芸術選奨はどのように選ばれたか

芸術選奨はどのように選ばれたのか(四)
―受賞者の周辺
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特
筆
争
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に
芸術選奨、日本芸術院にかかわる歌人たちを通して、文化・芸術への国家的
賞の仕組みの概要を見てきた。褒賞の対象の選考過程は一見して、選考する
間、推薦する人間が極めて狭い範囲に特定され、固定的である。そして、推
・選考にかかわる人々の人選が時の政府・監督官庁のオピニオン・ショッピ
グ、行政の裁量で行われるということになり、褒賞そのものをコントロール
きることになる。行政機関に、数あるいわゆる「審議会」と同様、審議会に
を 借 り た 政 府 見 解 の 確 認 ・「 権 威 」 付 け の 機 能 を 果 た し て い る と い え よ う 。
これは授賞者サイドの問題だけでなく、受賞者サイドにも大きな問題を投げ
けているのも事実である。かつて私は、歌人たちの受賞の弁や年譜記載の使
分 け な ど を 引 用 し て 、そ の 決 ま り の 悪 さ や 開 き 直 り の よ う な 姿 勢 に も 触 れ た 。
らに近年、
「 受 賞 」を め ぐ っ て 、メ デ ィ ア に 禍 根 を 残 し た 一 件 を 知 る こ と に な
た 。こ の 件 に つ い て は 、
『 短 歌 現 代 』に 何 度 か 登 場 す る が 、他 の メ デ ィ ア は 沈
を 守 っ て い る か の よ う だ 。 (匿 名 「 31 チ ャ ン ネ ル ・ 謝 罪 文 」 二 〇 〇 五 年 一 〇
号 。水 野 昌 雄「 今 日 の 提 言 ・ 広 い ジ ャ ー ナ リ ズ ム の 意 義 」二 〇 〇 六 年 三 月 号 )
『短歌往来』二〇〇五年一〇月号「編集後記」中に枠で囲った四行の「お詫
文」にまず戸惑った。
尚 、本 誌 八 月 号 、九 月 号 に 於 て 、故 塚 本 邦 雄 先 生 の ご 遺 族 並 び に「 玲 瓏 の 会 」
の方々に対し、配慮のない誌面作りのあったことをお詫び致します。
あわてて、八月号・九月号をひっくり返し、塚本の追悼号でもないし、何が
ったのかと眺めていて突き当たったのが、すでに四〇回も続いている、谷川
一 「 一 頁 エ ッ セ イ ・ あ あ 曠 野 」 で あ る 。「 あ る 感 想 ― 塚 本 邦 雄 氏 の こ と 」 と 題
れ、塚本が受けた褒章、叙勲に触れて「政府がばらまく紫綬褒章などたやす
受 け る 筈 は な い と 思 い こ ん で い た 」、「 彼 が 勲 四 等 を も ら っ て お 祝 い す る こ と
、まさしく茶番かブラック・ユーモアというかいいようがない。私はやり場
ない憤りを知り合いの歌人たちにぶつけたが、反応はなかった」とあった。
た、九月号「歌人の表札―石垣りんの詩によせて」に、石垣の「表札」とい
作品を引き合いにして「名の知れた歌人の略歴に、時おり<紫綬褒章受章>
か、<勲四等拝受>とか書いてあるのを見かけるからだ。こうした賞は政府
勝手に与えるもので・・・」という個所があった。
これが、謝罪の対象なのだろうか。メディアが謝罪する問題なのだろうか。
本に関する谷川の言は、むしろ評者として当然のセンスにもとづくものであ
、よくぞ言ってくれたと私は思ったものである。短歌ジャーナリズムに言論
自由はなくなってしまったのか。遺族からのクレームに屈したということな
だろうか。真相は分からない。しかし、その後の推移を見ていると、透けて
えてくるものがある。こんなことを言うのはきっと野暮なことなのだろう。
川健一の連載は、
「 編 集 後 記 」で の こ と わ り も な く 一 一 月 号 の 目 次 に「 四 三 回
最 終 回 )」 と 記 さ れ 、 消 え て し ま っ た 。 皮 肉 に も そ の 号 は 「 追 悼 ・ 塚 本 邦 雄 」
集であった。そして、翌二〇〇六年一月号から、連載「一頁エッセイ」の執
者に塚本青史の名が加わって現在に至っている。この顛末に、私は太平洋戦
下において、マス・メディアや短歌ジャーナルが斎藤瀏・史父娘、歌人でも
った内閣情報局の井上司朗の処遇に腐心していたであろうことを思い出さず
は い ら れ な か っ た 。( こ の 稿 、 完 )( ポ ト ナ ム 2 0 0 7 年 1 月 号 所 収 )