開かれました。
や みぞ
た が
さ たけこう
「佐竹坑」と呼
その多くは、八溝山地の大子や大宮・水戸地区、多賀山地の太田や日立地区などで、
ばれる鉱山跡が今でも多く残っています。
けい いったい
かんさつ
常陸大宮市でも、右ページの図のように主に久慈川両岸の八溝山地系一帯に多く観察することがで
きます。
郷土を伝える⓬
きんざんあと
たかむらよしのり
金山跡近くに住む高村喜典さんの話
こうぐち
この岡平地区には、かつていくつかの金山坑口がありましたが、今では2か所で
確認できるのみです。そのうちの1か所のものが佐竹坑と呼ばれており、古いも
のと言われています。
す
坑口近くには、掘り出した時に捨てたズリ(※金などを含んでいない石の山)
が残っており、当時をしのぶことができます。また坑口近くにマムシをつかま
とうなん ぼう し
えて放ち、金の盗難防止にしていたという話も伝わっています。
こうどう
またその近くにある坑口は、昭和初期のころ掘られたらしく、かなり坑道も深
ひがし に ほんだいしんさい
くず
く残されています。東日本大震災のときには、その坑口などが崩れたりしたので、自分で石などを運
しゅうふく
せい び
び出し、修復工事をして整備しました。なんとか残していきたいと思っています。
28
第3章 悠久の歴史
①前崎
②滝沢北向
③寄藤沢
④上檜沢
⑤熊久保
⑥岡平
金山坑口跡(岡平)
おかだいら
もりがね
❶岡平(盛金)
佐竹氏時代の金山坑の一つと伝えられている金
山坑口です。他にもこの付近には、いくつかの坑
かねやまさわ
口跡が残されており、近くの谷は「金山沢」と呼
ばれています。
まえさき
く りゅう
⑦彦沢
⑧諸富野
⑨小瀬下
⑩薬丸
⑪関沢
⑫新薬丸
⑬高館
⑭滝沢
⑮金洗
⑯辺垂
(部垂)
⑰金堀
⑱高ノ倉
市内で確認できる主な金山跡
へ たれ
ゆ
が だい
❷前崎(久隆)
❸部垂(抽ヶ台町)
久隆山中の「前崎」というところに残されてい
こうせき
る佐竹坑の一つです。かつてこの中から、鉱石を
ふねがた
しの
運び出すときの舟形の用具や、篠らしいものを燃
やしてできた炭などが見つかったと言われていま
す。
たきざわきたむき
また近くの「滝沢北向」と呼ばれているところ
にも、この坑口が確認できます。
ここは、玉川に面した山林の南側に残されてい
る金山坑口の一つです。かつては上部の山林(現
在の大宮中学校グラウンド)一帯には、こういっ
た坑口がいくつかあったと思われます。
おしえて
き けん
これらは崩れやすく、大変危険ですので、
注意しましょう。
⑨
こ あざ
金に関する地名 (小字名)
常陸大宮市には「金」に関連する地名がたくさんあります。いくつ知ってますか?
地域
大宮
地区
八田
上大賀
岩崎
上岩瀬
下村田
上村田
小字
金穴
金洗
金山
金掘
金掘
金川
金掘
金掘下
読み方
かなあな
かねあらい
かねやま
かなぼり
かねほり
かねかわ
かなほり
かなぼりした
地域
山方
地区
山方
野上
舟生
西野内
盛金
久隆
小字
金山
金田
金沢
金沢
金山
金山
金山久保
森金
金山沢
寄藤金山沢
読み方
かねやま
かなだ
かねさわ
かなざわ
かねやま
かねやま
かなやまくぼ
もりがね
かねやまさわ
よりふじかねやまさわ
29
ばくまつ
めい じ
い しん
8.幕末から明治維新へ
ぶ
し
つ
武士の世は終わりを告げ、時代は移り変わります。常陸大宮市にも時代の波がやってきました。
かいかく
ごうこう
(1)江戸時代の教育改革・郷校
きょうさく
江戸時代終わりごろの水戸藩では、凶作や洪水
あ
ざいせい
が重なって農村は荒れ、藩の財政は苦しくなって
ぶんせい
いました。このような中、1829 年(文政 12)に
とくがわ なり あき
徳 川斉 昭 が水戸藩 9 代藩主になると、広く人材
しょうれい
さんぎょう
とうよう
けんやく
き りつ
し
を登用して倹約の奨励、規律の引き締め、産業の
しんこう
ぐん び ぞうきょう
振興、軍備増強など様々な分野で思いきった改革
てんぽう
(斉昭の天保の改革)を行いました。
中でも力を入れたのが教育で、武士の教育のた
み と じょう
こうどうかん
せっ ち
め水 戸 城 三の丸に弘 道館が設 置され、また農村
の有志の教育のため郷校が各郡に 1 校ずつ設置
されました。水戸藩の郷校は全部で 15 校設置さ
れていますが、斉昭以前にも 2 校が設置されて
いたので右表のとおり年代差があります。はじめ
はそれぞれ校名がつけられ学問が教育の中心でし
ぶ じゅつ
たが、斉昭が開館した郷校は武 術も取り入れて
ぶ ん ぶ りょうどう
ぶんぶかん
文武両道の教育を行ったので、校名も「文 武館」
と呼ばれました。
じんざい
郷校の開校期間はわずかでしたが、多くの人材
そ ん の う じょういろん
てん ぐ しょせい
が教育を受けたことで、尊王攘夷論や天狗諸生の
そうらん
争乱など、その後の歴史に大きな影響を与えるこ
とになります。
常陸大宮市には下の 2 つの郷校がありました。
時期
天保の改革
以前
天保の改革
徳川斉昭
復権後
校名 ( 改称後)
設置年
所在地
稽医館 ( 小川郷校 )
1804( 文化元 )
小美玉市
延方学校
( 延方郷校 )
1807( 文化4)
潮来市
敬業館 ( 湊郷校 )
1835( 天保6)
ひたちなか市
益習館 ( 太田郷校 )
1837( 天保8)
常陸太田市
暇修館
( 大久保郷校 )
1839( 天保 10)
日立市
時雍館 ( 野口郷校 )
1850( 嘉永3)
常陸大宮市
大子郷校
1856( 安政3)
大子町
大宮郷校
1856( 安政3)
常陸大宮市
小菅郷校
1857( 安政4)
常陸太田市
町田郷校
1857( 安政4)
常陸太田市
秋葉郷校
不詳
茨城町
鳥羽田郷校
不詳
茨城町
玉造郷校
1858( 安政5)
行方市
潮来郷校
1856( 安政3)
潮来市
馬頭郷校
1857( 安政4)
栃木県那珂川町
水戸藩の郷校
じ ようかん
の ぐち ごうこう
おおみやごうこう
❶時雍館(野口郷校)跡
❷大宮郷校跡
元野口小学校の敷地にありました。
現在の大宮小学校の敷地にありました。
30
第3章 悠久の歴史
(2)社会の動き
お せ いっき
❶小瀬一揆
せいりつ
めい じ せい ふ
小瀬一揆とは、
新しく成立した明治政府が、
近代国家を作るのに、国の財政力をつけるた
ち そ かいせい
ねん ぐ
め行った地租改正(※今までの年貢から、土
か かく
きんのう
地の価 格を元に金 納とする)に反対する小
瀬地方の農民たちが、1876 年(明治9)に
のうぜいえん き
納税延期を求めておこした農民一揆(※農民
だんけつ
はんこう
が団結して支配者に反抗する動き)のことで
す。
もとはし じ
ざ
え も ん
本橋次左衛門の碑
本橋次左衛門は小瀬一揆指導者の一人で、
くみがしら
小舟村の組 頭であった次郎左衛門の長男で
もとはしまさくに
1900 年(明
す。碑は「本橋政国之碑」とあり、
し
治 33)12 月に、小舟、上小瀬の関係者が資
きん
金を出して建てたものです。
郷土を伝える⓭
お がわ きょう ど
し そ ん こばやししげる
小瀬一揆関係者子孫小林茂さんの話
ばんこくきゅうみん
はた
緒川郷土文化研究会長をしており、平成 18 年に『万国救民の旗のもとに』を
あらわ
かん ぶ
著しました。一揆指導者幹部の子孫として、時代と正直に向き合った農民の行動
かんこう
を、事実にもとづき著したいとの思いで刊 行しました。戦前の 1937 年(昭和
けんしょう
さき
ぎ みん
てん まつ
たか い りょうすい
12)に、小瀬一揆顕彰の先がけとして、高井良水さんは『小瀬義民の顚末』を
せんそう
地元で発行しようとしましたが、当時の日本は戦争への道を歩んでいた時代で
はなわ
かなざわはるとも
しゅっぱん
それもできず、福島県 塙 町の金沢春友氏の協力により、福島県で出版できたそ
し そう だんあつ
けんしき
うです。あの思想弾圧のきびしかった時に、あえてその本を発行した勇気と見識
があったからこそ、この一揆の様子もわかり研究も進んだのではないかと思っています。
か がわ けいぞう
❷香川敬三
しも い
せ
香川敬三は、1839 年(天保 10)に現在の常陸大宮市下伊勢
はた
はす だ し げ え も ん
畑 の蓮 田重 衛門の三男に生まれ、15 歳の時に吉田神社神官の
こいぬま い おり
こいぬま
鯉沼家の養子になり、鯉沼伊織と名乗りました。
ふじ
さいのう
はっ き
子どものころから才能を発揮し、野口の時雍館や、水戸で藤
た とう こ
そんのうじょうい
め ざ
田東湖に学び、尊皇攘夷運動に目覚め、江戸や京都で多くの同
つか
いわくらとも み
ぼ しん
志たちと交流しました。京都で岩倉具視に仕えて、戊辰戦争の
かんぐん
めつけ
かつやく
く ないしょう
時は官 軍の目 付として活 躍しました。明治になって宮 内省に
入り、その後京都の香川家に入って香川敬三と名乗りました。
おうべい し さ つ だ ん
こうごうぐう だ い ぶ
じゅうよう
やくしょく
れきにん
欧米視察団にも同行し、皇后宮大夫をはじめ重要な役職を歴任
はくしゃく
ちゅうすう
し、1907 年(明治 40)には伯爵になるなど、国の中枢でおお
しゅわん
いに手腕をふるいました。
まいはつとう
鯉沼伊織埋髪塔
とうはつ
ぼ
ち
う
残して行った頭髪を鯉沼家墓地に埋めたもの
31
げきどう
9.大正ロマンから激動の昭和へ
えいきょう
こう ど けいざいせいちょう
常陸大宮市も新しい文化の影響を受け、太平洋戦争や高度経済成長など、目まぐるしく世の中が動
いた 20 世紀です。
まち な
た か ぶ しゅく
(1)未来に伝えたい町並み・高部宿
高部宿は、近くに佐竹氏一族の築
す わ
いた高部城もあり、諏訪神社や吉田
八幡神社、鷲子山上神社への道や、
常陸太田から那須・大子などに通ず
かいどう
こう さ
ようしょ
る街道が交差する交通の要所として
古くから栄えてきました。この地方
とくさん
とん や
特産の和紙を取り扱う問屋(※商品
おろしう
を仕入れ、卸 売りをする商人)や、
造り酒屋が立ち並ぶなどのにぎわい
を見せました。明治時代から大正時
けいせい
代にかけてモダンな町並みが形成さ
れ、現在でも当時の建物が残ってい
ます。
ま みや け
❶間宮家住宅
きんゆうぎょう
間宮家は林業を中心に、金 融業(※商売などのためのお金
いとな
とみ
たくわ
を貸したりする仕事)を営むなどして富を蓄え、明治 30 年代
い り も や づ く
もくぞう
初めに木造2階建の入母屋造りの家屋を建て、1902 年(明治
けんちく
ぞうちく
ば とう
35)に3階建の洋風建築を増築しました。当時1階は旧馬頭
てん ぽ
銀行の店 舗 として、2・3階は住まいとして使われました。
たっきゅう
ご らく
その後卓 球、ビリヤード、マージャン、ダンスなど娯 楽の場
として使用されたそうです。
この建物は現在も残っていて、住まいとして使われていま
す。
常陸大宮
なし ❾
ば
昔
ひたち
とりのこ
鷲子の道しるべ
しもつけ
昔、一人の旅人が常陸(今の茨城県)から下野(今の栃木県)の方へ向かって、急ぎ足で歩
ゆうぐれ
せま
いて行きました。そこには鷲子山という高い山があり、しかも夕暮が迫っていたので、旅人は
急いでいたのです。細い道がどこまでも続き、あたりに人家も見当たりません。これからさび
しい山道にはいろうとする所に、一本の道しるべが立っていて、こう書かれていました。
「はとうからすやまとりのこ道」
旅人はこれを「はと(鳩)う(鵜)からす(烏)やまどり(山鳥)の小道」と読んでしまい、
これから先の道は、鳩や鵜、烏、山鳥などの小道だと思って、「ああこれから先の道は、人間
が通れないのか」とつぶやき、いま来た道を引き返して行きました。
この道しるべは「ばとう(馬頭)からすやま(烏山)とりのこ(鷲子)道」と記してあったのです。
32
第3章 悠久の歴史
(2)青い目の人形クリッシー
けいざい ふきょう
たいせん
第一次世界大戦後、世界は経済不況
しつぎょうしゃ
となり、アメリカでは失業者が増えて
い みん
日本人移民への反発が高まっていまし
しんぜん
た。こうした中、日米両国の親 善のた
おく
めに日本へ人形を贈ることを、日本に
せんきょうし
ざいじゅう
20 年在住した宣教師のギューリック博
士が計画しました。教会の用意した人
て せい
形に、子供たちが手製の洋服を着せて
名前をつけ、手紙を書きそえて、1927
年(昭和2)に合計 12,700 体の人形
を日本へ贈りました。贈られた人形は
青い目の人形と呼ばれ、各地の小学校
などへ配られました。しかしその後太
平 洋 戦 争 が 始 ま り、 青 い 目 の 人 形 は
てきこく
こわ
敵国のものとして、そのほとんどが壊
されてしまいました。このため茨城県
では現在、青い目の人形は 9 体しか残
っていません。
りゅうごう
嶐郷小学校(現在の美和小学校)は
ひ
こ
1971 年(昭和 46)に新築され、引っ越しをしています。1973 年(昭和 48)に NHK テレビで「人
し せつ
ほうえい
わす
形使節メリー」が放映されたのをきっかけに、引っ越しの荷物の中にこの人形が忘れ去られているの
が発見されました。
この人形の名前は「クリッシー」といいます。ギューリック氏の手紙と共に、パスポートも持参し
ており、ニューヨーク市ブロードウェイの出身と記されています。20 世紀の世界の歴史は、彼女の
青い目にはどのように映ったのでしょうか。
か
きょだい
み
と ほ く ぶ ちゅうかくこうぎょう だ ん ち
(3)常陸大宮を変えた巨大プロジェクト・水戸北部中核工業団地
この工業団地は東京
い ち
から 130 kmの位 置に
ないりくがた
あり、
内 陸型としては
ずいいち
そうめんせき
県 内 随 一 の 総 面 積 165
ヘクタールの広さを持
しゅ と けん
っ て い ま す。 首 都 圏 と
ち ほうけん
せっ
地 方圏の接 する茨城県
はってん
北部地域の発 展を図る
た め に、 自 然 環 境 に 恵
まれた旧大宮町西部の
きゅうりょう ち
けんせつ
丘 陵地に建 設されまし
た。
1974 年(昭和 49)3
じっ し けいかく
月に実 施計画が作られ、
1983 年(昭和 58)11
ぞうせい
ぶんじょう
き ぎょう
月に造成工事が始まりました。1986 年(昭和 61)5 月に分譲が開始されて以来、次々と企業が工場
かんりょう
を建設し、平成 3 年 10 月に分譲が完了し、合計 51 社の企業が進出しました。現在 2 千人を超える
人が働いており、茨城県北部を代表する工業団地となっています。
33
第4章 新たな発見
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21 世紀に入り、常陸大宮市では大きな発見がありました。
こ だいぞう
1.古代象ステゴロフォドン
ステゴロフォドンの化石
2011 年(平成 23)12 月 11 日、
し ぜん
ミュージアムパーク茨城県自然
はくぶつかん
がくげいいん
博物館ジュニア学芸員で当時
ほし か ゆめ き
高校2年生の星 加夢輝さんが、
ち しつ
さいちゅう
地質調査の最中に常陸大宮市野
とうがい
上の崖でステゴロフォドンの頭蓋
化石を発見しました。その後、
茨城県自然博物館や茨城大学の
げん ち
スタッフが現地を確認し、発掘
調査が行われました。
ステゴロフォドンとは、今か
しんせいだいだいさん
ら約 1650 万年前の新 生代第三
き ちゅうしんせい
紀中新世という時期に、南アジ
アから日本にかけて生息してい
た古代象です。ステゴロフォド
ンの頭蓋化石は、これまでにも
みや ぎ
やまがた
宮城県や山形県で発見されてい
ますが、今回の化石はほぼ完全
じょうたい
な状態で頭が残っているもの
き ちょう
で、世界的に貴重な発見となり
ました。
34
第4章 新たな発見
郷土を伝える⓮
ほし か ゆめ き
化石発見者星加夢輝さんの語るステゴロフォドン
よう ち えん
ぼくは幼稚園くらいのころから、変わっ
た石や化石を見つけると持ち帰ってくる
など、もともと石に興味があり、その後
ミュージアムパーク茨城県自然博物館の
ほんかくてき
ジュニア学芸員として、本格的に地質の
研究をするようになりました。
この化石は、地質の研究をしている最中
ほにゅうるい
に、たまたま見つけたもので、見つけたときも「哺 乳類のも
のか」というくらいの気持ちでした。古代象ステゴロフォド
ンの化石とわかり、大発見となっても、特に驚きの気持ちは
ありませんでした。ぼくが今でも一番興味があるのは地質学
で、将来は地質学者になりたいと思っています。
小中学生の皆さんには、常陸大宮市のこの恵まれた自然に
ほこ
ほ
し てん
もっと誇りと興味を持って欲しいです。またいろいろな視点
でものを見ることや考えることが大切ですから、もっと自然
の中で遊んでみるといいと思います。
おわりに
この本では常陸大宮市の誇れるものとして、山や川などの自然、そしてはるかな時を刻 んだ歴
史などを紹介してきました。しかしここで取り上げたものは、もちろんそのほんの一部にすぎま
アユなどの漁業については取り上げていませんね。
せん。例えば「久慈川と那珂川」のページでは、
この本にのっているもののほかにも、みなさんが「常陸大宮市はこんなところだよ」と胸をはっ
て誇れるものは、私たちの常陸大宮市にはたくさんあります。
この本をヒントにして、常陸大宮市の素晴らしいところを自分たちで調べて見つけてみてくだ
さい。
おうちの人や地域の高齢者の方は、ふるさと常陸大宮市に暮らす大先輩ですので、みなさんの
まだ知らないいろいろなことを知っています。また、図書情報館や歴史民俗資料館へ足を運んで
みると、素敵な発見がみなさんを待っているかもしれません。
なおこの本では、みなさんがまだ学校で習っていない漢字や難しい言葉づかいを、あえて使っ
ている部分もあります。分からないときは辞書を引くか、図書室などで調べてみましょう。
みなさんの、新たな発見に期待しています。
この本にのっているものはどこに
あるでしょう?
まずは地図で調べて、位置を確認
してみよう!
取材協力者(敬称略・掲載順)
宇留野里子、中島貞子、神長正則、圷文也、鷲子祭囃子保存会、菊池正氣、野上公雄、
菊池榮一、関喜一、関南海子、圷伸博、井坂實男、高村喜典、小林茂、星加夢輝
市の花
市の鳥
ばら
かわせみ
市の木
さくら
ひたまるのてっぺんに付いたふた葉には
子どもたちの持つ資質(個性・創造・活力)が伸びやかに発育するように
という思いが込められています
常陸大宮市郷育読本
伝えよう つなごう つくろう ふるさと常陸大宮
平成25年3月22日 発行
発 行 常陸大宮市
編 集 常陸大宮市教育委員会
〒319-2292 茨城県常陸大宮市中富町3135−6
電話 0295(52)1111
執 筆 後藤俊一 木村 宏 石田友里恵
印刷・製本 山三印刷株式会社