総合研究大学院大学 学生派遣事業 実施報告書 ①基本事項 所属 文化科学研究科 地域文化学専攻 氏名 チャスチャガン 海外派遣先国名 中国 海外派遣先 中央民族大学 新疆ウイグル自治区 海外派遣期間 2016 年 7 月 10 日~8 月 15 日 ②海外派遣前の準備 今回の海外派遣を申請する際、中国中央民族大学のサランゲレル教授の受け入れの許可 を得て、指導教員とサランゲレル教授と相談し、新疆ウイグル自治区のアルタイ地区と其の 周辺地域において短期調査を進める計画を立て、現地に赴いた。博士論文では、新疆モンゴ ルの歴史記憶と語りをテーマとするため、文字に書かれた歴史だけはなく、少数派のモンゴ ル人の社会で伝承されている歴史記憶と其の語りを収集することは最も重要な作業である。 派遣に先立っては、モンゴル人が分布する地域の地方誌などを熟読し、現地に関する情報 を収集した。 ③海外派遣中の調査内容 派遣期間の 7 月の 10 日~7 月 12 日と 8 月 11 日~8 月 15 日の間は北京で滞在し、中央民 族大学のサランゲレル教授と調査地の状況、調査方法などについて相談し、調査結果を報告 し、7 月 13 日~8 月 10 日は新疆において調査を行った。 調査は新疆ウイグル自治区のアルタイ地区を中心に、主に 20 世紀前半の歴史記憶と語り を収集する予定であったが、一次資料としての歴史語りをあまり入手するごとができなか ったため、調査地域と語りの内容を広げて行った。そこで、アルタイ地区から距離的に最も 近いホボクサイルモンゴル自治県において調査を進めるようにした。この期間に両地域を 合わせて 30 人以上のインフォーマントにインタビューを行い、語りの中で頻繁に登場する 山川、オワー(石や土で円錐形に作った基壇の上部に木枝をさし、その中心に三叉矛や槍を 立てる。モンゴル人はこれに天神地祇が降りて宿るとし(オワー自体を地祇とみる考えもあ る) 、毎年春から夏にかけて祭を行い、牛馬などの生畜またはその肉、乳製品その他を供え、 五畜などの豊饒、息災その他を祈り、オワーのまわりをめぐり、かつ競馬、相撲、弓射を奉 納する。従来道標、境界標としての役割も果たしてきた) 、遺跡などに赴いて確認し写真や 映像記録をとった。今回の調査で収集した歴史記憶と其の語りは主に以下の内容に分ける ことができる。 1) 「トルグド東帰」の歴史に関する記憶と語り 新疆に居住するモンゴル人の殆どは、1771 年にロシアのイジル河畔(ヴォルガ)から帰 還したトルグド人である。18 世紀中期にジュンガル帝国が清朝に破れ、長期の戦争や伝染 1 病、虐殺によって人口が大幅に減少し、ジュンガルの地は人煙希少になった。生き残ったオ イラド各族の人々と帰還したトルグド人が清朝の盟旗制度に組織され、新疆のモンゴル社 会が再編される。このトルグドの帰還の歴史に関する記憶が多様に残っている。 東帰の原因について、従来故郷への思いとロシアの圧迫が原因であるといわれるが、彼ら の中でもう一つの言い方が伝承される。それはイジル河畔に発生した内乱であるという。ま た東帰の途中でおきた多数の戦争やそれに命を犠牲にした英雄人物に関する物語は特に多 く、涙を流しながら英雄を称えた長歌を歌ってくれた人もいた。 帰還したトルグド族は清朝に服属し、盟旗制度に編入されて新疆の各地やハルハに安置 させられる。清朝時代の文献資料などでは、トルグドが遠くロシアを離れ清朝を向かって移 住し、清に帰順して其の臣下となったと記されており、当時乾隆帝が自ら作った詩なども有 名である。しかし、現在のトルグド人の中で伝えられる物語は、帰還した当時のトルグドと 満州との関係は一方的な帰順ではなく、その領主たちが自らの知恵を用いて牧地を獲得し たと主張するように思われる。 トルグド人が遊牧する地域に多くの山、川、地などに帰還の記憶が刻まれている。例えば、 トルグドが帰還した当初人口を数えた地をトワーチと呼び、現在は一つの村となっている。 現在のトルグド人の社会においても、東帰は重要なルーツとして認識されている。例えば、 新疆で作られた歌の歌詞には「イジル河畔から移住してきたトルグドたちよ」、 「遠くのイジ ルから離れた故郷へ戻った」等々と見られ、人たちが王の系譜を記憶する際も、ロシアにい た時と帰還した後と分ける傾向もある。其の中、清朝に任命された王の系譜を帰還した当時 の王から数えており、各王の墓についても様々な記憶が生きている。文化大革命時期に破壊 されたものも多いため、調査の過程で実際に確認できたのは、ウネンソソクト北路の最後の 王と其の後裔の墓だけである。もちろん今回の調査は短期間で行われたことと、地域的にも 新疆の西北部に限定したことから、収集した情報は十分であるとは言い切れない。 2)20 世紀前半期の歴史記憶と語り 20 世紀前半期の新疆社会は非常に不穏であり、それは世界情勢の影響を受けたことは言 うまでもない。20 世紀前半において、新疆モンゴル人は強盗の略奪を受け、家畜と財産を 奪われ、他郷へ移住した事例は多い。インタビューをしたインフォーマントのなかには、90 歳代という高齢の人もおり、1940 年代に家族と新疆からモンゴル国へ移住し、そこで 6~7 年暮らし、再び新疆のバルコルへ戻り、雇用工になって生活を送っていた。また 7 年ほど過 ぎた後、甘粛へ行きそこの新疆モンゴル人と合流し、故郷へ帰還したという経験を持ってい る。また、当時のソ連の境へ入り、半年避難した経験を語る人も多い。彼らの親戚が移住先 で定住したものも多く、1990 年代初期から連絡を取るようになり、現在は自由に来往でき ているという。また当時の国民党軍と三区革命軍との戦争、モンゴル王や活仏に関する語り も多くある。戦争と略奪が頻繁に起こり、人々の生活は非常に困窮で、食物も、衣料も、医 療環境も、教育体系もなく、人々のことばをそのまま訳すと「世が壊れた時期」であった。 伝染病で家族全員が死んだ事例や親と兄弟を亡くし、一人で生き残ったと涙を流す人も少 2 なくない。 その後、文化大革命時期において、国外まで移住したことが原因でひどく批判された人も いて、其の経験と歴史を隠して今に至るものもいた。 3)彼らの意識する「歴史」という概念 報告者がインフォーマントに対して、 「歴史研究をしていてここの地の歴史に関する調査 をしている」と言い出す際、彼らは大抵「歴史はわからないよ、教育など受けてないから、 ○○の○○が文字読めるから少しはわかると思う」と言ってくる。しかし「年寄りから聞い たことや自分で経験したことでもいいですので」と説明すると、 「あ~それならあるよ」と 言い出す人が多かった。その内容が様々であるが、大きく分けて上に上げた二つの時代に関 するものが多かった。または神話や伝説的な語りを提供してくれる人も少なくない。 彼らが認識する「歴史」とは、文字で書かれたあるいは出版されているものであり、自分 たちが口頭で受け継いたものは「歴史」と確信できない、という態度を受け取った。これは 決して彼らの伝統的歴史観ではなく、少数派としてある社会に身を置いてから徐々に形成 されてきたものではないかと思う。 今回の調査は短期間であり、新疆モンゴルの歴史認識を十分に理解できてないが、 今後 の長期調査のために良い準備をできて、博士論文を執筆することに当たって非常に重要な データを入手することができた。 ④海外派遣中におこなった調査以外の活動 今回は短期間内での調査であるため特にありません。 ⑤海外派遣費用について 申請した金額を少し超えたが、ほぼ計画通りである。 ⑥海外派遣先での語学状況 新疆のモンゴル人が操る言語はオイラド・モンゴル方言であり、報告者の出身地の内モン ゴル方言と大きく異なるが、長年の勉強と研究の中でオイラド方言を身につけてきたため ほぼ問題なく交流できた。 ⑦海外派遣先で困ったこと 報告者は派遣先において短期間の調査をおこなったため、調査の過程で予想できなかっ たことが多くあったが、それもそれでその社会や文化への理解を深めるいい機会となった。 ⑧海外派遣を希望する後輩へのアドバイス 事前準備を十分にしておくほうがいいかもしれないが、異なる場所と文化を経験するい い機会であるため、当該社会のやりかたやルールなどを体験してみていいと思う。 3 (図 1)ラクダの群れ (図 2)放牧する少年 4 (図3)泉水 (図 4)オワー祭り 5 (図 5)オワー祭りに参加する人々 6
© Copyright 2024 Paperzz