国際交流基金 The Japan Foundation Performing Arts Network Japan Presenter Interview 2016.8.19 プレゼンター・インタビュー The network organization Aerowaves Working to discover and support young choreographer ジョン・アシュフォード John Ashford 若手振付家の発掘を目指す ネットワーク組織 Aerowaves Aerowaves http://aerowaves.org/ 欧州の若手振付家を発掘・支援するコンテンポラリーダンス専門のネットワーク組織 「Aerowaves」が 1996年に設立された。その仕掛け人が、劇場・ダンススクール・ 付属カンパニーを有し、英国のコンテンポラリーダンスの普及・振興に多大な貢献 をしているザ・プレイスの劇場ディレクターを長年務めたジョン・アシュフォードだ。 Aerowaves設立にいたる思いを聞いた。 聞き手:岩城京子[ジャーナリスト] ■ ─ Aerowaves は、欧州の若手振付家とダンス・プロデューサーを繋げることを主 な目的にしています。1996年設立当時、アシュフォードさんはザ・プレイスの劇場ディ レクターを務めていらっしゃいました。なぜ劇場ディレクターという重責を担いながら、 新しいダンス・ネットワーク組織を立ち上げようと思われたのか。設立経緯について教 えてください。 私が劇場ディレクターを務めたのは1986年から2009年まで。その間、ドメスティッ クに閉塞しがちな英国舞踊界を海外に向けて開こうと務めてきました。ザ・プレイス 在籍時の1990年に立ちあげた「ザ・ターニング・ワールド」という海外作品に特化した シーズンは、そのビジョンを端的に表すものです。ちなみに「海外」と言ったとき、当 時の英国舞踊界は主にアメリカに目を向ける傾向がありました。英国最大規模のコン テンポラリーダンス・フェスティバルとして知られる「ダンス・アンブレラ」芸術監督の ヴァル・ボーンが、マース・カニングハム、トリシャ・ブラウン、マーク・モリスなど、 当時、世界のダンス界を牽引していた米国の才能に注目していたためです。ちなみに ザ・プレイスは現在に至るまで、ダンス・アンブレラの主要会場として利用されていま す。ただ私がザ・プレイスで働き始めた頃から、ダンスを含む知的産業の中心地がア メリカから欧州に移行し始めていました。少なくとも自分はそう感じていた。その直感 を信じて、私は欧州に力点を置き、ヴィム・ヴァンデケイビュスやアンヌ=テレサ・ドゥ・ ケースマイケルなどを、初めて英国に招聘しました。 ザ・プレイスがヨーロッパの舞踊作品を上演するロンドンで唯一の劇場として認知 され始めると、ヨーロッパ中から自分たちの作品を売り込むビデオが送られてきまし た。初めは数本。気づいたときにはそれが 70本を超えるビデオの山になっていた。も ちろん1本1本、丁寧に目を通したいと思いましたよ。ただ当時は映像のクオリティが あまり良くなかったため、全編を再生しても深く理解できないことが多かった。そこで 私は、同業種で働く海外の友人たちに国際電話をかけて「どのビデオを見たほうがい い? この作家はどうなの?」とアドバイスを求めるようになりました。そうした電話を かけるようになってすぐに気づいたのは、彼らも私と同様に、国外作家についての知 識があまりなかったということ。ベルギーにいるギー・クールズならベルギーの、ポル 1 国際交流基金 The Japan Foundation Performing Arts Network Japan Presenter Interview The network organization Aerowaves Working to discover and support young choreographer 若手振付家の発掘を目指す ネットワーク組織 Aerowaves トガルにいるマリア・デ・アシスならポルトガルの振付家のこと以外、あまり知らなかっ た。 そこで私はあるアイデアを思いつきました。舞踊業界に携わる欧州の友人たちを12 人ほどロンドンでのディナーに招き、そこで 70本のビデオを一緒に鑑賞しようと思っ た。そうすれば少なくともその12人は、ベルギーからポルトガルに至るまで、あらゆ る国の振付家についての知識を共有できます。このようにロンドンの小さなディナー・ テーブルを囲むかたちでAerowaves は始まりました。つまり当初は Aerowaves の活 動もザ・プレイスでの職務の一端のような感じだったので、二足のわらじで進むことに もためらいがなかったのです。 ─以後、Aerowaves は「欧州でダンスを発掘するためのハブ組織」をキャッチフレー ズに、欧州の都市を巡回しながら毎年開催されています。 ええ、翌年はヘルシンキのパートナーであるマリアナ・カヤンティが、12人全員を 彼女の劇場に招いてくれました。とはいえ全員、旅費は自腹。ビデオテープ数十本 を収容する大きなアルミケースの輸送費は、主催者が負担しました。マリアナが運営 するヘルシンキの劇場は、市内からはボートでしか辿り着けないハラッカという孤島 にあり、1930年代にロシア軍の生体実験室として利用されていた歴史的建造物でし た。私たちは実験用の猿を捕らえる檻や、ベンチや、化学実験用ガスバーナーのある 不気味な建物の中で、2回目の話し合いを進めました。ある土曜の夜、そこでただひ とり海の向こうに広がる美しい朝焼けを眺めながら仕事をしていたことを覚えています ……。以後、ネットワークは順調に拡大しつづけ、現在では 欧州41カ国のパートナー と提携しています。毎年違う都市で開催しており、まだ一巡しきっていません。 ─ Aerowaves という組織名はどのように決定されたのでしょうか。 現在はケベック州政府ロンドン支局で文化大使として働くアシス・カレイロという友 人が、助成団体を限定しないような、多様なスポンサーシップを得られそうな名前に すべきだと、助言してくれました。そして冗談半分で「Aerowaves がいいんじゃない? 製菓会社の Rowntree にスポンサーになってもらえるかもよ 」と言ってきました。 Rowntree は「Aero」という有名なチョコレート菓子を製造しているんです(笑)。とに かく当時、私は組織名にあまり重きを置いていなかった。活動が公式に見えてこない、 水面下でことが進むダンス・プロデューサーのネットワークでしたから、組織をブラン ディングする必要性を感じていなかったんです。 ─ 当初、Aerowaves のネットワーク・ミーティングで才能が認められた振付家た ちは、ザ・プレイスで毎年1月から2月にかけて5週間にわたって開催される「リゾリュー ションズ!」という若手振付家プラットフォームで、作品が上演される機会を与えられま した。 「リゾリューションズ!」は連夜約100組のダンスカンパニーを紹介する、若手振付 家のためのプラットフォームです。一晩たりとも、同じ作品は上演されない。毎晩、異 なる 3作品がザ・プレイスで上演されます。これはその当時、ロンドンを中心に英国の インディペンデント・シーンから新しい振付家が育ち始めていた状況に呼応するかたち で立ちあげられたプラットフォームでした。 「若い才能に発表の場を与えたい」と、思っ たんです。そして毎週末のプログラミングに、私は必ず国外アーティストの作品を忍び こませることにした。 5週間にわたる土日、つまり10日間に1本ずつ、Aerowaves のミーティングで選 出した海外作品を上演する。10作品を 2 ~3日に固めて一気に上演しない、というの は自覚的な決断でした。当時の英国におけるコンテンポラリーダンスの客層は、大多 2 国際交流基金 The Japan Foundation Performing Arts Network Japan Presenter Interview The network organization Aerowaves Working to discover and support young choreographer 若手振付家の発掘を目指す ネットワーク組織 Aerowaves 数が出演者の知人や友人たちだったので、海外作品だけでプログラミングしたら客席 が埋まらないことは明らかでした。そこで私はあえて、トリプル・ビルのうち1本だけ、 しかもいちばん最初の演目に、ヨーロッパの作品を持ってきた。トリに置いたら、友 人の作品に満足した観客が帰ってしまう可能性がありますからね(笑)。でも結果的に、 ヨーロッパの作品はいつでも観客に好評でした。Aerowaves の最初の10年ほどは、 そのようにしてザ・プレイスでの上演を軸に進んでいきました。 ─10作品を選出する際の「評価基準」のようなものはあったのでしょうか。 最初からありました。ロンドンでの晩餐に12人の友人たちを招く際、私は自分の 考える 9 つの評価軸を紙に書き、それを全員に渡しました。その評価条件はいまでも Aerowaves のウェブサイトに掲載されています。現在では評価軸は 9 つに増え、そ のすべてが以前ほど有効だとは思いませんが、それでも大枠は変わりません。その評 価軸というのは、 「1.良質なアイデアに支えられた作品であること」 「2.アイデアが先 にあり、そこから独創的な振付が生まれていること」 「3.余剰物を削除する勇気があ ること」 「4.明確で骨太な構造があること」 「5.明解さ、力強さ、献身性、自信が見 えるダンスであること」 「6.テクニカル面で簡素な条件下に置かれても鑑賞に耐えうる 作品であること」 「7.海外巡業経験が少ないカンパニーであること」 「8.Aerowaves によって経験値が膨らむ可能性があること」 「9.未来があること」です。なかでも重要 なのは、2番目の「着想から振付が生まれる」という条件です。当時の英国では、自分 が教わったとおりのダンスをただアレンジしただけの作品が多かった。そうではなくて、 まず取り組みたい主題があり、その主題を表現するのに最適な身体言語を探るべきだ と思いました。今年の「スプリング・フォワード」に招聘したギリシャの振付家クリスト ス・パパドポゥロスによる『Elvedon』などがその成功例です。既存のテクニックを利 用してテーマを表現しようと試みる、あべこべの順序で作られている作品にはあまり 興味がありません。 ─ Aerowaves創設の 4年前、1992年2月にマーストリヒト条約が調印され、その 翌年、欧州連合が誕生します。そう考えると Aerowaves は欧州連合の拡大にシンク ロするかたちで成長したダンス・ネットワーク組織と捉えられるかもしれません。 いえ、欧州連合と Aerowaves の成長は、全くとは言いませんが、さほど相関関係 はないです。逆にもしかすると我々の活動がEUの拡張指針になったのかも、なんて思っ たりします(笑)。我々のネットワークの拡張は、欧州連合の拡大よりも、当時、欧州 各地で散見し始めていたインディペンデントなダンスシーンの成長に由来すると思いま す。その証左として、私たちは欧州参入以前の東欧諸国とも頻繁にコミュニケーション を取っていた。そして当時、欧州連合に属していなかった東欧との関係性を守るため に、2000年前後に一度、欧州連合から助成金を獲得できそうな機会があったものの、 あえてそれを見送りました。どの国のパートナーとも対等な関係でありたいと考えてい た私にとって、西欧と東欧を否応なく分断する予算を運用することは、致命的に間違っ ていることのように思えたのです。 ─ 約1週間後の 6月23日に、英国が欧州に止まるべきか否かを決断する国民投票 が行われます (2016年6月15日にこのインタビューは行われた )。投票結果次第では、 Aerowaves の展望も変わってくるのではないでしょうか。 欧州連合から確保している 3年助成は 2017年まで契約が続くものなので、すぐさ ま問題が生じることはないはずです。この助成金によって、私たちは 2014年から毎 年約42万ユーロ(約4,800万円)の予算を得ています。英国が欧州から離脱するとし ても、それなりの時間と手間を要するはずなので、いきなりこの予算を奪われること 3 国際交流基金 The Japan Foundation Performing Arts Network Japan Presenter Interview The network organization Aerowaves Working to discover and support young choreographer 若手振付家の発掘を目指す ネットワーク組織 Aerowaves はないでしょう。ただ我々は 2014 年から 2020年の7年間で、総 額14億6,000万 ユーロ (約1,670 億円)の予算を保持する EU産業振興策「クリエイティブ・ヨーロッパ」 の、最初の 3年間の助成金しか現時点では確保していないので、もし欧州離脱が決定 したら、後半 4年間の助成金は申請できないかもしれません。このスキームで満額助 成を狙った場合、確保できる年間の最高金額は約500万ユーロ(約6,000万円)です。 私としてはこの予算をぜひ確保したい。ですので、もし英国が欧州から離脱したら、 Aerowaves の本部を欧州のほかの国に移転しようと考えています。欧州連合のなか でもユーロ圏(ユーロ通過を導入している18 カ国)の国に本部を移すのが、おそらく最 善策ではないでしょうか。 ─2011年に、Aerowaves は「スプリング・フォワード(Spring Forward)」という ダンス・フェスティバルを立ちあげます。なぜ、これまで通りザ・プレイスで上演する のではなく、20作を一挙上演するフェスティバル形式に移行しようと思われたのでしょ うか。 徐々に私はザ・プレイスと Aerowaves のディレクター職を兼任することに難しさを 覚えていました。Aerowavesでの仕事量が、副業では手に追えないほど膨らんでい たのです。そこでAerowaves を、独自の助成金と委員会によって運営される組織とし て独立させようと考えました。ありがたいことに、ザ・プレイスのディレクター職を辞 任した 2009年春の 6 カ月後には、たった7万ユーロ(約800万円)ですが、欧州連合 から Aerowaves の運営資金を確保することができました。この金額はザ・プレイス 在籍時から敏腕マネージャーとして仕事を支えてくれていたアナ・アーサーと私が食べ ていくには充分でした。 Aerowaves を独立組織として立て直そうと考えたとき、それまで表面下で行われ ていた活動を、社会に向けてよりオープンなものに切り替えていく必要性を感じました。 そのためには、フェスティバルを開催するのが最も効果的ではないかと考えた。きっ かけは、フランクフルトのムーゾントゥルム劇場での出来事です。当時、同劇場のダン ス・プログラマーで、私たちのドイツのパートナーであったオリヴィア・エヴァートが、 ダンスのミニ・フェスティバルを開催した。そのフェスティバルに参加した 9名の振付 家は、Aerowaves のネットワーク会議で選出された若者たちでした。私はそこで、9 名の振付家と何人かのプロデューサーが一堂に会したときに生まれる、素晴らしいシ ナジー効果を目の当たりにしました。そしてフランクフルトのミニ・フェスティバルで 9 名紹介することが可能なら、きちんと国際市場に開かれたフェスティバルを立ちあげ たなら、一気に 20作上演することも不可能ではないと思いました。そこで 2011年に、 スロベニアのリュブリャナで第1回のスプリング・フォワードをザ・プレイスで紹介した ダンスグループのひとつである En-Knap の主宰者である Iztok Kovac と共に開催し、 23作品(うち 3作品は、地元スロベニアの作品)を上演すると同時に世界中のプレゼン ターやプロデューサーを招待しました。 フェスティバルが唯一、あえて招聘しなかったのはマネージャーです。もちろんと ても優秀なマネージャーがこの業界に存在することは知っています。ただ中には作家 の DVD をばらまいて去っていくだけの人たちもいる。だからアーティストとプロデュー サーが直接話しをするために、マネージャーの方々には参加をお断りしました。ちな みにリュブリャナでは、アーティストからプロデューサーまで、すべてのゲストが予算 の都合上、1泊19 ユーロの同じホテルに宿泊することになりました。朝食会場で、様々 な人たちが談笑しているのを見て、私はこのフェスティバルの成功を確信しました。 En-Knap が運営する Spanski Borskiという劇場が主会場のひとつでした。 ─スプリング・フォワードによって予期していた通りの成果が得られましたか。 4 国際交流基金 The Japan Foundation Performing Arts Network Japan Presenter Interview The network organization Aerowaves Working to discover and support young choreographer 若手振付家の発掘を目指す ネットワーク組織 Aerowaves まず予期していた通りの成果としては、プレゼンターたちがより確かな自信を持って、 自分たちの劇場にアーティストを招聘できるようになりました。いくらビデオで作品を 見たり、他人から評判を聞いたりしても、やはりどこかで不安は残ります。でも実地に 自分の目で作品を見たら、途端にその不安は消えます。Aerowaves選出作品がヨー ロッパの劇場に招聘された上演回数は年間100回を超えていると思います。 予測していなかったボーナス効果は、Aerowaves のネットワークには所属していな いプロデューサーやプレゼンターが来てくれたこと。結果的にアーティストたちは、フ ランス・パリの市立劇場から、ドイツのタンツ・マインツ・フェスティバル、あるいは ムルスカ・ソボタという発音できないようなハンガリーとの国境にあるスロベニアの小 さな町の劇場などに招聘されていくようになりました。パリ市立劇場のような格式高い 組織から、それまで名前も知らなかったような小さなインディペンデントな劇場まで、 劇的にネットワークが広がっていったのは予測していなかった事態でした。 ─2011年にスタートしてからスプリング・フォワードはどのように発展していったの でしょうか。 第2回となる 2012年には、イタリアのバッサーノ・デル・グラッパでフェスティバル を開催しました。本当にありがたいことに、我々のパートナーのひとりであるロベルト・ カッサラートが、1981年から同地で開催されている Operaestate Festival Veneto の演劇舞踊部門「B モーション・フェスティバル」の総予算をスプリング・フォワードの 開催資金に当ててくれたのです。第3回は「チューリヒ・タンツト・フェスティバル」の 一環として、スイスのチューリッヒで行われました。ただそのときはファンドレイジン グに失敗し、16演目しか上演できなかった。そのうち 3作は地元スイスの作品でした。 第4回となるスウェーデンのウメオでの開催から、Aerowaves は飛躍的に拡大してい きます。ウメオは2014年度の欧州文化首都に指定されていたため、私たちは16万ユー ロ(約1,800万円)の予算を手にすることになりました。のちにオペラハウスが 2万ユー ロ加え、総予算は18万ユーロ(約2,000万円)となった。そのおかげで、私たちはウ メオで初めて自分たちのビジョンを十全なかたちで実現することができました。その 成果があったからこそ、 「クリエイティブ・ヨーロッパ」の 3年助成を確保できたのだと 思います。以後、なるべくその年の欧州文化首都に選ばれた場所でフェスティバルを 開催しています。2015年度はスペインのバルセロナ、2016年度はチェコのプルゼニ、 そして来年度はデンマークのオーフスです。 ─ 2014年度から、スプリング・フォワード・フェスティバルでは 2 つの新たな試み が行われています。1つ目が、全作品を Aerowaves のウェブサイトを介してライブス トリーミングすること。2 つ目が「Spring Back Academy」という若手批評家育成の ためのプラットフォームを立ち上げたことです。 ウメオでそれなりの予算を確保したとき、私たちはライブストリーミングのアイデア を思いつきました。助成金申請の 3割は観客育成によって判断されるので、何らかの かたちでオーディエンスに働きかけるプロジェクトを始めたいと思ったのです。何人か の知り合いから、ロンドンで artStreamingTV を運営するアンドレ・ポルタシオとい う男性を推薦されました。実際に彼に会って話してみたところ、元英国ナショナル・バ レエ団のダンサーでダンスに対しての理解がとても鋭く信頼できる人のように思えたた め、私はアンドレと4年契約を結ぶことにしました。2014年度に 750時間前後だった オンライン鑑賞時間が、今では1,200時間ほどに増えました。鑑賞者数は 3,500人 から 4,000人程度で頭打ちになっていますが、ライブストリーミングは新たなコンテ ンツを増やすことを可能にします。例えばアーティストやゲストへのインタビューなど です。いずれにせよ、これはまだ実験段階なので、これからどのように強化していくべ 5 国際交流基金 The Japan Foundation Performing Arts Network Japan Presenter Interview The network organization Aerowaves Working to discover and support young choreographer 若手振付家の発掘を目指す ネットワーク組織 Aerowaves きかパートナーたちと議論しているところです。 Springback Academy については、私の大学院修了後の初仕事が、ロンドンのタ イムアウト誌の演劇ライターだったことと関わっています。その仕事でいかに舞台作品 を文章化することが困難かということを身を持って知りました。同時に「言語化するこ とで初めて人は学習できる」という信念を持つようになりました。児童心理学でも「命 名することで、初めて子どもは物事を理解していく」といったことを言いますが、同様 に、ダンスは極めて言語化が難しい表現であるからこそ、あえてそうすることによって 作品の理解が深まると感じています。さらに言えば、ある作品がどのような作品であり、 どう自分を感化したかを適確に言語化できれば、それはダンスコミュニティ全体の作 品に対しての理解促進に貢献することになるはずです。つまり、ダンス批評は振付言 語を発展させるために必要な解析作業なのです。 ただ近年の紙媒体の衰退により、ダンス批評家の権威はほぼ失われてしまった。こ の危機的事態の原因を問い、打開策を考えるために、私は Spring Back Academy を立ちあげました。ここでは欧州中から集う 8 ~10人の若手ライターが、フェスティ バルで鑑賞した作品について英語で文章を執筆します。また彼らの文章をより信頼の おける代物に仕上げるべく、3 ~ 4人のプロのダンス批評家を招聘し、生徒たちの文 章を添削してもらっています。当初は、フェスティバルが終わったら、若手ライターた ちとの関係性はそこで終わるものだと考えていました。でも、バルセロナでの集中講 座がとても楽しかったという初年度の生徒たちが、翌年のフェスにも来たいと言ってき た。なので、来年度には1年生、2年生、3年生といった経験値の違う生徒のいるアカ デミーに変貌することになります。来年のオーフスがちょうど3年目になるので、その後、 書籍化するというプランもあります。その本ではダンスの発展を支えてくれる新しい世 代の書き手を集めています。 ─タイムアウト誌の演劇ライターからどのようなキャリアを経てダンス・プロデュー サーになったのでしょう。その道のりを教えてください。 英国国立レスター大学で英文学の学位を得た後、マンチェスター大学で演出家にな るための修士号を取得しました。初めはテレビのディレクターになりたいと思っていた のですが、夏休みに少しだけテレビ局で働いてみたら、あの業界には向かないことが わかった。そこで方向転換して、演劇の演出家になるべくサイドウォークという学生劇 団を創設しました。2 ~3作発表した頃、タイムアウトという新しいカルチャー雑誌(当 時は 3週間に1度のペースで発行)がライターを探している、と聞きました。採用され たのち、最初は演劇批評のみ書いていましたが、その後、隔週刊からその後週刊と なったタイムアウトの初代演劇編集長になりました。とはいえ私は編集者ではなく演 出家になるのが夢だったので、数年後にロイヤル・コート・シアター、アップステアー ズ劇場(120席の小劇場)の支配人職に転職しました。そこで年間12本、サム・シェ パードなど同世代作家の芝居をプロデュースしました。世界で初めて『ロッキー・ホラー・ ショー』をプロデュースしたのは私です。また演出家として『クラウド9 』 『トップ・ガール ズ 』で知られるキャリル・チャーチルの戯曲を何本か手掛けました。 その後、就任したのは ICA(インスティテュート・オブ・コンテンポラリー・アーツ) 演劇部門のディレクター職です。ICA には 7年在任していました。その途中で、他人の 作品についてあれこれジャッジを下しながら、演出家の仕事を続けることに限界を感 じ始めました。全く異なる部分の脳を使う仕事なんです。そこで私は演出家としての自 分の才能に見切りを付け、ディレクターの職務に集中することにしました。たしかロー ザスのアンヌ=テレサ・ドゥ・ケースマイケルを初めて英国に招聘したのは、私が ICA にいたときです。演目は『FASE』でした。その後、ザ・プレイスでも彼女とは継続的に 仕事を続け、最終的にはクイーン・エリザベス・ホールという900席の劇場での上演に 6 国際交流基金 The Japan Foundation Performing Arts Network Japan Presenter Interview The network organization Aerowaves Working to discover and support young choreographer 若手振付家の発掘を目指す ネットワーク組織 Aerowaves こぎつけました。ラ・ラ・ラ・ヒューマンステップスのエドゥアール・ロックも ICA在任 時に初めて招聘し、北ロンドンにあるザ・フォーラム(現O2 フォーラム )という2,000 席のロック・コンサート会場で上演しました。これはコンテンポラリーダンスの公演と しては、かなり画期的なことです。 ─ ICA在籍時に、日本に1年間留学していたそうですね。 ええ。国際交流基金の助成を得て、1980年に1年間日本で暮らしました。当初の 目的は安部公房スタジオの演劇作品をリサーチすること。ところが来日直前に安部さ んとお電話でお話しさせていただいたら、彼は「申し訳ないが劇団を解散して、自分に とって最後の小説を書くつもりだ 」と伝えてきた。癌で死期が迫っていることを、自覚 していたのだと思います。事実、その後、安倍さんは『密会』という作品を書き上げた のち、残念なことにお亡くなりになりました。私が安部さんの作品に興味を持ったの は、小説家でもある彼がセリフを排した演劇を作っていたからです。彼の映画を観ま したが、演劇というより“振付” に近かった。なぜ小説家が言葉を排除するのか。そ の理由を知りたかったのですが、願いは叶わぬまま終わりました。とはいえ、せっかく の機会なので国際交流基金の好意で訪日し、とにかく演劇やダンスを観まくることに しました。そこで興味を持ったのが、太田省吾の転形劇場です。太田さんはそれこそ 言葉を完全に排除した無言劇を作っていました。その作品の完成度や、太田さんとの 対話に打ちのめされた私は、帰国後、ICA に『小町風伝』と『水の駅』を招聘しました。 おそらく私が ICAで招聘した作品の中でも、最も実験的で素晴らしいもののひとつだっ たと思います。 ─キャリアの過程で興味が演劇からダンス的なものにおのずと移っていったのは、 なぜだったのでしょうか。 初めて ICAでダンサーと働いてみて、俳優ではなくダンサーと仕事をするほうが、 自分の性分には合っていることに気づきました。なぜかというと、例えば俳優たちに 「ソ ファに移動してくれないかな 」と演出家として頼むとしますよね? そうすると役者たち はその後10分、 「なぜ」そのソファに移動する必要があるのかについて議論します。け どダンサーたちは「どうやって」そのソファに移動すべきかを思考する。 「WHY ?」が演 劇で、 「HOW ?」がダンス。その目に見えて形が変わっていく感覚、そして創作として 速度感がある感覚が、私には楽しかった。だからこそザ・プレイスで劇場ディレクター を募集中だと聞いたとき、 「これこそ自分のやりたいことだ 」と思ったのです。とはいえ ダンスに関してはかなり門外漢だったので、ザ・プレイスの創設者であるロビン・ハワー ドと会う面接日まで、とにかく英国中で上演されている舞踊公演を見まくりました。そ して、正統な舞踊教育は受けていないけれど、可能な限り公演に通い目を肥やしてき たつもりですと、面接で答えられるよう準備しました。 ─ 結果的に、あなたには振付家の才能を見抜く目があった。ザ・プレイスであなた に発掘された世界的振付家は数えきれません。 そう言っていただけるのはありがたいですが、私は別に「発掘」したわけではなく、 ただ彼らに「場を提供した 」だけなんです。だってマシュー・ボーンやウェイン・マクレ ガーを見たら、誰だって彼らが特別だってことはわかりますよ! 彼らの才能を見逃す 人のほうがおかしい。ウェイン・マクレガーに出逢ったときのことは、今でもよく覚え ています。それは1990年代に開催された「リゾリューションズ!」の上演演目のひとつ で、劇場の照明が落ちて幕が上がると、舞台中央に痩せぎすで不器用そうなスキンヘッ ドの男性が立っていた。そしておもむろにサックス演奏に合わせて胴をくねらせながら 踊り始めた。私は上演中に話すことはほとんどないのですが、そのときは隣席にいた 7 国際交流基金 The Japan Foundation Performing Arts Network Japan Presenter Interview The network organization Aerowaves Working to discover and support young choreographer 若手振付家の発掘を目指す ネットワーク組織 Aerowaves 元同僚のレイチェル・ギブソンに「こいつ、凄いじゃないか」とつぶやいてしまった。レ イチェルは、 「私、この人のこと知ってる。ロンドン市レッドブリッジ区で、ダンス・ア ニマトゥーア (振付、ダンス、教育のすべてを担うダンス専門職)として働いている人よ」 と返してきた。ウェインはまだ大学を出たてでしたが、私はすぐに「ザ・プレイスのア ソシエート・アーティストにならないか」とオファーしました。彼はそれを快諾してくれ て、現在まで続く自身のカンパニー「ランダム・ダンス 」をザ・プレイスで設立しました。 ─ 最後に、もし仮に、あなたにダンス・プロデューサーとしての特異な能力がある とするなら、それは何だと思われますか。 正統なダンス教育を受けなかったことでしょうか。やはりバレエなどの教育をきち んと受けたプロデューサーは、作品を見る際に「技術力」に目がいってしまうようです。 でも自分にとっては、どれほど技術力が高い作品でも、退屈なダンスは退屈にすぎな い(笑)。私はちょうどインディペンデントなダンス・シーンが英国で活性化する時期 に、ダンス・プロデューサーとして働けて幸運だったと思います。DV8 カンパニーのロ イド・ニューソンからホフェシュ・シェクターに至るまで。多種多様な才能を、ザ・プレ イスを介して英国ダンス界に紹介することができた。とにかく私の願いはただひとつ、 英国の若い才能に門戸を開きたかったということです。そして今は欧州の若い才能を、 Aerowaves の活動を通じて世界に紹介したいと思っています。 Copyright (c) 2016 The Japan Foundation, All Rights Reserved 8
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