教育学者ボグダーノフのテキスト作り

鹿児島工業高等専門学校
研究報告 3
3(
1
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)
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教育学者ボグダーノフのテキスト作り
上村忠、昌
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1
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3
6年当時、ロシアの東方進出と欧化政策の情勢の中で、首都ペテルブルグに日本語学校が創設され、薩
摩からの漂流青年ゴンザが日本語教師になった。校長のボグダーノフとゴンザは協力して、 6種類の著作を
遺している。その教科書作りには、チェコの教育学者コメニウスの影響が大きく見られる。ボグダーノフは
コメニウスの教育思想の信奉者であり、実践家であったと言ってよい。この論考では、『開かれた言語の前
庭』と『日本語会話入門』の関連を分析しながら、ボグダーノフの教育学者像を浮き彫りにしてみる。
K
e
ywords: 1
8世紀前半
ロシア日本語学校
ゴンザボグダーノブ
コメニウス
教科書作り
1
. ロシアの東方進出
イワン 4世(雷帝、在位 1
5
3
3
8
4
)のもとに中央集権的国家体制の確立に努めていたロシアは、西ヨーロッ
6世紀後半から東にも目を向け、シベリアに
パ諸国の世界各地への探検と大航海による発展に刺激されて、 1
5
7
9年に、コサックの長エルマークがウラル山脈を越え、イルティシ河畔でシピソレ・ハン国
進出し始めた。 1
7世紀にはいるとロシアの東進はにわかに勢いを増して、 1
6
3
7年にヤクーツクを建設、 4
3年に
軍を破った。 1
9年にはノ¥ノ〈ロフスクのアムール)1(黒竜江)地方探検などが達成された。砦の築城を
パイカル湖を発見し、 4
6
8
9年 7月のネルチンスク条約でロシアは、国境を黒
めぐって、中国(清朝、康照帝)と衝突し、攻防の末、 1
竜江北の外興安嶺とアルグン川を結ぶ線とし、南進は阻まれたが清朝との通商を行った。ロシアのシベリア
東征は続けられ、それは毛皮獣と貢納を納める原住民を求めての前進でもあった。毛皮税として徴収した黒
須の毛皮などは走る黒ダイヤと言われ、ヨーロッパに輸出すると高値で売れて外貨を稼いだ。
6
9
5年にはカムチャツカを征服し、アナドイリ要塞の隊長となって、この地
コサックの長アトラーソフは 1
3人がカムチャツカに漂着し、その後、
に関する貴重な報告書を作成した。そのころ大阪出身の商人伝兵衛等 1
伝兵衛だけが生き残ってカムチャダーノレ人の捕虜になっていたが、探検中のアトラーソフに発見された。漂
着から 2年が経っていた。伝兵衛はアトラーソフやコサックたちとさらに 2年間生活を共にし、少しロシア
語を覚えた。
7
0
2年 1
月8日(日付は当時のロシア暦、以下同)、ピョートル大帝に
首都モスクワに送られた伝兵衛は、 1
謁見した。ピョートル大帝は、北の方から日本への航路をひらいて、日本との通商条約を結びたいとの希望
を持っていた。そのためにも、日本語の分かる通訳の養成が必要で、あった。伝兵衛にモスクワで正式なロシ
ア語を教授し、その習熟の後、 3人もしくは 4人のロシア人生徒に日本語の読み書きを教えさせよという勅
令が出された。ピョートル大帝は、 1
7
0
3年から新首都ペテルブ、ルグの建設に着手し、 1
7
1
2年に遷都した。ロ
シア正教に改宗ーし、ガブリールというクリスチャンネームを与えられた伝兵衛は、ペテルブルグの元老院内
の日本語教室で教えたということであるが、生徒達の姓名は未詳である。日本ではそのころキリスト教は禁
止されており、鎖国中でもあったので、伝兵衛は帰国をあきらめざるを得なかったと思われる。
1
7
1
0年には、紀州の三右衛門(サニマ)等 1
0名がカムチャツカのカルギル湾に漂着し、その後サニマ(洗礼
97
上村忠昌
名イワン)は 1
7
1
4年にペテルブ、ノレグ?で、伝兵衛の助手になった。伝兵衛の没後も 1
7
3
4年まで日本語を教授した
らしいが、詳細は分からない。
1
6
8
1
1
7
4
1
)は
、 1
7
2
5年にピョートル大帝から「アジア(シ
デンマーク生まれのロシアの探検家べーリング (
ベリア)とアメリカは陸続きか否かを確認すること j という命令を受けて、チュクチ岬東方の海上を調査し、
1
7
3
0年帰還) 1
7
3
3年には第二次カムチャツカ探検隊長となり、今回はアメリ
海峡存在の可能性を報告した (
0
7
4
1年にベーリング島で没した。
カ沿岸に到着、帰途にアリューシャン列島を発見したものの、壊血病のため 1
との第二次探検隊は第一次と違って、探検家や航海士で組織する本隊だけでなく、学者グループも編成され
た。歴史学者ミュラーが隊長格で、若い博物学者クラシェニンニコフも参加していた。
1
7
2
9年 6月7日、薩摩のゴンザ達 1
7名がカムチャツカ半島のロパトカ岬とアワチャ湾の問、カザチェニ河の
川口に漂着し、 5
0人隊長シュティンニコブのコサック隊とカムチャダ、ル人の襲撃で、 1
5名が死亡した。
(
注 )
)ゴ
1
1歳)とソウザ (
3
6歳)の 2人は捕えられて奴隷にされたが、シェスタコフ指揮下の新探検隊によって解
ンザ (
7
2
8年 1
1月初め、
放され、シュティ ンニコフは私欲から凶悪な仕打ちをした罪で処刑された。 ゴンザ達は、 1
藩主島津継豊の命令で、藩士のための米・絹織物・紙・その他の商品などを積んで、薩摩から大阪へ向けて
出帆した御用船ワカシワ丸(別名ファヤイキ丸)が嵐に遭って、太平洋を約 6か月間漂流した後の悲劇で、あっ
た。漂着後のカムチャツカで略奪された品物は記録によると、縮緬の反物、赤い敷物、麻布、袖長外套、橋
祥、刀、包丁、筆箱、剃刀箱二個、木椀と陶碗、鏡台、墨壷二個、風信旗三個、香木、その他に 三個の錨と
0
k
gの鉄具類で、あった。 ゴンザは舵取りの父親の見習いとして、商人であったソウ
船から取りはずされた約 5
7
3
1年、ゴンザとソウザはヤクーツクへ送られ、その地の長官の監督
ザは雇われて乗っていたので、あった。 1
下に入ったが、もう 一度、カムチャツカのボリシェレツキー要塞に帰った。そして、そこでさらに 2年を過
ごすことになる。
2
.ピョートル大帝の西欧化政策
ロシアは西欧諸国に比べて近代化が非常に遅れていて、「東方の未開国 J と見下されていたので、ピョー
トル大帝は新首都ペテルブ、ルグをヨーロッパへの窓として、富国強兵のために、軍事・行政・産業・教育・
宗教の各分野にわたって改革を試みた。それは古都モスクワの伝統に固執する大貴族やロシア正教の権力と
の闘いでもあった。その際、フランスやドイツなどから大勢の政治顧問や学者、技術者などを招いて、思い
切って西欧の制度・技術・風俗を導入したので、ロシアは西欧風の絶対主義国となっていった。
文化政策としては、ピョートル自身も、従来のキリル文字を当時のヨーロッパの文字に近いように改変し
7
1
0年に勅令を出した。社会的
たり、字数を整理したりした文字改革草案を作り、この文字を用いるように 1
な情報量が飛躍的に増大した当時の状況に基づいてのことで、あった。
欧化政策による新しい知識の流入は、必然的に辞書の必要を痛感させ、ヨーロッパ諸語とロシア語との対
訳の辞書が相次いで編集・出版された。 この時代、欧州には複数の国語を対訳する項目別の学習辞典が多く
?
1
7
2
0
)の『ラテン語・ドイツ語・ロシア語項
存在し、それらを参照して編集がなされた。 コヒ。
エフスキー (
目別単語集~ (1700) 、ポリカルポフ (?-1731) の『スラヴ語・ギリシア語・ラテン語項目別小辞典~
(
1
7
0
1
)
などがそれであり、アルファベット順の辞典も、ポリカルポフの『スラヴ・ギリシア・ラテン三カ国語辞典』
(1704) 、ワイスマン (1641 一 1717) の『ドイツ・ラテン・ロシア語辞典~ (
17
3
1
)などが作られた。これらは外
国語の研究のみならず、ロシア語そのものに対する反省や外来語の正しい知識の普及に大いに貢献した。
多民族国家ロシアにとっては、文化の統ーと発展のためにも、ロシア語の規範的な文法と正書法の確立が
求められた 。 1696年オクスフォードにおいてドイツ人ルドルフ (1655-1712) の『ロシア文法~ (ラテン語でロ
シア文法を説いたもの)が刊行された。 これは口語のロシア語を対象として書かれた最初の文法と言われて
いる 。 また、上記の『ラテン語・ドイツ語・ロシア語項目別単語集』を編集したコピエフスキー(白ロシア
7
0
6年シュトルツェンベルグにおいて『スラヴ的ロシア語またはモスクワ語文法入
人と推定されている)も 1
門~ (ラテン語で書いたロシア文法)を出版した。 これは教会スラヴ語の影響の比較的強い雅文体の語棄を多
く記述しているが、ロシア語的特徴を観察したものになっているといわれる。さらに、ポリカルポフの文法
(
1
7
2
1年)、マクシーモフの文法 (
1
7
2
3年)があり、これらはいずれも教会スラヴ語の文法であったが、それに
98
教育学者ポグダーノフのテキス卜作り
もかかわらず言語学的知識の普及と正書法の一定の規範化をもたらしたという点で、功績があったと考えら
れている。
1730年にはペテルプノレグで、ゴ、ルリツキー (1688-1777) の『ロシア文法~ (ロシア語文法をフランス語で説
明したもの)が出版された。著者は科学アカデミーの翻訳官で、フランス語およびラテン語の翻訳に従事し
ていたが、アカデミーのギムナジウムが創設されるとそこでロシア語並びに外国語を教えていたといわれる
(ボグダーノフは彼の教えを受けたと推察される)。 ゴルリツキーは上記のワイスマンの『ドイツ・ラテン・
9
7
1
b Wロモノーソフ以前の二つのロシア
ロシア語辞典』のロシア語の部分を作成した。彼の文法書は村山 1
文法』に写真版で収められている 。 なお、ゴルリツキーとともにアカデミーの翻訳官で、あったアドドワロフ
(1709-1780) は、ワイスマンの『ドイツ・ラテン・ロシア語辞典』の付録として、『ロシア語初歩~ (
17
3
1年
、
ペテルプルグ)を書いた。彼はスラヴ語とロシア語とを明確に区別して、現実に即した記述をしたといわれ
る。
7
1
7年に出版された『青年の正しい鏡または日常の交際への指針』
その他この時期の興味深いものとして、 1
がある 。 これは、若い貴族に礼儀作法を教えるものであったが、ここでもその重要な要素としての正しい話
し言葉に注意が向けられた。
ピョートル大帝は、啓蒙君主としてロシアの後進性を脱却するために、外国の進んだ知識の吸収を奨励し
たので、上述のように文明開化の時流は大いに盛り上がった。またこの時期には、一般啓蒙的な種々の機関
7
0
3年には最初の新聞である『モスクワ国およびその他の周辺の国々
や純学術的な機関の設立も相次いだ、。 1
7
2
4
年に
に起こった、知り、記憶するに値する、軍事およびその他の事柄についての報知』も発行された。 1
7
2
5年 1
月 28日、ピョートル大帝は 5
3歳で、没した
はロシア科学アカデミー創設案が出された。残念ながら、 1
4
1歳)が後を継ぎ、この年、大帝の遺命によりロシア科学アカデミーは設立さ
が、妃のエカチェリーナ 1世 (
れた。
1
7
2
7年 5
月 6日、女帝エカチェリーナが没し、ピョートル 2世(ピョートル大帝によって殺されたアレクセ
2歳で即位した。皇帝が代わり、寵臣が交代するたびに、政策も何度か急転回した。ピョー
イ王子の子)が 1
トル大帝の改革路線の推進派と、ロシアをピョートル以前の状態にもどそうとする復古派の激しい争いが続
いた。
ピョートル 2世が 1
7
3
0年 1
月1
7日、天然痘で没し、従姉アンナ・イワノヴナ (
3
7歳)が即位した。彼女はイ
ワン 5世の娘で、ピョートル大帝の姪で、ある 。 ピョートル大帝の東方進出と西欧化政策は継承されることに
なった。第 1節で述べたべーリングの第二次探検は 1
0年の歳月を要したが、イワノヴナ女帝の治下の 1
7
3
3年
にペテルブ、ルグを出発したのであった。第一次のときよりも計画は拡大され、シペリアの北氷洋岸の調査、
自然・歴史・民族の学術調査、カムチャツカから日本までの距離の確認などが加えられていた口
3
.ゴンザとボグダーノフとの出会い
当時の行政・司法の最高機関は元老院(セナート)で、あった。 その元老院議員の一人に M . G・ゴロフキン
(
16
9
9
1
7
5
5
)がいた。彼はロシアの初代宰相 G・I・ゴロフキン伯爵の三男 (
注2) で、外交官となり、 1
7
2
2
2
5年
にベルリン駐在のロシア大使を務めた。ピョートル大帝の死後帰国し、イワノヴナ女帝の治世(17
3
0
4
0
)に
最も活躍した。女帝の信任を得て、元老院議員、造幣局長などを務め、当時権勢をほしいままにしていたド
イツ出身の寵臣ピロンの政策に反対した。彼は数カ国語を話し、国際感覚も鋭く、歴史や経済にも興味を持
ち、科学と教育に通じていた、いわば当時の文化人政治家であったらしい。したがって、彼の発言は女帝や
当時の元老院に対して大きな影響力をもっていた。
そのゴ、ロフキンが、カムチャツカ海岸に漂着した日本船についての情報を得て、ゴンザとソウザを首都に
7
3
3年、ゴンザと
移送して予備教育をした上で、彼らの日本語の知識を活用することを元老院に提案した。 1
月2
4日ジョロボフ副知事の随行書簡と共にトボリスクへ護送され (
2週
ソウザはイルクーツクへ召還され、 3
1日モスクワのシベリア庁へ移送(l週間滞在)、元老院の裁量に委ねるために首都ペテルプル
間滞在)、 4月 1
グへ急送された。元老院はただちに彼らについてイワノヴナ女帝に奏上し、ゴンザとソウザは夏の宮殿で女
帝に謁見した。女帝からは彼らが経験したことについて自ら御下問があった。 4年間ロシア人たちと暮らし
9
9
上村忠昌
ている聞に、彼らは必要に迫られである程度ロシア語を解し、ロシア人の風俗、習慣にも通じていた。特に
ゴンザはロシア語をかなり話したので、女帝は喜んだという。そして、侍従武官長アンドレイ・イワノヴィ
チ・ウシャコフ将軍に、彼らに金子と衣服を支給するようにという命令が下された。後代の大黒屋光太夫が
1
7
9
1年に女帝エカチェリーナ 2世に謁見したのより、 58年も以前のことである。
1734年 1
月1
7日、元老院の上級書記キリロフは、二人を科学アカデミーにやり、画家グ、ゼ、ルに彼らの肖像
画を描かせることにしたという記録がある 。 グゼ、ルはスイス人画家で、同じスイス人でアカデミーの数学者
であったオイラーの岳父である 。残念ながら、その時の肖像画の行方は分からない。
ゴロフキンが意図した予備教育とは、ロシア語を正式に学習させ、聖書を読ませ、彼らをロシア正教徒に
することで、あった。二人はキリスト教の勉強のために、陸軍幼年学校付属の修道士達にあずけられ、同年 1
0
月20日に洗礼を受けた。 ゴンザはデミアン・ポモノレツェフ、ソワザはコジマ・シュリツというクリスチャンネ
ームを授けられた。洗礼名のデミアンとコジマはロシア正教の昔の聖人の名に由来し、ポモノレツェフとシュ
リツは洗礼式で代父役を務めたワシリー・ポモルツェフとステファン・シュリツ(元老院の代表の資格で出席
していた少尉補)の姓にちなむものであった。 当時の日本は、厳しい鎖国の中にあり、キリスト教は禁じら
れていたから、この時点で、二人は帰国をあきらめ、ロシアで生きていく決意をせざるを得なかったわけであ
る。特に若く才能があるとみられたゴンザは、さらにアレクサンドロ・ネフスキー修道院付属の神学校に入
学させられた。
ゴロフキンは、 1
7
3
5年秋には初めの予備教育は終わりに近づいたと判断して、そのうちに彼らから何らか
の効用を得るため、彼らの身柄を科学アカデミーに移すという新しい提案をした。 1
1月4日、女帝の勅令で
元老院は次のことを命令している。元老院にいる日本人コジマ・シュリツとデミアン・ポモルツェブを科学ア
カデミーに送り、その故国の状態について尋ね、詳しく記録し、元老院に提出することというものである日
現在、アカデミーの手書き原稿の中に、日付も署名もない「サンクト・ペテルブルグに居て科学アカデミー
に所属していた二人の日本人の日本の国に関する簡単な報告 J が保存されている 。
1735年 1
1月26日、科学アカデミーに移籍された二人は、 1日1
0カペイカの給料を受け、ロシア語その他の
勉強に励むこととなった。この時、ゴンザは 1
7歳、ソウザは42歳であった。ゴロフキンは、二人が日本語教
師の役で登場することを期待していた。
ゴ、ロフキンは、その後、ゴンザは絵を描く勉強をし、ソウザは製本を学んでいるという知らせを受けると、
そのような状況下では、自分が期待していたいかなる効用も望めないと考えた。 そこで 1
7
3
6年4月 1
3日、ゴ
ロブキンはあらためて元老院に対して警鐘を鳴らし、次のような提案をしている。
①ポモルツェフ(ゴンザ)はロシア語の読み書きを習得したが、シュリツ(ソワザ)はロシア語の能力が劣る 。
ポモルツェフが母国語を忘れないように、彼らを一緒に住まわせねばならない口 (ゴロフキンは、ゴンザを
優れた日本語教師にすることを意図し、そのためにも、ソウザには彼の能力にも適った又とない日本語の持
ち主という役割を与えている。)
②両名の日常生活に配慮し、衣服と給料を支給すること。特にポモルツェフ(ゴンザ)に対しては、彼が刻
苦勉励するよう定期昇給させる。一定の秩序が保たれた生活様式の中に常に居るようにさせ、成年に達した
時には結婚させ祝い金を贈ることが必要である。(ゴロフキンは、二人の日本人にとって、遠く故国を離れ、
慣れない環境とロシアの厳しい気候の下の生活がいかに困難であるか、理解していた。この点、若いゴンザ
は新しい環境に順応しやすかったし、勉学の方もうまくいっていたので、ゴ、ロフキンは主にゴンザの方に望
みをかけていたと思われる。)
③キリスト教への信仰をいっそう確固たるものにするため、ポモルツェフ(ゴンザ)は幼年学校付属の修道
司祭のもとへ定期的に通い、聖書の教えを認識するのに適したものを読むよう指示する 。 (ゴ、ロブキンは、
日本人のゴンザにキリスト教世界を深く認、識させるために、ロシアの民衆の歴史・生活習慣・風習をも学ば
せようとしたらしい。)
④取り敢えず、明敏な頭脳を持つ兵士の子弟二人をポモルツェフ(ゴンザ)に任せ、徐々に日本語を教えさ
せる。
⑤将来、日本と接触した場合、ポモルツェフ(ゴンザ)に望みを託すことも可能である。彼は日本人である
が、キリスト教の教義に確信を持ちつつあるから、ロシアの利益に背かないであろう。(通訳の養成は困難
100
教育学者ボグダーノフのテキスト作り
かつ長期間を要する事業であるから、いざという時のための、ゴロブキンのゴンザへの期待は大きなものが
あったであろう。)
⑥両名が漂着後捕虜になったとき、少なからぬ日本語の書籍が奪われたという申告がなされている。これ
1
7
3
5年、科学アカデミーで二
らの書籍を探し出し、ポモルツェフ(ゴンザ)にロシア語に翻訳させること口 (
人は、船の積み荷の中に自分たちが持っていた日本語の書物がかなりの数あったこと、それらのかなりが海
中に沈んだが、残りはシティンニコフに奪い取られて上カムチャツカ要塞に運び去られたことを報告してい
た。)
以上の勧告とともに、ゴロブキンは、「ロシアには現在、日本語を話せる人は誰もいなし、。べーリング隊
長、あるいは他の誰であれ、日本への航路発見のために派遣されている者が日本に到達し、ロシアとの交易
が始まることもあり得るが故に、日本語の専門家がきわめて必要である。 J と述べて、ペテノレプルグに日本
語学校を開設することの必要性を力説した。
7
3
6年 5
月1
0日、元老院によって承認され、 5
月2
5日イワノヴナ女帝の裁可を受け
ゴロフキンの上申書は、 1
た。 これにしたがって、元老院は、①二人の日本人を監護し、日本語教師として重用すること、②彼らの生
徒として兵士の子弟二名を選抜すること、③紛失した日本の書籍を探索し、元老院に送付すること、④日本
人教師二名の俸給を増額すること、⑤キリスト教の信仰を堅固にするため、日本人たちは修道司祭のもとに
通うこと、などを内容とする指令を各方面へ発した。 この結果、ゴンザとソウザの給与は 1日 1 5カペイカ
に増額された。 また、生徒として、ペテノレブ、ルグ守備隊付属学校からアンドレイ・フェーネフ(サンクト・ペ
テルブノレグ連隊に編入されていた)と、ピョートル・シェナヌィキン(コポーリスキー連隊に編入されていた)
の二人が選抜され(し、ずれも父親を軍事勤務で失った孤児)、 6月4日彼らは科学アカデミーに派遣された。
1
6
9
7
日本語学校の開校と運営は、正侍従ヨハン・アルプレヒト・フォン・コルブ男爵に委任された。コルブ (
1
7
6
6
)は、イェナ大学卒で、信仰に関して自由思想の持ち主として知られていた。彼は歴史学、考古学、古
7
3
4年から科学アカデ
銭学などに対する学問的関心と、すぐれた組織者としての能力とを兼ね備えていて、 1
ミー総裁の職責を果たしてきた。コルフは、日本語学校の行政機構を作成し、その主任の職責を新設して、
9
2
1
7
6
6
)を主任に任命した。 1
7
3
6年 6月2
5日付のコルフの命令
アンドレイ・イワーノヴィチ・ボグダーノフ(16
には、 二人の日本人と二人の生徒はボグ、ダーノフに扶養を任せること、彼の監督指揮の下で二人の日本人は
ロシア語を、二人の生徒は日本語の読み書きをマスターしなければならないこと、その学習は刻苦勉励をも
って行い、厚かましい言動、余分な娯楽、我が億を許してはならないこと、彼らを畏怖させておくこととな
っいる 。一方、必需品(本、参考書その他)に関しては科学アカデミ ー事務所に上申書を提出するよう命じて
し1る。
4
. 日本語学校校長ポグダーノフ
上述のような時勢の要請の下に、科学アカデミー総裁コノレフの信任を得て、日本語学校の管理主任(以後
は「校長」と言うことにする)として白羽の矢を立てられた A ・I・ボグダーノフとは、どのような経歴の人
物だ、ったのであろうか。
6
9
2年頃、火薬職人の息子としてモスクワで生まれたようである 。 1
7
1
2年から 1
7
1
9年にわたって火薬
彼は 1
業で老父の代わりをつとめ、三十歳代半ばで学問に志して首都ペテルプルグ、の科学アカデミー・ギムナジワ
7
2
6年に開校された)に入学したらしい。彼は 1
7
3
0年 1
1月 1
2日
ム(ペョートル大帝の確認した設置案によって 1
付の科学アカデミー宛請願書の中で「すでにロシア語文法、ラテン文法を少し勉強しました。 また絵画も少
し勉強しました J と書いている 。 その後、人事局と宗務院の両方の印刷局の印刷所に勤務し、本の出版と装
丁に従事していたこともあり、きわめて多彩な才能の持ち主であった。苦学力行の人で、科学アカデミーに
日本語学校が組織された当時、彼は司書補として科学アカデミー図書館ロシア部門を実質的に管理していた。
印刷本、手書き本および重要美術品の収集が仕事であった。 さらに彼の任務には、非常に幅広い職務が含ま
れていた。すなわち、科学アカデミーのために書籍および手書き古文書を入手し、専門家としてそれらを評
価し、スラヴ、ラテン、スウェーデン、オランダその他の資料を分類したが、その中には中国と日本に関す
る情報も含まれていた(彼はサニマに日本語を習っていた可能性もある)。 その他に使徒行伝索引を著し、ま
10
1
上村忠昌
た首都ペテルブノレグの初期の状況を記述して、多くの図やプロスペクト(風景画)を添えた。 ロシア字母の作
成とその特性に関して論理に適った初等読本も書いている 。 この碩学にして能吏で、あった人物は、以上のよ
うな職務に加えて、 1736年の 6月から日本語学校の校長をも務めることになったわけである 。
ところで、 1735年 1
1月 26日、科学アカデミーに移籍されたゴンザとソウザは、その後、日本語学校が開設
される 1736年 6月 25日までの 7カ月間、ロシア語の勉強とともに、ゴンザは絵を、ソウザは製本を学んでい
たことになる 。 この二人が勉強した内容は、ボグダーノフの経歴から察するに彼が得意とした分野である 。
もしかすると、すでにボグダーノフは二人の面倒をよく見てくれた人であり、日本語も少しは解するように
なっていて、日本語学校の校長任命はその延長線上にあったのかもしれない。
日本語学校では、開校後まもなく変事が起こった。 ボグダーノフは、自分に託された人々に関するすべて
7
の問題について報告書を書き、その報告にしたがって総裁コルブはさまざまな決定を下していたのだが、 1
36年 9月 30日、ボグダーノフは、ポモルツェフが規定の給与以外に 3ルーブル70カペイカを彼から受け取り、
自分の友人コジマ・シュリツの埋葬に使ったと報告している 。ソ ワザが死んだのである 。やや年輩のソワザ
8日、享年 43歳で、あった。イワノヴナ女帝は「死
にとって異国の生活は耐えられなかったのであろう、 9月 1
んだ日本人がベッドに横になっている姿を描かせ、また雪花石膏型を彼の顔から取って、両方をクンストカ
ーメラ(美術品陳列室)に保管するよう J命令した。画家ブ、ルッケルが、死亡したソウザの姿を描いたことは
記録にあるが、その絵の所在は不明である 。現在、 ピ ョートル大帝名称人類学・民族学博物館(クンストカー
メラ)には、ソウザの蝋製首像が保管されている 。 ソウザの遺体は、ペテノレブルグ海軍省広場にある主の昇
天教会の墓地に埋葬された。
5
.ポグダーノフのテキスト作り
ソウザが死んで、日本語教師としてはゴンザだけが頼りとなった。 カムチャツカで奪い取られたという日
本語の書籍類の行方について、元老院は 2年間にわたってシベリア県事務局に催促状を送り、その回収を厳
命していたが、それらはついに回収されなかった。したがって、それらを日本語研究の基礎資料とする望み
は絶たれた。今やゴンザの日本語だけが頼りで、あった。彼の日本語をどのような形で教材に作り、どのよう
な教授法でロシア人生徒を日本語通訳に仕上げるかが問題であった。
科学アカデミー総裁コルフから日本語学校長ボグダーノフに与えられた命令も、上述のように、二点であ
った。すなわち、預けられた日本人とロシア人子弟を扶養しながら、彼の監督指揮の下で日本人にはロシア
語を、ロシア人生徒には日本語の読み書きをマスターさせなければならないというものであった。 もちろん
彼自身も日本語を研究せざるを得なかったであろう 。 これらのことを同時並行させながら別々にやるのは、
効率が悪いし、またそのような時間的余裕もなさそうであった。 ソウザの死去の例もあるし、若いとはいえ
ゴンザの身にいっ何が起こるかも分からない。また、なによりも時勢の要請が切迫していた。第二次のベー
リングの北方探検もシパンベルグ、の日本近海探検も着々と成果を上げつつあった。 ロシア語と日本語の通訳
の養成は急務であったのである 。
チーム・ティーチング・アンド・ラーニングしか方法はない。お互いが先生となり、生徒となって、教えあ
い、学びあうしかない。言葉を覚えることは、事柄を学ぶことであり、文化を理解することで、あって、異国
人同士の場合は容易なことではない。 ボグダーノフは、日本の南端の薩摩から来た漁師の息子ゴンザに、西
欧の近代的な知識、教養を身につけさせながら、ロシア語を教えなければならなかったわけだが、彼はゴン
ザにロシア語の教材を母国語の日本語に訳させる作業を通して教え、ロシア人生徒にはゴンザの翻訳作業に
立ち会う中でロシア語と日本語の相関を理解させていったのではなし、かと思われる 。具体的な方法として、
どういう教材を使ってそういう作業をさせるかが 一番の問題であったろう 。
ボグダーノフ自身、一介の火薬職人の息子という身分から苦学力行して、現在の学識教養の豊かな高官に
至った身で、あってみれば、自分の実体験の中にこそ、効果的な学習法と教授法とが思い当たったにちがいな
い。 まずは、自分が学んだギムナジウムにおいて、ラテン語その他の外国語を習得したときの経験が思い浮
かんだであろう 。
ボグダーノフが学んだ創立当時の科学アカデミー・ギムナジウムでは、コメニワスの『開かれた言語の扉』、
102
教育学者ボグダーノフのテキスト作り
『開かれた言語の前庭』や『世界図絵~ (注 3) などが教材として使われ、上述のポリカルポフの『項目別小辞
典』や『三カ国語辞典』などが学習辞典として用いられ、ゴ、ルリツキーがロシア語文法を教えていたと察せ
られる。特に、コメニウスの著作から、ボグダーノブは大きな影響を受けたと思われる。
ここで必要な範囲で、コメニウスの教育思想について見ておこう 。 コメニウス(母国チェコ語名 JanAmos
Comeniusはラテン語式)は、今の小・中・高・大学に似た学校段階はもちろん、その前
Komensky,1592-1670,
後の階梯をも含めた生涯教育を提唱して、教育学に系統をつけた最初の人で、近代教育学の父と呼ばれてい
る。 実物の観察や経験を重視し、言語や法則も子供の成長に応じて、易より難へ、簡から繁へ及ぼす教授法
をとった。 また、生活に役立つ体系的な知識、すなわち普遍的知恵(汎知)を、男女の別なく、身分の上下を
問わずに身に付けさせようと、普通教育の普及に尽力した人である 。
『聞かれた言語の扉~ (
16
31刊)の「教養ある読者への序 J に次のように書いている 凸(注4)
「今日まで、言語を伝授すべき真正の方法は学校において十分には認識されていませんでした。学芸に一生
0年以上の歳月を費やしました。 いやそれどころか、この上なく
を捧げたたいていの者は、ラテン語だけに 1
だらだらと生涯全体を費やして、それによって衰えてしまい、しかも、その苦労に報いる成果はありません
でした。
青少年は、無限に長々しく、煩雑な、暖昧な、大部分が役にも立たない文法・公式に数年間も拘束されて、
忙殺さえさせられていました。 また同じ年数をかけて、さまざまの「事柄 J を抜きにして、そのさまざまの
事柄の「実名詞 J を詰め込まれました。児童が 100万個の「実名詞 j を暗唱したとしても、それをさまざま
の「事柄 J に結びつけることを知らなかったら、その装置はどんな有用性を持つことになるのでしょうか。
言語学習のために、それほど多くの年月を過ごすとすれば、 一体いつになったら現実の事柄に進めるので
しょうか口さらに大きく言えば、いつになったら、「教会 j と「国家 j の福祉のために、「学識 J の実践を
実行できるというのでしょうか。
ですから、すべての者の願望として望まれなくてはならなかったことは、「言語」全体の何らかの要約を
連 語 J の数がいかに多くても、短時間のうちに、かっ限ら
構成することです。その要約とは、「語桑 j と I
れた労力で把握されるものを一つのまとまりにしておき、それが、容易な、快適な、安全な、実際の「著作
家の書」に則って書き換えられた様子を見せているものです。
「理解力 J と「言語 J とを常に対応して進むようにさせることは、また「事物 Jを把握した分だけ「言葉 j
で言うことに馴れるようにさせるということは、私にとっては「教授学 j の不動の法則です。ですから、ど
うしても行われるべきだと私が考えましたのは、全「事物」界そのものが、子供の受容力に応じた一定の学
年ごとに配分されるように、またそれと同じやり方で、「言葉 J で描き出されるべきさまざまの「事柄」そ
のものも「表象の部分 J にまず最初に刻み付けられるようにする、ということでした。 そこから、 100個の
この上なく日常的な事柄の表題が作られました。
そのすぐ次に気遣ったのは、「辞典」をひも解し 1て、比較的頻繁に使われる「語葉」を選び出し、それを
さまざまの「事柄」を言い表すために整えるということです。 その整え方とは、必須の事柄は何ーっとして
省かれていず、また、その箇所で求められているもの以外には何ーっとしてそこに置かれていることがない
ようにする、ということでした。したがって、およそ 8000個の「実名詞 Jを 1000個の「事例文 j にしました D
その事例文は、最初は短く一音節だけの語棄で、後にはさらに長く多音節のもので形成しました。
児童の最初の概念として、すべての「語葉」が、本来的な意味を伴って現れるようにさせました。 「同音
異義語 J だけは例外ですが、どの語葉をも一度しか使いませんでした。「同意語 j や「反意語」はたいてい
すぐ近くに並べておき、かつ、一方が他方の本来の意味を解き明かすように整理して置きました。また、「文
性JI
転
法 J も補助手段になるようにさせるために、「統語法」の構文ばかりでなく、「語原学的」属性( I
尾J I
活用」等々)も示唆してくれるように、「語糞」を組み合わせようと企てました。
「母国語 J (私たちにとってはチェコ語)のものを「ラテン語」のものに対応させて、両方の言語のすべて
の語幹が、重要な派生語や合成語と一緒に、本来の意味を伴って現れるばかりでなく、やがてそこから比喰
が発生し、ひとりでに理解できるようにもしたのです。
このようにして
さまざまの「事柄 j そのものというしっかりとした戸口でうまく固められ、「辞典」と
いう滑らかな蝶つがいによって素早く開き、「文法」という即効性のある鍵で即座に開示される『言語の扉』
103
上村忠昌
をやがて持てることになるということが見て取れます。
この小品を、「言語の扉」とだけ標題を付けるよりも、「言語と学芸の苗床 J という標題を付けようとし
ました。なぜなら、ここではさまざまの「事柄 j と「話法」とに等しい配慮、がなされているからです。また、
「語桑J と「連語」の無限の堆積に確かな根拠が提供されるようになっているからです。また、そのやり方
によって、「教養 j と「作法J と「敬度な心」全体の第一にして基礎的な概念、が形成されるようになってい
るからです。以上の事柄が目標であった、と申しているのです。」
以上すこし長くなったけれども、ここにはコメニワスの言語教育の基本理念が余すところなく述べられて
いると言ってよい。そのような理念、の下に作られた『言語の扉』で、はあったが、初心者には少し難し過ぎた
のではなし 1 かと懸念したコメニウスは、『言語の扉』へ導くための『開かれた言語の前庭~ (
1633年刊)を準
備してやった。文章構成も、『扉』は 1000個の事例文から成り、 一つひとつの文も比較的長かったのに対し
て、『前庭』は 427個の短文で成り立っている 。その「読者への挨拶」で次のように述べている 。(
注5)
「私は、あの『言語の扉』の序文で、それがラテン語の初心者にピッタリしたものであると証言しました。
そのことは、皆さんからも同じように受け取られました。 しかしながら、私は今では、あれほど多量の「事
柄」や「言葉」の中に予備知識もなく「初心者」を送り込むということは恐るべきことだと考えています。
ですからここで、それを極端ではないようにさせようとしているのです。
さまざまの「事柄」と「言葉Jの最高の要点である構造全体のうちの 一般的なものは、『前庭』に留めて
おいて、それを先に示してから、その後で、個別的なものを調べるように導いた方が安全だ、
ったのではない
かと思っているのです。
このような理由でこの小品を書き上げて、それを、まったくの「初心者」にとって、「語尾変化J と「活
用」とを練習し、かっ『扉』そのものに近づけるようになるための最初の教材となるようにしました口
実際、私は子供にとってラテン語をもっと容易に親しみのもてるものにするために、子供らしし、「会話文 j
を若干提示した方が良いのではないだ、ろうかとも臨時しました。 しかし、ここでは『扉』の形式を維持した
のです。すなわち、本当に『扉』の予備となるようにする、言い換えると、さまざまの「事柄」を本来的に
描写するという技巧を維持したのです。 なぜなら、ラテン語を学ぶ際に、最初から子供をラテン語を喋るこ
とに慣らすように努力するのではなく、本来の意味を一つずつ理解することを学ばせるように努力しなくて
はならなし、からです。」
このように、コメニワスにおいては、初心者に対してもその言語教育は、単に喋れるようになるための「会
話教室」ではなかったのである 。『扉』の「序Jの最後でも述べていたように、「教養J と「作法 j と「敬
度な心 j 全体の第一にして基礎的な概念が形成されるようになっているのである 。 この点、は、ボグダーノフ
においても、基本理念になったのではなし、かと考えられる 。
なお、コメニウスは、その後、『言語の扉』に改訂を加え、より体系化した上で、挿し絵を付けて再編成
した『世界図絵~ (
1
6
5
8年刊)へと発展させた。すべての人に親しめるように、挿し絵を付けたばかりでなく、
内容的にも事物と名称、を整理して、表現にも工夫がなされている 。その『世界図絵』の「読者への序言 Jで
次のようにも述べている 。(注6)
「この本は、それぞれの国においてその国の言語で使用されるなら、母国語全体を土台から完全に習得する
ととに役立つでしょう 。なぜならば、前に述べた事物の記述によってすべての言語の単語と語句は順序正し
くその位置を定められているからです。そして簡潔な母国語の文法を終わりにつけ加えることも可能です。
それはすでに理解されている言葉を部分にはっきりと分解し、個々の単語の変化を示し、そして確かな規則
にのっとって結合するものです。そこから新たに有益なことが生じてきます。すなわち母国語の翻訳がラテ
ン語の学習をいっそう敏速で楽しいものにするのに役立つということです。J
以上見てきたように、コメニウスの教育の理念は、「あらゆる人にあらゆる事柄を、生徒にとっても教師
にとっても、容易に・楽しく・敏速に学び、教えられる方法」と「教えることは学ぶことである j がモット
ーで、あった。ボグダーノフは、かねてからこのコメニウスの教育理念、と教授法に共感してしていたと思われ
るが、日本語学校の校長という職責を負ったとき、早速その具現化に取りかかったであろう 。いや、その校
長に任命される前の 7カ月間、先にも述べたように、ボグダーノフがゴンザとソウザにロシア語を教えてい
たとしたら、彼の教授法はすでにコメニウス式であったろう。
104
教育学者ボグダーノフのテキスト作り
6
.ボグダーノフとゴンザの著作
現在、ロシアのサンクト・ペテルブノレグにある科学アカデミー東洋学研究所の古文書部には、ボグダーノ
フとゴンザの協同作成になる次のような 6種類の著作が手書きのまま遺っている口
(1)項目別露日単語集(以下『単語』と略記)(注 7)
(2) 日本語会話入門(以下『会話』と略記)(注~
(3)新スラヴ・日本語辞典(以下『辞典』と略記)(注
(4)簡略日本文法(以下『文法』と略記)(注
9)
(
1
7
3
6年9月 29日-1738年 1
0月27日)
(
1
7
3
8年)
削
(5) 友好会話手本集(以下『手本』と略記)(注
(
1
7
3
6年)
(
1
7
3
6年)
(
1
7
3
9年)
1
1)
(6)世界図絵(以下『図絵』と略記)( 注 凶
(
1
7
3
9年)
これらの著作を一覧しただけで、ボグダーノフがコメニウスの教育思想、の信奉者であり、その実践家であ
ったことは明白である。これらの著作はその具現化である。
特に、『会話』と『図絵』は、コメニウスの『開かれた言語の前庭』と『世界図絵』を元にしたものであ
る。従来、コメニウスのこれらの著作は、諸国において母国語と対比させた形で、ラテン語を習得するため
の教科書として用いられてきた。ロシアの科学アカデミー・ギムナジウムでも、おそらくラテン語・ドイツ語
対訳本を借用して、ラテン語の授業がなされていたであろう。ボグダーノフもコメニウスのラテン語をロシ
ア語に翻訳する中でラテン語を習得していったと思われる。今回は、その方法を応用して、ボグダーノフが
先ずロシア語に訳し、それを日本語に翻訳させながらゴンザにロシア語を学習させたわけである。ボグダー
ノプはゴンザにロシア語を系統立てて教えながら、ゴンザのロシア語の才能を最大限に引き出していったと
思われる。それは同時に、日本語学校における相互学習の生きた授業にもなり、すばらしいテキスト作りに
もなったはずである。コメニウスの教育思想、の具現化で、あったばかりでなく、みごとな応用であったと言っ
てよい。もちろん、コメニウスの著作がロシア語に訳された最初のものであり、最初の日本語訳でもあった。
6種類の著作のうち最も大作の『辞典』は、 2年 1カ月を要して完成しているが、その編集に取りかかっ
1日目である。ゴンザたちは悲しみを乗り越えるためにも、また、準備段階で
た日付は、ソウザが死去して 1
はソウザも加わっていただろうから、その鎮魂のためにも急いで取りかかったのであろう。特に、遭難から
没前の 7年間ソワザと起居を共にしたゴンザにとって、彼から教えられた豊富な日本語語棄はかけがえのな
いもので、あったはずである。日本人は自分たち二人だけしか居ない異国にあって、他には日本語を使えない
極限状況で、あったからこそ、二人は常に渇望感からお互いに日本語を確かめ合ったであろう。その中で、ゴ
ンザはロシア語の上達だけでなく、日本語にも上達していったに違いない。ソウザは、雇われて御用船に乗
っていた案内役の商人であったし、米や絹織物の大阪市場でも大阪商人に引けを取らないほどの才知の持ち
主であったろう。ゴンザはそのようなソウザの知識と教養を吸収したと思われる。
この『辞典』は、約 1万 2千語のロシア語を各ページの左半分にアルファベット順に置き、その右側に対
応させて日本語訳(純然たる鹿児島方言訳)がロシア文字で付けてある。いくつかのロシア語単語が同一の日
本語で訳されている場合が少なくないので、日本語の異なり語数は 1万 2千よりもずっと少ない。左右とも
ゴンザのものと思われる同じ筆跡である D 正書法はゴルリツキーに依ったものである。本文は実質 763ペー
9日開始、 1
7
3
ジにもわたっていて、最後のページの終わりにはゴンザのものと思われる筆跡で 11736年9月 2
8年 1
0月 27日終了 J と記されている。なお、表の紙にはボグダーノフのものと思われる筆跡で「日本語学校
主事アンドレイ・ボグダーノフによって」と書かれている。これは世界で最初のロシア語と日本語の辞典(正
確に言うと「露薩辞典 J )である。
最初の著作である『単語』は草案本と清書本とが遺っているが、その清書本の表書きに、「アンドレイ・
ボグダーノフの監督と共に教授を受けて日本人によって 1736年に書き写された」という意味のボグダーノフ
の手慣れたロシア文字が記されている。 1738年の『文法』や 1739年の『図絵』にも同様の表書きがあって、
そこでボグダーノフはいつも「監督 J と「教授」のことを明記している。ボグダーノフの凡帳面な性格が窺
える。日本人たちに対する扶養監督とロシア語教授とが総裁コルフから与えられた命令で、あったわけだから、
ボグダーノフはその職責を果たしていることをアピールしているのである。
この『単語』は、『辞典』の前段階として作られたと思われる。井桁 1986によると、ボグダーノフとゴン
105
上村忠昌
ザは、まずポリカルポフの『項目別小辞典Jl (
17
01)からこの『単語』を作り、続いて同じポリカノレポフの『三
カ国語辞典Jl (
17
0
4
)を土台として『辞典』を編んだということである 。そして、井桁氏は、『単語』と『辞
典』との間で訳語が異なる場合が散見されることから、『単語』は「ソーザ存命中の共同作業の成果ではな
いか J と推測している 。私も同様に考える 口
7
2
2の見出し語が、第 1章「神と聖霊 J から第 3
5
なお、ポリカルポフの『項目別単語集』は、名詞中心の 1
章「村」までの 3
5項目に分けられて終わっている が、これに対してボグダーノフたちの『単語』は、類似の
3
5項目を立ててはいるが、名詞中心の見出し語は 970に精選している 口逆に、その後に形容詞・数詞・代名
詞・動詞・面IJ詞の 5項目を新たに立てて、 298の見出し語を増補し、多彩な分野の語棄に広がっているのが
大きな特色である D 単なる辞典ではなく、 言語学習書の意図が強化されていると言ってよい。 この品詞別項
目を立てたこともコメニウスの影響であろう 。 (W単語』の詳細については、拙稿「ゴンザ『項目別露日単
( 13) を参照願いたい。)
語集』について J注
紙数の都合で、他の『会話』、『文法』、『手本』、『図絵』も含めて、ボグダーノフとゴンザの著作につい
( 14)。
ての詳しい書誌的・内容的な解説は、筆者の別稿にゆずる 注
いずれにしても、ボグダーノフが、大きな時勢の流れの中で、先達の辞典や文法書を参考にしながらも、
基本的にはコメニウスの教育思想、に基づいて、日本語学校の教科書や学習辞典を作成したことは確かである 。
ボグダーノフは、その進取に富んだ生き方からしても、当時においては開明革新の人で、あったろう 。
7
.教育学者ポグダーノフ
ボグダーノフの日本語学校校長としての実績は、教材作りだけでなく、学校経営や教授においても相当な
7
3
9年 7
ものがあったと察せられる 。 ボグダーノフとゴンザは協力して大きな成果を上げたので、元老院は 1
月1
8日に特別命令を発して、日本語学校の成果を指摘し、学校事業を拡大する計画を打ち出している 。すな
わち、通訳の養成を継続し、教育課程は日本語と文字の二課目とするとともに生徒数を 5名に増員すること、
0
0ル
ポモルツェフ(ゴンザ)がロシア語の習得と日本語の教授に素晴らしい成果を上げたので、彼の年俸を 1
ープ、ルに増額するとともに 3人の新入生の教授に対しても特別の手当を約束すること、今までの二人の年長
生徒には、その勤勉さと成果を上げたことに対して、在学兵士の給料ではなく、より高額の正規兵士の給料
にすることなどが述べられている 。 この元老院令は、自分の法案が実現されていく様子を見守り続けたゴロ
フキンが直接参加して作成されたものであった。
7
3
9年 1
2月 1
5日、ゴ
ところが、これほどの成功裏に進んでいた日本語学校事業に致命的な打撃が襲った。 1
1歳の若さで、あった。 この年の冬は史上まれにみる厳寒で、あったという 。
ンザが死んでしまったのである 。 2
父親のような愛情を注いでいたであろうボグダーノフの悲しみはいかばかりであったろう 。 ゴンザの遺体は
画家グゼルによって描かれ、彫刻家コンラド・オスネルが蝋製の首像を作ったと記録されている 。 肖像画の
行方は分からないが、首像はソウザのものと一緒に、現在もサンクト・ペテルプ、ルグの人類学・民族学博物館
(クンストカーメラ)に保管されている 。 ゴンザの遺体はカリンカナ墓地に埋葬された。
ボグダーノフは、ゴンザ亡き後も年長生徒のシェナヌイキンとブェーネフの協力を得ながら、新入生 3人
(チモフェイ・チェレンチェフ、マトヴェイ・ニェポロズジー、ワシーリィ・クラスノイ)の日本語教育を続け
ていったと思われる。しかし、彼の日本語学校はさらに危機的な状況に陥ってしまうことになる 。 それは、
1
7
3
9年 1
1月 1
9日付でオホーツクから送られたシュパンベルグ大尉の報告書によって引き起こされた。第二次
べーリング、探検隊の支隊シパンベルグ隊は、その年の 6月に日本近海に達し、仙台藩の牡鹿半島と房総半島
の安房国天津港で日本人と接触したが、言葉が通じず、いくらかの品物の交換に終わって、引き返した。 日
本側の記録で言えば、いわゆる「元文の黒船 j である。このときシュパンベルグ、らが入手した小判、銅貨、
反物などの品物は当時の博物館であるクンストカーメラに収められ、その一部が現存している 。 シュパンベ
7
4
0年 3月 1
9日、日本語学校のシェナヌイキンとフェーネフ
ルグの報告を受けて、首都ペテルプルグでは、 1
0ルーブルの辞令を受け取った。すなわち、 二人
とが海軍参議会関係の諸機関付日本語通訳に任官し、年俸 5
は第三次シパンベルグ探検隊の通訳官として派遣されることになったのである 。もしゴンザが生きていたら、
ゴロフキンが意図したとおり、ゴンザ自身が通訳官のリーダーに任命されたことであろう 。
106
教育学者ボグダーノフのテキス卜作り
この生徒達の抜擢は、ボグダーノブの日本語学校における日本語通訳養成の実績を示すものでもあったが、
さらに危機は深まった。 1
7
4
0年 1
0月 1
7日、アンナ・イワノヴナ女帝が 47歳で亡くなり、日本語学校の一番の
推進者で、あった元老院議員ゴ、ロフキンもその後の政争で、陰謀に加担したとの無実の罪でシベリア流刑とな
ってしまった白日本語学校そのものも、なぜか科学アカデミーから元老院事務局の管轄に移されてしまった。
さらには、 1754年になると、「将来、日本と通商関係を樹立するのが目的で、海に固まれているその土地や
島々を調査しに、学術探検隊を派遣する準備を整えるため j という理由で、日本語学校はイルクーツク(当
時の東シベリアの政治的中心地で、中国はじめアジア諸国との交易が行われ、太平洋探検隊もここで準備さ
れていた)に移転され、そこの航海学校の中に併設ということになった。
以上のように、日本語学校校長としてのボグダーノブの実績には素晴らしいものがあったにもかかわらず、
首都ペテルブルグにおける日本語学校事業は衰退してしまった。それに伴って、せっかくボグダーノフがゴ
ンザと協力して作成した 6種類の著書も印刷・出版される機会を失った。手書きのまま装丁・製本され、科
学アカデミーに保存はされたものの、その後、古文書部の奥深く埋もれてしまったのである 。不幸にもボグ
ダーノフの功績は具体的にはあまり世の中に知られず、正当な評価を受けるととがなかった。
現在、ボグダーノフは、一応はロシアの歴史人物評伝等で、火薬職人の息子という庶民出身でありながら
学究的エンサイクロペディストで、あった非凡な人物、初期の文献学者、歴史家、言語学者、書誌学者、民俗
学者であり、かつロシア最初の日本学者であったという評価がなされてはいるが、教育学者の一面はあまり
注目されていないようである 。私はここで、ボグダーノフが、当時の西欧先進国ですでに定評のあったコメ
ニウスの教育思想、を率先してロシアに取り入れた教育学者であり、なによりもその教育実践者であったこと
を顕彰しておきたい。
世によく、ボグダーノブは大学者ロモノーソフ型の人物であったと評されることがある口確かに、ロモノ
ーソフ (1711-1765)は、北部ロシアの農民の息子でありながら、刻苦勉励して数カ国語を習得し、自然科学
にも造詣が深かった。 そして、当時の科学アカデミーが専らドイツ人学者によって占められていたような状
況において、ロシア人によってロシア語で書かれた最初のロシア文法であるとして高名な『ロシア文法~ (
ペ
テルプルグ, 1
7
5
7年)を刊行した。ボグダーノフの『文法』から 1
9年後のことである。もちろんロモノーソフ
の規範文法は、彼以前の文法を集大成したものであり、その後のロシアの言語文化に対して与えた影響の大
きさから言っても、この出版は特筆すべき功績で、あった。ロモノーソフが、科学アカデミーにおいて、親交
のあった先輩のボグダーノブから大きな影響を受けていることは確かである。 (
注 15) 私は敢えて、世に言うの
とは逆に、ロモノーソフの方がボグダーノフ型の学者になっていったと言いたい。
8
.テキスト『日本語会話入門』の作り方
最後に、ボグダーノフのテキストの作り方を、『日本語会話入門』の場合について具体的に見ておこう 。
ボグダーノフが、コメニウスの『開かれた言語の前庭』をどのようにロシア語に翻訳しているか、そのテキ
スト化の仕方を見てみようというわけである。そこには、ボグダーノフがゴンザにロシア語を習得させ、同
時に、ゴンザがロシア人生徒に日本語を教えるための実用的な工夫(コメニウスの教育理念の生きた具現化)
が見られるに違いなし 1からである 。
サンクト・ペテルブ、ルグにある科学アカデミー東洋学研究所の古文書部に保管されてきた『日本語会話入
門~
(以下「アカデミ一本」と言うことにする)は現在まで刊行されたことはない。幸い、マイクロフィルム
の形で、鹿児島県立図書館に帰ってきており、一般に公開されている。なお、ドイツのゲッチンゲン大学のア
ッシュ・コレクション (
注
目
)に転写本(以下「アッシュ本」と略記)があって、そのマイクロフィルムから村山
七郎氏(元九州大学教授)が翻字翻訳して刊行されたものがある(村山 1
9
6
5
)。だが惜しいことに、このアッシ
ュ本からの村山本は二つの段階を経ているために、かなりのダブルミスを含んでいるので、私はアカデミ一
)。 ここでは、その修訂本文を使うことにする。
本のマイクロフィルムで修訂した(注 7
一方、コメニウスの『開かれた言語の前庭~ (
1
6
3
3刊)は、藤田輝夫氏(秋田大学教授)の私家版翻訳書(藤
6
5
7
田1
9
9
5
b
)によるとととする。この藤田訳は、コメニウスの『教授学著作全集』第 1巻(アムステルダム, 1
刊)の写真版(チェコスロバキア科学アカデミー,プラハ, 1
9
5
7刊)からの翻訳である 。
107
上村忠昌
ここでは、両者の相違点だけに焦点を絞って、ボグダーノフの意図を検証していくことにする 。 だが残念
ながら、ボグダーノフがロシア語に訳した元本の『開かれた言語の前庭』が、第何版のどのような本文であ
ったかは分からない 注
(
1
7
)
ので、問題とする相違点も、ボグダーノフの意図によるものなのか、元本の本文
がすでにコメニウスの原著と違っていたことによるのかは厳密には分からない。
私が相違点の検証にこだわるのは、ボグダーノフとゴンザの最後の著作『世界図絵~ (
1739年)では、コメ
ニワスの原著本文を忠実にロシア語訳しているのに、初めの『日本語会話入門~ (
1
7
3
6年)では、かなり大き
な変更が加えられているからである 口 語学読本風の『世界図絵』と違って、『日本語会話入門』はより実用
的な会話書として意図されていると言ってよい。コメニウスの場合とは、教科書としての用途に違いが見ら
れるようであり、これは元本の違いではなく、ボグダーノフその人の意図によるものではないかと思うわけ
である 。
主な相違点を列挙し、検討してみる 。
①書名
コメニウスの原著の書名ないしは表の題名と言うべきものは、『聞かれた言語の前庭 Jとなっているわ
けだが、直ぐ下に「それは、新兵にラテン語に入る最初の入口を用意するものです j という副題も付いて
いる 。
ボグダーノフの『日本語会話入門』には、これらに当たる表題も副題もない。後の③で述べるように、
主意を直接的に表した内題を書名とすれば足りると考えたのであろう 。
②読者への挨拶
原著には、前の第 5節で要約を紹介したような「読者への挨拶」が先ず述べられているが、『日本語会
話入門』には付けてない。 ボグダーノフは、自分たちの場合は、この「挨拶 J の内容については、教授者
が心得ておけばよいことだと判断したらしい。
③内題
原著には、「読者への挨拶 J の次に、
内題がある 。ボグダーノフはこれを
i
]
A
N
U
A
EL
A
T
I
N
I
T
A
T
I
SV
E
S
T
I
B
U
L
U
M
(ラテン語の扉の前庭)J という
iT
Ip e 広 広 B e p H e P a 3 r 0 B 0 P 0 B H n 0 H C K 0 r 0 H 3 h
lK a (
日
本語の会話の戸口の前)J と訳して、冒頭に置き、すなわち『日本語会話入門』という意の表題としてい
る。 コメニウスの内題には無かった、
i P a 3 r O B O P O B (会話の)J という単語が挿入されている点が注
目される 。 とのテキスト作りの意図が明確に示されている 。 単なるお喋り教室の会話集ではなかろう 。 ま
た単なる語学書でもなく、コメニウス流の生活に役立つ体系的な知識、すなわち普遍的知恵(汎知)を身に
付けた通訳としての会話力が第一に目指されているはずである 。
なお、ゴシザは、ボグダーノフのロシア語を、「トグチノマエユコトニフォンノコトパ 注
(
言 う こ と 日 本 の 言 葉 )Jと日本語訳(逐語訳)している 。 TIpe江,ll; B e p H
前
1
8)
(戸口の
e を的確に「トグチノマエ」
と訳しているのは素晴らしい。おそらくボグダーノフが、このロシア語は「入口 J という意味もあるが、
前庭」という方の意味だよと、コメニウスの趣意をふまえて説明してやったので
ここでは「入口の前 J i
あろう 。 ゴンザの優れた理解力や聡明さが窺える 。
④序文
両者とも、③の内題の次に、生徒達に勉学を勧める内容の序文がある 。 ボグダーノフは、コメニウスの
ラテン語文をほぼ忠実なロシア語文に訳している。ただし、原著では、早くもこの序文の一文一文が実名
詞や形容詞などを学習する事例文として位置づけられていて、 1""'5の文番号が打たれているのに対して、
ボグダーノフはあくまで勧学序文として位置づけていて、学習教材としての事例文は次の第一章から始め
るようにしている 。
⑤事例文の章句の区切り方
事例文の作り方については、原著の「読者への挨拶 J でコメニウスは次のように述べている 。
「常用の語葉となっているものを千以上選択し、たいていは二つの陳述内容からできている、この上なく
簡潔な短文にしました。例えば、第一章には「実名詞 J と「形容詞 j ーーを割り振りました。 J
原著の第一章の最初の文(④で述べたように、すでに序文で 1""'5の文番号が打たれているので、第 6
番目の文番号になる)を例に挙げてみる 。
108
教育学者ボグダーノフのテキスト作り
6. 神は永遠ですし、世界は移ろいやすい。
これを、ボグダーノフは次のように訳して、二つの文に分けて番号を打っている 。
1.神は永遠で、ある 。
2. 世界は一時的なものである
D
このように、以下においても、原著の対比的な内容の事例文の一つ一つを、ボグダーノフは 2""'3の章
句に分割している(分割しないで、、 1文どうしで対応している場合もある)。 したがって、両者の最後の番
号は(途中で内容的にかなり違う部分もあるのだが、番号だけで言うと)大きくずれている 。『開かれた言
語の前庭』は 427であり、『日本語会話入門』は 619(番号のダブリが 二つあるから、実質 621)である 。 ボ
グダーノフは、生徒達にとっては、テキストの事例文はより短い方が学習や暗唱がしやすく、効果的であ
ると判断した のであろう 。
⑥章立て
章や項目の立て方にも、両者はかなりの違いがある 。番号と(事例文数)で示す。
『聞かれた言語の前庭』
『日本語会話入門』
前
⋮
庭庭
(なし)
4
削
のの
語拶扉
言挨の
たの語
れへン
か者テ
開読ラ序
(なし)
日本語の会話の戸口の前
序文
(番号なし、文章だけ)
1""'5(5)
I章 事 物 の 属 性 に つ い て
1. 物の性質について
1
"
"
'
3
6
(
3
7
)<31が 二 つ あ る >
6
"
"
'
2
3(
18
)
2
. 色について
色
2
4
"
"
'
2
7(4)
37"
"
'
4
4(8)
3. 味
味
2
8
"
"
'
2
9(2)
4
5
"
"
'5
2(8)
香り
(なし)
30(1)
4. 質について
その他の属性
5
3
'
"
'
'
8
1(
2
9
)
3
1"
"
'
5
5(
2
5
)
比較
(なし)
56(1)
(なし)
不規則変化の比較
57"
"
'
6
0(4)
8
2
8
5(4)
(なし)
派生形容詞
6
1"
"
'
6
2(2)
8
6
"
"
'
9
1(6)
H章 事 物 の 能 動 と 受 動 に つ い て
(なし)
63(1)
(なし)
天にいる者の行為
9
2
"
'
9
3(2)
6
4
"
"
'
6
6(3)
元素の
(なし)
9
4
9
7(4)
6
7
'
"
'
'
7
3(7)
5. 新芽の成長
植物の
9
8
"
"
'108(
1
1
)
7
4
"
"
'
7
9(6)
6. 動物について
動物の
8
0
'
"
'
'
9
2(
1
3
)
1
0
9
-133(
2
5
)
7
. 四肢について
人間の
109
上村忠昌
1
3
4
-175(
4
2
)
9
3
1
1
3(
2
1
)
8. 思い
精神の
1
7
6
-193(
1
8
)
1
1
4
1
2
2(9)
9. 病気について
病気の
1
9
4
2
1
7(
2
4
)
1
2
3
-133(
1
1
)
1
0
. 職業について
技術の
2
1
8
2
7
3(
5
6
)
1
3
4
-175(
4
2
)
(なし)
非人格動詞
1
7
6
1
8
0
(
5
)
E章
(なし)
事物の状況
11.副詞について
副詞
2
7
4
-3
01(
2
8
)
1
8
12
1
1(
3
1
)
1
2
. 前置詞について
前置詞
302""319(
1
8
)
212""229(
1
8
)
1
3
. 接続詞
(なし)
3
2
0
'
"
'
"
'
3
3
1(
12
)
1
4. 計算について
数詞
332""348(
1
7
)
230""245(
1
6
)
N章
1
5
. 学校について
学校における事柄について
349""402(
5
4
)
246""277(
3
2
)
V章
1
6
. 家の物事について
家の事柄について
403""468(
6
6
)
2
7
8
'
"
'
"
'
3
2
0(
4
3
)
1
7
. 町と国について
VI章 都 市 と 宗 教 に お け る 事 柄 に つ い て
469""519(
5
1
)
321""359(
3
9
)
v
n章
1
8
. 敬度
徳について
520""608(
9
0
)<538が二つ あ る >
360""412(
5
3
)
1
9
. 結び
結び
413""427(
1
5
)
609""619(
1
1
)
『開かれた言語の前庭』の方が、知的体系としての構成になっており、章立てや項目分けが細かい。『
日
本語会話入門』は、項目分けを単純にして、通し番号で済ませている 。
不規則変化の比較 J r
派生形容詞 Jの項目が『日本語会話入門』に無いのは、
なお、第 I章の「比較 J r
ラテン語と違って、ロシア語では同様の語法の練習事例文にならなかったのだろうか。 しかし、次のよう
に
、 一部分を短文の形で事例文として残してはいるのである 。
『聞かれた言語の前庭~
IW日本語会話入門』
I(なし)
比較
r
5
6
. 原級 J は「学識のある」です。
「比較級」は「より学識のある j です。
「最上級 J は「し、ちばん学識のある J です。
(なし)
不規則変化の比較
8
2
. 牛は大きい。
5
7
. 雄牛は「大きしリ 。
ラクダは「さらに大きしリ 。
象は「し、ちばん大きしリ 。
8
3
. 雀は小さい。
5
8
. スズメは「小さしリ 。
シジュウガラは「さらに小さしリ 。
ノ¥チドリは「いちばん小さし'IJ。
110
教育学者ボグダーノフのテキス卜作り
8
4
. 良いビール。
5
9
. ビールは「おいししリ 。
J。
蜂蜜は「さらにおいしし ¥
8
5
. 良い葡萄酒。
ブドウ酒は「し 1ちばんおいししリ 。
6
0
. トカゲは「気味が悪しリ 。
蛇は「さらに気味が悪しリ 。
J。
マムシは「し 1ちばん気味が悪し ¥
(なし)
派生形容詞
8
6
. 金貨。
61.指揮官章は「金製」ですし、
8
7
. 銀貨。
ターラ貨幣は「銀製」ですし、
大杯は「錫製」ですし、
8
8
. 鎚は鉄。
鎚は「鉄製 j ですし、
燭台は「真鍛製」です。
6
2
. 玉座は「木製 J ですし、
8
9
. 木の机。
9
0
. 石の壁。
城壁は「石製」です。
『日本語会話入門』は、後々の事例文において も、同様の省略的な取捨選択が多く見られる 。
⑦事例文の対応
内容的に一番大きな相違点は、「接続詞 j の項目である 。 コメニウスは、「読者への挨拶 J の中で、「頻
繁に使われる「接続詞 J と「間投詞 j は至る所にばらまいておきました。J と述べていて、独立した項目
1
3
. 接続詞について」の項目を立てて、 1
2個の事例文を作っている 。
は立てていなし 10 ボクダーノフは、 i
「接続詞」については、ここでまとめて、取り立て学習をした方が効果的だと判断したのであろう 。
次に大きく相違するのは「前置詞」である 。 「前置詞」の項目はどちらにもあるのだが、出だしの 1文
以外の全部をボグダーノフは作り替えている 。それも、 i
3
0
4
. 私は昨日、良い人のところに行った。そ
して非常に御馳走になった。Ji
3
0
5
. モスクワから私に手紙が来て、あそこでは穀物が安いと書いてある 。J
i
3
0
6
. サンクトペテルブ、ルグからモスクワまで何里あるか。」などの身近な事例文にしている 。
ボグダーノフが、コメニウスの事例文を取捨選択するときに、自分達の実情に合ったものにするという
2
5
6
. 先生は教え、
配慮、は至る所に見られる 。 「
学校 J項目についての例を挙げてみよう 。 コメニワスの i
授業料を得ます。」を、ボグダーノフは i
3
6
7
. 先生は学問を教える 。」だけにして、「授業料を得ます」
は削っている 。彼の日本語学校の生徒達は、給費生であり、授業料も取っていなかったからである 。 さら
3
7
0
. 一切無料で教える 。J i
3
7
8
. そして日本の会話を説明する自分の苦
に、コメニウスの方には無い i
労をいとわない。」を追加している 。 これがボグダーノフとゴンザの日本語学校の実際で、
あったからであ
ろう 。
事例文が対応していない点でのもう一つの特色は、コメニウスの方にはキリスト教的な倫理道徳を内容
として盛り込んだものが多いが、それがボグダーノブの方ではかなり少なくなっているということである 。
例えば、章立ての仕方においても、コメニウスの iVI章
都市と宗教における事柄について J は、ボグダ
ーノフでは i
1
7
. 町と国について」になっている 。 この項目の「教会」に関する記述でも、コメニウスの
i
3
3
6
. 寺院は聖なる場所です。J i
3
3
7
. 鐘っき男は鐘をつきます。 民衆は礼拝堂で牧会し、勤行を実施
3
3
8
. 牧会では聖歌と賛美歌が歌われます。 J i
3
3
9
. 神の御言葉が賛美されます。 J i
3
4
0
. 秘蹟
します。J i
が執り行われます。Ji
341.祈りが敬度になし遂げられます。Ji
3
4
2
. 祝祭日は祭り気分で祝賀されます。」
i
3
4
3
. 異教徒は教会の外にいます。J という 一連のものを、ボグダーノフは i
4
9
0
. 教会は神聖な所であ
る。」という最初の一文だけで済ませて、他はすべて削除している。
以上、このように見てくると、ボクダーノフが、コメニウスの教育理念の具現化にあたり、いかに実用的
な工夫を凝らしているかが分かる 。生徒たちの理解と習得ができるだけ容易に、効果的になされるように配
慮している 。 できるだけ生徒たちが日常使用している範囲の語葉を選択して、彼らの身近な生活を対象とし
た題材を取り入れることに努めている 。つまり、言語学習の教科書とはいえ、その事例文は文法上の判断か
らだけではなく、内容事柄の選択とも密接に関連して作成されているのである 。 これはコメニウスの基本的
な理念でもあった。
41E
42'
4l'
上村忠昌
(
注 1
) ゴンザの事蹟については後掲の略年表(ゴンザ前後)を参照。より詳しくは、村山 1
9
6
5 (後掲の「参
9
6
5は会報 1号に転載、
考文献」の該当文献を指す。以下同様に略記)やクリコワ 1979が参考になる。村山 1
8号に長沼庄司訳・江上修代監訳が掲載されている口
クリコワ 1979は会報 1
なお、この論考の本文および(注)で「会報 J というのは、すべてゴンザファンクラブ会報『ゴンザ』
9
9
4
.11
.2
0に結成されたもので、オープン参加、入会随時、年会
のことである。ゴンザファンクラブは、 1
費 3000円(ただし、購読会員や鹿児島県外在住者は 2000円、学生 1
0
0
0円)の同好会(現在の会員数、約 300
名)である。「生涯と業績を全面的に解明するなどのゴンザ研究の促進」を目的とし、ゴンザの出航地と
航路探し、方言研究、資料収集と業績の普及などに関する研究会が毎月 1回程度なされていて、要旨は会
報で会員に流され、反響がフィードバックされている。
rファンクラブ守事務局、〒 892-0842鹿児島市東千石町 15-15 iキモノよしむら」内、窓
コ
守
ン
(
0
9
9
) 226-4755、
FAX (
0
9
9
) 223-4686
rファンクラブ寺東京センター(入会案内や会報、資料を置いてある)
コ
や
ン
.ナウカ神保町応
干1
01-0051東京都千代田区神田神保町 2-12-3,2103(3264)0021,FAX03(3264)7780
.日本ロシア語情報図書館
干1
56-0052東京都世田谷区経堂 1-11-2,2103(3429)8239,FAX03(3425)8616
(
注2
) クリコワ 1
9
7
9では「次男」とあるが、木崎 1
9
9
7に従って「三男 J としておく
D
(
注3
) “世界図絵"という訳語:コメンスキーの原題は iOrbis sensualiumpictusJ で、ゴンザの手稿も
そのとおりになっている。通常は iOrbispictusJ と略称されている。村山氏は「図示世界 J i
図解百科」
「図解感覚世界 j などの訳語を当てている。コメニウス学会でも「世界図会 J など複数の訳語が見られる。
筆者は、井ノ口淳三氏の「“ Orbis sensualiumpictus" の日本語表題に関する覚書 J (~島根県立島根女子
短期大学紀要』第 26号
、 1
9
8
8
) の所説に賛同して、古くから最も多くの人に用いられている「世界図絵」
を使うことにする。
) 藤田 1991aから抜粋・要約したものである。
(
注4
) 藤田 1
9
9
1
bから抜粋・要約したものである。
(
注5
) 井ノ口 1
9
8
8からの抜粋である。
(
注6
(
注7
) 村山 1
9
6
5(アッシュ本からの翻字翻訳)を筆者がアカデミ一本で修訂した私家版がある(ゴンザファン
クラブ事務局)。
(
注8
) 村山 1965(アッシュ本からの翻字翻訳)を筆者がアカデミ一本で修訂した私家版と、それをもとにア
カデミ一本を復元した私家版がある(ゴンザファンクラブ事務局)。
(
注9
) 村山 1
9
8
5(アカデミ一本からの翻字翻訳)。
0
) 村山 1
9
6
9
(アカデミ一本からの翻字翻訳)。
(
注1
(
注1
1
) 江口泰生氏(同山大学助教授)のグ、ループによって、アカデミ一本からの翻字翻訳が完了しているが
(
19
98.3)、ロシアとの著作権の関係で出版はできず、完成稿を 5部だけ複写製本して、鹿児島県立図書館
本館と奄美分館に置かれる予定である。
(
注1
2
) 上の(注 1
1
)と同じ事情にある。
3
) ~鹿児島工業高等専門学校研究報告~ 3
3号 (
1
9
9
8
.8
)に発表の予定。
(
注1
(
注1
4
)1
9
9
5i
漂流青年ゴンザの鹿児島方言 J (~鹿児島工業高等専門学校研究報告~ 3
0号)
1
9
9
6 iゴンザ研究入門 J (~鹿児島工業高等専門学校研究報告~ 3
1号)
1
9
9
7 iゴンザの鹿児島方言への訳し方 J (~鹿児島工業高等専門学校研究報告~ 32号)
5
) 村山 1
9
7
1
(
注1
(
注1
6
) ペテルブ、ノレグ、生まれのドイツ系ロシア人のアッシュ (GeorgThomas von Asch,1729-1807)が、ゲッ
チンゲン大学で勉学し、後年、ロシア政界の高官となったとき、毎年、自分の豊富なコレクションから母
校に寄贈したものである。
112
教育学者ボグダーノフのテキスト作り
(
注 1
7
) 現在、ロシア科学アカデミーに依頼して調査中だが、まだ分からない。『世界図絵』は、ピョート
ル大帝の書庫から科学アカデミー図書館に収められた文献(同館登録簿のピョートル 1世文庫第 99号)があ
るということだから、『前庭』も古文書が遺っている可能性はありそうである 。
(
注1
8
) 下線の付いた片仮名は、ゴンザの日本語のロシア字表記が子音字のみで記されているか、または子
音字+軟音符で記されていることを表し、当該音節の母音の無声化ないし収縮を示している 。
参考文献
村山七郎
1
9
6
5
Iコンザの伝える 1
8世紀前半の薩摩方言 J (~~漂流民の 言 語』吉川弘文館)
1
9
6
9
I
献ポモ
(ル
ツ
ェ
フ)
、 7・$
1
1
)
7持 簡略文法について J (九州大学文学部『文学研究~ 6
6
)
1
9
7
1
1
ロモノーソフ以前の二つのロシア文法 J (九州大学文学部言語学研究室)
1
9
8
5 (協力:井桁貞義・輿水則子) ~新スラヴ・日本語辞典~ (ナウカ)
1
9
8
7
ペトロワ
~クリル諸島の文献学的研究~ (
三一書房)
1965a 1
ロシア最初の日本学者アンドレイ・ボグダーノフと彼の弟子、日本人ゴンザ」
1号に掲出)
(~ソヴェート文学~ 1965再刊 3号、会報「ゴンザ J 1
1965b 1
1
8世紀前半のロシアにおける日本語J
rェ7
ゲオル
(~アジア・アフリカ諸民族~ 1965第 1号、会報「ゴンザ J2
0号に掲出)
1
9
6
9
1日本語を学ぶロシア人 -18世紀のペテルブ、ルグ、日本語学校 -J
(ソ連大使館発行「今日のソ連邦 J 1969年第 9号、会報「ゴンザ J24号に掲出)
クリコワ
1
9
7
9
1ロシアにおける日本語研究の起源 j
(~アジア・アフリカ諸民族~ 1979第 1号、会報「ゴンザ J 1
8号に掲出)
~シベリアに窓かれた人々~ (岩波書庖、新書版)
加藤九詐
1
9
7
4
秋月俊幸
1
9
8
6 ズナメンスキー著・秋月俊幸訳『ロシアの日本発見~ (北海道大学図書刊行会)
井桁貞義
1
9
8
6
1
ポリカルポフとゴンザ・もう 一つの接点一項
目 別ロ
シ
ア語
辞典
の歴
史
をめ
ぐ
って-J (ナウカ『窓~ 5
7
)
井ノ口淳三 1988 コメニウス著・井ノ口淳三訳『世界図絵~ (ミネルヴァ書房)
藤田輝夫
1993
1コメニウスの教科書における精選の原理 J (~コメニウスの総合的研究~
1
9
9
8
1ゴンザの翻訳したコメニウスの著作について J (
1
9
9
8
.3
.1
5 J"ンドファンクラブ引究会講演資料)
H
4
.科研費報告書)
1991a コメニウス著・藤田輝夫訳『開かれた 言 語の扉~ (私家版)
1991b コメニワス著・藤田輝夫訳『聞かれた言語の前庭~ (私家版)
1
9
9
2
~コメニウスの教育思想、~ (編著、法律文化社)
巌
1
9
9
1
~ロシア中世文法史~ (名古屋大学出版会)
木崎良平
1
9
9
7
1
漂流民ゴンザをめぐって J (会報「ゴンザ J22号)
山口
<付記>
この論考のコメニワス関係では、特に、井ノ口淳三氏、藤田輝夫氏にいろいろと御教示を頂いた。
に記して感謝申し上げる 。
※
本論考は、平成 9年度鹿児島高専研究経費助成による研究の一部である 。
,
'
3
上村忠昌
田各主手三受
〈ゴニノザま盲可千愛〉
1
6
8
9
ピョートル 1世 (1
7
)親政始まる。西欧化政策を推進。
1
6
9
2頃
ボグダーノフ生まれる。
1
6
9
5
コサックの長アトラーソフ、カムチャツカ半島の要塞に着任。
(元禄 8)
大阪出身の伝兵衛等 13 名、漂着し、
'97~'99半島を探検したアトラーソブと出会う。
「全シベリア、河川、土地図(日本を含む) Jを作成。
1
6
9
9
レイメゾフ、
1
7
0
1
7
0
4年には「三カ国語辞典 Jを刊行。
ポリカルポフが「項目別小辞典 Jを刊行。続いて 1
1
7
0
2
大阪商人伝兵衛がモスクワでピョートル 1世に謁見。(伝兵衛の洗礼名ガブリール)
1
7
0
3
ピョートル 1世は新首都ペテルブルグを建設し(17
1
2
遷都)、西欧化政策の中心地と成す。
1
7
0
5
伝兵衛、ペテルブルグ元老院内に設置された日本語学級の最初の日本語教師となる。
1
7
1
0
0名、カムチャツカのカリギル湾に漂着。
紀州の三右衛門(サニマ)等 1
1
7
1
4
サニマ(洗礼名イワン)が伝兵衛の助手となり、 1
7
3
4
年没まで日本語を教授。
1
7
2
5
2月8日、ピョートル 1世 (53)没し、妃エカチェリーナ 1世 (
4
1)が継ぐ。
この年、遺命により、ロシア科学アカデミーが設立される。
1
7
2
6
1
2名)。
科学アカデミーに付設してギムナジウムが開校(生徒数 1
1
7
2
7
5月 1
7日、女帝エカチェリーナ 1世 (4
3
) が没し、皇孫ビョートル 2世 (1
2
) が即位。
1
7
2
8
8月2
6日、ベーリングがアジア大陸とアメリカ大陸の聞に海峡の存在を発見。
(享保 1
3
)
ゴンザ達が、 2
2
代藩主島津継豊の命で、大阪に向けて薩摩を出航し(若潮丸?早行丸?)、
8日間の嵐で遭難し、太平洋を 1
1月8日(旧暦=露暦 1
1
.2
7
=
新暦 1
2
.
8
)から 6カ月 8日間漂流。
1
7
2
9
6月7日、ゴンザ達 1
7名がカムチャツカ半島(ロパトカ岬とアワチャ湾の問、カザチェニ
河の川口)に漂着し、 5
0
人隊長シュティンニコフのコサック隊とカムチャダル人の襲撃
で1
5名死亡。ゴンザとソウザの二人は捕虜となるが、新探検隊によってポリシェレツキー
要塞で解放された。シュティンニコフは私欲から凶悪な仕打ちをした罪で処刑された。
この年 4月
、 8代将軍吉宗の養女竹姫の島津継豊降嫁が決定、 1
2月 4日(旧暦)婚儀。
1
7
3
0
1
月1
7日、ピョートル 2世 (1
5
) が天然痘で没し、従姉アンナ・イワノヴナ(3
7
) が即位。
女帝は、イワン 5世の娘で、ビョートル 1世 の 姪 (1693~1740) 。
1
7
3
1
ゴンザとソウザはヤクーツクへ送られ、その地の長官の監督下に入ったが、もう一度、
カムチャツカのポリシェレツキー要塞に帰った。
1
7
3
3
ゴンザとソウザはイルクーツクへ召還され、 3月 2
4日ジョロボフ副知事の随行書簡と共
にトボリスクへ護送され (2
週間滞在)、 4月 1
1日モスクワのシベリア庁へ移送( 1週間
滞在)、元老院の裁量に委ねるために首都ペテルブルグへ急送された。夏の宮殿でイワ
ノヴナ女帝に謁見。
114
教育学者ボグダーノフのテキスト作り
1
7
3
4
1月 1
7日、ゴンザとソウザが科学アカデミーに初めて連れて行かれる。
スイス人画家グゼル(数学者オイラーの岳父)が 2人の肖像を油絵で画く。
勅令で陸軍幼年学校付属修道院の司祭 2人(ルカー・カナシェウィチとワルラーム・スカ
ムニッキー)に引き渡され、キリスト教を学ぶ。
1
0月2
0日、洗礼を受ける。ゴンザ(デミアン・ボモルツェフ)、ソウザ(コジマ・シュ
リツ)。洗礼名は洗礼代父ワシリー・ポモルツェフとステファン・シュリツに由来する。
1
7
3
5
ゴンザはアレクサンドロ・ネブスキー修道院の神学校でロシア語文法を学ぶ。
さらに、ゴンザは絵画を勉強し、ソウザは製本を学んだ。
1
1月4日、両名は科学アカデミーに配属される。日給 1
0カペイカ。
1
1月2
6日、アカデミーの正職員となる。
[サンクトペテルブルグの科学アカデミーに居た 2人の日本国民についての簡単な報告 l
が記録された(署名・日付なし)。
1
7
3
6
4月 1
3日、ゴロフキン「カムチャツカ海岸に漂着した日本船について」と「日本語学校
の開設とその存在の初期に関する記録 j という報告を元老院に提出。
5月 1
0日、勅令「日本人から奪われた書籍の捜索について」がシベリア庁宛に発せられ
7
3
7
.
1
2
.
2
2と1
7
3
8
.
1
.
1
0にも催促状が送付された)。
た(この後も、 1
6月、元老院訓令で科学アカデミー内に日本語学校が設立され(ゴロフキンの発意によ
る)、ゴンザとソウザが教師となる。学校管理は図書館の副館長格の司書補アンドレイ・
ボグダーノフ、生徒はピョートル・シェナヌイキンとアンドレイ・フェーネフの 2名
(ともに兵卒の遺児)。ゴンザとソウザの日給それぞれ 1
5カペイカ、 2人はギリシャ正
教の信仰を一層確実なものにするため陸軍幼年学校付き修道司祭のもとに通う。
9月 1
8日、ソウザ没 (43)、ペテルブルグ海軍省広場にある主の昇天教会の墓地に埋葬。
勅令で、画家プルッケルが遺影を画き、蝋製の首像が作成された。(首像はサンクト・
ペテルブルグの人類学-民族学博物館に現存)
9月2
9日、ボグダーノフとゴンザが露和辞典の編集を開始。
この年、項目別露日単語集と日本語会話入門も著作。
1
7
3
7
ボグダーノフ「日本人たちがどんな方法でロシア帝国にたどりついたかに関する簡単な
報告」を執筆。
1
7
3
8
1
0月2
7日、新スラヴ・日本語辞典を完成。この年、簡略日本文法も著作。
1
7
3
9
7月 1
8日、元老院から「年俸 1
0
0ルーヴル支給 Jの発令(ボグダーノブの年俸 9
6ルーヴル
(元文 4)
よりも多~:) )。日本語学校生徒を 3名(チモブエイ・チェレンチェフ、マトヴェイ・ニ
ェポロズジ一、ワシーリィ・クラスノイ)増員して、通訳の養成を継続(課目は日本語
と日本文字)
0
2名の年長生徒には、その勤勉さと成果に対し、今までの在学兵士の給
115
上村忠昌
料の代わりにより高額の正規兵士の給料が定められた。
この年、友好会話手本集とオルピス・ピクトゥスも著作。
1
2月 1
5日、ゴンザ没 (
2
1)、カリンカナ墓地に埋葬。画家グゼルが遺影を画き、彫刻家
コンラド・オスネルが蝋製の首像を作成。(首像は人類学・民族学博物館に現存)
1
7
4
0
3月30日、ゴンザの生徒 2名が、シパンベルグの第 3次日本探検隊の通訳に採用された。
1
0月2
8日、女帝アンナ・イワノヴナ (
4
7
)没。姪の子で生後 8カ月のイヴァン 6世が即位。
1
7
4
1
1
2月6日、宮廷革命でピョートル 1世の娘エリザベータ・ペトロヴナが即位したが、宮
7
6
2エカチェリーナ 2世即位で落ち着く。
廷革命が続き、 1
1
7
4
5
6月4日、陸奥の竹内徳兵衛等 1
1名、北千島のオンネコタン島ウカモル湾に漂着。
1
7
5
1
7月 1
2日、徳川吉宗没(6
8
)。
1
7
5
2
竹内徳兵衛の配下の一人、サノスケに男児誕生(アンドレイ・タターリノブ)
1
7
5
3
シベリアで、日本探検隊が組織された。
1
7
5
4
日本語学校はイルクーツクの航海学校内に移設(1
8
1
6閉鎖)。竹内徳兵衛の配下が教授。
かつてのゴンザの生徒 2名もこの日本語学校の教授として送られた。その時、新スラヴ
日本語辞典、項目別露日単語集、日本語会話入門の転写本を持参したか。
1
7
5
5
クラシェニンニコフ『カムチャツカ地誌 J(ボグダーノフ執筆のゴンザ関係の注を収録)
1
7
5
7
ロモノーソフ『ロシア語文法』出版。
1
7
5
8
ミュラー『ロシア史集成 j (ボグダーノフ執筆のゴンザ関係の注を収録)。
1
7
6
5
サノスケ没。息子のタターリノフ(1
3
) 、イルクーツクの日本語学校に入学。
1
7
6
6
ボグダーノブ没(7
4?) 。
1
7
7
4
前野良沢-杉田玄自ら『解体新書』完成。
1
7
7
6
アメリカ合衆国の独立。
1
7
7
8
ロシア船、蝦夷地厚岸に来る。松前藩その通商要求を拒否。
1
7
8
2
タターリノフ『レクシコン』を科学アカデミーに提出。
1
7
8
3
伊勢の大黒屋光大夫ら 1
7名、アムチトカ島に漂着。
1
7
8
7
パラス編『欽定全世界言語比較辞典』第 1巻出版 (
1
7
8
9第 2巻)(
17
9
1光大夫が改定参加)
1
7
8
8
アッシュ、新スラヴ日本語辞典・項目別露日単語集・日本語会話入門の転写本をゲッチ
ンゲン大学(ドイツ)に寄贈。
1
7
9
2
ロシアの正使ラクスマン、通商を求め根室へ来る(大黒屋光大夫ら 3名帰国)。
1
7
9
4
桂川甫周、将軍の命で『北桂簡略 j (大黒屋光大夫の漂流記)の編集。
(注:ゴンザ達が漂着した 1
7
2
9
.
6
.
7から、ゴンザが死去した 1
7
3
9
.
1
2
.
1
5までの日付はロシア暦である)
116