神のわざが現れるために ヨハネの福音書 9 章 1∼41 節 当時ユダヤ人は、肉体の不幸は罪の報いであると信じていまし た。それで、 「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯 したからですか。この人ですか。その両親ですか。 」という質問を しましたしかし、イエス様は、生まれつき盲目である理由は、彼 が生まれる前に犯した罪でも、彼の両親の罪でもない、神のわざ がこの人に現れるためです。と言われました。 この盲人は、どんな気持ちだったのでしょうか?目が見えない ので、周囲に起こっていることを、耳から聞こえてくる音や、雰 囲気で感じ取らなければなりません。いつものように、道で座っ ていたら、向こうからガヤガヤと声がして、自分の前で止まった かと思ったら、誰かが「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だ れが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。 」と 質問しているのです。この盲人にしてみたら、明らかに見下され ていることが分かり、本当に情けない、くやしい気持ちだったに ちがいありません。生きている中で、何度も、 「どうして自分だけ 目が見えないのだろう。 」と問いかけたと思います。そんな時に、 人生で初めて「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありま せん。神のわざがこの人に現われるためです。 」という威厳に満ち たお言葉を聞いたのです。きっと、今まで暗闇だったこの盲人の 心の中に、一筋の希望の光が差し込んだにちがいありません。そ れで、イエス様が、自分の目に泥をぬってくださり、 「行って、シ ロアムの池で洗いなさい。 」と言ってくださった。 「どうせ、ぼくはもうだめだ、言うことなんか聞くものか」と、 イエス様の言う通りに従わなかったら、奇跡は起こりませんでし た。でも、彼は行って洗ったのです。すると、見えるようになっ たのです。今まで、世界の様子を全く見られなかったのに、すば らしい景色が自分の目で見えたのです。 今までは、 見えないから、 おそるおそる物や人にぶつからないように歩いていたけれども、 見えるようになった今は、大喜びで、とんだりはねたり、走った りしたと思います。 あまりにも変わった様子に、以前彼が物乞いをしていたのを見 ていた人たちがいぶかしく思います。そして、パリサイ人のとこ ろに連れていきますが、パリサイ人の脅迫じみた問いに対して、 今まで気弱だった者が強められ、 「ただ一つのことだけ知っていま す。私は盲目であったのに、今は見えるということです。 」(25 節) 、 「もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、何もで きないはずです。 」(33 節)と、力強く証ししているのです。と うとう、追放されてしまいますが、もう恐れてはいません。 でも、追放された彼をイエス様はほうってはおかれず、信仰告 白へと導かれるのです。前は盲目であったものが、物理的にも目 が見えるようになり、真の救い主を「あなたはその方を見たので す。 」と見ただけでなく、霊の目も開かれ、神様の子、救い主であ ることを信じ、 「主よ。私は信じます。 」と信仰告白し、礼拝した のです。 聖歌にもあるように 「われ知るかつてはめしいなりしが、 めあきとなり神をほむ今はかくも」と神をほめたたえる人生に入 ったことは何と幸いなことでしょう。 イエス様は、 もう一度来られます。 人間には、 「一度死ぬことと、 死後にさばきを受けることが定まって」 います。 心の目が開かれ、 イエス様を救い主として、心にお迎えし、洗礼を受けていない方 は、洗礼を受けられますように、お祈りいたします。世の終わり が近い今、先に救われた私たちは、みなの救いのために祈ってま いりましょう。 2013 年 11 月 10 日 木下則子牧師
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