ルウベンスの偽画 しっこく それは漆黒の自動車であった︒ と そ の 自 動 車 が 軽 井 沢 ス テ エ シ ョ ン の 表 口 ま で来 て 停 ま おろ ると︑中から一人のドイツ人らしい娘を降した︒ 彼はそれがあんまり美しい車だったのでタクシイでは あるまいと思ったが︑娘がおりるとき何か運転手にちら と渡すのを見たので︑ 彼は黄いろい 帽子をかぶった娘と すれちがいながら︑自動車の方へ歩いて行った︒ ﹁町へ行ってくれたまえ﹂ 5 ら 彼はその自動車の中へはいった︒はいって見ると内部 ば しばらくしてまた彼は目をひらいた︒運転手の脊なか れ が 挘 り ち ら され た 花弁 の よ う に 見 え た ︒ むし あらしい快さが彼をこすった︒目をつぶった彼には︑そ とを見つけたのである︒ふとしたものであるが︑妙に荒 は軽く動揺している床の上にしちらされた新鮮な唾のあ つば 彼はふと好奇心をもって車内を見まわした︒すると彼 い帽子の娘を思い浮べた︒自動車がぐっと曲った︒ いた︒彼はさっき無造作にすれちがってしまった黄いろ は真白だった︒そしてかすかだが薔薇のにおいが漂って 6 まどガラス が見えた︒それから彼は透明な窓硝子に顔を持って行っ すす きはら た︒窓の外はもうすっかり穂を出している 芒 原だった︒ ちょうど一台の自動車がすれちがって行った︒それはも うこの高原を立ち去ってゆく人人らしかった︒ くり 町へはいろうとするところに︑一本の大きい栗の木が * 彼はそこまで来 ると自動 車を停めさせた︒ あった︒ 7 自動 車は町からすこし離れ たホテルの方へ 彼のトラン 人たちがむらがっていた︒ その郵便局の前には︑色とりどりな服装をした西洋婦 彼はしかしすぐに見おぼえのある郵便局を見つけた︒ この避暑地の盛り時にばかり来 ていたからである︒ すっかりそれを見違えてしまうくらいだった︒彼は毎年 本 町通りは彼が思ったよりもひっそりしていた︒彼は 彼はゆっくり歩きな がら本 町通りへはいって行った︒ それのあげた 埃 が少しずつ消えて行くのを見ると︑ ほこ り クだけを乗せて走って行った︒ 8 にじ 歩 き な が ら 遠 く か ら 見 て い る 彼に は ︑ そ れ が ま る で 虹 のように見えた︒ しゃべ それを見ると去年のさまざまな思い出がやっと彼の中 よみ がえ にも 蘇 って来た︒やがて彼には彼女たちのお喋舌りが 手にとるように聞えてきた︒彼は彼女たちのそばをまる さえず で小鳥の 囀 っている樹の下を通るような感動をもって 通り過ぎた︒ そのとき彼はひょいと︑向うの曲り角を一人の少女が おや︑彼女かしら? 曲 っ て 行 っ た の を 認め た の で あ る ︒ 9 そう思って彼は一気にその曲り角まで歩いて行った︒ ジャ イアンツ ・ チェア 中でのように空気の中で感ずるのである︒たいへん歩き は急に変な気持になりだした︒彼はすべてのものを水の に声をかけようとしてなぜだか躊 躇 をした︒すると彼 ちゅ う ち ょ 小径には彼女きりしか歩いていないのである︒彼は彼女 彼もホテルとは反対の方向のその小径へ曲った︒その そしてまちがいなく彼女であった︒ 行きつつあった︒思ったよりも遠くへ行っていなかった︒ ずる一本の小径があり︑その小径をいまの少女が歩いて こみち そこには西洋人たちが﹁巨人の椅子と呼んでいる丘へ通 10 かいが ら にくい︒おもわず魚のようなものをふんづける︒彼の貝殻 の耳をかすめてゆく小さい魚もいる︒自転車のようなも ほ のもある︒また犬が吠えたり︑鶏が鳴いたりするのが︑ はるかな水の表面からのように聞えてくる︒そして木の な 葉がふれあっているのか︑水が舐めあっているのか︑そ ういうかすかな音がたえず頭の上でしている︒ 彼はもう彼女に声をかけなければいけないと思う︒が︑ せん そう思うだけで︑彼は自分の口がコルクで栓をされてい る よ う に 感 ず る ︒だ ん だ ん 頭 の上 でざ わざ わ い う 音 が 激 べにが らい ろ しくなる︒ふと彼はむこうに見おぼえのある紅殻色のバ 11 ンガロオを見る︒ そのバンガロオのまわりに緑の茂みがあり︑その中へ でも分らずに︑小径のそばの草叢の中に身をかくした︒ くさむら てくる人の足音が聞えたとき︑彼は何を思ったのか自分 そうしてようやく﹁巨人の椅子﹂の 麓 の方から近づい ふ もと たりしていた︒いいことに人はひとりも通らなかった︒ 悪いと思った︒しかたなしに彼はその小径を往ったり来 の あ と か ら す ぐ 彼 女 の 家 を 訪問 す る の は ︑ す こ し 工 合 が それを見ると急に彼の意識がはっきりした︒彼は彼女 彼女の姿が消えてゆく⁝⁝ 12 おおまた 彼はその隠れ場から一人の西洋人が大股にそして快活そ うに歩き過ぎるのを見ていた︒ 彼女はまだ庭園の中にいた︒彼女はさっき振りかえっ たときに彼が自分の後から来るのを見たのである︒しか し彼女は立止って彼を待とうとはしなかった︒なぜかそ は ずか うすることに 羞 しさを感じた︒そして彼女はたえず彼 の眼が遠くから自分の脊中に向けられているのをすこし がゆ むず痒く感じていた︒彼女はその脊中で木の葉の蔭と ひなた 日向とが美しく混り合いながら絶えず変化していること 13 を想像した︒ い 彼女は庭園の中で彼を待っていた︒しかし彼はなかな は 受性を持っているのを見のがさなかった︒ 肉体を恢復したすべての人のように︑みょうに新鮮な感 かいふく あった︒そして彼女は彼と話しはじめるが早いか︑彼が て彼女までが︑愛らしい︑おどけた微笑を浮べたほどで 彼はばかに元気よく帽子を取った︒それにつり込まれ て来る彼を見たのであった︒ 分るような気がした︒数分後︑彼女はやっと門を這入っ か這入って来なかった︒彼が何をぐずぐずしているのか 14 ﹁お病気はもういいの?﹂ ﹁ええ︑すっかりいいんです﹂ 彼はそう答えながら彼女の顔をまぶしそうに見つめ た︒ ら 彼女の顔はクラシックの美しさを持っていた︒その ば 薔薇の皮膚はすこし重たそうであった︒そうして笑う時 はそこにただ笑いが漂うようであった︒彼はいつもこっ まぶしそうに彼女を見つめた時︑彼はそれをじつに新 そりと彼女を﹁ルウベンスの偽画﹂と呼んでいた︒ 15 鮮に感じた︒いままでに感じたことのないものが感じら い自動車に乗ってきたのだと愉快そうに言った︒ すのだった︒そしてその娘の香いがまだ残っていた美し にお が︑西洋の小説のように美しかったことなどを好んで話 自動車の中に黄いろい帽子をかぶった娘の乗っていたの いた︒そのかわりに彼は︑真白なクッションのある黒い ことを思い出すことは何の価値もないように彼は思って しも話そうとはしなかった︒そういう現実の煩さかった うる 見た︒腰ばかりを見た︒その間に︑彼は病気のことは少 れ て 来 る よ う に 思 っ た ︒ そ う し て 彼 は 彼女 の歯 ば か り を 16 つば しかし彼はその自動車の中に残っていた唾のことは言 わないでしまった︒そうした方がいいと思ったのだった︒ が ︑ そ れ を 言 わ な い で い る と ︑ そ の唾 が 花弁 の よ う に 感 あ ざや じられたあの時の快感がへんに 鮮 かにいつまでも彼の 中に残っていそうな気がするのだ︒こいつはいけないと ども 思った︒その時から少しずつ彼は吃るように見えた︒そ して彼はもう不器用にしか話せなかった︒一方︑そうい う彼を彼女は持てあますのだった︒そこでしかたがなし に 彼女 は 言っ た︒ ﹁家へはいりません?﹂ 17 ﹁ええ﹂ しかし二人はもっと庭園の中にいたかった︒けれども た︒ * は思わず顔を赧らめながら︑それをまぶしそうに見上げ あか 彼らの方を見下ろしている彼女の母に気がついた︒二人 そのとき二人は︑露台の上からあたかも天使のように︑ 人はやっと家の中へはいろうとしたのであった︒ 今の言葉がおかしなものになってしまいそうなので︑二 18 翌日︑彼女たちはドライヴに彼を誘った︒ 自動車は夏の末近い寂しい高原の中を快い音を立てな がら走った︒ しゃべ 三人は自動車の中ではほとんど喋舌らないでいた︒し かし風景の変化の中に三人ともほとんど同様の快さを感 じていたので︑それは快い沈黙であった︒ときどきかす かな声がその沈黙を破った︒が︑それはすぐまた元の深 い 沈 黙 の 中 に 吸 い こ ま れ て し ま う の で 誰 も 何 も 言 わな か ったのではないかと思われるほどのものであった︒ 19 ﹁ ま あ ︑ あ の 小 さ い 雲 ⁝ ⁝ ︵夫 人 の 指 に 沿 っ て ず っ と 目 じゃないの﹂ ふもと ホ テ ル は か ら っ ぽ だ っ た ︒ も う 客 が み んな 引 上 げ て し た︒ た 指 を か わ る が わ る 眺 め て い た ︒ 沈 黙 が そ れ を 彼に 許 し まで︑ずっと夫人の引きしまった指と彼女のふっくらし それから後は浅間山の 麓 のグリイン・ホテルに着く あ さ ま やま うど貝殻のような雲が浮んでいた︶ずいぶん可愛らしい を持ってゆくと︑そこに︑一つの赤い屋根の上に︑ちょ 20 まったので今日あたり閉じようと思っていたのだ︑とボ オイが言っていた︒ バルコニイに出て行った彼らは︑季節の去った跡のな んとない醜さをまのあたりの風景に感じずにはいられな なめ かった︒ただ浅間山 の麓だけが光沢のよいスロオプを滑 らかに描いていた︒ らん かん バルコニイの下に平らな屋根があり︑低い欄干をまた ぐと︑すぐその屋根の上へ出られそうであった︒そんな に 屋 根 が 平 ら で ︑ そ ん な に 欄 干 が 低 い の を 見 た と き︑ 彼 女が言った︒ 21 ﹁ちょっとあの上を歩いてみたいようね﹂ 夫人は︑彼と一しょに下りてもらえばいいじゃないの こた 似をして指環が彼の指を痛くするほど︑彼の手を強く摑 つか である︒そして彼女が何でもなかったのに滑りそうな真 その屋根の端で彼はふと彼女の手とその指環を見たの ゆびわ 定が微妙に感じられるせいばかりではなかった︒ なりだした︒それは屋根のわずかな傾斜から身体の不安 二 人 が 屋 根 の 端 ま で 歩 い て 行 っ た 時︑ 彼 は す こ し 不安 に 出て行った︒彼女も笑いながら彼について来た︒そして と彼女に応えた︒それを聞くと彼は無造作に屋根の上に 22 む か も 知 れ な い と 空 想 し た ︒ す る と 彼 は へ ん に 不安 に な った︒そして急に彼は屋根のわずかな傾斜を鋭く感じだ した︒ ﹁ も う 行 き ま し ょ う ﹂ そ う 彼 女 が 言 っ た 時︑ 彼 は 思 わ ず ほっとした︒彼女は先に一人でバルコニイに上ってしま った︒彼もそのあとから上ろうとして︑バルコニイで夫 人と彼女の話しあっているのを聞いた︒ ﹁何か見えて?﹂ ﹁ええ︑私達の運転手が︑下でブランコに乗ってるのを 見ちゃったのよ﹂ 23 ﹁それだけだったの?﹂ 皿とスプウンの音が聞えてきた︒彼はひとりで顔を赧 らまた︑何んでも無いようでもあった︒⁝⁝ あった︒また︑やさしい皮肉のようでもあった︒それか の声には夫 人の無邪気な笑いがふくまれてい るよう でも る間や︑帰途の自動車の中で︑しきりに思い出した︒そ 夫 人 の ﹁ そ れ だ け だ っ た の ? ﹂ を 彼は お 茶 を の ん でい くしながら︑バルコニイへ上って行った︒ 24 * る す 翌 日 ︑ 彼 が 彼女 た ち の 家 を 訪問 す る と︑ 二 人 と も 他 家 よ へ︑お茶に招ばれていて留守だった︒ 彼はひとりで﹁巨人の椅子﹂に登ってみようとした︒ が︑すぐ︑それもつまらない気がして町へ引きかえした︒ そして本町通りをぶらぶらしていた︒すると彼は︑彼の 行手に一人の見おぼえのあるお嬢さんが歩いているのに 気がついた︒それは毎年この避暑地に来る或る有名な だ ん しゃ く 男 爵のお嬢さんであった︒ 25 で あ 去年なども︑彼はよく峠道や森の中でこのお嬢さんが ら︒ ち ょう なしに不愉快だった︒それは軽い嫉妬のようなものであ しっと ただ彼女を取りまいているそういう混血児たちは何とは のお嬢さんのことなどそう気にとめてもいなかった︒が︑ 思っていた︒しかし︑それだけのことで︑彼はむろんこ 彼もこのお嬢さんを刺青をした 蝶 のように美しいと いれずみ いるのであった︒一しょに馬や自転車などを走らせなが まわりには五六人の混血児らしい青年たちがむらがって 馬に乗っているのに出逢った︒そういう時いつも彼女の 26 るかも知れないが︑それくらいの関心は彼もこのお嬢さ んに持っていたと言ってもいいのである︒ それで彼は何の気もなくそのお嬢さんのあとから歩い て 行 っ た が ︑ そ の う ち向 う か ら ち ら ほ ら と や っ て く る 人 人 の 中 に ︑ ふ と 一 人 の 青 年 を 認め た ︒ そ れ は 去 年 の 夏 ︑ ずっと彼女のそばに附添ってテニスやダンスの相手をし ていた混血児らしい青年であった︒彼はそれを見るとす こし顔をしかめながら出来るだけ早くこの場を離れてし まおうと思った︒その時︑彼はまことに思いがけないこ 27 とを発見した︒というのは︑そのお嬢さんとその青年と 悪そうなお嬢さんに一種の異常な魅力のようなものをさ このエピソオドは彼を妙に感動させた︒彼はその意地 でい た︒ いた︒その顔にはいかにも苦にがしいような表情が浮ん にが うに歪んだ︒それからこっそりとお嬢さんの方をふり向 ゆが うとした瞬間︑その青年の顔は悪い硝子を透して見るよ れ ち が っ て し ま っ た か ら で あ る ︒ ただ ︑ そ の す れ ち が お は互にすこしも気づかぬように装いながら︑そのまます 28 え感じた︒もちろん︑彼はその混血児の側にはすこしも 同情する気になれなかった︒ その晩はベッドへ横になってからも︑何度も同じとこ が ろへ飛んでくる一匹の蛾のように︑そのお嬢さんの姿が うるさいくらいに彼のつぶった眼の中に現れたり消えた りするのであった︒彼はそれを払い退けるために彼の﹁ル ウベンスの偽画﹂を思い浮べようとした︒が︑それが前 者に比べるとまるで変色してしまった古い複製のように しか見えないことが︑一そう彼を苦しめた︒ 29 * しかし翌朝になってみると︑そのふしぎな魅力は夜の ようなことはないだろうと思ったほどであった︒ ちに昨日からのエピソオドを打明けても少しもこだわる にした︒彼はこんなに爽やかな気分の中でなら︑夫人た ッジの中で冷たい牛乳を飲みながら︑しばらく休むこと 午前中︑彼は長いこと散歩をした︒そして︑とあるロ して彼は何となく爽やかな気がした︒ さわ 蛾のようにもうどこかへ姿を消してしまっていた︒そう 30 か ら ま つ それは町からやや離れた小さな落葉松の林の中にあっ た︒ ほおづ え 木のテエブルに頬杖をついている彼の頭上では︑一匹 おう む の鸚鵡が人間の声を真似していた︒ き しかし彼はその鸚鵡の言葉を聴こうとはしなかった︒ 彼は熱心に彼の﹁ルウベンスの偽画﹂を虚空に描いてい た︒それがいつになく生き生きした色彩を帯びているの が 彼に は 快 か っ た ︒ ⁝ ⁝ さえぎ その瞬間︑彼は彼のところからは木の枝に 遮 られて 見 え な い 小 径 の 上 を 二 台 の 自 転 車 が 走 っ て来 て ︑ そ の ロ 31 ッ ジ の 前 に 停 ま る の を 聞 い た ︒ そ れ か ら まだ そ の 姿 は 見 た︒ それから彼のはじめて見る上品な顔つきをした青年だっ 人を見つめた︒意外にもそれはきのうのお嬢さんだった︒ 彼は何となく不安そうにロッジの中にはいってくる二 た︒ ﹁ ま た か い ︒ こ れ で 三度 目 だ ぜ ﹂ そ う 若い 男の 声 が応 じ その声を聞くと彼はびっくりした︒ ﹁なんか飲んで行かない?﹂ えないけれど︑若い娘特有の透明な声が聞えてきた︒ 32 その青年は彼をちらりと見て︑彼から一番離れたテエ すわ ブルに坐ろうとした︒するとお嬢さんが言った︒ おう む ﹁鸚鵡のそばの方がいいわ﹂ そして二人は彼のすぐ隣りのテエブルに坐った︒ お 嬢 さ ん は 彼 に 脊 な か を 向 け て坐 っ た が ︑ 彼 に は 何だ かわざとかの女がそうしたように思われた︒鸚鵡は一そ やか う喧ましく人真似をしだした︒かの女はときどきその鸚 鵡を見るために 脊なかを動かした︒そのたびごとに彼は お嬢さんはその青年と鸚鵡とをかわるがわる相手にし か の 女 の 脊な か か ら 彼 の 眼 を そ ら し た ︒ 33 しゃべ になってこのお嬢さんはやっとかの女の 境 涯を自覚し き ょ う がい エネフの小説めいたものさえ感じたほどだった︒この頃 あった︒そういう両者の対照の中に彼は何となくツルゲ 異っていた︒すべてがいかにもおっとりとして貴族的で に︑全体の上品な様子が去年の混血児たちとはすこぶる お嬢さんの相手の青年はその顔つきばかりではなし あったのだ ︒ お嬢さんの声を聞いて彼がびっくりしたのはそのせいで ウベンスの偽画﹂の声にそっくりになった︒さっきこの ながら絶えず喋舌っていた︒その声はどうかすると﹁ル 34 だ し た の か も 知 れ な い ︒ ⁝ ⁝そ んな こ と を い い 気に な っ て空想していると︑彼は彼自身までがうっかりその小説 の中に引きずり込まれて行きそうで不安になった︒ 彼はもっとここにいて見ようか︑それとも出て行って ち ゅ う ちょ しまおうかとしばらく 躊 躇していた︒鸚鵡は相変らず 人間の声を真似していた︒それをいくら聴いていても︑ 彼にはその言葉がすこしも分らなかった︒それが彼には なんだか彼の心の中の混雑を暗示するように思われ た︒ 彼 は い き な り 立 ち あ が る と 不器 用 な 歩 き 方 で ロ ッ ジ を 出て行った︒ 35 ロッジのそとへ出ると︑二台の自転車がそのハンドル 頭の悪い天使がときどき調子はずれのギタルを弾きだす ひ 悪い音楽︒たしかにそうだ︒彼を受持っているすこし 音楽のようなものが湧き上ってくるのを感じた︒ 彼はそれを聞きながら︑自分の体の中にいきなり悪い えてきた︒ そ の と き 彼 の 背 後 か ら お 嬢 さ ん の 高 ら か な 笑 い 声 が聞 奇妙な恰好で︑そこの草の上に倒れているのを彼は見た︒ かっ こ う とハンドルとを︑腕と腕とのようにからみあわせながら︑ 36 のにちがいない︒ へい こう 彼は自分の受持の天使の頭の悪さにはいつも閉口して いた︒彼の天使は彼に一度も正確にカルタの札を分配し てくれたことがないのだ︒ ある晩のことであった︒ 彼は彼女の家から彼のホテルへのまっ暗な小径を︑な えたい んだか得体の知れない空虚な気持を持てあましながら帰 りつつあった︒ その時前方の暗やみの中から一組の若い西洋人達が近 づいてくるのを彼は認めた︒ 37 男の方は懐中電気でもって足もとを照らしていた︒そ した︒ 一瞬間の後︑男は再び懐中電気をまっ暗な足もとに落 も神神しく思われた︒ こ うごう な か っ た ︒ そ う い う 姿 勢 で 見 る と︑ 若 い 女 の 顔 は い か に っ た の で ︑ 彼 は ほ と ん ど 見上 げ る よ う に しな け れ ば な ら それを見るためには︑その女が彼よりずっと脊が高か ぶしそうに浮び出た︒ するとそのきらきら光る小さな円の中に若い女の顔がま してときどきその電気のひかりを女の顔の上にあてた︒ 38 彼は彼らとすれちがいながら︑彼等の腕と腕が頭文字 のようにからみあっているのを発見した︒それから彼は その暗やみの中に一人きりに取残されながら︑なんだか こうふん 気味のわるいくらいに亢奮しだした︒彼は死にたいよう な気にさえなった︒ そういう気持は悪い音楽を聞いたあとの感動に非常に 似ていた︒ そういう音楽的なへんな亢奮をしきりに振り落そうと して︑彼はその朝もそこら中をむちゃくちゃに歩き廻っ 39 た︒そのうちに 彼は一つの見知らない小径に出た︒ そこいらは一度も来たことのないせいか︑町から非常 がカンバスに向っているのが見えるのだ︒その男の顔を ら三尺ばかり高まった草叢があり︑その向うに一人の男 のした方を振り向いてみると︑そこには彼のいる小径か ぶものがあった︒今度はややはっきり聞えたのでその声 かった︒おかしいなと思っていると︑また彼の名前を呼 た︒あたりを見廻してみたが︑それらしいものは見えな そのとき彼はふと自分の名前を呼ばれたような気がし に 遠く離れてしまったかのように思われた︒ 40 見ると彼は一人の友人を思い出した︒ は 彼はやっとこさその上に這い上って︑その友人のそば へ近よって行った︒が︑その友人は︑彼にはべつに何に も話しかけようとせずに︑そのまま熱心にカンバスに向 っていた︒彼も話しかけない方がいいのだろうと思った︒ か そうしてそこへ腰を下ろしたまま黙ってその描きかけの 絵を見まもっていた︒彼はときどきその絵のモチイフに なっている風景をそのあたりに捜したりした︒しかしそ れ ら し い 風 景 は ど う し て も 捜 し あ て る こ と が 出来 な か っ た︒なにしろその画布の上には︑ただ︑さまざまな色を 41 した魚のようなものや小鳥のようなものや花のようなも 上 げな がら ︑ 友 人 は言 っ た ︒ だ﹂ だって︑まだその絵︑出来てないんじゃ ﹁出来てないよ︒だが僕はもう帰らなければならないん ないの?﹂ ﹁今日帰る? ﹁まあ︑いいじゃないか︒僕は今日東京へ帰るんだよ﹂ きょう そっと立ちあがった︒すると立ちあがりつつある彼を見 しばらくその奇妙な絵に見入っていたが︑やがて彼は のが入り混っているだけだったから︒ 42 ﹁どうしてさ﹂ 友人はそれに答えるかわりに再び自分の絵の上に眼を 落した︒しばらくその一部分に彼の眼は強く吸いつけら れているかのようであった︒ * 彼はひとり先きにホテルに帰って︑昼食を共にしよう と約束をしたさっきの友人の来るのを客間で待ってい た︒ 43 ひ ま わ り 彼は客間の窓から顔を出して中庭に咲いている向日葵 伸びていた︒ る︒ け の 大 きな 吸 取 紙 の 上 に 不恰 好 な 字 を い く つ も に じ ま せ ぶ かっ こう はあいにく一枚の紙もなかったので︑彼はそこに備え付 した︒それから彼はペンを取りあげた︒しかしその上に 彼は突然立上った︒そして窓ぎわの卓子の前に坐り直 テエブル くようなラケットの音が愉快そうに聞えてくるのであ ホテルの裏のテニス・コオトからはまるで三鞭酒を抜 シャンパン の花をぼんやり眺めていた︒それは西洋人よりも背高く 44 おう む 彼はもう一度それを読み返そうとしたが︑すっかりイ 黒ん坊 がまる見えになった 鸚鵡が口をあけたら ロミオはテニスをしているのでしょう しかしロミオは居りません 鸚鵡の耳からジュリエットが顔を出す ホテルは鸚鵡 て行った︒ 45 ンクがにじんでしまっていて何を書いたのか少しも分ら ﹁一咋日︑いいところを見ちゃったから﹂ お と と い ﹁何をさ﹂ ﹁ちゃんと知ってるよ﹂ ﹁これは何でもないんだ﹂ ﹁ 隠 さな く て も い い じ ゃ な い か ? ﹂ れを裏返えしにした︒ やってきた友人がひょいとそれを覗き込んだ時には︑そ のぞ それでもやはり彼は︑約束の時間よりもすこし遅れて なくなってしまっていた︒ 46 ﹁一昨日だって? なんだ︑あれか﹂ おご ﹁だから今日は君が奢るんだよ﹂ ﹁あれは︑君︑そんなもんじゃないよ﹂ 彼は あれはただ浅間山の麓まで自動車で彼女たちのお供を ︱ し た だ け だ ︒﹁ た っ た そ れ だ け ﹂ だ っ た の だ ︒ 再びその時の夫人の言葉を思い出した︒そしてひとりで あか 顔を赧くした︒ それから彼らは食堂へはいって行った︒それを機会に 彼は話題を換えようとした︒ ﹁ときに君の絵はどうしたい?﹂ 47 ﹁僕の絵? あれはあのままだ﹂ て︑自分自身のことを考えた︒ことによると︑自分と彼 彼はスウプを匙ですくいながら︑思わずその手を休め さじ ﹁ふん︑そんな ものかね⁝⁝﹂ にもならなくなるんだよ﹂ でも︑一枚一枚はっきり見えてしまうんだ︒それでどう 空気があんまり良すぎるんだね︒どんなに遠くの木の葉 よ にくくて困るね︒去年も僕は描きに来たんだが駄目さ︒ ﹁ ど う も 仕 方 が な い ん だ ︒ こ こ は 風 景 は上 等 だ が ︑ 描 き ﹁惜しいじゃないか?﹂ 48 女との関係がちっとも思うように進行しないのは︑ひと つはここの空気があんまり良すぎて︑どんなに小さな心 理までも互にはっきり見えてしまうからかも知れない︒ 彼はそれを信じよう とさえした︒ そして彼は考えた︒描きかけの風景画をたずさえてこ れから東京へ帰ろうとしているこの友人と同様に︑自分 もまた数日したら︑それも恐らく描きかけのままになる であろう自分の﹁ルウベンスの偽画﹂をたずさえて再び ほか ここを立ち去るより他はないであろうか? 49 午後になって︑その友人を町はずれまで見送ってから︑ たま 写真を渡した︒が︑それは二枚とも彼の眼をまごつかせ だ っ た ︒ 次 の 部 屋 か ら 再 び 帰 っ て き た 彼 女 は 彼に 二 枚 の 写真の古い 茸 のような色がひとりでに溜ってくるよう き のこ ていった︒その間︑彼の眼のうちらには︑彼女の幼時の 彼女は笑いながらその写真を取りに次の部屋にはいっ ﹁あの乳母車にのっている写真をお見せしないこと?﹂ うばぐるま を見ると夫人は急に思い出したように彼女に言った︒ ち ょ う ど ふ た り で お 茶 を 飲 ん で い る ところ だ っ た ︒ 彼 彼はひとりで彼女の家を訪れた︒ 50 す たくらいに撮影したばかりの新鮮な写真だった︒それは とう い この夏この別荘の庭で︑彼女が籐椅子に腰かけていると と ころを撮らせたものらしかった︒ き ﹁どっちがよく撮れて?﹂彼女が訊いた︒ 彼は少しどきまぎしながら︑近視のように眼を細くし てその二つの写真を見較べた︒彼は何とはなしにその一 さ つの方を指してしまった︒そのとき彼の指の先がそっと その写真の頬に触れた︒彼は薔薇の花弁に触れたように すると夫人はもう一つの方の写真を取りあげながら言 思った︒ 51 った︒ ﹁ルウベンスの偽画﹂にそ ﹁乳母車というのはどれですか?﹂ い出した︒ まったさっきの古い茸のような色をしたヴィジョンを思 しばらくしてから︑彼は実物を見ないうちに消えてし っくりなのだと思った︒ 彼の空想の中の彼女に︑ ︱ りよく似ているように思われた︒そしてもう一つの方は そう言われてみると︑彼にもその方が現実の彼女によ ﹁ で も ︑ こ の 方 が こ の 人に は 似 て い な く て ? ﹂ 52 ﹁乳母車?﹂ 夫人はちょっと分らないような表情をした︒が︑すぐ その表情は消えた︒そしてそれはいつもの︑やさしいよ うな皮肉なような独特の微笑に変っていった︒ ﹁その籐椅子のことなのよ﹂ なご そしてそのように和やかな空気が︑相変らず︑その午 後のすべての時間の上にあった︒ これがあれほど彼の待ちきれずに待っていたところの 幸福な時間であろうか? 53 彼女たちから離れている間中︑彼は彼女たちにたまら に よ く 似 て い る か ど う か とい う 一 切 の 気 が か り は︑ 忘れ のだ︒そしてその瞬間までの︑その心 像が本当の彼女 イマアジュ 間は︑彼はただそのことだけですっかり満足してしまう ところが現在のように︑自分が彼女たちの前にいる瞬 女たちに 会いたがらせるのであった︒ どうかを知りたがりだす︒そしてそれがますます彼を彼 すると今度はその心 像が本当の彼女によく似ているか イマアジュ ベンスの偽画﹂を自分勝手につくり上げてしまうのだ︒ なく会いたがっていた︒そのあまりに︑彼は彼の﹁ルウ 54 る と もな く 忘 れ て し ま っ て い る ︒ そ れ と い う の も︑ 自 分 が 彼 女 た ち の 前 に い る の だ とい う こ と を 出 来 る だ け 生 き はたしてその心 像が本当の彼女に イマアジュ 生 き と 感 じ てい た い た め に ︑ そ の 間 中 ︑ 彼は そ の 他 の あ ︱ らゆることを︑ よく似ているかどうかという前日からの宿題さえも︑す っかり犠牲にしてしまうからだった︒ ばくぜん しかし漠然ながらではあるが︑自分の前にいる少女と その心像の少女とは全く別な二個の存在であるような気 もしないではなかった︒ひょっとしたら︑彼の描きかけ の﹁ルウベンスの偽画﹂の女主人公の持っている薔薇の 55 皮膚そのままのものは︑いま彼の前にいるところの少女 で帰っていった︒ りにそれを揺ぶっているのを認めた︒ の木の枝に何か得体の知れないものが登っていて︑しき そのとき彼はその小径に沿うた木立の奥の︑大きい栗 くり 夕暮になって︑彼はホテルへのうす暗い小径をひとり かはっきりさせた︒ 二つの写真のエピソオドが彼のそういう考えをいくら に欠けているかも知れないのだ︒ 56 彼 が 不安 そ う に ︑ ふ と す こ し 頭 の 悪 い 自 分 の 受 持 の 天 使のことを思いうかべながら︑それを見あげていると︑ す な ん だ か 浅 黒い 色 を し た 動 物 が そ の 樹 か ら い き な り 飛 び り 下りてきた︒それは一匹の栗鼠だった︒ ﹁ばかな栗鼠だな﹂ そんなことを思わずつぶやきながら︑彼はうす暗い木 しっぽ 立の中をあわてて尻尾を背なかにのせて走り去ってゆく 粟鼠を︑それの見えなくなるまで見つめていた︒ 57
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