日中海底ケーブル建設取極顚末記

1994 年 2 月発行「うなばら」11 号から
(写真や「取極」の中国文は省略されています)
日中海底ケーブル建設取極顚末記
牧
野
康
夫
昭和 47 年9月の日中国交回復に伴って日本・中国間に海底ケ-ブルを敷設する機運が醸
成され、まずその要諦を定めるため日本國郵便省と中華人民共和国電信総局との間で取極
がおこなわれた。本文はこの取極締結に至る経緯について述べたものである。なお、本文
中に資料として取極の中国文、日本文を掲載することとする。
1.まえかき
1971 年電撃的に米大統領ニクソンが訪中して米中が国交を回復した。それに刺激されて
か追随してか、1972 年9月に日本の田中首相が訪中して日・中の国交が回復した。
不思議なもので、日本人の心には、何とか言い乍らも中国には昔から一種の懐かしさを
持っている。中学生の頃、世界史の授業と言えば中国が主であったし、少年の頃には誰で
も孫悟空の話を読んだし、三國志も知っている。漢字も中国からの輸入だし、文化的影響
は古来受けている。いわば中国は日本人の生活の一部に息づいている。
そんなことから、日中国交回復となると、多くの日本人は中国へ行こうとしていた。こ
の通信業界もメーカーも通信業者も中国訪問を試みた。一体共産中国はどうなっているの
だろうかという興味も手伝って、主だった人々が訪中した。そう言う中に、KDDの社長の
菅野義丸氏もいた。官僚出身の事業家らしく中国の通信当局者と日中海底ケーブルの敷設
について打診してきていた。
古い方々はご存知のように、日本で最初の国際通信の施設は、大北電信会社の上海・長
崎間の海底電信ケーブルである。これを今の技術で復活したいという願望は日本の通俗人
の誰の胸にもあった。中国の通俗人にもあるのではなかろうかとも思っていた。
当時私は郵政省の通信行政の責任者で、このチャンスを伺っていた。
1973 年が明けて暫くして、中国大使館から、中国電信総局長以下8名ほどの一行が日本
の通信事情を視察したいという申し入れが来た。これはよし、大いに歓迎すると返答。 3
月下旬から2週間総局長一行が来日し、両者の間に日中海底ケーブル敷設の話がでて、ど
う進めるかが議論され、問題点が浮き彫りにされ、5月には北京で再度打ち合わせしよう
ということになった。
当時の郵政大臣は久野忠治氏で、自民党所属乍ら、共産圏諸国とくに中国、北朝鮮との
交流には意欲的であった。彼は大いにハッスルして、私たち事務方一行を従え、勇躍北京
へ乗り込んだ。中国は文化大革命の時代で、いたるところで、紅衛兵の少年少女の歓迎を
うけ、合意に達して文書に両当事責任者である郵政大臣と総局長が署名した。問題はこの
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文書の形式つまり名題であった。
2.東京会談
1973 年3月 22 日に中国電信総局長一行が訪日し、4月3日に離日した。総局長は鐘夫
翔という人である。
この頃の中国の通信の機関は電信総局であるが、以前は郵電部と聞いていた。文化大革
命以後は郵電部はなくなり、このようになっている。なぜだかよく判らぬが、1949 年中国
共産党が天下をとってから、郵電部長は朱学苑という人であった。この人は永く部長をつ
とめていたが、亡くなられたとも報ぜられていたが、その後 1989 年私が北京を訪れ、ある
国際会合の議長をつとめているときのパーティーでこの朱氏が私の隣の席でホスト役をつ
とめていた。歳は 86 歳と言っており、かなり高齢であるが、頭は明晰である。そのときは
ちょうどその年の6月にあった天安門事件の二ヶ月ほどあとで、天安門事件の弁明を淡々
と述べていた。
だが差しだされた名刺をみると、中華人民共和国全国人民代表大会常務委員会副委員長
で、更に驚いたことには、中国国民党革命委員会主席でもあった。つまり共産党ではない。
孫文の国民党であったのである。 17 年前の中国への初訪問のことを思いだした。
当時の文化大革命は日本のマスコミは讃えていたが、実は毛沢東晩年の権力への執着と
大衆運動への盲信から衝動的な活動に過ぎなかったようだ。従って、国民党左派の朱学苑
が永年居座っている郵電部は 1971 年に解体され郵便は交通部に入り、通信は行政院直轄の
電信総局となり、その総局長に毛沢東と共に長征に参加していた軍通信出身で、郵電部副
部長であった鐘夫翔を据えたように憶測される。
さて総局長の鐘夫翔は、1950 年代までは、中国共産党の人民解放軍通信兵政治委員であ
った。 1962 年に郵電部の副部長のポストについている。 60 年代には東欧圏の諸国・キュ
ーバに訪問団長として国際活動をし、また英・仏・スイスに通信施設と共に衛星通信施設
の視察をしている。そして 1972 年に当時のITU事務総長ミリ氏を招待して、中国のIT
U活動への積極的参加の意志を示している。要するに中国通信界の国際派の要人であった。
また、読者諸氏もご存知の北京郵電学院の院長を 1955 年と 1964 年それぞれ2ヶ年ほど
つとめ、1960 年には文教先進作業者代表者会議の議長をつとめ、職業教育界でも指導的役
割を果たしていたようである。
文革以後、開放政策時代に入ると、通信総局の名称は消え再び郵電部が復活し、鐘夫翔
の名は見当たらなくなっている。
1973 年3月鐘氏一行が訪日したとき春未だ浅き頃であった。一行は総勢8名ほどであっ
た。その頃中国要人の宿舎はホテル・オータニである。 日本側の郵政省の幹部は皆ホテ
ル・オータニで応対した。郵政省に一行が訪問したのは一回くらいしかなかった。
一行の通信施設の視察の外には箱根などの行楽地での一泊旅行もあった。事前に一々中
国大使館の担当書記官のチェックがあり、まだ相互に十分信用し合った友好関係ではなか
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ったような感があった。
大切な日中海底ケーブル建設の会談はその間に4日程3及び4時間ずつ会議がもたれた。
場所はホテル・オータニである。
日中国交回復後いち早く北京に日本大使館が開設され、そこに郵政省の職員が書記官と
して在勤していた。この書記官を通じて、電信総局の副局長クラスの人物と予備的な折衝
が行われており、日中間に海底ケ一ブルを敷設する趣旨は一致していた。その敷設につい
て、東京会談は確認する話し合いから始まった。
当時の中国の外交姿勢は、よく謂われたように平等互恵とか内政不干渉とかの言葉が前
提となっていた。このような普遍妥当なことに異を唱えることはない。そして今後日中間
に通信の需要の増加が見込まれるからこの海底ケーブルを敷設しようという意志を確認し
た。さらに両国以外の国の通信にも大いに利用してもらおうという意図も盛られた。建設・
運用・保守の実施者は日本側はKDD、中国側は上海電信局とされ、技術的事前調査・設計
などの経費を含んで、一切の費用と、資産の所有は国際的慣例にならい、それぞれ折半さ
れるものとされた。
技術的事柄として、この海底ケーブルは、当時としてはすでに使用実績のある 480KHz
の方式とし、陸揚げ地点は中国は上海、日本は沖縄あるいは九州とされたが、沖縄は日本
側には通信網の構成の上で有利であったが、中国側は米軍の大きな軍事基地のあることか
ら反対され、沖縄は消えた。
そして合意した最後の事柄は、何らかの協定が法的に有効となってから、3年以内に完
成することとし、その目標年を 1976 年とした。
ここまでの話は問題は殆どなく、順調に進んだ。残った問題は両者の合意をどのような
形式の文書に纏めるかであった。
当時有効な日本の公衆通信の法律である公衆電気通信法では、独占的通信事業体である
NTTとKDDが海底ケーブルを独自に建設保守する権利をもっており、郵政大臣はこの
権利の執行の認可権を持っていた。この事項について、中国側は、領海とか膨大な資金を
要することからみてKDDには困難であるとし、国としての主権の行使から考えて政府間
の協定とすることを主張した。
日本側は初めはKDDと上海電信局との間の合意書で済ませようと考えたが、中国の強
い主張で政府間の文書にせねばならなくなった。
本来外交文書は外務省の所管であり、行政的文書を除けば、国会で決議され、批准を要
するものである。
この枠に入ると事は面倒である。
そこで何かよい手はないかと案ずると、
郵政省設置法の第四条の所掌事項のうちに「法今により委任された範囲において電気通信
に関する国際的取極を商議し、および締結すること」という事項がある。当時の通信の規
律法である有線電気通信法や公衆電気通信法によって国際的取極をするわけだから、この
文書の形式を「取極(とりきめ)
」にしようと考えた。この案は中国側からも、国内的にも
外務省から異論がでるおそれはあった。
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そこで合意議事録という形式も考え、まず案を中国側に示し同意を求めた。この案は形
式上単なる記録であるので、拘束力が薄い。外務省には無難であるが、中国側は納得しな
い。取極の案を示し、日本側の法律的立場の説明を加えたが、中国側は日本側の立場は理
解したが、肯じなかった。あくまで協定とか協議という名題にこだわった。
東京会談ではこの問題の決着をみずに、郵政大臣が北京を訪れる際に再度会談し、議論
を重ねることにし持ち越すことになった。
3.北京会談
1973 年のゴールデンウィークに郵政大臣が北京に赴き、この、日中海底ヶ-ブルの日中
間の話し合いを決着させることになった。久野大臣の随員として、官房長の広瀬弘さん、
監理官の私、
参事官の奥田量三さん、それにKDDの副社長の板野学さん他専門家の方々、
NTTからも役員の方が加わり総勢十数名に及んだ。
会談は3回ほど重ねられ、電信総局の庁舎と宿舎の北京飯店で行われ、最後は徹夜に及
び未明に合意に達した。
主だった交渉者は、主席代表格は大臣と電信総局長の鐘夫翔氏だが、実質上は私と電信
総局技術局副局長の梁健氏であった。他にそれぞれのスタッフが列した。
初会談は儀礼的に大臣と総局長の挨拶の交換があって退席した。続いて梁氏と私の間で、
先ず東京会談での交渉の復習をし、問題点の確認をした。先に述べたように、問題の要点
は、文書の形式というか名題というか外題、陸揚げ地点とを明確にすること、それにこの
ケーブル使用の以遠権の問題である。
二番目の問題から議論した。中国側は上海とかなり明確な地点を示していた。 日本側
は沖縄も提案していたが、
東京会議で引きこめていた。
そこで九州のどこにするかである。
日本側はこの海底ケーブルを敷設する海域が東シナ海の水深百米前後の浅瀬であるから、
調査してからでないと、具体的に決められぬと主張した。
日本側は口には言えぬ事情が外にあった。熊本県か、鹿児島県か、長崎県かに決しかね
ていた。それぞれの現地から陳情書があったし、従ってそれぞれの出身の政治家のあと押
しが当然ある。技術的問題として、日本側は逃げた。議論のすえ、建設当事者が技術的調
査の上協議し、決定するということに中国側は妥協してくれた。
ついで第三番目の問題だが、第三国に発着する通俗にこのケーブルを使用する、いわゆ
る以遠権の問題だが、中国側は文化大革命の時代のことであるから、ソ連圏の通信の使用
をもち出した。 日本側は現に日本海ケーブルもあることだから、にわかに賛成しかねた
が、余り拘泥するのも国際的でないとし、ユーラシア大陸は奥が深いし、発展途上の地域
だから、通信量は少ないだろう。より多くの通信を促す意味で、この点は日本側で折れた。
これに関連して、
案文をいろいろ書き改めてみたが、良い案文ができずに終わったりした。
さて、第一番目の外題の問題である。これに一番時間がかかった。
中国側はまず議定書ではどうかとでた。これは駄目だと日本側は答えた。議定書は外交
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文書である。
批准を要する形式のものだ。今ここで取り交わそうとする文書は双方ともに、
それぞれの国内法に基づく行政上の文書なのだ。本来日本としてはこの種の協定は国内法
では当事者であるKDDに委ねられている。従って政府が文書を取り交わす必要がないが、
中国側ではKDDに主権がないという意見から、今ここで議論していると主張するので、
日
本側としては合意議事録か、取極(とりきめ)という名題の文書にして欲しいと、東京会
談での主張を繰り返した。
中国側はそれでは協定にしてはどうかという。この文字も東京会議で出て、日本側は応
じなかった経緯のものである。
文字の応酬が続く、そのうち日本側の一人が和英辞書をとりだし、”取極”を引くと、
“Arrangement″とでた。この英語を中国語ではどういうかと尋ねると、彼等も字引をとり
だし、”それは協議だ″という。この文字も我々にはまずかった。我々日本側としては、
合意議事録ならば普通語として国内を罷り通ることはできるし、更に取極なら郵政省設置
法に書いてある省の所管事項にある。何とかどちらかにしたい。
私はこの旅行に出るとき、初めて中国に出掛けることだと思ったのか、何故か国語辞書
と漢和辞書をもって出た。それを辞書の話から思いだし、この会議を催している投宿のホ
テルの自室に急いで戻り、この二冊の辞書を会議室に持ち込んだ。そして国語辞典で゛取
極″を引くど協定″とあり、漢和辞典で協定を引くと、゛取極″とでた。これはウマい。
トリック的だが、中国側にこの二つの辞書をみせ、゛取極″という文字は日本語で、協定
という文字は中国語なのだ。従って、中国の文書には協定とし、日本語の文書にその日本
語訳として、取極ということで、それぞれの言語を用いているのだということで良いでは
ないかと主張した。中国側も何か反論を述べていたが、迫力なく、協定ではなく協議では
どうかと述べるので、それは中国語のことだから当方には異存はないと答えた。会議の流
れはこの取極と協議で進んで行った。
日本は中国から千年以上も前に漢字を習って、日本語に使ってきた。永い間に同じ漢字
でも僅か乍ら意味のニュアンスが違うらしい。取極めという言葉は勿論中国にない。これ
は純粋な日本語だと中国人に判る。取極を中国語に訳すれば協議で、中国語の協議は日本語
では取極と訳すとみれば不自然ではない。漢字が共通なので、その字のニュアンスの違い
に気付かず、拘るところが妨げになったように思われた。
合議は段々と煮つまってきた。双方共この取極と協議でいこうということで納得したが、
当の責任者である大臣と総局長が会談の席に居ないので、事務当局の折衝の模様を両主席
に報告して、決めて貰うということで落ち着いた。このような事務的に合意に達していて
も、何か一つ残しておいて、決裁に問題の解決を譲るやり方は、どの国でも同じかと思う
のであった。夜は白々と明け始めた。徹夜の交渉であった。 1973 年5月3日の朝である。
この日の午後に総局の庁舎で、正式の会談が開かれた。事務的折衝の模様の報告を全体
を代表して私か行い、取極と協議という文字が合意できなかったから、大臣と総局長の間
で決めて欲しい旨を述べた。
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両者それぞれ事務折衝の案に異存ないことを述べ合って決着した。
その夕方5時過ぎ、日本側の大臣夫妻、官房長、監理官とKDD副社長が中国政府の首
相周恩来氏に招かれ、人民大会堂に招じられた。周首相は一人、一人名前を日本読みし、
親しく話し、日中間にケーブルができることはいいことで、文書の名題などは拘ることは
ないと述べる。私もそう思った。昨夜までの折衝の模様をよく知っているようだった。 一
時間半に亘る会話は面白く、周首相は仲々の人物で、毛沢東の支配を実務的に纏めてきた
苦労を彷彿とさせるものがあった。親しみのもてる人物である。
双方の作業する人達は尚苦労して、条文の読み合わせ、ゲラ刷りの校正と続け、翌日4
日の午後総局の会議室で、大臣と総局長がそれぞれが主文である日本語と中国語の文書に
署名した。大臣も達筆だったが、総局長の署名は立派だった。聞けば、かなりの書家とい
うことであった。
終わって、シャンパンで一同乾杯した。一件落着という感じである。
4.北京点描
1973 年の北京は昨今とは大分違っていた。ともかく 20 年も経てば、政治的変化がなく
とも世は変るものだが、当時は文化大革命の時代である。今の実力者鄧小平氏は多分軟禁
されていたのであろう。
東京からは勿論直行使はなく、香港から深圳に渡り、列車で広州に出て、飛行機に乗り
北京に入る。中国航空にもスチュワーデスがいるが人民服のおさげ髪である。 トイレに
は靴磨きのブラシがあるだけ、質素と言えば質素だが、味気ない。
北京空港に着いたのが夜中であったせいか、北京の街は暗い。街灯が少ない。北京飯店
に投宿すると、天井も高く気持ちがいいが、モダンではない。今もあるが、宿は昔から有
名だった古い建物の北京飯店だった。噂に聞いていたように、ドアを明けておいても、何
の心配もなかった。
着いた翌日電信総局へ表敬訪問に出かけようとホテルを出ると、少年少女がカーキ色の
制服に赤いスカーフを首に巻いて並び、一斉に拍手をしてくれる。そして総局の門から玄
関まで、総局の職員が並んで一斉に拍手である。
これが文革体制の歓迎方式かと驚いた。
ここまでくる街筋は広い道幅の長安街で、その中央に天安門がみえ、毛沢東の大きな肖
像画。そして、向かい側に五星紅旗がなびく。全く整然としているが、何にか気持にゆと
りが感ぜられない。天安門の壁にも、街の大きな四つ角には、マルクスとかレーニンの肖
像画があり、世界人民団結万歳などのスローガンが赤地に白い字で大きく書かれていた。
その頃の政府のスローガンの自力更生の文字も、あちこちにみられた。
われわれ一行に提供された自動車は大臣夫妻が中国製の紅旗という大きなリムジンのよ
うな車。随員の者には2人一台で上海という名の普通のセダン型の車。これがクラクショ
ンを始終鳴らし乍ら走る。というのは大変な数の自転車が走っているからである。この人
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民服一色の男女の自転車の大群はちょっと恐ろしかった。文字も簡体文字で、何の字をか
ように略したのか、想像もできなく驚いた。
さて、電信とは電気通信のことで、この現場も見させてくれた。大きな機械だが、模写
電信の機械が盛んに動いていた。日刊新聞の人民日報がこの模写電信で一斉に全国に配信
され、その日のうちに全国に配られると聞いて、本当かなと思った。また一生懸命にプリ
ント配線の部品を修理しているのもみた。どの職場にも自力更生の文字が沢山見られた。
職員は全く男女平等で、管理職の人にも女性が多い。
何処に行っても、息がつまるような思いをしたが、ホットするのは食事だ。本場中国料
理はうまい。ホテルでの朝食の何も入っていない白い饅頭。それにさらっと油揚げした野
菜。それらを白粥と一緒に食べる。素晴らしい味の軽い朝食になる。
滞在中にメーデーがあった。社会主義の国だから盛大である。だが、天安門前の広場で
のパレードなどはなかった。混乱するので一ヶ所で催さず、分散したという。北京市内の
いくつかの公園-公園といっても大変広いので、この公園の中で分かれて行われていた。
我々も有名な頤和園の会場に招待され、野外の舞台では踊りや歌、子供の劇などを催して
いた。すると急に群衆が騒がしくなった。みると共産党幹部がやってきたらしい。そして
それが、あの名高い毛沢東夫入江青女史や、中央委員会の実力者王洪文氏などだった。い
ずれも四人組のメンバーである。彼等は笑みをみせ乍ら群衆と握手していた。我々一行の
中にも江青女史と握手した者がいて、いい記念になったと喜んでいた。
中国側の招待してくれる晩餐会の食卓には、味とりどりの皿が並び、中国側の人が客人
たる我々の皿にご馳走を箸でとってくれる。これが歓待のしるしだが、こんど我々が彼等
を答礼でご馳走するとき、この仕草がうまくできない。
お酒となると当時芽台酒(マオタイ)が盛んであった。随分と強い酒で、50%以上のア
ルコールだろう。乾杯、乾杯とお互いに言い乍ら、小さなグラスを乾した。生来余り飲め
る方ではない私だが、この際お国のためと大いに乾した。悪酔いはしなかった。有名な北
京ダックのフルコースもご馳走になった。鴨の足の皮の入ったスープはリアルで味わいに
くかったが、あとは素晴らしくうまかった。だが、隣席の中国の人の説明に曰く、゛毛沢
束主席は決して人に強制することはないが、この鴨だけは別で、強制して食事させてふと
らせる″と。どうもこの言葉は強制されたように聞こえた。
それから 20 年経って、昨今の中国は大変な活況だ。文化大革命は毛沢東の権力の弱体化
をおそれ、自ら主席に任命した劉少奇の追落しのためにやったと、その後の史家はいうが、
無駄なことだったとの思いはする。一方で避け得られぬ進歩の一過程とも言えるかも知れ
ぬ。
5.おわりに
取極に記された通り、その後3年間に日中海底ケ一ブルは完成し、日中間の通信は大い
に改善された。だが束シナ海の浅い海の底に埋設されたケ-ブルだったが、何度か底曳網
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の漁法に切断され、今は少し南に下って、底質が固めの海を通して張り直されていると聞
いている。
更に世界各国の通信界が中国の開放体制に呼応して、通信の開発に手をかしている。 11
億以上の人口と、広大な土地をもつ中国は日本と共にアジアの重要な地位を占めている。
更に一層の日中の協力と友好の盛んなことを祈念するや切なるものがある。
牧野康夫さんの略歴
昭和 17 年 東北大電気工学科卒業 逓信省(のちの電電公社)入省
41 年 電電公社四国電気通俗局長
43 年 同社建設局長
44 年 郵政省電気通信監理官
47 年 ITU全権会議日本政府主席代表
49 年 電電公社理事
50 年 日本通信協力㈱(現:日本情報通信コンサルティング㈱)社長
60 年 同社会長 NTTインターナショナル会長
平成元年 日本情報通信コンサルティング㈱相談役
5年 同社特別顧問
※昭和 63 年 勲三等旭日中授章 受賞
資
料
日本国 郵政省と中華人民共和国 電信総局との
日本・中国間海底ケーブル・建設に関すろ取極
ロ本国郵政省と中華人民共和国電信総局は、日中両国間の善隣友好関係の発展に伴う通
信需要の増人にこたえるため。平等互恵の原則にもとづき、友好的な話合いを経て、日中
両国間に海底ヶ-プルを敷設することについて。次のとおり合意した。
第 一 条
双方は、日本・中国間に十分な回線容量を有ナる海底ケーブル1条を共同で敢設ナる必
要があり、かつ、この海底ヶ-ブルは、日中両国間の通陰に使用されるとともに、他の諸
国との問の通信にも積極的に使用されるものとすることに合意した。
第 二 条
このヶ-プルの建設については、日本仰は国際電信電話株式会社、中国側は上海市電信
局が建設当事者である。
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双方は、両建設当事者がこの取極にもとづき、このケ-プルの建設および保守に関して
具体的な協定を締結することが適当であると考える。
第 三 条
このケ-ブル建設の費用(海洋調査の費用、海底ケーブル、中継器、等化器。海底ケ-
ブル端局装置および給電装置の費用等を含む。
)は、
両建設当事者がそれぞれ半額を負担し、
ケーブル建設完了後の所有権も折半するものとする。回線使用については、両建設当事者
が平等互恵の原則にもとづいて具体的に協議・決定するものとする。
第 四 条
このケ一プルの陸揚地については、両建設当事者が相互に協力して技術的調査を行なっ
たうえ、早急に協議・決定するものとする。
第 五 粂
このケ-ブル建設のための海洋調査、設計および施工については、いずれも両建設当事
者が共同して実施するものとする。
第 六 条
このケ-ブルの建設は、両建設当事者が建設および保守に関する協定を締結してから
3年前後で完成し、使用に供するものとする。
第 七 条
この取極は、署名の日から効力を生ずる。
1973 年 5 月4日北京で。ひとしく正文である日本語および中国語により本書2通を作成
し、署名した。
日
本
国
中華人民共和国
郵 政 大 臣
久野忠治
(署名)
電信総局局長
鐘 夫 翔
(署名)
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