One of Europe`s leading dance festivals, ImPulsTanz

国際交流基金 The Japan Foundation
Performing Arts Network Japan
Presenter Interview
2015.3.31
プレゼンター・インタビュー
One of Europe’s leading dance festivals,
ImPulsTanz
ヨーロッパを代表するダンスフェス
インパルスタンツ
カール・レーゲンスブルガー
Karl Regensburger
(C) Nikolaus Samilache
インパルスタンツ(ウィーン国際ダンス
フェスティバル )
ImPulsTanz - Vienna International
Dance Festival
http://www.impulstanz.com/
毎年夏にウィーンで開催されている「インパルスタンツ(ウィーン国際ダンスフェス
ティバル )」は、コンテンポラリーダンスの巨匠から新進振付家まで多くの作品が見
られるだけでなく、一流のアーティストによる多数のワークショップが行われること
で知られるヨーロッパ最大の国際ダンスフェスティバルだ。1984 年、現ディレク
ターのカール・レーゲンスブルガーとブラジル出身のダンサー・振付家のイズマエ
ル・イヴォが、それまでウィーンでは学ぶ 場のなかったコンテンポラリーダンスの
ワークショップを集中的に実施する「ウィーン国際ダンス週間」をスタート。1987
年からパフォーマンスプログラムが行われるようになり、翌88 年にドイツ語の “脈
打つ(ImPuls)”という意味を持つ現在のフェスティバル名に改称した。以来、ウィ
ーンの公立劇場が夏休みになる7月~ 8月の期間を活用して毎年開催され、ヴィム・
ヴァンデケイビュス、マリー・シュイナール、ラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップス、
ローザス、ジョセフ・ナジ、エミオ・グレコら、世界で活躍する振付家、カンパニ
ーの新・旧作品を継続的に紹介するとともに、ワークショップを中心にした若手育
成に尽力。96 年にはすべての公演、ワークショップに無料参加できるほか、メン
トーの指導が受けられる「ダンスウェブ奨学プログラム 」を創設。また、2001年か
らは若手振付家を紹介する「8:tension」もスタート。ウィーンダンス週間から数え
て 30 年、ヨーロッパのコンポラリーダンス・シーンを支えてきたインパルスタンツ
について、レーゲンスブルガー氏にインタビューした。
聞き手:山下秋子[ジャーナリスト]
■
─ まずレーゲンスブルガーさんの背景から伺わせてください。私が知っている限
り、レーゲンスブルガーさんはダンスのバックグラウンドはもっていらっしゃらないよ
うですが、何が契機でこの仕事を始められるようになったのでしょう。
大学では経営学を専攻しました。ダンスの教育を受けたわけではありませんが、
就職したのがダンス関係の事務所だったので大学で学んだ経営をダンスの道で生か
すことになりました。その後、ニューヨークで活躍していたブラジル人のダンサーで
振付家のイズマエル・イヴォがヨーロッパで活動を始めて、縁あってイヴォのマネー
ジャーを務めることになりました。これが本格的にダンスの仕事をはじめたきっかけ
です。
─ レーゲンスブルガーさんとイヴォさんが「インパルスタンツ」の前身であるダンス
のワークショップを集中的に開催する「ウィーン国際 ダンス週間」をスタートしたの
は1984 年です。ピナ・バウシュがヴッパタール舞踊団の芸術監督に就任したのが
1973 年、ウィリアム・フォーサイスがフランクフルト・バレエ団の芸術監督に就任
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インパルスタンツ
したのが 1984 年です。80 年代の初めといえば、ドイツでピナに象徴されるタンツ
テアーターが市民権を得た時代だったと思います。この時代のウィーンのコンテンポ
ラリーダンスの状況はいかがでしたか。
1980 年代、確かにドイツではピナがタンツテアーターを確立し、フォーサイスが
バレエ界に新風を吹き込みました。この時代は、ダンスにおける新しい動きが始ま
った時期で、それはドイツに限ったことではなく、フランスでも国立振付センターの
*ジョージ・タボリ
(George Tabori, 1914-2007)
オ ー ス ト リ ア = ハ ン ガ リ ー 帝 国( 現 ハ ン
ガ リ ー) 出 身 の 脚 本 家、 劇 作 家、 演 出 家。
1936 年にイギリスに亡命。第二次大戦後は
アメリカに渡り、ハリウッドでヒッチコッ
ク映画などの脚本家として活躍。1960 年代
末からベルリンやウィーンに活動の場を移
し、劇作家、演出家として活躍。1987 年か
ら 90 年までウィーンの劇場シャウシュピー
ルハウス(SCHAUSPIEL HAUS)の支配人
に。戯曲の代表作はヒットラーの著書をもと
にナチス批判をした「わが闘争─笑劇」
(1987
年)
。
設置がはじまりました。
当時、ドイツやフランスと同じように、ウィーンでもコンテンポラリーダンスへの
関心が 高まっていました。イヴォも私自身もウィーンで何か 新しいことを始める機
が 熟したのではないかと考えました。そして手 探りのような状 況だったのですが、
1984 年に「ウィーン国際ダンス週間」を始めました。
最初はウィーン体育大学のスペースを借り、私の友人であったダンサーや振付家な
ど、世界から 6 名の著名な講師を招待して 2 週間のワークショップを開催しました。
今から考えれば、本当に手作りという表現がぴったりでしたが、とても大きな関心
を呼び、定員を越える参加者がありました。期間をもっと長くしてほしいという声が
あがり、結局3週間に延長することになったほどです。こうしたダンスやバレエの世
界で新しい声が上り始めたことに対して、ウィーンの劇場はとてもオープンで、協力
的でした。ウィーン国際ダンス週間が回を重ね、多くの参加者が集まってくるとこと
に注目してくれました。
─ウィーンには潜在的なニーズがあったということですね。
はい。ウィーン国際ダンス週間にとって大きなブレークのきっかけとなったのは、
当時の演 劇界で最も脂が乗っていたジョージ・タボリ(*)との出会いでした。それ
までにも単発的に彼と一緒に仕事をしたことはありましたが、タボリが 1987年にウ
ィーンの劇場、シャウシュピールハウスにやって来たことは私たちの活動に大きな転
機となりました。彼が劇場を使わせてくれて、ワークショップだけではなく、公演プ
ログラムができるようになったのです。こうして、1988 年以降、ウィーン国際ダン
ス週間から、現在の「インパルスタンツ(ウィーン国際ダンスフェスティバル)」
( 以下
IPT)と改称し、ワークショップに加えて、世界からいろいろなカンパニーの公演を
招聘するようになりました。
ワークショップだけを取ってみても、2 週 間という設 定で始まったのが、3週 間
になり、 現在 では 4週 間になっています。 夏 だけでは足りないということになり、
1997年までは、大学が休暇に入る冬の時期にも10日間のワークショップを開いて
いました。冬のワークショップにも100 の講座があり、150人の講師が来ていまし
たが、1998 年からは夏だけに集中するようになりました。
─ IPT は 7月から 8月というウィーンの公立劇場が夏休みに入る時期に開催されて
います。この会期は最初から考えていたのですか。
劇場のシーズンが終わる時期であれば、劇場専属のダンサーや振付家などを講師
として呼べます。また、ダンサーもワークショップに参加しやすくなります。劇場が
休暇に入っている時期だからこそ、公演のための会場として劇場が使用できますし、
会期をこの時期に設定したのは良かったと思っています。今では、IPTの期間中だけ
でなく、シーズン中にもウィーン市内の劇場で IPTの公演をしたり、劇場側が私たち
に公演の協力を依頼したりするようになりました。もちろん、我々に財政面でのリス
クがないことが条件になりますが。
─ IPT が大きな成果を上げ、ウィーンで認められたという証拠ですね。
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そうですね。1984 年の開始当初からワークショップが大きな関心を集め、さらに
1988 年にはパフォーマンスプログラムが加わったことで、IPT はウィーンの夏に欠
かせないものになったと言っていいのではないでしょうか。
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インパルスタンツ
─ ワークショップの対象者は、ウィーン国際ダンス週間のスタートから現在に至る
30 年の間に変わりましたか。
どういう人を対象にするかを意図的に変えたわけではありませんが、受講者の質
が変化してきているのは事実です。始めたころは、ダンスを大学で学び始めたばか
りの若い学生を中心に、地元の人たちが多く参加していました。しかし、96 年から
ダンスウェブ(danceWEB)と呼ばれる奨学制度を始めてから、プロフェッショナル
なダンサーが増えました。この制度は大変な人気で、60 から70 名の定員に対して、
世界中から1500 名余りの応募者があります。彼らは IPT が始まる前にウィーンに入
り、IPT全般についてのオリエンテーションを受けてから、IPT が提供するすべての
ワークショップ、パフォーマンスプログラム、さらにはリサーチプログラムなどに無
料で参加できます。プログラムが終了した後には全体を振り返る時間をもち、全部
で 5週間をウィーンで過ごします。
プロフェショナルを目指すダンサーに向けたワークショップを行う一方で、私たち
はダンスに関心を持つ人たちを広げるために、子どもから高齢者までの幅広い年齢
層を対象にした講座や、全くダンス経験のない人を対象にした講座も提供していま
す。こうした講座を行うのは、ダンスに対する垣根を取り除くことが大切だと考えて
いるからです。例えば、去年の参加者の最高齢は 84歳の女性です。彼女は全くダ
ンス経験がなかったのですが、毎年ワークショップを受講するようになり、参加する
ことをとても楽しみにしています。私たちは “ 揺りかごから墓場” までダンスを提供し
ているのです(笑)。
─ 1988 年から観客向けのパフォーマンスプログラム(公演)を開始されましたが、
不安はありませんでしたか。
先ほども言いましたが、劇場側から私たちに公演を一緒にやらないかという幸運
な誘いもくるようになっていました。でも、パフォーマンスプログラムをやろうと思
い切れたのはトリシャ・ブラウンを招聘した公演が評判になったことが大きかった。
それ以来、ダンスカンパニーの間に口コミで IPTのことが広まり始めました。ウィー
ンに来たカンパニーがとても居心地よく感じたということでしょう。例えばアンヌ・
テレサ・ドゥ・ケースマイケルは、IPT で数多くの作品を公演していて、彼女にとって
ウィーンは定期的な公演地になっています。
─最近、彼女はオーストリア連邦文化功労賞を受賞しましたね。
IPT が直接の受賞の理由ではないと思いますが、少なくとも彼女がウィーンで公
演を始めるきっかけとなったことは確かです。
─ IPT の内容を見ると、ワークショップ、パフォーマンスプログラムの他に、リサ
ーチ、ソシアルという部門があります。
リサーチ・プロジェクトは、プロフェッショナルなダンサーだけを対象にした 3週
間のセミナーとして 1990 年に始まりました。プロのダンサーにとって、3週間は長
すぎるということがわかり、今では10日から14日間に会期を短縮しました。IPT の
公演のために来ている振付家たちや、コンテンポラリーダンスの分野で注目すべき
プロセスやテーマを持っている振付家たちから直接指導を受けるコーチング・プロジ
ェクト
(現在は名称を「フィールド・プロジェクト」に変更)や、インプロビゼーション、
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グループ作業などが、集中的に行われます。ソシアルというのは、いわば IPT のミ
ーティングポイントで、ダンサーだけではなく一般の人たちも参加できるパーティの
ようなものです。初演のお祝いもここでやります。一般の人々がダンス関係のアーテ
ィストたちと出会い、自由に話し合える場所となっています。ダンスへの敷居を低く
するためのもので、ウィーンの人たちにはとても人気があります。ウィーンの街中に
IPT が根付く一助になっていて、IPTの成果の一つです。
─ 夏休みで閑散としているウィーンが、IPT によって活気づけられているというこ
とですね。
100% その通りです! 事実、IPT によるウィーンの宿泊者は 35000人に上りま
す。ワークショップの受講者、カンパニーのダンサー、舞台関係の技術者、観客な
どがウィーンに集まるのですから、合計すればこれだけの数になります。
─ 2014 年は 7月17日から 8月17日までの1カ月に、市内15会 場で約35 作品が
上演され、約20 会場で計240 のワークショップが行われました。こうしたプログラ
ムを構成するにあたって、IPT では毎年何かテーマを掲げて臨んでいるのでしょうか。
私たちは、まさにそれを避けています。その年のテーマを決めてプログラムを構
成するとなると、最低 2 ~ 3 年の準備が必要になります。そうなると、フェスティバ
ルの柔軟性と時事性が失われてしまい、最新のダンスシーンの動きに対応すること
ができなくなります。決まったテーマに沿った作品の創作を委嘱するというのではな
く、そのときに最も興味深い作品を IPT で見せるというのが私たちの考え方です。
─ IPT のパフォーマンスプログラムのキュレーションはレーゲンスブルガーさんご
自身がなさっていますか。
最終的には私が決定しますが、IPT には 20人を越えるスタッフと多くの協力者が
います。世界中にいる私たちの協力者から興味深い作品があると聞けば、私やスタ
ッフが見に行きます。1年でほぼ 200 作品の公演を実際に生で見ていますし、600
~ 800 本の作品を録画で見ています。
ワークショップについては、イズマエル・イヴォがコンセプトを作り、スタッフと
一緒に決めています。それから、パフォーマンスプログラムの内、若手振付家を紹
介する「8:tension」
( 審査員によって選ばれた最優秀作品には1万ユーロの賞金が与
えられる)には専門の担当スタッフがいます。協力者、スタッフ、私自身が見た作品
の中から、最終的にプログラムを決定しています。
─ パフォーマンスプログラムでは、すでに創作された作品をラインナップするのが
基本ということですか。
もちろんウィーンで初演されるものもあります。実際、多くのカンパニーが IPT を
初演の場にしたいと考えています。ただ、初演となると劇場を最 低でも 5日前、で
きれば 8日前から準備のために借り切ることになり、予算との兼ね合いが必要になっ
てきます。
IPT は1カ月間、世界のカンパニーの公演の場となりますが、時間的に余裕を持
たせた日程を組んでいるので、ダンサーや振付家の交流が可能になっています。次
のプロジェクトを考えている振付家にとっては、ワークショップを見学したり、講師
と話し合ったり、そのプロジェクトのためのダンサーを選ぶこともできます。ダンサ
ーにとっては、ITP に来ることが次の仕事を得るチャンスにもなっています。ダンサ
ーはオーディションでのプレッシャーを感じなくても済みますし、振付家にとっては、
何枚もの応募用紙に目を通さなくても、目の前でダンサーを見ることができる。両
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者にとって、IPTのワークショップは良い出会いの場になっているのです。
─ IPT の運営体制について教えてください。ディレクターはレーゲンスブルガーさ
んとイヴォさんの 2 人制を敷かれていますが、その他、何名のスタッフがいらっしゃ
いますか。
通常は18 ~ 20 名のスタッフがいますが、IPT の開催前後の夏には 200 名ほどに
なります。また、会場は年によって多少変わりますが 14 ~16 カ所。主に劇場空間
を使いますが、今まで演じられたことがない場所を私たちが見つけることもあります
し、アーティストが自らプロジェクトを実現したい場所を探してくることもあります。
その場合は、できるだけアーティストの希望に沿うよう、会場や役所との交渉を私
たちが引き受けます。アーティストは、私たちが思いも寄らないことにも対応するの
を知っていますから、常に何か新しいことが起きています。
─ IPTの前身がワークショップを行う「ウィーン国際ダンス週間」だったことと関連
があると思いますが、IPT は人材育成に力を入れているように感じます。30 年間続
けてきたワークショップから、ダンサー、振付家などアーティストが育ってきている
のではないでしょうか。具体的な成果を教えてください。
現在活躍している重要な若手振付家の70% は IPTの参加者だと言えます。アクラ
ム・カーンをはじめ、旬の振付家たちの非常に多くがウィーンを活躍の出発点として
います。特にダンスウェブを始めたことによって、若手育成がさらに進んだことは確
かです。ただ、逆のケースもあって、他の参加者と比べて、自分の能力が足りないこ
とに気づいてダンスを職業として選ぶことを止める人もいます。私たちにとって、若
手の育成は本当に重要なことなので、
「8:tension」で審査員が選んだ作品の制作支
援や滞在を支援するためのシステムを拡充する努力をしています。
─近年、フォーサイスがフランクフルト市立劇場から離れざるを得なくなり、ロー
ザスが本拠地としてきたベルギーの王立モネ劇場がダンス制作の打ち切りを発表す
るなど、劇場部門におけるコンテンポラリーダンスの立場がどんどん悪くなっていま
す。カンパニーやダンサーはフリーでしか活躍できない状況になっています。
確かにダンス、ダンサーの状況はとてもシビアです。かつて、ダンサーはカンパ
ニーに属していましたが、今はプロジェクトごとにダンサーが決まります。固定した
アンサンブルメンバーを抱えているカンパニーはもうほとんどありません。一つの作
品がレパートリーになるようなことはもはやないでしょう。 現在のこのような状況
に対して、かつて IPT で上演して大きな成功を収めた作品をもう一度見直す、つまり
コンテンポラリーダンスにも歴史があることを示すために「インパルスタンツ・クラ
シック」というプログラムを始めました。例えばジェローム・ベルの昔の作品を、今
の若いダンサーたちが踊ることによって、なぜ彼の作品が成功を収めたのか、なぜ
彼が有名になったのかを理解できるようになります。さらに、ウィーンで再演された
ことで、ウィーン以外の劇場、例えばロンドンのサドラーズウェルズでも公演される
ようになりました。コンテンポラリーダンスの歴史上の作品を IPT が他の劇場と共
同製作するという事態も生まれてきています。数年前にその作品を作った振付家が、
再び若いダンサーたちと再演することで、振付家自身も自分の作品を新たに見直す
ことができるかもしれません。
─ 予算について差し支えない範囲で教えていただけますか。資料によると、全体
予算が 520万ユーロ、ウィーン市からの支援が 210万ユーロ、国から 50万ユーロ、
EU から 60万ユーロ、スポンサー支援70万ユーロ、チケット収 入が 130万ユーロ
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になっていますが。
今年は去年よりも少し予算の規模は少なくなるかもしれませんが、全体として 50
万ユーロ、チケット収入が 140万前後になると思います。公的支援、スポンサー、
チケット収入の割合は、去年とほぼ変わらないでしょう。
─ 今年の IPT の会期は 7月17日から 8月17日までです。どのようなプログラムに
なる予定ですか。
プログラムの内容はいま詰めているところです。ワークショップは 200 ほどで、こ
れはすでに決まっています。パフォーマンスプログラムについても、私がやりたいこ
とは決まっているのですが、今まさに、そのための予算を確保できるかどうかの交
渉中です。詳しいプログラムは 4月下旬にオンラインで発表しますので楽しみにして
いてください。
─今日はお忙しいところ、お時間を取っていただきどうもありがとうございました。
日本からインタビューを受けることは大変光栄なことだと思っています。こちらこ
そどうもありがとうございました。
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