会長・有沢廣己先生のご逝去を悼む

会長・有沢廣己先生のご逝去を悼む
大原美範
(神奈川大学)
本会の創立25周年記念論文集を発刊するに当り奇しくも会長・有沢慶巳先生追悼の言葉を載
せることになろうとは思いがけないことでした。25周年をともに祝っていただけるものと信じ
て疑わなかったわれわれにとってまさに青天の騨腫ともいうべく,まことに残念なことであり
ました。
有沢慶巳先生は去る昭和63年3月7日,広尾の日赤医療センターにて永眠されました。日頃
きわめてご健康で,ここ数年足に不自由を感じられ,車椅子を使っておられましたが,まだま
だ長寿を保たれるものと思っていましたので,全く突然の計報でした。享年92歳,正三位を追
叙されました。
先生は明治29年2月16日,高知県高知市に生れ,大正11年東京帝国大学経済学部を卒業後同
大学同学部助手,同13年助教授として統計学を担当されました。大正15年ドイツに留学,自由
なワイマールの雰囲気に感銘を深くし,昭和3年に帰国されました。最近の著書『ワイマール
共和国物語」は当時の感激を述べられたものであります。ドイツ国家功労章受章式で,「当時,
第一次世界大戦後のドイツの激動の過程と経済復興について研究したが,その時の勉強が第二・
次世界大戦後の日本経済の再建に取り組んだとき非常に役立つことになろうとは夢想だにしな
かった」と挨拶しておられます。
昭和13年「教授グループ事件」で検挙されましたが,昭和19年第二審判決で無罪となります。
戦争終了後の昭和20年東大教授に復帰されました。
昭和21年,壊滅状態にあった日本経済の再建のため乏しい資材を石炭・鉄鋼の生産増加に重
点的に投入し,インフレ克服の契機にしようとする「傾斜生産方式」を提唱されました。吉田
茂首相の時代に先生は内閣のプレーンとして傾斜生産方式による生産力の増大をねらう経済政
策を推し進め,戦後経済の復興に大きな成果をあげることができました。当時私は-学生とし
て先生の統計学の講議を受けておりましたが,深刻な危機に直面した日本経済の復興に先生が
活躍しておられるのを期待をもってみていたものでした。先生は統計学の講義を担当しておら
れましたが,与えられた統計資料を数学的に処理するというよりは,統計を利用して経済の実
態分折を実証的に行うことが中心課題でありました。
東大を定年退官後は法政大学教授をつとめられ,昭和34年には総長に就任されます。昭和38
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年日本経済研究センター会長,昭和41年には日本エネルギー経済研究所理事長をつとめられま
した。
昭和31年に原子力委員会委員に推され,昭和48年に日本原子力産業会議会長に就任されます。
就任に当り「原子力開発に余生を投じようと考え,原子力産業会議会長をお引き受した」と述
べられましたが,原子力が日本のエネルギー危機を救うものとのお考えに立ってエネルギー問
題に情熱を傾けておられました。昭和40年に本学会会長をお引き受けいただいた頃はかなり原
子力問題に力を入れられ,ブラジルやアルゼンチンから原子力関係者の来訪があったことを話
しておられました。
昭和53年に総合エネルギー調査会会長,昭和54年に雇用問題政策会議座長,日中人文社会科
学交流協会会長,昭和58年に日本生命財団会長,昭和59年に社会経済国民会議議長に就任され
ました。
著脅はきわめて多く,すべてをあげ切れませんが,主要なものを記しますと,「産業合理化」
(共署)昭和5年改造社,『カルテル・トラスト・コンツェルン上」昭和6年改造社,「日本工
業統制論」昭和12年有斐閣,『統計学要論上」昭和21年明善社,「インフレーションと社会化』
昭和23年日本評論社,『現代日本産業講座」(監修)昭和34~35年岩波書店,『現代資本主義講座』
(監修)昭和33~34年東洋経済新報社,「ワイマール共和国物語』昭和53年東大出版会,「ワイ
マール共和国物語余話』昭和59年東大出版会などがあります。
昭和41年に熱一等端宝章,昭和49年勲一等旭日大綬章を授与され,フランス,ドイツからも
勲章を授与されました。昭和58年には文化功労章を授与されました。
有沢先生に本学会会長をお願いしましたのは昭和39年のことでありました。すでに各種の役
員,委員を兼ねておられ,非常にご多忙でありましたが,ラテン・アメリカの将来性にかんが
み,今は少人数の学会であっても時を経るに従い大きな意味をもつものになろうとのお考えか
ら快く引き受けていただきました。
先生のお気持ちは「ラテン・アメリカ論集」創刊号(昭和42年3月)の巻頭の挨拶一系統的
研究を-にも明かに示されております。
「ラテン・アメリカ政経学会が発足してから3年目の年を迎え,ここに会誌第1号を発刊す
るに至ったことはまことにご同慶にたえない。
かつて私は友人とともにrラテン・アメリカの経済的社会的断層」と題する研究を発表した
ことがあるが,その中でラテン・アメリカが資源に富んだ将来注目すべき大陸であることを示
唆したように記憶している。それから30年,わが国とラテン.アメリカとの交流はしだいに盛
んになり,特に戦後はわが国の企業が相次いでラテン・アメリカに進出するなど,わが国にお
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けるラテン・アメリカへの関心はますます高まりつつある。
ひるがえって,わが国のラテン・アメリカ研究の現状をみると,未だしの感を禁じえない。
これは研究者が不足しているうえに,研究者相互間の協力がうまくいっていないことに原因が
あるように思われる。その結果,これまでのラテン・アメリカ研究の多くは概観的なものにと
どまっていたのである。もちろん,ラテン・アメリカに関する一般的知識がまだまだ低いわが
国の現状からみて,こうした概観的なものは依然必要であるが,そろそろ研究者同志が協力し
てなにか系統的な研究を行なってしかるべきであろう。
この意味において,ラテン・アメリカ政経学会の活動に期待するところはきわめて大きいの
である。幸い,会員藷君の尽力によって,本会もようやく、揺藍期"を終え,本格的な蝋成長
期"にはいろうとしている.学会誌の創刊を機会に,会員諸君のなお一層の努力と研鐵とによ
って,本学会がますます発展することを期待したい」というものでした。
第2回大会(昭和40年6月19日,学士会館)で正式に会長に選ばれ,第3回大会(昭和41年
11月19日,上智大学)にも出席していただきました。この時は学会内にもめごとがありまして
不愉快な思いをされたことと思いますが,最後まで席にとどまられ,大変恐縮いたしました。
このあとも数回ご出席いただきましたが,ご高齢のため次第にご出席いただくことは無理にな
ってまいりました。
会長をお引き受けいただいた時,先生はラテン・アメリカについては何も知らないが,かつ
てハドソンの著書rはるかな国遠い昔』を読んで感銘を深くし,南米の緑の草原の大自然に
あこがれたものだと話しておられました。「はるかな国遠い昔」の著者ウィリアム・ヘンル
ハドソンはイギリス系アルゼンチン人で動物文学者として知られており,このほかrラ・プラ
タの博物学者L小説「緑の館』などの著書があります。プエノス・アイレス近郊のキルメスと
いう村に生れ,15,6才までの少年期の思い出を密いたのが『はるかな国遠い昔」でありま
す。アルゼンチンのパンパの大草原に育った著者が,生家の庭に400メートルおきに直径4メー
トルぐらいのオンプーの木が25本並んでいてそこを遊び場にしていたこと,老いた猟犬の死,
庭の木々に遊ぶ鳥,鼠,アルマジロ,ヘビなどの話,大草原バンパの光景,ポプラ屋敷に住む
隣人の話などあらゆる生き物への深い愛情をしるしております。私もプエノス・アイレスを訪
れ,パンパの平原をまのあたりにした感激をお話しながら,統計学の教授,日本の戦後経済復
興の指導者,原子力政策の推進者である先生の別の一面に接し,心などtf-時を過すことがで
きました。後に私が「アルゼンチンーその国土と市場』という著書を差し上げましたとき,
大変喜んでおられましたが,「はるかな国遠い昔』を思い出されてのことと思います。学会の
会長を快くお引き受けいただいた背景には先生のパンパの大草原に対する憧れがあったように
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拝察しております。ラテン・アメリカへご旅行の希望はお持ちでしたが,遥か遠い国々への旅
行となると難しいことがあり,残念そうに見えました。
創設当時の本学会の会員数はごく少なく,小さな団体でありましたが,会長に有沢先生を戴
くということは外部には異様に映ったかも知れません。しかし本学会の精神的支柱としての有
沢先生の存在は日本経済の復興にかけられた赫々たる業績とともに本会の発展にはかりえない
意義をもったことを確信しております。先生はラテン・アメリカの国際的地位はまだ低いが,
将来必ず世界経済に大きな役割を果すようになる,と学会の意義を強調され,励まされてまい
りました。今日会員数は大幅に増え,日本学術会議に登録するまでになりましたが,その折も
折先生が急逝されましたことは借しみても余りあるものであります。90歳をこえるまで要職を
つとめられ,各界の方々からも惜しまれつつ逝かれた先生のご冥福を衷心よりお祈り致します。
MemoryofLateMr、HiromiArisawa,PresidentofthisSociety.
YoshinoriOhara
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