日本の70年戦争」の実像⑪】 日露戦争(中)

「日本の 70 年戦争」の実像(11)
日 露 戦 争
(中 )
11 月には印紙税、相続税などをつけくわえた第
二次の増税をしました。こうした増税につぐ増
税、国債の強制的わりあてや献金、はげしい物
価上昇などで民衆の生活は窮乏に直面させられ
ました。
国家予算の6倍の戦費、4割は外債
日露戦争は直接の戦費だけでも、総額 17 億 2
千万円(陸軍 12.8 億円、海軍 2.3 億円、各省 2.1
億円。これは当時の国家予算の 6 倍にあたりま
した)の戦費を投じた大戦争でした。
この莫大な戦費の調達は、日本国内での増税
と国債(内債)発行だけでは、どうにもなりませ
んでした。日露戦争の戦費の 4 割にあたる約 8
億円は外国に日本の外債を購入してもらって確
保したものでした。この外国からの借金に成功
しなかったら、
日露戦争はできなかったのです。
国民生活を犠牲に大軍拡をすすめる
そのお金を貸してくれたのがイギリスとアメ
日露戦争にむけての日本側の軍備拡張は、日
リカです。最初にイギリスの諸銀行が日本の外
清戦争直後からすすめられました。海軍力は、
債をひきうけ(イギリス国民がその国債を購入
イギリスの技術的援助を受けながら、開戦前に
した)、日本は戦費を調達することができました。
は戦艦6隻・装甲巡洋艦6隻(うち戦艦はすべて、 次にアメリカのクーン・レーブ商会という大金
装甲巡洋艦は 4 隻がイギリス製)を基幹とする
融資本が日本の国債を大量に買ってくれました。
強力な艦隊を保有するに至りました。これらの
クーン・レーブ商会は、日露戦争後の「満州」で
軍艦は、日清戦争時とは異なり、世界最高水準
の鉄道開発をめざすアメリカの鉄道王ハリマン
の最新鋭艦ばかりでした。また、陸軍力も日清
に対する最大の出資者であったからです。「満
戦争終戦時の 8 個師団から日露開戦前には 13
州」をロシアに独占されないために、
日本を支援
個師団へと増設され、部隊の火力(銃と大砲の数
することで先行投資をおこなったのです。
と威力)も大幅に強化され、機動力を有する外征
これらの借金(外債の募集)を英・米でおこな
型軍隊(対外侵略ができる軍事力)を有するよう
ったのが『坂の上の雲』にも出てくる高橋是清
になりました。
です。日本はこのお金で大急ぎでイギリスやド
この急激な軍備拡張のために、国家予算(一般
イツの兵器メーカーから武器・弾薬を購入し、
会計)に占める軍事費の割合は、日清戦争前の
日本本国に送り、それが到着してからようやく
10 年間(1884∼93 年)の平均 27.2%から、日
「満州」で日本軍は一作戦を展開できるという薄
露戦争前の 10 年間(1894∼1903 年)の平均 39. 氷を踏むような戦いが日露戦争の実態だったの
0%に激増しました。政府はこの軍拡費用を捻
です。
この日露戦争の功労者である高橋是清が、
出するために大増税をおこない、民衆の生活は
のちに 2・26 事件で陸軍の青年将校によって殺
圧迫されました。
また、
政府は開戦直後の 3 月、
されたのは何とも皮肉なことです。青年将校た
地租や所得税をはじめ、たばこ、砂糖、塩への
ちは、自分たち日本軍の「栄光」の基礎をつくっ
税にいたるまで 6,000 万円の大増税をおこない、 た日露戦争において、高橋是清がどのような役
日本「帝国」政府は、清国から遼東半島を取
り上げようとしたのを三国干渉によって妨
害されたのは「戦力の不備にあった」とし
て、「臥薪嘗胆」を合言葉に、三国干渉の中
心だったロシア帝国に対して国民の怒りと
報復心をかりたてながら、大軍拡を進めま
した。大軍拡の財源は国民への重税と日清
戦争の賠償金でした。そして、イギリスを後
ろ盾として、1904(明治37)年2 月8 日に奇襲
攻撃によってロシアとの戦争をはじめまし
た。日露戦争によって日本「帝国」は朝鮮を
「保護国」とし、関東州と南満州鉄道を獲得
し、「満州」への支配を強めました。日露戦
争は、この後の中国全土からアジア全域に
対する侵略戦争の出発点となります。【R】
割を果たしたのか、まったく知らなかったのだ
と思います。
またも奇襲攻撃で始めた日露戦争
1904 年 2 月 8 日、日本海軍が遼東半島のロ
シア租借地にある旅順軍港を奇襲攻撃して、日
露戦争は始められました。陸軍は 9 日、仁川に
上陸しソウルに入りました。明治天皇によって
宣戦布告がなされたのは、10 日になってからで
す(資料10参照)。宣戦布告の詔勅は、2 月 11
日付の新聞に発表され、
〈紀元節〉とむすびつけ
られて宣伝されました。同日、大本営が宮中に
設けられました。
日本海軍は総兵力ではロシアに劣っていまし
た。そもそも当時の日本では、戦艦、装甲巡洋
艦など、当時の主力艦を、自前(国内)でつくれ
ないという大きな問題点がありました。これを
イギリスから全面的に支援を受けることで解決
したのです。またロシア艦隊は、トータルでは
日本よりも圧倒的に大きかったのですが、バル
ト海のバルチック艦隊、黒海艦隊、そして太平
洋艦隊(旅順とウラジオストクに分かれていた)
の三つの艦隊に分散しているので、
日本海軍は、
それぞれを各個に撃破するという考え方でのぞ
みました。
日本陸軍も、総兵力ではロシアより圧倒的に
少なく、兵器や弾薬の生産力でも劣っていまし
た。財政的にも、総兵力においても、日本はロ
シアとの大戦争を一国で対処するということは
きわめて困難でした。
だから、
速戦即決を図り、
生産力や財政の弱点はイギリスの支援で何とか
補おうと考えたのです。
ロシアは陸軍の総兵力では日本よりはるかに
大きいのですが、輸送をシベリア鉄道一本に頼
っているので、大兵力を一度に送ることはでき
ないという弱点がありました。
屍でうずまった旅順要塞
日英同盟によってイギリスから重要な軍事情
報を得て、日本は戦争の主導権を握ることがで
きました。日本軍の主力は、朝鮮から鴨緑江を
こえて「南満州」にすすみましたが、遼陽、沙河
などで激戦がつづきます。遼東半島に上陸した
乃木希典のひきいる第三軍は、1904 年 8 月中
に旅順を陥落させるはずでしたが、実際に旅順
が陥落したのは 05 年になってからでした。
161 日におよんだ旅順攻防戦では、攻撃に参
加した日本軍 13 万人のうち、1 万 5,390 人の戦
死者がでて、旅順要塞は屍でうずまるという激
戦となりました。
さらに4 万3914 人の負傷者、
約 3 万人の疾病患者が出るなど、犠牲はあまり
にも大きなものでした。
戦争中にさらに韓国侵略を深める
ところで韓国政府は、日露戦争の開戦前の
1903 年 9 月と開戦直前の 04 年 1 月に、日露両
国に対して〈中立〉を宣言していました。だが、
日本「帝国」は中立宣言をまったく無視して韓国
に大兵力をすすめ、その威圧のもとに 2 月 23
日に韓国政府に韓国全土を日本軍の兵站基地と
して自由に使用させることを盛り込んだ「日韓
議定書」に調印させました。
また、日本は日露戦争中から戦後にかけて、
韓国への日本の支配権を列強に承認させるため
の工作を進めていました。例えば、1905 年 7
月にアメリカとの間に桂タフト協定を結び、8
月には日英同盟を更新するなど、日本は、米・
英との間で、権益と勢力圏を相互に承認しあっ
たのです。日本は韓国に対する支配権をこれら
列強に認めさせるかわりに、列強の東アジアに
おける植民地支配や既得権益をすべて承認した
のです。こうして日本は韓国「併合」=植民地化
への道をつくりあげていったのです。
資料 10 露国に対する宣戦の詔勅(現代語訳)
(前略)今、不幸にしてロシアと戦端を開くに至っ
た。どうして、これが余の本意であろうか。帝国に
とって韓国の保全が、重要な要素となったのは、
一日二日のことではない。……韓国の存亡は、ま
ことに帝国の存亡にも関わってくる問題だから
である。……もしも、満州がロシアの領土になっ
たならば、どうなるであろうか。韓国の安全保障は
維持不能となり、極東地域の平和は望むべくもな
い。
……ロシアは、すでに帝国の提案と協議を受
け入れず、韓国はそのために存亡の危機にさら
され、帝国の国益はまさに侵されようとしている。
事態は進行し、ここに至ってしまった。帝国が、平
和的な交渉によって求めてきた、東アジアの将来
にわたる安全保障も、本日これを軍旗と進軍ラッ
パによって求めるほかはない。 ……(以下略)