近松門左衛門の浄瑠璃、秋浜悟史作「風に咲く」の関西弁、多和田葉子作

特別講演
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日常から演劇へ、演劇から日常へ
―近松門左衛門の浄瑠璃、秋浜悟史作「風に咲く」の関西弁、多和田葉子作
「サンチョ•パンサ」
の現代日本語•ドイツ語•スペイン語の演劇を演出して―
嶋田 三朗
劇団らせん舘 Lasenkan Theater Berlin
要旨
劇団らせん舘で私は、演劇言語としての関西弁、近松門左衛門の浄瑠璃の言葉、現代日
本語、ドイツ語、スペイン語等、多様な言語での演劇を 17 カ国 41 都市で公演してきまし
た。どのような契機でこのような演劇を公演することになったのか、またその経過はどの
ようであったか、
演劇と複数の言語の関わりについて、
言語に関することに要点を置いて、
お話しします。
【キーワード】
1 物語の信頼性について
私の生まれたのは、1944 年 6 月 21 日で、わたしたちの世代は「第二次世界大戦後で、
その悲惨な体験を世界中の人々が認識していた時代」だと思います。そして新しい世界が
生まれていて、例えば社会主義や原爆などがすでにあり、今まで以上にひとつの国の内政
が世界との関係の中で非常に緊張感を持っていて、初めて、日本の中で「人間一般につい
て尊重する」という思想が生まれたのではないかと思います。まだ不十分だったとは思い
ますが。
私は小学校に行く前の幼稚園のころに、重病で高熱が出て生死をさまよいました。ほと
んどだめだとお医者さんに言われたそうです。当時の最初の抗生物質であるペニシリンが
開発されていて、それを何回も何回も注射して奇跡的に回復したのですが、それまでの記
憶を失くしました。私の最初の記憶は、私が布団の中で母や父や姉が「あー、がんばって
よかったねえ」と喜んでくれたことです。そういう風に回復して、すぐに幼稚園で卒園式
の記念の劇があり、ずっと休んでいた私も特別に出ることになりました。3 月のお雛さま
の歌で順々に幼稚園児が五人囃子、
三人官女などに扮して登場し、
雛壇に並ぶ趣向でした。
私の出番の時に、先生が「はい」と、キューピーのビニール人形を私に渡しました。私は
それを抱いて「キューピーさんも仲間入り」というフレーズで、最後に花道から登場しま
した。その時、観客に隣のおばさんが来てくれていて「よっ、さぶちゃん、よかったね!」
と声をかけてくれました。これが私の初舞台です。このとき、演劇にとって大切な要素、
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そのすべてが含まれていたような気がします。
キューピーという役、
ちょっと私とは違う、
でも私、それを演じる私、それと、日頃よく知っている人が客席に居て劇として声をかけ
てくれる、ということを一度に経験したと今思います。
後に私は機械工学を勉強して、製薬会社で働くことになります。薬の製法が開発された
時、それを工業製品化するための実験•製造設備の設計•試運転を約 20 年間しました。その
間もずっと演劇をしていました。化学反応は、例えば A+B が C になる、C はそのままで
は純粋な薬として成功しない、不純物をどのように取り除くか、99,9999%の純化した新し
いものをつくらないといけない。美しい結晶、これは劇と非常によく似通っていまして、
細かな点で、私はこの仕事を、自分でいうのもなんですが、自然によく出来ました。幼稚
園の初舞台以来ずっと、働き始めて夜は大学に通っていた間も、劇と関わっていました。
劇の方法と製薬の方法は関係があります。その反応、抽出、吸着、分離-分離の方法は遠
心分離機にかける、あるいは何かと吸着させる。薬の場合、不純物が入っていたら小さく
なったり色が付くとか、何か変なものになります。たいへん純度を要求されるものですか
ら。このことが俳優の演技、台本の読み方、演出方法と深く関わっています。製薬の仕事
をしながら、私は大阪勤労者演劇鑑賞会という組織で東京などの劇団の公演を月 1 回くら
い観るとともに、
関西に来た国内外の劇を観ました。
私たちの職場グループの労演会員は、
工場で働く 2000 人のうち 100 人くらいでした。その職場グループの会員の中で、劇を観る
だけでなく自分たちで芝居をしようというグループが生まれました。働きながら演劇を学
んだこと、機械工学と化学工学を学んだこと、演劇はかなり工学的な構造を持っていると
思います。人間の身体は工学的な形、こんにちはと言う時にもそれぞれ形がある。化学工
学の O プラス H2 は H2O になる。
「おはようございます」という動作はいったい何になる
のか。意味と意味を想起してくる人間の身体、これにはひとりひとりの個性があり、教育
や経験によっても個性が生まれる。Guten Morgen!とか、¡Hola! ¿Como está? 。スペインに
いたときは¡Hola! ¡Hola! で、ものすごく通じるんですね。言語によってもいろいろありま
す。 小学一年生の時に、私は画用紙いっぱいに大きなりんごの絵を描きました。病気をして
いた時に、毎日すりおろしたリンゴを食べていたので。川島先生は「こんな大きなりんご
がありますか?」と、わりと厳しく言われました。そのことを私は理解しましたが、
「これ
は『絵』なのだから、どのように描いてもいいんではないか・・」
。小学一年生なのだから、
現実をそれほど理解していないかもしれないが、
「絵」と「現実」は違うということは理解
していたと思います。先生は、現実の世の中のことをきちんと教えようという認識を持っ
ておられたのだと思います。そのことによって、私は、劇的なこととは何かと漠然と考え
ていて、今の言葉でいえば、
「抽象的なことと現実がどのようにクロスするのか」というこ
とをなんとなく、私のその素朴な「こんな大きなりんごがあります」ということと、
「こん
な大きなりんごがありますか?」
「あります!やってみましょう」
というような感じなのか、
「そうですね、もう少し現実を見てみましょう」という感じなのか、演劇はいくらでもそ
の大きさは作れるような分野で、小説も本当はそうだと思います。その分野で大きなりん
ごとして何が生まれるのか、
というふうなこと、
小さいりんごがあれば何が失われるのか、
あるいは得られるのか、というふうな非常に具体的な問題、今そこにあるもの(ホースを
まわして音を出し)こういうプラスチックのものが、少し人間らしくなる。私たちは化繊
とかいろいろつきあっているんですけれども、そのものはやはり人間が作った。何か作っ
ていることに関して興味を持っている。このようなものは廃棄したいがどうするかという
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難しい問題があるけれど、人間はすごい感覚とエネルギーと、何かしらないけど、何か創
造性を持っているんだと思います。
同じ小学一年生のはじめての劇で、土筆の坊やの役で、幕が開くと、土筆の坊やが「あ
ー、春だ、眼が覚めた」という場面なのですが、
「あー」と眼が覚めた途端に、冠っていた
土筆の坊やの帽子状のものが落ちましたので、私は、舞台袖にいた先生を見ました。先生
は、仕草で、帽子を拾ってかぶる動作をしました。それで私はそのとおりにして、土筆の
帽子を冠って、もう一度「あー、春だ眼が覚めた」というセリフを言いました。劇の中で
も日常と同じように想定外のことがどんどん発生する。だから日常と同じ様に、劇の中で
もそれを解決する方法を見つけて行動するということが何となくわかりました。劇は「何
をしてもいいんだ、間違ったらそれをまたやり直す、歴史の中では間違ったらまたこれを
きちんと直そうというのはなかなか生まれない、どこから『人間の思想というもの』が展
開しているのか」そのずれが面白いからお芝居をしているということもあります。このこ
とが、後に劇的とは何かというベースのようなものを与えてくれたと思います。現実は劇
とつながっている、劇は現実とつながっている。現実のシステムと演劇のシステムは異な
るものではない、舞台で物語が展開していても、実際に役者や観客が見る現象と感じる知
覚は、その場で発生している現実である。
小学二年生になると、食事中に土井利子先生がいろいろな物語を語ってくれました。そ
のひとつに、グリム童話のラプンツェルがありました。魔法使いによって塔に閉じ込めら
れていたお姫様はまだ一度も切ったことのない長い髪を持っていました。
その物語の中で、
犬が「わん」と吠えるところがあり、私がびっくりしたんです。それを見た先生は語る事
を止めて、私に「びっくりしなくていいのよ、三朗、物語はまだつづきがありますからね」
と話しかけてくれました。私にとって第4番目の劇的な事だったと思います。それは、後
に 18 歳くらいからブレヒト演劇を研究し読書会などをするようになって分ったことです
が、それは感情移入(同化)と異化効果ということです。そこで感情的に自然に流れてい
くのではなくて、どこかで一遍それを切る、切る力とは何なのかということもあるんです
けど、切った時に今までの思想がちょっと変わっている、あるいは、
「私」と言った時に、
他人がぱっと入って来て少し関係して新しいものが生まれる、新しいものが本当に自分の
ものに、自分とともにあるものとなった時に、また別のものが生まれる。図形的に、体系
的に解ったりする。私は感情移入と異化効果というかたちで学びました。
私の父の仕事は日本建築の大工でしたので、自分の家に作業場があり、毎日毎日その仕
事の音を聞いていました。それは、わたしのリズム感のもとになっていると思います。鑿(の
み)で穴をあけるリズム、釘を打つときの音はトントントンと 3 回です、これがずうっと一
日中続く日があるんです。鋸を引く音、鉋(かんな)を引くしゅっしゅっしゅっという音と
リズム。私はリズムと動作の感覚をそれらから得たと思います。仕事、作業のリズムが、
劇のリズムに合った、それは身体の動きが生むリズムだったからだと思います。リズムと
いうのは音だけではなくて、それを生む実体がある。また、母の台所の音、昔の台所です
から大きくて、職人さんも来て一緒に食べるので、朝早く 6 時ごろから朝ご飯の用意をし
ていて、かちかち、カタカタと台所から聞こえ、父は鑿や鉋を研いでしゅっしゅっ、台所
からはことこと、ことこと、私は布団の中でうーんとそれを聞いている。
小学六年生のときに、クラスで劇をしました。その劇で、私は教室でふざけてカーテン
を破ってしまう少年の役をしました。先生役の人が来て「誰がこのカーテンを破ったのか」
と咎めた時、私の役の少年は本当のことが言えなくて、その少年の親友が身代わりに、
「私
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です」と言う話です。そこで前半の舞台の幕が閉まるときに、私はきちんとその人に言う
ことができないまま、幕が閉まった。ずーと幕がしまっていくのを見ていたことを記憶し
ています。第二幕で、少年たちが大人になって、私の役の人は裁判官になり、親友の少年
は革命家になって、出会い、そのときに、裁判官は公正な裁判をした。しかし、私自身は、
前半のカーテンを破った少年しか演じなかったので、いつまでも罪を持ったまま、その場
にいる、責任を果たしていないような、気がしていました。このことが、劇と現実との関
係に入り込むきっかけになっているのです。
2 鑑賞団体で演劇を観て、戯曲を読み、批評する
ベルトルト・ブレヒト作「プンティラ旦那と下男マッティ」という作品を東京の劇団が
公演した時、俳優が出席した観賞後の合評会で、私が「俳優が歌を歌った場面がよかった
です。
」と批評しましたら、ある俳優が「えっ」というような不思議な顔をしました。その
人は、私が場面の異化効果を理解した上で、よかったと批評したのだと思わなかったよう
です。情緒的によかったと言っているんだと、その人は思ったのだと思います。その場面
は、ブレヒト劇で、違和感を抱かせるように作るところですが、違和感というのは、劇的
違和感であって、観客が違和感を感じることによって新しい認識を獲得する場面です。し
かし、そのときの合評会では、論議が発展しないで、
「観客がそう言っているのだから、
」
ともう一人の俳優が言って、話し合いは終わってしまいました。私は、観客の立場から言
っているのでは通じないと思ったので、自分たちで演劇をつくろうと思いました。そのよ
うにして、当時職場のあった兵庫県尼崎市で、メンバーといっしょに、自動車教習所の裏、
アイスクリーム問屋さんのビルの 4 階に稽古場を借り、演劇を作り始めました。
3 現代作家の作品から、近松門左衛門作品の上演へ
なぜ、私が現代劇から、現代劇として近松門左衛門作品を演出するようになったのか、
その経過をお話します。はじめ、1978 年から 83 年の間、集団創作劇「瞑想少女-ねむり
びと」
(大正時代の尼崎紡績女子工員の話)や、日本の現代作家、田中千禾夫、清水邦夫、
石澤富子、秋元松代、秋浜悟史、水上勉、広渡常敏などの作品や、宮沢賢治作品を公演し
ました。関西の言葉と、標準語といわれる言葉との間で、何を私たちの作る舞台の演劇語
とすべきなのか探し続けました。
関西方言、長崎方言、東北方言を使ってみて、方言の消えて行く時代も感じながら、舞
台語を探して行き着いたのが、近松門左衛門の浄瑠璃でした。まず、原作の本を読んで、
演劇語としてリズムや音が魅力的だと感じたので、82 年 12 月尼崎市のサンホールと 83 年
1 月に近松会館で公演しましたが、言葉の音と意味がはっきりしないので、現代の読み方
ではだめなのだと気付き、尼崎市在住だった女義太夫、豊竹團司師匠に浄瑠璃を学ぶ事に
なりました。豊竹團司師匠は女義太夫の名人で、明治 24 年、1891 年生まれで、特にその
語りのリアルさにおいて抜きん出た方でした。
4 近松門左衛門作品から、海外公演へ
1982 年から近松作品に取り組み始めましたが、同時に 85 年シェイクスピアの「夏の世
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の夢」を神戸の生田神社境内特設テントとピッコロシアターで公演、85~86 年テネシー・
ウィリアムズ作「ガラスの動物園」を 19 回公演、88~90 年ミヒャエル・エンデ作「ゴッ
ゴローリ伝説」に取り組み、22 回公演し、神戸・尼崎・吹田・京都・伊丹・大阪での公演
はたいへん評判になりました。劇場の形態も、普通の劇場、会館や、特設テントなどいろ
いろ試みた時期です。そして、86 年には近松門左衛門作「卯月の紅葉」と続編「卯月の潤
色(いろあげ)
」を構成した「近松あと追い心中」
(言葉は原作通り)を尼崎市内の使われ
なくなった 600 坪(約 2000 平方メートル)の工場の中に、丸太で骨組みし、筵掛け、花道
をつくり、客席畳敷きで約 300 人収容の手作りの劇場を作って 17 回公演しました。毎回
100 人の観客がつめかけて、劇を楽しんでくれました。地元のお寿司店が特別に近松弁当
を作ったり、地域の商店なども協力してくれました。せりふ、語り、歌、合唱、踊りを総
合した劇を、ジャズ演奏家のドラムとベースギターと私の和太鼓の演奏付きで公演しまし
た。87 年にも、同じ市内の別の廃工場内に 2 方向の舞台をつくり、近松門左衛門作「おな
つ清十郎五十年忌歌念仏」を「おなつ-近松夜想曲」として 22 回公演しました。近松作品
連続公演は、公演会場を変えながら引き続き「出世景清」
「関八州繋馬」
「冥土の飛脚 新
口村」
「源氏烏帽子折り」
「曾根崎心中」
「けいせい反魂香」
「心中天の網島」に取り組み、
93 年まで続けました。豊竹團司師匠に習った浄瑠璃を参考に、現在その義太夫節はもう伝
わっていない近松の文章にも、私たちがこのようだったのではないか、このように語って
みたいと想像しながら、新しく節をつけて公演したのです。新しい劇的興味が生まれまし
た。(実演 1「近松あと追い心中」から) 89 年に海外公演をすることになった時、日本の観
客も近松言語が完全にはわからなくても、
劇は理解してくれたのだから、
外国の観客にも、
近松の言葉そのままで劇として通じるのではないかと考えて、日本での公演と同じ様に公
演しました。初めての海外公演は、89 年西ドイツのアウクスブルク(ブレヒトの生誕地)
とエジンバラフェスティバルフリンジで、近松門左衛門作「出世景清」を公演。一般的に
外国公演では、言葉を減らす傾向がありますが、らせん舘の劇では、舞台上で話す言葉を
減らしたりせず、日本公演と同じ様に日本語-この場合は、近松語で公演し、ドイツの観
客もエジンバラの観客もしっかり受け取ってくれ大好評でした。
(あらすじは各地の言語の
翻訳を配りました。
)
1992 年秋浜悟史作「風に咲く」は、近松門左衛門の「出世景清」の落人である景清と現
代人である姉と妹の世界が錯綜する話で、現代作家の秋浜悟史氏(1934-2005)がらせん
舘に書き下ろしてくれた作品ですが、現代人の姉と妹は関西弁を話し、景清や阿古屋、小
野の姫の会話や語りは浄瑠璃です。
「風に咲く」の海外公演でも、日本公演と同じ様に、そ
のまま公演しました。インドネシア公演の時にオーストラリア出身のジャーナリストが大
変興味を持って「海外公演で、どうして日本語でこんなにたくさんしゃべるのか。
」と質問
をしてくれました。私は「言語は創造力のひとつの源泉であり、不可欠です。言葉が俳優
の演技の始まりなのです。
」と答えました。言語が私自身をつくっているのです。1993 年
フランス公演では、字幕をつけることを勧められました。そのままの字幕では物語が単純
化されるので、言葉を舞台装置に組み込んでしまうことを思いつきました。舞台のカーテ
ンやシーツや衣裳に、スライドで作った断片的なセリフを映し出して、役者が言葉の海の
中で演じるように演出しました。ジェスチャーは日常的な既成概念をもとに成り立ってい
ます。例えばうどんを食べた事の無い人には、うどんを食べているジェスチャーは伝わら
ない。わたしたちが伝えたいのは抽象概念ですから、俳優が言葉を発して何かを言おうと
している、そこに何かがあるということを抽象的に感じ取って、ふくらませてもらうこと
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特別講演
が大切なんです。インドネシア公演では、上演中に役者が「ただいま」というせりふに、
観客も「ただいま」と復唱したことがありました。そのあと「だあれ」
「だあれ」
「おれ」
「おれ」と繰り返され、演じる人と観る人が同時に存在して互いに確認し合う瞬間が生ま
れました。私は、演劇というものは、網の目の空いたところから、観客ひとりひとりが出
入りするようなものだと思っています。そこで俳優と観客が伝え合っているとか話し合っ
ているようなものなのです。この作品「風に咲く」は、英国、ポーランド、ドイツ、イン
ドネシア、ウクライナ、インド、スペイン、フランスで公演し、
「人間の経験の地層を開く
(Blossom in the Wind unfolds layers of human experience)
」
「無へのあこがれ(Sehensucht nach
dem Nichtsein - ein japanischer Totentanz)
」など新聞で批評があり、たいへん好評でした。(実
演 2「風に咲く」から) 1989 年から現在まで、ドイツ、英国、イタリア、スリランカ、タ
イ、ポーランド、ニュージーランド、インドネシア、マレーシア、ウクライナ、スペイン、
ハンガリー、フランス、韓国、インド、チリ、アメリカ合衆国の合計 17 カ国 41 都市で公
演や演劇ワークショップを実施。はじめは、日本語メンバーで公演していましたが、俳優
が話す言語としての外国語を考えるようになったのは、89 年から毎年海外公演の度に、必
ずそれぞれの地の演劇を見ることにしていたからだと思います。その地の言語を全く理解
できない場合でも私たちは臆せず劇場に通いました。演劇はきっと何かを伝えてくれると
いう信頼があったからです。92 年と 93 年にジャカルタで公演した時、あるインドネシア
の俳優が、らせん舘と一緒に演劇をしたいと言いました。私たちはお互いの言語を話せな
かったのですが、そのことがきっかけで、外国語の俳優と一緒に演劇を作る事は可能かも
しれないと思い始めました。そして、93 年末に劇団らせん舘のメンバーは、異なる国で文
化、言語を学び、共に演じられる仲間を見つけようと、ドイツ、イタリア、インドに、各々
5~6 ヶ月間留学しました。
その次の段階として、93 年末の公演ツアーで公演したスペインのカネット・デ・マール
という小さな町が、稽古場の提供を申し出てくれたので、94 年夏から、そこを拠点に、様々
な国の俳優と劇を創ることにしました。はじめは、ドイツ人、ポーランド人、スペイン人、
日本人の俳優や歌手、スペイン人の子役を交えて、宮沢賢治作「セロ弾きのゴーシュ」を
ベースに、パブロ・カザルスやスペインの人々が登場する作品を公演しました。そして、
次の年は G•ビューヒナー作「ヴォイツェック」を基にした新作、秋浜悟史作「ちりぬるを」
を 95 年と 96 年に大阪、東京、名古屋で公演しました。この作品を創るにあたって、イン
ドの Mumbai、韓国の Seul、フランスの Angoulême でワークショップをして俳優を募集し、
カネット・デ・マールに集まって合計 6 ヶ月共同生活、劇作りの作業をしました。ドイツ、
イギリス、インド、韓国、日本の 5 ヵ国のメンバーなので、英語でコミュニケーションし
ました。作品の中の言語は、各々の母語でした。その演劇作りと生活を通していろいろ学
びました。何か行き違いが生じた時、言葉のトラブルだと、問題をすり替えて問題の本質
ははっきりしているのに、そこに到達しようとしない。受け入れれば、自分の地層が壊れ
てしまうような後退現象に似たものが見受けられました。言葉のわかる、わからない、に
よって他者から教えられる、さらに他者に自分が壊されてしまう、そんな感覚に陥ること
があるのです。問題を抱えながら、半年の稽古を通して皆それぞれの理解の仕方を会得し
て 95 年~96 年の大阪•東京公演は成功しました。
1995 年 1 月に阪神淡路大震災があり、私たち自身も 94 年 12 月から帰国していたので被
災しました。阪神間では地元に住む外国人向けに震災時のラジオやメディアで外国語の使
用が始まりました。93 年に日本語と外国語の劇について話してもメディアは具体的に理解
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特別講演
しなかったのですが、95 年以降は阪神間のメディアは「多言語舞台」
「複数言語舞台」と
書きよく理解してくれました。その頃の私たちは、ナショナリティーの違う人間が集まっ
ただけでは、国際化にはならない。自分のなかに二、三の文化を溶解し、さらに外に向け
て新しい意欲をみせる人間たちが交じり合わなければと考え始めていました。それで、そ
の時残った日本人メンバーは、スペインのカネット・デ・マール市で、改めてスペイン語
を一年間学び、スペイン人とウルグアイ出身の俳優と新しい作品に取り組み始めました。
それは多和田葉子作小説「無精卵」と「文字移植」を基に作った演劇で、97 年マドリード
の演劇祭で公演し好評を得、公演を観てワークショップにも参加した俳優 2 人が次の作品
に加わる事になりました。演出家が権力を握らないで、子供の様に、本質的な言葉で伝え
て、スペイン人の創造力に、ある意味で任せる。子供から出発したい、そう思ってはいて
も、やはりそう簡単に子供にはなれない。どうしても譲れない頑固さが、知らないうちに
自分を変な子供にしてしまう。どのようにスペインという別の文化を取り込めるか、と考
えながら、作品は、ドイツに在住する多和田葉子作品を選ぶという、二重、三重の複雑さ
を自然に選びました。93 年からの様々な人々とのいろいろな言語の劇作りの経験や、スペ
インのカネット・デ・マールという町の雰囲気は、私たちの新しい取り組みの発想をしっ
かりと支えてくれたと思います。
多和田作品との出会いは、92 年にドイツで公演した時からでした。90 年から毎年ベルリ
ンで公演しましたが、92 年に秋浜悟史作「風に咲く」公演の時、お世話してくれた当時ベ
ルリン工科大学の Albrecht Kloepfer 先生は新聞に多和田作品の批評を書いた人で、私たち
に多和田葉子のドイツで出版された詩集をくれました。ドイツ語と日本語で書かれた詩集
で、私たちはいつかこの作家の作品を公演したいと考え、多和田葉子さんに手紙を書きま
した。98 年には多和田葉子のドイツ語と日本語の書下ろし戯曲「TILL」をドイツの劇団と
の合同で演出し公演。その稽古の間に、次回は、サンチョ・パンサをテーマにしたいと思
い、その発想を多和田氏に話し、戯曲「サンチョ・パンサ」を日本語版とドイツ語版で 2000
年に書下ろしてもらい公演しました。戯曲「サンチョ・パンサ」は、9 場から成り、セル
バンテス「ドン・キホーテ」のスペイン語引用部分もあります。(実演 3「サンチョ•パン
サ」から)
5 演出の方法について、一言語のときと複数の言語のとき
演出の具体的な方法は、一言語のときも複数の言語のときも同様です。つまり、 A セ
リフ、B 語り、C セリフ、音楽、ダンス、詩、というように重ねていく方法ですが、複数
の言語になるともっと複雑になって、自由度が広がる。もっと大切なものは、テーマその
ものの追求が異なってきます。複数の言語の場合は、
• 翻訳のときのズレる意味のおもしろさ、ちがったことばを並べるおもしろさ。
• 一つの抽象(一つの文化)にならなくてアレゴリーの積み重ねになる。
• 異化、ブレーキの拡大、スケールの大きさ、差異と反復。
複数の言語の場合は、異化、差異、などの作用が、表層的にもわかりやすい。
「文
これらはすべてテーマと関わりがあって、たとえば、多和田作品で、第 1 回「無精卵」
字移植」を基にした演劇で、テーマは、翻訳と語られなかったコトバ。第 2 回「TILL」
、
ティル・オイレンシュピーゲルをもとに書き下ろされた戯曲ですが、観光がテーマ、ドイ
ツ文化と日本人の距離。第 3 回「飛魂」文字、魂という字は、云+鬼=魂。ことば+こと
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特別講演
ば+ことば=何になるか?ことば+ことばは、
「テーマ」が複数の文化を含むものであるか
ら複数の言語の劇になる。日本語だけであっても、複数の文化を含んでいるということで
す。
たとえば、多和田葉子の戯曲「TILL」では、日本語部分とドイツ語部分があって、その
中で、ドイツの文化と日本の文化が出会う仕掛けでした。多和田葉子の最新作「夕陽の昇
るとき」では、日本語版とドイツ語版がありますが、台本の中で、ドイツ語と日本語が混
ざっているわけではありませんが、複数の文化は存在しています。少しだけ、その作品の
場面を紹介します。(実演 4「夕陽の昇るとき」から) 言語表現としては、日本人の日本語、
外国語、外国人の日本語。つまり、演出として、まず 作品のテーマが、複数の文化構造
をともなっているのです。たとえば、宮沢賢治作「土神ときつね」という作品では、私は
演出上、土神語、きつね語、ナレーター語(土神語ときつね語の翻訳者としての役割)を、
複数の言語として扱い演出します。つまり、私は演目としても、一言語のテーマを選んで
いません。だから、日本語と外国語を使った場合、それはより明確になりますが、公演の
演技術的なものは、基本的には変わらないのです。たとえば、演出上の問題として、同化、
アレゴリー、ブレーキ、異化、差異の反復、翻訳のズレ、ことばとことばのズレ、役者と
せりふのズレ、ことばのひだを重ねる、ことばあそびの発展形、発音として、文字として
のことばの多様性等、劇として成立させる要素になります。実演は、市川ケイ、とりのか
なでした。以上です。ありがとうございました。
公演年と演目については、劇団らせん舘 www.LasenkanTheater.de をご参照ください。
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