「金賞よりも大切なもの それは、生涯にわたって音楽を愛する心を育てる

「金賞よりも大切なもの
それは、生涯にわたって音楽を愛する心を育てること」
台東区立富士小学校主任教諭
松田京子
私が、今の台東区立富士小学校に赴任したのは、2年前のことである。浅草寺のお膝元、
三社祭の地域にあり、周りの大人たちに大切に愛情込めて育てられている富士小学校の子
供たちは、どの子もみんな素直で優しい子供たちばかりだった。私は、「この子たちとこれ
から、この学校で一緒に生きていくのだ。」と、思ったのを覚えている。この目の前の子供
たちを一人の残さず「音楽好きだよ」と言える子に育てて行かなくてはならない。それが、
音楽専科教諭の仕事だからである。
はたして、富士小の子は、実に素直に私をきらきら輝く目と心で受け入れてくれた。ど
のクラスも、音楽室に温かい笑い声と美しい歌声がこだまし、春の日差しそのものだった。
週2時間ずつの授業を各クラス終えたところで、私は子供たちに「吹奏楽部が20名しか
いないんだよね。ちょっと寂しいね。」というと、次の日に入部希望の用紙を続々と持って
くる子が続き、なんと、20名だった吹奏楽部がいっぺんに70名になってしまった。う
れしい悲鳴だった。そして、楽器で音を出しては、新人50名の吹奏楽は、楽しい動物園
のようだと言ってみんなで笑った。管楽器の音は、小学生がそんなに簡単に出せるわけで
はない。
「パオー」
「ビヒー」の連続であった。子供たちには、楽器の奏法技術と平行して、
楽器を大切に扱うことやくじけそうになったら友達同士励まし合うこと、機械的にただ繰
り返しやるのではなく自分の頭で考えて、いろいろ工夫してみることなどを話した。子供
は、やる気を出せば、どんなことでもできるものだ。これが子供のすごいところで大人は、
こうはいかない。無限の可能性をもつ子供たちは、乾いた砂が水をどんどん吸収するよう
に、自ら可能性を開いていった。6月頃になると、何とか、何の曲をやっているのか聞き
分けられるようになり、7月に入ると少しずつ美しい音色を求める姿が見られるようにな
ってきた。私は、子供たちに提案した。
「コンクールに出てマーチングっていうのやってみ
ようか?」
こんな具合で、8月2日のバンドフェスティバル東京大会の予選会に初出場することに
なった。しかし、やっと音階ができるようになったに等しい子供がほとんどで、それを、
歩きながら演奏するなど至難の業だった。でも、楽しくてたまらない吹奏楽の時間は、子
供たちを1日ごとに変えていった。予選会当日、吹奏楽連盟の仲間の先生方は、一様にこ
ういった。
「コンクールに出てくるだけでも勇気があるよ。どうにか、予選通過することを
みんな祈っているよ」
しかし、信じられないことがおこった。審査結果は、なんと銀賞で通過したのだ。それ
を子供たちは、うれしくてうれしくて、その喜びがまた子供たちの意欲をわき上がらせ、
演奏に弾みをつけていくことになる。暑い夏休みも校庭で毎日練習した。この年の夏は、
ことのほか暑く、連日35度を超す猛暑が続いた。足の裏が上履きを通しても熱く、校庭
に水をまきながら練習を続けた。8月下旬の有明コロシアムでのバンドフェスティバル東
京都大会にむけ、子供たちは、今まで味わったことのないような、いわゆる歯を食いしば
るがんばりを約2週間続けた。暑い校庭で、大きな声でカウントしながら、ポジションを
確認しながら動く。暑い日差しに、髪の毛から汗がぼたぼた落ちる。シンバルは鉄板焼き
ができるくらいに熱く感じる。子供たちには、たとえ話をよくした。
「みんなで山を登って
いこうね。あえて険しい山を登っていこう。苦労して山を登り、途中で疲れてしまったり、
あきらめそうになった友達がいたら、お互い励まし合い、その子の荷物を持ってあげたり
手を引っ張ってあげたりして、山を登り切ろうね。そうして、登りきって頂上にたどり着
いたとき、そのときは、さわやかな風がながれ、自分たちが登ってきた下に続く道を見渡
して、よく登ってきたものだ。自分たちにはこんな力があったんだと思えるはずだから。
」
私は、できる限り子供一人一人の心に寄り添って指導することを心がけた。教師の威圧
で叱り飛ばすのではなく子供の心をわかろうと努力する教師でありたいと思った。私が、
教師になったばかりのころから、ずっと、心がけている3つの教師としての姿がある。
① 子供を肯定的にみる努力をする。
② 11回裏切られたら12回目を信じる。
③ 子供には子供なりの言い分があると思う。
子供を深く理解することを絶えず心がけながら、更なる高みに向かって進むことにした。
しかし、子供たちには、金賞を取ることだけを吹奏楽部の目標にしたわけではない。子供
たちとの合い言葉は、
「音楽を通して心を磨く」であった。吹奏楽やマーチングの活動を通
して、心の勉強をしているのだということを徹底させた。努力する心、忍耐する心、思い
やる心、感謝する心など常に話して聴かせ、子供たちは、音楽の技能といっしょに心の有
り様も学んでいった。そして、迎えた東京都大会。演奏を終えた子供たちは、とてもさわ
やかに頂上での風を感じているかのようだった。そして、審査発表の瞬間。
「金賞。東京都
代表。全国大会出場校は、台東区立富士小学校。
」だれもが全く想定していなかったことが
おこった。
11月になり、子供たち70名は、新幹線に乗り、大阪城ホールに向かった。往きの新
幹線の中で書いた小作文の中に、
「私たちは、幸せです。先生とみんなで夢のような全国大
会に出られるのです。私は、大人になって、やがて結婚したら、自分の子供にこの吹奏楽
での話をしたいです。
」
そして次の春がめぐり、新しい学年になった子供たちは、この夏も主体的、意欲的に練
習をこなし、2年連続金賞。東京都代表、全国大会出場校となった。
ある日、富士小学校の職員室に、昔の教え子だという電話がかかってきた。20数年前
の教え子だった。今は、結婚し、他校の学区域ではあるが、この浅草近くに住んでいると
いう。富士小吹奏楽部の話は聞いていたが、まさか、そこの音楽教師が私だとは思わなか
った、ということ。ずっと私を探して、住所録やネットで調べてもいたということ。小学
校の時は、クラリネットをやっていた裕子ちゃんという優しくておとなしい子だった。富
士小の練習の様子や連合音楽会やコンクールを見に来てくれ、その後、富士小学校の子供
たちに手紙をくれた。
「私は、あなたたちと同じ、松田先生の教え子です。私も、20数年前、先生から音楽
のすばらしさを教わり、あの小学校時代があったから、今も、区民オーケストラでクラリ
ネットを吹いているのです。練習の時、先生があなたたちに言う愛情あふれる言葉、一人
一人にかける優しいまなざし、すべて昔のままでした。私たちといつも一緒に笑い一緒に
泣いてくれた先生でした。連合音楽会、コンクールステージを聴きながら、小学校の時の
自分があなたたちと一緒にステージで演奏していました。私は、今まで、いろいろなこと
があるたびに、小学校の時の音楽が心の支えで、生きる力でした。どうぞ、これからも音
楽を愛する心を育て素敵な人になってください。
木佐貫裕子」