ルウベンスの偽画 - ReSET.JP

ルウベンスの偽画
堀辰雄
それは漆黒の自動車であった。
その自動車が軽井沢ステエショ
と
ンの表口まで来て停まると、中か
ら一人のドイツ人らしい娘を降し
た。
彼はそれがあんまり美しい車だっ
1
たのでタクシイではあるまいと思っ
たが、娘がおりるとき何か運転手
にちらと渡すのを見たので、彼は
黄いろい帽子をかぶった娘とすれ
ちがいながら、自動車の方へ歩い
て行った。
﹁町へ行ってくれたまえ﹂
彼はその自動車の中へはいった。
はいって見ると内部は真白だった。
ば ら
そしてかすかだが薔薇のにおいが
2
漂っていた。彼はさっき無造作に
すれちがってしまった黄いろい帽
子の娘を思い浮べた。自動車がぐっ
と曲った。
彼はふと好奇心をもって車内を
見まわした。すると彼は軽く動揺
している床の上にしちらされた新
つば
鮮な唾のあとを見つけたのである。
ふとしたものであるが、妙に荒あ
らしい快さが彼をこすった。目を
3
むし
つぶった彼には、それが※りちら
された花弁のように見えた。
しばらくしてまた彼は目をひら
せ
いた。運転手の脊なかが見えた。
まどガラス
それから彼は透明な窓硝子に顔を
持って行った。窓の外はもうすっ
すすきはら
かり穂を出している芒原だった。
ちょうど一台の自動車がすれちがっ
て行った。それはもうこの高原を
立ち去ってゆく人人らしかった。
4
町へはいろうとするところに、
くり
一本の大きい栗の木があった。
彼はそこまで来ると自動車を停
めさせた。
※
自動車は町からすこし離れたホ
テルの方へ彼のトランクだけを乗
せて走って行った。
5
ほこり
それのあげた埃が少しずつ消え
て行くのを見ると、彼はゆっくり
歩きながら本町通りへはいって行っ
た。
本町通りは彼が思ったよりもひっ
そりしていた。彼はすっかりそれ
を見違えてしまうくらいだった。
彼は毎年この避暑地の盛り時にば
かり来ていたからである。
彼はしかしすぐに見おぼえのあ
6
る郵便局を見つけた。
その郵便局の前には、色とりど
りな服装をした西洋婦人たちがむ
らがっていた。
歩きながら遠くから見ている彼
にじ
には、それがまるで虹のように見
えた。
それを見ると去年のさまざまな
よみがえ
思い出がやっと彼の中にも蘇って
来た。やがて彼には彼女たちのお
7
しゃべ
喋舌りが手にとるように聞えてき
た。彼は彼女たちのそばをまるで
さえず
小鳥の囀っている樹の下を通るよ
うな感動をもって通り過ぎた。
そのとき彼はひょいと、向うの
曲り角を一人の少女が曲って行っ
たのを認めたのである。
おや、彼女かしら?
そう思って彼は一気にその曲り
角まで歩いて行った。そこには西
8
ジャイアンツ・チェア
洋人たちが﹁巨人の椅子﹂と呼ん
こみち
でいる丘へ通ずる一本の小径があ
り、その小径をいまの少女が歩い
て行きつつあった。思ったよりも
遠くへ行っていなかった。
そしてまちがいなく彼女であっ
た。
彼もホテルとは反対の方向のそ
の小径へ曲った。その小径には彼
女きりしか歩いていないのである。
9
ちゅうちょ
な
彼は彼女に声をかけようとして何
ぜ
故だか躊躇をした。すると彼は急
に変な気持になりだした。彼はす
べてのものを水の中でのように空
気の中で感ずるのである。たいへ
ん歩きにくい。おもわず魚のよう
なものをふんづける。彼の貝殻の
耳をかすめてゆく小さい魚もいる。
自転車のようなものもある。また
ほ
犬が吠えたり、鶏が鳴いたりする
10
のが、はるかな水の表面からのよ
うに聞えてくる。そして木の葉が
な
ふれあっているのか、水が舐めあっ
ているのか、そういうかすかな音
がたえず頭の上でしている。
彼はもう彼女に声をかけなけれ
ばいけないと思う。が、そう思う
だけで、彼は自分の口がコルクで
せん
栓をされているように感ずる。だ
んだん頭の上でざわざわいう音が
11
激しくなる。ふと彼はむこうに見
おぼえのある紅殻色のバンガロオ
を見る。
そのバンガロオのまわりに緑の
茂みがあり、その中へ彼女の姿が
消えてゆく⋮⋮
それを見ると急に彼の意識がはっ
きりした。彼は彼女のあとからす
ぐ彼女の家を訪問するのは、すこ
し工合が悪いと思った。しかたな
12
い
しに彼はその小径を往ったり来た
りしていた。いいことに人はひと
ようや
りも通らなかった。そうして漸く
ふもと
﹁巨人の椅子﹂の麓の方から近づ
いてくる人の足音が聞えたとき、
彼は何を思ったのか自分でも分ら
くさむら
ずに、小径のそばの草叢の中に身
をかくした。彼はその隠れ場から
おおまた
一人の西洋人が大股にそして快活
そうに歩き過ぎるのを見ていた。
13
彼女はまだ庭園の中にいた。彼
女はさっき振りかえったときに彼
が自分の後から来るのを見たので
ある。しかし彼女は立止って彼を
待とうとはしなかった。なぜかそ
はずか
うすることに羞しさを感じた。そ
して彼女はたえず彼の眼が遠くか
ら自分の脊中に向けられているの
がゆ
をすこしむず痒く感じていた。彼
ひなた
女はその脊中で木の葉の蔭と日向
14
とが美しく混り合いながら絶えず
変化していることを想像した。
彼女は庭園の中で彼を待ってい
は い
た。しかし彼はなかなか這入って
来なかった。彼が何をぐずぐずし
ているのか分るような気がした。
数分後、彼女はやっと門を這入っ
て来る彼を見たのであった。
彼はばかに元気よく帽子を取っ
た。それにつり込まれて彼女まで
15
が、愛らしい、おどけた微笑を浮
べたほどであった。そして彼女は
彼と話しはじめるが早いか、彼が
かいふく
肉体を恢復したすべての人のよう
に、みょうに新鮮な感受性を持っ
ているのを見のがさなかった。
﹁お病気はもういいの?﹂
﹁ええ、すっかりいいんです﹂
彼はそう答えながら彼女の顔を
まぶしそうに見つめた。
16
彼女の顔はクラシックの美しさ
を持っていた。その薔薇の皮膚は
すこし重たそうであった。そうし
て笑う時はそこにただ笑いが漂う
ようであった。彼はいつもこっそ
りと彼女を﹁ルウベンスの偽画﹂
と呼んでいた。
まぶしそうに彼女を見つめた時、
彼はそれをじつに新鮮に感じた。
いままでに感じたことのないもの
17
が感じられて来るように思った。
そうして彼は彼女の歯ばかりを見
た。腰ばかりを見た。その間に、
彼は病気のことは少しも話そうと
うる
はしなかった。そういう現実の煩
さかったことを思い出すことは何
の価値もないように彼は思ってい
た。そのかわりに彼は、真白なクッ
ションのある黒い自動車の中に黄
いろい帽子をかぶった娘の乗って
18
いたのが、西洋の小説のように美
しかったことなどを好んで話すの
にお
だった。そしてその娘の香いがま
だ残っていた美しい自動車に乗っ
てきたのだと愉快そうに言った。
しかし彼はその自動車の中に残っ
ていた唾のことは言わないでしまっ
た。そうした方がいいと思ったの
だった。が、それを言わないでい
ると、その唾が花弁のように感じ
19
られたあの時の快感がへんに鮮か
にいつまでも彼の中に残っていそ
うな気がするのだ。こいつはいけ
ないと思った。その時から少しず
ども
つ彼は吃るように見えた。そして
彼はもう不器用にしか話せなかっ
た。一方、そういう彼を彼女は持
てあますのだった。そこでしかた
がなしに彼女は言った。
﹁家へはいりません?﹂
20
﹁ええ﹂
しかし二人はもっと庭園の中に
いたかった。けれども今の言葉が
おかしなものになってしまいそう
なので、二人はやっと家の中へは
いろうとしたのであった。
そのとき二人は、露台の上から
あたかも天使のように、彼等の方
を見下ろしている彼女の母に気が
あか
ついた。二人は思わず顔を赧らめ
21
ながら、それをまぶしそうに見上
げた。
※
翌日、彼女たちはドライヴに彼
を誘った。
自動車は夏の末近い寂しい高原
の中を快い音を立てながら走った。
三人は自動車の中ではほとんど
22
喋舌らないでいた。しかし風景の
変化の中に三人ともほとんど同様
の快さを感じていたので、それは
快い沈黙であった。ときどきかす
かな声がその沈黙を破った。が、
それはすぐまた元の深い沈黙の中
に吸いこまれてしまうので誰も何
も言わなかったのではないかと思
われるほどのものであった。
﹁まあ、あの小さい雲⋮⋮︵夫人
23
の指に沿ってずっと目を持ってゆ
くと、そこに、一つの赤い屋根の
上に、ちょうど貝殻のような雲が
浮んでいた︶ずいぶん可愛らしい
じゃないの﹂
それから後は浅間山の麓のグリ
イン・ホテルに着くまで、ずっと
夫人の引きしまった指と彼女のふっ
なが
くらした指をかわるがわる眺めて
いた。沈黙がそれを彼に許した。
24
ホテルはからっぽだった。もう
客がみんな引上げてしまったので
今日あたり閉じようと思っていた
のだ、とボオイが言っていた。
バルコニイに出て行った彼等は、
季節の去った跡のなんとない醜さ
をまのあたりの風景に感じずには
いられなかった。ただ浅間山の麓
なめ
だけが光沢のよいスロオプを滑ら
かに描いていた。
25
バルコニイの下に平らな屋根が
あり、低い欄干をまたぐと、すぐ
その屋根の上へ出られそうであっ
た。そんなに屋根が平らで、そん
なに欄干が低いのを見たとき、彼
女が言った。
﹁ちょっとあの上を歩いてみたい
ようね﹂
夫人は、彼と一しょに下りても
こた
らえばいいじゃないのと彼女に応
26
えた。それを聞くと彼は無造作に
屋根の上に出て行った。彼女も笑
いながら彼について来た。そして
二人が屋根の端まで歩いて行った
時、彼はすこし不安になりだした。
それは屋根のわずかな傾斜から身
体の不安定が微妙に感じられるせ
いばかりではなかった。
その屋根の端で彼はふと彼女の
ゆびわ
手とその指環を見たのである。そ
27
して彼女が何でもなかったのに滑
ま ね
りそうな真似をして指環が彼の指
つか
を痛くするほど、彼の手を強く掴
むかも知れないと空想した。する
と彼はへんに不安になった。そし
て急に彼は屋根のわずかな傾斜を
鋭く感じだした。
﹁もう行きましょう﹂そう彼女が
言った時、彼は思わずほっとした。
彼女は先に一人でバルコニイに上っ
28
てしまった。彼もそのあとから上
ろうとして、バルコニイで夫人と
彼女の話しあっているのを聞いた。
﹁何か見えて?﹂
﹁ええ、私達の運転手が、下でブ
ランコに乗ってるのを見ちゃった
のよ﹂
﹁それだけだったの?﹂
皿とスプウンの音が聞えてきた。
彼はひとりで顔を赧くしながら、
29
バルコニイへ上って行った。
夫人の﹁それだけだったの?﹂
を彼はお茶をのんでいる間や、帰
途の自動車の中で、しきりに思い
出した。その声には夫人の無邪気
な笑いがふくまれているようでも
あった。また、やさしい皮肉のよ
うでもあった。それからまた、何
んでも無いようでもあった。⋮⋮
30
※
翌日、彼が彼女たちの家を訪問
よ そ
すると、二人とも他家へ、お茶に
よ
招ばれていて留守だった。
彼はひとりで﹁巨人の椅子﹂に
登ってみようとした。が、すぐ、
それもつまらない気がして町へ引
きかえした。そして本町通りをぶ
らぶらしていた。すると彼は、彼
31
の行手に一人の見おぼえのあるお
嬢さんが歩いているのに気がつい
た。それは毎年この避暑地に来る
だんしゃく
或る有名な男爵のお嬢さんであっ
た。
去年なども、彼はよく峠道や森
の中でこのお嬢さんが馬に乗って
で あ
いるのに出逢った。そういう時い
つも彼女のまわりには五六人の混
血児らしい青年たちがむらがって
32
いるのであった。一しょに馬や自
転車などを走らせながら。
いれずみ
彼もこのお嬢さんを刺青をした
ちょう
蝶のように美しいと思っていた。
しかし、それだけのことで、彼は
むろんこのお嬢さんのことなどそ
う気にとめてもいなかった。が、
ただ彼女を取りまいているそうい
う混血児たちは何とはなしに不愉
しっと
快だった。それは軽い嫉妬のよう
33
なものであるかも知れないが、そ
れくらいの関心は彼もこのお嬢さ
んに持っていたと言ってもいいの
である。
それで彼は何の気もなくそのお
嬢さんのあとから歩いて行ったが、
そのうち向うからちらほらとやっ
てくる人人の中に、ふと一人の青
年を認めた。それは去年の夏、ずっ
34
と彼女のそばに附添ってテニスや
ダンスの相手をしていた混血児ら
しい青年であった。彼はそれを見
るとすこし顔をしかめながら出来
るだけ早くこの場を離れてしまお
うと思った。その時、彼はまこと
に思いがけないことを発見した。
というのは、そのお嬢さんとその
青年とは互にすこしも気づかぬよ
うに装いながら、そのまますれち
35
ただ
がってしまったからである。唯、
そのすれちがおうとした瞬間、そ
の青年の顔は悪い硝子を透して見
ゆが
るように歪んだ。それからこっそ
りとお嬢さんの方をふり向いた。
にが
その顔にはいかにも苦にがしいよ
うな表情が浮んでいた。
このエピソオドは彼を妙に感動
させた。彼はその意地悪そうなお
嬢さんに一種の異常な魅力のよう
36
もちろん
なものをさえ感じた。勿論、彼は
その混血児の側にはすこしも同情
する気になれなかった。
その晩はベッドへ横になってか
らも、何度も同じところへ飛んで
が
くる一匹の蛾のように、そのお嬢
さんの姿がうるさいくらいに彼の
つぶった眼の中に現れたり消えた
りするのであった。彼はそれを払
の
い退けるために彼の﹁ルウベンス
37
の偽画﹂を思い浮べようとした。
が、それが前者に比べるとまるで
変色してしまった古い複製のよう
にしか見えないことが、一そう彼
を苦しめた。
※
しかし翌朝になってみると、そ
のふしぎな魅力は夜の蛾のように
38
ど こ
もう何処かへ姿を消してしまって
さわ
いた。そうして彼は何となく爽や
かな気がした。
午前中、彼は長いこと散歩をし
た。そして、とあるロッジの中で
冷たい牛乳を飲みながら、しばら
く休むことにした。彼はこんなに
爽やかな気分の中でなら、夫人た
ちに昨日からのエピソオドを打明
けても少しもこだわるようなこと
39
はないだろうと思ったほどであっ
た。
それは町からやや離れた小さな
からまつ
落葉松の林の中にあった。
ほおづえ
木のテエブルに頬杖をついてい
おうむ
る彼の頭上では、一匹の鸚鵡が人
間の声を真似していた。
き
しかし彼はその鸚鵡の言葉を聴
こうとはしなかった。彼は熱心に
彼の﹁ルウベンスの偽画﹂を虚空
40
い つ
に描いていた。それが何時になく
生き生きした色彩を帯びているの
が彼には快かった。⋮⋮
その瞬間、彼は彼のところから
さえ
は木の枝に遮ぎられて見えない小
径の上を二台の自転車が走って来
て、そのロッジの前に停まるのを
聞いた。それからまだその姿は見
えないけれど、若い娘特有の透明
な声が聞えてきた。
41
﹁なんか飲んで行かない?﹂
その声を聞くと彼はびっくりし
た。
﹁またかい。これで三度目だぜ﹂
そう若い男の声が応じた。
彼は何となく不安そうにロッジ
の中にはいってくる二人を見つめ
た。意外にもそれはきのうのお嬢
さんだった。それから彼のはじめ
て見る上品な顔つきをした青年だっ
42
た。
その青年は彼をちらりと見て、
彼から一番離れたテエブルに坐ろ
うとした。するとお嬢さんが言っ
た。
﹁鸚鵡のそばの方がいいわ﹂
そして二人は彼のすぐ隣りのテ
エブルに坐った。
お嬢さんは彼に脊なかを向けて
坐ったが、彼には何だかわざとか
43
ひとまね
の女がそうしたように思われた。
やか
鸚鵡は一そう喧ましく人真似をし
だした。かの女はときどきその鸚
鵡を見るために脊なかを動かした。
たびごと
その度毎に彼はかの女の脊なかか
ら彼の眼をそらした。
お嬢さんはその青年と鸚鵡とを
かわるがわる相手にしながら絶え
しゃべ
ず喋舌っていた。その声はどうか
すると﹁ルウベンスの偽画﹂の声
44
にそっくりになった。さっきこの
お嬢さんの声を聞いて彼がびっく
りしたのはそのせいであったのだ。
お嬢さんの相手の青年はその顔
つきばかりではなしに、全体の上
品な様子が去年の混血児たちとは
ちが
すこぶる異っていた。すべてがい
かにもおっとりとして貴族的であっ
た。そういう両者の対照の中に彼
は何となくツルゲエネフの小説め
45
いたものさえ感じたほどだった。
この頃になってこのお嬢さんはやっ
とかの女の境涯を自覚しだしたの
かも知れない。⋮⋮そんなことを
いい気になって空想していると、
彼は彼自身までがうっかりその小
説の中に引きずり込まれて行きそ
うで不安になった。
彼はもっとここに居てみようか、
それとも出て行ってしまおうかと
46
しばら ちゅうちょ
暫く躊躇していた。鸚鵡は相変ら
ず人間の声を真似していた。それ
をいくら聴いていても、彼にはそ
の言葉がすこしも分らなかった。
それが彼にはなんだか彼の心の中
の混雑を暗示するように思われた。
彼はいきなり立ちあがると不器
用な歩き方でロッジを出て行った。
ロッジのそとへ出ると、二台の
自転車がそのハンドルとハンドル
47
とを、腕と腕とのようにからみあ
かっこう
わせながら、奇妙な恰好で、そこ
の草の上に倒れているのを彼は見
た。
そのとき彼の背後からお嬢さん
の高らかな笑い声が聞えてきた。
彼はそれを聞きながら、自分の
体の中にいきなり悪い音楽のよう
わ
なものが湧き上ってくるのを感じ
た。
48
悪い音楽。たしかにそうだ。彼
を受持っているすこし頭の悪い天
使がときどき調子はずれのギタル
ひ
を弾きだすのにちがいない。
彼は自分の受持の天使の頭の悪
さにはいつも閉口していた。彼の
天使は彼に一度も正確にカルタの
札を分配してくれたことがないの
だ。
或る晩のことであった。
49
彼は彼女の家から彼のホテルへ
こみち
のまっ暗な小径を、なんだか得体
の知れない空虚な気持を持てあま
しながら帰りつつあった。
その時前方の暗やみの中から一
組の若い西洋人達が近づいてくる
のを彼は認めた。
男の方は懐中電気でもって足も
とを照らしていた。そしてときど
きその電気のひかりを女の顔の上
50
にあてた。するとそのきらきら光
る小さな円の中に若い女の顔がま
ぶしそうに浮び出た。
それを見るためには、その女が
彼よりずっと脊が高かったので、
彼はほとんど見上げるようにしな
ければならなかった。そういう姿
勢で見ると、若い女の顔はいかに
こうごう
も神神しく思われた。
一瞬間の後、男は再び懐中電気
51
をまっ暗な足もとに落した。
ら
彼は彼等とすれちがいながら、
かしらもじ
彼等の腕と腕が頭文字のようにか
らみあっているのを発見した。そ
れから彼はその暗やみの中に一人
きりに取残されながら、なんだか
こうふん
気味のわるいくらいに亢奮しだし
た。彼は死にたいような気にさえ
なった。
そういう気持は悪い音楽を聞い
52
たあとの感動に非常に似ていた。
そういう音楽的なへんな亢奮を
しきりに振り落そうとして、彼は
その朝もそこら中をむちゃくちゃ
に歩き廻った。そのうちに彼は一
つの見知らない小径に出た。
そこいらは一度も来たことのな
いせいか、町から非常に遠く離れ
てしまったかのように思われた。
53
そのとき彼はふと自分の名前を
呼ばれたような気がした。あたり
を見廻してみたが、それらしいも
のは見えなかった。おかしいなと
思っていると、また彼の名前を呼
ぶものがあった。今度はややはっ
きり聞えたのでその声のした方を
振り向いてみると、そこには彼の
いる小径から三尺ばかり高まった
くさむら
草叢があり、その向うに一人の男
54
がカンバスに向っているのが見え
るのだ。その男の顔を見ると彼は
一人の友人を思い出した。
は
彼はやっとこさその上に這い上っ
て、その友人のそばへ近よって行っ
た。が、その友人は、彼にはべつ
に何にも話しかけようとせずに、
そのまま熱心にカンバスに向って
いた。彼も話しかけない方がいい
のだろうと思った。そうしてそこ
55
へ腰を下ろしたまま黙ってその描
きかけの絵を見まもっていた。彼
はときどきその絵のモチイフになっ
ている風景をそのあたりに捜した
りした。しかしそれらしい風景は
どうしても捜しあてることが出来
なかった。なにしろその画布の上
ただ
には、唯、さまざまな色をした魚
のようなものや小鳥のようなもの
や花のようなものが入り混ってい
56
るだけだったから。
しばらくその奇妙な絵に見入っ
ていたが、やがて彼はそっと立ち
あがった。すると立ちあがりつつ
ある彼を見上げながら、友人は言っ
た。
きょ
﹁まあ、いいじゃないか。僕は今
う
日東京へ帰るんだよ﹂
﹁今日帰る? だって、まだその
絵、出来てないんじゃないの?﹂
57
﹁出来てないよ。だが僕はもう帰
らなければならないんだ﹂
﹁どうしてさ﹂
友人はそれに答えるかわりに再
び自分の絵の上に眼を落した。し
ばらくその一部分に彼の眼は強く
吸いつけられているかのようであっ
た。
※
58
彼はひとり先きにホテルに帰っ
て、昼食を共にしようと約束をし
たさっきの友人の来るのを客間で
待っていた。
彼は客間の窓から顔を出して中
ひまわり
庭に咲いている向日葵の花をぼん
なが
やり眺めていた。それは西洋人よ
りも脊高く伸びていた。
ホテルの裏のテニス・コオトか
シャンパン
らはまるで三鞭酒を抜くようなラ
59
ケットの音が愉快そうに聞えてく
るのである。
彼は突然立上った。そして窓ぎ
わの卓子の前に坐り直した。それ
から彼はペンを取りあげた。しか
しその上にはあいにく一枚の紙も
なかったので、彼はそこに備え付
ぶかっこう
けの大きな吸取紙の上に不恰好な
字をいくつもにじませて行った。
おうむ
ホテルは鸚鵡
60
鸚鵡の耳からジュリエット
が顔を出す
しかしロミオは居りません
ロミオはテニスをしている
のでしょう
鸚鵡が口をあけたら
黒ん坊がまる見えになった
彼はもう一度それを読み返そう
としたが、すっかりインクがにじ
61
んでしまっていて何を書いたのか
少しも分らなくなってしまってい
た。
それでもやはり彼は、約束の時
間よりもすこし遅れてやってきた
のぞ
友人がひょいとそれを覗き込んだ
時には、それを裏返えしにした。
﹁隠さなくてもいいじゃないか?﹂
﹁これは何でもないんだ﹂
﹁ちゃんと知ってるよ﹂
62
﹁何をさ﹂
﹁一昨日、いいところを見ちゃっ
たから﹂
﹁一昨日だって? なんだ、あれ
か﹂
おご
﹁だから今日は君が奢るんだよ﹂
﹁あれは、君、そんなもんじゃな
いよ﹂
ふもと
あれはただ浅間山の麓まで自動
車で彼女たちのお供をしただけだ。
63
﹁たったそれだけ﹂だったのだ。
︱︱彼は再びその時の夫人の言葉
を思い出した。そしてひとりで顔
あか
を赧くした。
それから彼等は食堂へはいって
行った。それを機会に彼は話題を
換えようとした。
﹁ときに君の絵はどうしたい?﹂
﹁僕の絵? あれはあのままだ﹂
﹁惜しいじゃないか?﹂
64
﹁どうも仕方がないんだ。ここは
風景は上等だが、描きにくくて困
るね。去年も僕は描きに来たんだ
が駄目さ。空気があんまり良すぎ
るんだね。どんなに遠くの木の葉
でも、一枚一枚はっきり見えてし
まうんだ。それでどうにもならな
くなるんだよ﹂
﹁ふん、そんなものかね⋮⋮﹂
さじ
彼はスウプを匙ですくいながら、
65
思わずその手を休めて、自分自身
のことを考えた。ことによると、
自分と彼女との関係がちっとも思
うように進行しないのは、ひとつ
はここの空気があんまり良すぎて、
どんなに小さな心理までも互にはっ
きり見えてしまうからかも知れな
い。彼はそれを信じようとさえし
た。
そして彼は考えた。描きかけの
66
風景画をたずさえてこれから東京
へ帰ろうとしているこの友人と同
様に、自分もまた数日したら、そ
れも恐らく描きかけのままになる
であろう自分の﹁ルウベンスの偽
画﹂をたずさえて再びここを立ち
ほか
去るより他はないであろうか?
午後になって、その友人を町は
ずれまで見送ってから、彼はひと
67
りで彼女の家を訪れた。
丁度ふたりでお茶を飲んでいる
ところだった。彼を見ると夫人は
急に思い出したように彼女に言っ
た。
うばぐるま
﹁あの乳母車にのっている写真を
お見せしないこと?﹂
彼女は笑いながらその写真を取
りに次の部屋にはいっていった。
その間、彼の眼のうちらには、彼
68
きのこ
女の幼時の写真の古い茸のような
たま
色がひとりでに溜ってくるようだっ
た。次の部屋から再び帰ってきた
彼女は彼に二枚の写真を渡した。
が、それは二枚とも彼の眼をまご
つかせたくらいに撮影したばかり
の新鮮な写真だった。それはこの
とういす
夏この別荘の庭で、彼女が籐椅子
と
に腰かけているところを撮らせた
ものらしかった。
69
﹁どっちがよく撮れて?﹂彼女が
き
訊いた。
彼は少しどきまぎしながら、近
視のように眼を細くしてその二つ
みくら
の写真を見較べた。彼は何とはな
さ
しにその一つの方を指してしまっ
ば ら
た。そのとき彼の指の先がそっと
ほお
その写真の頬に触れた。彼は薔薇
の花弁に触れたように思った。
すると夫人はもう一つの方の写
70
真を取りあげながら言った。
﹁でも、この方がこの人には似て
いなくて?﹂
そう言われてみると、彼にもそ
の方が現実の彼女によりよく似て
いるように思われた。そしてもう
一つの方は彼の空想の中の彼女に、
︱︱﹁ルウベンスの偽画﹂にそっ
くりなのだと思った。
しばらくしてから、彼は実物を
71
見ないうちに消えてしまったさっ
きの古い茸のような色をしたヴィ
ジョンを思い出した。
﹁乳母車というのはどれですか?﹂
﹁乳母車?﹂
夫人はちょっと分らないような
表情をした。が、すぐその表情は
消えた。そしてそれはいつもの、
やさしいような皮肉なような独特
の微笑に変っていった。
72
﹁その籐椅子のことなのよ﹂
なご
そしてそのように和やかな空気
が、相変らず、その午後のすべて
の時間の上にあった。
これがあれほど彼の待ちきれず
に待っていたところの幸福な時間
であろうか?
彼女たちから離れている間中、
彼は彼女たちにたまらなく会いた
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がっていた。そのあまりに、彼は
彼の﹁ルウベンスの偽画﹂を自分
勝手につくり上げてしまうのだ。
イマアジュ
すると今度はその心像が本当の彼
女によく似ているかどうかを知り
たがりだす。そしてそれがますま
す彼を彼女たちに会いたがらせる
のであった。
ところが現在のように、自分が
彼女たちの前にいる瞬間は、彼は
74
ただそのことだけですっかり満足
してしまうのだ。そしてその瞬間
イマアジュ
までの、その心像が本当の彼女に
よく似ているかどうかという一切
の気がかりは、忘れるともなく忘
れてしまっている。それというの
も、自分が彼女たちの前にいるの
だということを出来るだけ生き生
きと感じていたいために、その間
中、彼はその他のあらゆることを、
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イマアジュ
︱︱果してその心像が本当の彼女
によく似ているかどうかという前
日からの宿題さえも、すっかり犠
牲にしてしまうからだった。
ばくぜん
しかし漠然ながらではあるが、
自分の前にいる少女とその心像の
少女とは全く別な二個の存在であ
るような気もしないではなかった。
ひょっとしたら、彼の描きかけの
﹁ルウベンスの偽画﹂の女主人公
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の持っている薔薇の皮膚そのまま
のものは、いま彼の前にいるとこ
ろの少女に欠けているかも知れな
いのだ。
二つの写真のエピソオドが彼の
そういう考えをいくらかはっきり
させた。
夕暮になって、彼はホテルへの
うす暗い小径をひとりで帰っていっ
77
た。
そのとき彼はその小径に沿うた
木立の奥の、大きい栗の木の枝に
何か得体の知れないものが登って
いて、しきりにそれを揺ぶってい
るのを認めた。
彼が不安そうに、ふとすこし頭
の悪い自分の受持の天使のことを
思いうかべながら、それを見あげ
ていると、なんだか浅黒い色をし
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た動物がその樹からいきなり飛び
り す
下りてきた。それは一匹の栗鼠だっ
た。
﹁ばかな栗鼠だな﹂
そんなことを思わずつぶやきな
がら、彼はうす暗い木立の中をあ
しっぽ
わてて尻尾を脊なかにのせて走り
去ってゆく粟鼠を、それの見えな
くなるまで見つめていた。
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底本:﹁燃ゆる頬・聖家族﹂新潮
文庫、新潮社
1947︵昭和22︶年1
1月30日発行
1970︵昭和45︶年3
月30日26刷改版
1987︵昭和62︶年1
0月20日51刷
初出:第1稿、﹁山繭﹂第2巻第
6号
80
1927︵昭和2︶年2月
1日号
改稿、﹁創作月刊﹂文藝春
秋社
1929︵昭和4︶年1月
号
初収単行本:﹁不器用な天使﹂改
造社
1930︵昭和5︶年7月
3日
81
改稿版:﹁ルウベンスの偽画﹂江
川書房
1933︵昭和8︶年2月
1日
※初出情報は、﹁堀辰雄全集第1
巻﹂筑摩書房、1977︵昭和5
2︶年5月28日、解題による。
入力:kompass
校正:染川隆俊
2004年1月21日作成
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青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネット
の図書館、青空文庫︵http:
//www.aozora.gr.
jp/︶で作られました。入力、
校正、制作にあたったのは、ボラ
ンティアの皆さんです。
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