ラグビー本文 (Page 1)

部長挨拶
三菱自動車水島ラグビー部 部長
菊池桂吾郎
水島ラグビー部創部60周年にあたり、長年にわたって私どもをご指導・ご支援して頂
いた後援会ならびにOBの皆様にラグビー部を代表して心から御礼申し上げます。
2004年7月から当時ラグビー部長の小田副所長(現水菱プラスチック社長)よりラグ
ビー部長を引き受けました。
私自身、1978年入社以来現役から部長までの28年を社会人で、学生時代を含めると35
年ラグビー人生を歩むことができ多くの人達と出会え、多くの事を学び得た事に心から
感謝致します。
当時を振り返りますと、大学卒業後も社会人でラグビーを続けたい気持ちの中、三菱
自工水島より話があり入社いたしましたが、いざ入社し水島ラグビー部をみて大変驚き
ました。同期入社で大卒4人、高卒20人ほどで現役選手との入れ替え時期でもあり先行
きどうなるのかという気持ちでいっぱいでした。しかし中国地区の社会人チームは東洋
工業(現マツダ)の一人舞台で全国社会人大会の中国代表常連となっておりました。
ラグビーは決して楽で楽しいスポーツではありません。又犠牲にするものも数多くあ
りますが、それを喜びに変えるのは“勝つことのみ”。それを部員に浸透させ日々厳し
い練習を行った結果、1979年80年と連続で宮崎、栃木国体に全広島を破り出場したこと
ができ、徐々に勝つことの喜び・楽しさが部員にも伝わってきました。
しかし全国社会人ラグビー大会では第15回(1963年)に初出場し、第16回・第17回・
第18回と連続出場。第20回大会出場以降、東洋工業(現マツダ)に出場権を奪われ続け
ました。
入社4年目の1982年中国代表決定戦対東洋工業戦では、試合終了寸前までリードをし
ていましたがロスタイムに逆転のトライを奪われ出場を逃したこの悔しさは、今でも私
を含め当時現役選手にとって忘れられない対戦となっています。しかしその悔しさをバ
ネに翌年(1983年)の対日新製鋼戦には完勝し、15年振りの全国大会のキップを手にい
れました。
その後、西日本社会人リーグに加盟するチームは大学生・外人の有力選手を補強し格
段に飛躍する戦力に対して遅れをとり、国体・全国大会からも遠ざかっております。
ラグビー界も大きな変革の時代となり、2003年度よりトップリーグ制となり現在は、
トップ九州リーグAに加盟し上位3位を目指しトップチャレンジの進出に頑張っていると
ころです。しかし、経済環境が大きく変化している今、三菱自動車も例外ではありません。
この厳しい環境の中、諸先輩が築きあげてこられた60年の伝統を継続し更に発展させる
のが我々の使命と思っております。
今シーズンはトップ九州リーグ上位3位の“勝利の冠を勝ち取るまで、ラグビー戦士
となり、雄雄しく激しく戦かう”ことを一人ひとりが肝に命じ取組む所存です。
長年にわたってご支援頂いた後援会・OB・職場の皆様へ、ラグビーを通して勇気と
感動を与えられるよう努力してまいりますので引き続き皆様のご支援、ご協力をお願い
致します。
三菱自動車水島ラグビー部60周年に寄せて
全三菱ラグビー倶楽部 部長
鈴木元雄
三菱自動車水島ラグビー部創立60周年を心からお祝い申し上げます。貴部の60年にわ
たるご活躍とご功績に対し深い敬意を表します。
私自身、重工名古屋から始まって自工京都、自工岡崎の各ラグビー部に所属し、貴部
とは長年にわたって良きライバルとして競い合ってきました。貴部は、戦後、当時の養
成工を主体としてチームの基礎を築かれ、その勇猛果敢なプレーぶりは相手チームにと
って脅威の的となっていました。そしてこの60年の間に着実に躍進を遂げられ、三菱内
にとどまらず、社会人ラグビーの発展にも大きく寄与されました。
ところで、日本のラグビー界はこの間に著しい変貌を遂げてきましたが、とりわけ、
これまで社会人ラグビーの発展を支えてきた各企業チームは今や大きな転換期を迎えて
おります。各企業は、経営環境の厳しさに加え、チーム強化のための費用も年を追う毎
に増加し、トップレベルを目指すには経済的負担に耐えることが難しくなってきています。
各企業にとっては、部活動の意義を従業員の福利厚生や職場の活性化だけに求めるとい
う従来の考え方では済まない時代になってきております。一方、各プレーヤーも、価値
観やライフスタイルが変化してきたこともあって、会社業務との両立の問題や各自の生
活設計に対する犠牲など、悩みが大きくなっていることも無視できません。
このような厳しい環境は水島ラグビー部も例外ではなく、現役の諸君は今までにない
試練の時を迎えておられることと思います。企業にとっても各プレーヤーにとっても、
今が変革の正念場であります。従来の延長線ではなく、新しい発想のもと、チームに与
えられた課題を一つ一つ全員で解決し乗り越えていくことが必要です。諸先輩が築いて
こられた60年の歴史の重みをよく噛み締めて、水島の伝統を更に発展させていってく
ださい。
やるからには、もう一つのステップアップが期待されています。選手一人一人がラグ
ビーを真にエンジョイしながら切磋琢磨してチーム力を向上させていくこと、また、そ
の活動が企業にとっても有意義なことが企業ラグビーの基本であります。
今後、貴部にとって最良の道に向けて新時代に合った研鑚を積まれ、更なる発展を遂
げられるよう心から祈念しております。ひいては、全三菱ラグビー倶楽部でのリーディ
ングチームとしてご活躍されんことを切に期待しています。
お祝いの言葉
後援会会長
一宮堅次
この度、創部60周年を迎えられ、誠におめでとうございます。
企業ラグビー部として、60年もの永い間活躍しながら存続してきましたことは、並大
抵の苦労や努力では達成し得ない快挙であり、60年前の1946年創部にご尽力された諸先
輩と、誇り高い伝統をしっかり受け継いでこられた諸先輩に対し、心から敬意を表します。
今より遡ること61年前、1945年に日本は敗戦し、日本に進駐した連合国軍総司令部
(GHQ)の民主化の指令のもと、戦犯の逮捕、政治犯の釈放、治安維持法の廃止、財閥解
体などが実施されました。日本伝統のスポーツである武道(柔道・剣道・弓道など)の
授業やチャンバラ映画が禁止されたのもこの年です。
その後、日本は敗戦の廃墟から奇跡の復興を遂げるわけですが、何もない、全てがゼ
ロから再出発に等しい時代、そんな真っ只中で、水島ラグビー部が産声をあげました。
ですから、三菱自工水島ラグビー部の歴史は、日本の戦後の歩みとともに今日まで刻ま
れてまいりました。今あらためまして、60年という歴史の重さを感じざるを得ませんし、
それに関わりし諸先輩に感謝感謝の気持ちでいっぱいです。
そこで、現役のスタッフ&選手諸君!!あなたがたは歴史あるとんでもなく凄いクラ
ブに所属しているわけで、このことをいつも肝に命じ、益々活躍されんことを切に希望
します。
私ども後援会もより一層のバックアップ態勢で応援します。ともに一致団結して、こ
れからもすばらしい歴史の一齣(ひとこま)一齣を刻んでまいりましょう。 お祝いの言葉
後援会副会長
石黒和之
三菱自動車水島ラグビー部創部60周年誠におめでとうございます。心よりお慶び申し
上げます。
創部以来60年の歴史は、ラグビーに情熱を掛けて、ここまで育ててこられた歴代幹部
の皆さん、部の礎を築いてこられた先輩の方々、そして一生懸命プレーする現役部員の
みなさんの熱い想いが綴られた歴史であります。
日頃から仕事が始まる前の朝靄の中で、また仕事を終えた後のナイター照明の中で、
一心不乱に練習を続ける部員の方々のラグビーに対する真摯な姿勢には敬意を表します。
この60周年を機に更に大きく飛躍されると期待しています。
私ども後援会は、従来にも増して支援・応援体制を充実させていく考えであります。
是非、多くの声援の中で試合をしていただき、部員の皆さんとともに勝利の美酒を分か
ち合うことを楽しみにしています。
チームの勝利のため、応援する多くの人々のために、 三菱自動車水島ラグビー部の今
後のご活躍を祈念いたします。
部長
菊池 桂吾郎
(明治大・51)
監督
須之内 浩司
(明治大・39)
主務
山崎 謙悟
(福島大・38)
副務
岩永 大造
(早稲田大・35)
(法政大・31)
BKコーチ兼選手/FB
南野 圭吾
主 将/SH
段上 和英
トレーナー
薬師寺 智子
ヘッドコーチ兼選手/LO
新海 武生
FMコーチ兼選手/LO
吉永 徳光
(武庫川女子短大・39)
(松山聖陵高・32)
(萩工業高・32)
(中京大・32)
PR
中村 雄一郎
PR
丸山 卓也
副 将/FL
松原 祐一
副 将/WTB
中野 裕士
(摂南大・25)
(天理大・23)
(明治大・31)
(摂南大・25)
PR
池田 章
HO
上板 弘和
HO
行徳 雄一
HO
小野 瑛士
(江の川高・27)
LO
高山 良久
(第一経済大・27)
(九州共立大・25)
(福岡工大城東高・18)
LO
菅野 優
LO
星野 幸喜
(摂南大・24)
(名城大・22)
BKコーチ
山内 健二
(日本文理大学付属高・18)
LO
宮川 賢太
(日本文理大学付属高・18)
(関東学院大・26)
PR
越智 敦史
(松山聖陵・18)
LO
徳岡 和志
(明治大・30)
FL
小野 知裕
(萩工業高・32)
FL
百武 大二
(東海大・23)
NO.8
西本 貴則
(福岡工業大・25)
CTB
岩熊 優明
(佐賀工業高・20)
WTB
尾原 隆一
(倉敷工業高・20)
FL
大森 強吾
(松山聖陵高・21)
SH
酒井 優
(佐賀工業高・20)
CTB
下谷 一平
(津山工業・18)
CTB
浦丸 英斗
(佐賀工業高・19)
FL
北島 領人
(天理親里高・20)
SO
木村 敏夫
(福山工業高・27)
WTB
鹿嶋 浩司
(米子北高・28)
WTB
宮原 卓也
(佐賀工業高・19)
FL
黒木 勇輔
(佐賀工業・19)
SO
永田 真宏
(日体大・25)
WTB
丸谷 仁志
(江の川高・25)
WTB
中山 徹也
(佐賀工業高・18)
NO.8
白神 武央
(倉敷工業高・18)
CTB
宮崎 浩史
(第一経済大・27)
WTB
板東 俊之
(摂南大・25)
三菱自動車水島ラグビー部 60年のあゆみ
年 月
出 来 事
対戦相手
1946年 1月
3月
1948年 3月
1950年 2月
3月
1963年 1月
10月
1964年 1月
1965年 1月
1966年 1月
1968年 1月
1978年 3月
9月
1979年 10月
1980年 10月
1983年 1月
1985年 3月
1986年 6月
1990年 12月
1991年 5月
6月
1994年 12月
1996年 4月
ラグビー部創部
初戦を飾る
中国都市対抗戦優勝
第1回新三菱四場所対抗出場
第1回全三菱東西対抗出場
第15回全国社会人大会
第18回山口国体出場
第16回全国社会人大会出場
第17回全国社会人大会出場
第18回全国社会人大会出場
第20回全国社会人大会出場
全三菱対全明大戦出場
西日本リーグに加盟
第34回宮崎国体出場
第35回栃木国体出場
第35回全国社会人大会出場
日豪親善ゲーム開催
創部40周年記念レセプション開催
第45回福岡国体出場
初の海外遠征(台湾)
創部45周年記念レセプション開催
西日本Bリーグ優勝、Aリーグ昇格
ニュージーランド遠征
6月
1997年 12月
2003年
2004年
2005年 10月
創部50周年記念レセプション開催
西日本Bリーグ優勝、Aリーグ再昇格
スーパーリーグウエストAリーグへ移行
トップキュウシュウAリ−グへ移行
第60回岡山国体出場
歴代部長
氏 名
初代
2代
3代
4代
5代
6代
7代
8代
9代
10代
11代
12代
13代
14代
15代
16代
藤田 佐一郎
園部 司
上村 正直
佐々木 三郎
水谷 定
國田 正行
中野 昌朗
野崎 春夫
横川 文一
藤本 典史
堀野 勲
平 邦昭
岡本 彬
小田 賢治
落知 真人
菊池 桂吾郎
在 任 期 間
1946
1950
1955
1957
1969
1973
1975
1981
1983
1991
1993
1995
1998
2000
2001
2002
.4 ∼1950 .5
.5 ∼1955 .5
.5 ∼1957 .6
.6 ∼1969 .3
.3 ∼1973 .5
.5 ∼1975 .4
.4 ∼1981 .1
.1 ∼1983 .4
.4 ∼1991 .4
.4 ∼1993 .7
.7 ∼1995 . 12
. 12 ∼1998 .6
.6 ∼2000 .6
.6 ∼2001 .6
.6 ∼2002 .6
.7 ∼ .
岡山クラブ
県営G
京都市役所
三井精機
帯広自衛隊
八幡製鉄
東京三洋
栗田工業
秩父宮
宇部市営
花園
秩父宮
花園
花園
県営G
全宮崎
全新潟、全秋田
東芝府中
MMAL
都城
足利
国立
水製G
アイビースクエア
全静岡
全台湾、巨人クラブ
氏 名
水谷 定
窪津 一男
大平 次郎
菊池 桂吾郎
荒木 博和
牧 正男
須之内 浩司
オークランド、
ウエリントン
水島国際ホテル
全秋田
美作
歴代主将
在任期間
氏 名
・・・
・・・
・・・
・・・∼ 1995
1996 ∼ 1998
1999 ∼ 2004
2005 ∼
三谷 次男
佐々木 正純
板野 勝義
斎藤 功
和木 和則
栗坂 敏春
森下 和彦
小田 賢治
田中 睦人
森下 和彦
大平 次郎
菊池 桂吾郎
山本 貫二
鷲尾 悦治
村本 和典
須之内 浩司
岩永 大造
西浜 宏晃
田中 義之
新海 武生
南野 圭吾
中村 努
段上 和英
外国人選手
杜 招利
荘 國貞
周 金雄
デール・ライト
ブランドン・ジャクソン
トレバー・ブラッケン
ジェイソン・ヘイウッド
スティーブ・エリック
台北台南
水製G
オークランドユニバーシティクラブ、
ヴィクトリア大学
歴代監督
氏 名
場 所
出 身
在任期間
台湾
台湾
台湾
NZ
NZ
NZ
NZ
NZ
・・・∼ 1994
・・・∼ 1993
・・・
1994 ∼ 1998
1996 ∼ 1999
1994 ∼ 1997
1996 ∼ 2001
2000 ∼ 2002
在任期間
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
・・・
1989
1990
1991 ∼
1995
1996 ∼
1999 ∼
2001 ∼
2002 ∼
2004 ∼
2006
1994
1998
2000
2003
2005
●創部60周年に思う
第5代部長 水谷
定(1969.3∼1973.5)
水島ラグビー部、創部60周年おめでとうござい
ます。
全世界的に見ても、60年を超えるチームは、そ
んなに数あるものとは思えませんので、皆さん大
きく胸を張って誇りに思って下さい! 又、私個
人としても、創部にかかわった者の1人として大
変嬉しく、ずっと伝統を守って来られた後輩の皆
さん方に、有難うご苦労さんでした。と、肩を叩
きたいと思います。その間、ずっと強くあって欲
しいのは当然ですが、栄枯盛衰は、時の流れです。
昭和21( 1946)年 創部当時、
グラウンドにて
昭和25( 1950)年 創部当時、
中央が藤田部長
昭和28( 1953)年 記念写真
昭和25年 試合前の記念写真(藤田部長送別試合)
昭和29( 1954)年 練習風景
昭和25年 園部部長を囲んで記念写真
昭和30( 1955)年頃
昭和25年 京都と水島の定期戦にて
そんな事よりも、楽しくラグビーを仲間と一緒にやれる楽しみと喜びを満喫して下さい!
ラグビーは決して楽な楽しいスポーツではありません。この間の日本選手権のドロンコ試合がそれを表し
ています。あの泥臭さとまじめさが、ラグビーの真骨頂だと思います。常に前へ、まじめに低く、ただただ
低く、敵を倒しても未だ低く!です。皆さんが長くラグビーをやって来られた間には、それぞれに楽しい、
悲しい数々の思い出があるでしょう。ひとりにひとつずつ、そして数多くの思い出がある筈です。ラグビー
をやる為に犠牲にした
ものも沢山あった事で
しょう。しかし、その
お陰で、今のあなたの
ラグビーの思い出があ
るわけでして、こんな
に楽しい誇りに満ちた
思い出というものは仲々
得難いものの筈(はず)
です。
昭和31( 1956)年頃
昭和35( 1960)年 千場所対抗
昭和35年 三菱商事との試合前の記念写真
昭和35年 国体中国予選にて
於宇部競技場
昭和36( 1961)年 練習後
岡山の奥市のグランド横の茶店の水道で寒い中頭
を洗った事。遠征で行った道後温泉とか湯田中温泉
とか、実業団の決勝で対戦した京福電鉄の元日本代
表選手だった川越さんの見事なステップ! これは
プレーするのも忘れて見ほれる位キレイにステップ
を踏まれました。
永年のライバルの岡山鉄道管理局との勝負。頭を
打って、これ位で済むのなら、これからは思い切っ
てタックルに行きますと言った彼。球の出しがタイ
ミング良くリターンパスが決まって、ニコッと笑顔
を見せた彼。足が折れてるのに気づかずノーサイド
迄走りまくった彼。緊張するのか、試合前に大きい
方のトイレへ必ず行った彼。俺ばかりトライするの
戦後、ラグビーを始めて第1戦を雨の中で勝った
は気が引ける! と大事な所でノックオンした彼。
時の笛を吹かれた副所長の森?田ライオンの顔と、
そら! 行くぞ! と見る者全員が思っているのに
食べたぜんざいの味は共に忘れられません。部員を
何時も同じ事をした突貫小僧。タックルしても止め
集めるのに苦労して、養成工の学科を練習後に教え
られなかった日本一の近鉄。
る日々が続いたり、苦労して集めたシューズの材料
試合が中止になったので、ライバルや高校生が見
の皮を靴ブローカーにだまし取られて、マネージャ
守る満員の県営ラグビー場で存分に猛練習をやって
ーが奈良の田舎の村まで交渉に行って逃げて帰った事。 見せて気分良かった全盛期。重工4場所対抗で優勝
少ない部費の中でいかに金を貯めるかと遠征先は木
したり。と、この年になっても未だ時々昔を思い出
賃宿を地元協会に頼んで泊まった事。
して夢を見ております。
ラグビーを続けていると色々な悪条件が重なって、仕事も友人も家庭も困ったことが起こるものです。し
かし、貴方は人一倍ラグビーに励んでいるわけで、その結果から得られるものは何事にも変え難い! 大切
なものを長い目で見れば、神様が与えて下さる事でしょう。
人間、継続です。ひたむきな努力です。お互い健康に留意して頑張りましょう!
!
水島ラグビー部万歳!
!
!
●祝 創部60周年 第6代部長 國田 正行(1973.5∼1975.4)
戦後いち早く、食べる物にも事欠く廃墟のなからラグビー部を創部された諸先輩に心から敬意を表します。
以来60年、連綿として創部時代の精神を受け継いで来られたその時々の諸先輩にも感謝しなければなりま
せん。
私のラグビー部との初のかかわりは先任ラグビー部長の水谷さんがご栄転になり、岡山駅までお見送りし
ました際、駅頭でラグビー部長を仰せつかってからです。
当時、サッカー部長をしておりましたが、ラグビーのことはあまりよく知りませんでした。
結論は“知らないなら、勉強をしてやれ”というお話になりました。インスタントでピンチヒッターで宴
会部長でした。従って当時の現役の皆さんには大変に迷惑をかけたことと思います。
当時も車がよく売れて大変忙しい中を、部員の諸君は、西日本の雄としてよく頑張ってくれました。
それにしても良く金が続くなあ! と思っていましたら、金策担当部員は四苦八苦していたそうで後で嗜(た
しな)められたことがありました。
これからも、仕事は閑になる事はないでしょう。怪我をすることなく、元気で、楽しくやってくれること
を念願してやみません。
以上
昭和38年頃 初の全国社会人大会出場 秩父宮にて
昭和39( 1964)年 第16回全国社会人大会 花園にて
昭和40( 1965)年 第17回全国社会人大会 秩父宮にて
昭和41( 1966)年 第18回全国社会人大会の入場行進
対八幡製鉄との熱戦(グレート草津の顔も…)
昭和43( 1968)年 第20回全国社会人大会 花園にて
●創部時の思い出 第6代部長 中野 昌朗(1975.4∼1981.1)
私のラグビ−時代の事柄については、「全三菱ラグビー倶楽部75年のあゆみ」に同期の先輩水谷さん、自
工岡崎の春野君が書いておられるので、思いは重なりますが、戦後、物の無い昭和21年水谷先輩に拉致されて、
「ラグビーをやれ、ジャージとパンツは女子社員に頼んで作って貰っている。この靴に(人工皮革に合成ゴ
ム底)にポイントを自分で付けろ!」でラグビーの付き合いが始まった。
吉田先輩(戦前の経験者)に教わって皮をコイン状に切って3枚くらい重ねて釘で打ちつけた。これが大
変な事になった。試合が済むと殆ど落ちている。付け直す毎に煙草を1本取り上げられた。
水のような雑炊か南京一切れの昼食を済ますと、練習で他の従業員から馬鹿かと笑われた。痩せた私はす
ぐに体重が50kgを割ったものだ。また,運動場には金属片が散らかっていたり、当然石ころだらけで、体は
すり傷だらけだった。一方帆布製のパンツは無傷、しかしこの洗濯は大変で、風呂場で湯原の洗濯ダンスを
真似て足で踏んだ。
2度目かの試合でメンバーが足りず、サッカー部の人に応援して貰い、広島までの列車の中で、ルールブ
ックを広げて俄か勉強をした。国体等公式試合には、
出張費に社費が出たので、旅費を浮かせたり、闇米
を運んで儲(もう)けて部費の足しにし、ジャージ
も買った。しかし靴は個人もちで部費での月賦払い
としたが、給料が欠配する時代で、部員からの集金
が大変であった。
しかし、どこか楽しく、独身時代は全くラグビー
漬けで、グラウンドは人生道場であり、多くの事を
学び、多くの知人を得たことに感謝している。
今は豊かになったが、ハングリーの中で育った水
昭和52( 1977)年 県リーグの熱戦
島ラグビー部が益々発展する事を祈っています。
昭和53( 1978)年 新人部員歓迎ゲーム
昭和53年 全三菱対全明大戦
昭和54年 第34回宮崎国体出場 試合前、宿舎にて
昭和54( 1979)年 対マツダ戦
昭和55年 菅平での夏合宿 朝練後、
ダボス前にて
昭和55( 1980)年 栃木国体 第35回試合
●創部60周年によせて
第8代部長 野崎
春夫(1981.1∼1983.4)
本年は水島ラグビー部創部60周年を迎えられます由、
本当におめでとうございます。
私も1945年に入社後、青葉寮時代に短期間ですが、
水谷先輩をはじめ皆様と砂漠の様なグランドで練習や
試合をしていた事があり、当時の事を懐かしく思い出
しております。
1981年より2年程ラグビー部長を拝命、何も出来ま
せんでしたが、選手の皆様の奮闘が実り1983年1月2日
中国代表として国立競技場に出場することが出来たのは、
大きな喜びでした。東芝府中に敗れましたが、あの時
の感激は今でも胸に深く刻まれております。
また、タイ赴任の時、横川部長をはじめ、故窪津、
園田、菊池、大平氏ほか40名の部員の方々のサイン入
りラグビーボールを贈って頂き、今も大切な宝物とし
て飾っています。
今後も皆様のご活躍のもと、水自ラグビー部が益々
発展される事を心より祈っております。
昭和58( 1983)年 さぁ出陣だ!第35回全国社会人大会(於 国立競技場)
昭和58年 第35回全国社会人大会(於 国立競技場)
昭和58年 第35回全国社会人大会の熱戦風景(於 国立競技場)
昭和60年 日豪親善ゲームにて 於 当初G
MMC三菱自工水島ラグビー部創部40周年記念 昭和61年6月7日
MMC三菱自工水島ラグビー部創部40周年記念 昭和61年6月7日
●創部60周年に寄せて 第10代部長 藤本 典史(1991.4∼1993.7)
日本のバブル絶頂期のころだったと記憶してますが、前任ラグビー部長より転任のため役目が果たせなく
なった、お前やってくれないか、と言われたとき、私はラグビー部の後援会をやってました、後援会といっ
ても組織してからまだ年数も浅く、その大きな目的である資金的サポートも、組織拡充の道半ばで、思うに
任せず悩んでいましたが、そこのところは後任にうまくやって発展させ、しっかりサポートしてくれよ、と
檄(げき)を飛ばしたつもりで、本体のほうに移ってきました。
部長の役目は、ラグビー部に必要な、優秀で将来性のある人材を内外を問わず確保すること、ラグビーに
協力的で配慮のある職場に配属してもらい、本人がラグビーに取り組みやすく計らうこと、活動に必要な資
金をうまく調達するための仕組みを強化すること、それに加え選手諸君のやる気を起こす動機づけなどなど
……と自分で思い込み、監督以下の皆さん方の意思を少しでも実現できればと思ってましたが、役員、選手
諸君の気持には遠く及ばなかった現実に、仕事とは違った世の中の面白さを味あわせてくれたと今ごろ感謝
しています。
当時、人材確保は役員の皆さんが、休みを利用し全国に飛び、眼をつけた選手を個別に口説いてくれるし、
会社のほうは仕事順調・人手不足の状態で、紹介すればほとんど採用といういい時代、優秀な選手を1チー
ムできるくらい採用した年もありました。しかし売り手市場の時代、“水島ってどこにあるの”といってな
かなか水島のほうに向いてくれない現実もありました。
活動資金の面では、後援会からのサポートもありましたが、部員のチェックオフの額は、コンピュータの
プログラム設定値の最高額、本人負担の多さに何とかならないかと思いましたが、名案は出ずじまい……。
試合には練習も含め、楽しみにして家内ともどもよくついてゆきました、岡山だけでなく、広島、山口、九
州などなど、年1回の夏の菅平での合宿にも何回か同行し、有名大学のクラブとの練習試合などなど色々な
思い出深い経験もいたしました。
当初、台湾よりの選手が2人参加してましたが、そのうちの1人が結婚することになり、家内ともども台湾
に招待を受け、台湾語でお祝いの挨拶をしたこと、三菱車の生産販売の関係者、台湾ラクビー協会の方々な
どから大変な歓迎を受け感激いたしました。
その後、仕事の関係で私自身が海外派遣となったため、後任にお任せしましたが、よその地で風の便りに
ラグビー部の活躍ぶりを聞くたび、喜んでおりました。
今ではもろもろの経験が楽しい思い出となっております、ラグビー部の今後ますますのご活躍を祈念いた
します。
平成2
(1990)年 対 山陽国策パルプ戦(於 倉敷G)
創部45周年記念ゲーム
(対三菱商事)
平成3
(1991)年6月9日
平成2年 国技日本リーグ 対 JR九州(於 倉敷)
平成3年 同左 OB戦
創部45周年記念ゲーム
(対三菱商事)
(於 当初G)平成3年6月9日
平成3年 初の海外遠征
全台南との熱戦風景(於 台南)
●創部60周年に寄せて 第11代部長 堀野 勲(1993.7∼1995.12)
この度は、ラグビー部創部60周年をお迎えになり、誠におめでとうございます。幾多の苦難を乗り越えら
れてのことであり、心からお慶び申し上げます。
ラグビーボールに触れたことも無い小生が、ご縁により、ラグビー部長を仰せつかったのは、1993年7月
∼95年11月でありました。その間で、一番嬉しい思いをさせて頂いたのは、1994年11月20日(日)であります。
この日は、酒津荘(現パークサイドヴィラ倉敷)を8:30発のバスで、福岡県の香椎に向かいました。試合
開始は、14:00のところ若干遅れて到着しました。相手は北九州コカコーラでした。レフリーが、相手贔屓(び
いき)の判定をしますのでいらいらしましたが、チームはなんと7トライを上げ、50対13で大勝しました。
この結果、念願のBリーグ優勝と来期のAリーグ昇格をほぼ手中にしました。ラグビー部の神様にして恩
人の水谷大先輩をはじめ、同行して頂いた多くのOBの皆様と、喜びを分かち合いました。帰りのバスは、
どなたもが勝利の余韻に浸ってか、静かでした。翌日、有西所長(当時)にご報告申し上げたところ、高校
時代にラグビーをしておられたこともあって、大いに喜んで下さいました。偶々(たまたま)、この時期に
水島ラグビー部にご縁がありましたことは、幸運であったと感謝致しております。
又、青春時代に、水谷師のご指導の下ラグビーにも精進を重ねられ、当時は各職場で、無くてはならぬ人
としてご活躍のラグビー部OBの皆様と知り合うことが出来ましたのも、有り難い事でした。
会社は、再生から再発展の軌道に乗りつつあります。水島ラグビー部も、創部60周年を期に一層の充実が
図られ、いつの日にかトップ・リーグで活躍されますようお祈り申し上げます。
平成6年 Aリーグ昇格(於 九州 香惟G)
平成7( 1995)年 三菱商事定期戦 (於福田公園)
平成8( 1996)年 50周年記念式典
平成6
(1994)年 Aリーグ昇格祝勝会
(トレバー&デール)
台湾 順益貿易招待試合 (当初G)
平成8年 50周年記念試合(対岡崎)
●ラグビーの想い出(60周年記念に寄せて)
第12代部長 平 邦昭(1995.12∼1998.6)
私が初めてラグビーを知ったのは、高校生のときであった。冬の体
育時間は身体を暖めるために柔道とサッカーとラグビーが主体であった。
柔道とラグビーは私にとって初めての体験であり、特にラグビーはル
ールも何も知らなかったので、なんだか新鮮な気持ちで運動場を走り
回ったことを覚えている。
それからしばらくラグビーからは遠ざかっていたが、水島製作所に
勤務していた時、水島ラグビー部員2名が同じ課に入ってきた。当時、
私は業務に集中していたので、試合の勝負には興味が無かった。しかし、
試合の負傷治療や入院で会社を休まれるのが一番こたえた。次にラグ
ビーと本格的に付き合ったのは、ラグビー部の部長になってからである。
事務系の副所長になる時、当時の堀野副所長と現水菱プラスチックの
小田社長にどうしても部長になれと強迫されて引き受けたのである。
部長を引き受けたからには、先ずラグビーの内容と水島ラグビー部の
実力を知らなければならないので勉強もし、調べもした。私の記憶に
NZ 遠征 対 ヴィクトリア大学
あるのは、当時スコア―が3桁:0で負けた試合が何と多かったことか! (於 ウエリントン アスレチックパーク)平成8年5月3日
選手に頼んだのは、平常心で日頃の実力を出すように「何としても3
点はとってくれ。0は恥じだ。0が続くならば頭を丸めてくれ。」で
あった。とは言ったものの即戦力が上がるわけでもなく、しばらくは
0の試合があり、歯軋りしたものであった。
ところで部長になったのは年末だったと思うが、年が明けると荒木
監督が言いにくそうに、次のように言って来た。
NZ 遠征 対 ユニバーシティクラブ
「本年は創部50周年になる。菊池前監督にも相談したが、部の実力
(於 オークランド)平成8年4月30日
をどうしても上げたい。幸いにもニュウジ―ランドの元オールブラッ
クスの選手であり現在プレーイングヘッドコーチのJasonもいるので、
ニュージーランドに遠征したい。元オールブラックスのコーチの教え
を乞い、実力をつけ西日本Aリーグに入りたい。遠征には1000万円必
要なので、是非集めてほしい。」
おいおいちょっと待ってくれ。部長になったばかりで、堀野さんに
NZ 遠征 イーデンパーク観光
も小田さんにも遠征のことなど一言も聞いていないよ。スコア0のチ
ームがニュージーランド遠征をしたとしても、そう簡単には西日本のBリーグからAリーグへ上がれるのかな?
1000万円といえば大金、費用対効果はバランスするのかな……。と頭を抱えてしまった。
後援会長、先輩、選手に聞いてみたところ「可能ならば遠征すれば」
との意見が大多数であった。監督が決意しているし、50周年といえば
半世紀に1度のことで 、めったにあることではない。Aリーグにあ
がれれば水島製作所のPRにもなるだろう。後援していただいている
サプライヤーが協力してくださることを条件に、準備することを決心
した。これもO型人間の悲しい性か!?
50周年に1度という理由で、主要なサプライヤーには1社当たり50
万円の寄付をお願いするため、会社を訪問し、その主旨を十分説明し、
拝み倒して寄付をいただいた。後で知ったのだが、50万円/社は相当
物議をかもしたとか。そして念願の10,00万円は集まった。
ニュージーランド遠征の記事は、当時の水島ニュースに載ったので
省くが、ニュージーランドの大学との交流試合を2試合、元オールブ
ラックスのコーチによるトレーニング、それからなんと言っても日本
では経験の出来ない南半球強豪3カ国(南アフリカ/オーストラリア/
ニュージーランド)によって繰り広げられる「スーパー12」のオークラ
mitsubishi
年の
ンド・ブルーズとニューサウスウエールズ・ワラタスとの試合観戦と収穫も
大きかった。
さてAリーグへの昇格はどうだったかというと、そのシーズンはやはり無
理であった。しかし、ニュージーランド遠征の効果は次第に実を結び、次の
シーズンの終わりに、AリーグとBリーグとの入れ替え戦が九州であった。
伝統ある新日鉄八幡チームをノートライにおさえ、勝利をもぎとった瞬間、
胸にジーンとくるものがあり、チームや後援会に感謝の念で一杯であった。
この感激は1997年12月7日のことであった。
ニュージーランドとは、こんな縁で、その後3回も訪問し、大好きになった。「海外で、どの国が一番良
かったか」、「もう1度行くとしたらどの国か」と聞かれる度、「それはニュージーランド。何せ人間より
羊が多く、人は親切、四季があり、風景はきれい、落ちつきがあり、アルプスもあるよ」と何時も推薦して
いるのです。
平成7( 1997)年 Bリーグ 優勝
平成7年 新日鉄八幡を下し
Aリーグ昇格
●水島ラグビー部創部60周年に寄せて 第14代部長 小田 賢治(2000.6∼2001.6)
60周年おめでとうございます。
諸先輩方及び関係先皆様の長きに渡る支援により、この60周年を迎える事が出来た事に対し、深く感謝申し
上げる次第です。
私は、水島ラグビー部に35年前に入部し、色々と貴重な経験をさせて頂きました。ラグビーを通じ、沢山
の方々と知り合いになり、助けられ、又、ご指導頂いた事に、ほんとにうれしく思っています。
私が、ラグビーしていた頃は、部員が足らず14人で試合をしたり、 存続が厳しく、その中で関西リーグ
の3部で試合をしたりして、ヨレヨレの時代でした。それでも、共に酒を飲んだり、遊びに行ったりしてラ
グビー仲間は、楽しく過ごしていたように思います。
大きな試合での勝利の味を味わった事の無い事から、今は、後輩に 期待すると共に、長年、お世話にな
ったラグビー部に対し、少しでも恩返しが出来るよう新入ラグビー部員を我が社に入社させて頂いてます、
何とか貢献できればと考えます。
r u g b y
●創部60周年によせて オランダNedCar会長 落知真人
三菱水島ラグビー部員およびOBはじめご支援いただいている関係者の皆様、創部60周年記念まことにお
めでとうございます。
今から11年前の1995年に後援会長を引き受け3年間ラグビー部および部員とのかかわりを持つことができ
ました。
私に後援会長の声がかかったのも当時部品工作部長を拝命し、多くの部員がエンジン機械課、アクスル機
械課、 鋳鍛課、板金課に所属していたこともあったと思います。
部品工作部の現場でも気軽に声を掛け、掛けられ仕事の面で部員のラグビーと仕事にかける思いを肌で感
じていたことを懐かしく思い出しています。
当時の20歳前後のメンバーが現在では現役を続けながらあるいは引退した今でも水島工場のリーダー、あ
るいは長として名実ともに認められ活躍している姿や異動の情報を聞くたびに人材が育っているんだなとつ
くづく感じています。
これも創始者でいらっしゃいます水谷定さんの文武両道、ラグビーを通じて人を育てるという伝統が脈々
と生きている証と思っています。
また1996年には創部50周年という節目にも遭遇し、当時のラグビー部長で水島の副所長をされていた平邦
明さんと一緒に記念行事のための支援をお願いに後援会員の皆様方のところへ行脚したことを思い出します。
現在でも当時の関係者の皆様の継続した支援、声援があればこそここまでやってこれているものと感謝し
ております。
その後岡崎工場→水島工場→京都・滋賀工場と転勤はしてきましたが、折に触れ当時の牧正男監督やまた
は部員、BOの方々を通じて試合結果や近況、水谷定さんを囲む会の案内などなどきめ細かく連絡頂いてお
り感謝しています。
最近ではラグビー部スタッフからも情報を頂いており、今回の寄稿依頼も喜んで引き受けさせて頂きました。
京都地区に勤務の際は地域的なアドバンテージもあり商工会議所主催で伏見工業監督経験者の山口さんや
啓光学園監督経験者の記虎さんの経験談を聴講する機会がありました。
お二人とも共通していたことは先生が生徒を、生徒が先生を信頼して始めてチームができ完成して行くと
いうことでした。
私は記虎さんに「信頼しているということが分る瞬間はどんな時なのですか?」と愚問を投げかけたところ、
間髪をいれず「眼です。眼を見れば真剣にかかってきてるかどうか分ります。こちらも真剣に返しますから。」
どんなスポーツもそうかもしれませんが、この言葉がラグビーを通じて人を育てる大きなものなのだなと
感激したことを今でも鮮明に覚えています。
社再生の中で水島工場の方々も本当に一人一人が真剣に取り組みその結果としてアウトランダー、アイと
ヒットの連続でフル稼働の状況に繋がっていると思います。
現状の会社の環境下ではラグビー部に対して十分なサポートも望むべくもありませんが、そのような環境
下で西日本トップリーグで活躍しているのは日ごろの練習の賜物と部員一人一人のラグビーに対する思い、
愛情の表れかと思います。
社会人のラグビーは大人の集団で高校、大学と又違った意味でのチーム作りが必要なのかもしれませんが更
に一丸となったチームに仕上げて頂き、60周年の節目に再生の意気込みと成果を今シーズンのリーグ戦で示
して欲しいと願っています。
ここオランダではあまりラグビーの話題は聞きませんが、TVでは欧州での中継を良くやってます。フラ
ンス、イギリスをはじめオーストラリア、ニュージーランドなど強国の試合は日本の雰囲気とは違いますがい
ずれこのよ、うなチームと互角にやれる日が来るんだという気持ちで遥かオランダの地から声援を送り60周年
のご挨拶に変えさせていただきます。
第60回 岡山国体出場
60周年記念
ネクタイ
60周年記念試合
対三菱商事
(第26回定期戦)
2006 . 4 . 30
三菱自動車水島ラグビー部後援会(Green Oval Club) 役員・組織図
[所内後援会]
顧 問
藤木 荘平(丸五ゴム会長)
管 理
小田 賢治(水菱プラ社長)
人 事
会 長
副 会 長
一宮 堅次
(パト水工部長)
石黒 和之
(共立精機社長)
役
員
小池 陽一
(副所長)
生 管
池島 賢
(管理部長)
田中 邦雄
(管理部EXP)
野口 泰敬
(総務Mgr)
大木 悦郎
(安衛EXP)
藤島 俊司
(人開室長)
堀 平治
(海外仕訳Mgr)
千田 博
(組管)
乗 組
鍵本 良輔
(乗組部長)
軽商組
桜井 篤
(軽商組次長)
水工部
浜辺 照明
(軽E機)
品 管
井上 洋治
(組検)
中島 研一
(治工具)
三上 晃
(パト生技)
生 技
会計監査
高杉 亨
(国内経理)
[所内後援会]
幹 事
水島国際ホテル
大橋 弘照 (支 配 人)
斉藤 誠
(労組副支部長)
MMCエステック
参鍋 久男 (社 長)
共立精機
石黒 和之 (社 長)
浜辺 照明
(軽E機)
新興工業
笹沼 清彦 (社 長)
ヒルタ工業
晝田 真三 (社 長)
千田 博
(組管)
共和鋳造
飯居 康弘 (社 長)
JFE商事
笹田 和義 (支 店 長)
三和パッキン
仁吾 勇雄 (工 場 長)
光洋精工
岡部 芳正 (支 社 長)
菱和
田淵 祥之 (所 長)
スタンレー電気
藤原 公三 (所 長)
イクヨ
小野 光隆 (工 場 長)
NOK
原口 典弘 (支 店 長)
ナイルス部品
蜂谷 良広 (所 長)
アステア
本多 正之 (副 会 長)
ジヤトコ
丸野 敏彦 (事業所長)
代表幹事
幹事
幹事