2016 年 4 月 10 日(日)主日礼拝説教 『二人の目は開け』 井上隆晶牧師 エフェソ 1 章 17~19 節、ルカ 24 章 13~35 節 ❶【暗い顔をした信者、暗い教会の姿はなぜ?】 イエス様が復活したその日、二人の弟子がエルサレムを後にして、エマオとい う村に向かって旅をしていました。二人の弟子の名前は、クレオパとルカだと いわれています。週報の表紙のイコンには二人の名前が書かれています。その 日の朝早く、イエス様が復活したという知らせを二人は受けたのですが、どう してエルサレムを後にして旅をしたのでしょうか。何か、大事な用事がエマオ の村にあったのでしょうか。 そこへイエス様が旅人の姿で近寄ってきて彼らと一緒に歩き始められたのです が、彼らの目は遮られていて、その人がイエス様だとは気づきませんでした。 聖書は「二人の目は遮られて」 (16 節)と書いています。英語の聖書では「keep from recognizing him」となっていました。 「彼を認めるのを禁じられていた」 という意味です。あえて神様が分からないようにしていたということでしょう。 聖書を読んでも分からない、出来事の意味が分からないということがあります が、神様があえてそうしているということがあるのです。 「分かる時」を決めて いるということでしょう。イエス様が二人に「その話は何のことですか」と尋 ねると、二人は暗い顔をして立ち止まり、エルサレムで起こったイエス様の十 字架と復活の話をします。 イエス様が自分の側におられても見えず、イエス様の復活の知らせを聞いても、 彼らは暗い顔をしていました。その理由をイエス様は次のようにいわれました。 「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられ ない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのでは ないか。 」といわれ、 「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、 ご自分について書かれていることを説明された。 」 (27 節) 彼らが暗かった理由は、イエス様が死んでしまったからです。つまり自分たち の望みが打ち砕かれたからです。しかし聖書は、必ずそうなると書かれており、 それを通して栄光が来ると書かれているのに、そう読んでいなかったのです。 私たちが暗くなる理由も同じです。いろんな問題が起こって、自分の思い通り にならなくなる。問題が起こって、自分の夢や計画が頓挫してしまう、そして 問題によってもう希望がなくなると思い込むと暗くなります。教会に元気がな い、教会が暗くなる理由は問題が起こって信じる心が潰されてしまう時なので す。何が起こっても信仰さえあれば明るいのです。 ●先日、ある人に「逃れの道」という話をしたいのですが、どのように語った らいいのでしょうと聞かれたので、次の原稿を送りました。 1 「この世というのは、次から次へといろいろな事件や問題が起こります。なぜ でしょうか。それは人間がこの世の中にいるからであり、人間自体が問題を抱 えているからです。問題のない人などこの世の中にはいません。だから人間が いる場所には、問題があるのであって、普通のことなのです。問題がない職場、 問題のない家庭、問題のない社会、問題のない国などというものは存在しない のです。問題があることを問題にしてはいけません。問題があっても生きる、 問題があっても前に進む、問題があっても落ち込まないということが大事なの です。…アイルランドの古いことわざに『神は一つの扉をお閉めになったら、 もう一つの扉をお開きになる』というのがあります。私たちは一つの可能性が 閉じられると、その閉じられた可能性のことばかり残念がって立ち止まってし まいがちです。しかし神様は、私たちに別の祝福を与えようとして、あえて一 つの扉を閉じられることをするのです。そのことを信じて、どんなに行き詰っ ても、神による新しい道が備えられていることを信じましょう。 」 要は、神がなさることはすべて正しいのだから、思いがけない問題が起こった としても、信じなさいということなのです。 ❷【心が燃えること】 神を信じるためには聖書に帰るしかありません。現実を見ていたら信仰は出て 来ません。信じられなければ、現実の世界で活動することは空しくなります。 だから残る道はただ一つ。何があっても聖書に帰ることだけです。この二人は どうだったでしょう。イエス様に聖書を説明してもらうと、彼らの暗かった顔 がだんだんと輝いてきました。イエス様が姿を隠された後、彼らは互いにいい ます。 「聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではない か。 」 (ルカ 24:32)この心が燃えるということが大事なのです。 聖書を自分で読んでいてもなかなか分かりません。エチオピアの宦官のように 「手引きしてくれる人がいなければ、どうして分かりましょう」 (使徒 8:31) ということになります。しかし教会に来て説教を聴くと分かるのです。聖霊を 受け、聖書を解釈する賜物を受けた教師がいるからです。イエス様は「二人又 は三人が共に集まる時、私は共にいる」と言われました。だから教会で一番、 姿を現します。一人で聖書を読んでも心が熱くならないのは、集中しないから です。一人ではだらだらと読み、声もあまり出しません。教会はその点違いま す。しかし訓練すれば誰でも解釈できるようになります。アシュラム運動など はその例です。教師に頼らずに、自分で聖書を解釈する訓練です。大事なこと は、読んでいる内に、だんだんと心が熱くなる。興奮してくる。神様ってすご いなあと思うようになってくる、このように読まなければ駄目です。 ●T姉が聖書を読むのが最初は苦痛だったけれども、今は楽しいと言っておら れました。それは朝の祈りに繰り返し出て来られたからだと思います。聖書の 2 解釈を聞くたびに心が熱くなり、神に対する愛と信頼が増えて行ったからです。 この繰り返す作業が大事なのです。 ところで聖句と聖霊はいつも密接に関係しています。使徒言行録を読んでいる と、み言葉を語っていると聖霊が降っているのが分かります。 「ペトロがこれら のことをなおも話し続けていると、み言葉を聞いている一同の上に聖霊が降っ た。 」 (使徒 10:44)三位一体の神は分離しないからです。互いに相手を証しし 合います。み言葉が読まれる時、聖霊は働きます。だから、とにかく分かって も、分からなくても聖書を読むのです。そして読むときに、聖霊を下さい、聖 書を理解する力を下さいと祈るのです。イエス様があなたの側にいて語ってお られるのですから、必ず心は熱くなれます。 ❸【聖餐=主人が交代すること】 やがて彼らは目的の村につきますが、イエス様はまだ先に行こうとされます。 そこで二人は「一緒にお泊りください。そろそろ夕方になりますし、もう日も 傾いていますから」 (29 節)といって無理に引き止めました。イエス様は、最初 は近寄ってきてくれますが、あえて離れようとされます。あなたの気持ちを大 事にしたいので、それ以上強引には留まりません。あなたが「共にいてくださ い」と言えば、足を止めて共に宿ってくれます。あなたの意志が必要なのです。 もっとキリストを知りたいとあなたが願ってくれなければ、あなたは知ること は出来ないのです。あなたはキリストに共にいて欲しいですか?彼が必要です か?後は、あなた次第なのです。無理に引き止めることが大事です。神様には 甘えていいのです。無理をいいなさいということです。 「一緒に食事の席に着いた時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パン を裂いてお渡しになった。すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、そ の姿は見えなくなった。 」 (30~31 節)とあります。これは聖餐式によく似てい ます。彼らは、旅人であるイエス様を主人の席に迎えました。パンを祝福して 分けるのは主人の仕事です。ここではイエス様が主人になっています。イエス 様をあなたの人生の主人として迎えた時、あなたの目は開くのです。聖餐式は、 目に見えるところは、私がしている様に見えるのですが、実は私を通してキリ ストがパンとブドウ酒を皆さんに配っている式なのです。皆さんはキリストに よって生かされ、赦されて生きているのです。それを知るのが聖餐式です。彼 らの目が開くと、イエス様の姿は見えなくなりました。見えなくなったという ことは、 「見えなくても良い」ということです。 「姿が見える」ということはあ まり重要なことではないのです。見えていても信じない人は信じません。 ●先日、朝の祈りの箇所です。神様はモーセに海に向かって手を差し伸べ、海 を二つに分けなさいといいました。出来もしないことを命じられるのです。イ エス様の命令はいつもそうです。手が萎えている人に「手を伸ばしなさい」と いいます。38 年間床に伏している人に「床を取り上げて歩きなさい」と命じま 3 す。手が伸ばせないから萎えているのです。歩けないから床にいるのです。そ れなのにいつも命令します。 「手を海の上に差し伸べ、民を出発させたら、私は 東風を起こして、海の水を押し返す」と最初に説明して下さったら、ああそう かそれならやってみましょうとなります。しかし神は、最初は何も説明されま せん。まず、従えと言われます。そうしたら奇跡が起こると言われます。奇跡 が起きるから信じるのではありません。信じて実行したら、奇跡が起こるので す。奇跡は後から起こります。大事なことは信じて従うことです。つまり、神 の言葉があなたの主人にならなければなりません。榎本牧師は、こんなことを 書いています。 「私たちはこんな時はどうしたらよいだろうかとか、どうぞ助け て下さいというように、イエスを参考人として、あるいは助言者として迎える ことが多い。しかし私たちの主人として迎える人は少ないのではないかと思 う。 」 エマオの道端での聖書の説明は説教です。ここでは聖餐です。説教と聖餐、つ まり礼拝です。礼拝をすると目が開くのです。礼拝とは、イエスを主人として 迎え入れることです。礼拝前は自分が主人であったが、礼拝が終わったらキリ ストが主人となっていた。 「でも~がありますから、でも~こんな状況ですから」 などといっていてはイエスを見ることはできません。 「分かりました。やってみ ます」とならなければ礼拝は失敗です。キリストに従った時、キリストは現れ るのです。教会とは、本当にキリストに出会った者たちの集団なのです。 「自分 たちも主を見た」という者の群れです。 最後に、私たちはキリストに希望を持ってもいいのでしょうか。最初二人の弟 子たちはこう言いっていました。 「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉 にも力のある預言者でした。 」 (19 節) 、 「私たちは、あの方こそイスラエルを解 放して下さると望みをかけていました。 」 (21 節)キリスト教は、昔は奇跡を行 い、社会に影響力があり、力があったのですが、今の時代には力がないのでし ょうか。今の時代には、キリストに望みをかけることは空しいことなのでしょ うか。そうではありません。キリストは昔も今も変わりないからです。 ●星野富弘さんの本の中にこんな文章が書かれています。 「私たち家族が大変だ と思っていることと、周りの人たちが大変だろうと思っているところが少し違 うのである。私たちが大変に思うのは家の中よりむしろ戸外のことの方が多い。 動けない私が家の中にいることは、家族にとっては特別なことではなく、もう すでに普通のことなのである。しかし私の家を訪れる人の中には「悲惨な生活 をしている家なんだ…」というような先入観をもっている人が案外多い。母な どは、悲劇のヒロインのように扱われてしまうことさえある。私が怪我をした 当座は確かにそうだった。だが、失われたところはいつまでも穴が開きっぱな しではないのである。穴を覆うために、人は知らず知らず失ったもの以上にた くさんのものを、そこに埋め合わせるすべを神様から授かっている。 「まことに 4 お気の毒さまです」 「かわいそうですね」などと言われると、私たち家族は、返 す言葉もないほどめんくらってしまうのである。作家の水上勉さんの奥様が、 障がいを持つ御自分の娘さんをさしておっしゃられた言葉を思い出さずにはい られない。 「あの子は、もう障がいを背負ってなんかいませんよ。抱いて歩いて います。 」この言葉は、そっくりそのまま私の家族にも当てはまるような気がす る。私の家族も、私を、悲痛な顔をして背負ってなんかいない。不自由と不幸 は、結びつきやすい性質を持ってはいるが、まったく別なものである。 」 人生には思いがけないことや、病気、失敗、挫折があるけれども、神様は全部 分かって許しておられるのです。ある時は落ち込み、歩みが止まり、またエマ オへ旅をした弟子のように後ろに戻ってしまうこともあるかもしれません。し かし、戻りながらも聖書に、信仰に帰りましょう。心が燃やされてもう一度、 信仰の道へ、現実の道へUターンする私たちでありたいと思います。 5
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