法然聖人が『選択集』を結ぶに当たって述べられた注意深い予言は、はからずも 適中いたしました。 専修念仏教団に対する南都の興福寺を中心とする教団や比叡山延暦寺などの 旧仏教教団の不穏な動きがそれであります。その理由の一つとして、『選択集』の 撰述によって、浄土宗の教えが明らかになったことであります。『選択集』撰述以 前の法然聖人に対する旧仏教側の圧迫や弾圧は、ほとんど見られませんでした。 このことは恐らく、旧仏教系の人々が吉水に静かに遁世する聖人の姿を見て、た だ一介の念仏の聖とみなし、また古くからあった旧仏教の中で育った傍流である 念仏とあまり変わらない教えだと、極めて安易に眺めていたようです。 ところが、いま一巻の書物となって現われた『選択集』の内容は、明らかに旧来の 伝統的な解釈に立つ念仏の思想ではなく、聖人自らの宗教的回心と体験を踏え て体系化した専修念仏であることを、改めて知ったことでした。それは完全に旧 思想を否定する新たな立場が体系化されていたのでした。 第二の理由として、法然聖人は、東山の吉水をはじめとして、加茂の河原屋、小松 殿などに居住されましたが、たいていは吉水の草庵に住まわれ、念仏と学問研鑚 とに明け暮れました。けれども聖人の有力な門弟や同行衆たちの中で、白川や紫 野、嵯峨、西山、大谷などで無数の念仏聖や在俗の帰依者たちと結んで、門徒と 呼ばれる信仰結社の指導者となっている人たちが多数ありましたので、その輩 下の念仏聖や一般の信徒たちが京に満ち、遠国にも及んでいましたが、聖人は念 仏教化の中心となる寺院を構えることもなく、また門弟や同行衆、さらには信者 たちをまとめ上げる組織を作り上げようなどという気持ちは、全くありませんで した。 しかし、事実上専修念仏教団は出現していたのでした。そして、その勢力は、南都 北嶺の旧仏教教団の無視できないところまで成長していたのでした。 開宗30年目、法然聖人72歳の元久元年(1204)10月、比叡山三塔の大衆が大講 堂に集会し、専修念仏停止を座主真性に訴えました。(平祐史)
© Copyright 2024 Paperzz