匝Hlij 町4 和事1 和 瓦ニ+・ +•4- ~九四 五 年年月 五 1 内= 土 星 EZ 1 9 8 41 1 -..;十 4・ 友八 n l:l ~ 印 E m 墨福 4・ mAE 月和 暗唱~ 号五処こ3 十歳 九u !f偶毎 十 UJI 、""_ J J m l l l l -~帽凶 n ニ n Mn. J h l}行 飽 昭和60 年度版 j争 暦 宝 土 予約発売開始グ ふる っ てのお申込みを グ 。法 然上人鎖仰会が責任をもって編集している 「浄土宝暦」。 昭和60 年度 版がまもなく制 了 とな り ま す。 年末年始の好便 な纏信徒用施本として , 広くおす す めいたしま す。 B 6 判総ペ ー ジ数 1 郁単価 送料実 費 40 ペ ー ジ 65 円 (200 ブ以上 ω円〉 (300 ブ以上はサービスします〉 . なお,ご寺院名の印刷なども実質にておこないますのであら かじめご連絡下さい。 できうるかぎりの便宜 もおはからいいたしますので, 多くの 方々からのご注文をお願 L 、いた します。 ... ・・……・………………・...山山山山・・・・・・ ・・・・・・・……………………............・・・・・・・・・・・………一山市 ・ー・・・・・・... 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'.. し 院 、 その反省の上に次の時代の建設を実現してい 、 、 人間のみは その適応の如何に依って 、 、 衰 、 頭脳の作用 栄えもし こで自然的進化と、人聞の心の問題を考える時 自然は 、 えもしているのですが 、 を訴え に依って その生存進化の道を歩いているのであ 、 ことが、速い陵史の上に記録されているのであり 次代を背負う者への期待を訴えるという いつの時代でもその時代の世相を観て、危機感 せん。 るものであります。生物の進化とは絶えざる積み ら います。人とは自らの行為の失放を繰り返えし乍 ます。この事は人聞に与えられた唯一の道だと思 長 遠i しきにつけ、勝手気催に解釈しようとすることが 良きにつけ、悪 ~ 重ねから来る進歩の道程でありましょう。だがこ る いかに危険なことであるかを知らなければなりま 、 って来った心を忘れ勝ちになることが多いので 私遣は永い歳月の経過を送る聞に その源の由 え. (話) 十夜を迎 お す。何事も自分の現在に照して 験 佼2 住 ー 2 - ( 法) から 、 、 万々一の場合には如何にしたならば その禁止運動が全人知の問題として論じられ ている反面 く に致しても、その危険なることは申すまでもな 、 核の問題 今更に新しく高ることもないと存じます。 ります。怠達が文明開化という言葉の上に何を連 然しここて一例を挙げるとするならば 、 既に 、 想することが出来るでしょうか。自然を征服する 宇宙の開発とかという語は何から出ている 、 ことでありましょう。今更に取り立ててこの語の とか 由来を吟味する程のこともないでしょうが 生き残れるかといったよう偽倖的な考えが何処か 人間とは飽くまでも度 、 し継いものでありましょう。 した人もあるのですから 決して正しい論とはいえぬと話 先人の中には種々論議されていることという人も 人間の持つ己惚れに 、 にあるとすれば 、 あるでしょう。 、 然し私達はどうしても人間として 而も自然の 中に生きているものとして 対しての制禦を何かの形に於いてしなければ必ず とであります。話は飛臨するようですが との頃 して笑いごとではなく、切実に身につまされとこ 三符提を得て 必の衆生の為に是の一一切世間難住 悩濁 して 、 、 、 人聞の破滅を来たす時があると侭ずるのです成 の科学者逮の中には盛んに、地球の危機感を訴え の法を説く」と院いて「合利弗まさに知るべし こうして及省の糸 Uを辿りますと、浮凶偲い起 す級文があることに気付くわけであります阿弥 陀経の終りに「釈迦牟尼仏よく甚厄希有の事を為 ているようであります。それは決して地球の自然 我れ五濁悪役において此の法事念行じて阿持多躍 決 破滅といったような問題ではなくて、総べて人間 一一一貌三菩提を得て 一切世間の為に此の峰雄信の法 、 衆生濁 、 、 命濁の中において 、 、 、 、 、 阿舞多躍三貌 、 よく裟婆霞土の五濁悪役の劾濁 見濁 煩 自身がもたらす自己造罪の磁波に帰することを論 殆んどこれは現代の常識のようになっています 、 じているようです。 を説く 是れを甚態とす」と。ここに既に二千五 百年以前に説き給うた艇として、弘法の住む般を いは妄想的な見解と笑う者もあるでしょうか ー 3 - 、 、 、 、 銭餓 、 疾病 、 兵躍に 互いに勝手気盛の 飽くまでも自らの内省の上 阿弥陀経と 、 、 それぞれの経の 各ん吋の特集の有難さを頂く 浄上の教えは「願」の一字 、 連導大師の卸経の疏から一公を開顕せら 、 海滋大師の深い自己批判の奥 、 、 、 二つには大必の 本 す。私達は飽くまでも自己の本来の姿を見つめる 願の深広を知るということに帰するのでありま 恨の真実は何であるかを研め 特に二績の深信と中して 一つには我が身の機 ましょ う。 から謹り出たご心専念」の文に依ることであり れたということは と 人は に州入すると説かれています。枇刊に宗祖大師法然 う。申すまでもなく て大悲の光明を仰ぐことが出来るのでありましょ ょうか。かくして自己の罪恵に限を聞いた時初め に現代の世穏と変ることのない訂後ではないでし 、 相似された今位の悲惨さは 正 純希夫人〉の 倹 悩に Hd 、 径 N 官の前段ハ轟単 無量得経の後半五悪段 鋭無品嵐 われる程に表現されているのであります。 、 五濁の悪世と決定付けられているのです。而もこ 余すところなくお示し下され 何故にかくまでも 吾身の心を惨酷に扱わねばならないのだろうと思 阿 の濁れる世に於いてお覚りの境界を得給うて 、 、 弥陀仏の真のおひらきを体得なされ 容易にとの 永劫に救い難い 、 心境を信じさせることが至難の遊であると 仰せ 、 られているのであります。いうまでもなく この 人の位は 、 災いされ邪見妄執の虜となり 悪逆無道で因果の道理を信ぜ 、 天寿既に完うせず 道有りても聴聞する心も 、 心 に自らを陥入れ ず ない布同様であります。このことは先般中上げた 五感段に説かれた心の枇芥と全く同じ躍であるこ 、 とに気付かせて頂くのであります。 浄土宗の教えとは 、 に立って 最後まで自分を掘り下げて 、罪悪感に 観無鎗必経 、 、 眼覚めることであろうか思うわけであります。 、 量 弘川惑は浄土のそ部経を通読させて.頂い無て H経 M 説かれている相には 、 時に 仏の実在を信ずるより他に道のないこと な 、 憶うわけであります。この度し縫い凡夫の私が愈 どちらの経文にも殆んど一様に のでありますが 、 凡夫の境界 殊にこの世ハ裟湊)の有様の深刻さを -01- どんなに大切な役割を崩ずる教えである 「水を飲んで源を思 、 教えが 、 中 かを痛感せずにはいられないのです。この頃 国の言葉として有名な語に の功を想う」などと 2われていますが 特に恩を 、 う」或いは「水を飲んだ時、その井戸を掘った人 、 々最後ぎりぎりの一線に到達した時に得るものは 、 何でありましょう。 、 お十夜会の窓論に入りたいと思いますが 知って思に報いることを感じないならば、人とし きて この法要の主旨は報恩の意義を体得することであ ここにお十夜会の心を述べ ての本位に股覚めたとはいえぬと思います。長々 も、はげまし 、 、 、 'そ 、 蛾ぶ〈 、 自身に 心をも 、身 を ととのへすすむべきなり 『ときどき別時の念仏を修して 者もあるかと思います。宗祖大師のお言葉にも しも十日十夜と限ることもないたろうと こうして生活の中に組織思の心が湧くならば必ず 、 る為には どうしても弘遣の深い反省に立って初 、 は一言にして思を忘れた時代だと極論する人もい ります。報恩とは感恩報謝でありましょう。現代 と記して来ましたが るのです。思と骨一回う字のあることさえ教えぬ教育 めて 弥陀の嘗願の深広なることが覚れることで 、 、 の在り方に疑問を持つと苫った人もありました。 あります。 、 こうしたことがあらゆる生活の上に現われて 益 、 々この世が五濁の悪世に陥ち入るばかりであり・ま しょう。 何故にこうなったか などと 設察する以前に各 自の心に「恩」の一字を活かして毎日を暮してい 、「 おかげ るでありましょうか。平素の対話の中に 六万遍七万過を唱へれば、さても足りぬべきこと ありがとう」の営業がどれ寝かわされてい さま にてあれども、人の心ざまはいたく口なれ耳なれ 、 るでしょうか。億人の権利だけは戸を大きくする 、 いらいらとする心すくなく、あけくれ忽 ぬれば 、 が、為さねばならぬ義務には一向に無頓哨わである 荷として心閑ならね様にてのみ 疎略になりゆく 、 といった傾向を憶う時 私は浄土宗である念仏の ー 5 - 、 返ることになるかを思う時 自らの飲びとなるこ う し なり」と普&口せられてレるのでありま。すこ 、 双怨念仏 、 、 第獲供 往時の股 その形をとどめている寺 。 とを願うわけであります 、 て考えます時 かの平貞国が世の無常を敷いて、 現在十夜法要として 、 出家しようと発心した三 日慢の夜の夢に、一拍告 、 只何となく 等々地方色豊かな法要が名残りを留 、 院も少くはありませんが その多〈は 、 げて「心だに立てし哲いに適いなば位の営みはと 調論文 、 もあり 名月の頃でもあって 、 、 、 、 大八寧に近在から野菜を運んで 、 である普の日本の各地で 山泣かな法要が勤められ 殊のほか農耕民族 めているのです。特に十夜の頃は農村収穫の頃で 養 阪さは薄れて 、 、 人の世の相は単なる大海の淡にも似 本来の仏の奮いに添うて 、 。 にもかくにも」とあったことは、弥陀の大慈悲の て 光の前に 行うことこそ大切 なのだとの霊示と受け取る可きでありましょう 結果として点閏は人の世に人としてをる可き疫を 最近まで東京近郊の寺院で青物十夜等といって 泊り込んで 、 念仏生活に入ることが出来たことと なったわけで す 、 阿弥陀仏の本願に限覚めて あります。何事も勝手な理胞をつけて努めるべき 出が込められて そのままに保ち乍ら 行を怠って気盛な生活に陥入ることが最も恐るべ っているように思われるのです。だがこうした形 、 懐しい十夜会の憶い 、 無量子 是非念仏の戸の盛んなる 燭切って高座明るき十夜かな 、 現在の十夜法喪の該的地伎を保 こうした古老の話には ケンチン汁を振舞ったということで 、 前日かち鵠中が き給果となることでありましょう。私達の信仰生 骸のみの法要に終らず 、 活をここで今一度深く反省して 遣された行事の も乞願わずにはいられません。 、 忘れられた心に大きな光となって蘇 。 中 に求めなければならない心を確立したいもので 、 あります。 、 行事そのものがいかに心のさ 往々にして行事が行事で終る結果が少くないと さえとなり 言われていますが 6 ー - l * JID~ 二四 天 像= 王 。。。格調高 い 品性泣 か な尊像。。 。 多 開天 増上天 持国天 〈北〉 〈南〉 〈策〉 広目天 〈西〉 材質楠材 ・ 檎材 サイズ総高さ 2 尺〈生地仕上手彫) 4 体 一組 48万円 サイズ総おき 3 尺〈生地仕上手彫) 4 体一組 75万円 。彩色仕上も承ります。 惨 ご一報下さればご相談に応じます。 有限会社 . 〒990 山形市相生町 = 7 ー . TEL .( 0 2 3 6 ) 2 2 -2 3 6 4 、 九月十四日 朝。信州伊郊 苔むす山寺でのお 長野県西部地震 、 山脈を の地も久方ぶりの大地震に苔むした山寺の本 堂もみしみしと苛をたてて揺れ 動 き 、 、 その揺れに驚きであった。ち 越えて主滝村より四十キロメートル余り離れ たこの地でも ょうど 『 浄土 』 誌編集子よりのご依頼で 「日々の感想」を占かせて頂いている途中の 型枠 ゆ s . u... , ー じ tE 験 ヨ置き主 川、 う 院 φ口 『 守 、 、 仏さまの御力( その知人は泥下五メ 王滝村へ勤めて こういう時は本当に他に額 ー 、 トル程の中より 生コ 、 命家族でお念仏を申させて頂いた。翌十六日 るすべもないもの〉を願って、十五日夜一生懸 り いる知人が土石流に流されたとの連絡もあ さの一端を感じたのである 。 王滝村での配下型地震のものすご 外を見ると百年を超えた松の木が左右に第 光 れており 珂、 ら (想) ことであった。 8 ー - 『百 は 町 め 重量 と i 宮ネ つ (随) ン事務所があった場所から五百メートルも流 を得て 会も十五年に及んだ。ここにありがたい機会 、 、 、 、 、 五島喪体 小熊良悦 、 、 官悶真山師 、 原口正 押野見孝 雑感を含めてその記録としてみた された地点で見つかったとのこと。仏さま の御 力 のすごさを心から感じた次等である。 、 、 京都のぬ伊土宗法儀司〈土 浄宗法式 、 森労枚 蟹和願贈官郷隆広 、 原男皆 昭 和 四十五年初秩 之 、山 本尚三 テレビや新聞で報道されている以上に現場の 土砂のものすごさは目を覆うものであった。 、 弘 神谷高義 、 工事 にダンプ三台に乗っていった人は 地震 、 らの諸兄が 、 の最高責任者〉宍戸栄総先生をお願いして 信 、 大橋究順 森田孝陸 岡 回守生 、 危険を感じダンプより飛び 、 で目前の山が揺れ動き山が覆いかぶさるよう になったために 出し逃げて一息ついて後をふりむいたらば 目 「お動め」の稽古と突肢 五日間の合宿をしたのにその会は 、 州の 山寺に集まり 、 既にダンフと友人六名の姿は 眼 中になく のために 、 日常の食事作法 喫茶の心得等々いわゆ 、 前は土砂流が流れていたと その瞬間の出来 端を発する。講師にお願いして本堂の飾り付 、 事の恐しさを話してくれた。直下型地震のも 、 、 け 、 のすごさをかいま見ると共に 仏さまの御力 としかいいようのない故人の発見であり 、 プとして泌に梁りつつある時期で、私 1 、 びであった。本当に熱気がこもる五日間で 達二十歳の若い者が圧倒されることもたびた のホ 戸先生も五十歳になられたばかりで 法式界 、 めに 朝六時の農朝法要より始まり修了は夜 る僧侶としての身だしなみを身体で覚えるた の故人の夫人もこれから書く写経会の常連の 十二時をすぎてまで講義笑習をした。当時宍 そ 一人であった。 さて大学卒業以来研修を始めた法式の勉強 ー 9 - LV ‘ 、 川村一紀 、 、 兼子迅速 順 、 、 、 阿国玄有 、 、 、 黒川信行 、 篠関知 、 、 引き 回以村飽 、 椙原孝悶師らが加わり 森田良法 、 、 小川賞良先生 大河内義雄先生 ている。 、 太田 写経会を一般参加者を募って始め た の も 、 後七時半 、 一 研修俗 よ り十 、 灯火のもとに一生懸命写経す 多加者三十余名と共に り上がりをみせているが の頃からである。ここ数年写経会は 各地 で盛 こ 正敬先生とそれぞれ特色ある講義をして頂い 先生 『日常勤行式』を再版した。議師も大橋克順 、 通」という小誌を十号にわたり印刷し 近年 、 続いて研鎖することになった。その問 「一 玄 並、行正純生、大津茂丘、永江崎忠明 原正 、 太悶正敬 渡辺俊雄 加峰政倍 、 散も考えたが 粁たに大様寛順先生のもとに 、 、 回野島孝 宍戸先生ご自身もその年の浄土宗新聞「みほ 、 、 「地獄 餓鬼 金子泰歳 掬池晃雄 「三途脱式」をおっとめした。一一一途踊式 ら 比却臥山積川の元三裳で現在も 、 、 とけ講座」の中で その想いを鉱せられてい 、 道 で る。最終日のタ刀、五日間の総仕上げの意味 、 、 窓心僧都が「六遊説式」(「二十 は宍戸先生の新作になるものである 、今か 千年余も昔 五三株式」といい 、 毎年 六月十日に勤められている〉の法儀を創作さ 、 修練の技法を用いないで 、 本当に庶民と れ 僧俗共に法悦に浸り 難解の教理を説か ず 、 共に事修したものである。その「六道掛式」 を現在の時間的感覚を考え 也生」の三途に首尾を救えたすばらしい訟嬰 ハ約四十分所要)を灯切の光の中で修したそ の感激は今でも忘れることはできない。その 、 、 感一涙が こうして十五年も研修会を続けるエ ネルギーになったのだと思う。 、 年月は過ぎ 友人の給も広がったが 回を 時過ぎまで 、 前ねて十回目で宗侶としてなすべき葬儀式は 十三名ほどが 、 じめ主要な法要を習い終えたために 一応解 10 ー - 、 、 、 、 、 るのはまことにすばらしいものである。士口儀 加者に許こばれてなによりである。この古位 にのっとった写経会も現代に少しづっ合わせ 、 思わず この中で写 、 芳い の中はもっと切るくなって いくのでは ないだろうか。そうした畿会に遇えば ら、世 にしみ込ませる法要をどのお寺でも修し得た うか。法式という一つの形を脱して感動を心 、 得た紋は 仏さまの法カでなくてなんであろ た 山中守ですばらしい写経会や三途鯨式を修し 、 を続けてこれたことを本当に感謝し 苔むし 多くの方々の支接と協力でこうした研修会 、 てなじみ易くした方がよいかもしれないが 、 司 H説 お湯 将水 倫明科触脅し にのっとり 、 いと思っている。 て入話した怠加者ば 灯火の中にうかび出る 、 写経に 、 やはり今後もまた古銭に網じて続けていきた 道場散蕊する僧のほしさに驚き 、 阿弥陀悌の舷そかさに心うたれると共に 酒 水 対する意義深さを感ずる ようである。その人 、 逮がただひたすら一時間程帽子経をする姿が 極楽におあす菩種機のように思われ 、 、 思えば 現代社会はまことに時気のないそ 合隼する。 れこそ殺伐としたことが多いが 、 写経会を統けてきたことを 経する協会を与えられた人注の寓こびの戸を 来店に受け取り 、 心ばかりの夜 よかったと話し合っている。写経が終って一一一 十分程 折々のお説教を聞き 人にも阿弥陀さまが心にすぐ入って来やナい 懐石膳で出される夜の粥はなんと 、 た腹には のにと思うこの頃である。 粥を食して解散するのである。写経で緊張し もいえぬおいしいもののようである。家内と 母が三時間評議たものに少し味をつけて出す のであるが、年中行事となったこの夜間も怠 -11 ー 剛剛川"剛川酬IlfJlllt1llUlllIlHlllnUtUlII酬前剛剛剛剛IIItu.rJ:UII・1111 附剛剛園"剛網.....・・園開山"・--ー・開周回ー恩田・.,圃柵別調膚聞欄園調-・"・"・・・・・・・・ ア!チ ・ l1 家一一L、 市当 、刷, セイ カレ ・ 箪‘ーぅ 、 の,& 房が強く希忽したセントルイスから-- セントルイスに関する資料は持無に等し く、女 が 到着するところで、一回一筆を摺いた。 日本を発つ前、いろいろとプランを練った 員腕 3 一 、- ッ 、 セントルイスに 下主 夏 ラム ゲイトウェイ 、 木S セントルイスの ll 早いもので、娘のひろみがア l なってはいけないと思って 題して何回か寝かせて頂いたが あまり長く ッジを卒業して一年が縫っ。「卒業前後」と -司、 エ ュ l オ lp ンズへ下る餌光紛が、現在般行し l オ1リンズで 、 本 ランドジャズを犠能したかった 、 セントルイスの第一印象は 翁いというこ とであった。両手は荷物でふさがっているの 、 で 上着を脱ぐことも出来ない。汗をだらだ 、 、 ! 、 」 、 オプ ・ セントルイス」 ・ もう一…様いかにもスピード 、 いつの時代にか 、 その方には目 もくれなかった。 スピ 、 私は ド記録 ー を打ち立てた織のレプリカであろうが いた。多分 の出そうなスマートな俄体が吊り下げられて のレプリカと の愛機「スピリ y ト と娘が指さす方に 天井からリゾトパ l グ 、 「お父ちゃま あれ の広場へ出たところで 、 ら流しながら 空港ピルの人混みの流れに身 、 リンズには中南米からかなりの l l った。私はともかくニ品 ているのやらいないのやらもはっきりしなか 、 | オ 場のデキシ のだが 「ニュ を任せる以外なすすべがなかった。吹き絞け アメリカ事情に詳しい複数の人たちか 、 セントルイスブ 、 治安が悪いからおよし 難民が流入していて 、 なさい」 と 、 、 が聡かれないわけじゃない ー 、 ら忠侍されて断念した。はじめ セントルイ デキシ 一応二 三日のんびり スは単なる通過点のつもりだったが 、 「セントルイスでは 」 ・・・ ・・・ するか し そう言った私の顕の中で ルースのメロディ 猿谷要さ ないの 、 つ・ 」 「まさか。同じような物が何機もあるんじゃ 引い 」 「あれ とれはサンディエゴの航空博物館に 、 ーが切れ切れに浮かんでは かなり行き当りばった 消えた。セソトルイスについては 、 あったやつじゃないか したとはいうものの んの「西部開拓史」〈岩波新鶴Vを専ら参考に りの旅であったことは否めない。 13 ー IIIIU “ “ “ - 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14- 「セントルイスの心意気 いやセントルイス 野郎なんてどうだ?」 、の メート 「ふうーん、一九 二 証写 lgl ホテル備えつけの案内耳を読んでいた娘が 、 認な 出が 来ら ずこ て。ニナ 「七ントルイス野郎ねえ」 娘は肯定も否定もしなかった。 確念 「じゃあ それをパックに一枚撮っておきま しょ」 。は残 タクシーでダウンタウンのホテルに向か た号 ""1111“ 1111111111111' “ IIIIIIIUIIII“ 1111“ 1111111111111111111111111111111111111111111111111111111'''11111111111111111111111111111IIIIIIIIHIIIIItIllIlIIIIt“ 1111111111111I1 IUIIIItUIIIIIIIIIIIIIlU 。 ハ V ヲ 一七六九 年フラ 、 ミシシ 、 ・ジ ヲ 一八 ェ あ 。 ン ス人の毛皮猟師がこの ・・・・ ・・ 、 などと マス 西部への道を聞いて以来のことであ 合衆国の領土は一挙に二 、 ァ ::: 」 チの其下から見上げて言って i 一九二メ ートルねえ 、 、 首が痛くなった。銀自のステソ il うなほど熱くなっていた。 「酋部劇ここに始まる な」 旅疲れか 出てしまう。 時厳しくチ 、 ・ フォ ー つい馬鹿げた言葉が口をついて 、 ー チの二本の脚部に地下への 観覧室行のカプセル様の乗り物 、 ェ 、 ックされるが 私に言わせれば のカプセルが次々に上って行く。人数は乗る はこの地下から出発するのである。五人乗り 入口があり きしている。ア 高いところが好きな女房だけが一人浮き浮 ってみましょ きっと景色いいわよ」 、 「ねえ あの天辺の小窓が観覧室なのね。行 、 ド。とでも刻まれていればしゃれてんだが ジョン レスの肌は太陽熱を吸って 触ると 火傷しそ いるうちに 国王ルイ九世 に敬意 yピ l 以西の土地ハ現ル l 俄かに脚光を浴びたのは ン トルイスと名付けたのがそもそ 地に毛皮 交易所を設け を表し て セ もの起源で 、 、 O 一一一時 年の第三代大統領ト ァ l ソンが 、 イジアナ州〉をフランスから一五 OO 万ドルで 買収し る。これによって 倍に拡大されたハ案内強より官v 。 官一 約エーカー 、 アメリカは安い質 当時ヨーロッパ征服を 、 ハ約四 000平方メートル)あたり たったの三 、 セントだったというから 物をしたと言えるが 、 よほど金に困って チハ大西部への門)はこ 河の右岸に l ソン国立記念広場に建 ミシシッピ 7l 、 ・ア l 夢見ていたナポレオンは いたのであろう。 ゲイトウェイ フ の故本を記念して z 重量制限をした方がいいのではないかと思っ 整地されたジ てられたのである。 た。超肥満体の人でも一人は一人なのであ 、 「しかし 馬鹿でかいものを造ったもんたな 15 ー - "“ "““1111“UI IIIIIIIIIIIIIII“ 111・"“““"“"“IIIIUUIIII"II“ UHIIII“1111111111“ 1111“1111111111 “"“1111 “1IIIIIIUlUU“"“ 1111111111 “"““ 111111“ 1111“11 1111111111111111111111“ それにしても 、 大柄なアメリカ人にはかな l ッと上って行 り窮屈な乗り物ではある。カプセルはある高 さまでよエレベーター式にス タ式に,コトン 、 l 4 それから上はエスカレ 」 白っぽい揖闘をして娘 、 コトノと階段を 段ずつ上って行くような上 くが ! り方をするのである。 「いやだいやだ 閉所恐怖症の次房は る。 引かれて上って行く e 娘に甘えきった獲であ 観覧室の通路は長さ二 0 メートル弱、幅二 、 片側に十六蘭の貌き窓かついている。設 、 メートル強で 床はゆるやかに湾曲してお り 々が入って行った時には。ニ O 人ほどの観光 客が思い思いに外を眺めたりカメラを揃えた Vピ l 、 、 の泥流と 河向うイリノイ州 、 りしていた。東側の窓からは すぐ下を流れ る・ミシシ の平野が一盟出米る。河幅は割合狭く 五O 郊外に工業地仰があるのであろうか。そ 、 ど厳れたところに 、 セントルイス ・カ l ジナ にかく広い、の一一おに尽きる。四プロックほ は いるのが日比える。λモッグがかかっているの 西側の窓からは。街並が地平の彼方に拙例えて され 、自 動車がひっきりなしに流れている。 の腕を細んでいる。 外に肋骨子段がある 0 メートル位だろうか 。数本の回仰が対岸に渡 、 、 「止ったらとうしよう ひろみちゃん」 、 「大丈夫ょ ママ。ほら じゃない」 窓の外に復維な階段と無数の僻 uやケーブル が壁面を追っているのが比える。時々ガタン 、 観覧室へはまだ十数 と大きく怨れる。あまりいい気はしない。約 三分で最上部へ着くが 段の階段定上らねばならない。 ルスの俄畑山地であるプッシよ記念スタジアム すでにライトをつけて樽毎試合をや があり っていた。 、 「もう肱がガクガク」 そんなことを言いながら、女房は娘に手を - 16- る Wff:mfftll"'1剖:rtrl.Ulq・,"HIJ,UI'JlUWU"U'U IJ.IIII1UiIJl峰M'UIIIUUIU“・・・.HllnlillUIIII “ UII..II“ UIIUlmU..IIIU・・・..IIIUlum“・"““mUUlUUlIII UlmUIIUItUIIII_ 一- . ‘ 、 、 今年はど プの赤 l ジナルスの試 広島カ 1 「去年のワールド ・チャンピオン うかしら。初めてテレピでカ 合を見た時、懐かしかった ヘルを思い出して:::」 、 。 メイン ・ ストリートを通ってホ 、 にうっすらとタ閣が立ちこめて 涼しい風が 吹いていた 。 。 、 テルに削る 人通りは少なく 街全体にあま り活気は感じられない ・ 続出で大散していた。 、 ?」 、 明日のスケジチ としていた。 昼食をとってから 、 1 の ルをお母さんと相 ハ統〉 はや六時聞が過ぎよう 「:::それにしても厳が減ったな」 のスケジュールに従ってやろうと思った。 、 訟には怠の 目論見があったが 今回は二人 談して決めておけよ」 るから 「テレビ見る気もなくしたよ。先に風呂に入 ない 、 「もう 球湯へ相院に行く気 なくしたんじゃ i チャンピオンは、我々の怠・ 去年のワールド ホテルの部屋に入ってテレビなつけると、 つを」 野球でもちょっと見られないようなエラ 「あした観に行くか、本場の野球っていうや 「切符があればね」 一舟ぴ女房恐怖のカプセルで地上に向か たノ。 、 「ママ E場は朝八時半オープンだって。あ したの朝もう一度上ってみない?」 山いた。 パンフレットを見ていた娘が銅 「もう結構よ。眺めはとても紫精しかったけ ど」 「あんまり殺をからかうんじゃないよ。お母 ジ 土産物店をひ 、 やかして地上に出ると、ミシシッピ 1 の河面 アム」で開拓者の労苦を偲び l さんはいま天国と地獄を味わっているんだか ら 地下に開設されている「西部開拓ミュ L- 勾, 山形 園南仮に柵制緩の 廻覚 りえ曾 野盆 前 になると栂経廻りの日や時間の問 、 好 牛畝 選 東京 栗原やゑ子 一夜を楽しんで居るのである。 も のであ る。家族会員が其の花に酔って かである。森に包まれた鴎は婦のように 時前がやかましいのである。 る のである 年は取るものでないが 、 仕 。 方がないと静めなければならぬ。 東京 敬二郎 安藤平次期 下町に住む気安さの瓜をもむ 福岡 図 老人となれば怨さ寒さが柏村に身にこたえ扇風続首綴り通しお奈の座 熊本 述れだちて虹副間流る西方へ 山口 孫が来て兎餅つく月n 品かな 東京 音問ゆきゑ 専なりも年とあきらめ敏老日 群馬 熱繍や高層ビルの光り増す 福岡 一夜の命の月下美人は美しくはかない老息の朝顔鉢もち入院す 負担担車窓盤 貯 休みの図は保母さんが一人留守して静 師 関静か保母さん一人秋時雨 も 、回 の隣町に 帰板に覚え掛惜して置けば中古寸 合せが次 Aに、又初経に廻って和尚留守 福岡 除 数買轟甘えて盆用意 く 族 に も分る為めに万事都合よい。 新し 野盆 も近くなると珠歓の紐が切れている 縮問服務 る。新しいものと買答えるととも盆用愈。 老ひの身の放にこたゆる暑さとも ことや古くなっていること絡が気にな 田 野 若い頃は絡さも身にこたえなかったが か 明 石 土 東京安居 2 涛 遺 庭 浄 一家あげ月下美人に酔う夜かな 細 原 句 荒 m, 田 松 牧 t事 野 ~ 樹 上 山 崎 集 光 誉 亀 J J { 光 代 響曲醤唾瞳 。。 東京 山荘に取残されしハ γ モァタ 真野よし子 東京 小笠原容符 紅笑慾鈴拶交し人定作つ 東京末神間てる子 風に揺る芙懇の花のやさしげに 熊本 西きして急ぐ締忽舟小さし 福岡上協同津弥背 風鈴のやすらぎ努ふまろび寝に 神奈川 新涼や総背景に仁主門 千築 家中を風吹き抜けて昼寝かな 鈴木美智子 敗駿日既に師陣史の一官民 山口一一 一 井 流灯のまたたきの聞に流れけり 情問弁 新仏震度の阿武き十夜議議 福岡 病む設に盆の用意のあるものよ 大分丹羽 子の如くお基洗うて老楽し 来育訓吉原町立釦拍子 荻乱れ咲いて山荘静かなる 東京 あわれなる戸の淋しき秩の鱒 東京猪掴耐 幸子 震蘭盆の仏聞にかけし父認の軸 治 続勝みきを 19 ー - 静 玉 泉 寛 土 鐙 中 峰 弁 井 回 深 前 f 正 福岡 岡 一一一盛 ら 主主 秀 京 都 ず福 保育同二千残容を忘れ黒部悠ゆ Q 3t 天草の客僧待てる波止策火 寸 足 僧堂へ郎きしめける溢師側 絵銀燭灯り舷ふ地蔵盆 岩井 の 縮問 米子 京都 鬼灯や水子地蔵のあどけなき 官、 雨乞ひに村人有志山受り 福岡 顔棚 噛めて西瓜会ふ採楽しげに 長野 玄関旋風子 知る人も知らぬも交る摘の総 沙 弥 後 明 畝 や 牧 代 前 敵 秀 弘 牛 棚 経 田 允 子 水 山 須 図 子 fJ., 田 山 田 松 木 中 松 伏 - 図 山 形 崎 牧 荒 荒 牧 一一一寸 V 談 な ど そんなに目立った広告をしなかったようであ そして目立つ宕叡とともに、テレピの CM に 最近特に自につく宕疲がある。その看板は、 も仏泊、仏具店のそれは登場してくる。一身 る。しかし最近はちがう、こうした大きな、 とても大きくて誰でも自につく。いったいな なぜこのような店の羽絞が出ているのか、 てるとよくわかる答である。 どこの店の石原と言われなくてもテレビをみ それは仏塩店や仏兵店の宕彼である。洋品 んの宕板であるかと思うだろう。 店や食料店などの泊板にひけをとらないほど -20 ー 評 仏壇・墓 相学のこと 大きくて目立つ。 手口 わ 戦前はこのような仏温、仏 HH の店などは、 良; 相 O 仏壇の CM 橋モ 世 バイパスや高速道路を車で走っていると、 高ま 八 ------二二二二二二一一二コ 仁 、 、 宣伝するからまた売 それはひとロに一言うと 売れるからである。 売れるから宣伝する 、 、 早とちりしては困る 、 、 仏壇は買いにくい。 金があることであ 、 それは国民の信仰が 仏具がよく売れるのか。 れる。誰でも知っている哲学である。ではな ぜ仏壇 そんなときすぐさま 、 その理由としては 高まったからであると が る。金があるだけでは 、 よほど余分に金が入ったからである。 というのは 農村をはじめとして土地の所 、 、 残念ながら金箔が はますます感激して それなら家の仏壇は、 普のもので価値はあるが 剥げている。それなら塗り変えしてもかなり ようというので 、 何十万 、 何百万の仏浸を買 金額がかかるのなら 、い っそのこと新しくし うことになる。 風が吹くと桶屋が儲かることと同じであ る。 そこで菩提寺でも寄附金が志納されて仏具 、 いわゆる仏壇 仏具の を購入することになる。そこで仏壇屋の利益 、 しかしこの現象は すぐさま宗教心の高織につな 、 があるということが 先租代々の土地を手放してそれを金 、 が出来る。 この仏積 、 仏具プ 1 、 、 ムをして真に信仰心と 侶であると思う。果たしてそのようなよき機 を生かすようにすることが出来るかどうか。 それを揖っているのが 宗教家であり 僧 さらに培うことによって信仰心に進めること がらないかもしれないが 、 有者が 、 このことが 店の看板やCMが出るというわけである。 、 、 これは祖父が買っ に替える。全く一穫千金である。 あの土地が売れたのか 、 祖先のおかげである。 、 ておいた土地である。何千万 何憶という金 が得られたのは 、 このように考える人々の何人かは 祖先の ために その菩提寺に永代経や澗堂金をあげ る。菩提寺でも何十万という永代経が志納さ にていねいにその法会を営む。すると 施主 、 れるのは 寺としても嫌いではない。まこと 21 ー - ;岡田ー・--ーーー ー・・ー・-・e・・・・・h・・・・・ ・.-..-.._ー・・ー・ーー--・ーー・珂M・・・M・・・*・・・・・噌・・凶酢喝唱・4・・・a・・M・・・・・・・・a・・・・・・・h・・・・・-圃・・・叫H・・"・‘"・・岡・・・4刷・F・ー・・・・ーーー・ー・・・・-・・・・・剛・・・・咽胴・・・・咽酬・・"ー・・ー・・・・・開.・・M・・ー・酬・・・M・・圃M・ i._.___…・…一一一一一一一一一一一一一……ー…・……"一………一一 .40... … --一一一一司 結びつける働きが必要であるといえる。 それにふり廻されている御幣かつぎ 基相学というのが著しく脚光を浴び 、 O 護相学という御幣かつぎ 最近 、 ている。 また がいる。 、 、 そんなものがなか 果たして基相学という学聞があったかどう 昔といっても松前は ったことは、たしかである。 か 、 これも仏濯 仏兵プlムの便乗とみてもよ い。家庭が鐙かになってくると道具や家を新 しくする。人聞は誰でも自分の周囲を斐しく 、 最後は先組の基をつくる。都会の寺 したいものである。道具や家が新しくなって くると が 、 露闘を造成した。 では墓地がもうない。それに自をつけた業者 、 我が国の至るところに 霊闘があって何千 、 基 何万越の基が建っている。都心から離れ たところに霊園が造成されても結構基が建て 、 、 、 お診りが出来 老人でも子供 、 られている。自家用車があるから 少しの距 車で行けるから みんな新しい益である。そ 、 ま 登場してき 不幸があるのと 刊誌の知識などないから 、 、 商売であるからやむを得な 、 安い誌より高い基を売りたいというの 、 にハンドルをもってもらって 離ぐらいは る。 、 これらの基は 霊園側も こで 、 、。 は 、 ゃれ縁起が聴いの 、 そこでこの義組学というのが ' l v て くしたてる。 基を建てる側には 、 家人が病気するの 石碑屋の言いなり放題である。この字を用い 未亡人になるの 、 、 基相学という学問 それをまことしやかにまくしたてる。 それを承りたい。そんな 学問の世界である筈である 、 学問の世界であるわけがない。高相 、 ちょっと申しあげるが 、 ると と 、 があるのかどうか ものは 学という以上は 22 ー - . _ . . . . . _ . . . . . . . _ . _ ; …一一一一一一…一一一…一一一 が 、 、 そんな研究を霊感でやっているのが 基 相学である。 、 第一日本中にある何十 万とある墓のなかの れを承りたい。 何憶といった石砕を調査したのかどうかそ 、 ー タ そんなことで この学問にはデ 、 それは一つや二つの基の石碑は調査したか 、 統計となると 、 一度つく どこかでせせら笑っているような気しがない ハンコならつくり替えられるが でもない。 った基となれば、一生ものである。悪いとい ってつくり替えるわけにはいかない。 そこがつけ目であろう。 、 、 迷いが生じる 、 あ mω 基相学に迷わされて右往左往する人が多く なってきた。先組を記る基に もしれないが 開教して九十周年 ハ ワ イ に浄土宗 が 、 家人の心の問題である。 統計学がなり立つほど 、 O ことは 、 それが基相学とはおそれい 、 。 ハワイに浄土宗の寺が出来て九十周年にな 、 開教事情を調査したのは 、 本派本願寺が古いようになっているが それ 各家通じて 一ばん古いのである。もともと る が必要である。基の施主の一人や二人死んだ る。 からといって もう一っこの基相学に似たものに印相とい 、 うものがある。ハンコの文字あるいは鍍刻 で 士口組があるとか不幸があるとか とん 、 、 勝手に流行させる。そして おかしなことである。 でもないことだ。この印相もときどき変ると いうから 勝手にきめて 、 は現地の僧が 、 売れてハンコがつくられると 誰かが利益を ちらさんが先であるが 内地から僧侶を開教 。 得て鍵聞ける それに乗って御幣かつぎ屋は、 伎として派遣したのが 浄土宗である一 。 ハンコをどんどんつくり替えている 誰かが 開教使の第一号が、二人ある。一人は信州 飯田の松尾台定師、もう一人は当時山口から 赴いた阿部学応師である。そのうち松尾師 仏教の寺というので、ハマタワ仏教会堂と言 うた。 そのなつかしい文字が、この卑寸の門柱に刻 ワイの文化財の指定をうけているらしい。 この まれている。この寺は、最初の寺として、ハ そして今回の関数九十周年を機会に マク ら、東京の病院で死去した。阿部師は、ハマ クア浄土説、当時のハワイ烏のハマタア仏教 ワ浄土院境内に建てられることになり岡部師 第一号の開教使阿部学応師の胸像が、ハ は、中途で病気になり、内地に帰還してか 会堂を開設し、更にオアフ島の会のハワイ別 、 松尾台定 血のにじむような初期間教の苦労である。 ている。 の遺族はじめ広く教師が、その募財に協力し 、 院を開創している。 、 、 このところは、 このこ師は、マウイ島から、ハワイ島のラ ッパホエホエに上陸したが 岡部師は、開教使第一号であるし 、 像を背中に負っていのち綱をもって上陸し 岩鴨でとても船が岩につくことが出来ず 仏 苦難の 、 は、数化に努力すべきではないだろうか。 開教の歴史を肝に実じて、若い世代の人々 浄土宗の今日あるすがたのなかに 深い大法要を盛りあげることに成功した。 主がハワイ各島の寺院に親教して、この意義 十月十二日から約十臼聞にわたって藤井門 殉教第一号であると思う。 師は 、 その仏像を馬の背に乗せてキピ畑のキャンプ おれたちは、女とバクチと酒である、抹香 で働く労働者の鮮に伝道したのである。 、 やっと話を聞いてやろうというので、その それにも負けづに伝道した。 臭いねんぷつなどは、無用だ、と追払われた が 人身のために建てたのが、ハマクワ浄土院で ある。それでハマタワ浄土院は、最初は各宗 -24- 土 ,三z・ 刀"' の 1¥ イ開教 ワ .-・旬、 、-戸 一 一 一 前 新た 妻保ぼ 浄 白義ぎ ワ 華道 f 章生 明 ω 浄土宗の開教制度が設立されたのは一八九八年ハ明治一一一十一年〉で、同年八月六日教令で開教規則十六カ条 浄土宗閲教区制度設立以後 浄土宗の 開教 浄 ロ 第二開教区台湾各地 第一開教区鹿児島諸島、沖側 布された。その中で開教区を次のように定めた。 一 第三開教区朝鮮 〈但しその後度A変莞かあった〉 第四問教区ハワイ 開教が一宗事業となったので、布珪向島教会の使命は一応達成された。そこで浄土宗は八湾問大定を開教伎に任 叩叫 じてハワイ島に派遣すると共に、既にハワイにいる問中限時間柄をも開教使に任命した。以下各浄土宗教会訟の創 ララパホ ヱホ ヱ教会堂 立から最終のエワ浄土宗教会堂が設立された一九一七年までの草創期についてくことにする。 註 4 、 小学校というのは学校令によるものでなく、当時日本語学O 校O を小学校又はOO日本人学校と呼んだ。殆んどが公 雄はバウハウ小学校主任として活躍した。 られ七間四面の日窓式本堂を新築した。同師代二名の開設使が駐在し、名護忍亮はホノカワア小学校主任原哲 内陸 4V 在任し多額の負債を償還した。一九一八年〈大正七年〉第四代吉田良紘が創立以来二十年を経過し改築の必要に迫 前述の如く一八九六年ハ明治二十九年〉岡部学応によって創設され、翌年回中摩問桁が着任した。問中は岡 四年九月教会堂内を教室に充て、日本語教育を開始し、併せて教会、寄宿舎、住宅を 。次 刷で 策池し悶た 常然が ハマクア浄土宗教会堂 定芯任、同三十六年小林了秀、同三ト九年夫鬼態違が祉任し翌年学校を薪策、四十一年に三階建に改築した。明 治四十四年ハ一九二年〉江川岳天、大正三年三九一四年〉吉原自覚、大正六年佐山学順が倉任している。 ラウパホエホエに教線を進め、同年二階建の教会堂を新築、同時に日本語教育をも始めた。明治三十三年伊藤円 、 八一寿国大定は一八九九年ハ明治一-干二年)二月日本を緩れハワイ島ハマクアに魁周 い年 た六 が月そこを去って 。 。 l ラア仏教会堂 ハ後のカ lチスタウン浄土隣〉 立学校の公怠立の正規の学校はイソグリッシa ・スクールと呼んだ。 オ 、 、 、 ォ l 、 山県ホテルの ラア仏教会堂と祢 ラアに移り 治六 三年〉現在地に教会堂及び学校を建築し 一九O 一一一年(明十 l 黍砂 勝負 で ホエは共にハワイ島北海誇中央部にあり 当時ハワイ最大と言われた東部のオ1ラア岩崎キャンプ織ハ 、 成功した岩崎次郎の名をとった)に仏教会堂も日本語学校も無かったことから同年オ 一室を借りて布教を始め 、 した。二代羽田信道は一九 O八年ハ明治四十一 年〉会堂を改築し 併せて近傍の土地を購入て寺の基礎を定めんと 、 理年二月向島西北端 努力中不幸にも殉職した。三代上野山秀徹は前任者の意志を継承して八エーカーの土地を購入しその地代を以て 教会の基金とした。 カパアウ教会堂 ハ後のコハラ寺、コハラ浄土院〉 、 初し めハマクア教会堂で国中を補佐し 安西添信は一九 O 一年ハ明治一一一十四年)じ月来布 、 ラウパホエホェ 京都のオ 、 l ラア 、 商北部のカパアウ これを統制する必要が生じ監督の派遣を宗門に4度 婆請した。 ハワイ島の北海岸中央部のハマクア みである。次で浅弁法隆が六代となった。 、 ほぼ北海岸に沿って四カ寺が建立されると このようにして 、 、 、 三土 月宗管長はハワイに於ける開教伎を統制監督する為 清水信服を関数佼長と 一九O 一一一年ハ明治三十六年〉浄 と 、 営した。四代中西忍海を経て五代中村浄真は経蔵を建立し大蔵経を収めた。経蔵を持つ土寸はぬ仰上白剤ではこの寺の 村儲畑恵は日本語学校を設立、三代立川真教はそれまで守にあった日本語学校をホノマカウに移し付属校として迎 に近いコハラ地方に赴き混一九 O三年〈明治三十六年)四月同地方の中心地の現在地に数会堂を新築した。二代木 幻 伊藤門定は一九OO年来布し最初ラウパホエヘエで八労回を補佐していた。ところがハマクア及びラウパホエ 。 。 して派遣し 、 開教使岩崎秀孝が随行した。 清水開教使長はハワイ烏ラウパホエホエ教会堂に仮本部を置き 。 た。随行の岩崎は後ハマクア仏教会堂酷として任地に魁いた ハカラウ教会堂 開教事務監督並び 、 ・キャンプのパン 布教の普及発速に当っ 、 稲田内千里が一九 O 四年〈明治三十七年〉七月ハマクアとオ l ラアの中間 、ハ カラウのダンプロ 、 、 焼小屋の一室を借りて日本語教脊を始め 問年ハカラウに二階建の教会堂を建立し階上を布教場 階下を校舎に 、 充 てた。二代鈴木応善が一九 O九年ハ明治四十二年〉これを改築し三代松井輝道を経て四代立川真教が寄宿舎を 建造した。外に 山 口隆戒が駐在として彼を補佐した。 ワイ ナク浄土宗教会堂 、 ラウパホエホエ第 三代小林了秀が後を天巾治癒速に限り ヒロのワイナダに移り一九 O 五年ハ明治三十八年〉教会 、 、 、 一二代斉藤源遣を経て四代土井定秩一 が九一三年ハ大正二年〉現在地を購入建物を移転し 、 、 旅教室を建立しワイナク浄土宗教会堂と称し 翌年寄宿舎を建築した。二代清水観碩は 一九O 九年ハ明治悶十二 年〉会堂を増築し 後年大改築をした。 九二ハ年ハ大正六年〉住宅を新築した。名護忍亮が五代となり ハヴィ教会裳 、 、 ハャ グンィ プに 一九O 五年〈明治三十八年〉同緋地の人々の要望によって、カパアウ教会堂二代木村猶葱が・キ O 九年〈明 日本語学校を始めたのがこの寺の起りで 翌一九O 六年鈴木応善が校舎を新築 三代中西忍海が一九 治四十二年〉殿堂を新策した。四代中川大仙が一九一四年〈大正三年〉関数使住宅を建て、同年八月御宮殿始め仏 -2 8- 。 。 。 ている。 兵が整い 勅額傘掲 、 御本尊遷座法要を勤めた。彼は後年社団法人進徳会を組織して六エーカーの土地を入手し 、 浄土宗開教院 ハ後 の ハワイ 浄土察別院 〉 ・ 、 ラアに教会堂を建立した l 。 そして 一九O サウス街にある土人の家の一隅を借りて世帯心布教に従事した 、 、 浄土宗が一 八九四年ハワイ開教を始めて以来新築された七つの教会堂は総てハワイ島に限られ開教該部も亦 、 岡市カカアコ ハワイに浄土宗を広める為にはホノルルに進出せねばならぬと 考え 、 一九O 五年(明治三十八年)七 一 一一一 十 一年〉ラウパホエホエに派遣され 一九O 三年オ 向島にあった。一九 OO 年ハ明治一 伊藤 円定は 月ホノルル に移り 七年(明治四O年〉清水閥教使長を招いて開教本部をホノルルへ移した。 同時に数 地を借りて七間四面二階建の殿堂を新築同年十一月十六 ・十乞の両日新築落成と入仏廃讃法要を修し 、 「浄土宗開教院」と称し ハワイの主即仰に於ける伝道の拠点とした。これは当時各宗を道じて悠一位の堂々たる ものであったという。 、 一九O 九年〈明治四十二年)清水閲教使長が辞任帰国したので 伊藤円定が第二代の開教使長となった。彼は女 た為辞 任帰国した 。 ヒロ教会堂 〈後の 、 ヒロ 明照続〉 一九O 七年ハ明治四O年〉清水観碩が 、 ヒロ市ワイアケア街の僑本幸右エ門宅の二階を借りて仮布教所としたの 一九O九年(明治四十二年〉ピオピオ街にニエカ!の土地を借りて宏荘なる、数 を年 建立 一会 九堂 一四 、 ハ大正一-付 一属 年突 〉 践女学校を創立した 。 吏に寄宿舎 欽府F 割烹室を設け同胞女子を収容し教育に当った。そして が最初で 、 学校を開設す ると共に布教復興に全力を傾けたが 一九一七年〈大正六年〉九月大使林深川霊厳寺特命住職となっ - 29- 。 。 一九二O年ハ大正九年〉辞任帰国した。 プウネネ ハマウイ〉仏教会堂 〈 現カフルイ浄土院 ) 一九O九年ハ明治四十二年)、 秋二十七歳の四日年僧型 原道か 、浄土 宗教会堂の無いマウイ烏開教を志して 、新任 点玄関 マウイ向仰の 、 カフルイハ阿部の上陵地)の花岡旅 U4 館時 . 的似拠として各方而に山被、野外伝道を行った。 の室山実齢"を伴いラハイナに上陸、同地の背木 テホ ルに一週間滞伝し野外伝道を行った。次いでワイルクを経て この間 室山はカワイ島へ出発している。室山と別れた原はプウネネ税池東五番を仏法有縁の地と定め、耕主に仏 。 教の開教使として耕地内に常住することのゑ認を求めたが、キリスト教徒たる耕主は最初の内は緑地色を示した 、 、 sv 《除 、 然し再 三の交渉の結果 速に彼の熱意を了として労務者会宅の一室を貸与した。そこで 同所を仮布教所として 。 、」 同 『布陣也日本人怠史 ハワイ浄土宗教団発行「洋上の光 、税関栄著「布 院は五十年史 沼」 田絡 棋には級会食建立が一九一 」 一年(酬明治四十四年)とあるが、原製道の手記及び勧募般によりO 一年 九が 一正しい。 コロア浄土宗教会堂 島民5 月には歓会堂を改修し二年後帰国した し、後こ れを発展解消して実科女学校とした。一九二ハ年ハ大正五年〉六月マウイ実科女学校校舎住宅を新築、八 一九=ニ年ハ大正二年)三月二代大国秀山が夫人と共に若任、一カ月後食児、弧児、不就学児童を預って教育 教線を鉱聾した。 に浄土宗仮布教所を設置し、又キヘイ及びクラ両日本語学校を本京の手に入れ、夫々曽岡賢獄、士白水天瑞を送り を受け僅か三カ月で、二階建教会堂を完成しプウネ不仏教会殺とした 。本絡が確立したのでラハイナとワイルク 最初は徒歩で、後には梁将の寄進を受け遠近に出彊布教 翌一九一O年〈明治四十一一一年〉耕主の好意で土地の貸与 -30- 。 。 、 年一月で 各地巡視の後塑二月 O一 室山突拍"が未だ浄土宗の布教が行われていないカワイ島に渡ったのが一丸 四代伊藤賢成と次第した。 カ パア教会堂 、 、 人り 所有の 一九一一年〈明治四十四年〉十二月吉田達祐がコロア教会主任室山実静に伴われてカバア中 に国歪 、 一田 一玄 一徹 代合間違 本郷某の家の二階を借り仮布教所とした。同年六月コロア浄土宗教会堂を建立した。一一代原 祐 し 、 カパア日進小学校を設立した。 ハレイワ教会堂 、 、 家屋を借りて仮布教所として伝道を開拓した。翌二月原因玄徹が主任となり 同年九月〈大正元年〉殿堂を新築 た。 、 、 ホテルを敷地共に購入 階上を本堂 ・ 、 階下を付属日本語学校及び問教使住宅とした。一九一 、 、 は一九一一一一年〈大正ニ年)土人より土地を借り教会堂を建立した。間もなく斎藤は他に瀬 転尾 任義 し定が治任し 、 一九一O年〈明治四十三年〉プウネネ教会堂創立者原型道がこの地に仮布教所を設斎 け藤波迭を迎えた。斉藤 ラハイ ナ教会堂 した。 五年〈大正四年〉七月宮本文哲がこの教会を継ぎ一九一八年ハ大正七年〉本堂建物の両側に一階建本造校舎を瑚策 所有のシーサイド オアフ島郡部のハレイワに赴き 初め中国人所有の一民家を借りて布教所とした。翌一九二二年(大正二年〉白人 一九一O年コロア教会堂を建立した室山史的は 二年後の一九一二年〈明治四十五年〉五月浄土宗教会堂の無い ー - 31 。 。 。 ワイルク教会堂 。 ここもラハイナと同様プウネネの原型遊が仮布数所を股け伝道を始めた。 彼の辞任後プウネネを継いだ大国秀 、 マウイ島に三 、 オアフ島に一二、カワイ -H にM こと、四つの烏に計十六カヰ寸が統々建立され、本家開教の綴拠が このようにして岡部学応が一八九六年ハマクアに最初の浄土宗寺院を建立して以来二十一年間に、ハワイ島に 一九一七年〈大正六年〉烏田隆道がキリスト教の綴んな当地へ来て教会堂及び付属臼本語学校を建設した。 ヱワ浄土宗教会堂 代と た 三岡 山は一九一五年ハ大正四年〉教会堂を建立し、内山信孝の派遣を得て 師な がっ第 八 発展の基礎が定まった。 、 これら創立者及びこれに統レた人遣の巡回布教は、交通は不便であり、日本人移民は傍労働者で時聞から時閉 出来 Fの までは一寸の畷も血怖いので夜を待って布教を始める。帰途砂儲佃畑やキヘベ林 ず に中 なで っ迷 て野宿したり、足 日もくらしたり、戒は伝染病患者の若謹をしたりの R4 で、到底今日の投々では想像も出来ないようなものであ 、 の底豆で歩くことが出来なくなったり、強烈なスコールでぬれね.すみになっ 穂た 子の り笑やパナナで二日も一一一 ったことは、彼等の手記によって明らかである。間郎学応及び原型迫が二十七蹴と判明しているように彼等の殆 んどは二十歳代の年齢で、前述のような移民の状態の中で布教することは余程徳行が優れ、意志が強国でない限 力で事実それをやりとげたのである。 り布教の効薬は上らなかったことと思う。然し開教のパイオエア遣は言語に絶する苦難と、血のにじむような努 - 32- 。 。 、 一九五一年カパア浄土院は北島畠維の努カで現在の本堂が新築された。ラハイナ浄土院は 、 最後に補足として、創立者によって教会常が建立されて以米今日に至る問新築或は移転新築について由くこ とにする。 先ず新築としては ホールが完成している。 、 錨様、大仏が建造され 、 一九七五年には白鳥舜成によってハレイワ浄土院の本 、 一九六八年本堂焼失後原源照の努力と日本の実業家大森正男の絶大なる援助によ今っ 日て ハワイの名勝とも苫 、 われる純日本式本常、 三股峰 堂 移転については、先ずハワイ浄土宗別院が地の利を得ていなかったことから福田閣正によっ、 て一九二八 年現 、 。 在のマキキ街に三エーカーの土地を購入し一九三二年現在見る大殿堂を建立した 上述のラハイナ浄土院は久 、 住宅を新築した。 、 政府の援助もあって日野秀瑞代 の一九六四年に現在地 、 保田贋逝〈現加藤絵〉によって一九 一一年 一一 現在の海岸の景勝地を購入し建物を移転している。ヒロ一切照院は一九六 、 ホール O年のチリ沖波で綾減し 同地域は移転地区に指定され に殿堂 。 、 、 、 筆者新保義道は主任 と して 。 各島を通じ最初のものであった 、 。 、 直ちに新開地への 移転新築を決意し 若々手を打った。私が 、 住宅を現復地に新築し 名称もカフルイ浄土院と改め 、 (了) 将来人口五万の街造りを目指すカフルイの中心地に位置し最 、 漸く十年後、労 hH席中仕で本堂、ホール 数室 これは各家 も将来伎がある寺である た によって 「人災」と名づけた信徒と与の同時移転はなまやさしいことではなかった。然し信徒と関数伎の涙ぐましい努力 いうことであったが 耕地から発表のあったのが一九五九年秩であった。耕地が提供していた住宅のみで寺はそのまよま い居 と 続けて 、 民〉である。 二千戸近い労務者用住宅があったプウネネ パイア地区のキャンプを閉鎖し新開地へ移転するよう 、 近年のハワイは砂結産業 ・パイナップル産業の没落により各島で砂糠地耕 、 製稽会社 パイナップル工場の閉 鎖が相次ぎ過疎開屈が仏教寺院をゆさぶっている。この過疎対策に成功したのがプウネネ浄上院ハ現カフルイ狩 -33 ー @『浄土』表紙版画絵販売についてのご案内 『浄土』十一月号をここにお届けいたします。 どうか、 『浄土』誌の充実と継 続 のために、会員鰭兄の皆さまの暖かいご支媛とご高配を心よりお願い申し 上げます。 好評の『浄土』誌表紙版画絵は、小林治郎先生のど好意を得て、豪華額縁に装丁して販売させていただいて おります。額縁代も含めて、金二五OOO 円というお求めやすいお値段で、象節観に溢れた芸術味曲置かな版画 掛物が鵬入できるわけです。どうぞ援轡にてご注文顕えれば宰いです。 おことわりさせていただきます。しか 、 また、大きさの方は、 『浄土』表紙絵よりはずっと大きく、約却価X却個位の大きさですが、額縁の大島 Cさ でいえば却価 X卸価程の大変豪華な一幅となります。 なお限定販売のため、予定数に達しましたら、申し訳ありませんが l 八 一二八七 し現在のところ、昨年度の大西耕三先生の雅趣に富んだ版画絵が、正月号から十二月号までの在庫も充分にあ りますので、ふる ってど注文願えれば幸いです。 ハ 由申し込み先〉一 Tm 東京都千代田区飯闘機一 l a --l六 法 然上人鎖仰会振替(東京〉八 - 34- 合会 食食会合会合唱~**女食******************* 章 ・絶 手 、 の 七一 一 … 日目 して阿悶世王はおのれの父親を殺したことに く5> /氏、 寸習志 、 「そのとおりだ。父を 、母を、阿綴伐を殺し 少年サピヤは訊きかえした。 んでしょう?」 「五逆罪の一つでも犯したら地獄へ堕ちる 「五逆罪が消えたことにはならない」 「死へ迫いつめたんですものね」 論した。 伺 人令 王会械の物語を終えたタハス噂者はそう給 なる」 典 35 ー - mq 挿絵 ・松 経 「じかに手を下したわけではないが 結果と 前 会会毛主主ト*セ女**********-t足**********ななな* 、 「尊者は私に、その削除した方を教えて下さ 、 っています」 仏を傷つけたり 教団の破壊活動をや たり 少年の背い簡は鋭く老師を凝視してくる。 弘淑しつくしたわが師といえども暖昧さは許 仏法へ向けた容赦のないきびしきであった。 「阿間世主は鎚婆述多にそそのかされたりは ったおは、線開地獄へ逆落しじゃ」 したんでしょうが、その五逆罪を四つまで犯 量寿緩が何であるか、その鎗廓だけを教えて 「お前が街摘したとおりだ。わしはお前に無 さないのである。尊卓也はたじたじとなる。 したんでしょう」 せた酔象を釈尊一行の列へ暴ばれこませて仏 父頻婆盤羅王を死へ追いやった。活を呑ま 弟子を殺した。山上から釈尊めがけて大石を おくつもりだった。しかしお前が今そこまで る。すべての衆生と言うからには、五逆罪を 成就して西方浄土に仏として実在されてい するという奮いを立てられた。そしてそれを 備さがある。阿弥陀仏はすべての衆生を救済 節分を削除したこと肉体にぶまりがある。不 、 後芯へ心を投入させたのであれば わしも対 、 あるいは発給して提婆のもと 仏九討に血を流させた。精舎の修行 、 僧たちを焔動 応を改めねばならない。阿閣世王H授記 h"の 転落させ へ脱走させたのである。 、 母親のぷ捉希夫人だけは平らくも手をかけ ずに済んだだけだ」 M では阿弥 「そんな阿間世王が なぜ無島H経 できるようになったのですか」 陀仏に教われて柏崎獄へ堕ちないで浄土へ往生 許されない」 犯した悪人といえども例外として扱うことは 一人を救うために釈尊は浬駒栄へ入るのを中絶 「タパス尊者。それをうかがう前に阿閣世主 「サピヤよ、よくぞ訂った。その理由が明確 H になっておらない。明確になっておらぬから こそ、同じ無批判月経でも阿間世主授 の組内 箇処を削除してしまったのた」 - 36- 会**************************セ**** たのでしょうか」 された 、と ありました。そこまでは羊皮紙の 「その月光を浴びて阿閣世王は:::」 らない」 生命を息づかせるためには月光でなければな 「うむ。月光で身を消められたはずなのに悪 経典で読んだのですが、あのあとはどうなっ 「大般浬繋経でお前が土木だ読んでいない部分 玉は未だ釈尊ほもとへ赴くのをためらった。 続けた。彼は熱心な仏徒であったし 倒の悪 を見抜いた釈尊は決意をうながす箆気を道中 気になる。それでも途中なお心は迷う。それ く悪玉は裟緩双樹下に横たわる釈尊を訪ねる 、 強靭な金属線のようにびーんと張り波され そうとしたとき懸命に諌止した男だ。ようや 玉が母意提希の前髪を摘んで引きずり倒し殺 異母弟でマガグ国の大医者獲は悪玉を口説き のことだな」 、 た。 洞窟内には緊迫の気が 師弟の聞で一本の 「どんな経過をたどって阿聞役王は救われた 「うむ。釈尊はまず月愛三味に入り それに 、 よって我が身から発する光明で悪主の疾患を の恵王へ向けて集中する」 のでしょうか」 除去されようとなされた」 『それで ついに対面できたのですね」 、 「月愛三味とは?」 裟羅双樹林へはいってきた阿閤世王はすぐ 、 には釈尊の所在を採がしあてることができな 、 「経匂は語る。月光愛すべく 以て人の熱悩 阿間世王はきょ かった。すると八色の戸が樹聞に響きわたっ 釈尊この一一一味に入れば浄光 'll を除くがごとく 大主よ」 、 を以て衆生の食りや眠りの熱悩を取り除くこ 、 ろきょろ四四を見まわした。大王などと呼ば た。「大王よ 夜陰の月光が花弁 を開か性ることがあるように、悪に染まった われる立派な王がこの辺りにいるのだろう とができる。つまりだな 身は夜陰の花みたいなものだ。これに正しい ー - 37 ************ 食会合会 ******** * ******* の全身全霊をゆさぶりました」そうであろ 発した地点へ駆け寄った。感動の接拶を十回上 する。「いま弘はどんな神に戸をかけられて も悦ばないでしょう。しかし釈尊の一戸は阜 た。「阿附位王よ」11 彼は悦び見んで戸が か。しかし最後に決定的な呼びかけがあっ る。僧未だ五逆却を克服する方法は発見され とはできない。口三思起のなかで解脱は得ら れない。同准もが必思初見を本来所布してい う。け一つの法であらゆる実存をとらえるこ 怨を抱く者によって追いまわされるであろ めることはできない。日開諾業を造らず 果報 楽しい結果も期待できな 、 う。これまで数々の悪意、悪業をぶっつけて は得られず。伺自分を作っても他 人 には無縁 ていない。同生死のぎりぎりを誰もが見きわ と呼ばれたのである。 きた相手から相続愛と敬意をこめて「大王よ」 、 い。付もし業を造れば、果は遂に失われず。 なのだから当然 であって空しい。伯楽しく生きる方法が不明 一箇に坐しh Hた阿閣世王に H と説きおこすのであった。凡夫の心 4 かくて釈尊の 向い諒 、 その ω 無明からすべてのものは生じ また がけるべき-一十事についてである。列市山する ために死んでゆく。的過去も現在もつねに放 、 と付この身中は宅であって然出はない。 ωあ 逸で終始するものだ。 と釈尊はさとし 、 た。との二十項に及ぶ笑態を正確に 観 察して これが凡夫の姿なのだ らゆる普にも俊・みはない。伺生死も順序立っ 、 その地獄も恐るるに足りず。伺どんな方 たものはない。伺深い穴へ落ちこむという が おか な いと心は放逸、悪から悪へと追いまわ 父の頻盗裟羅王が犯した 使 で仏性を見ることができようか。的どんな 、 却について語った。父工はあるとき血狩りに とのあと釈噂は して生きる結果になる。 はいつも苦であって浄らかさなどない。的八 神定をきわめても仏性は見られない。帥生死 つの難を述芯けることは不可能だ。 ω つねに -3 8- ****女***************女***セ女*会食*** った。帰りぎわ原野の一角で座禅を緩んでい いった。だが一一肌も捕らえるいとができなか ない」 による結架にすぎない。凡夫が救われるので あれば この殺人者阿間王も教われねばなら ゆえの宿線じ平。阿閣位ヱの殺人も凡夫散乱 ねに衆生のための父母となりますとな」 、 一頭も寄りつかなかったんだな」と怒り 家 る仙人を見かけた。「此奴がいたために胞が 「それで、どんな救われかたをしたのでしょ 、 臣に仙人を殺させてしまった。仙人は息を引 「うむ。悪まは釈噂に誓ったよ。私は今後つ うか」 、 た。「この讐ハあだVはきっと返してやるぞ」 き取る瞬間 頻婆塗躍王を暁みつけて呪っ と。父王は気味悪くなって仙人の屍体を丁重 「そんなことで:::」 「そんなことでしかない。おのれの罪をつぐ なうためには一人でも多く他人を救うのだと こうし た悪事を犯している。凡 m 取の世界の人であっ いう」 、 た。 聖王とうたわれた頻婆接躍でさえ にその場へ葬った。 「釈噂は大般浬般間後でこういう営業を用いて おられるな」 、 、 汝必ずよく衆生の忠心を破線せん こと かな と褒めたたえた。思王もさらに曾 、 量劫の 中、もろもろの衆生のために大苦悩を受けし れをしてつねに阿鼻地獄へ堕ちて無 我 ぅ。もし我れよく衆生の忠心を磁楠慣せば 、 「どんな官業を?」 を知る 、 すべてが乱心の組合わせな のだとな。殺し殺されつするのも凡厳なるが 凡夫の世界とは えに〈防閣世〉の殺もまた不定なり:::つまり 「このゆえに先王もまた不定なり。不定のゆ タパス噂者は苫った。 局いかな普い る。釈柑骨は想主の決意を聞き 『釈柑時はそれで諒承されたのですか」 「漫然径の経句では救われたことになってい 39 ー - 宣告********女セ************女******** 罰を加えた苛繍隊求の主とはがらり一変して 「うむ。母子相姦の関係になった王妃ともど 「それで阿閤世王の死は?」 傾けた」 仏説をまとめさせた結果には財心のすべてを 、 むとも以て苦とは為さずとな」 いる。また主合裁に五百人の比丘衆定集め し ょうか」 「やっぱり阿鼻地獄へ堕ちて苦し λ続けるの でしょうか。それが救いなので 少年サピヤの箇上から蹄に落ちない思いは 消え去らなかった。 もに息子の優陀現殴陀綴に殺されたな」 「ああ・・・・」 ・・ 「その優陀英敏陀陣織もマガダ国主になった が、やがてその息子にまた殺されたな。あの 、 と明け放たれていた。しかし老噂者も少年の は息子に殺された。そしてマガグ国は波亡し 家系は頻婆裟羅主以来 五代にわたって父王 てしまった」 限 に睡夢へ接 近しようとする倦怠や労衰はひ 、 、 「ああ それが数いでしょうか」 少年サピヤの行い臨に水摘が宿った。タパ 、 ス尊者は乾いた表情を微動だもさせなかった 耕作を中止し頭髭 内の農夫が俄かに発心し が 、 を剃り三衣を着して結蜘扶坐に入ったと聞く 「そのとおりだ サピヤよ。教われておら 、 大ぶりなうなずきだけはくり返した。 や彼はそこへ出かけていって、大地に額をす 「無量持経で阿弥陀仏がすべての衆生を救済 ぬ。まるで教われておらぬ」 、 りつけて礼拝をくり返したという。つい先ご 「たしかに史行したぞ。例えばマガダ闘の領 樹 下 の奮いを実行したのですか」 「噂者よ それで阿閣世王はそのあと沙揮双 とかけらも混じりこんではこなかった。 揺り続けているうちに洞房の外で夜は白々 : 四 i ろまで食事を怠る者を引っ捕らえきびしい - 4 0- 1 +1 会合合会会合会****女***********合唱~******* 、 「阿建前坤者の系列経典を探ぐってゆけ必 ば ず突き当るであろう」 、 には適用されなかったのですか」 するとお誓いになったあの誓願が 阿閣世王 、 までに学習した大衆経典では しきりと釈噂 サピヤは探ぐるような視線を向けた。これ じなのですか」 「尊卓也は、阿難略者の経典というものをご存 H 授記“"を削除した無量必経がまかりとお 「だから先ほども申したであろうが、阿間縄世 王 っておるとな。経典の不備だ。法緩比丘|| 阿弥陀仏の誓願が未だ徹底して伝えられてい ということじゃよ」 、 が阿媛に語りかけてはいるが 阿難自身が遺 、 「どうしたら徹底するのでしょうか」 ない 正かった。 したと伝えられる経典にめぐり遇ったことは 「わしも来品、米閉じゃ 」 タパス尊おはあっさり兜な脱いでしまう。 - 41- 「幅削量刃経そのものを、とことん観想した新 しい経典が浩られねばならない」 「新しい経典を造るのですか」 は れ る さ ておる。必ず遺経があるはずだ。たとえ断片 だ。ことに然量的対経では大きな役割を果たし の釈尊から多くの教説をお聞きになったはず 「どこを祭がしたらいいのでしょうか」 造 作 、 経 典 「そうだ。凡夫 悪人が阿弥陀仏の悲願によ し 「それもわからん。ただなあサピヤよ。阿梅雌 そ 、 の 尊者は多開館一とうたわれた仏弟子ぞ。生存 l新 って どのようにして教われてゆくのか。そ 企有 のさまと論旨を明確に描き出さねばならな よし 「あるはず :::」 か見当ぐらいはついておられるのではないで 、 「造作だと?そんな真似は許されぬ。偽径 う毒事 「尊者がそこまでおっし干るからには どこ しか ではあってもな」 でし」 は害惑を流すだけだ。典拠があるはずだ」 の「い *****女*****************台女?長女合*女合* 教団宏探ぐっても発見する可能性はあるわけ 「すると噂者、このあたり朱駒波域内の部派 「うむ、それだ。見当だけだが、わしは部派 しようか」 阿艇は釈尊十大橋チの一人に数え上げられ 「それもあり得る」 ですね」 大系と小泉 ルで節目次結 の連中が隠匿していると腕らんでおる」 「部派の連中がですか」 、 た高徳だが、設にまつわる伝泳は余り芳しい i 大王の目的は 集を決行された ものではない。不名誉な行績、というよりも 一 とに分裂し、さらに小乗教団の内部でも二十 人間味あふれた逸脱や失敗が多い。 「倒のカユシカ大王がカシミ 部にもなってしまい、各自が自派を主張して 、 阿難は仏弟子中 第一の美男子であった。 少女マ ゆずらない仏教教団を繁志へ回線統一させる る。小川のほとりを通りかかった阿鍵が、そ この出会いが少女を恋の繍虜ハとりこ〉にし ガンタとの恋物語が紹介されてい ことだった。だが結果は部派教団ハ説一切有 こで水汲みをしている少女に水を所部した。 た。守 l た。そればかりか部派の辿中はその折に成文 部派〉が主潟地慣を湿っただけに終ってしまっ 化した経典のすべてを持ち去った。A可お前に で、何難をわが家へ誘引して娘の想いを遂げ l ガンタの母は妖術の心得があったの ゃんと文字化したものがあったのだ。部派の 教えている無量刑対経にしても部派教団にはち ガンタに会う。若き修行僧との愛慾が如 1 何に邪淫であるかを説いているうちに、いつ マ これを透視した釈尊は出かけていって少女 きせようとする。 H にまで出かけね 鷲の鯵 μ" 連中が門外不出、独専したためにわしはわざ わざ旧マガダ国の (「熊賞滞緩」〉を詳しく観想解明した経典か必 か少女のm髭 mは脱け落ちて比丘尼姿になって ばならなかった。それはともかく、あの大経 ず存在しているはずだ」 -42 ー セセ*****~ミ*******************~*セセセ 変 尼 • -4 3- 合会****************************食会 、 の大使でギリシャ人であるメガステネ l スが りシャ語で残しているが、その中で言う。 インドの大王のもとに来て、その見聞記をギ いたという。 この伝承は 阿難が女性の信者集団||比 釈尊の滅後早くも尼僧集団が出現した事実 4と論議している」 を物語る。阿鍛の果たした役割が推量できる に伍して難解なことを裳 女性の哲学者たちがいて、男性の哲学者たち 「インドには驚くべきことがある。そこには 丘尼教団の創始者だったところから発したよ うに思われる。 釈尊の叔母が強く出家を希望した。すでに 釈噂は入寂しており教団では処置に窮した。 いことを強く主張したのが阿難であった。こ であろう。キリスト教の修道尼があらわれる このとき教団に比丘尼が在籍しても差支えな れがきっかけとなって女性の入信者が続々と 。 パジャ 1 パティを出家させたことで阿幾は に、仏教の正法は千年続くところが五百年に きびしく批判された。尼僧集団を許したため l ところが釈尊の叔母ハ措置創出でもあった〉マハ 数百年も前のことである。 教団へ投じてきた。 l リ iガーター〉の岩波文 「尼僧の告白」ハテ 語いている 庫版「あとがき」で中村元博士は次のように 、 世界 減じた、と嘆く経典があらわれた〈「比丘尼帥純 尼僧の教聞の出現ということは の思想史においても驚くべき事実である。当 挙げるものもある(「摩尼僚経」〉。 度」〉。また阿難七つの過失のトップにこれを へ入られたときの処院が指弾されている。た 七つの過失、その主たるものは釈尊が浬駒栄 時のヨーロッパ、北アフリカ、東西アジアを 出現してから百年余り経ってから、シリア王 た。仏教が初めてつくったのである。仏教が 通じて〈尼僧の数回なるものは〉存在しなかっ ー l 44 ー - 合命令**令食会合女*********~司会食*女女*****女* とえば 、 、 という非餓だ。阿維はこ 釈尊の死体の陰部を多数の女人にさ らけ出して見せた H などで広く知られる。しかし会議員を 五百 人 H で構成さぜるのはギリシャのポリス社会 ・ 大般湿 の会鵡方式と殴似している。「際伝 繋経」の円顕にある何闇世王の独裁岡市ぷを退 、 けてヴァッジ族の共和制を支持した釈噂の考 れを女人たちが将来、愛欲でもの狂わしくな ったとき 釈尊の除蔵相を思いうかべて欲染 つ者 な格 た阿 の難 では 人間的な H答え方をしてい H 、 たちの純粋な悲しみを思うと不思でならず 遺体を涙で濡らしたことについても「彼女 る。 阿難はきわめて この王舎裁結集でだった。この非難に対して あ殆 、 の炎を消させるため、と弁明する。また一老 に資 であろう。 さで え方からもこの民主方式の採用がうなずける 阿難は河へ扱 恰の 好無 一十五 … れ たこ 仏足に頬ずりを寄 、 な結 わ集 釈尊浬然時における過失を指弾されたのも に域 母が釈噂の遺体に近づき 、 主て 役王 を舎 せ涙で濡らすのを阿媛は放置したという。あ る いは病中の釈尊が水を求め H W 道を成じて白いなかったの 仏 。どさ たっぷりお別れさせたのです。それが大卯で -4 5- みにいったがひどく濁っていたために空しく 、 円もとへ運んだらいっ 枕顕へ炭った。ところが雪山に臨む鬼神が同 じ河水を釈噂に献げ さいの濁りが消え去っていた。つまり阿鍵に は釈噂の濁水を浄化させる霊力について全く 、 阿簸は 釈尊滅後四カ月ほどして聞かれた主会裁結 無智だったという過失がある。 集で で然資格者だったが 釈酋骨の身辺に二十五年 も侍したという経歴を買われて五百人の討議 者に加えられていたのである。 この五百人の数字だが後世は「五百羅漢」 るん 会**食会*女************な************ したら 、 私はどんな罪でも受けましょう」と 真情を吐露する。 パティの入 いて論じ合った。 議長の迦葉尊者がこれを収拾した。 釈尊滅後なお日は浅い。われわれ遺弟は釈 尊が定められたすべての律法を守ってゆくの l 信にも「彼女は幼い釈尊を育てた大恩のある が義務であろう。どんな小さな戒でも守り放 また釈噂の叔母マハ l パジャ 人です。生前の釈尊に伺って出家の詳しを得 こうではないか。 派の比丘たちだった。彼らはかねてから教団 引っぱり出された。この千人は殆んどが自由 していた千人をこらえる比丘たちの前へ阿難は 、 議場内はそれでおさまったが 場外で待機 ています。いささかも不都合なことはないは ずです」と女人往生の主張に確信をこめてい る。 会議をもつれさせたのが阿難のこんな発一一 一目 旦 だった。 の戒律による締めつけに反感を寄せていた。 、 「釈尊が入減間近のとき 私にお告げになり 「釈尊がそんな重大な発雷をなされたのに阿 「浬崎県経」 難よ。あなたはなぜ廃楽すべき戒を具体的に || ました。比丘がもしも軽微な戒を廃したいと 願うなら廃してもよろしい」 。 たずねようとはしなかったのか」 これではないか 、 と僧伽内の戒律につ 、 、 のお心の広さを示すもので さしずめ廃楽す 、 「廃棄してもよい とおっしゃったのは釈噂 「うっかりはひどいではないか」 うっかりしていたからです」 「私が釈尊におたずねしなかったのは つい 阿幾は虚心坦懐に答える。 」となる。 では「小小学処ハ波〉を廃せよ すぐに議員たちは聞いかえした 「その軽徴な戒とは何を指しているのか」 「私は知りません。また釈噂におたずねもし ませんでした」 、 議場内は紛糾した。めいみいがあれではな いか - 46- **セセセセセセセ***セ*********七七七七七*セセセセ ベき戒などないのではありませんか。引払の不 あやまりますよ」 、 分けたりなさらず また容室中に一絡に住も 、 逆に官執が招待された処へは来て下 、 うなどとおっし平らず 招かれた場所へ私を 、 明を詫びよと宮うのなら 同伴せず 、 私の身辺に 、 来客に面接するとき官軌を同席させず 、 逆に私の来客には会って下さり 怠り 「ここではっきりと詫びなさい」 比丘たちの強 J に阿慾は頭を下げた。これ 、 釈噂はこの 、 奔欣純心、それでいて求道には燃えた阿難の かなり虫のいい希望条件だが とだった。 ってから私に話して下さるなら:::というこ 、 また私が不在の場所で説法なされた内容を帰 幾問が発生したときは相談に乗って頂けて が尾ヒレをつけて数回内に言いふらされた。 とおっしゃった。これが定説となってしまっ 釈尊は阿幾に細微戒は捨ててもかまわない た。 こうした過失や逸脱でもわかるように阿難 この史点をいち早く気づき、だいじに育てよ 次官勢が気に入ったようである。このねらいは のナイーブな人間性が陪さを除去している。 うか。 阿簸は常仕し続けたのである。 、 さてタパス尊者は「阿態系の経典」と言っ 年間 うとしたのが釈噂ご自身ではなかったであろ 、 ぴったりで、八十歳で入減されるまで二十五 H 侍者 Hを求めた。自薦他薦の多いな 釈噂が五十五歳 祇園精舎におられたとき 専任の HW 一対告 た。たしかに仏典のなかには阿難を 彼が仲間の かでとくに阿建が選ばれたのは 者 uとする経文は多い。「仏此日阿難」で経文 、 比丘に語った「もしも自分が侍者になれた こんなふうにありたい」という希盟条件 が始まる。だが、阿態自身の独自や紛援で現 、 ら えるだけだ。 を釈"が聞きこまれたからである。 、 釈噂が私に法衣や布鐙物を 存するものは締少である。わずかに断片が拾 その条件とは 47 ー - tミ********女な***** ***女***********ヤ その一つ「長老mm 」〈テ lラガーター〉は晩 年の阿幾の風懐を紹介している。常仕の仏弟 に 、 弘は釈尊から八万二千の教えを受け いま阿難は立っている。 il -1 背の入荷はすでに去り 、 新しい人 hは た。 、 二枚舌を使う者 怒りを た。また修行者たちから二千の教えを受け 、 子らしく釈尊の追想が大半をしめる。それも ||聡明な人は 人間性をにじみ出させていて興味深い。 ケチな人、そして他人の破滅を 粉飾された姿態を。あれば傷 釈噂の侍者 束縛を離 、 、 束縛を離 、 よく心の安らぎを得て 生 最後の身体を保っている。 弘はただ独り思いに 、 ど あらゆるすぐれた覚者〈釈世帯〉まが 、 とは覚者を喪ったと 身の毛のよだつことがあ 、 、 の事件なのだろうか。 ハつづく〉 いう悲しみのことであろうか。それとも特定 身の毛がよだつこと った。 あった。そのとき 恐怖が らかな安らぎ(浬祭)に入られたとき ll が身体から離れないように。 の行いによって噂き邸のおそばに仕えた。影 、 ||二十五年間 広は慈愛にあふれた言葉 、 弘となじまない。今日 、 売し易い者 ふける。雨のために巣ごもりする烏のよう ! 、 意欲ばかり多くて、堅 、 さまざまなものが待り集っただけ 、 、 」。 V 悦ぶ者と交際してはならない。恋人と交わる 、 見よ のは禍いである。 ii だらけで 、 見事に談論し いま重荷をおろし 、 安定していない。 である。病いに悩み 田でな〈 、 ||学識あり 、 臥床に横たわっている。 である阿難は れ 、 執訴をこえ ||彼は制悩の汚がれb滅 z ぼし れ 死の彼岸に速し 太陽の務ハすえ)である釈噂の説いたも -11 ろもろの教えの基礎となるかの安らぎの路上 - 48 ー 1 守の真撃 n伝 "普 教 と 体践験 仰信 七 判ー V 喜 す 東京文瓜阪本a都 仏 。 、 そ五 円 * l I f l 日召 F 十十 I j ¥ E島港 ヰ日和 発 ( ¥ : i J T 区 自民 法 然 上 人 鎌 仰 会 nJ 発 !r 縦 相I} ~ i j島 所人人 凶 俄 一 長{主 H F正 | 11 I~ H 一 印裕lI?l ト | 人 司~ ß召 五五三 和 百11 I I ゚'lU i i ' I じ問 け も帯 、J T - tl 八 l叫 価 けかと O四 二五 定~, て 的稿語 白八 日O か p │ │ 八六 |二 八),~ 戸、 改牢曹 三 L、 め問 一五 。 J、 爪- ~ 著 てが 定 固 、 子 の 振替 s林 東 ji\ 1 |空室一量頁 問 書 仮 1ぷE 6 - 評 好 るをを、 士五 の Z房 豪哀。 {.ム 〈け mR 判 教 発売よな庄 一 密画 う 実 嘉 B 入 カ3 山 - B6 竹 中 信 略。 (防 総 1苦 後 十 i争 土 カ 九九銭年 王手 tF i夏 五 !卜月 物 一 1 -1 i u 平 ニ 可日 Y、去 d BB ~印 行制 J ,J S E e ーー司、 浄 土 年 」ー イむ 購 ~;'é 一、 一+ 五 ~ T主 送 O 料f多ぐ o ) 門 規 定 、‘・幽- --・旬、 てに。 平 も 、 =司 ;争 、易 ~に 土 まこか た十つ . 第五十巻十 一月号 附和十年玄月二十日《第三輪薗田便物怒可》毎月一同一日発行 昭和五十九年十月二十五日印刷昭羽五十九年十月-日発行 (新) 1 1 ' 広三了 く節 qF 己主, 刀之 おかな すす なら 解 説 しべÞ 判 Iま たさど いしこ H いさ お解れ で必た ハ ~ 売 、J τ- 1 0 2 器 3法 東京自磁 すo 文 yb: 7会f l ι 6 お勤 役行 に式 立の ちお ま,活 す 。口 1 ; . ~ ;1';- の の {431 3万iI< O ハ ハ然区 治真 生 八二人空 な活 人の = 上 飯 。 悶 l 六 八二 鎖 一五 仰 八九 1 ー l 2 A 1 1つ オd の B 6 めるが お 一 'つ 五〔。O 頁 と 十 以結 定 価 め 上六 二五 割引 0 円 定ハ 価 〒 五二 二五 。 円。 、門J 千 包無 常 動 行 主.u. 式 真李教色=│ 野手 博 文 とと しめ じ凶会ハ 凶 日 著 者 海 (刊) 、崎司圃,
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