そして、カイン

2012年7月21日
32:6 あなたの慈しみに生きる人は皆/あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大
水が溢れ流れるときにも/その人に及ぶことは決してありません。
32:7 あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって/わたし
を囲んでくださる方。〔セラ
32:8 わたしはあなたを目覚めさせ/行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧め
を与えよう。
32:9 分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばな
らない。そのようなものをあなたに近づけるな。
32:10 神に逆らう者は悩みが多く/主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
32:11 神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。
(詩篇)
この詩の作者は苦しみが続く日々にあっても、神と共に生きる者が如何に幸いであるか
を述べています。
――作者は神をどう見たか――
① 罪を赦して下さる神
罪、咎、背き、といった人間誰しも犯す過ちを神は赦して下さる存在であると知りま
した。 罪は律法が与えられる以前、つまりアダムからモーセに至るまでの時代にも存
在し、モーセの時代、律法が与えられて以降は、人は罪の重さに苦しみ、罪が赦される
必要性を強く感じるようになりました。 私たちが罪と言われても今ひとつピンと来な
いのは、聖書の民と違い律法を持っていないからです。
パウロはアダムが神の戒めを破ったことが人類最初の罪だと言ってますが、罪という
単語が聖書で最初に登場するのは、神がアダムの息子カインに話された言葉の中です。
ある時、彼は弟アベルと同様、神に献げ物をしました。 神はアベルとその献げ物に目
を留められましたが、カインとその献げ物には目を留められませんでした。
そこで、
カインは激しく怒って顔を伏せました。 顔を伏せたとは、神に背を向けた、或いはそ
っぽ向いた状態です。 そこで神はカインに、何故怒るのか、どうして顔を伏せるのか
とお尋ねになりました。 そして、カインの行為(献げ物)が正しければ、神はそれを
受け入れるし、カインも顔を上げられるはずであり、もしカインが正しくないのなら、
罪はカインを慕い、戸口で待ち伏せているので、彼はそれを治めなければならないと言
われました。 『罪は戸口で待ち伏せている』と言われた神の言葉が、聖書で最初に記
されている罪という語です。 カインは罪を治めることを出来ず、アベルを殺してしま
いました。 アベルを殺害した後、カインは自分の犯した罪が重圧となって苦しみまし
た。 聖書では彼が悔い改めたとは明確に記されていませんが、『あなたがわたしをこ
の土地から追放なさり、御顔を隠され、、、』との神への訴えから、彼は自分の犯した
罪を悔い改めた様子が窺えます。 神はカインの訴えに答え、誰もカインを打ち殺さな
いよう印をつけられました。 印をつけるという言葉は、エゼキエル書や黙示録にも出
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て来ますが、我々の肉眼では見えない神に属する者の印であり、他の何者からも危害を
加えることのないためのものです。 カインは自分では負いきれない罪に苦しみました
が、神はそれを取り除いて下さいました。
彼の両親であるアダムとイブに対しても、
皮の衣を着せることで、神の赦しと救いを示された神は、カインに対しては印を付ける
ことで赦しと救いを示されました。 人が犯した罪は、神によってのみ赦され取り除か
れることをこの時点から教えておられました。
人は過去を引き摺って生きます。 過去を消し去ってしまったり、過去と無縁では
いられませんが、それに支配されるべきではありません。 神は私たちの過去に目を
留め、それに応じて私たちの将来を決定されるのではありません。 ひとたび、悔い
改めて神に立ち帰るなら、その人にとって不利となる一切の過去を帳消しにして、新
しい道を開いて下さいます。 それを教えるために、聖書には過ちを犯した人が悔い
改めて神と共に生き、神の恵みを十分に受けた人の例をいくつか挙げています。 神
の思いと人のそれとは異なるということがよくわかります。
例えば今に至るまでイスラエルの指導者として名を残すモーセ。 理由はともかく、
殺人を犯しその報復を恐れ、国を離れ同胞を避けて生活していた人物です。 彼は自
分の犯した事実を十分認識していましたし、逃亡した土地での生活に満足していまし
た。 しかし、神は彼の過去には目もくれず、指導者に選ばれました。 神の言葉に
従ったモーセは、イスラエルの人々を奴隷から解放する指導者として神に用いられま
した。
ダビデも神の前に罪を犯し、それを認め、悔い改めた時に、以前に勝る神の恵みに
満たされました。 ダビデ以降のユダとイスラエルの王を見ても、罪を犯し、悔い改
め、赦され、恵みと憐れみを受けるといった連続でした。
神は人が悔い改めるなら赦すと、エゼキエルを通して次のように言われました。 神
が願っているのは、人が悪を行いそのまま死んでいくのではなく、神に立ち帰り(悔
い改め)それまでの悪に沿った生き方を改め、生きることです。
18:21 悪人であっても、もし犯したすべての過ちから離れて、わたしの掟をことごとく
守り、正義と恵みの業を行うなら、必ず生きる。死ぬことはない。
18:22 彼の行ったすべての背きは思い起こされることなく、行った正義のゆえに生き
る。
18:23 わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から
立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか。
ところが、罪とは厄介なもので、それを支配しろと言われても出来ないのが人間で
す。 支配するどころか、パウロが言うように、罪に支配されてしまう状態です。 律
法を持つユダヤ人は、罪が赦されなければ神と向かい合い、神の豊かな恵みに浴せな
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いことを知っていました。 だから、律法を守って神から義(完成された神の子ども)
とされようと努めました。
それで、罪を贖うために動物の血が献げられたのです。
ところが、いけにえを献げることで返って罪の記憶がよみがえり、罪の自覚が生じる
結果となりました。 そこで、彼らは救い主を待ち望みました。 救い主は、罪がた
とえ緋のようであっても雪のように白くして下さり、一切の罪を赦して下さるからで
す。
長い年月を経て、彼らの待ち望んだ救い主がお生まれになりました。
ベツレヘム
にお生まれになったイエス様です。 イエス様はユダヤ人のみならず、全ての人の罪
が赦されるために、十字架につけられ、血を流されました。 何故十字架なのか、ど
うして血を流さなければならなかったのか。 それは御自分がこうすれば罪の赦しを
得られると規定されたのではなく、神の計画に従い、聖書(律法)に応じられたから
です。 つまり、律法に書かれていることは本体であるイエス様の影(コピー)だか
らです。 影は、血を流すことがなければ赦されることはないというものだったので、
モーセの時代から罪の赦しのために延々と動物の血が流されてきました。 だから、
本体も血を流す必要があったのです。 また、木に架けられる者は呪われるとの律法
に応じ、イエス様は人が罪ゆえに受ける神の呪いを一身にお受けになるため、十字架
につけられたのです。
このようにして、律法によるのではなく、信仰による義が生じました。 律法を持
つユダヤ人、律法を持たない異邦人に関わらず、誰でもイエス様を信じる者には信仰
によって義とされる道が開かれました。 イエス様は十字架にかかることにより、私
たちを不利に陥れる様々な規則を破棄し、取り除いて下さいました。 罪に定める掟
が無くなれば、罪が存在しなくなります。 私たちは罪から解放されました。 私た
ちが受けた洗礼の意義の一つは、イエス様に結ばれるためです。 イエス様と結ばれ
た者に、イエス様と共に生きる新しい道が開いて下さいました。 それで私たちは罪
を意識することなく、ただただ神の恵みに包まれて生きることが出来ます。
② 語り合える(祈れば答えて下さる)神
聖書に登場する多くの人たちは神に問いかけ、答えを聞きました。 時には、神か
らの呼びかけに応じました。 中には、神と取引をする人もいましたし、ひたすら嘆
願した人もいました。 どのような場合でも共通しているのは、彼らは必ず答えを得
た点です。 神は語りかける人を無視し、無言を貫き通すようなことはなさいません
でした。
では、現代はどうでしょう? 神と語り合うと言えば、奇人変人はたまた精神異常
者と見なされるでしょう。 しかし、昨日も今日も永遠までも変わらない神です。 そ
うであるなら、今も神と語り合えるはずですし、実際語り合っています。 私たちが
祈る時、神に語りかけているのです。 その答えは、即答の時もあれば、時間を経過
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して返ってくる場合もあります。 神は聖書の言葉をもって私たちに語りかけ、私た
ちの身に起こることで答えて下さいます。 私たちが神に近づくなら、神もまた私た
ちに近づいて下さり、語りかけるなら、主は私たちの一切の重荷を取り除いて下さい
ます。
③ 災いや苦難から守り、救い、喜びを与えて下さる神
私たちキリスト者は、様々な面で神が守って下さっていることを実感しています。
神は私たちを守って下さるだけでなく、神の大いなる力を示して下さいます。
そし
て、喜びに喜びを加えて下さいます。
④ 教え、導いて下さる神
どの時代にあってもそうですが、私たちの進むべき道を神に教えて頂き、導いて頂
ける幸いをキリスト者は味わっています。 今、いじめ問題が世間を賑わわせ、評論
家たちがしたり顔で教育委員会や学校、先生を批判しますが、それでは根本的な解決
になりません。 子どもたちに信心の重要さを教えるべきです。
イエス様は信じる者を完成させるために、教え導いて下さいます。 育てて下さる
のは、私たちの神です。 ですから、私たちはキリスト者として、イエス様に対する
信仰を若い世代に植え付けていく使命があります。
先日、ひとりの青年がお祈りにやって来ました。 彼の将来を左右するであろう問
題が生じていて、最悪と思える方向に話は進んでいる切羽詰まった状態でした。 ど
う進むべきか、本人の悩むところでした。 1時間余り話を聞いた後、共に祈りまし
た。 祈っている時、彼が話を聞き流す術を知りたいと尋ねた答えが浮かびました。
右から左に聞き流すと言っても簡単にできるものではありません。 また、言われた
内容が全て的外れではなく、時には重要でその人の為になる話もあります。 そこで、
とにかく話をよく聞いて、その後、自分の意見を自分の言葉で話して、それが間違っ
ているかどうか、間違っているのならどう間違っているのかを聞くことが、聞き流す
ことだというのが私の答えでした。 それを聞いて、その青年の顔に光が射したよう
に感じました。 それから二日後、彼の抱えていた問題が急転直下解決を見ました。
望むべきもないことが起きたのです。 その青年がこの問題を通し、イエス様が彼の
生活を導いて下さっていると目覚めたことを感謝しました。
⑤ 恵みに包んで下さる神
ローマの信徒への手紙に、恵みの賜物は罪とは比較にならないと記されています。
私たちキリスト者の最大の恵みは、イエス様と共に生きる者とされていることです。
つまり、キリストの力が私たちを覆い、神に属する全ての善き物を享受していけるの
です。 だから、何事も恐れず憂えず、イエス様に目を留めていきましょう。
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