【死を考える 第2部「3万人」の叫び】(7)

【死を考える 第2部「3万人」の叫び】
(7)偏見なき社会へ
◆自殺は「心理的視野狭窄」
6月に成立した自殺対策基本法。その制定を目指してきたNPO法人「ライフリンク」代表、清水康之さん(34)
は「自殺者が減らないのは、これまで何もしてこなかったから。実効性のある対策を進めるには、根拠となる法律が不
可欠だった」と話す。
清水さんは元NHKのディレクター。6年前、ドキュメンタリー番組で、家族の自殺を「事故死」などとひた隠しに
して社会から孤立する遺族の苦悩を描いた。一昨年にはNHKを退職。貯金をつぎ込んでライフリンクを設立、法制化
を求める10万人以上の署名を集めた。
「日本の社会矛盾のしわ寄せで、こんなにも多くの人が自ら命を絶っているのに、自殺対策の旗振り役がいなかった。
僕自身も番組を通して伝えているだけでは、表面をなでているにすぎないし限界を感じていた」
基本法は、国が自殺の動機や原因を分析したり、相談体制を充実したりするほか、従来、NPOやボランティアが進
めてきた遺族のケアについても国や自治体の「責務」と明記された。
「例えば、現場検証の際、自殺者の遺族に『同じ境遇で苦しんでいる方々で、こんな集まりがあるんです』と言って
警察官から冊子を渡してもらえるようになった。それだけのことでも遺族は救われると思うんです」
清水さんは一定の評価をしつつも、
「基本法でいう責務は『努力目標』でしかない。実効性にはまだ疑問も残る」
。
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基本法には、メンタルケアの充実も盛り込まれた。自殺の原因にうつ病が介在しているケースが多いためだ。厚労省
によると、自殺未遂者の75%に精神障害があり、うち46%がうつ病とされる。うつ病は十分な休養と抗うつ剤で7
割近くが改善できるとされるが、実際には4人に3人が治療を受けていないという。
「眠れない」
「自殺しか考えられない」…。毎晩8時から翌朝まで電話相談を受けている「東京自殺防止センター」で
は2回線ある電話に途切れる間がない。その多くがうつ病に苦しんでいる。
同センターの西原由記子所長(73)は「法律ができたとはいえ、うつに悩む30代、40代は忙しすぎて病院へ行
くひまもない。半日休むだけで自分のクビが飛ぶような時代だから、少し我慢すれば、いずれ治ると思ってしまう。そ
の我慢がプツンと切れちゃうのが、自殺なんです」
。
国や地域を挙げて自殺を防止する取り組みは、わが国が初めてではない。例えば、1990年に10万人当たりの自
殺者が30人で、現在の日本(24・2人)より多かったフィンランドは今や、20人以下に減らした。うつ病対策だ
けでなく、健康な人にも「死にたくなったら助けを求めてほしい」と相談窓口をアピールし続けた。
精神科医の高橋祥友・防衛医科大学校教授は「自殺予防は1年や2年でできるものではない。フィンランドは当初3
年計画で始めたが、2年、5年と延長して計12年も腰を据えてやって、ようやく結果が出始めたのです」
。
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11年前、町会議員の父親=当時(50)=が排ガス自殺した広島県神石高原町のJA職員、井上英喜さん(23)
も法制定を「大きな一歩」と評価する。ただ、
「今の社会では、駆け込み寺ができても、駆け込めないかもしれない」
。
井上さんは、父の自殺で周囲からの偏見に悩まされた。小さな田舎町では「自殺した家の子」という陰口がずっとつ
いて回った。仮に相談窓口ができても、そこを訪れたり、精神科に相談したりすることへの抵抗感は残念ながら確かに
ある。
井上さんは言う。
「自殺に偏見があるうちは、死にたいほどの悩みも他人に打ち明けられない。周囲が温かい目で見守
るようになって、相談することが当たり前だと思える優しい社会になって、初めて自殺は減ると思うんです」
高橋教授によれば、一般的に自殺というと「覚悟の自殺」というイメージがあるが、実際に診断すると、明らかに判
断能力が欠けている場合が多いという。例えば、金銭的な窮地に陥っても、正常なら自己破産など複数の選択肢を思い
つくが、思い詰めると「自殺しかない」と短絡的になってしまう。これは、精神医学では「心理的視野狭窄(きょうさ
く)
」という、よくある症状にすぎないという。
「自殺者の多くは、死ぬしかないと思い込まされている。誰からも助けがないと思い込んでいる。だからこそ、周囲
の人の助言が絶対に必要なんです」
。高橋教授は強い口調で述べた後、こう付け加えた。
「
『死にたい、死にたい』という人はたくさんいる。それでも私が30年近く精神科医として診た中で、心の底から『死
にたい』と思っている人は1人もいませんでした」
=おわり
(連載は、皆川豪志、徳光一輝、藪崎拓也が担当しました)
[産経新聞 ]20060720