9.わがモラエス伝 - So-net

9.わがモラエス伝
著者:佃
實夫、発行:河出書房新社、
左:1966 年 10 月7日発行、580 円、右:1983 年2月再版
写真 9.1
書斎における佃實夫(つくだ・じつお)、1952 年2月。
佃實夫(1925.12.27-1979.3.9)は徳島県那賀郡新野町(現・阿南市)に生まれた。
10 代初めから同人誌にかかわっていたが、徳島県海部郡由岐町の郵便局に勤めてい
たとき、作家悦田喜和雄の知遇を得て、文学が自分の生きる道だと決意した。郵便
局員を辞め、青年学校教師や書店経営で生計を立てながら文学一筋の精進を続けた。
1953 年、徳島県立図書館に正式採用され、司書として活躍するが、図書館活動だけ
に止まらず、地元文学の振興や広く文化全般の仕事にも尽力した。
1959 年には、晩年のモラエスを描いた小説「異邦人の死」が芥川賞候補となり、
1966 年には初の著書「わがモラエス伝」(河出書房新社)を出版した。1969 年には、
「定本モラエス全書」(集英社)の編集に携わった。これらの功績が認められ、同
年ポルトガル政府より大仏次郎、井上靖、遠藤周作らと共にインファンテ・ドン・
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エンリッケ勲章が授与された。文学の枠を超えた知への欲求、強い好奇心は様々な
分野での活躍となってつぎつぎに結実した。「文献探索学入門」(思想の科学社)
や「ビジネスマンのための文献探索法」(文和書房)は、こうした分野の先駆的な
役割を果たした。明治維新や自由民権運動の研究、戦後占領史の研究などでも優れ
た仕事を残した。
また、「現代日本執筆者大辞典」(日外アソシエーツ)の編集から執筆まで、こ
れまでにない事典に取り組むなど。1979 年3月に亡くなるまでその仕事への意欲は
衰えなかった。貪欲に多彩な仕事をこなした佃實夫には「知の希求者」ということ
ばがふさわしい。
写真 9.2
没後 30 年に開催された、「知の希求者・佃實夫の仕事」展のポスター。
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(1)前書き
私(筆者の林久治)は、前回(第8回)の感想文で、「孤愁」という題名の「モ
ラエスの伝記」(共著:新田次郎、藤原正彦)を取り上げた。そこで本書(我がモ
ラエス伝)に触れて、次のように書いた。
➀ 私は約半世紀前に、佃實夫が出版した「わがモラエス伝」を読んだことがある。
しかし、その内容を殆ど忘れてしまった。ただ、「神戸領事を退職したモラエスは、
亡くなった愛人のおヨネの故郷である徳島に隠居して、日本や徳島に関する本を本
国・ポルトガルでたくさん出版した」ことと「モラエスの徳島における晩年は孤独
で、糞だらけになって亡くなった」ことしか憶えていなかった。
➁ 佃の「わがモラエス伝」は力作であったが、彼は無名の芥川賞候補者に過ぎな
かった。この本は 1966 年に出版されたが、今は絶版になっており入手は極めて困難
である。従って、有名な新田・藤原親子が「モラエスの伝記」を出版したことで、
モラエスの業績と生き様が後生に伝わることになる。
前回(第8回)の感想文で、私はモラエスの人生(特に、マカオと日本でのモラ
エス)の概要を紹介した。今回は、佃が見たモラエス像と、佃が徳島で調査したモ
ラエス像に焦点を絞り、本書を紹介する。モラエスの人生と伝記に興味のある方に
は、「孤愁」を読まれることを勧める。
佃が「わがモラエス伝」と題名を付けただけあって、本書は佃の個性が強く出て
いる。佃の強みは、「知の希求者」と呼ばれるように「知ること」に強い情熱があ
ったことである。それに加えて、モラエスの地元・徳島に生まれたので、ご自身が
モラエス本人に会った経験があり、モラエスを知っていた人々を精力的に探して話
を聞くことにより、モラエスの魂に直に触れたことである。
一方、佃の弱みは、ポルトガル語が出来なかったので、モラエスの生の原稿を迅
速に処理ができなかったことである。佃が活躍した終戦直後には、彼は経済的にも
健康的にも恵まれなかったので、ポルトガル語を勉強することは無理であった。ま
た、彼は海外取材をする余裕はなく、国内取材もままならなかった。
次に、前回の感想文から抜粋して、モラエスの年表を以下に記載する。
(2)ヴェンセスラウ・ジョゼ・デ・ソーザ・モラエスの年表
1854 年
5月 30 日、ポルトガルのリスボン市に生まれる。
1875年
海軍士官学校を主席で卒業。海軍少尉に任官。
1876年
東アフリカのモザンビークに赴任。
1888年
マカオに赴任(亜珍を現地妻として二人の男児を儲ける)。
1889年
マカオから初めて日本に出張。
1890年
海軍少佐に昇進。マカオの港務副司令に就任。
1893年
武器購入のため、この年よりマカオから毎年訪日。
1896年
海軍中佐に昇進。
1897年
ポルトガルの日本公使ガリアルドの随員として、明治天皇と皇后に謁見。
1898年
11 月 22 日、神戸・大阪ポルトガル副領事館臨時事務取り扱いに就任。
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1899年
神戸・大阪ポルトガル領事に就任。
1900年
46 才のモラエスは 25 才の福本ヨネと生田神社で神前結婚式を挙げる。
1912年
8月 20 日、福本ヨネが心臓脚気で死亡(享年 38 才)。
1913年
神戸・大阪ポルトガル総領事を辞任し、7 月1日に徳島市伊賀町に移住。
モラエス(59 才)は福本ヨネの姪・斉藤コハル(19 才)を愛人とする。
1916 年
10 月2日、斉藤コハルが肺結核で死亡(享年 23 才)。
1929 年
7月1日、モラエスは伊賀町の自宅で孤独死(享年 75 才)。
写真 9.3 左:佃實夫にポルトガル政府から贈られた、インファンテ・ドン・エン
リッケ勲章。右:徳島時代のモラエス。
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(3)佃のモラエスとの遭遇
佃の「わがモラエス伝」は、A5版の本で 334 ページある。各ページは2段組で
文庫本並の小さな活字でぎっしりと印刷されているので、本書の内容は膨大である。
本感想文では、「孤愁」であまり触れられなかったイザベルとの不倫や徳島関係の
話を中心に、紹介しよう。なお、私(林久治)の注釈や感想を青文字で記載する。
本書の冒頭で、佃は「モラエスを私が愛してやまないのは、復讐と贖罪のためで
ある」と書いている。復讐は、佃が幼い時に異形の毛唐人から受けた恐怖に対する
克服であった。贖罪は、外国人に不慣れであったためにモラエスに冷酷で排他的で
あった徳島の人間として覚える自然な感情であった。(p.5)
佃は 1925(大正 14)年、徳島県那賀郡新野町(現・阿南市)に生まれた。彼の母
の実家は徳島市の大道商店街に店舗を持つ足袋屋であった。モラエスは 1913(大正
2)年に徳島市伊賀町に移って、そこで 1929(昭和4)年に孤独死をとげた。伊賀
町は大道の裏通りなので、大道で娘時代を送った佃の母はモラエスをしょっちゅう
見ていたはずである。(p.5)
モラエスが寂しく死んだ後になって、徳島では彼は急に有名になり、彼の著書や
法要に関する新聞報道も多くなった。その頃、佃は母から「モラエスさんて、ほん
なに偉い人だったんかえ?ちっとも知らなんだわ。何して暮らしとんのか分からな
んだもんね。また唐人が通んりょるとか、西洋乞食なんて言いよったもんじょ」と
いう思い出を聞いたそうである。(p.12)
本書によれば、佃がモラエスに最初に遭った時の様子は次のようであった。まだ
幼児であった佃は、徳島の盆踊を見物するために、父母に連れられて母の実家に行
った。彼らが母の実家に着いた時に、ちょうどモラエスが足袋を買いに店に来てい
た。佃は、異様な大男のモラエス(写真 9.3 の右の人物)を見たとたん、火がつい
たように泣き始めた。後で聞いた話であるが、そのときモラエスはすまなそうな顔
をして、佃に日の出楼の和布羊羹を一本くれたそうである。(p.7)(林の注:日の
出楼は嘉永五年(1852 年)に創業した和菓子の老舗で、現在も大道に健在である。
同店の看板である和布羊羹は、今でも販売されている。)
その晩、佃は父母や従兄と一緒に、盆踊を見物に行った。当時は、徳島の盆踊は
繁華街の通りを自由に踊り歩いていて、現在のような桟敷はなかった。見物人は踊
り連の後をゾロゾロ歩いていた。そのような、踊り見物の最中に、佃は見物人より
頭一つ出ているあの大男を見て、又しても怯えたそうである。大男は、ひときわ目
立つ美しい女の子の綺麗な踊りぶりを見つめているようだった。幼い佃は、「あの
子が狙われている」と思ったそうである。(p.9)(林の注:戦前には、「阿波踊
り」のことを、単に「徳島の盆踊」と呼んでいた。「踊りの連」とは、踊り手とお
囃子から構成される「一組のグループ」のことを徳島で言う名前である。)
佃の父は、母の実家で叔父と次のような話をしていた。(p.7)
父「あの毛唐。いったい何文や?」
叔父「十一文半じゃけんど、このごろ病気で足が腫れてのう、十一文半だったら穿
けんらしいわ。十二文や十三文じゃいうたら、別にあつらえんと無いもんのう。」
(林の注:このエピソードは「孤愁」に採用されている。)
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戦後のある時、佃は友人の病気見舞いに行った。その時、友人はモラエスが書い
た「徳島の盆踊」の本を読んでいた。佃は、友人と彼の母親とで、次のような会話
をした。(p.23)
佃「ここはモラエスの家に近いけん、お母さんは彼を見たことがあるでしょう?」
母親「そりゃ、何度も見ました。私はこの子のお陰で、モラエスさんの家に謝りに
行ったことがあるのですよ。」
友人「ぼくのために、モラエスさんに謝ったって。いったい、どないしたの?」
母親「お前は平気でモラエスさんの本を読んどるけんど、子供のときお前はモラエ
スさんに石を投げつけてな、モラエスさんの額から血が出てね。」
友人「ぼくは全然記憶がないんだがなあ。」
母親「まあ、あのころの新町小学校の男の子で、モラエスさんにいたずらしなかっ
た子はないやろ。女の子まで混じって、毛唐、毛唐というて囃し立てて。」
佃「ぼくは小さかったころから恐かったですよ。母の実家が大道の足袋屋でして、
そこへ来ているのを見ましてねえ。捕まえられて食べられてしまわないかと思っ
て。」
(4)モラエス文庫とモラエスワルツ
話は飛んで 1945 年に、佃は郷里の青年学校の教師になっていた。ある時、彼は徳
島県立光慶図書館で行われた「読書指導者講習会」に受講を命じられた。講習会の
期間、受講生である教師たちは自由に書庫に出入りを許された。この図書館のコレ
クションとして有名なのは「阿波国文庫」と「モラエス文庫」であった。前者は旧
徳島藩主の蜂須賀家が集めた豪華な文物であった。後者はモラエスの旧宅に残され
た資料とガラクタの山であった。(p.14-15)
写真 9.4 戦前、徳島市の城山の麓にあった徳島県立光慶図書館。敗戦直前に、こ
こで「読書指導者講習会」を開催するとは、徳島は随分のんきな所だと呆れる。
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佃は、豪華な「阿波国文庫」より、奇妙な「モラエス文庫」の方に興味を引かれ
た。彼はモラエスの遺品や説明文を丹念に見て行くうちに、一種不思議な感動を覚
えた。彼は手帳に、あるカタカナの手紙を写した。文字は下手くそだったが、文章
には老人のモラエスの身を思う情感がこもっていた。末尾に「イズモ イマイチニ
テ デン」との署名があった。(p.15)
戦争は終末に近づき、日本の大都市が米軍の空襲を受けるようになった。県立図
書館では、出張図書館という名目で、蔵書を田舎の各学校に疎開することになった。
佃の学校でも、そのいくらかを引き受けることになり、彼は生徒をつれて満員列車
で本を運んだ。ある日、佃は岡島図書館長に「モラエス文庫を、うちの学校に預か
らせていただけませんか。もし空襲でもあったら大変ですから。私が責任をもって
保管しますから」と言ってみた。(p.16)
館長は「君、一般書の分散は疎開じゃないんだ。交通が不便になって、田舎の人
が徳島に来にくくなったので、それを補うのが目的なのだ。この図書館は山の下だ
から、空襲には大丈夫だと思うのだ。かえって、君の村があぶないかも知れんぜ。
空襲はなくても、艦砲射撃というヤツがあるからな。それに、君が応召したあとは
どうするのだ」と言って、佃の提案を断った。(p.16)
結局、「阿波国文庫」も「モラエス文庫」も疎開されなかった。1945 年 7 月4日
未明、前夜から始まった米空軍の焼夷弾攻撃で、徳島市は完全に焼き払われた。城
山の麓にあった県立図書館も全焼して、両文庫のすべてが永遠に失われた。佃は軍
国主義教育への自己嫌悪と反省の末、教師を退職して貸本屋を始めた。(p.17)
佃は終戦直後の本屋経営に失敗し、モラエスのことはすっかり忘れていた。1952
年9月、彼は先輩の世話で県立図書館に就職した。本好きの文学青年であった佃は、
図書館づとめがひどく気に入った。戦災で焼け、再建された図書館には、「モラエ
ス文庫」は壊滅していたが、モラエス翁顕彰会事務局の仕事は残っていた。1953 年
7月1日に、モラエス翁第 25 回忌法要が行われるので、その前日に佃と同僚の黒駒
周吉は、モラエスの墓とその周辺の清掃を命じられた。(p.24-26)
夏の炎天下で、ヤブ蚊に刺されながら佃と黒駒が掃除したモラエスの墓は、写真
9.5 の上の墓であろう。(私も少年時代に、この墓を見た記憶がある。)佃と黒駒
はこのしんどい仕事を、「芸者ワルツ」の替え歌を歌いながら行った。
➀日本にヒョッコリ来たばっかりに、阿波の女に魂ぬかれ、
来なけりゃよかった徳島などへ、モラエスワルツは頭が悪つ。
➁おヨネやコハルと寝たうれしさに、母国は消えたわ忘れたわ、
情痴にふけった女は死んで、それが苦労の初めになった。
➂きづよく一人でがまんをしては、お墓に詣って十七年、
なんとか生きたが病気にゃかてん、モラエスワルツは体が悪つ。
➃母国へ帰ろと気づいたときは、すでに老いぼれ口惜しや、
中風にかかって手足もたたず、好色ワルツは戒めワルツ。
この「モラエスワルツ」は、あらかじめ作ったものではなく、墓掃除という隠微で
シンドイ作業の中で、二人の口からふと出たものであった。(p.25-26)
(本文は、9ページに続く。)
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写真 9.5 眉山ロープウェイ山麓駅の北隣に
ある潮音寺の境内には、モラエス、福本ヨ
ネ、および斉藤コハルの墓がある。最初、モ
ラエスの遺骨は斉藤コハルの墓に納められ
た。コハルの墓の側面に、モラエスの名前が
刻まれた。
上:モラエスの古い墓。これは、コハルの墓
を 90 度まわして、モラエスの面を正面にし
て撮影した写真である。古い墓の傷みがひど
くなったので、下の写真のような新しい墓が
最近つくられた。
下左:モラエスの新しい墓の正面。
下右:モラエスの新しい墓の側面。
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以上のような経緯で、佃のモラエス研究が始まった。「知の希求者」と呼ばれる
ほどの佃は、徳島でモラエスの事を知る人々の証言を精力的に集め、もちろんモラ
エスの作品や書簡を徹底的に調査した。これらの研究の結果が、短編小説「ある異
邦人の死」と大部の本書であった。
佃の妻・佃陽子が書いた「リスボンは青い風」によれば、「ある異邦人の死」は、
第 41 回(1959 年上期)の芥川賞候補となったが、斯波四郎の「山塔」に僅差で敗
れた。斯波は受賞後に殆ど作品を発表しなかったので、佃は「あああ、僕に賞をく
れていたら、うんと書いて見せるのに。残念だな。」と悔しがったそうである。な
お、佃は 1979 年3月9日にクモ膜下出血により志なかばで急死した。行年 53 才。
「ある異邦人の死」の芥川賞審査意見は、次のサイトにあります。
http://homepage1.nifty.com/naokiaward/akutagawa/kogun/kogun41TJ.htm
斯波四郎の芥川賞受賞の記事は、次のサイトにあります。
http://gekkan.bunshun.jp/articles/-/523
(5)「わがモラエス伝」と「孤愁」との比較
前回(第8回)の感想文で、私(林)は「孤愁」という題名の「モラエスの伝
記」(共著:新田次郎、藤原正彦)を取り上げた。この作品は、新田が毎日新聞の
連載小説として書き始めたもので、モラエスを美化し過ぎている。つまり、品格あ
る文人外交官が日本の風物と女性を愛した美しい物語となっている。これでは、N
HKの大河ドラマと同様に、かえってモラエスの人生を矮小化している。
私は「モラエスの人生で、青年時代(マカオ赴任の前)のマリーア・イザベルへ
の恋愛が極めて重要である」と思っている。「孤愁」の後半で、藤原はイザベルを
モラエスの孤愁の一人として少し登場させているが、「孤愁」はマカオ以後の品格
あるモラエスを描くのみである。それに反して、本書(わがモラエス伝)では、佃
はマリーアとの恋愛を熱く語っている。なお、佃はマリーア・イザベルのことをマ
リーアと書いている。
本書によれば、モラエスは 1872 年から 1888 年まで、甘いロマンチックな詩を作
って、ポルトガルの新聞に匿名で投稿していた。本書は、「覚えている(マリーア
に)」という詩を紹介している。その冒頭部分を以下に示す。(p.46)
覚えている?かっと照るある真夏
泉のほとりに行ったときのこと?
おぼつかない、うっとりする身の軽さで
濡れていない小石を選んでは、ひらりと跳びながら
(なお、この詩は花野富蔵の訳で「モラエス案内」に掲載されている。)
マリーアの夫トーマスは、モラエス家の遠縁で、トーマス夫妻はモラエス一家の
隣に住んでいた。トーマスは新進画家として期待されていたが、27 才の時に狂って
しまった。(p.49)マリーアはモラエスより8才年上であったが、美人で文学的才
能に富んでいた。隣家のマリーアを盗み見することが、18 才のモラエスの密かな愉
しみとなっていた。(p.50)
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モラエスは 1875 年に海軍士官学校を卒業し、海軍少尉に任官した。1876 年には、
三年間の義務駐留でモザンビークに始めて赴任した。(p.49)モザンビーク赴任の
挨拶にマリーアの家に行って以来、彼女との文通が続いた。最初は近況や文学の感
想であったが、次第に愛の告白になっていった。(p.54)モラエスは神経衰弱に生
涯とりつかれていた。(p.49)モザンビークでそれがひどくなったが、マリーアに
手紙を書き手紙を受けとるという営みと、リスボンに還れば彼女に会えるという希
望に支えられていた。(p.60)
モラエスは 1879 年に中尉に昇進し(p.59)、三年間の任期を終えて同年 12 月 10
日に帰国した。25 才であった。彼はマリーアと密会を重ね、遂に男女の関係を結ん
でしまった。(p.64)ポルトガルは厳格なカトリックの国なので、離婚も姦通も許
されなかった。その代わり、売春は必要悪として認められていた。(p.82)マリー
アは罪の意識に怯え、狂人の夫のために生きる決心をした。(p.64)
1881 年3月に、モラエスは三年間の駐屯の約束で再度モザンビークに赴任した。
マリーアに手紙を書いても返事が来ないので、モラエスは同僚のリベイロ中尉の紹
介で黒人のアルシーを現地妻に雇った。そんな時に、「覚えている」という詩を書
いた。(p.64-65)モラエスは睡眠障害や頭痛に耐えられなくなり、病気療養の許可
を取って、1883 年8月 30 日に命からがらリスボンに帰還した。(p.75)
1885 年3月2日に、モラエスは病気療養休暇の期限が切れ、不眠だけは治ったの
で、モザンビークに三度目の赴任をした。モザンビークに帰任してみると、神経衰
弱は治っていなかったので、リベイロ中尉の配慮でインドネシアのティモール島に
転勤した。ティモール島の長官は、モラエスの先輩で親友のマイヤー大尉であった。
(p.76)
ぐったりとなってティモール島に到着したモラエスを見て、マイヤーは驚愕した。
島の病院に直ぐに入院したがよくならない。モラエスが「このつぎにリスボンに帰
ったら、ぼくは必ず君と結婚する」との手紙をマリーアに出しても返事はなかった。
(私の感想:このように、モラエスがマリーアにまだ固執していることと、熱帯の
気候が彼の神経衰弱の原因と思われる。)ともかく、「脳腫瘍の疑いがある」との
ことで、モラエスは 1886 年 1 月 13 日にリスボンに帰国した。(p.81-82)
モラエスは大学病院と海軍病院で精密検査を受けたが、脳腫瘍でないとの診断が
なされた。リスボンに帰ると、不思議なくらい睡眠障害は薄れ、頭痛も消えるので
ある。モラエスは砲艦「ドウロ号」乗船を命じられ、4月 13 日には大尉に昇進した。
役目は砲術長である。1886 年9月、モザンビークで反乱があったので、「ドウロ
号」も出撃を命じられた。モラエスは勤務の余暇にモザンビークで海洋生物の調査、
蒐集、分類を行い、本国の生物学界に生物学者として認められた。(p.82-83)
1887 年6月に、モラエスはリスボンに帰った。神経衰弱によって、アフリカ生活
にもうこれ以上耐えられなかったのである。マリーアとの決定的破局があり、友人
のロドリゲス博士の「病気療養には東洋がよい」とのアドバイスもあり、モラエス
は 1888 年2月、ほとんど逃げ出す思いで、南シナのポルトガル領マカオにやって来
た。(p.88)
マカオへ来てからのモラエスは、アフリカ時代ほど神経症が烈しくはなかった。
頭痛や不眠を南支の気候がやわらげたうえに、東洋の持つ異国情緒が、珍奇なもの
に夢中になる彼を捉えた。新しい公務が多忙だったことも幸いして、苦しい症状を
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忘れる日々が多くなった。(p.90)(私の感想:マリーアとの決定的別離が、モラ
エスの心から蟠りが徐々に消えて行ったのであろう。彼は 1989 年に初めて来日し、
日本の風物と女性の美しさに魅了された。マリーアの代わりに、日本と日本女性を
愛することで、彼の神経衰弱がよくなったのではなかろうか。)
初来日の時、モラエスは最初に長崎に上陸した。早速、妹のフランシスカにあて
て「ここ長崎の世界中に比較しようもない美しい森の木陰で、これからの人生を送
ることができたら、どんなにいいかもしれない」との手紙を書いた。本書では、こ
の手紙をフランシスカに書いたことになっているが(p.107)、「孤愁」を含めて定
説ではこの手紙を姉のエミリアに書いたことになっている。本書は「モラエス伝」
としては早い方なので、定説とは違う記述(あるいは、佃の誤解)が少なくないの
であろう。以下に、本書と定説との相違点を示す。
➀本書ではフランシスカが上の妹でエミリアが下の妹となっている。(p.76)定説
ではエミリアは5才上の姉でフランシスカは3才下の妹である。
➁本書では 1893 年にマカオでの現地妻の亜珍が、二人の子供を連れてモラエスから
逃亡したことになっている。(p.118)定説ではモラエスが 1898 年に日本移住を決
めた時に、亜珍親子を日本に連れて行くかどうかで、モラエスと亜珍とで争いがあ
ったことになっている。結局、彼は亜珍親子を日本に連れて来なかった。
➂本書ではモラエスは、最終的に 1898 年 11 月 22 日にマカオから神戸に移住し、旅
館暮らしで旅行ばかりしていた。神戸在留の同胞連中は、モラエスを捨てておくわ
けにゆかず、神戸にポルトガル副領事館をつくり、彼を副領事につける工作をして
成功した。モラエスは、1898 年 11 月 22 日付けで神戸・大阪副領事館臨時事務取扱
に就任したと、本書には書かれている。(p.121)私は「佃説の日付は不自然であ
る」と思う。定説では、佃説とは大分違う経緯で、モラエスは副領事館臨時事務取
扱の職に就任したことになっている。本件の詳細は、前回の「孤愁」の感想文に書
いたので、そこを参照して下さい。
➃本書ではモラエスが徳島で密かに洋食を食べに行った「市川精養軒」は3階建て
と書いてある。(p.219)一方、「孤愁」では「市川精養軒」は4階建てと書いてあ
る。私は前回の写真 8.9 で、1901 年に撮影された「市川精養軒」の写真を示した。
この写真から明らかに4階建てである。徳島出身の佃が3階建てと誤解した理由は
不明である。
(6)モラエスの神戸領事就任と徳島移住の概略
私は両件に関する経緯を、前回の「孤愁」の感想文で詳しく紹介したので、興味
のある方はそちらを読んで下さい。今回は、必要最小限の事実のみを記載する。モ
ラエスは、1898 年 11 月 22 日付けで神戸・大阪副領事館臨時事務取扱に就任し、副
領事、領事、総領事に昇進した。その間、彼は徳島出身の芸者・福本ヨネを身受け
して妻としている。
彼がヨネに出会った真相は不明である。「孤愁」では取って付けたような出会い
を描いているが、これは藤原の下手な創作である。モラエスの友人のコートは後年、
「1899 年に二人で徳島に行ったときに、阿波名物の焼餅を食べた際に、給仕に出た
のがヨネであって、モラエスが彼女を一目ぼれした」と書いている。佃は「コート
の作品には作為がめだつ」と批判している。戦後、佃はヨネの姪のマルエを探し出
11
して、彼女の証言を得ている。彼女は「叔母は焼餅屋に務めていたことはない」と
断言している。(p.122-123)
モラエスの著書「おヨネとコハル」で、彼は「二十年前に大阪でおヨネに指輪を
買った」と 1916 年に書いている。(岡本訳:p.34)これが事実なら、1896 年にモ
ラエスはヨネに指輪を贈ったことになる。もしこれが事実なら、モラエスが神戸に
正式に赴任する 1898 年の2年前に、彼はヨネを既に知っていたことになる。几帳面
なモラエスであるので、二十年前にヨネに指輪を贈ったことは真実かも知れない。
しかし、私は「おヨネとコハルのこの部分を読むと、約二十年前とも解釈できるの
で、誤差は±3年くらいはあるのではないか。そうすると、この部分を金科玉条に
して、モラエスとヨネの出会いの年を算定することは無理がある」と考えている。
本書によれば、ヨネの姉の斉藤ユキは「モラエスはヨネと純日本風の結婚式を行
った」と語っていたそうである。(p.124)「孤愁」にも「1900 年に二人は純日本
風の結婚式を挙げた」と記載されている。兎も角、ヨネとの結婚生活の時期が、モ
ラエスの絶頂期であった。彼は領事としての公務と日本紹介の文学活動に精励した。
ヨネには「心臓脚気」の持病があり、体が弱かった。彼女が寝込むと、モラエス
は斉藤ユキに謝礼を支払って徳島から神戸に来てもらうようになった。ユキは長女
のコハルを伴って神戸に来るときもあった。コハルは叔母のヨネのような美人では
なかったが、若くて溌剌としていた。(p.170)
1912 年8月 20 日に、モラエス最愛の妻ヨネが亡くなってしまった。享年 38 才。
(p.172)モラエスは礼金とは別に、500 円を骨壷に添えてヨネの墓を徳島に作るこ
とを姉のユキ依頼した。(p.167)ユキはモラエスからたくさんのお金と形見分けに
品々をもらって、喜んで徳島に帰った。(p.164)
本書では、「ヨネを亡くして気落ちしたモラエスに若くて元気な家政婦の永原デ
ンを紹介したのは、外人相手の周旋業者である」と記載されている。「孤愁」では、
六甲山開発の祖と呼ばれる英国人グルーム(1846-1918)の妻の宮崎直が紹介したこ
とになっている。佃は、モラエスが加納町に借りていた邸宅の家主(米沢仁吉)を
探し出して、彼から話しを聞いているので、佃説が正しいのであろう。ともかく、
ヨネの 49 日もすまないうちに、二人は男女の仲になってしまった。(p.163)
母国の革命とヨネの死。祖国と愛人を喪失したモラエスは、公職(海軍中佐の軍
籍と神戸・大阪の総領事職)を辞任して、世の中の人間関係の煩わしさから逃亡し
たくなった。モラエスは永原デンの故郷の出雲に移住して、二人で暮らそうと思っ
ていた。ところが、彼自身が書いているように、愛するヨネが夢枕に立って、徳島
に来て墓守りをして欲しいと懇請したので、移住先を徳島に変更した。1913 年(大
正二年)7月4日夜、モラエスは徳島行きの汽船に乗った。モラエス 59 才であった。
(p.174-175)
(7)モラエスとコハル
翌朝、徳島に着いたモラエスは、以前に何度か泊まったことのある旅館「志摩
源」に落ちついた。やがて、斉藤ユキが探してきた伊賀町三丁目の借家に住みつき、
「斉藤コハル」という門札を掲げ、20 才(満 19 才)の新しい愛人との生活が始ま
った。(p.176)
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神戸時代から、モラエスは「ポルト商報」という日刊紙に「日本からの通信」を
十数年にわたって掲載し、母国で好評を得ていた。これらの記事をまとめた「日本
通信」はモラエス最大の著作となった。(p.156-157)ポルト商報は、早速モラエス
に「徳島での生活」の原稿執筆を依頼してきた。彼は愛読者の興味と心配に答える
ように、原稿をどんどん書き送った。公生活から解放された彼には、執筆と読書と
墓参しかすることがなかった。(p.176)
「孤愁」では、「彼は執筆のために徳島県内を精力的に旅行してまわった」と書
いている。鉄道が開通したばかりの池田町や、鉄道がないので小さな船で三時間も
かけて撫養町に行き、そこから鳴門海峡まで足を伸ばした。徳島郊外では、藤の名
所の石井町の徳蔵寺や、徳島市民の海のリゾートである小松島町にも行った。
時間はたっぷりあった。徳島を珍しがる母国の人々に沢山の随筆を書いた。これ
らを連載したポルト商報は、一挙に売り上げがのびた。日本賛美と徳島紹介の文を
書き継ぐことに、モラエスは有頂天だった。神戸を捨ててよかったと思っていた。
コハルが若い愛人の種を宿していて、彼女がモラエスと同棲しながら、愛人と無理
な逢瀬を重ねていたことなど予測できなかった。(p.176-177)(なお、モラエスは
これらの随想をまとめた「徳島の盆踊」と題する本を 1916 年にポルトで出版した。
この本では、コハルは「我が家の女中」と書かれているに過ぎなかった。)
斉藤ユキは長女のコハルに玉田麻太郎という若い愛人がいることを知っていた。
麻太郎は長い失業中でぶらぶらしているので、ユキは麻太郎に「コハルは西洋人の
ところへ嫁にやるから別れてくれ」と言いに行った。ユキはコハルに「モラエスさ
んなら気心もわかっているし、優しい、いい人じゃないか。せっかく、幸せが向こ
うからやってきてくれたというのに。お前だけがいい暮らしができるばかりじゃな
く、家族皆が、こんな貧乏暮らしから浮かび上れるいい機会だのに」と懇願した。
麻太郎さえ「おれだったらいいよ。しんぼうすら。その西洋人からうんと金を巻き
上げやれ」と言った。(p.184)
1914 年4月3日、コハルは流産同然のお産をした。1915 年9月 15 日には、次男
の麻一を生んだ。二人とも日本人の子であった。麻一は斉藤ユキの子として届けら
れた。ユキはコハルを黙って堀淵の借家に連れ帰った。コハルはモラエスからもら
った指輪を、モラエスに返そうとした。モラエスは「叔母さんの形見だから、記念
にあげる」と言った。(p.215)
若くて元気であったコハルは、矢継ぎ早の二度の出産で体力を消耗して、肺結核
を発症した。堀淵のユキの狭い借家では十分な治療もできず、生まれたばかりの麻
一に結核が移る心配もあったので、コハルはモラエスの家に帰ってきた。許し難い
裏切りを犯したコハルだが、モラエスの気質としては放置しておけなかった。伊賀
町に戻って、コハルは多量の喀血をした。1916 年 8 月 12 日にコハルは徳島一の古
川病院に入院した。費用は、もちろんモラエスが全部負担した。(p.214-215)
モラエスの懸命の看病も空しく、コハルは 1916 年 10 月2日に古川病院で死亡し
た。(p.180)享年 23 才。モラエスは彼女の墓をヨネの墓の隣りに建てた。以前、
モラエスが福本ヨネの墓へ葬って欲しいと依頼したとき、福本家の人々は「とんで
もない!お墓にまであんたの名を刻み、いずれ私たちも名前を載せるお寺の過去帳
に、日本人でもないあんたを混ぜるなんて!」と烈しい口調で拒絶した。(p.222)
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長女の墓に祈りつづける斉藤ユキに、モラエスは「自分の骨を受け入れて欲し
い」と頼んでみた。ユキは「ええ、いいですとも」と答えて彼を見た。その表情の
なかに、モラエスはいくばくかの感謝の念と、この西洋人を手放すまいとの決意を
感じた。彼は「自分がコハルにほれ、背信をつらぬいた彼女にまだ愛着がある」か
のような印象を、ユキに与えたのではないかと懸念した。モラエスは「わが愛する
妻ヨネの墓の望める地に葬ってもらいたい」と遺書に書こうと思った。「悪い女」
であり「不快な思いをさせた」コハルも、だんだんと浄化され、ヨネと同様な彼好
みの「理想の女性」に甦って行った。(p.222-223)
徳島の風土に慣れ、日本食を食べるのはもちろん、その調理も上達したモラエス
は、週に二度ばかり斉藤ユキに家政婦として頼むほかは、買物、身づくろい、掃除、
洗濯、炊事とたいていのことは自分でやった。1916 年には「徳島の盆踊」を出版し
たし、「日本通信」の執筆は神戸時代そのままのペースで進んでいた。ライフ・ワ
ークを意図している「日本歴史」も、力をこめている「日本精神」も稿が進んでい
た。(p.218-219)
「自分の懐中にある金を勘定しろ!それから気まぐれな振る舞いのできる、思い
のまま進める限界を計るがいい」と神戸を去るとき考え、合理的に設計した「晩
年」は、コハルの死を除き、ほぼ予定通りに進行していた。従って、そう深刻な不
満はないし、充分な預金の利子と印税で暮らす隠者の生活は快適でさえあった。日
本食がわびしくなると、彼は新町橋畔の「市川精養軒」に行って、高価な洋食をた
らふく(三人前ほど)食べた。(p.219、p.221)
佃は、1914 年の徳島県議会の議事録にモラエスの件を審議した記録があることを
発見した。県当局の見解は次の通りであった。「モラエスはポルトガルの予備役海
軍中佐で前神戸総領事の高官でありました。警察と当局では、彼の経歴がよいから、
自由勝手にしてよいとは考えておりません。ポルトガル本国政府からの要請もあり、
徳島警察署に命じて、英語のできる高等警察係・田上刑事に調査にあたらせていま
す。(以下略)」(p.190-194)
田上健二郎は戦後になって徳島県立図書館を訪問して、モラエス文庫が空襲で全
焼したことを知って、ひどくがっかりした。佃はモラエス係を兼任していたので、
元刑事の田上からモラエスの昔話を沢山聞いたはずである。本書に書かれたその一
部を紹介しよう。(p.208)
➀1936 年に、花野訳の「おヨネとコハル」が出版されたことを広告で知った田上は
この本を購入した。この本を読んで、田上のモラエス感と本署に提出した観察記録
が間違っていなかったことが分かった。モラエス自身はあれで結構幸せだったかも
知れない。もっとあの老外人と踏み込んで付き合っていたら、得るところが多かっ
たと思った。(p.205)
➁ある日、田上が伊賀町のモラエスの家に行くと、彼は不在だった。潮音寺に行っ
てみると、モラエスはコハルの墓に抱きついて接吻していた。白昼のこのような行
為は、徳島市民からは、墓から精気を吸う紅毛人という妖怪譚と受け取られた。し
かし、真相を知る田上にとっては、むしろユーモラスであった。異様なのは詣り方
だけではなかった。墓石の掃除の仕方は、石を軽々と持ち上げて、すっぽりと水桶
につけて洗っていた。丁寧なのか、偏執狂的なのか、田上には決めかねた。
(p.202-203)
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➂斉藤コハルが死んでから二年が経っても、モラエス家の標札はそのままであった。
若い巡査から標札を変えるように言われたモラエスは、有合せの杉板に自分で「モ
ラエス」と書いて、コハル名義の標札のうえに釘で打ちつけた。(p.199)彼の死後、
県立図書館のモラエス文庫では、この標札を「愛の門標」として次のような解説を
付けて展示していた。「下はコハル夫人と同棲時代に用いられたもので、文字は夫
人の自筆。上は夫人の没後、翁が自書したものを、その上に釘付けしたもの。輪廻
を信じ来世を信じていた翁は、亡くなったコハル夫人の霊が、命日や盂蘭盆に帰っ
て来たときに、自分の表札が見えなかったら悲しむであろう、とし、いつまでも離
れず一緒にいるという愛の気持ちを、二つの門標を重ね打ちすることで示したので
ある。」(p.204)(勿論、この「愛の門標」も空襲で焼失した。)
1916 年から 1920 年にかけて、モラエスは、「コハル」以下 18 編の作品を書きつ
づけた。それまでは母国の人々には内緒にしていた、愛人のヨネとコハルを追慕し
て、二人の女を母国の人々に手放しで語ったのである。これらの作品は、「おヨネ
とコハル」と題する本に纏められ、1923 年にポルトで出版された。(p.218)
私は後で、「おヨネとコハル」の感想文も書く予定にしている。その予告として、
ここでは次の指輪物語のみを紹介しよう。モラエスは次のように書いている。「あ
あ、あの指輪!悲劇的な歴史があの指輪にあるのだ!二十年の昔、もう一つの指に、
もう一人の女に指してやるために、大阪のある貴金属商で買ったあの指輪。四年前
に、そのときすでに冷たくなって、かさかさしていた死骸の、そのもう一つの指か
ら、それを抜き取ったのは私であった。そうして、いままさに墓場に運ばれんとし
ていたその死せる愛人の、親しい姪コハルに、私はそれを与えた。そいして、いま、
瀕死の女、コハルは、その所持する唯一の宝なる金の指輪を抜いて、母親に贈
る。」(p.215-216)(注:「死せる愛人」とは、福本ヨネである。)
(8)モラエスの孤独死
モラエスは近所の人々とはよい付き合いをしていたが、外国人に不慣れな徳島の
市民からは「得体の知れぬ毛唐人」との偏見を持たれていた。(3)で書いたよう
に、子供達からは悪戯をされたり、「毛唐、毛唐」と囃し立てられた。(p.23)
1922 年には、徳島出身の鳥居龍蔵博士が県立図書館近くの城山で貝塚発掘を行っ
た。モラエスは博物学に造詣が深く、図書館長とも親しかったので、図書館に行く
途中で発掘現場に出かけた。徳島の考古学者達は「けがらわしい!お前に何が分か
るか!」とか「日本人の遺跡を汚す気か!」などの言葉を投げつけて、モラエスを
近寄らせなかった。(p.255-256)(本来なら、図書館長はモラエスの講演会を定期
的に開催して、モラエスと徳島の文化人との交流を図るべきであった。)
1922 年 11 月には、皇太子の四国巡幸があった。ひそかに歓迎しようと徳島市民
の中に混じっていたモラエスは群衆につまみ出され、警官の罵声で野良犬のように
追われた。(p.277)(本来なら、県知事は皇太子の歓迎会にモラエスを招待して、
明治天皇に三度も謁見したポルトガルの元高官が徳島に在住していることを皇太子
に紹介すべきであった。皇太子は「あっそう。徳島はどう?」とモラエスに聞かれ
たかもしれない。)
1924 年で、モラエスは 70 才になった。人妻マリーアに恋焦がれ、果ては烈しい
神経症を患った青年士官は、今や救い難い老人病患者になりはてた。腎臓病、心臓
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障害、高血圧、リュウマチス、糖尿病。寒暖の差の大きい徳島の地が、老人病患者
には厳しかった。斉藤ユキは、「モラエスは米麦混合飯を糊のように柔らかく炊き、
砂糖をたっぷりかけて食べるのを好んだ。尿から糖分が検出され、主治医の富永医
師から砂糖を厳禁されたが、なかなか従わなかった。菓子が好きで、日の出楼の羊
羹や麦菓子をいつも買っていた」と証言している。(p.225-226)
1925 年と 1926 年には友人のコート夫妻が徳島に来て、神戸に移って専心療養す
ることを勧めた。1926 年8月には、亜珍が二人の息子を連れて、広東から徳島にや
ってきた。モラエスのメモによると、彼らは徳島に十数日滞在した。彼らは老いた
モラエスの身を案じて、暖かい香港かマカオで世話をしたいと申し出た。しかし、
モラエスは「他のどこよりもこの徳島で住む」との決意は固かった。(p.264)なお、
斉藤ユキは亜珍という思わぬライバルが出現して、「モラエスが生きているうちに
出来るだけ沢山金をもらっておこう」との態度が露骨になった。(p.270)
岡本の「モラエス伝」によれば、ポルトガルでは遺産の半分は法定相続人に与え
なければならなかったが、残りの半分は本人が自由に使えた。モラエスは亜珍親子
に余分の遺産を与える気持ちはなかった。亜珍の兄が事業に成功しているので、彼
女は生活の心配がなかったからである。二人の息子は亜珍に洗脳されているので、
彼らには法定額以上の遺産を与える気持ちはなかった。
1928 年の年末、モラエスは人力車で銀行に行って、23500 円を定期預金とし、残
金を小銭で引き出した。(当時の 23500 円は、現在の約1億円に相当する。)それ
からの十日間は、彼は遺書を書くことに全力を傾けた。埋葬はキリスト教様式によ
らず仏式によって、徳島で火葬にすること。蔵書や資料類は徳島県立図書館に寄贈
すること。斉藤ユキの同意が得られれば、遺骨はコハルの墓に埋め、コハルの墓石
の裏面に名前と死没の年月日を日本文字で刻むだけでたりる。万一同意が得られな
い場合は云々。その他、モラエスは事細かく遺言を書いた。(p.282-283)
モラエスは、肝心の遺産の分配を次のように遺言した。永原デンに一万円。二人
の息子に五千円あて。慈雲庵へ仏壇の永代供養料として五百円。家のあと片付けに
三千円。亜珍にはやらない。斉藤ユキにも遺さぬつもりだったが、残金が生じるな
らば、それをユキに与えよう。ただし、残金ができなければ贈与しなくてもよい。
ユキには生前いくばくかの金は与えてあるから。(p.284)
モラエスは、リュウマチスの痛みや足が腫れて足袋をはけない状態で、火の気の
ない部屋で寒い冬を過ごした。火を使うと危ないと、彼が思ったからである。貧乏
で教養のない斉藤ユキには、火鉢の代わりに湯たんぽを用意するやさしさが欠けて
いた。(p.275)
身動きができないほど悪化した病苦のなかで、モラエスは 1929 年の冬を乗り切り、
ともかく生きていた。東京の公使の命を受けて、神戸からスーザー総領事夫妻が見
舞いにきて神戸か大阪に移るように説得した。しかし、モラエスは頑なに拒絶した。
主治医の富永医師は「心配だった厳寒を無事くぐり抜け、日増しに快方に向かって
いる。つききりの看護人のいない点が不安だが、病気そのものはさほど危険だとは
思わない」と答えた。(p.288)(そうであれば、スーザーと富永は、付き添いの看
護人を雇用することを、何としても、モラエスに説得すべきであった。)
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スーザー総領事はモラエスの近況をカーネイロ公使に報告した。カーネイロはス
ーザーの手紙を読んで、いっそう不安を増し、俺が行かねばとはるばる徳島を訪れ
た。モラエスの頑なな意志に、カーネイロはあきれ果てて帰っていった。(p.288)
五月になり、モラエスは家のなかではやっと歩けるようになった。彼は杖にすが
って五ヶ月ぶりに墓参に行ったが、帰り道に自宅の一丁ほど前で倒れた。彼が倒れ
るのを見た加納家の母娘が、彼を自宅まで送ってくれた。梅雨になり、梅雨の晴間
にモラエスは一度だけ外出して加納家に礼に行き、裁縫を内職にしていた加納家に
蒲団の新調を注文した。その日、家に帰ってからモラエスは片足の自由を失った。
その結果、彼は一人で便所に行けなくなり、斉藤ユキの助けを借りねばならなくな
った。(p.289)
最初、モラエスはユキの家政婦代金に日当1円を支払っていた。彼の隣に住む大
工の橋本富蔵の日当も1円であった。そのうち、ユキの日当を2円に増額した。一
日中働いても2円、食事を一度にたくさん作って二時間たらずで帰っても2円であ
った。それを不合理と思ったモラエスは、作業別能率給の制度を思いつき、渋るユ
キを説き伏せた。前年の春から、炊事1円、買物や雑用が1回 20 銭などとした。こ
れで、一日の賃金は、炊事の1円の他、買物や洗濯などで 50 銭、合計1円 50 銭て
いどで足りた。(p.289)
モラエスが便所に行けなくなってから、大便を取るのが1円、小便が 50 銭で、ユ
キの一日の総賃金は、4円、5円、6円と上昇するばかりであった。時々、いざり
ながら二階へ上がることもあったが、ほとんどの時間をモラエスは階下の籐椅子で
過ごした。起きているでもなく、寝ているでもない何日かが過ぎる。(p.289)
「帰っても、ほんとうに大丈夫ですか?」と、ユキは念を押して帰ってゆく。ユ
キが帰ってしまうと、モラエスはほっとする。うるさくないからである。よろめき
ながら戸締りをすませ、籐椅子で夢幻の世界を浮遊して楽しむ。しかし、ユキがい
ないとモラエスはたちまち困ってしまう。便器に用をたし、衰えむくんだ腕で、痛
みをこらえて便を庭に捨てる。便を捨てる小窓は、彼の肩くらいにある。懸命の努
力で捨てるのであるが、うまく窓を越えず、飛沫が体に跳ね返ったり、敷居や畳を
糞尿で汚したりした。(p.289-290)
西行法師にならって、春までと思っていたのに、梅雨が過ぎたのにまだ生きてい
る。半身不随。動けないことをいいことにして、斉藤ユキの家政婦料はますますつ
り上がった。信玄袋にいっぱいつまっていた小銭が、もう残り少ない。ユキの手伝
いを断れば、当分は何とかしのいでいけそうだ。6月 28 日の夕方、斉藤ユキに「も
う来なくともよい」と、モラエスは彼女の手伝いを強く拒んだ。(p.295)
「体が不自由なのに、一人っきりでどうする」とユキは抗弁したが、言い出した
ら聞かないモラエスであった。彼女は、向かいに住む銀行員の岩本朋三郎を訪ね、
事情を語り、それとなく気をつけてほしいと頼んだ。壁一つ隣に住む大工の橋本に
も同じことを依頼して、「老いてますます頑固になり、気むずかしくなった」とモ
ラエスのことを愚痴った。そして、ユキは伊賀町に三日間足を運ばなかった。
(p.295)
大工の橋本は、玄関の外から一度だけ声をかけたが、元気なモラエスの返事があ
ったので安心した。銀行員の岩本は、30 日の午後、ユキに頼まれたことを思い出し
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て、玄関までモラエスを訪ね、上がり框に腰をおろして雑談した。心配することも
なさそうな様子だった。(p.295)
1929 年(昭和四年)7月1日の朝、自宅で死亡しているモラエスが発見された。
死体発見者の隣人・橋本富蔵は次のように証言している。「朝になって、モラエス
さんのところが、えらいひっそりしているので、家主の息子と二人で見に行きまし
た。玄関を叩いたけんど返事が無いんで、中窓からのぞくと、モラエスさんの足が
天井向いて、頭は土間に落ちとるようでした。玄関をこじ開けて中にはいると、モ
ラエスさんが死んどりました。びっくりして、警察に届けたわけです。病気はしと
ったけんど、こんなに早く死ぬとは思いまへんでした。鼻を打って、鼻血を出しと
りました。洋酒の瓶が転がっていました。ヤカンも転がっとりました。部屋じゅう
ウンコだらけで、臭いのに閉口しました。」(p.302)
大阪と徳島の新聞は、モラエスの死を大々的に報道した。しかし、各紙の内容に
は微妙な差があった。「モラエスは大正二年七月徳島に来たり、斉藤寿次郎長女コ
ハル(当時二十歳)を愛妾として同棲、きわめて円満な家庭を造っていた。大正五
年愛妾コハルが病死し、コハルの妹某を妾としていたが、同女は若い燕と駆け落ち
した」という「ガセネタ」を掲載した新聞もあった。(p.330)なかに一紙、赤新聞
といわれる「とくしまよみうり」が「半身不随の老人を、何日も放っておいたのは
他殺に等しい」と書いていた。(p.317)
7月2日の早朝、神戸からスーザー総領事が山城通訳を伴って徳島に到着した。
スーザーは関係者立会いの下、モラエスの遺書を開封した。遺書に従い、同日午前
11 時に遺骸は徳島火葬場で荼毘に付された。3日の午前中にポルトガル代理公使の
カーネイロが徳島に到着した。(p.312)
モラエスの葬儀は、3日の午後三時三十分より安住寺で行われた。カーネイロが
喪主を務め、徳島県知事、徳島市長その他知名の士が多数参列した。モラエスの蔵
書や資料類は徳島県立光慶図書館に寄贈され、そこで「モラエス文庫」が開設され
た。(p.331)1930 年1月7日、遺産管理人である神戸のスーザー総領事から徳島
警察署の横山署長に「金が余ったので、斉藤ユキに届けて欲しい」と、現金 1580 円
が送られて来た。(p.318)
モラエスはその死によって、徳島市民の魂をゆさぶった。かつての西洋乞食は、
「日本人に魂を入れかえた日本人以上の日本人」として、毎年七月一日には盛大な
モラエス忌が、昭和五年以来今日まで営まれている。(p.333)
1955 年7月 11 日に佃はコハルの末弟である斉藤益一から斉藤家側のモラエス感
を聞いた。彼の意見の一部を以下に紹介する。「墓所にしても、モラエスさんの骨
を受け入れてはいますが、斉藤家の墓なのか、モラエス翁顕彰会の墓なのか、さっ
ぱり分からんようになったでしょう。姉の墓を作る費用は、モラエスさんが出して
くれましたが、あの墓は姉の墓です。ところが今じゃモラエスさんの墓という現状
でしょう。私たち斉藤の者は、あまりいい気持ちはしません。(中略)姉はモラエ
スさんの子供を産んでおりません。次男の麻一は小さいときに病死しましたが、こ
の子のお位牌も私が祀っております。この子の父親は今も健在で、毎年命日にお参
りに来てくれます。この人も、晴れて姉と添えず、モラエスさんが急にもてはやさ
れるようになったため、ひどく迷惑をこうむった一人です。」(p.325-328)
(記載:2013 年9月5日)
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