報道の客観性の危機 - GEOCITIES.ws

二〇〇五年 2 月 28 日
花田ゼミ冬学期ゼミ論
H18.03.30
フロリン グランチャ
Florin Grancea
文化人間情報学コース M1
指導教官:花田達郎
e-mail:[email protected]
報道の客観性の危機
~ルーマニアにおけるメディア職業意識の変遷~
1. 導入
2
2. セルフ検閲の共産主義者遺産
3
2.1. 表現の自由:元共産主義者にとっての悪夢
5
2.2.
1989 年以降のジャーナリスト:経営者、傭兵、
7
そして売春婦として
3. 結論として:経営者とパトロン制ジャーナリズムの
9
仮面を剥ぐこと
11
出典
1
共産主義崩壊後 15 年を経たルーマニアでは、いまだジャーナリズムがその方向性を定めて
おらず、その拮抗的な発展は、近い将来にルーマニアメディアの規範としての客観報道が
確立されるだろうという我々の希望を先延ばしにしてきている。この論文の目的は、ルー
マニアのポスト共産主義的環境でプロフェッショナルな政治報道における客観性の追及の
歴史やその要因を批判的に分析することである。そしてまた、ルーマニアにおけるジャー
ナリストのステータスについて見られる危機の原因を突き止めることである。さらに、ル
ーマニアにおける報道に対する検閲や政治的情報操作の手段として、メディア経営者の官
僚的な組織とメディアの編集部門の分離というジャーナリズムのプロフェッショナルな原
則が放棄されているという側面についても指摘することとしたい。
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Florin Grancea
キーワード:
プロフェッショナリズム、報道の客観性、ポスト共産主義、ルーマニアメディア界
1. 導入
ポスト共産主義は、ジャーナリズムの二種類の異なるイデオロギーの間に終わることの
ない交戦状態をもたらした:a)ラジオ「ボイスオブアメリカ」
「自由ヨーロッパ」
「BBC
(ルーマニア語放送)」等の周囲に形成された「番犬」ポリシーを持つグループ、すなわち
民主主義、自由、および社会的多元主義を標榜するグループと、b)共産主義メディアの
内部でプロフェッショナル文化として、同時にプロレタリア階級のレーニン主義的啓蒙と
いう教化主義的視点をもって形成され発展してきたグループである。
この、束縛から解放された報道の自由とメディア内部の組織的コントロールの間の戦い
は、最初は単純なものだったが、近年ではジャーナリスト側と経営者側双方の高まる欲望
のために非常に複雑になってきている。ジャーナリストと経営者の双方が自らの職業の一
線を越えて、公共的あるいは民主主義的メカニズムに指示されることなく、経営者的関心
と労働者的関心を混同することにより、ルーマニアにおけるジャーナリストのステータス
にとって耐え難い結果を生み出しているのである。
この交戦状態に光を当てるために、私は以下のように、ルーマニアの最近のジャーナリ
ズムの歴史を、連続的な三段階に区別することとしたい。
第一期(全体主義的覇権の期間):共産党が、外国放送を除くメディアのチャンネルのほと
んどをコントロールしている段階。
第二期(自由主義的カオスの期間)
:メディアの所有権が形成され、上記のa)とb)のイ
デオロギーの間の戦いがメディア市場の内部でタイトルや番組の多様化によって特徴付け
られている期間。
第三期(非神秘化の段階):第二期により具体化された社会的な真実により、ジャーナリス
トを装う経営者と経営者を装うジャーナリストの双方が仮面をはがれる期間。
私のアプローチは、ルーマニアメディア界におけるプロフェッショニズムの危機が民主主
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義の危機をも引き起こすという考えに基づいている。そして、実現可能な政治的な公共圏
への私たちの希望は、いかに迅速に、メディア職業人が言論の自由の原則をすべての政治
報道の標準と取り決めるかに依拠している。
また、さらに状況を複雑にしているのが、経営者側とジャーナリスト側の相互作用以外
に、政治家とジャーナリストの相互作用があることである。Brian McNair が述べるように、
「メディアによってもたらされる政治的真実の評価は、双方のグループ(政治家とメディ
アプロフェッショナル)のコミュニケーションの仕事を具体的に示す複雑な構造であるが、
自由民主主義の政治的コミュニケーションにおいて期待される情報の正確さと客観性の標
準を理想上はいつも満たしているべきであるが、必ずしも常にそうではない(仮訳、2000)」。
ここでは、政治家とジャーナリストの間の相互作用のレベルでも識別された危機の原因に
ついて分析していく。
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2. セルフ検閲の共産主義者遺産
Hanno Hardt は、悲観的にも、
「プレスが知的労働の促進者として、ジャーナリストを彼
らの仕事の中でビジネスに主導された温情主義から開放させることは滅多になかった(仮
訳)
(2000、p210)」としている。 そして、企業パワーに譲歩し考えを制御するために、我々
がジャーナリズムの慣行の伝統的な観念を譲渡しなくてはいけないことを示唆している。
このように暗くはないが、Tismaneanu は、彼の『ルーマニア共産主義の政治史』の中で、
ルーマニアの民主主義の問題として、対話に対するそもそもの文化的な不信とともに、「メ
ディアの独立性を奪い表現の自由を制限しようとする公式な試み」、つまり検閲の問題を挙
げている(Tismaneanu、p.254、2003)。ジャーナリズムの理想郷のモデルにの可能性をほ
とんど否定するこの二人のアプローチの中間の考え方だが、Horst Pottker は、より広く開
かれた解釈をすれば、検閲とは、国家だけでなく、経済的、社会的および文化的な条件に
よっても公共コミュニケーションにもたらされる障害物である、と述べている(2004)。私
はここで、ルーマニアの社会におけるジャーナリスティックな仕事に対する国家的統制の
時代から、資本主義の伝統を持つ国家に特有の経済的圧力の時代へのシフトにおいて、ジ
ャーナリスト職業固有の危機を分析する必要があると思う。
ルーマニアでは公式には 1970 年代に検閲制度が消滅したが、プロレタリア階級のブルジ
ョアに対する勝利宣言と同時にいわば「自主的検閲 self-censorship」制度が生まれ、これ
が革命が起きる 1989 年までジャーナリストの間で広く慣行になっていたということを、革
命後さまざまな立場の学者が述べている。当時のジャーナリストの政治教育、社会の現実、
国家への経済依存性をみると、先に述べたルーマニアのジャーナリズムの歴史の第一期に
おいては、Meryl Aldridge と Julia Events(2003)が主張する「panoptical」がまさに存
在したということが明白である。
実際、この第一期においては、殆どのジャーナリストはPCR(ルーマニア共産党)の
「シュテファン・ギョルギウ」研究所で訓練されており、彼らはメディアの現場でも党に
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従うことを期待されていた。したがって、何年間にもわたり職業的な自主規制がジャーナ
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リストたちを抑制の籠に閉じ込めていくに従い、党がその見解を広めるために組織的なコ
ントロールをする必要はますます少なくなっていった。もちろん、その間もかの有名なセ
クリターテ(秘密警察)は、自主的検閲の規範に従わない者に何が起こるかという例を人々
に見せ続けてきており、その結果として、1989 年に共産主義政権が崩壊したとき、刑務所
から著名な Petre Mihai Bacanu を含むおびただしい数のジャーナリストが発見されたので
ある。しかし、自主的検閲の問題はさらに深いところにあった。なぜなら、新聞で自分の
記事を発表することが、PCR のヒエラルキーの最上部に達するために必要なステップであ
ると考えられていたからであり、このために、現在私達が考えるより政治的なエリートと
ジャーナリストとの間の距離は小さかった(Campeanu、Brucan、および Tismaneanu)。
実のところ
Campeanu (2002)と Brucan が強調するように、共産党と、党にとって資
源とみられていた情報のコントロールは切っても切れない関係にあった。そして、この関
係は情報にアクセス権を持ち貴重な議論を生み出す者(共産党エリート)と、服従の最初
のステップとして情報を断ち切られた人々の間の不均衡の関係を保持するために貢献した
のである。この構図が明確になれば、自主検閲問題が、ルーマニアのジャーナリズムの歴
史の第二期で新たな形をとって存在し続けるということが分かると思う。
1989 年の革命は、その他の自由の概念とともにルーマニアのメディアに新たな種類のジ
ャーナリストを生まれさせた。とはいえ、自主的検閲制度がこの変化の中で死に絶えたと
考えるのは大きな誤りである。第一期からのジャーナリストの殆どが、「自由なプレス」の
中で自らを再生産し、彼らの新聞社の編集部が政治的に独立しているということを宣言し
た。彼らは共産党の歯車となることを放棄し、個人という立場から記事を書き始めた。
Cornel Nistorescu を含むわずかの記者は、今もなおこのスタンスを保ち続けている。しか
し、多くの他の記者にとっては、個人という立場から記事を書くということの困難さのほ
うが勝っており、自らの周りにある囲いから出ることができないでいる。
正直なところ、ルーマニアの社会のレベルでは、なぜ共産主義のジャーナリストが自由
なプレスで仕事を続けられるのか、について疑問を呈する者はなかった。それどころか、
ルーマニア共産党においてリーダーシップを長年執り続けた apparatchiks がなぜ民主主義
のチャンピオンとしてこれらのメディアに登場しているのか、について疑問を呈する者さ
えも一般的な国民の中にはほとんどいなかった(一部民主主義的グループの中にはこれを
批判する者もいた)。もちろん、これらの aparatchicks がルーマニア社会のピラミッドの頂
点に残ることについてはエクスキューズがなかった。他方で、革命直後のメディアが、民
衆の怒りを前に独裁者チャウシェスク夫妻が逃げ出す様子を伝えつつそれまでの報道につ
き国民の前に謝罪をしたことで、ジャーナリストについてはある種の禊があったといえる
(Tismaneanu 2003)。
しかし、ジャーナリストは変わらなかった:なぜなら、自由ジャーナリストたちがポス
トチャウシェスク政権によって布かれた新しい検閲制度を受け入れたからである。
「NSF
4
(注:救国戦線、イリエスクを中心として革命後最初に政権を握った団体)」に運営される
政権が、イリエスクに対する批判が公式にテレビで放映されることを拒否したため、人々
は反対勢力の政治的議論にアクセスすることができなかった(仮訳:p.239)」。
急進的な反共産主義勢力やPNTCD(農民党)やPNL(国民自由党)といった歴史
的政党を作り出していく勢力を含めた革命勢力がこの現状の継続性を受け入れるに至った
理由は、新しい政権が彼らの使用人(ジャーナリスト)を自分の周りにひきつけておこう
としたという政治的な理由の他に、実質的な理由もあった。共産主義ジャーナリストが彼
らのオフィスにとどまることができたその理由を考えるためには、15 年前のルーマニアの
メディアがどのようだったかを振り返る必要がある:例えば新聞社では、鉛を利用した印
刷機、ライノタイプ、タイプライタというものを利用しており、コンピューターは無く、
情報を生産する上で非常にコントロールしにくいメカニズムであった。このような状況で
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は、もし要求されても人事を変更することは不可能だった。なぜなら、当時ジャーナリス
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トの人数そのものが非常に限られており、したがってジャーナリストには新聞生産の技術
的な知識も要求されていたのである。国民へ情報が継続的に供給され続けるためには、昔
からの技術と知識を持つジャーナリストが新聞社に残ることは必要不可欠であったのであ
る。従って、唯一の容認できる解決策は、共産主義崩壊の瞬間まで共産主義の最大のファ
ンであったジャーナリストに推定無実を認めることだった。
1989 年以降の自主的検閲の連続のもう一つの要因は、諜報部による情報操作活動と、よ
り危険な新聞のうちのいくつかを威嚇し苦しめるように政府により強化された非公式な政
治的および経済的圧力であった(Tismaneanu 2003、p246~247)。Tismaneanu は、このポ
スト共産主義の現実が Cornelius Castriadis によって認められた「グラスノスチの幻影」
に発祥していると述べている。つまり、「共産主義者は経済的・政治的な官僚制の基礎的な
力を解体させつつ絶対的な権力を保持でき、デカルトのいう神のように指一本で社会を変
え、またシステムを変えることなく社会を変えることができ(仮訳)(1990、p.30)」たの
である。ルーマニアでは、職業ジャーナリズムが社会のトップダウンの改革のツールとし
て認識されており、ジャーナリズムの公共性をもって官僚制を民主主義的にコントロール
し、民主主義的改革を追及するためのツールとしては見られなかった所以である。
2.1. 表現の自由:元共産主義者にとっての悪夢
2004 年の総選挙のまさに数週間前に、新しいスキャンダルがルーマニアを震撼させた:
『Evenimentul Zilei』紙次いで「Ziua」紙に掲載された、与党PSD(社会民主党)本部
の閉ざされたドアの後ろで交わされた議論の詳細である。そこでは、アドリアン・ナスタ
ーセ首相とその周囲のグループであるPSDの指導者たちが、メディアに対するコントロ
ールを増強させるための議論をしていたのである。首相のものとされるアイデアは以下の
とおりである:
1.10 のテレビ局および 7 つの新聞社の内部に「ビッグ・ブラザーシステム」を設立し、
5
これらのメディアのそれぞれにPSDの代表者を一名ずつおいてメディアを内部からコン
トロールすること。
2.ニュース部門から娯楽番組部門までコントロールを拡大し、その内容と番組ゲストま
でをチェックすること
3.メディアに対し、彼らが国家に財政的に依存していることを思い出させること(注:
ルーマニアの殆どのメディアが税金未納状態を続けている)
4.政府の立場を表明するオピニオンリーダーを作り、TV番組に送り込むこと H18.03.30
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5.独立ラジオ局の株式を買い上げること
6.買い上げが不能なラジオ局等(注:BBCを指す)に対してはライセンスを剥奪する
こと(『Evenimentul Zilei』紙、2004 年 11 月 25 日付)。
『Evenimentul
Zilei』紙のジャーナリスト Andreea Pora は次のように述べている。
「PSD
とナスターセは、彼らのイメージ(の保持)に取りつかれている。その理由は簡単である。
彼らのイメージは堕落と強奪の真実をカムフラージュし、貧しい人々の顔に幸福な微笑み
を貼り付けるものでなくてはいけない。・・・この人工的なイメージなしでは、政権構造の
全体がすぐ崩壊してしまう。これが、党とおよびその儀典長であるナスターセがプレスの
コントロールと従属の戦略のために、その殆どの時間を費やしている理由である」
。彼女は、
「PSD にとって不幸なことに、彼らはプレスに対する全体的なコントロールを実行するこ
とには成功しなかったため、元共産主義者にとって、プレスは最大の悪夢として残ってい
る」とも述べている。
また昨年末、PSD政権体制がゆらぐことが見えてきた大統領選の二回目の投票の直前
になって、ようやく『TVR』(ルーマニア公営放送)所属のジャーナリスト Alexandru
Costache が『TVR』内部の検閲について弾劾したことは、Noelle
の螺旋』を思い出させるかのような出来事であった
Neumann の『沈黙
(『Evenimentul Zilei』紙、2004 年
12 月 8 日付)。数日後、事件の信憑性を裏付ける『TVR』の同僚 6 人による書簡も公表さ
れた。これにより、『TVR』局において、ニュース放送の要約や内容が如何に日常的に与
党の政治家の介入で変更されたか、如何に金による代償と威嚇が使い分けられ、結果とし
て、社会における政治的対話や政治的公共圏が傷つけられてきたかが明白になったのであ
る。
政治家の仕事がメディア組織の周囲で行われるロビー活動に集中するのは世界のいたる
ところで起きることなので、この問題は一見、現実の政治の問題のように見える。しかし、
これはイデオロギーの問題、つまり民主主義の問題である。こうしたロビー活動は、米国、
日本、または他の民主主義の国でも許されていることであり、ルーマニアでも違法ではな
いが、ルーマニアにおける政治的な影響は法治国家における限界を超えているものと思わ
れる。2003 年に、世論調査研究所のチーフでもあり、PSDの情報操作活動のブレーンと
もみなされていた情報大臣の Vasile Dancu は、『幸福なテレビ視聴者の国』という本を出
版した。この中で、ルーマニアは将来的にEUに加盟することが約束されており、そのた
6
めに、政府に批判的なニュースやネガティブなメッセージをニュースで提供することによ
り民衆が不幸になるというようなことが述べられている。これにより Dancu は、批判を伴
わない、政権にポジティブなニュースを擁護したが、これが政府の姿勢、メディア操作に
関するイデオロギーだった。その後も継続した情報操作と検閲は、それがたとえ違法なも
のであったとしても、この公式なイデオロギーを確認するものであった。
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2.2. 1989 年以降のジャーナリスト:経営者、傭兵、そして売春婦として Florin Grancea
私は学部時代、卒業論文のために、ルーマニアの最初のポスト共産主義プレスの大立者
である Ion Cristoiu とのインタビューを行った(『Pamfletul la Ion Cristoiu』1999、ブ
カレスト大学)。彼は、1989 年の民衆の動乱直後に、共産党の青年向け機関紙『Scanteia
Tineretului』の編集主任を辞任し、新たなタブロイド紙を設立した。このタブロイド紙が
現在の、ルーマニアの主要紙の一つである新聞『Evenimentul Zilei』紙である。彼は自分
自身の主人となることを希望したのだが、それは彼一人ではなかった。他にも Horia
Alexandrescu(『Cronica Romana』紙)や Sorin Rosca Stanescu(『Ziua』紙)、および
Radu
Bogdan(『Nine O’clock』紙)等、現在のルーマニアプレスを代表する優秀なジャ
ーナリストたちがこのような動きに参加し、新聞市場において新たなタイトルを設立して
いった。これに、以前から存在していてメディア労働者たちが共同で民営化をした新聞社
も加わったが、これらの元公営新聞では、労働者のうちの一人が他の労働者と交渉するこ
とで最終的にたった一人でその新聞社の経営権を握ることになった。『Adevarul』紙
(Dumitru Tinu)と『Romania
Libera』紙(Petre Mihai Bacanu)のことである。
ここでの問題は、資本の集中や民営化のことではなく、これらの新聞経営者のステータ
スを定義づけることが不可能であることが明白だったことである:彼らは新聞社のオーナ
ーであると同時にジャーナリストであった。彼らは出版物のディレクターであると同時に、
日常的に自らのジャーナリストのスキルを利用して社説を書き続け、大統領の外国訪問を
カバーするために、政府の招待で大統領と同じ飛行機に乗って外国取材を続けたのである。
政治経済学者にとってこれは信じられない話であるが、これらのジャーナリストの資本経
営者は、ジャーナリストの権利を擁護し権力と対話するための職業組織、
「労働組合」CRP
(ルーマニアプレス協議会)を設立したのである。CRP はそもそも、ある新聞社が解雇し
たジャーナリストを他の新聞社が雇用しないという秘密協定を結ぶことにより、ジャーナ
リストの給料を制限する目的で新聞経営者により創設されたのである。また、この手段は、
フランスのモデルに従ったジャーナリストの真の職業組織(労働組合)の設立を抑止する
ためにも十分に効果的だった。なぜなら、移行経済期の苦しみは非常に大きかったため、
ジャーナリストとその家族は金銭の力で拘束され、他方で、コストダウンをはかるために
安価な学生アルバイトが大量に雇用されたことでさらにジャーナリストの給料が伸び悩ん
だからである。悲しいことに、私自身もこのメカニズムの歯車のひとつであった。1995 年、
在学中に初めて『Nine
O’clock』紙のアルバイトを得たときの給料は毎日 8 時間働いても
7
毎月 50 ドルで、家族を養うことはできなかったが、父を亡くしていた自分の大学の費用を
賄うのには十分だったのである。
以上は先に述べたルーマニアのジャーナリズムの歴史における第二期、自由化のカオス
の典型的な特徴といえる:ジャーナリスト職業集団のメンバーが更新され、私のような新
しいジャーナリストが入社することにより新聞社の給料は低下した(正確には高いインフ
レ率のせいで物価と比較した際の購買力が低下した)のである。
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第二期におけるもう一つの特徴としては、新しいジャーナリストたちが古参のジャーナ
リストから受ける訓練を通じて、従順さを体得することだった。私自身がこの点に関して
興味深い経験をしている。私は、共産党による職業ジャーナリスト訓練所への反発として
革命後に設立されたジャーナリスト養成大学において、フランスのジャーナリズムに基づ
く学術的な職業形成を受けた。他方で、アルバイト先の『Nine O’clock』紙では、長年にわ
たる共産主義ジャーナリズムの経験を持つ古参のジャーナリストから、如何にとげのある
テーマを避け、望ましいテーマを選ぶかの組織的な訓練を受けたのである。これらの二種
類のトレーニングが以下に相反するものであったかを説明するまでもないと思う。しかし、
少なくとも私はこの経験を通して、この小論文の冒頭で述べたジャーナリズムの二種類の
異なるイデオロギーに対する批判的視点をもつに至ることができ、それについて今では感
謝している。私を含めた未経験のジャーナリストの卵たちは、仕事を通じて、ルーマニア
ジャーナリズムの「神聖な怪物」に接することができたのである。Hardt は、我々はニュ
ース生産とその配布のための技術的な側面ばかりにあまりにも気をとられすぎ、自らの頭
を使うことができていない(2000、p.214)と述べているが、私はまだ、この分野で働く人々
はそれでもいまだに強い理想は持ち続けていると信じたい。
以上は、ルーマニアのジャーナリズムの中における「経営者」の側面について明らかに
したものだが、次にルーマニアのジャーナリストにみられる「傭兵」
、および「売春婦」の
側面についてもみていきたい。傭兵と売春婦という職業は、支払い後にその性能が発揮さ
れるという意味で似ている。「傭兵」はルーマニアにおけるジャーナリストの俗語の中でも
っとも高い職業的レベルの者と位置づけられている。傭兵は、最高の給料のためにサービ
スを提供するジャーナリストではないが、ニュース機関の官僚主義により自らの職業的規
範がしばしば破壊されると感じるたびに、その会社を辞めて他の会社に移るジャーナリス
トを指す。『NationalTV』のジャーナリストの Madalin
Ionescu は「ジャーナリストな
ら、なぜ自分がプレスに入ったかについて自問すべきである。・・・自分が守るべき信念を
もってプレスに入ったのであれば、政治的な要因により降伏が求められているというシグ
ナルを受けとったとき、辞職して、往来で抗議すべきである。私は抑圧には負けない。」と
述べている(『Ziua』紙、2004 年 12 月 8 日付)。
「ジャーナリストはメディアの権力組
織に直接、集合的に一度も挑んだことはない」
(2000、p.217)とした Hardt はこの非常に
ポジティブな見解に首肯することはまったくできないであろう。しかし、実際に『Pro
Sport』『Tele7abc』『Pro
TV』(いずれも民間テレビ局)といったメディアでは、ニュ
8
ース部の全員が一斉に辞職して他の局に移ってしまい、これにより、経営者に視聴率低下
の大打撃を与えている。このようなジャーナリストたちがある種の尊敬をもって「傭兵」
と呼ばれており、彼らは表現の自由のために行動を起こしている。
同様にルーマニアのジャーナリスト界の俗語として、金のためなら自らの基準を簡単に
あきらめ、事実を歪曲したり読者や視聴者を誤った方向に導いたりするジャーナリストが
「売春婦」と呼ばれている。上述の Ionescu は「もし金儲けをしたり、政党の報道官や議
員に転職したりすることをねらってジャーナリストになったのなら、政治的なプレッシャ
ーを受け入れるのは容易だろう」とも述べている。これは、「ニュースは、パトロン制度の
条件に適合している。そこではジャーナリストが、ビジネス層とその顧客層から成り立つ
裕福で教育を受けた商業層の興味のために働く。これは新しいタイプのパトロン制度であ
り、公共圏はこのような新しい公的関心により支配されはじめているという理解である(仮
訳)」という Hardt(2000)の議論に合致している。しかし、我々はオプティミズムを捨て
ずに、この考え方を拒絶する必要がある。Hardt が描く光景はあまりにも一般化されてい
ると思うのである。
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3. 結論として:経営者とパトロン制ジャーナリズムの仮面を剥ぐこと
私達は、2 つの要因の結合としてルーマニアのジャーナリズム危機の根を示した:a)法治
国家の限度を超えることも可能な政治力、そして b)ポスト共産主義社会における新旧のジ
ャーナリスト世代間にあるイデオロギーの戦いと、メディア組織内部における変化に起因
する職業文化の標準の低さ。
2007 年に欧州連合加盟が迫ったこと、また今般 2004 年の選挙で民主主義勢力が勝利を
収めたことにより、ルーマニアのプレスに対する情報操作の慣行が今後も続行する余地は
少なくなってきているといえよう。事実、我々はやっとジャーナリストという職業あるい
はプロフェッショナリズムの非神秘化の期間に入ったところで、外国資本や欧州の慣行が
最終的には経営者とジャーナリストが混同されたルーマニアジャーナリズムの官僚的な慣
行を廃することになるだろう。
これを助ける潮流は、実は予期されなかったところ、つまりルーマニアの政治からやっ
てくる。2004 年の選挙で新しく大統領になったトライアン・バセスクは、『TVR』(ルー
マニア公営放送)との間に存在したホットラインを切断し、また、自らがプレスをコントロ
ールするいかなる試みもしないことを宣言している。さらに新大統領は、『TVR』のディ
レクターを聴聞することを断り、またジャーナリスト(つまりCRPのメンバー)を大統
領機への搭乗に招待することを禁止した。Grigore Cratianu が『Evenimentul Zilei』紙で
述べるように、「革命後 15 年にわたり政治報道はまったく進歩しなかった。そしてメディ
アの経営者が政府持ちで大統領機に搭乗することが単に普通のことであるだけでなく、当
然の権利であるかのように捉えられていたが、それは間違いであった」。実は私もジャーナ
リストとして何回か大統領機に搭乗し外国取材をしてきたが、自分自身、彼の意見に賛成
9
である。私は、メディアの経営者に対抗してルーマニアのジャーナリストの職業意識が組
織化されること、そして、この職業の倫理規定が一日も早く制定されることを強く望んで
いる。
(了)
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Bibliography
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