「八重山古陶」展関連文化講座 なぞの多い湧田焼

壺屋焼物博物館紀要
第 9号
2008.3
「八重山古陶」展 関連文化講座
なぞの多 い湧田焼
もの作 りの視点 か ら考 える
講 師 :大 嶺賞清氏
日時 :平 成
19年
7月
31日
(火 )
場所 :那 覇市立壺屋焼物博物館 3階 図書講座室
いつ も物 を作 っていなが ら思い ます け ど、物作 る原動力 と言い ますか、 エ ネルギ ー みたいな
ものは感動 か ら始 まってい るよ うな気 が します。感動す る もの に 出合 った時、奮 い 立 ちます
ね。 それを繰 り返 して とうとうこの歳 にな りま しけ ど、 自分 自身 を語 る しかないので、 研究家
で もなんで もないので、非常 に 申 し訳 ないです け ども、過去 か らい ろい ろ見 てきた こと、 つ ま
り八重 山 との係わ りとか、焼物 との係わ りの中で感 じた ことを今 日は雑談 めいた ところで ご勘
弁願 い ます。
僕 は二 十歳代 の 頃 までは、 まさか焼物 をや る とは思 ってい ませ んで した。絵 とかそ う言 うも
の 、文学 も含 めてそ う言 うものが非常 に好 きで した。 ところが或 る 日、突然 おか しな フォル
ム、 「何 だ これは ?」 と言 うフォルムに出合 って、 開眼 され たよ うな気が します。 それがたま
たま琉球南蛮 だ ったのです 。 「えっ
!」
と思い ま した。僕 はヤ ンバ ル の田合 に生 まれ ま したけ
れ ど、廃藩 の 頃 の落武者達 です よ。泊の製塩業、塩炊 きの技術 を持 ってヤ ンバ ルに下 りた先祖
です 。 まさか焼物 に 係 る とは思 わ なか ったけれ ど、 出会 い ま したね。 そ して 、暫 くす る とま
た、 「 これ何 だろ う ?」 と言 うものに 出会 い ま した。 これが パ ナ リ焼 のフォル ムで した。 なん
だか解 らないけれ ど、大好 きで したね 。友人 が持 っていて、通 って通 ってそれを見せ て もらい
ま した。その頃か ら八重 山で焼 かれ た ものだ と言 う ことが解 って きて、八重 山へ の思 いが 強 く
な りま した。 そ して丁度 1970年 代 、僕 は首里 に最初窯 を造 ったんです。 とうとう堪 らな くな
って。 若 さの至 りで しょうね。 何 か エ ネルギ ー が有 り余 っていたのか も知れないです。首里 に
窯を造 った前後 に、 パ ナ リヘ 渡 りま した。 そのパ ナ リとの出会いで、八重 山 と言 うものが非常
に濃 く見 えて 来 たよ うな気 が します 。 賜 りしな石垣 あた りに、 あ の 頃丁度 70年 代 と言 うと、
沖縄 の 骨童 ブー ムだ ったんです 。 しまいには墓 荒 らしまで始 まった時代 です。 70年 か ら80年
手前 まで。 お よそ 7・ 8年 、 まあ 10年 位 と見 たほ うが いいですね 。骨董 ブー ムで した。 とにか
く石垣 あた りの物 を集 めてい る人達 の所 へ 寄 っては見 せ て もらって、次第 に物 が見 えてきた と
言 うか 、 ああ これ は何 だ と言 う こ とが。 そ うい う風 な繰 返 しを 80年 代 までず っ と続 け ま し
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た。その中でパ ナ リの他 に、今 日展示 しているような釉薬が掛 った もの とか 、重 たい もの と
か、それか ら土味の非常にいい、あの頃 は宮良焼 とか言 って呼んでいたのですが。 ここで言 う
無釉 の、つ ま り荒焼 と呼ばれている焼物が大好きで した。そ して帰 りに海岸べ りを通 っていた
ら、日辺部、つま り口だけが どっと見えているんですよ。 「あれ、 これ何だろ う ?」 と蹴飛 ば
そ うとした ら動かないんです。それで、漁 ってみたらでっかいやつ が出てきま した。そ うい う
出会 いが散 々二十歳代 にあ りま した。今思 うと、ちよっと記録でもしておいた らす ご く良か っ
たのに と思 うくらい、骨董 ブー ムで物が出てきていま した。 これは本島でもそ うだ し、八重山
で もそ うなんです。一杯 出ていま した。それ で今 日話題 にな りそ うな、八重山で も湧田系の焼
物 が焼かれていたのか と言 う、僕の中で これは仮説ですけ ど。 こ うして八重山で も焼かれてい
た と、ある程度答 えを出 して今 日も展示を していますね、 こんなマカイ (碗 )で すけ ど。湧田
系 のマカイ とは上 向 きにサ ッと開 いた、そ して見込 と言 う底の径が非常 に大 きいかな り広めの
マ カイです。後でそれにも僕 は出会 うんです、 「え― っ !こ れ何だろう ?」 と。それで調 べ て
いった ら湧田系、湧田焼 と言われている物だ と言 うことが解 りま した。そ して、湧田 とは どこ
だろうと追跡 した ら、今の県庁あた り、壷川か ら国場のあた りまで含めて昔は湧田地方 と呼ん
でいます。そ こらあた りで外来 の陶工達が来 て窯をやっていたんだ と。それを湧田焼 と言 うん
だ と先輩 たちの説明だったんです。それで、あの頃か らこ うい う物が どうい う経路で入 って、
沖縄 に着いて沖縄の物 として使われ ていたのか と。それがず っと後なんです、今みたいにち ゃ
ん と化粧 されて絵付けもされている焼物は。今 日一番話題 になる仲村渠致元 と言 う人、那覇 の
壼屋が 1682年 とされてい るか らその辺を基準 に、そのち ょっと先 に平田典通 とか、琉球の正
史 にちゃん と記録 が残 っている人達 の名前があるんです。僕が今言 っている湧田焼 と言 うイメ
ー ジは、 もっと前のイメージでず っと考 えていました。湧田に行 って壷屋 に統合 される以前 ど
うい う焼物があったのか。 これは今 もそ うなんだけれ ど、物作 りは需要 と供給で主に成 り立 っ
ているんです。需要のない ものは消 えます よ。だか ら、当時 どうい う需要で湧田マカイが焼か
れて いたのか と言 うことをす ご く考 えるんです。今 は作家が物を作 る時代 と言われてい るか
ら、そ う言 うことはあま り関係な しに得 て勝手 に造形 しますね。そ うではな くて、あの 当時 と
い うのは恐 らく産業 としての位置づけ、王府は今で言 う一 大プ ロジェク ト、それを汲んで壺屋
に窯 を統合 し、それか ら留学生 も送 った りして琉球 の一 大産業 プ ロジェク トとして当時焼物を
進めていた と思われる。そ うい う中で、 この湧田焼 と呼ばれている外来 の陶工か ら始 まる と言
われているんですけれ ども、それが どのような形で平田典通 とか、初期壺屋に どのように受け
継 がれてい くのかがす ご く課題なんです。年中そんな ことを考 えて、それ くらい湧田のマカイ
と言 うのは僕 の 中では良いマカイです。鉢 に使 って も良い し、首里の ころか らこれを作 り出 し
たんです。かな り量 も作 って、小 さな個展で鎌倉 とか秋田あた りにも行 っています。それか ら
富山あた りでも何回かや りま した。茶人たちにも非常に好 まれます。換茶碗 くらいには使 える
とか言 って。 しか も、湧田のマ カイの場合はす ご くシンプルですね、仕事その ものが。土で作
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って、化粧 とかない時代 ですか らお化粧 も していない。な い 時代 と言 うよ りも、福建 か ら南側
の仕事 だ と僕 は見てい るんです けれ ど。景徳鎮 とか北の方 はいち早 く化粧 もや られ てい るんで
す。素地、 つ ま り作 って この素地 に直掛 けされて い る仕事 です。釉掛 け と言 う点 で もす ご くシ
ンプルで す。実 は僕 が惹 かれてい るのは、釉薬 よ りも形 です。 そ して手 に取 って使 う感触がす
ご く良 い と受 け取 ってい るんで。 そ うい う良 い 物 が どうい う経路 で沖縄 に入 って きて 、そ して
ここで成長 してきたのか。そ してそれが今 日の展示会 で、八重 山で も焼かれて いたんだ とい う
き っかけを作 ってい る。僕 が 日頃考 えてい た仮説み たいな ものが、何 かその辺 でそ うい う風 に
な るのかな と今思 った りして、今 日感慨深 く展示会 を見 てきたんです。八重 山 も湧 田系 の物 が
焼 かれてい たんだ と、 は っき り展示 もして い るので嬉 しくもな るんです けれ ど。で も、 まだだ
いぶ 疑 問 が残 ります。焼物 を見 る場合 に一 番正確 なのは、窯跡 を調査 して窯か ら出た陶片、 こ
れが もうは っき りこれだ と答 えが 出るんですね。そ うで もな い 伝世 品 とか、 どこかで拾 った 陶
片 とかで は、な かなか何処産 とは言 い に くいで すね。仕方 な く皆言 ってい る と思 うけれ ども、
間違 い も一 杯 あ るみたいですね。僕 自身 も解 らな い ときは、 この辺 じゃないか とよ く言 った り
します けれ ども。窯跡 か ら出た と言 う物 が割 と沖縄 の場合少 な いんです。 これ はい ろい ろ理 由
もあ るんで しょう。考古学 的な見地か ら、例 えば県 あた りが予算 も掛 けて とい う ことが 非常 に
希薄 だ った、弱か ったんで しょうね。 だか らせ っか くあ ったのに、それがあま り調査 されてい
な い 。例 えば古我知焼 ってあ ります よね。 あれなんか僕 の 高校 の 頃なん か 、 パ イナ ップル ブー
ムが来 てその時点 で窯 を全部 ひ っ くり返 したんです。畑 にな ったんです。 それ を憶 えてい るん
です。窯の形 もこれが焼物 の窯 の 跡 だ ったよ と憶 えてい ます。 あ の 頃今 み たい に調査 が入 って
や っていれば、 もっ とは っき りしたで しようね。 これは どこの窯 で も言 えるんです よ、八重 山
で も本 島で も。つ い この 間、明治 ち よっ とあの辺 の ことで もは っき りしな い くらい だ と思 うん
です。そ うい う こともあ って今非常 に混乱 してい るよ うで、何処 や る何処 や る と言 うのは。 こ
れ は八重 山であ る、そ うでな い と。 プロに近 い 人達皆今 そ うい う風 に混乱期 にあ るんです。 そ
うい う ことを考 える と、物 を作 る視点 か ら感 じた ことを 言 うの もいいのかな と思 って話 してい
るんです け ど。湧 田系 です け ど、仲村渠致元 と言 うのは家譜 か らい ろい ろ専 門 の 人達 が調 べ て
い る こ とか らす る と、湧 田系 の 陶 工 であ つた とい う こ とが言われ てい る。 つ ま り、上手物 の 方
の 陶 工 と言 うか。王府 はですね、僕 自身 の 中 で もち ょっ と誤 解 が あ ったのは、壺屋 の 南 ヌ窯、
東 ヌ窯 があ りますね。南 ヌ窯 は荒焼 と言 われてい ますね。東 ヌ窯 は上焼 なんです よね。 それを
混 同 して分 けて考 えていたんです。 ところが王府 としては、荒焼 を主体 に一大 プロジェク トだ っ
た とい う ことが 、 よ うや く何 か産 業 の立 場 か ら考 える と、 これが 当た り前 なんです。 だか ら後
に荒焼 の人達 がす ご く経済的 に良 くて壺屋 のカー ミー 達 と言 われ るのは、皆荒焼 の 大 工 さんた
ちだった と見 られてい ますね。 一 方 では上焼貧乏 と言 う言葉 があ って、上焼 の 方 は何 か ち ょっ
と軽 く重みがな い 感 じで受 け取 っていたんです け ど。 それ はそ うではな く王府 の 力 の入 れ方 み
たいな、特 に上 手物 と言 うのは交易 品、 つ ま り琉球 時代 と言 われ てい る約
―
H―
300年 、 14・
15。
16世 紀。薩摩 が入 って くるのが 17世 紀 の初 め、 1609年 。薩摩が入 って来 る以 前交易品 で満 ち
満 ちて いた と言 う記録 もあ るので、相 当南方系・ 中国系 の焼物 が琉球 には入 って きたんです。
僕 は感 動 の 話 を最初 にや ったんだけ ども、僕 自身 も感動 を受 けたのは、そ の 頃 に入 って来 た も
のが 沖縄 の巷 、 つ ま り田合 の納屋 とか 台所 で使 われ た り、寝 て使われず にあ った。 それ に 出会
った。 それが 1970年 代 の 骨董 ブー ムの 出会 いなんです 。 一 杯 あ りま した。本 当 に一 杯 と言 っ
た表現がいいですね。亡 くな った山里永吉 さん とか、 当時 は したたか コ レクシ ョン熱 の 強 い 先
輩達 がお られ たね。 その人達 が 一 杯 コ レクシ ョン して持 ってお られ たね。 これが 1970年 か ら
1980年 代 の 頃。 そ して 同 じよ うに八重 山 で も コ レクター が 一 杯 いて 、持 って る人 に見せ て も
らった りしま した。 そ うい う時代 が沖縄 に一 杯 あ った とい うこ と。今考 える と本 当に仕事 した
な と、 あ の 頃物書 きで もあ って、 い ろい ろ調査 をや ってい る ともっ と資料 もは っき り出てきた
と思 うんだけ ど。 そ こでですね、湧 田系 のマ カイが初期壷屋、壺屋 の最初 の 頃 に どの よ うに被
さって、繋 げ られてい ったのか、仲ホ寸渠致元 あた りに。仲村渠致元 と出て くるけれ ども、恐 ら
く致元 だけではな くて、周辺 にはい ろい ろな陶工 たちが一 杯 いた と思 うんです。王府 に 目を つ
け られ たのが、た またま仲村渠致元 だ と思 います。王府 は産業 を興すの にそ う言 う人 たちを う
ん と起用 してい る。 それで王命 で留学 もさせ た り。役人達 も付 けて、恐 ら く他 の 陶 工 達 も付 け
て八重 山あた りに も行 ってい る と思 うんです。上焼 の 系統 だか ら、 つ ま り湧 田系 の 出だ か ら上
焼 だけを させ よ うとい うのではな く、恐 らく喜名系 ・ 知花系 そ う言 う陶工 も含 めて一 大 プロジ
ェク トとして、産業 として王府 は捉 えていた と思 った方 が、非常 に解 りいいのではないか と思
い ます。 そ してたまたま これは何 か焼締 め系 の仕事 だ と分 けて考 えて来 たけれ ども、 そ うでは
な く、 当時は一 大 プ ロジェ ク ト、上焼 も一つ にな って どの よ うな産業 を興す のか躍起 にな った
時代 だ ったのではないか とい う気 が します。 そ してひ とつ非常 に不思議 な こ とがあ るんです。
湧 田系 の 鉄絵 が差 され、 これ も見事 なん だけ ども。 た また ま この 鉄絵 の 入 ったす ご く品の あ
る、あれ だけの マ カイは今 の 陶 工 ではち よっ と挽 けな い じゃないか と僕 は思 ったね。挽 いてい
ていつ もそれを感 じます、何 だろ うって。 それ位 の物 が宮古 か ら一 杯 出 たんです。 これが不思
議 ですね。 あ の 頃 の 流通 、 つ ま り産業 の 流 れ を考 え る と、本 島 で作 った 物 が 宮古 に渡 ったの
か、八重 山 で作 られた物 が 宮古 に渡 ったのか。 そ う言 うい ろい ろな思 いが 交差 します。 その辺
を これか ら突 き止 めて行 きたい。 も し八重 山 で焼 かれていた とす る と、仲村渠致元 あた りが行
って始 め たの ではな くて、八 重 山 の 産業 を振 興 したん です よ。 前 々か ら窯 は あ るわけ なん で
す。 ところが振興 した とい う ことで捉 える と、良い ものが向 こ うで出来 ていて も当た り前、お
か しくない、そ うい う感 じですね 。 そ うす る と本 島 で作 られ た物 が宮古 あた りに渡 って行 った
のか 、 それ が は っき り見 えて くる の で はない か。 そ して も う一つ の 決 め手 は、宮古 のサ ンゴ
礁、テー ブルサ ンゴでできたお 墓 があ るんです。 あの 中 に無縁墓み た いにな った ものを何基 か
見 た こ とがあ るんです。若 い 頃 ですか ら平気 で見 に行 こ うと言 って見 に行 ったんです 。 中 に一
杯入 って ま した、副葬品 として。 そ うい うものが沢 山出 て来 たんで しょう。 良 い と思 った もの
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が殆 どそ うい う風 に埋 葬 された物。副葬 品をお寺 か ら2・ 3点 貰 った覚 えがあるんです け ど。 そ
うす る と、仲村渠致元 とか平 田典通、 つ ま り壷屋 が 1682年 です よね。 その以前 に どうい う焼
物 があ ったか とい う ことを考 える と、 もう湧 田 しかないです 中国系 の。 それ も王府 との関係 も
恐 らく居 つい た と思 い ます。県庁 を作 った時 もい くつ か窯 が発掘 され たんです湧 田系 の。 とこ
ろがそ こか らは、 100年 、 50年 その辺 の違 い あ る と思 うんでち ょっ とはっき り言 えないん だけ
ど、湧 田 のマカイ は殆 ど出なか ったですね。瓦 とかそ うい うもの しか出なか ったね。 唯一 湧 田
系 が沖縄 で発掘 され たのは、僕 はあの頃 まで商業高校 にいたんですけ ど、友人 か ら電話 がかか
って きて 出 たよって言 うか ら、壼川 にオキ コがあ った時代 です、そ この何 かの工事 で出てい た
んです。捨 て場 か窯場かの確認 は 出来 なか ったけれ ど、若干拾 った ものが今 の 県 博 に資料 とし
て 入 って ます。 明 らか に湧 田系 のマ カイです。学芸 員 が古我地 で発掘 され るもの と違 いを 形態
で調 べ よ うとか、 い ろんな試 みをやて い るけれ ど、形態 だけでは難 しいんです。 ただ、古我地
と湧 田 の 関係 で言 うと、土 は南部層 にはないんです。殆 ど北部 圏 の土 なんです。 だか ら昔 か ら
ヤ ンバ ル 船み たいな、その もっ と前 は どんな船 か知 らな いけ れ ど、船 で運 ばれてい る可能性 が
強 いで す、原料 の上 は。 それか らす る と古我地 で出る湧 田系 の ものは、 ここか ら陶工 が行 って
作 ったのか 、元 々あそ こに も中国系の陶工が入 っていてや ったのか 、そ の辺 の こと も非常 に不
明 です。 とにか く土 はないです よここには。南部層 とい うのは 、 クチ ャって与那原 あた りに一
杯 あ るで しょ、 クチ ャを母岩み たいに考 える とそれの風化物 なんです よ。 クチ ャの風化物 とい
うのは 、 ここでよ く言 う島尻 マー ジ とい うのがあ ります よね。 それか らジャー ガル。 こ うい う
ものが風雨 に打 たれて流 れて い って低 い所 に堆積 してできる。 そ うい う土 はい っぱいあ るんだ
けれ ども、那覇 の与儀公 園、そ こらあた りは昔 は皆 田回な んです。 ジ ャー ガル の堆積土 なんで
す。 それを辿 ってい くとクチ ャの 山が い っぱいあ るんです。 そ うい う風 に して土 は出来 てい ま
す。 そ うい う土 は南部 にい っぱいあるけれ ど、鉄分 の少 ない湧 田 に使 われてい るよ うな土 は、
殆 ど出 て こな いで す。県庁 で (発 掘調査 )や った 時 にち よっ と黄色 っぱいな と思 う土 が 出たけ
れ ど、焼 いてみたんですけ ど古我地 マ カイの肌 にはな らな い 。 だか ら殆 ど土 は北部 か ら運んで
い る可能性があ る。 そ して もう一つ は 、八重 山 と こ うして関連 して考 える と、八重 山 には土 が
一 杯 あるんです。 だ いたい八重 山 の上 ってい うのは、於茂登岳 ってあ るで しょ。 あの於茂登岳
って 言 うのは 、母岩 が花 南岩 なんです。 その母岩 の 花 向岩 が風化 して 、 その風化物 があの辺 の
土 なんです。 その風化物 とい うのは白土。沖縄 で よ く赤土、 白土 って 言 う、 白土 がい っぱいあ
るんです。それを もっ と詳 しく見 る と、珪石 、長石 と三拍子揃 ってあ るんです。何 で もあ る と
言 って 良 い くらい 。上 の条件 で言 うと、本 島 よ りはるか に八重 山 の 方 がいいです よ。平 田典通
に して も、仲村渠致元 に して も、土調査 を うん とや ってい るんです。 よ くその気持 ちは分 か る
ん だけ ど、焼物 は土が分 か らない とだめなんです よ。土調査 の 記録 もい っぱいあ るので、分 か
ってい た と思 うんです。 も し本 当 に分 か って八重 山 に王 府 が彼 を仕 向け てい るんだ った ら、王
府 も偉 いで す。産業 を興せ たわけなんです。今 で もそれ は間違 いな く興 せ るんです。 それ くら
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い土 とい う条件 では、八重 山はす ごいです 。 だか ら致元 あた りが いい技術 を持 って 向 こ うで 3
年 くらい居 て、周辺の連 中 は残 ってい る人達がい っぱい居 るか ら、或 いは地元 の人達 も含 めて、
腕 を鍛 えていけばいい ものが出来 るんです。 それが
18世 紀頃 に花 咲 いた とい う ことだ と思 い
ます。本 島で も 18世 紀 に花咲 いてい るんだけれ ども。そ うい う人 々の 、王府 の財力が裏 にあ っ
て、産業 としての位置付 けがき っち とや られてい る時代 と僕 は見 てい ます。 その時代 はす ご く
良 い ものが出来 てい るんです。それが いつか観宝堂 が浦添美術館 で「沖縄 の古 陶展」や ったで
しょ。 あれが 一つ の証明 にな りま したね。あれは
18世 紀 を選んだのではないです よ。 良 い も
のを 何十 年 かか って、骨董屋 を通 して 出た もの を追跡 したん です。 良 い もの は あ っち こっ ち
18世 紀。 これ は今 言 った よ うに、典通、致元 のあの流 れの中
で王府 と一 緒 にな って産 業興 しをや った一つの結果 だ と思 い ます。 それが 18世 紀 に花 咲 いた
チ ェック して、集 めた結果殆 ど
んです。県庁 の役人達 に僕 はたまに言 うんです。 あの頃は工府がや ったので、今税金使 って 県
がやればいい じゃないか 、 国 の金 も動か してそ うい う産業興 しを、工芸産業、焼物興 しをやれ
ばいい じゃないか と言 い たい ぐらいで す。 一 向 にや らないですね。全 くや らないですね。 も う
最近僕 なんか も歳 くった ので、あ ま り言わな くな りま した。半分諦 め ま した。 で も諦 め ませ ん。
次 の世代 にやれ る時代が来 るよ うな気 が します。 今 、 ス ロー フー ドとか、 自然 を大事 に しよ う
とかい ろい ろあ る時代 だか ら、 いつ かそ うい う時代 が また来 て もおか しくない。特 に 日本 は 、
和食 と言 う食文化 を持 ってい るで、その和食 が きち っ と伝 え られて、その和食 と焼物 は表裏一
体 なんです。和食 の 美、 つ ま り極 め とい うのは焼物 の極 め と一つ なんです。 そ うい う文化 を歴
史 的 に 持 ってい るので、可 能性 と して はあ る と思 い ます。 (話 が)変 な所 にい ったん だ け ど、
そ うい う風 に考 える と八重 山 で 湧 田系 の焼物 が致元 あた り、その周辺 の 陶 工 達 が仮 にや った と
した らこれ は面 白 いで すね。産業が興 ってい るんです よ。 それが仮 に、 これ仮説 です よ。本 島
か ら運ぶ よ り八重 山か ら運ぶ方 がいいのか も。今 は飛行機 で も行 け る時代 だか らそれが見 えな
いけれ ど。当時 離島 とい うのは大変 なんです、船 で行 き来す る とい う ことは。それを考 えた 時 に、
当然八重 山で興 った産 業 が、 出来 た物 が 宮古 に運 ばれ て もおか し くはな い。 それが た また ま、
宮古 の あ の古 いテー ブルサ ンゴのお墓 の 時代 に。 あのお墓 を気 にす るのは、僕 はあの時代 を気
に してい るんです。 あ の 時代 に一 杯副葬 品 として入 っていた とい うことが 、す ご く面 白いです。
これを誰かが解 き明か して もらいたいで すね。だか ら学芸員 も こ うい う所 ば っか りに いないで 、
そ うい う調査 もや ってほ しいんです。沖縄 の可能性 の 一つ ですか ら。一 大産業 を興せ るんです。
それ くらい感 じのいい食 器 ですね物 が。現代の 目か ら見 て も、あの鉄絵 も。 あ の鉄 と言 うのは、
二 酸化鉄 を材料 的 に言 うん だけ ども。本 島 で 出 る マ ンガ ン、 これ で も鉄絵 は 出来 るんです よ。
鉄分 の パー セ ンテー ジが違 うだけで。 マ ンガ ンだけでや って 、上 か ら透明釉 を掛 け る と鉄 絵 に
なんです。そんな ことか らす る と、八重 山 の 方 が 優 れて い る。木節 (キ ブシ)と い う土が あ る
んだけ ど、そ の木節 も、沖縄本 島 に も古我地 の近 くに ビーマ タ (為 又 )と 呼 んでいる土 があ る。
ち ょっ と木節 に近 いんだけ ど。純然 たる木節が八重 山 にはあ るんです。灰色の上 なんです け ど。
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その木節の隣には必ず鬼板 が層 にな って、鉄分 が固 まって い るんです。何千年、何万年 の 間 に
花 聞岩が風化分離 して 、鉄 は鉄、 白は 白でそれが 隣一 帯 であるんです。厚いのでは
あるんです。 ところが普通
1・
4・
5 cmも
2 cmく らいの薄 い層 なんです。 これを鬼板 と呼ぶ。 ここでは コー
イル ー とも呼ぶ、マ ンガ ンも含 めて。そ うい うもので鉄絵をや る。鉄絵 の運筆、
筆跡す ごいで す。
これ は今 日の展示 に もい くつ か入れて ますね。 どう見 て もあの絵 は、未熟 な人達 ではない よ う
な気 が します。写 しを してい る、運筆が良いですね。相 当鍛 え られ てい る人達 が、 あの頃か ら
絵 師 とかい ろい ろあ ったのか僕 は分 か らないけれ ど、それ に近 い形 です ご く鍛 え られ た人達 が
絵付 け も してい ますね。真似 て僕 なんか もよ くや った りす るけ ど、な かなか絵 にはな らないで
す。それ くらい 品が良 い と言 うか、 もの 自体 が。 もちろん中には素人 に近 い初期 陶 工 達 が作 っ
たの もあ る と思 い ます。「え一 っ
!」
と思 うの もあ るけれ ど、中 には秀 品があ る。 これ は どこ
の博物館 に持 って行 って展示 して も、 まずす ごいん じゃないかな。亡 くな った考古学者 に三上
次男 さんてい ますね。彼 なんか も僕が首里 に窯を始 めた ころよ く出入 りして もらったんだけ ど。
あ る 日僕 の工 房 の こ うい う物 を見 て、「え っ !こ れ 中国だな」 と言 って見 て ま した。 それ くら
い ああ い う人達 が見 て も品があ りますね。僕 なんか品があるのが好 きだか ら、美 しい ものは大
好 きなんです。感動 とい うのは皆そ の辺 なんです よ。感動 しない ものは、 どんなに有名 な人 が
作 って も僕 はあま り興味ないですね。今 、湧 田 の 良 い物 とい うのが仮 にあ った ら、いいですね。
文句無 しですね。 これ、物作 りの世界 で誰 に見せ て もおか し くな い。 それ くらい 感 じますね 。
復 帰記念 事業 で 濱 田庄 司 が監 修 した、『沖縄 の 陶器』 とい う こん な分 厚 い 本 が あ ります よね。
あの 中に最初 に何点 か 出 て くる、あれ も秀 品 です。 あれ は益子参考館 に収 まって ます。 そのあ
と調査 で我 々 も行 って見 た りしたん だけ ど、す ごいで すね。見込み の 広 さ とか、高台が割 りと
広 いで す よ。 だか ら鉢 に も使 える、碗 として ももちろん使 える。 もって こいの器 ですね。 和食
にす ご く適 してい ます。鎌倉 あた りに持 って い くと、す ご く喜 ばれ ます。今作 った もので も。
だか ら、あれ ぐら良 い物 が仮 に今作れ た ら、 これ だけで も勝 負 できます。八重 山 の 物 を、向 こ
うではあ ま りいい ものは出来 ていないのかな と思 っていた 自分 が、次第 に皮が剥 けて、いやい
や これ はす ごい と、八重 山を うん と見直す よ うにな りま した。物 は うん と多 く見 て 、何度 も何
度 も見 る こ とがその物 を見抜 く力 にな るんです。 どんな に頭 の 中だけ で観念 的 に研究 して も、
物 の よさ とい うのはなかなか見 えないのではないか と思 い ます。 だか らあ っち こっちに あ る良
い物 を多 く見 て、特 に良い 物 を見 て、悪 い 物 は見 ない方 がいい と言われ て ます。資料 とい うも
の は。悪 い 物 ばか り集 め て使 ってい る と、良い ものが見 えな くな るみ たいです。 だか ら逆 に、
良 い物 を どん どん見 てい た ら、悪 い物 も見 えるよ うにな るんです。子 ども達 は まだ良い物 が分
か らないか らと言 って、「ウ レー タカサ ン ドー 、 さわ るな」 と、 これ は大 間違 い です。子 ども
の 頃か ら良い物 を、それを見 せ て感 性 を養 わな い とや っぱ り需要 とい うのが 出て こない。芸術
家が物 を作 る とい う ことは、 これ は も うほ っ といていい。 これ は勝手 にや ります作家 が。 とこ
ろが 日用食器 とか、 日常 の物 とい うのは産業 で捉 えない と物 は良 くな らない。産業 とい う こと
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は何か と言 うと、需要 と供給 なんです。 どうい うものが需要 としてあ るのか とい う こ と、その
需要 に応 えきれない産業 とい うのは潰れ ます。 どんなに伝統 で も。 だか ら、 しっか り目を肥 や
す人達をまず増やす。子 ども達 には積極的 に良い物 を使 って もらって、目を肥 や して も らって、
それが青年 にな り大人 にな った頃は、す ご く需要が高 まる と思い ます。教育改革 とか色 々言 う
けれ ど、ああ い う改革 だけでは、今言 うよ うな需要 とい うのは僕 は 日本 か ら消 え るん じゃない
か と危惧 してい ます。危 うい と思 い ます。そ うい う教育 は してないですね。 良 い 物 が どうして
見 えるのか、良い物 とは何か とい う話 を少 しさせ て ください。首里 の 窯 (作 った年 )が 1970
年代な んです。 そ して
10年 くらい居 て読谷 に移 って約 30年 経 ちま した。 この 30年 とか 40
年 の経過 の 中で、 ひ とつ感 じてい るのは、今僕 の工 房 に買い物 に来 るお客 さん は、首里 でお付
き合 い して 一 緒 に育 ったお母 さん 。お父 さんの子 ども達 の 時代 にな ってい ます。「え っ !あ の
お父 さん、お母 さんの子ね」 とい う人達 が今 ものを買 い 漁 る時代 にな りま した。 だか ら、 自画
自賛 じゃないけれ ども、 一 緒 に育 って来 て るんだなあ と感謝 して ます。親 とい うのはそ うい う
何 か責 任 があ るよ うな気 が します。 ただヤチム ング ヮー 程度 に思わないで、や っぱ りいい もの
を常 に求 めてや っ と 3・
40年 では、 だ って致元 の話 な ども、正式 には 80年
くらいで
18世 紀
にあの結果 を出 してい るんです。だか ら、100年 努力す る とい う ことは、す ごい ことなんです よ。
1世 紀 の 内 に 3世 代 くらい あるのかな。 自分 の世代 を責任を持 って、そ うい う良 い物 を使 って
い くとい う ことを や る と、100年 待 たな いで す。それがあ の 時代 の よ うな気 が します。 それ も、
王府 も一 緒 にな ってや ってい るんです。 ただ、僕 は王府 が南 ヌ窯 だけを作 った と今 まで思 って
いたけ ど、途 中 か ら、待 て よ これ は違 う、王府 はそんな ことや らない。 一 大 プ ロジ ェク ト、産
業興 しを始 めた と。薩摩が来てか ら後、交易 品が下火 にな って、外か ら入 って くるもの よ りは、
作 らざ るを得 な くな ったんですね。 その時 に平 田典通、致元 とかその他 一 杯、王府 が 目を付 け
て一 緒 に奮 い立 ったんだ と思い ます。 だか らそ うい う意味で は、初期壷屋 とい うの は良き時代
なんです。 それを学 ばず して、焼物 はない よ うな気 が します。初期壷屋大好 きですね。 その流
れの中に、今 日の 展示 の八重 山 の焼物 もあ るわ けです。 そ うい う風 に考 える と、八重 山 の もの
が これか らもっ ともっ と発掘 されて、分 か って くるん じゃないですかね。 と言 うのは、土が良
いんです。焼物 の原料 としては、沖縄 で八重 山が (一 番 )。 あ の於茂登岳 の周辺 は全部土 なんです。
川平湾 は水 が綺麗 と皆 よ く言 うで しよ。 濁 らないです よ。 あれ何 でか ご存 じですか。何 時行 っ
て も水 が綺麗 です よ。あれはバ ックに於茂登岳 の あ の風化物、つ ま り珪砂、珪素分 の砂、90何 パー
セ ン ト珪砂 です よあれ は。上 流 の 方 は 溜 ま って い る砂。 だか ら明治 の 頃 に これ を材料 に して、
焼物 をや ろ うとした試み もあ った と言われて い ます。珪砂 なんです、手 です くうと
90パ ーセ
ン ト、 99パ ーセ ン ト珪砂、 いい 所 にな る と。 まあ、溜 ま りの所 はち よつ と泥分 も溜 まってい
ます け ど。 その珪砂 があ る とい う こ とは、 バ ックに長石、珪石、 よ く言 う木節、 白土 が 一 杯 あ
るんです。 ただ、耐火度 の 高 い メー ガ ニ クー (前 兼久 )と い うのが 、 まだ向 こ うで良 い 層 はあ
ま り見 つ か っていない。 だか ら、八重 山 の ものが重 い とい うのは、 ただ下手 で重 いのではな く
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て、 ロ ク ロ挽 きが下手 だか ら、 まあそれ もあるけれ ども。 中 には秀 品 がある とあれ だけ重 いん
です よ。それにメー ガ ニ ク とい うカオ リン系 の土 があるんです け ど、 それを本 島で は昔 か ら混
ぜ てい ます。壼屋 にマカイ土の調合法 と言 うのが 、僕 はあの亡 くな られ た小橋川 さんか ら聞い
てメモ した ものがあるんですけ ど。それにナカ ドウマ イ (仲 泊 )と い う言葉 が入 って るんです。
そ して メー ガニ クが入 ってるんです。 クチ ャ とい う言葉 があ るけれ ど、それはち ょっ と理解 で
きないです。何 を クチ ャ とあの辺 で呼んでい るのか。お年寄 りに聞 くけれ ども、 ち ょっ と不 明
低 いんです よ温度が。
です。南部 で言 うクチ ャ じゃない と思 う。クチ ャと言 うのは低下度 だか ら、
クチ ャを混ぜ た ら、そん なに高火度 で焼 かれ て ないか らクチ ャを若干混 ぜ たの か な と思 って
や った りす るんだけ ど、 どうもクチ ャ じゃない よ うな気 が しますね。 そ うい う風 に、音 は職人
気質 と言 うんです け ども、職人 と言 うのが、土 か ら一 貫 してそ うい う技術 を身 に付 けてい る。
その時代 は良い物 が出来 て ますね。今 はメー カー 物 を使 うか ら土 が分 か らな くて も、焼物 は 出
来 るんです。 メー カー に電 話すれ ば何 で も入 って くる。便利 と言 えば便利 なんだけ ど、恐 ら く
いい ものにはな らないか も知れな い。 あの頃はそ うではな くて、土 一つ に して もち ゃん と図式
が あ るんです。 そ して長年繰 り返 しや る内に、良 い 物 が 出来 てい って る。 だか ら、 18世 紀 の
マ カイ資料見 た り、持 って もい るけ ど、見事 な上 です。 あれ だけ分厚 く挽 いてい るけれ ど、軽
いで す。 あれはメー ガニ ク と言 う、だ いたい 本 島 の今 の仲泊 あた りか ら、最初 は前兼久 か ら船
で運 んでいたんです、伝馬船 で。船 にち ゃん と一 坪 の板枠 を作 って、その一 杯 い くらで崇元寺
あた りに下 ろ した と言 われて い ます。僕 が読谷 に移 った時期 までは、 80、
90(歳 )く
らいの、
土 を運 んだお年寄 りが仲泊 にはい っぱいい ま した。 その人達 の 間 き取 りもや った ことが あ るけ
ど、明 らかに運んで い ますね。それ じゃ、壺屋 は何 で こんな ことしたんだ ろ うと言 うと、王府
の経済立地 なんです。需要 と供給 で売れ る 。売 るの発想 なんです。壺屋 に窯 を作 ったのは。 も
う一つ あ るのは、壷屋 に荒焼 の原料 はあ ったわけなんです。与儀公 園 のあの辺 は全 部 ター ブ ッ
ク (田 圃)で 、全部土 だ ったんです。 それがそ っ くり荒焼 の土 に使 えたんです。 これを田土 と
呼 ん だ りす るんです け ど。 田土 が原料 にな ったんです。 そ うい う こともあ って 、 王 府 は今 で も
ここが 、 この跡 が工房 なんです。僕 が首里 に窯 を作 った 頃 まで ここに 習 いに来 ま した。宜 保次
郎 さんの よ うな い ろんな先輩達 がいて。 ち ょ うど この 跡 で長 い 背 の 低 い 仕事場 があ りま した。
薄暗 い 中 で 、荒焼 の仕事 を してい ま した。 そ うい う時代 が つい この 間 の こ となんです。 それが
今 みたいな近代 ビル にな って 、跡形 もな い。 も う綺麗 に文化 は消 えま したね。 その ままほ っ と
くともっ と消 えます よ。 あ った とい う ことも分 か らな いか も知れ な い 。 も う取 り戻せ ないです
ねそ うな る と。 今 な らこうして若 い こ ろ、見 た り聞 いた り経験 してい る人 が、 まだい るか らい
いん だけ ども。 それが も う僕 の 世代 が 皆終 わ る と、「え っ !沖 縄 で もや ってい たの ?」 ぐらい
にな るか も知 れな いで す よ。最近 アメ リカあた りで、 ち よつ とレクチ ャー した こ とがあ るんで
す けれ ど。そ こで感 じる こ とは、 これ こんな調子 でい くと、 日本 の若者達 が登窯 の 勉強 に 、 ア
メ リカ ヘ 行 くよ うにな るか も知 れ な い な とい うよ うな感 じがす る くらい 、 向 こ うで は ジ ャパ
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ニー ズブー ムです。和食 ブー ムです 。肥満解消 ブー ムです 。 日本 は今肥満 ― にな ったみ たいで
すね世界 で。 それで大腸癌 なんか も トップ らしいですね。 だか ら食文化 とか、そ うい う文化 の
ことが如何 に消 えたか とい う ことで す よ。 (話 が )横 に走 った方 が もっ と面 白 いんだけ ど、 ど
うも今 日は八重 山に絞 って とい う ことだか ら。 とにか く八重 山す ごいです 。 これか ら可能性 と
して 、 あれ だけ原料 があ るん だか ら。 それ ともう一つ 、 パ ナ リと言 うのがあ るで しょ。 もうパ
ナ リにははま りま した。十年、 もっ と通 い ま した。如何 せ ん、僕 は ものをあ ま り書 い た り出来
な い方 だか ら、記録 としてはあ ま り残 らないですね。 また、残 した くもな い け ど。人 を残 した
い ね、作れ る職人を。職人が文化 は継承す るって言 うのかな技術 は。学 問が継承 す るって言 う
のはあ ま り間かな いですね。 あれ は参考 にはな るんです よ。記録 とかそ うい う研究掘 り起 こ し
って言 うのは。 ところが、文化 を継承 して行 くのは作 り手 ですね。 そ こを誤 る と、 しか も需要
と供給 で捉 えない と、文化 は残 らな いで すね。 い くら偉 い 人が作 って も、需要 が なければ これ
は消 えますね 。それを行政 にい る人達 ももっ と考 えない と、文化政策 を。 こん どの選挙 なんか
文化 の文 もないですね政策 の 中 に。 あ っち もこっち も文化 の 文 もないですね。 こんな 時代 にな
りま したね。 あるのは皆金 の話 だけ。僕 は文化 が消 えるのは急激 と思い ます。 そ うい う ことを
ほ った らか してお くと。 そ うい う ことも含 めて今度 の展示会 は、良い物 が作 られていたあの時
代 に 目を向け て頂 きたいな と、そ うい う思 いです。
以下 は、講座参加者 の質 問 に対す る大嶺氏の答 えを一 部抜粋 して記録 した ものであ る。
質 問 :高 台 の処理 の仕方 (エ ッジ部分 の切 り取 り方 )で 湧 田系、壺屋系 に違 いが あ るのです
か
。
答 え :こ うい う細か い技術 とい うのは、物作 る側 か らい うと陶 工 達 の 好み もあ る。い っぱい並
べ て統計 で出す とそ う言 う こともあるけれ ど、 一 。二 個見 て この 削 りは どうとかはち ょ
っ と言 えないん じゃないかな。僕 なんか も気分 によってす ご くいい ものが作 りた くて向
か うけれ ども、気分 によっては丸 く削 った りとか、 一 。二 点 では決 め手 にな らないか も
知れな い。 で きた ら窯跡か ら陶片が 出て来 て、 それを並 べ る と答 えは掴 め るか も知れ な
い 。 あ ま り早急 に答 えは 出 さない方がいい。 あ ま り早急 に 出す と後 が困 る。答 えはな る
べ く大 き くしてお い た方 が、い い ものが見 えて くるか も知 れな い。 そ う言 う意 味では こ
の様 な話 し合 いを 繰 り返 して 、 い ろんな意見 も出 してプ ロ で収集 してい る人達 も交 えて
や った方 がいいです。 ただ、残念 な ことに作 り手 は古 くか ら、 もの書 い た りす るジ ンブ
ンは無 いみ たいです。記録 に残 っているのは殆 ど (も のを書 く)側 か ら見 た記録 が多 く
残 ってい る。 作 る側 か らそれ を見 た り読 んだ りす る と、 当た らないですね。非常 に最近
学者不客 にな ってきま した。 だか ら、文化 を継承す るのは、 これ は技術 だ と思 う。そ し
て需要 と供給 で、産業 の立 場 で作 って行 くことだ と思 う。 そ うい う結論 に今達 しつつ あ
るんです、仮説 です け ど。 で も天才み たいなのが出て来 て、作 らな くて も見 える評論家
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もいるかも知れない。 まあ !い ない と思 うけ ど。 どこかに間違 いを犯す可能性が強 いで
すね。
質問
今 回 の (八 重 山)古 陶展 には大 きな作 品 がないのですが。
答え
本 当はあ るんです。僕 なんか 70年 代 ・ 80年 代 (八 重 山 に)行 き来 して見 たの は、大物
が逆 に多か った。骨童 とい う感覚 か らす る と、小 さい物が好み に合 うのか も知 れない。
ところが 当時 は大 きい物 が主 流 なんです、産業 では。生活 の 中で も、水甕 ・ 穀物 その
他、漬物 。お酒、大物 なんです。 だか ら八重 山 の大物 はい っぱいあ るんです。焼 き締 め
で荒焼 とい う、誰 が呼んだか知 らないけれ ど。僕 は荒焼 とい う言葉 はあ ま り好 き じゃな
い けれ ど。上手物 の反対側 にある焼 き締 めの焼物 があるで しよ。種類 を大雑把 に挙 げて
も、壺屋 の 南蛮 とい う荒焼、喜名 ・ 知花 とい う荒焼 があ るで しょ。 それか ら宮 良 と今 ま
で呼んできてい る八重 山 の 荒焼 があるで しよ。大雑把 にす る と少 し釉 は掛 ってい るけれ
ども、古我地 の大物 があ るで しよ。 それか らす る とあの当時 は、今 み たいにポ リバ ケ ツ
とかステ ンの タンク とか全 くな い 時代 ですか ら、大物 があ るんです。例 えば首里 城 の 消
火用水 に使 われ た壼、藍壺 よ りも大 きいんです。 そ うい うもの も焼 いていたんで す。八
重 山 の需要が どうい うものだ ったかによってその種類 が分 か って きます よ。必要 な もの
は全部作 ってい るんです。 これが王府 の産業 だったわけです。
質問
八重 山に大量 に埋 蔵 されてい る といわれ る木節 に近 い 良質 の土 は、市役所 か ら採集 して
はいけない とい うお達 しが あるよ うですが、それ と先生 の物作 りを督励 す る話 とは整合
しない部分 があ りますが、 この点 は どうク リア した らよいので しようか。
答え
これ は行政 の 貧弱 さだろ うね。 こん な ことや ってい る と、沖縄 の 産業 なんて出て こない
です よ。 これは県 も金 がなか った ら国の金 を動 か してで も、 こ うい うのはプロジェク ト
として立 ち上 げ るべ きだ と思 い ます。 これか ら正 にそ うい う時代 に今 向 かいつつ あ るか
ら。
質問
湧 田マ カイ といわれ てい た ものが、八重 山 で も焼 かれ ていたか も知れな い とい う ことで
すが。 メー ガ ニ クの よ うな耐火度 の強 い土 がな くて も、八重 山 の土 で も私達 が思 ってい
る湧 田の マ カイの よ うな ものが焼 けるので しょうか。
答え
今 それが決 め手 にな って 、素地 の締 ま り方 とか重 さ とかで分類 してい る節 があ るんだけ
ど。全 くメー ガ ニ ク とい うよ うなカオ リ ン系 の土 が無 い とは言 えない。 あれ だけ原料 の
土があ るのだか ら。本 島 で 言 うと、 だい たい恩納村 の前兼久 そ こらあた りか ら以北、辺
土名の先 までメー ガ ニ ク層 なんです。非常 に 多 いんです 。本 土 で焼物 をや ってい る人達
が羨 ま しが る くらい 良 い メー ガ ニ クですね。 それ を混ぜ る と益子参考館 に並んでいたよ
うな、本 当に良 い物 が作 れ る可 能性 があ ります。
質問
八重 山 も探せ ば メー ガニ クの よ うな土があ るか も知れな いで すか。
答え
それは、あ る と思 い ます。近 いのは見た ことが あ る。 そんな こと言 った ら壺屋 の人 に怒
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られ るけ ど。土漁 りを したか ら分か るんで、前兼久だけか ら出る と思われていたんです。
それでメー ガニ ク とい う名前 が付いたんです。 ところがそれ よ りももっ と良質な ものが、
北部 の 方 に一 大層 を成 してあ ります。 これ は地学 の先生 に も頼 んでい るけ ど、 どうい う
来方 で この メー ガ ニ クの層 が 出来 たのか。花 南岩 の 風化物 とは別 の 出来方 み たいです。
釉薬学者 のオオ ニ シ先生 (京 都 の芸大 の 非常勤 )を 呼ん だ りして一 度 (八 重 山 に)入 っ
たんだけ ども、見 つ か りませ んで したね。 もしそ うい うものがあ って 、 まっ 1運 んで も
いい じゃないですか、 これ だけあ るんですか ら。運 んで もっ と軽 く作 る と、 この湧 田系
の仕事 だけで も一 大産業 にな る と僕 は見 てい ます。
質問
沖縄本 島 では磁土 は採れないのですか。
答え
琉球大学 の地 学 で見 る と、花 向岩 が今 のブセナか ら約陸地 に 200mく らい 入 って るん
だってね、地下 で。沖縄 で一 番面 白いのは あ の辺 の土 です。県 が第ニセ クター で開発 して、
その後 ブセナの本丸作 ったで しよ。 あれ は焼物産業 で言 うと一 大損失 です。 あの山全部
使 えな くな ったんです。 一 番土 が良いんです あれは。 しか も残念 な こ とに、海 に 向か っ
て入 ってい るんです。 もっ と隆起す る と将来い いで す よ。 だか ら一 千年後 まで生 きたほ
うが いいで す よ。 (客 席か ら笑い)
質 問 「陶工 家譜」 な どに 白焼物 と出てきますが、磁器 と白焼物 との上 の違 いは何 ですか。
答 え 今 は温度 で も陶器 よ り低火度 で焼 く磁器 だ ってあるんです。 だか ら土 も白土 で温度 にさ
え耐 え られ た ら、磁器 ができるんです。必ず陶石 を砕 いて有 田がや つた よ うに、良質 は
あれ なんです よ。 と こ ろが磁器 と言 う範 囲 が非常 に広 くて、陶器 以外 皆磁器 なんです。
そ こで皆 アバ ウ トで仕事 を してい るんです。 出来 な い ことはない。上質 は 固形化 した 陶
石 なんですね。陶石 に磁 土 を作 る ときは、長石 を パー セ ンテー ジで、好みで (混 ぜ る)。
質問
長石釉 と言 うものは沖縄 のい ろんな窯で使 ってい るのですか。
答え
沖縄 では、 グシチ ャ ンが 長石 と言 われ て い る。 グ シチ ャンは長石分 が非常 に 多 いで す、
異物 も入 ってい るけ ど。 メー カ ー が作 る志野 とか焼 け るよ うな長石 ではないけれ ども。
グシチ ャ ンが 結構長石扱 い してい る。昔 は髪 を洗 った り、磨 き砂 に使 った りしま した。
グ シチ ャ ン と呼んでい ます よ。砂 っぱい、あれが長石 なんです。 だか ら長石釉 に近 い も
のは作 れ る。 もっ と質 のいい ものが八重 山 にあ るんです、長石 が。 タンパ ン と呼んだ り
します。
質問
八重 山 の上 は発掘 して、民業 で使 う ことは可能な んですか。
答え
復 帰 の 時点 で本土 の大手 が、鉱業権 で押 さえたんです。ぼんや りして い る間に全部押 さ
え られ たんです。 それで使 お うとした ら、全 くだめ。 それ で裁判 にかけてまだ解決 して
いないん じゃないかな。 あれは触れな いんで す。金 を払 わ され るんです。皆 まずい こと
してい るんです。産業興 しに真剣 にな っていない と思 い ます。 どう言 うのが 産業 か と言
う ことです。宝の持 ち腐れです よ。す ごい土で す よ。原土 と言 うのは白上 で も、 自然 の
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適度な水分を含んでいるんです。掘 り出 してあげるか ら乾燥 して変な物 になるんです。
地球の中に埋まっているときは、 これはロー スみたいなものです。 シ ョベ ルを入れると、
ねっとり起 こって くるんです。
質問
展示作品の 中で喜名焼 と言われている瓶子に掛かる茶色 の土は辰砂 と聞いたのですが。
答え
辰砂 と言 うのは釉薬に酸化銅、銅分が入 っているかいないかで出るん です。入 っていた
らそれを還元 させる、酸欠をお こしている場所 にあった ら赤 い辰砂 にな ります。鉄砂 も
同 じで、鉄釉が極度 な酸欠をお こす と鉄砂 に変わ ります。
質問
あの瓶子は辰砂が酸化 したのであのような赤 い色になったのですか。
答え
恐 らく。オオグスヤー が掛 っています。オオグスヤー と言 うのは釉 の調合で酸化銅が入
るんです。銅分が入 るんです、若干。零点何 パー セン トくらいだけ ど。それが若干入 る
ことで、ああい う風に変化する。それを窯変 と言いますね。オオグスヤー は面白いですよ。
織部 のオオグスヤー とは違 うんです。織部は酸化銅 一点張 りで高火度だけ ど。奈良三彩
とか唐三彩 とは別 のものなんです。織部 が どこで高火度の緑釉 に出会 ったか と言 う課題
は一つ なんです。加藤卓男さん のテーマはそれで したね。安南 とか琉球を通 して伝わっ
ている感 じがすると彼 は言 つていま した。沖縄のオオ グスヤー と言 うのは、酸化銅では
な くて、真鍮鋼を使 うんです、真鍮 の粉。真鍮 も銅分が入 っているか らそれを利用 して。
酸化銅 と真鍮のオオグスヤー は どう違 うか と言 うと、酸化銅 一点張 りの織部 は透明感が
強 い。どんな に分厚 く掛けても透明感が強 いんです。ところが琉球 の真鍮 のオオグスヤー
は不透明。だか ら、琉球青磁 と言 う言葉があるのはそれなんです。青磁風になるんです、
特 に分厚 く掛けた りすると。それが酸欠お こす と赤 くなった り変化 をお こすんです。
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文化講座 の様子
展示 の様子
大嶺貿清氏
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