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聖霊降臨節第 10 主日 ≪キリストの体≫
礼拝説教抄録
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2014 年 8 月 10 日
モーセは出て行って、主の言葉を民に告げた。彼は民の長老の中から七十人を集め、
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幕屋の周りに立たせた。
主は雲のうちにあって降り、モーセに語られ、モーセに授けられ
ている霊の一部を取って、七十人の長老にも授けられた。霊が彼らの上にとどまると、彼ら
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は預言状態になったが、続くことはなかった。
宿営に残っていた人が二人あった。一人は
エルダド、もう一人はメダドといい、長老の中に加えられていたが、まだ幕屋には出かけてい
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なかった。霊が彼らの上にもとどまり、彼らは宿営で預言状態になった。
一人の若者が
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モーセのもとに走って行き、エルダドとメダドが宿営で預言状態になっていると告げた。
若いころからモーセの従者であったヌンの子ヨシュアは、「わが主モーセよ、やめさせてくださ
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い」と言った。
モーセは彼に言った。「あなたはわたしのためを思ってねたむ心を起こして
いるのか。わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望している
のだ。」
民数記 11 章 24~29 節
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体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。
足が、「わたしは手ではない
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から、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
耳が、「わた
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しは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎま
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すか。
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そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
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すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。
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部分があっても、一つの体なのです。
だから、多くの
目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、
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また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
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ほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
それどころか、体の中で
わたしたちは、体の中でほかよりも
恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄
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えよくしようとします。
見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りの
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する部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。
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ず、各部分が互いに配慮し合っています。
それで、体に分裂が起こら
一つの部分が苦しめば、すべての部分が共
に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
コリントの信徒への手紙一 12 章 14~26 節
1.未知の部分に目を向け
で一睡もさせてくれませんでした」と、いつ
わたしたちの教会は、この 8 月を< もの静かな口調でお話ししてくださいまし
平和月間>と定めて、特に平和や和 た。眠れないほどですから、痛くて、痛く
解ということをおぼえて祈りを合わせてい て、叫びたいほどではなかったかと思いま
ます。わたしたちの間にある不穏な空気 すが、「わたしが」ではなく、婉曲して「骨
S 姉ら
に、わたしたちの内にある争いや矛盾に が」痛んでいると言われたところに
しさを感じました。わたしたちも体の一部
心を向けて歩みたいと願っています。
を指して「膝が痛む」とか、「指が痛む」
今日、ご一緒に聞いています聖書、 と言うことがあります。しかし、この場合、
コリントの信徒への手紙一 12 章は、キリ 当然のことながら「わたしの膝が傷む」の
ストの使徒パウロが、問題の多いコリント であり、「わたしの指が傷む」のです。痛
の教会に書き送った手紙の一節です。 んでいるのは、わたし自身です。痛みの
パウロは、教会について語るときに、たび 主体は「わたし」であり、それゆえに「一
たび体の比喩を用いています。第一に、 つの部分
つの部分が
部分が苦しめば、
しめば、すべての部分
すべての部分が
部分が
教会が「キリストの体
共に苦し」(26
キリストの体」(コロ
」(コロ 1:24)
1:24)である
」(26 節)むのです。
ということ。そして、その「体は、一つの
わたしの過去の痛みについて話す
部分ではなく
部分ではなく、
ではなく、多くの部分
くの部分から
部分から成
から成っていま
っていま
ことなどおこがましいのですが。わたしも
す」(15 節)。パウロは続けて言います。
痛み止めがまったく効かず眠れない夜を
「もし体全体
もし体全体が
体全体が目だったら、
だったら、どこで聞
どこで聞きま
過ごしたことがあります。恐怖だったことは、
すか?
すか? もし全体
もし全体が
全体が耳だったら、
だったら、どこに
でにおいをかぎますか?」(
でにおいをかぎますか?」(17
?」(17 節)。また、 痛みの原因や限度が分からなかったこ
とです。実際に、わたしたちは、自分の
「目が手に向かって『
かって『お前は要らない』
らない』と
体のことをよく知っているようでいて、知ら
は 言えず、
えず 、また、
また 、頭 が足に向 かって『
かって『お
ない面が多いのです。一部は沈黙の臓
前たちは要
たちは要らない』
らない』とも言
とも言えません」(
えません」(21
」(21
器などと呼ばれることもあるように、秘密
節)。だいぶ誇張したことを言っているよう
に思いますが、これはパウロ流の皮肉で 裡に体内で何かが起こっているということ
あったのだと思います。教会の中に、違 があります。体には、その機能が目に見
いを認めることのできない、互いを尊重す える、はっきりと感じる部分と、目には見え
ることのできない、一つになることの難しい ない、感じられないけれども、確かに働
いている肝の部分があります。同様に、
ギクシャクした空気があったのです。
教会は目に見える働きと、目に見えない
わたしたちの教会の S 姉が先月ま 働きがあります。いずれもが、一つの体に
で入院されていました。熱中症のため職 とって不可欠な部分であるのです。
場の階段で転倒し、無防備なまま頭と
肩を強く打って長期入院を余儀なくされ 2.「おひとりさま」が主流に?
ました。脳挫傷の回復を待って肩の手
それどころか、体の中でほかより
術をしました。骨に穴をあけて留め具を も弱く「見それどころか、
える部分
える部分が
部分が、かえって必要
かえって必要なの
必要なの
入れる手術でしたが、術後、「骨が痛ん
です」(
です」(22
」(22 節)とパウロは語ります。例え
ば、目的が、クラスの平均点を上げるこ
とであるとか、会社の利益を生むことであ
れば、実力のない弱い部分は足枷です。
劣っている部分をいかに補充し克服する
かが問題となります。厄介を回避するた
めには、自己責任という言葉が重要に
なるかもしれません。自分ひとりで何でも
できる人が、成熟した大人とされます。
が第一目的ではなく、コミュニティの中に
生きることを目的としています。そもそも、
わたしたちは、家族、学校や職場、地域
社会やサークル活動等、大小のコミュ
ニティを形づくっています。ラルシュが重
んじていることは、しかし、We need each
other―互いに互いが必要なものとして
―コミュニティに生きるということです。
トローリーのコミュニティに住むドミ
個人主義が称賛され「おひとりさま」 ニクという人がいます。彼はとても元気で
が気楽という現代、消費主義的な社会
勢いがあり、突拍子もないことをして皆を
の中にあって、コミュニティにこだわること
いつも驚かせるので、ダイナマイトというニ
は、世の流れに逆らうような、時代遅れ
ックネームを持ちます。ドミニクが暮らす
なことかもしれません。コンピュータやロ
家のリーダーは、有能で仕事も早く、一
ボットによって、労働の負担が軽減され
人ひとりへの配慮の行き届いたダーリン
るようになったことは画期的なことです。
という女性でした。けれども、彼女は、時
人を介することなく、手間も人件費もか
として効率的すぎることもありました。
からない便利なサービスが急増しました。
あるとき、この家に新しいアシスタント
一方で、夜中に、だれにも会わない小さ
がやって
来ました。アシスタントの彼は、
な箱の中で、お金を借りることもできるの
です。このような世の中にあって、教会は、 ダーリンよりもずっと若く、ラルシュに来て
人生で 初 めて 皿洗 いをしたというような
なおもコミュニティをつくり続けます。
人でした。仕事を 効率 的にこなすことが
苦手で、地に足がついていないようなとこ
3.コミュニティに生きる
ろがありました。このような人たちが一緒
に暮らすことは、簡単であるはずがありま
ジャン・バニエというカトリックの信仰
せんでした。何とか一緒に生活しようと努
を持つカナダ人の創めた、ラルシュという
力しましたが、個性が正反対のふたりは
コミュニティがあります。知的障害を持つ
何をしても難しく、数か 月が経ったときに
人たちとそのアシスタントが暮らすコミュニ
は互いにまったく口をきかなくなり、顔も合
ティです。ラルシュは、1964 年にフランス
わせなくなってしまったと言います。
のトローリーという田舎町から始まり、今
や、世界のさまざまな地域に 120 か所も
若いアシスタントは、この家を出るこ
のコミュニティを形づくっています。テゼ
とを決めました。ラルシュでは、アシスタン
の歌による黙想と祈りの集いに使用して
トが 去る時には皆で「さよならパーティ」
いるイコン(聖画)も、ラルシュの仲間が
をして送り出します。彼がもたらしてくれた
作ったものです。他にも、石けんやカード
良 いものに 感謝 し、また、これからのそ
を作ったりしていますが、何かを作ること
れぞれの旅に祝福を願うパーティです。
しかし、リーダーであるダーリンは、祝福
できそうもなく、心が重いまま、それでも
ひたすら料理を作って準備をしていまし
た。そこで、ドミニクが台所に入って来て
言いました。「今晩のお祈りは僕が準備
しようか?」ダーリンは、「そうね、あなた
がお祈りして」と答えました。
さよならパーティが 始 まると、 皆 で
食卓を囲み、彼に贈り物をしました。ドミ
ニクが祈る時間になると、彼は椅子を並
べ毛布をかけて、ボートのような一つの
舟を作りました。ドミニクは、ダーリンの手
を取って、ボートの中に押し込んで座ら
せました。次に若いアシスタントの彼の手
をとって、ボートの中に座らせました。ドミ
ニクが準備したことはこれだけでした。
とても険悪 だった 二人 がボ ートの
中に、一緒に座っています。皆が二人に
注目しています…どんなに気まずい時間
だったでしょう! しばらく経ってから、他
のアシスタントがこの状況を破って二人を
ボートから救い出しました。空気を読まな
いドミニクによって引き起こされたほんの
一時の事故のようなことでしたが、この時、
とても重要なことが起こりました。この二
人は、初めてお互いを見つめなければな
らない時を持ったのです。ドミニクは、二
人のどちらにも何も言わないで、ただ二
人の手をとってひとつのボートに乗せまし
た。リーダーとアシスタントは、文句を言う
のでなく、自分について弁明するのでも
なく、互いに見つめ合い、自身を見つめ
ることができたのです。和解を望むとき、
わたしたちの間に必要なのは、このことで
はないでしょうか。
4.弱さに注がれる神のまなざし
「ラルシュ」という言葉は、フランス
語で「箱舟」を意味します。ドミニクは、
文字通り、二人をこの一つの舟に乗せま
した。創世記 6~9 章に、「ノアの箱舟」
の物語はあります。人間が常に悪いこと
ばかりを心に思い計っているのをご覧に
なった神が、地上の悪を大雨によって一
掃されます。雨を降らせる前に、神は、ノ
アに命じて巨大な箱舟を造らせました。
その箱舟に乗り込 んだものは、 大水の
中を潜り抜けて救われたのです。古くか
ら教会は、「箱舟」にたとえられてきました。
この舟に乗り込むならば、大水も荒波を
も、共に超えていくことができるのです。
わたしたちが一艘の舟に乗り込むこ
とは、時として摩擦を生みます。まったく
違う賜物と背景をもった個性がぶつかり
合うこともあります。理解に苦しむことがあ
ります。しかし、わたしたちがわきまえてお
きたいことは、どんなに健康で、体力に自
信がある人でも、生きた体であるかぎり完
ぺきではないということです。けがで不自
由をすることもあれば、最近目が見えにく
くなって差し障りをおぼえるようになった、
聞こえにくくなったと話してくださる方もあり
ます。障害は、すべての人が経験するも
のです。弱い部分もあれば、強い部分も
あり、強い時期もあれば、弱くなる時もあ
ります。教会は、この弱い部分をいかに
取り繕い克服するかを問題とはしません。
この部分をしっかりと見つめ、価値を見
出すときに、わたしたちは、神のまなざしの
中にある自分自身を見つめ、本来の価
値を見出すことができるのです。
(祈り)