時代 西暦 事項(地区・区町村) 100 万年前 アカシゾウ(東播) 兵 庫 県 の で き ご と ナウマン象より古い象の化石が発見されている こし 1931 年に,西八木海岸で人間の腰 の部分とみられる骨が あかし 旧 明石 原人(東播) くう しゅう せっ こう 発見される。実物は空 襲 で焼失して石 膏 模型のみが残り, 議論をよんでいる 石 3 万年前 にし や ぎ い せき 器 西 八 木 遺 跡 (東播・明石) 3∼1 万年前 県内 130 か所の旧石器時代の遺跡のうち,最古といわれ る かすが 春日 ・七日市遺跡(丹 打製石器が出土している 波・春日) いた い てら が たに はく へん 板 井 寺 ケ 谷 遺跡(丹波・ 剥 片 石器など 3500 点が出土している 丹南) 7000 年前 おし がた もん 福岡タツガ平遺跡(但 初 期 の 押 型 文 土 器 や ヒ ス イ の け つ 状 耳 飾 り の 破 片 が 出 土 馬・村岡) している 縄 お にし まい こ おお とし やま 文 西 舞 子 ・大 歳 山 遺跡(神 戸・垂水) 3000 年前 つじ い き こく よう せき 隠 岐 から運ばれたと思われる黒 曜 石 など 1 万点の石器が うす で つめ がた もん 出土し,前期縄文土器の代表である薄手の爪形文土器が 知られる くっ そう せき ぞく 井 遺跡(西播・姫路) 屈 葬 人骨が土器の破片や石 鏃 とともに出土している いく は 育 波 遺跡(淡路・北淡) 中学校の敷地から土器の破片 1000 点が出土している 紀元前 たま つ 3∼2 世紀 1∼2 世紀 こ は 玉 津 ・吉田遺跡(神戸・ 弥生時代初期の遺跡で,ヘラ描き木 の葉 文の土器や鉄器, 西) ぼう すい しゃ 紡 錘 車 が出土している いし ぼう ちょう か も 加 茂 遺跡(阪神・川西) せき ぞく せき ふ 弥 生 時 代 中 期 の 遺 跡 で , 石 包 丁 ・ 石 鏃 ・ 石 斧 な ど が 大量 に出土している 弥生時代中期の高地性遺跡で,標高 185mの地点に位置す え げの やま わ こく たい らん 会 下 山 遺跡(阪神・芦屋) る 。 稲 作 に 不 利 な 土 地 で あ る た め , 「倭 国 大 乱 」の 影 響 で 弥 高地に住んだという説がある かめ かん 生 紀元 1∼3 世紀 つぼ 弥生時代後期の代表的な遺跡で,甕棺や壺,土こう墓な た の まい そう 田 能 遺跡(阪神・尼崎) ど が 見 ら れ , 身 分 に よ り 埋 葬 方 法 が 異 な っ て い た と 考 え られる おお なか 大 中 遺跡(東播・播磨) 土器が大量に出土している けい の どう たく 慶 野 遺跡(淡路・西淡) 江戸時代に銅 鐸 が出土した どう たく さくら が おか 桜 ケ 丘 遺跡(神戸・灘) どう か 原始絵画が描かれた,14 口の銅 鐸 と 7 本の銅 戈 が出土し ている(国宝) いま じゅくちょう だ い がた 今 宿 丁 田 遺跡(西播・姫 銅鐸の鋳 型 が出土している 路) 古 3∼4 世紀 あ くら たて あな せき う 安 倉 高塚古墳(阪神・宝 竪 穴 式 石 室 を 持 つ 初 期 の 古 墳 で , 「赤 烏 」の 年 号 が 書 か れ 墳 塚) た中国製の鏡が出土している ぶき いし もり お 森 尾 古墳(但馬・豊岡) まが たま くが は に わ (埴 輪 )や 葺 石 が な い 初 期 の 古 墳 で , 鏡 や 勾 玉 ・ 管 たま 玉 ,多数の武器が出土している 海抜 370m の山頂に築かれた初期の古墳で,ここから出土 よ しま どう はん きょう 吉 島 古墳(西播・新宮) し た 鏡 の 同 笵 鏡 が 近 畿 の 各 地 で 見 つ か っ て い る 。 同 笵 鏡 やまと が分布する範囲が大和 政権に属した地域だと考えられる ご しき づか 県下最大の古墳で,復元された姿は有名 五 色 塚 (神戸・垂水) やまと ちょう てい 350 ころ 大和 朝 廷 が国土を統一する いけ じり きん し 4∼5 世紀 池 尻 15 号古墳(東播・加 後期の群集墳からは太さ 0.5mm の金 糸 が出土している 古川) くも べ くるま づか 雲 部 車 塚 (丹波・篠山) だん じょう やま いずれも全長 100m を超す中期の古墳である 壇 場 山 (西播・姫路) たま おか 玉 丘 (東播・加西) こ まる やま す え き 小 丸 山 古墳(西播・御津) 装飾のある須 恵 器 が出土している 6 世紀 ふ しじ み 縮 見 屯倉 (東播・三木) 600 ころ ほう りゅう じ 太子) すい こ 聖 徳 太 子 は 推 古 天 皇 よ り 播 磨 国 の 水 田 を 百 町 贈 ら れ ,後 はん きゅう じ に斑 鳩 寺 が建てられた かく りん じ このほか,賀古郡の寺領には鶴 林 寺 が建てられた 鳥 631 あり ま の ゆ じょ めい 有 間 温 湯 (神戸・北) とう じ 舒 明 天皇が湯 治 を行う たい か 645 かい しん 大 化 の改 新 が始まる 647 良 き 地があったという しょう とく たい し 法 隆 寺 領播磨田(西播・ 飛 ど 播磨国風 土 記 によると,播磨には合計 8 か所の皇室直轄 みやけ こう とく 有間温湯 孝 徳 天皇が湯治を行う へい じょうきょう 710 都を平 城 京 に移す 713 播磨国風 土 記 (東播,西 播磨は風土記が現存する 5 国の 1 つである 当時の産品・風俗・伝説などを伝えている 播) ふ ど き かきの もとの ひと ま 8 世紀 ろ かい きょう 柿 本 人麻呂らの歌人が船で明石海 峡 を通る時に多くの おお と 明石大 門 (東播・明石) 歌を残している おお わ だ この時代の瀬戸内航路 では ,こ こ や 大 輪 田 (神戸・兵 庫)・ かわ じり うお ずみ から むろう 魚 住 (東 播 ・ 明 石 )・ 韓 (西 播 ・ 姫 路 )・ (西 播 ・ 御 津 ) 河 尻 (阪神・尼崎) の 5 泊があった や ぎ さん いん どう 養 耆 (但馬・八鹿) か この時代の山 陰 道 の宿駅である この時代の山陽道の宿駅で,駅馬 40 頭を備え,全国最大 こ 賀 古 (東播・加古川) 740 ころ 741 規模であった こん よう じ ぎょう き 昆 陽 寺 (阪神・伊丹) 行 基 が各地をめぐり,多くの寺院を建立する しょう む こく ぶん じ 但馬国 分 寺 (但馬・豊岡) こく ぶん に じ 聖 武 天 皇 の 命 令 で , 国 ご と に 国 分 寺 ・ 国 分 尼 寺 が 建 てら れる 【神話の 中 の話】 こ おのころ島(淡路) いずし じ き くに う 「古 事 記 」の国 生 みの神話では,淡路島を日本で最初にできた島として いる しらぎ あめの ひ ぼこ 出石 神社(但馬・出石) 新羅 の王子 天 日 槍 が但馬に渡来し,天皇に宝物を差し出したとある にん けん し じみ いわ や けん ぞう 仁 賢 天皇と顕 宗 天皇が,幼いころに天皇家の争いからのがれ,ここに 志 染 の石 屋 (東播・三木) かく 隠 れたという伝説がある え みの おし かつ 765 恵美押勝の乱で皇位をうばわれた淳仁天皇が淡路に流さ じゅん にん 淳 仁 天皇(淡路) れ,この地で死去する かん む 785 こう たい てい ふじ わらの たね つぐ 桓 武 天 皇 の 皇 太 弟 で あ っ た が , 藤 原 種 継 暗 殺 の 疑 いで そ の座を追われて淡路へ配流となり,その途中で絶食して さわら 早良 親王(淡路) てん ぺん ち い えき びょう 死 亡 し 淡 路 で 葬 ら れ る 。 そ の 後 の 天 変 地 異 や 疫 病 の 流行 おん りょう は早良親王の怨 霊 のためとおそれられる へい あん きょう 794 9 世紀 都を平 安 京 に移す い せ ぬの びき たき み あり わらの なり ひら あし や 伊 勢 物語・布 引 の滝 見 在 原 業 平 が芦 屋 の領地に滞在し,須磨などに出かける (神戸・中央) 845 とう じ おお やま 大 山 荘(丹波・篠山) 東寺領荘園として成立する。多くの史料が残り,当時の ようすを知ることができる だ ざい ふ 901 朝廷内での権力争いに敗れて太宰府に流される途中,明 すが わらの みち ざね よ 菅 原 道 真 (東播・明石) 石 の 駅 家 で 詩 を 詠 む な ど 各 地 に 伝 説 を 残 す 。 現 在 は 各 地 てん まん ぐう の天 満 宮 に祭られている 939 すみ とも 屋,淡路) 940 10 世紀末 す き 藤原純 友 の乱(阪神・芦 旅の途中の貴族らを須 岐 駅でおそう。 こく ふ りゃく だつ 翌年には淡路国 府 をおそい, 略 奪 をする せい わ げん じ た だ いん 多 田 院 (阪神・川西) げん じ もの がたり 1000 ころ 「源 氏 物 語 」 みなもとの みつ なか 清 和 源 氏 の 2 代目である 源 満 仲 は,領地である多田荘 に多田院を建立する むらさき しき ぶ ひかる げん じ 紫 式部は物語の中で,都を追われた 光 源氏にこの地を す まの まき 須 磨 巻 (神戸・須磨)明石 訪れさせ, 明石の上との恋を描く 平 巻(東播・明石) か ざん ほう おう し うん ざん なか やま でら 安 紫 雲 山 中 山 寺 (阪神・宝 塚) さい ごく めぐ 花山法皇が広めたとされる西国三十三か所巡りの二十四 ふだ しょ み たけ さん せい すい じ やしろ ほっ け さん いち じょう 番札 所 で,続いて御 嶽 山 清 水 寺 (東播・ 社 ),法 華 山 一 乗 じ しょ しゃ さん えん きょう じ 寺 (東播・加西),書 写 山 円 教 寺 (西播・姫路)と続く ふじ わらの みち なが 1016 1024 11 世紀末 有間温湯 1128 12 世紀 有間温湯 おお わ だの とまり 1172 1180 れる しら かわ ほう おう 白 河 法 皇 が湯治をする たいらの きよ もり にっ そう みなもと のよし つね べん けい ふく はら さん そう むさし ぼう 書 写 山 円 教 寺 に は 源 義 経 の 家 来 武蔵 坊 弁 慶 の 伝 説 が 残 る ご しら かわ ぎょう こう 福 原 山 荘 (神戸・兵庫) 後 白 河 上皇が 行 幸 し,以降しばしば訪れる ひろ た ぐう うた あわせ しゅん ぜい 広 田 宮 歌 合 (阪神・西宮) 藤原 俊 成 ら歌人 58 人が広田神社で歌を詠みあう あん とく ふく はら 福 原 遷都(神戸・兵庫) 1184 き しん 地元の有力者によって開墾され,のちに藤原氏に寄進さ 大 輪 田 泊 (神戸・兵庫) 平 清 盛 が港を改修し,日 宋 貿易を行う 弁 慶 の伝説(西播・姫路) 1169 とう じ 藤原道長が湯 治 をする かい こん や のの しょう 矢 野 荘 (西播・相生) 1170 ころ せっ しょう 藤 原 道 長 が摂 政 となる したが,6 か月で京都に戻る つい とう み くさ やま 三 草 山 の戦い(東播・社) ほう 平清盛は安徳天皇や後白河法皇を奉じて,福原に都を移 けい かい よし つね 追討軍の丹波からの進入を警戒する平氏を,源義経の軍 が三草山でうち破る いち たに ひよどり ごえ 一 ノ谷 の戦い(神戸・須 守りのかたい平氏の陣地に苦戦するが,義経の 鵯 越 の坂 磨~中央) 落としの策により一転して源氏の大勝利に終わる う ふえ 青葉の笛 (神戸・須磨) うで づか 腕 塚 (神戸・須磨) あつ もり じ 寺 (須磨寺)の寺宝となる ただ もり こま が はやし 平忠 盛 は駒 ヶ 林 で討ち取られる おお くら だに ただ のり 忠 度 塚(東播・明石) 12 世紀末 び わ つね まさ 大蔵谷で討ち取られた琵琶の名手経正の墓であるといわ れる(誤伝) より とも 1192 ふく しょう 一 ノ 谷 の 戦 い で 討 ち 取 ら れ た 平 敦 盛 の 残 し た 笛 で, 福 祥 せい い たい しょう ぐん 源頼 朝 が征 夷 大 将 軍 となる ちょう げん じょう ど じ 浄 土 寺 (東播・小野) おお べ 重 源は東大寺の荘園である大部荘に別所を置き,これが のちの浄土寺となる と 1207 さ 新しい教えを広めることをやめない法然は,土佐に流さ ほう ねん 法 然 (東播・高砂) たか さごの うら ねん ぶつ れることになり,その途中,高 砂 浦 で漁師らに一心に念 仏 を唱えることを説く 1210 ころ てい か 細川荘(東播・三木) おお だ ぶみ 淡路国大 田 文 (淡路) じ とう 荘園の領有が確定する こく し 1223 さね とも 藤原定家が,源実朝からこの荘園の地頭職をおくられ, じょうきゅう 国 司 が, 承 久 の乱で変更のあった地頭の名や各荘園の広 さを記録した文である ぶん えい えき げん こう 鎌 倉 1274 文 永 の役 がおこる(元 寇 ) 1280 阿 仏 尼 が,細 川 荘 の所有権をめぐって先妻の子と争い,訴 あ ぶつ に ほそ かわの そう そ しょう い ざ よ い 十六夜 日記(東播・三木) 訟 のために鎌倉まで旅をする。 阿仏尼の死後,所有権争いはようやく決着して,その子 れい ぜい 孫の冷 泉 家のものとなる 1289 おどり ねん ぶつ いっ ぺん 一 遍 の墓(神戸・兵庫) 1294 した じ ちゅう ぶん 全国を旅して 踊 念 仏 を布教した一遍は,ここで亡くなり, じ しゅう しん こう じ 時 宗 の真 光 寺 が建てられる りょう け 大山荘下 地 中 分 (丹波・ 領 家 と地頭の領有争いの結果,領地を分割して分け合う 篠山) 1331 ご だい ご げん こう 元 弘 の変(東播・加古川) や の お き 丹)を経て,加古川に着き,その後隠 岐 へ流される さ よう 1333 こ 鎌倉幕府にとらえられた後 醍 醐 天皇は,昆 陽 野 (阪神・伊 もり よし りょう じ ま や さん 佐 用 荘の荘官だったが,護 良 親王 令 旨 を受け,摩 耶 山 (神 あか まつ えん しん 赤 松 円 心 (西播・佐用) 戸・中央)に城を築いて幕府軍と戦い,倒幕の大きな力と なる けん む 1334 建 武 の 新 政 しん せい 前年より建 武 の新 政 が行われる くすの き まさ しげ 1336 楠 木正成は京都を守るため,九州から大軍を率いて攻め あし かが たか うじ みなと がわ 湊 川 の戦い(神戸・中央) てきた足 利 尊 氏 と戦い,敗れて戦死する とく がわ みつ くに 後にこの地に湊川神社がたてられ,徳川光圀により記念 ひ 碑 が置かれる 南北朝 1338 足利尊氏が征夷大将軍になる 1351 西国から兵庫に到着した尊氏は,打 出 浜 で弟直 義 と戦い, うち いで はま 足利尊氏(阪神・芦屋) 敗れる ただ よし 14 世紀後半 やま な この すみ やま 此 隅 山 城(但馬・出石) 14~15 世紀 室 町 1402 ほん きょ 有力守護大名の山 名 氏はこの城を本 拠 に栄え,一族で 11 ろく ぶんの いち どの か国を支配して「六 分 一 殿 」とよばれる めい とく 但馬守護職(但馬) ぼっ しゅう 山名氏は明徳の乱で多くの国を没 収 されたが,この国の 守護職は保持し続ける 淡路守護職(淡路) 細川氏の分家が代々保持し続ける 丹波守護職(丹波) 管 領 の地位にあった細川氏の本家が代々保持し続ける 摂津守護職(摂津) 丹波国と同様,管領細川家が代々保持し続ける かん れい よし みつ にち みん 日 明 貿易(神戸・兵庫) 明からの使いの僧が兵庫に着き,足利義 満 が出向くなど, 兵庫港は国際貿易港として栄える よし まさ 1441 みつ すけ わ さか 京都で将軍義政を殺した赤松満祐が,和坂で追討軍との か きつ きの やま 嘉 吉 の乱(東播・明石) 戦いに敗れ,城 山 城で滅ぼされる。 以後,播磨は山名氏のものとなる おう にん 1467 1475 応 仁 の乱がおこる かつ もと かん のう どう 感 応 堂 の鐘(淡路・西淡) 1488 細川勝元に従い東軍に属した一族によるものと考えられ る そう ぜん 応仁の乱(西播・姫路) まさ のり 山名宗全が京都で戦う間に,播磨で兵をあげた赤松政則 さか もと じょう が書写坂 本 城 で山名方を破り,播磨を再び支配下におく 15~16 世紀 おお た がき たけ だ 竹 田 城(但馬・和田山) 戦 山名四天王の 1 つ太 田 垣 氏の居城で,典型的な山城とし て知られる は 国 や かみ 八 上 城(丹波・篠山) た の 波多野氏は,ここを居城として勢力を伸ばし,丹波の戦 国大名となる せっ つ 摂津国と淡路国を長く支配したのは室町幕府の三管領家 細川氏(阪神,淡路) み よし げ こく じょう の 1 つ で あ る 細 川 氏 で あ っ た が , 家 臣 の 三 好 氏の 下 剋 上 によって没落していく 1549 キリスト教が伝わる いく の ぎん ざん すけとよ しろ がね けん じょう 1556 生 野 銀 山 (但馬・生野) 守護山名祐 豊 が朝廷に白 銀 200 両を献 上 する 1567 ルイス・フロイス(阪 尼崎でキリスト教を布教する 神・尼崎) は しば ひで よし 1578 あま ご かつ ひさ 羽柴秀吉は信長の命で播磨へ進軍し,上月城に尼子勝久 こう づき 安 上 月 城(西播・上月) しかの すけ ゆき もり を入れるが,毛利氏に攻められ,家臣の山中 鹿 介幸盛の 活躍もむなしく,尼子氏はほろぶ 土 べっ しょ なが はる 東播を支配する別所長治は,信長の支配を嫌って反旗を 桃 ひ ひょう 三木の干 殺し(東播・三 ひるがえし,三木城にこもったが,秀吉軍に包囲されて 兵 山 木) ろう 糧 攻めにあう 最期は長治の自害により将兵の命が助けられる(~1580) あか まつ 赤松氏の分家の戦国大名で,三木城を本拠にして東播を べっ しょ 別 所 氏(東播) 支配したが,長治が信長に逆らったためにほろぼされ, の ぐち かん き し かた 支城であった野 口 城や神 吉 城,志 方 城(いずれも東播・加 古川)なども攻め落とされる あけ ち みつ ひで 信長の命を受けた明智光秀は,波多野氏の支配する丹波 丹波攻め(丹波) や かみ を 攻 略 し , 八 上 城 (丹 波 ・ 篠 山 )や 黒 井 城 (丹 波 ・ 春 日 )な どを攻め落とす(~1579) さん ぼう たけ なか はん べ え 竹 中 半 兵 衛 (東播・三木) ひら い やま のあった平 井 山 にほうむられる 三木城の戦いの最中,信長から摂津の支配を任されてい あり おか 有 岡 城(阪神・伊丹) はな ぐま 華 熊 城(神戸・中央) 1580 秀吉の参謀だったが,三木城の戦いの間に病死し,陣地 あら き むら しげ た荒 木 村 重 が反乱をおこして篭城するが,敗れる 信長にそむいた荒木村重が,最後にこもった城である ひで なが 但馬攻め(但馬) 16 世紀末 秀吉は,弟秀長を但馬の平定におもむかせ,山名氏をほ ろぼす 姫路の小領主であったが,秀吉に仕えて参謀として活躍 くろ だ かん べ え 黒 田 官 兵 衛 (西播・姫路) し,のちに黒田家は福岡の大名となる くろ だ ぶし も り た へ い 後藤又兵衛や,黒田節で有名な母里太兵衛は播磨時代か らの家臣である 1581 いわ や 淡路支配(淡路) ゆ あ たか 氏をはじめとする領主は降伏する ほん のう じ 1582 ら 秀 吉 が 岩 屋 城 (淡 路 )や 由 良 城 (洲 本 )を 攻 め 落 と し , 安 宅 び ぜん もう り わ 本 能 寺 の 変 を 備 前 (岡 山 県 )で 知 っ た 秀 吉 は , 毛 利 氏 と 和 ぼく 睦 し , す ぐ に 姫 路 城 (西 播 ・ 姫 路 )に 戻 っ て 態 勢 を 整 え , てん のう ざん 秀吉の大返し(播磨,摂 勝 負 所 の 代 名 詞 と な っ た 天 王 山 (京 都 )で の 明 智 光 秀 と の 津) 山崎の戦いにのぞむ この間,秀吉軍 1 万 5000 は播磨・摂津を 1 日 30~40Km で行軍したという 1583 は しば ひで なが 羽 柴 秀 長 (播磨,但馬) 信長の後継者となった秀吉は,弟秀長を播磨・但馬の領 主とし,姫路におく み よし ひで つぐ 三 次 秀 次 (阪神・尼崎) 尼崎には,秀吉の養子(姉の子)の三次秀次をおく 1590 きの した いえ さだ 木 下 家 定 (西播・姫路) 全 国 を 統 一 し た 秀 吉 は , 秀 長 の あ と に 木 下 家 定 (妻 の 兄 ) を置き,姫路城主として播磨と但馬を支配させる たか つき 秀吉の命で高槻から明石の領主となったキリシタン大名 たか やま う こん ふな げ 高 山 右 近 (東播・明石) 高山右近が船 上 城に入り,多くのキリシタンが付き従う。 その後,秀吉の禁教令によりフィリピンに追放される たい こう けん ち 1594 太閤検地 秀吉により太閤検地が行われる いく の ぎん ざん 1597 生 野 銀 山 (但馬・生野) 全国から秀吉に納められた銀の 8 割近くを占める 1603 徳 川 家 康 が征夷大将軍となり,江戸に幕府を開く 16~17 世紀 とく がわ いえ やす じゅ がく ふじ わら せい か 藤 原 惺 窩 (東播・三木) 細川荘で育ち,別所氏に襲われるなど苦学しながら儒学 江 を修め,近代儒学の祖となる だい とく じ 戸 たく あん お しょう 沢 庵 和 尚 (但馬・出石) 17 世紀 てん じく とく べ え る ざい 京都大徳寺の住職であったが,幕府に逆らい,流罪とな し え る(紫 衣 事件) しゅ いん せん 天 竺 徳 兵 衛 (東播・高砂) 朱 印 船 貿易で東南アジアを舞台に活躍する あと つ いん ぐう 新 宮 藩(西播・新宮) かい えき 池田氏が藩主だったが,跡継ぎがいなかったため改易と なる せき 1600 はら いけ だ てる まさ 関が原の戦いの功績により池田輝政は姫路城を与えら しら さぎ 白 鷺 城(西播・姫路) れ,一族で播磨・淡路・備前に 100 万石近い領地を得て, 現在の白鷺城を築く ささ やま 1609 1615 篠 山 城(丹波・篠山) まつ だいら やす しげ 領主松 平 康 重 が,現在の篠山城を築く あ はち す か 蜂 須 賀 氏の領有(淡路) わ か ほう いな だ たね もと 阿波の領主蜂須賀氏が加封された淡路は,家臣稲田植元 ゆ ら の管理となり,稲田氏は由 良 城を廃して洲本城に移る とっ とり 1617 池田氏が岡山と鳥取に移った後,姫路藩主となり,その ほん だ ただ まさ だた とき ひで ただ せん ひめ け 本 多 忠 政 (西播・姫路) 子 忠 刻 の 妻 で あ る 徳 川 秀 忠 の 娘 千 姫 の た め に 西 の 丸 に 化 しょうやぐら 粧 櫓 がつくられる 尼崎城(阪神・尼崎) 1618 17~18 世紀 だ うじ かね 藩 主 戸 田 氏 鉄 は,幕府の命令により新しい城を構築する ほん だ ただ まさ お がさ わら ただ ざね 小 笠 原 忠 真 (東播・明石) 1662 はんしゅ と た だ ぎん ざん むこ ふな げ 本多忠政の婿で,明石藩主となり,船上城を移築するな どして現在の明石城を築城する だい かん しょ 多 田 銀 山 (阪神・川西) 代 官 所 がおかれ,銀の産出の最盛期となる い たみ 伊 丹 の酒(阪神・伊丹) めん さく 綿 作 (摂津,播磨) 江戸初期では,奈良と並んで日本の酒造の中心だったが, なだ にしの みや 次第に灘 (阪神・ 西 宮 ~神戸)もさかんになる めん か このころ,商品作物として綿 花 の栽培がさかんになる いり はま あこう 赤穂 の塩(西播・赤穂) の技術が確立し,全国有数の塩の産地となる あお やま 17∼19 世紀 尼崎藩(阪神・尼崎) 三 田 藩(阪神・三田) 明石藩(東播・明石) お の 小 野 藩(東播・小野) み くさ 三 草 藩(東播・社) まつ だいら しん ぱん ふ だい 大阪に近いため,青 山 氏や松 平 氏などの親 藩・譜 代 が代々 領主となる し さん だ えん でん もとは砂浜を利用した製塩を行っていたが,入浜式塩田 ま と ば く き 志摩鳥羽城で水軍を率いて活躍した九鬼氏は,水軍の力 を恐れた幕府によって内陸の三田藩主とされる 瀬戸内の交通の要所にあたり,小笠原氏や松平氏などの 親藩・譜代が代々藩主となる ひとつやなぎ おもに 一 柳 氏が藩主をつとめる に わ おもに丹 羽 氏が藩主をつとめる かなめ さかき 西国の 要 となる地であるため,池田氏以降は本多氏・ 榊 姫路藩(西播・姫路) ばら 原氏・酒井氏などの有力譜代大名がひんぱんに入れ代わ って藩主をつとめる 赤穂藩(西播・赤穂) 浅野家の断絶以降は,長く森氏の領地となる たつ の 天 領 の時期が長く続くが,江戸時代後半は脇坂氏の領地 てん りょう 竜 野 藩(西播・竜野) はやし だ 林 田 藩(西播・姫路) み わき さか となる たて べ おもに建 部 氏が藩主をつとめる か づき 三 日 月 藩(西播・三日月) おもに森氏が藩主をつとめる 山崎藩(西播・山崎) あん じ おもに本多氏が藩主をつとめる 安 志 藩(西播・安富) おもに小笠原氏が藩主をつとめる 福本藩(西播・神崎) おもに池田氏が藩主をつとめる ささ やま 江戸時代の前半は松平氏,後半は青山氏が長く藩主をつ 篠 山 藩(丹波・篠山) かい ばら 柏 原 藩(丹波・柏原) とめる お だ のぶ なが のぶ かつ 織 田 信 長 の次男信 雄 の子孫が藩主をつとめる こ いで いずし 出石 藩(丹波・出石) 1688 した時にそば職人も移り住み,出石そばがさかんとなる きょう ごく 豊岡藩(但馬・豊岡) 江戸中期以降は 京 極 氏が長く藩主をつとめる 村岡藩(但馬・村岡) おもに山名氏が藩主をつとめる たこ つぼ まつ お ば しょう 蛸 壺 やはかなき夢を夏 俳 人 松 尾 芭 蕉 が , 奥 の 細 道 の 旅 の 前 年 に , 兵 庫 ・ 須 磨 ・ の月(東播・明石) 17 世紀 せん ごく もとは小出氏の領地であったが,仙石氏が信濃から入城 でん すて じょ 田 捨 女 (丹波・柏原) 明石を周遊した際に詠んだ俳句である げん ろく 元 禄 期を代表する女性俳人である うえ じま おに つら 17~18 世紀 上 島 鬼 貫 (阪神・伊丹) 有名な俳人である 18 世紀 な たね さく ゆ すい しゃ しん でん 水 車 新 田 (神戸・灘) 六甲山系の急流では,水車による菜種搾油がさかんにな る まる やま がわ き りゅう 豊岡杞 柳 (但馬・豊岡) やなぎ ご り 円山川のコリヤナギを原料に 柳 篭履がさかんにつくら れ,大阪に出荷される ばん しゅう も めん 播 州 木 綿 (西播・姫路~ 播 磨 で 生 産 さ れ た 綿 花 を 加 工 す る マ ニ ュ フ ァ ク チ ュ ア が 加古川) 発達する あさ の たく みの かみ な が の り 1701 ろう か き ら こう 赤穂藩主浅野内匠頭長矩が江戸城内の松の廊下で吉良上 赤穂藩取りつぶし(西 播・赤穂) ずけの すけ よし なか き 野 介義央に斬りつけた事件で,浅野内匠頭は切腹,赤穂 じょう だい か ろう おお いし よし お 藩 は 取 り つ ぶ し と な り , 城 代 家 老 大 石 良 雄 に よ る 赤 穂開 ろう にん 城により,藩士の多くは浪 人 となる 1702 てい 赤穂浪士の吉良邸 討ち 入り(西播・赤穂) 大石良雄をはじめとする赤穂浪士 47 人が吉良邸に討ち入 う り,吉良上野介を討 って主君のかたきをとる。 こう せい ちゅう しん やがて切腹処分となるが,後 世 では 忠 臣 とたたえられる あわ じ にん ぎょうじょう る り 18 世紀前半 淡 路 人 形 浄 瑠 璃 (淡路) 人形芝居の座が 40 もあり,最盛期をほこる きょう ほう 1716 18~19 世紀 享 保 の改革が始まる さ てつ はま さか ぬ 浜 坂 縫 い針(但馬・浜坂) ぬ 砂鉄を原料として縫い針がさかんにつくられ,大阪に出 荷される たん ご よう さん 養 蚕 業(但馬) や ぶ 丹後ちりめんと結びついて,養父郡を中心に養蚕がさか んになり,西日本で最大規模となる 竜野しょうゆ(西播・竜 うすくちしょうゆが西日本を中心に広まる 野) み 農具や大工道具など様々な金物を生産し,やがて江戸に き かな もの 三 木 金 物 (東播・三木) まで出荷するようになる 百姓一揆が 200 回近く発生する。一揆のたびに各藩の悪 いっ き 百姓一 揆 (県下) 政が改められたが,一揆の中心となった農民は数多く処 く よう ひ 刑され,その供 養 碑 が残る たか た や か へ え え ぞ ち 高 田 屋 嘉 兵 衛 (淡路・五 商 人 と し て 蝦 夷 地 に ま で 出 掛 け , ア イ ヌ の 人 々 や ロ シ ア 色) 1805 だい に ほん えん かい よ い のう ただ たか 伊 能 忠 敬 (県下全域) 1824 と交易をする いずし そう どう 出石 騒 動 (但馬・出石) ち ぜん ず 大 日 本 沿 海 輿 地 全 図 の 作 成 の た め , 各 地 を 測 量 す る (~ 1814) 出石藩で,家臣が幼い新藩主を除こうとしたことが発覚 し,幕府の裁きを受ける 19 世紀 じゅ がく しゃ いけ だ そう あん 池 田 草 庵 (但馬・八鹿) せい けい 儒学者で,郷里に青谿書院という塾をひらき,多くの人 材を育てる うら が 1853 ペリーが浦 賀 に来航する 1854 ペリーの成果を受けて,ロシアも軍艦を大阪湾に侵入さ ぐん かん プチャーチン(阪神~西 せて測量を行う 播) けい ご これに対して,幕府は各藩に海岸の警護を命じ,尼崎・ 明石・姫路の各藩が警戒にあたる ゆ ら 由 良 ・岩屋の砲台(淡 幕 府 の 命 令 に よ り , 外 国 船 を 警 戒 し て 両 所 に 砲 台 が 築 か 路・洲本,淡路) れる ぶ ぎょう 1863 かつ かい しゅう おお たか す なに わ ざき 軍艦奉 行 並勝 海 舟 の提案により,大 高 州 新田・難 波 崎 (と いま づ 西宮・和田岬の砲台(阪 神,神戸) みなと がわ もに尼崎)・今 津 ・西宮(ともに西宮)・神戸・ 湊 川 ・和田 まつ お ざき 岬 (と も に 神 戸 )・ 明 石 ・ 淡 路 松 尾 崎 ・ 由 良 に 砲 台 を 築 く 命令が出される。 その一部は現在も残る そう れん じょ 神戸海軍操 練 所 (神戸・ 勝海舟の提案により,海軍の術を習得する場が設けられ, 中央) さか もと りょう ま む つ むね みつ 坂 本 竜 馬 や陸 奥 宗 光 などが学ぶ そん のう じょう い し し ひら の くに おみ 8 月 18 日 の 政 変 に 敗 れ た 尊 王 攘 夷 派の 志 士 ・平 野 国 臣 いく の しち ぎょう 生 野 の変(但馬・生野) は,但馬の農村の上流階層の支持を受け,都落ちした 七 卿 さわ のぶ よし の 1 人沢 宣 嘉 を奉じて挙兵し,生野代官所を占領する 1867 ええじゃないか(阪神・ ええじゃないかが発生 西宮) たい せい ほう かん 大 政 奉 還 が行われる 1868 しゃ おく きょ りゅう ち ち 外国人が住むための敷地で,多くの商社が社 屋 を構え,治 神戸居 留 地 (神戸・中央) がい ほう けん 外 法 権 問題の舞台となった 神戸港(神戸・中央) 京都に近く,他の港よりも開港が遅れたが,近畿の玄関 口として発展していく さんの みや 神戸事件(神戸・中央) び ぜん 三 宮神社付近で,備前藩の隊列を横切ったイギリスの水 さっ しょう 兵が備前藩士に殺 傷 される い とう ひろ ぶみ 兵庫県(阪神,神戸) 明 ち じ 摂津の西部が兵庫県となり,伊藤博文が初代県知事とな る ヒョウゴ・アンド・オオ 開港を機に,発行された英字新聞である サカ・ヘラルド(神戸) 治 19 世紀 あらし ジョセフ=ヒコ(東播・ 播磨) そうなん 嵐 で船が遭難 し,アメリカ船に助けられる 通訳として活躍した後,日本最初の新聞を発行し,新聞 の父とよばれた とく しま 1870 徳 島 藩士が洲本の稲田邸をおそう。 いな だ 稲 田 騒動(淡路) か ちゅう 稲田家 中 は北海道に移住させられ,淡路は兵庫県に編入 される 1874 1881 鉄道開通(阪神,神戸) 神戸~大阪間に鉄道が開通する 淡路自由党(淡路) じ ゆう みん けん 自 由 民 権 運動がしだいに広まる 明治中期 マッチ(神戸ほか) い じん かん 異 人 館 (神戸・中央) し 1886 1888 ご せん 子午線 にっ しん ぶ し だん 大正年間 け や しき 陸軍第 10 師団が姫路城武 家 屋 敷 跡などに置かれ,軍都と して発展する にち ろ 1904 1914 東経 135 度が日本標準時となる 日 清 戦争がおこる 姫路師 団 (西播・姫路) 1908 旧ハンター邸などが建設される 山陽鉄道(神戸~西播) 神戸~姫路間に鉄道が開通する 1894 1897 輸出用の高級マッチの生産がさかんになる 日 露 戦争がおこる か がわ とよ ひこ ふき あい しん かわ 賀 川 豊 彦 (神戸・中央) 葺 合 村新 川 にはいる ゆう あい 友 愛 会(神戸) 友愛会の支部が関西で初めて神戸で結成される しゅう らく かん しん かい ち 新 開 地 (神戸・兵庫) プロ野球(阪神) 聚 楽館をはじめ,劇場や映画館があり,県下で最もにぎ わう 現在の阪神タイガースとオリックスブルーウェーブの前 身の球団が相次いで結成される なる お 大 高校野球(阪神) 正 当時は中等学校野球大会で,鳴尾球場などで試合が行わ れる 宝塚歌劇(阪神・宝塚) 宝塚少女歌劇がはじまり,多くのスターが生まれる 県内各地で激化し,神戸では鈴木商店がおそわれて全焼 1918 こめ そう どう 米騒動 しょ ばつ する。軍隊が出動し,主要都市を中心に 200 人以上が処 罰 される 1924 1925 こう し えん 甲 子 園 球場(阪神・西宮) 甲子の年に完成したため,この名となる 淡路鉄道(淡路) ふく ら 洲本~福 良 間の鉄道が完成する ふ きょう 1927 ざい ばつ 全国的な不 況 の中,新興財 閥 の鈴木商店が倒産する 鈴木商店倒産 なお,神戸製鋼などの関係企業は現在も県下で活躍して いる 1931 なお ら のぶ お 明石原人(東播・明石) 直 良 信 夫 が西八木海岸で腰の骨を発見する ぎ ゆう たい 昭和初期 16 歳から 19 歳の青少年 200 名が満州開拓青年義 勇 隊 とし まん しゅう 満 州 開拓移民 て家族から離れて移住したのをはじめ,県下から 27 万人 もの人が移住し,8 万人が満州で死亡したといわれる 1938 昭 1940 すみ よし らん 阪神大水害(神戸,阪神) 住 吉 川などがはん濫 する どく さい さい とう たか お 斉 藤 隆 夫 (但馬・出石) 和 1941 衆議院議員の斉藤隆夫は議会で軍部の独裁を非難する演 説を行う 太平洋戦争が始まる 阪神から播磨の海岸部はたびたび大規模な空襲を受け, 1945 くう しゅう 空 襲 (阪神~西播) り さい 死者 1 万人以上,全焼全壊建物 19 万戸以上,罹 災 者約 78 万人の被害を受ける せん げん じゅ だく ポツダム宣 言 を受 諾 する 1946 1950 1951 のう ち かい かく 農地改革 おお じ ぬし 大 地 主 制度が解体される 警察予備隊(姫路,伊丹) 基地がつくられる ラジオ神戸 現在のAM神戸が開局する 1952 各地に生息していたが,開発や農薬の使用で減少する コウノトリ(但馬) この年に特別天然記念物に指定され,のちに兵庫県の県 鳥となる 1956 政令指定都市(神戸) 神戸市が指定を受ける 国際連合に加盟する 1966 ポートアイランド(神 埋め立て工事に着工する 戸・中央) 1972 山陽新幹線(阪神∼西 大阪∼岡山間が開通する 播) おき なわ 沖 縄 が日本に復帰する 1981 はく らん かい ポートピア博(神戸・中 央) 1985 人工島のポートアイランドで地方博 覧 会 ポートピア 81 が 開催されて人気を集め,全国的な博覧会ブームの引き金 となる ユニバーシアード(神 世界の大学生のスポーツの祭典が開催される 戸) 1993 世界遺産(西播・姫路) 姫路城がユネスコの世界文化遺産に登録される 1994 但馬空港(但馬・豊岡) 但馬空港が開港する 1995 1997 平 成 1998 阪神淡路大震災 スプリング8(西播) 明石海峡大橋 大規模な都市型震災で 6000 人以上の犠牲者を出し,多く の建物が倒壊した 播磨科学公園都市の 1 つとして,大規模な研究施設が建 設される 本州四国連絡橋の 1 つとして開通し,パールブリッジと 呼ばれる はな はく 2000 淡路花 博 (淡路・東浦) 世界の花と緑が集まる博覧会が開催される 2002 サッカ−ワ−ルドカッ イ ン グ ラ ン ド 代 表 チ ー ム が , 淡 路 島 で ベ ー ス キ ャ ン プ を プ(淡路) 同(神戸) 行う 神戸ウイングスタジアムが会場の1つとなり,ブラジル 代表対ベルギー代表など3試合が行われる
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