Chapel Hillからの手紙

Chapel Hill からの手紙
Chapel Hill からの手紙
第一章
教授が決まったというニュースが教室中に行き渡るのに時間はかからなかっ
た。私はそのとき2階の図書室でコピーをとっていたように記憶している。上
坂さんが駆け込んできて、「教授が決まった。久野さんだ」という。「くのさ
ん?」初めて耳にする名前である。「久野さんを知らないのか。君は何も知ら
んのだな。」
図書室の机の上に Journal of Physiology のバックナンバーが次々と積み上
げられた。それぞれにはしおりが挟まれている。上坂さんも岡田さんも私も、
教室中の人間がとりつかれたように、久野さんの論文をコピーした。論文を見
ると、どうやら脊髄の運動ニューロンや神経—筋シナプスの研究をしている人
らしい。実験にはネコを使っているらしい。しかし、私には興味がわかなかっ
た。どれか一つの論文を取り上げて読んでみようという気も起こらなかった。
従って、彼の研究が何を目指しているのか、どのような重要性があるのか、さ
っぱりわからなかった。ただ、「とにかく決まって良かった」という安堵感と、
「これからどうなるのだろう」という漠然とした不安感が交錯していた。当時、
脳研の院生だった鮫島さんが、地方会で「(発表された)研究にどういう意義
があるのですか」という勇気ある発言をしたことをおぼえているが、私もまっ
たく同感だった。勢い込んで生理学教室に入りはしたものの、具体的な目標を
見いだすことができず、この1年半は、あっちふらふら、こっちふらふらとし
ていたのである。ほぼ同期の姜さんは「記憶のメカニズムを解明したい」、矢
田さんは「細胞が生きているというのはどういう事か知りたい」という目標を
持って大学院に入ってきた。私は二人がうらやましかった。私には、生理学を
やりたいという目標しかなかったからである。しかも、生理学が何かという答
えもなかったのである。
私が医学部で受けた講義の多くは学問の魅力を与えてくれなかった。解剖学
も生化学も知識欲を満たしてくれるものであり、講義を聴いても、テキストを
読んでも、それなりの面白さはあった。早石先生の講義も、前評判を裏切らな
い素晴らしいものだった。ボールドウィンの「動的生化学」、ワトソンの
「Molecular Biology of the Gene, 2 nd Ed.」、モノーの「偶然と必然」などは、
それぞれ、興味深い世界を私の前に拡げて見せた。しかし、私は、自分が生化
学の研究室にいることを想像することはできなかった。また、解剖学の研究室
で、染色標本を顕微鏡で覗いている姿も想像できなかった。何かがもの足りな
い。そのもの足りないものが何であるのか、当時の私にはわからなかったので
ある。井上先生の生理学の講義だけが唯一の例外だった。生体を多変数の関数
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Chapel Hill からの手紙
ととらえて、その法則性を明らかにし、数式やグラフにより表現する。その法
則性から、生理機能の安定性(ホメオスターシス)が説明されるとともに、異
常が予言される。「物理学が King of Science だとしたら、生理学はなんでし
ょうか。Queen of Science なんでしょうか」と井上先生が講義で言われたのを
記憶しているが、私にとっては、正真正銘の Queen of Science であった。井上
先生の講義を聴いて初めて、私は、自分が医学部に入ってきたことを後悔しな
くなった。京大医学部に入り、生理学という学問を知り、井上先生からその神
髄を学ぶ機会を与えられたことを天に感謝した。
生理学が Queen of Science であるというのは、学生時代では直感にすぎなか
ったが、現在では、それを説明することができると思う。また、他の学問に見
いだし得なかった生理学の魅力がどこにあったのかも説明できると思う。それ
は、論理的な整合性に起因する美しさである。しかし、その美しさは、物理学
のそれとは異なる。物理学の美しさはその抽象性にある。たとえれば「偶像に
表されぬ神」のようなものである。生理学の美しさは「ギリシア女神の彫刻」
にたとえられようか。その部分部分は、論理的な厳密さにより彫り込まれてい
る。しかし、その全体は、複雑きわまりない生身の女性のイデアである。あら
ゆる女性がその彫刻を見て、それが自分をモデルにしたものだと主張するだろ
う。そのようなものが存在しうるのだろうか。「非のうちどころのない彫刻」
などあり得ようか。しかし、理想を目指す営みに人間存在の意義を見いだすの
である。「上を見上げて立ち上がったサル」が人間に進化したのである。
第二章
いよいよ久野さんがやってきて、われわれ教室員と顔を合わせることになっ
た。彼は、自身の最近の研究について講演した。ついで、教室のメンバーがそ
れぞれの研究について話をした。私は、「欠落値を含む多変量データの解析法」
について話した。この論文(このときすでに Biometrics という雑誌に投稿して
いた)のアイディアはオリジナルなものであったし、数学的にも論理の展開が
美しいという自信があった。しかし、これはもちろん生理学ではないし、当時
の私にも自分の求めている研究ではないという意識が常にあった。
では、久野さんの研究に何か求めているものを見いだしたのかと問われると、
そうでもあるし、そうでもなかったとしか答えようがない。神経と骨格筋が相
互に影響を及ぼしているという考えは新鮮だった。しかし、このテーマは、私
の興味を引くものではなかった。これに対し、骨格筋から神経に作用するトロ
フィック物質があり、神経から骨格筋に作用するトロフィック物質が仮定され
るという考えが研究を貫いているのが印象的だった。彼の研究が行き当たりば
ったりではなく戦略的に構成されていることにも美しさを感じた。何よりも、
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Chapel Hill からの手紙
研究にかける彼の夢、あるいはロマンチシズムとでもいうべきものが私の心を
揺り動かした。私は一晩考えた。「自分が研究に寄せる夢というものは漠然と
したものである。それは、本当の生理学をやりたいという事である。しかし、
それを何らかの具体性のあるものに限定しない限り、自分がその壮大な仕事に
加わることは、いつまでもできないだろう。久野さんは、具体的な夢を持って
この生理学教室に単身で乗り込んできた。彼一人では、その夢にチャレンジす
ることは難しいだろう。協力者が必要だ。彼の夢を自分の夢にしてみよう。ま
ず、そこから、自分自身の夢を具体化しよう。」
翌日、矢田さんにこの考えを話したところ、彼は支持してくれた。私一人で
は、心許なかったので、彼と一緒に教授室を訪ねた。そして、久野さんの元で
研究したい旨を述べた。久野さんが私の「多変量解析」について何か批判をさ
れたように記憶しているが、内容はおぼえていない。私には多変量解析に対す
る未練が、その時点で全くなかったからである。久野さんは、しばらくの間は、
ノースカロライナ大で完結させなければならない研究があり、すぐには赴任で
きないことを話された。そして、私たちに対しては、手紙で研究の手引きをす
ることを約束された。
第3章
じりじりと手紙を待つ日が続いた。土屋さん(あるいは上坂さんか岡田さん
かもしれない)が、これから神経を研究するのであれば、Hodgkin の論文を読ま
なくてはならないと、教えてくれた。さっそく Hodgkin の The Conduction of the
Nervous Impulse を借りて、コピーをとった。それまで、Hodgkin の名前すら知
らなかったが、この本は私をひきつけ、これを読むのが私の日課になった。さ
らに、Hodgkin、Katz、Eccles らの原著論文を手当たり次第に読んだ。振り返る
と、この経験が、後に大いに役立ったものである。
1979 年 10 月 23 日の日付で最初の手紙が Chapel Hill から届いた。
八尾君・矢田君
もっと早くお便りすべきところ遅くなって申し訳ありません。実は、計画し
ている実験をできるだけ具体的に、一つずつお知らせしようと思っておりまし
たが、こまかい文献読みで、長くかかりそうですので、とりあえず、大体の方
向だけを書き、参考になりそうなペーパーをお伝えします。
まず最初に J.R. Platt ‘Strong inference’ –Science 146:347-353, 1964 を
読んで下さい。これは、今でも僕は、一・二年に一度読むペーパーです。神経
生理のイントロダクションとしては、Kuffler & Nicolls: “From neuron to brain”
(1976)が一番手っ取り早く、これは土屋さんが持っておられたと思います。今、
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Chapel Hill からの手紙
計画している実験は、ほとんど神経系の発生・シナプスの特異性・plasticity・
trophic function で、この分野の本としては、”Neuro-target cell interactions”
–Neurosciences Research Program Bulletin vol. 14, No. 3, 1976 edited by
B.H. Smith & G.W. Kreutzberg および G. Vrbova, T. Gordon & R. Jones:
“Nerve-muscle interaction” 1978 があり後者は上坂さんが持って居られます。
他に M. Jacobson: “Developmental Neurobiology” 1978 がありますが、この本
は、あまりに情報が多くて、一寸読みづらいかと思います。神経の切断後の再
生に関して、今、二つの実験を考えています。ラットの後肢の筋肉神経を切り、
その切断端を組織培養の皿に導き、その周囲に筋肉・肝臓の組織片等を等間隔
に並べて、神経の再生が筋肉に向かって選択的に進行するかどうかという問題
で、この実験には、ラットを除脳または麻酔下で三日から一週間生かさなけれ
ばなりませんので、これを feasible にすることが先決です。もし、再生が選択
的に起これば、テストする問題は、いくらでもあります。
これに関するもう一つの実験は、切断された神経の先が、再生して伸びて行
くとき、その先端の神経膜(一般に Growth Cone と呼ばれています)が、神経
線維の膜と異なっているかという問題です。この分野は、僕も詳しくありませ
んが、今手もとにあるペーパーDuce, I.R. & Keen, P. (1976). A light and
electron microscope study of changes occurring at the cut ends following
section of the dorsal roots of rat spinal nerves. Cell Tiss. Res.
170:491-505 及びその続きの論文 Cell. Tiss. Res. (1976). 170:507-513.によ
りますと、再生先端は 20µm ぐらいにふくれる様ですから、ここにマイクロ電極
を入れて、特にカルシウム電流をテストしたいと思っています。
発生段階の活動電位に参与するイオンの変化の例は多数ありますが、一番き
れいな結果は、Baccaglini, P.I. & Spitzer, N. C. (1977). Developmental
changes in the inward current of the action potential of Rohon-Beard
neurones. J. Physiol. 271: 93-117.で最近のペーパーTakahashi, L. & Yoshii,
M. (1978). Effects of internal free calcium upon the sodium and calcium
channels in the tunicate egg analysed by the internal perfusion technique.
J. Physiol. 279: 519-549 及び Pitman, R.M. (1979). Intracellular citrate
or externally applied tetraethylammonium ions produce calcium-dependent
action potentials in an insect motoneurone cell body. J. Physiol. 291:
327-337.に依りますと、この変化は、細胞内 Ca2+ の濃度の変化で規定される可能
性がありますので、これを Rohn-Beard の細胞でテストできないかと考えていま
す。この最後のゴキブリの運動ニューロンは、正常では活動電位がなく、その
axon を 切 る と 活 動 電 位 を 出 す よ う に な り ま す (Pitman R.M. J. Physiol.
247:511-520, 1975)。同じ様な例は、蛙の slow muscle でも見られ、この筋肉
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Chapel Hill からの手紙
は、正常では活動電位がなく、その支配神経を切ると活動電位を出します。こ
れに関する最初の論文は、Miledi, R., Stefani, E. & Steinbach, A.B. (1971).
J. Physiol. 217: 737-754.で、一番最近のペーパーは Schmidt, H. & Stefani,
E. (1977). J. Physiol. 270: 507-517.です。この筋肉を伝導の早い神経で再
支配させても、活動電位は消失しないとなっていますが、これは、もう少し詳
しく調べる必要があります。蛙のリンパ心臓は、完全に slow muscle だけでで
きていますから (Del Castillo & Sanchez (1961). J. cell. Comp. Physiol. 57:
29-45 及び Obara (1962). Jap. J. Physiol. 12: 161-175) 、これを使って、
調べたいと思います。
之等が主なプロジェクトですが、僕のところでは、同時にいくつもの実験を
平行して行い、まとまりそうになる見通しがつけば、その実験は週に一回だけ
にして、他のパイロット実験をするようにしています。之等の実験を八尾君と
矢田君と僕と三人で平行して行っても良いし、自分の主にする実験をお二人で
区別しても良いし、それは、君たち二人で話し合って下さい。この次は一月下
旬に帰りますが、それまでに、又、もう少し具体的な実験プランを送りたいと
思います。
十月二十三日
久野 宗
当時の資料が残っていないので、どんな返事を出したのか定かでない。J.R.
Platt の”Strong Inference”については、生理学雑誌(61 巻 6 号、1999)にその
印象と訳文を載せたので、ここではふれない。さっそく、土屋さんを中心にし
て From Neuron to Brain の読書会が始まった。スタートしたときの他のメンバ
ーは私と矢田さんと姜さんだったように記憶している。たいてい近くの中華料
理店のパーロ(八路)で夕食をとったあとに開いたので、Dinner Seminar of
Physiology 略して DSP と名付けた。膜生理に関しては土屋さんがいろいろと教
えてくれたが、その他については、誰もが手探りだった。膜電位固定の原理が
わからないので、いろいろな本を参考にしながら、延々と議論したことをおぼ
えている。いったん理解したように思っても自信がなく、膜電位固定を完全に
理解したのは、この手法を使った実験を自分自身で行ったときだった。
次の手紙は、11 月 26 日の日付で詳細な研究計画書と一緒に届いた。
八尾様、矢田様
末梢神経切断後の再生に関する実験計画の概要を書きましたので同封します。
実験計画が可成り長くて、これだけ日本語で手書きするのは大変ですので英文
タイプにしましたが御了承下さい。このプロジェクトは少し長くかかりますが、
毎日費やす時間は一時間足らずですから、このプロジェクトを long-term の主
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Chapel Hill からの手紙
な研究として、他の実験と平行させ度いと思います。しかし、このプロジェク
トが実際に可能かどうかはできるだけ早くテストしなければなりませんので、
p.4 – p.5 に書きました feasibility test を少しでも一月下旬に帰りましたと
きに始め度いと思います。ラットの無菌手術は厳密にする必要はありませんか
ら、器具のシャフツ、手術グローヴス、アンチバイオティクス、無菌ガーゼだ
けで充分と思います。そのときまでに実験の準備をしておいて戴ければ幸に思
います。もしご質問があれば、何時でもお手紙下さい。一月に帰りますまでに、
もう一つか二つ他の実験計画を書いて送るつもりです。十月下旬に書いた手紙
は着きましたか。時間がありましたら、ぼつぼつ関係のあるペーパーを読み始
めて下さい。教室の方によろしくお伝え下さい。一月は東京での神経科学の会
に出席して、京都には二十八日に参ります。
十一月二十六日
久野 宗
八尾様
お手紙有り難うございました。広く文献を読んで、色々と面白い方向の考え
を持って居られることを知り嬉しく思いました。全体の方向としては、僕の興
味も、八尾君のお考えとほぼ同じと思います。ただ、全体の研究方向というの
は誰にとっても、はっきり define することが難しいので、その中から具体的に
specific な問題を testable question で表現する必要があります。しかし、こ
れは、今後、一緒に仕事を始めたときに、何回か discussion を繰り返している
間に、自然にその形になるでしょうから、特に心配される必要はないと思いま
す。大切な事は、どんな研究分野でも、提起した question に対して、はっきり
YES か NO かの解答が得られるように実験をデザインすることと、どの分野でも、
なるべく早く国際的なレベルでリーダーシップをとることと思います。後者は
名声を博するという事ではなく、そのことによって、自分の仕事に対する
driving force を高める点で意味があります。
行動学に対する興味はよく解りますが、問題を Behavior pattern とすると、
観察するクライテリアが複雑になりますので、実際の仕事としては、可成り困
難になります。Kandel の Gill-withdrawal reflex を使った仕事は、この点、細
胞レベルでとてもたくみに行われた実験ですが、これと反対に、無数の無意味
に終わった実験のことを十分に知っておく必要があります。
Metamorphosis にともなう Neurogenesis は僕もとても関心を持っていますし、
それに関してホルモンの神経系に対する影響は何時かしてみたい仕事の一つで
すが、今まだ、僕のホルモンに関する知識がほとんどゼロですのでどうにもな
りません。バッタの発生時のニューロンの変化は、数ヶ月前 Nature で Spitzer,
Goodman 等のペーパーを読み、僕もとても印象深く思いました。発生時に一つの
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Chapel Hill からの手紙
細胞を殺して、ニューロンの development にどのような変化が見られるか調べ
たら面白いかと思っています。
先日送りましたラットの実験と平行して、Cockroach の神経再生実験を行って
はと言うご意見には大賛成です。この間、一寸触れましたように Cockroach の
depressor muscle は、切断神経の再生のときにも、同じ運動神経によって再支
配されますから specificity がより高度なわけで、実験としては、特に面白い
かと思います。同封した Review は、この問題に関してもとても参考になると思
います。(中略)
この次送る予定にしてました研究計画は、Cockroach の giant axon の切断端
(Growth cone)の電気生理で、このプロジェクトは、十月に送りました手紙に一
寸書きましたが、その後、Neuroscience meeting に行きましたら、全く同じ実
験報告がありましたので、その抄録を同封します。ただこの報告では、切断後、
三日ほどまでしか記録してませんので、同じ実験を一週間以上経てから行いた
いと思います。その頃には再生神経が Growth 始めますから、そのときに岡田君
土屋君等が見て居られる膜電位のオッシレーションが現れるのではないかと思
いますが、又、矢田君とも充分話し合って下さい。
紫外線の Clean Box は、アイソトープ室の奥にあるフードを使おうと考えて
います。フードの内部を少しきれいにして(もし必要なら塗り変えて)、その
中に紫外線ランプをつるし、ラットの場合は、同時に保温すればよいと思いま
す。もし出来る様でしたら、そのように改造を進めて戴ければ幸いです。
八尾君のお手紙に全部ご返事は出来ませんが、一月にゆっくり充分お話しす
るのを楽しみにしています。教室の皆様によろしくお伝え下さい。
十二月十一日
久野 宗
八尾様
お手紙有難う御座居ました。実験のことが、準備のことで、段々、具体的な
話になってきたので、僕の方も、期待と不安で、何となくそわそわした気分に
なっています。一応、仕事の方は、①ラットの後肢の神経の再生②Cockroach の
足の神経の再生③Cockroach の再生神経端(Growth tip)の電気生理の三つを平行
させながら始めたいと思います。カブト虫の件は、 Cockroach の実験で何か
serious なトラブルがあれば、考慮に入れても好いと思いますが、新しい動物を
開拓するのは、可成り時間がかかりますし、他の研究所の結果を使えるという
点で(或いは、こちらから結果を提供するいう点で)、出来るだけ一般に使わ
れている動物を使う方が有利かと思います。手術器具は、microsurgery 用のも
の(眼科用ハサミ・ピンセット等)は、少し持って帰る様にしますから、大き
なハサミ・ピンセット、消耗品(滅菌ガーゼ・シャーレなど)を用意しておい
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Chapel Hill からの手紙
て戴ければ幸いです。それからラット(20 匹ほど—200∼250 gr の体重)と出
来れば cockroach(手に入りますか?)を見つけておいて下さい。僕も、ラット
や cockroach で実験するのは初めてですので、皆で一緒に暗中モサクしなけれ
ばなりません。一番問題になるのは、semi-in-vivo の標本でどのように滅菌す
るかという事です。確かに、八尾さんが言われたように、RI 室のフードは流し
にくっついていて、操作に不便かと思います。僕がバク然と考えていたのは、
手術した動物をここに(フードの中)入れようと思っていたのですが、それだ
けでは不十分かも知れません。ラットは(たぶん Cockroach も)、雑な消毒器
具でも殆ど、infection を起こしませんし、手術した動物の体を全体無菌ガーゼ
で包んでおけば、神経を dish に導いてもコンタミは起こらないだろうと思いま
すが、これはやってみなければ分かりません。Falcon dish の大きさは、直径
35 mm ので充分と思います。無菌動物というのは、僕は全然知りませんから、今
度帰ったときに又、うかがいます。Clean Box は、あまり高くなければ、兎に角
買っておいても無駄にはならないでしょうから、荒木さんに訊ねて、その分の
お金がある様でしたら注文しておいて下さい。色々の機械を買う時、消耗品や
手術器具の備用も請求しておきましたから、少しぐらい無駄になっても、之は
いずれ必要になるだろうと思われるものがあれば、注文してください。では又、
一月にお目にかかるのを楽しみにしています。皆様によろしく。
良いお正月をお迎え下さい。
十二月二十九日
久野 宗
(追記)僕はまだ読んでいませんが、Levi-Montalcini のペーパー(Arch. Italian
Biology 109:307, 1971)読まれましたか?之は、ウチの大学にないので今ヨソ
に頼んでいるところです。
第4章
プレアンプ、オッシロスコープなどの真新しい機器が続々と実験室に運び込
まれた。深尾さんがアングルで立派なシールドルームを建て上げた。実験を始
める準備が着々と進んでいた。しかし、問題が一つ残されていた。ゴキブリで
ある。久野先生が来られるまで1ヶ月を切っている。ゴキブリをどうやって調
達すればよいのだろう。文献的にはワモンゴキブリ Periplaneta Americana が
用いられているらしい。コロキウム室を徘徊するクロゴキブリでは実験材料に
ならない。農学部でゴキブリを研究に使っているらしいということを教えてく
れる人がいた。自転車を走らせて、農薬研究施設を訪ねた。いたいた、ワモン
ゴキブリ、クロゴキブリ、ヤマトゴキブリ、チャバネゴキブリ…さまざまなゴ
キブリが飼育されていた。ワモンゴキブリの成虫を雌雄あわせて 2-30 匹と、卵
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Chapel Hill からの手紙
を分けていただいた。ゴキブリの飼育法と繁殖法についても親切に教えていた
だいた。
さっそく研究室にゴキブリの飼育設備を整えた。古いドラフトの中に深尾さ
んが棚をこしらえてくれた。粗大ゴミから拾ってきた電気ごたつのヒーターを
入れ、サーモスタットと接続して、フードの中の温度が 37o C に保たれるように
した。深尾さんのアイディアでゴキブリにはもったいないくらいのりっぱな飼
育ケージもできた。プロの技術者のすばらしさを認識したものである。卵の方
は、いつ生まれるかと心待ちにしていたのを思い出す。
農学部の図書館へ行っては、ゴキブリについてのいろいろな文献を調べた。
どのような種類がいるのか、それらの生態は?属名の Periplaneta は、peri(あ
まねく)と planet(惑星)から作られており、あまねく地球に存在している意
を表していることなど、雑学も詰め込んだ。最も重要なのは、解剖学である。
神経系がどのような構造をしているのか、これから研究に使おうとしている
giant axon はどこにあるのか、さらにその微細構造はどうなっているのか。あ
るいは、ゴキブリの体液の組成はどのようになっているのか。摘出神経を還流
する電解質液はどのような組成になっているのか。
準備は万端整った。久野先生が来た。わずか1週間の滞在である。どこまで
研究を立ち上げられるだろうか。ここでも矢田さんが助けてくれた。機器のセ
ットアップ、BNC ケーブルなどの作製、結線、すべてが初めての経験であり、マ
ニュアルとくびっぴきであったが、彼の協力で順調に進んだ。岡田さんの研究
に参加していたときに電気生理の経験があったが、それぞれの機器の役割や操
作法などについて原理から理解できたのは、このときが初めてだった。ガラス
管微小電極の作製については、岡田さんや土屋さんから教わっていたことが役
に立った。
いよいよゴキブリを俎上にのせて、giant axon の走っている腹部神経を取り
出す段になった。かねて用意の炭酸ガスで麻酔をかけた。ビンの中でゴキブリ
はひとしきり暴れ、動かなくなった。文献通りである。腹部を上にして、クチ
クラ(節足動物の外皮、殻)を切り、開腹した。白い塊が出てきた。脂肪組織
である。ぜん動しながら消化管が出てきた。これらを取り除くと、背側のクチ
クラの裏中央部に細長い組織が出てきた。これを摘出してみたが、どう見ても
腹部神経とは異なっている。文献と照らし合わせてみると、摘出したのは心臓
らしい。腹部神経は、腹側のクチクラにくっつくように走っているので、最初
の段階で破壊してしまったようだ。今度は、背側からアプローチした。消化管
を取り除き、昆虫電解質液で洗うと、脂肪組織に囲まれた腹部神経が浮かび上
がった。「これだ、これだ。これに間違いない。」今まで、文献で何度となく
眺めて、頭の中で想像してきたものである。初めて見たにも関わらず、懐かし
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Chapel Hill からの手紙
いものに出会ったような気持ちがした。実体顕微鏡の下で摘出神経を見ると、
その中を走る giant axon がぼんやりと見えた。
続いて、giant axon にガラス管微小電極を挿入してみようということになっ
た。腹部神経の末梢部に刺激電極をセットし、ガラス管微小電極をマニピュレ
ータに取り付けた。実体顕微鏡下に giant axon をねらって電極を進めていくと、
サウンドモニターの音が変わり、オッシロスコープのビームが下へふれた。わ
れわれ3人は「おおっ」とどよめいた。静止膜電位である。大きさは約-70 mV
である。アイソレータを ON にして、刺激電圧を強めていくと、活動電位が現れ
た。大きさ約 120 mV の立派な活動電位である。オッシロスコープに映し出され
る活動電位は、数学的な美しさを持っていた。突然、久野先生が手を差し出し
てきた。私と矢田さんは、彼と固く握手をし、実験の成功に酔いしれた。「佐々
木さんに見せよう。」彼はこう言って脳研の佐々木さんを呼びに出ていった。
彼らを待っている間も、オッシロスコープは、同じ大きさ、同じ形の活動電位
を映し出していた。私は、これをながめながら、文献でしか知らない世界のト
ップレベルの研究者と、いまや同じスタートラインに立ったことを実感した。
久野先生が本格的に赴任されたのは、その年の夏である。それまでは、再び、
手紙のやりとりで実験を進めた。静止膜電位や活動電位がなかなかうまくとれ
ずに悩んでいたとき、姜さんが「古いゴキブリを使っているのではないか。ネ
コでも若い元気なオスでないとデータが取れない」とアドバイスしてくれた。
確かに、のろのろとした年とったメスを使っていた。その方が捕まえやすかっ
たからである。羽根のまったく痛んでいない若い美しいオスを使うと、脂肪組
織も少なく腹部神経の取り出しが容易だった。そして、深い静止膜電位と大き
な活動電位が簡単にとれた。データが取れだしたのである。オッシロスコープ
の画面をフィルムに撮影した。現像と焼き増しの技術は、遠藤さんに教わった。
こうして、静止膜電位、活動電位、後過分極電位などの大きさを数値化した。
データに写真を添えて久野先生に送り、ディスカッションをした。矢田さん、
岡田さん、土屋さん、いろいろな人とディスカッションをしたり、技術的なア
ドバイスをもらった。ある日は、同窓生の野々村君がぶらりとやってきて、彼
が外科で教わったハサミの持ち方や縫合糸の結び方を教えてくれた。こうして、
いくつものノウハウが蓄えられていった。私は一人で実験していたけれども、
周囲に支えられて、孤独ではなかった。Chapel Hill から送られてくる手紙は、
私を励まし、進むべき道を照らし出してくれた。夏が来たとき、私は、駆け出
しの研究者としての自信と意欲に溢れていた。
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