﹃絵画の東方

「受賞のことば:第13回(2000年度)一般部門」
『人間としてあること:和辻哲郎文化賞20年記念誌』姫路文学館、2009年9月1日、126-127頁
稲賀
繁美
著
『絵画の東方
日
名古屋大学出版会
稲リ
賀エ
繁ン
美タリ著
オ
ズムからジヤボニスムヘ』
﹃絵画
の
方
一九
九東
九年
一 O 月三 O
O
O
l
アさんやオ
l
、
。
、
。
新課程文学博士。
ムス教授の業績をきちんと評価したのは、和辻賞の大きな見識だと考える。だが、日本
日本の哲学者が戦前に多く滞在したハイデルベルクで、二ヶ月ほど講義をした。その内容の一部が今回、 受賞
単刊書として欧米語でまとめられていないことに、自分の限界を感じている。
ム滞
ス在
教し
授た
のハ
業イ
績デ
をル
きベ
ちル
んク
とで
評、
価二
しヶ
た月
のほ
はど
、講
和義
辻を
賞し
のた
大。
きそ
なの
見内識
日ラ
本フ
のル
哲l
学ア
者さ
がん
戦や
前オ
にl
多く
容だ
のと
一考
部え
がる
今。
回だ
、が
受、
賞日本
の研究者の仕事が列島を越えて、世界で評価されることも大切だろう。その点、今回の受賞対象となった仕事を
の研究者の仕事が列島を越えて、世界で評価されることも大切だろう。その点、今回の受賞対象となった仕事を
単刊受
書賞
との
しこ
てと
欧ば
米語でまとめられていないことに、自分の限界を感じている。
ラフル
4
較稲
文化
西な
のが
思想
、和
『三
異二
文化
線五
』七
、他
。。 東 京 都 出 身 。
賀繁
美東い
し闘
げ争
み』昭
年へ
(の
一視九
)が
生あ
まるれ
専攻は文化交渉史、美術思想史。東京大学大学院比軟文学比較文化課程単位取得退学。パリ第七大学博士課程修了。新課程文学博士。
国際日本文化研究センター助教授(受賞時)。現在は国際日本文化研究センター教授。著書は、﹃絵画の黄昏﹄(サントリー学芸員・
倫雅賞・渋津ク口 lデル賞)、編著に、﹃異文化理解の倫理にむけて﹄、﹃伝統工墓再考・京のうちそと﹄、執筆分担著に、﹃比較文学比
-受賞較
の文
こ化と
4ば 東西の思想闘争﹄、﹃異文化への視線﹄、他がある。
、
著書 は 『絵画の黄昏』(サントリー学芸員・
国際日本文化研究センター助教授(受賞時)。現在は国際日本文化研究センター教授
倫雅賞・渋津ク口|デル貰) 、編 著に 『異文化理解の倫理にむけて』『伝統工塾再考・京のうちそと』、執筆分担著に、『比較文学比
。
専攻は文一
化交
史三 東京
大学名
大学
院屋
比軟
文学
較文
課程単位取得退学。パリ第七大学博士課程修了
九渉
九史
九年美
一術思想月
日
古
大
学比出
版化会
、
稲賀繁美いながしげみ昭和三二年(一九五七)生まれ。東京都出身。
オリエンタリズムからジャポニスムヘ﹄
刊
刊
1
2
6
1
2
6
一般部門
第1
13
回(
(2000年度)
第
3回
2
0
0
0
年度) 一般部門
の
辻哲
哲郎
郎と
と竹
竹山
山道
道雄
雄、
、今
今道
道友
友信
信氏
氏と
との
の交
交遊遊
で改
改め
めて
て読
読み
み直
直し
し、
、
の対
対象
象と
とな
なっ
った
た論
論考
考で
であ
ある
る。
。和
和辻
なな
どど
もも
、、当
当地
地で
﹁「
知知
識識
人
国
内
しし
かか
視視
野野
にに
入入
らら
ぬぬ
かか
、、
逆に
人の
の責
責任
任」
﹂と
とい
いう
うこ
こと
とに
に改
改め
めて
て思
思い
いを
をい
いた
たし
した
た。
。日
日本本
国
内
逆「
に宗
﹁主
宗国
主」
国カ
﹂ブ
カレ
ブの
レ近
の年
近の
年の
。
舜
舜臣
臣
日
日本
本の
の大
大学
学教
教員
員に
に対
対す
する
る違
違和
和感
感が
が、
、ド
ドイ
イツ
ツ滞
滞在
在で
で改
改め
めて
て頭
頭を
をも
もた
たげ
げて
てき
きた
た。
。と同
と時
同に
時一
に個
一の
個人
の間
人の
間能
の力
能の
力限
の度
限と
度と
い
いう
うも
もの
のに
にも
も、
、不
不惑
惑を
を超
超え
えて
て、
、惑
惑う
うこ
こと
とが
が多
多い
い。
。
《
委員
員評
評︾
》
︽選
選考
考委
た
考考
たの
のし
しい
い選選
。
にに
述述
はは
細細
密密
にわ
るいる。だ
稲
のの
東東
方方
』﹄
はは
浩浩
識輸
なな
論論
著著
でで
ああ
るる。し
稲賀
賀繁
繁美
美氏
氏の
の『
﹃絵
絵画画
しか
かも
も叙叙
にた
わっ
たて
っいて
だか
から
ら本
本書
書を
を辞
辞書
書的的
利用することもできる。本書を構成する六章と補章のタイトルを読むだけでもたのしい。
利
用
す
る
こ
と
も
で
き
る
。
本
書
を
構
成
す
る
六
章
と
補
章
の
タ
イ
ト
ル
を
読
む
だ
け
で
も
た
の
し
い
。
「
表象
象の
の限
限界
界﹂
」﹁
「透
透視
視図
図法
法の
の往
往還
還﹂
」﹁
「ジ
ジ
ャ
わ鏡
せ﹂
鏡﹁
」失
「失
﹁オ
オリ
リエ
エン
ンタ
タリ
リズ
ズム
ム絵
絵画
画と
と表
ャ
ポポ
ニニ
スス
ムム
とと
日日
本本
美美
術術
﹂」
﹁「
幻幻
想想
のの
合合
わせ
。
楽
彼方
方へ
へ﹂
」﹁
「画
画家
家に
に棲
棲ま
まう
う美
美術
術史
史﹂
」
で
楽園
園の
の修
修辞
辞学
学」
﹂「
﹁表
表象
象の
の彼
で
ああ
るる
。。
こ
実は
は一
一本
本の
のふ
ふと
とい
い流
流れ
れに
にそ
そそ
そい
いで
でい
いる
る。
この
の六
六章
章と
と補
補章
章は
は、
、そ
それ
れぞ
ぞれ
れ独
独立
立し
して
てい
いる
るよ
よう
うに
にみ
みえ
えて
て、
、実
そ
きに
にか
かえ
えて
て、
、を
を読
読め
めば
ばわ
わか
かる
る。
。そ
そし
して
て巻
巻首
首に
にあ
ある
る、
、﹁「
それ
れは
は巻
巻末
末に
にあ
ある
る「
﹁初
初出
出覚
覚書
書」
﹂|
│あ
あと
とが
がき
((
本本
書書
はは
))
きき
たた
る
のの
前前
哨哨
とと
しし
てて
のの
位位
置置
をを
占占
めめ
るる
ここ
とと
にに
なな
るる
」﹂
とと
いい
うう
宣宣
言言
とと
首首
尾一
るべ
べき
きモ
モダ
ダニ
ニズ
ズム
ム批
批判判
尾貫
一し
貫て
しい
てる
い。
る著
。者
著に
者よ
にれ
よば
れば
本
本書
書は
は、
、三
三部
部作
作構
構想
想の
の第
第二
二部
部で
であ
ある
ると
とい
いう
う。
。
大
透透
視視
図図
法法
のの
往往
還還
」は
著者の学部卒業論文が原型となっている)、定まったテー
大学
学の
のこ
ころ
ろか
から
ら(
(本
本書
書第
第二
二章
章「﹁
L は著者の学部卒業論文が原型となっている)、定まったテー
マをもち、孜々として研究を続けてきた息の長さに、敬服するほかはない。
マ
を
も
ち
、
孜
々
と
し
て
研
究
を
続
け
て
き
た
息
の
長
さ
に
、
敬
服
す
る
ほ
か
は
な
い
。
ま
はは
、、
日日
本本
のの
みみ
なな
らら
ずず
、、
中中
国国
のの
豊豊
子子
憧憧
のの
翻翻
案案
「﹁
谷谷
詞詞
生生
活」
ゴッホの生活」)まで入ってい
また
た彼
彼の
の研
研究
究視
視野
野にに
活(L「
( ﹁ゴッホの生活﹂)まで入ってい
。
豊
国
語語
にに
訳訳
しし
たた
人人
でで
もも
ああ
るる
がが
、、
文文
革革
中中
にに
迫迫
害害
ささ
れれ
てて
死死
んん
だだ
。。
る 。
を最
最初
初に
に中中
国
る
豊子
子憧
憧は
は日
日本
本に
に留
留学
学し
し、
、「
﹁源
源氏
氏物
物語
語」Lを
彼
るの
ので
では
はあ
ある
るま
まい
いか
か。
。な
なお
お彼
彼の
の師
師の
の李
李叔
叔同
同は
は、
、本
本書
書に
にも
も
彼を
をと
とり
りあ
あげ
げる
るこ
こと
とは
は、
、一
一種
種の
の鎮
鎮魂
魂に
にな
なる
ああ
るる
よよ
うう
にに
豊豊
にに
1
2
7
1
2
7
陳
陳
美術の手ほどきをしたのである。李叔同は上野で絵画だけではなく音楽も習った。戦時中に死んだが、晩年は出
家して弘一法師の名で知られている。
1
2
8
1
2
8
八年前、中国の文人で画人でもある鴻嬢才氏から、日中合作の映画を作るなら、主人公は弘一法師だという話
手ほどきをしたのである。李叔同は上野で絵画だけではなく音楽も習った。戦時中に死んだが、晩年は出
を美
き術
いの
た。
家し絵
て画
弘の
一東
法方
師』
のを
名読
でみ
知な
らが
れら
て、
いそ
るん
。なことを思い出し、たのしい選考であった。
『
八年前、中国の文人で画人でもある鴻嘆才氏から、日中合作の映画を作るなら、主人公は弘一法師だという話
をきいた。
が、もっと大胆に自分の説を語ってもよかったのではないか。稲賀氏の歌うアリアを聞きたかったと思う。
断的、あるいは独創的な意見がほしかったように思う。稲賀氏は自分の考えを引用文の羅列によって表している
。か
そっ
れた
はの
比で
較は
文な
化い
とか
い。
う稲
学賀
問氏
のの
せ歌
いう
かア
、リ
稲ア
賀を
氏聞
のき
パた
ーかソ
が、し
もか
っし
と私
大に
胆は
にい
自さ
分さ
のか
説注
を文
語が
っあ
てる
もよ
っナ
たリ
とテ
思ィ
うの
。せいかは
分からないが、たとえばゴッホについても、たとえばセザンヌについても、稲賀氏がどう思っているかという独
、た
興と
味え
深ば
いゴ
スッ
トホ
ーにリ
しセ
かザ
もン
とヌ
こに
ろつ
どいこ
きっ
らて
きい
らる
とか
光と
っいて
分ぎ
か合
らわ
なせ
いて
が、
つー
いを
て作
もり
、出
たす
と。
えば
てろ
もに
、著
稲者
賀の
氏創
が見
どが
う思
うい
独る。この
体が
系ほ
をし
もか
っっ
大た
著よ
でう
あに
る思
がう
、。
細稲
か賀
い氏
部は分
。ている
断著
的書
、は
あ甚
るだ
い首
は尾
独一
創貫
的し
なた
意見
自を
分も
の著
考者
えは
を決
引し
用て
文お
のろ
羅そ
列か
にに
よし
っな
てい
表し
に大
ど著
ので
よあ
うる
にが
影、
響細
しか
たい
か部
を分
稲を
賀も
氏著
は者
実は
に決
克し
明て
にお
描ろき
著輸
書入
はさ
甚れ
だ、
首そ
尾れ
一が
貫印
し象
た派
体の
系誕
を生
もっ
そ出
かす
に。
しそ
なし
いて
。それに関する英
語
、さ
ドか
イ注
ツ文
語が
、あ
日る
本。語
ゆう
る学
文問
献の
をせ
実い
にか精
用リ
さテ
れィ
たの
文せ
献い
のか文
し、
かフ
しラ
私ン
にス
は語
いさ
そ、
れ中
は国
比語
較の
文あ
化ら
とい
、力
稲的
賀に
氏読
のみ
パ、
ー引
ソナ
は章をつな
れを
る作
のり
は出
、す
稲。
賀し
氏か
のも
驚と
くこ
べろ
きど
勉こ
強ろ
ぷに
り著
で者
あの
る創
。見
浮が
世き
絵が
ぎ合こ
わの
せ書
てを
、一
興読
味し
深て
いま
スず
ト感
ーじリらー
らど
きの
らよ
とう
光に
っヨ
てー
いロ
るッ
。パ
こに
の
のの
がよ
そう
れに
ほ影
ど響
古し
くた
はか
なを
い稲
が賀
、氏
こは
の実
稲に
賀克
氏明
のに
作描
品き
は出、
輸入比
さ較
れ文
、化
そと
れい
がう
印学
象問
派が
ので
誕き
生た
にど
す歴
。史
そを
しも
てっ
そ比
れ較
に文
関化
すと
るい
英う学
果イ
とツ
い語
え、
る日
。本
比語
較、
文中化
でに
発精
展力
し的
たに
か読
とみ
感、
慨引を
。な
語問
、の
フみ
ラご
ンと
スな
語成
、ド
国と
語い
のう
あ学
ら問
ゆも
るこ
文こ
献ま
を実
用深
さく
れし
たた
文次
献第
ので
文あ
章る
をつ
比較文化という学問ができたのがそれほど古くはないが、この稲賀氏の作品は、歴史をもっ比較文化という学
門と
)い
はう
、学
多問
少も
のこ
議こ
論ま
がで
あ発
っ展
たし
がた
、か
稲と
賀感
繁慨
美を
氏深
のく
﹃し絵
問の今
み年
ごの
と和
な辻
成哲
果郎
と文
い化
え賞
る(
。一
比般
較部
文化
た画
次の
第東
で方
あ﹄
るに
。決定した。ま
ず
当書
なを
と一
こ読
ろし
でて
あま
ろず
う感
。じられるのは、稲賀氏の驚くべき勉強ぷりである。浮世絵がどのようにヨーロッパに
こ順
の
ず順当なところであろう。
﹃の
絵和
画辻
の哲
東郎
方文
﹄化
を賞
読(
み一
な般
が部
ら門
、)
そは
ん、
な多
こ少
との
を議
思論
いが
出あ
しっ
、た
たの
今年
がし
、い
稲選
賀考
繁で
美あ
氏っ
のた
『。
絵画の東方』に決定した。ま
1孟
猛
梅
原
梅
原
第1
3回 (
2
0
0
0
年度) 一 般 部 門
中
孝孝
次次
事実
れれ
はは
、、
著著
者者
のの
文文
献献
、、
絵絵
画画
、、
歴歴
史史
的的事事実
く、
、ま
まこ
こと
とに
に徹
徹底
底し
して
てい
いて
て、
、
事こ
実こ
実へ
への
の打
打ち
ちこ
こみ
み方
方は
は並
並大
大抵
抵の
のも
もの
ので
でな
なく
学術論文としては申し分ない、とわたしも判断した。近年これほどきめこまかな論文はめったにない。
学
術
論
文
と
し
て
は
申
し
分
な
い
、
と
わ
た
し
も
判
断
し
た
。
近
年
こ
れ
ほ
ど
き
め
こ
ま
か
な
論
文
は
め
っ
た
に
な
い
。
が、
かむ
、か
誰、
に誰
向に
っ向
てっ
書て
く書
かく
がか
はが
っは
きっ
りき
伝り
わ伝
っわ っ
が注
、文
注も
文そ
もの
そと
のこ
とろ
こに
ろあ
にっ
あて
っ、
て何
、の
何た
のめ
たに
めこ
にう
こい
うう
い主
う題
主に
題取
にり
取組
りむ組
方』
、、
そそ
のの
篤篤
実実
かか
つっ
熱熱
心心
なな
博博
捜捜ぶぶり
った
た。
。
方が
﹄が
りを
を買
買う
うこ
こと
とに
にし
して
て授
授賞
賞作
作に
に決
決っ
て両
とと
くく
にに
ここ
れれ
とと
主主
張張
しし
たた
いい
作作
品品
がが
ああ
っっ
たた
わわ
けけ
でで
なな
くく
、、消消去去法
て委
両員
委に
員も
にも
法で
で消
消し
して
てゆ
ゆく
くう
うち
ち、
、稲
稲賀
賀繁
繁美
美『
﹃絵
絵画
画の
の東
東
そこ
でで
わわ
たた
しし
はは
ここ
れれ
をを
推推
しし
たたの
れぞ
ぞれ
れ別
別の
のも
もの
のを
を推
推し
し、、
とっ
いっ
そこ
のだ
だが
が、
、陳
陳、
、梅
梅原
原委
委員
員は
はそ
それ
賛賛
同同
はは
得得
らら
れれ
なな
かか
っっ
たた
。。
とい
自然
正を
し正
たし
。た
そ。
のそ
やの
りや
方り
に方
魅に
せ魅
らせ
れら
たれ
かた
らか
こら
そこ
、み
自を
然見
を極
見め
極、
め最
、も
最自
も然
自の
然理
のに
理叶
にっ
叶た
っ工
た法
工で
法川
でを川
そず
、か
みら
ずも
か河
ら川
も事
河川事
業に
業携
にっ
携て
っき
てた
き著
た者
著は
者デ
は・
デレ
・イ
レケ
イ研
ケ究
研を
究始
をめ
始た
めの
ただ
のと
だ思
とわ
思れ
わる
れ。
る。
ら始
とと
いい
うう
のの
だだ
かか
らら
並並
々々
でで
なな
いい
。。
らめ
始た
めた
デ・
デレ
・イ
レケ
イは
ケ今
は日
今の
日よ
のう
よに
うた
にだ
た両
だ岸
両を
岸コ
をン
コク
ンリ
ク化
リし
化て
し、
て強
、引
強に
引自
に然
自を
然ね
をじ
ね伏
じせ
伏る
せよ
るう
よな
う土
な木
土工
木事
工は
事し
はな
しか
なっ
かた
っ。
た。
建設
定定
年年
退退
職職
後後
もも
っっ
ぱぱ
らら
デデ
・・
レレ
イイ
ケケ
のの
事事
蹟蹟
のの
研研
究究
にに
専専
念念
すするる。。遣
建省
設を
省を
遺さ
され
れた
た文
文書
書を
を読
読む
むた
ため
めオ
オラ
ラン
ンダ
ダ語
語の
の学
学習
習か
か
著著
者者
はは
明明
治治
年年
聞間
にに
木木
曽曽
川川
をを
初初めめ日
った
たオ
オラ
ラン
ンダ
ダの
の土
土木
木技
技師
師デデ・・
日本
本各
各地
地の
の川
川の
の治
治水
水に
に大
大成
成あ
あっ
レレ
イイ
ケケ
にに
興興
味味
をを
持持
ちち
、、
れこれ
今年
そ中
ので
中は
でこは
今は
年候
は補
候作
補五
作点
五の
点う
のち
う断
ち然
断こ
然れ
こ一
れ冊
一と
冊い
とう
いも
うの
もが
のな
がか
なっ
かた
っ。
たど
。れ
ども
れ甲
も乙
甲つ
乙け
つが
けた
がい
た感
いじ
感で
じ、
で、その
がい
がい
いか
いと
か思
とっ
思た
っ『
た日
﹃本
日の
本川
のを
川匙
をら
匙せ
らた
せ技
た師
技デ
師・
デレ
・イ
レケ
イ』
ケを
﹄わ
をた
わし
たは
し推
はし
推た
し。
た。
中
野
野
てこ
にか
語に
ら語
れら
るれ
こる
とこ
もと
少も
な少
くな
、く
文、
献文
の献
引の
用引
に用
よに
りよ
かり
かか か
てな
こい
なの
いが
の、
が問
、題
問だ
題と
だ思
とわ
思れ
わた
れ。
た著
。者
著自
者身
自の
身美
の的
美体
的験
体が
験じ
がかじ
りす
れさ
るれ
だる
ろだ
うろ
がう
、が
今、
年今
の年
授の
賞授
作賞
に作
値に
す値
るす
とる
しと
てし
三て
委三
員の
りぎ
すて
ぎも
てい
もる
い。
るそ
。れ
そら
れの
ら点
のは
点今
は後
今の
後課
の題
課と
題し
とて
し残
てさ残
委決
員定
の決定
を見
でで
ああ
っっ
たた
。。
をた
見の
たの
1
2
9
1
2
9
一般部門
第 13回 (2000年度)
和辻哲郎〔わつじ
和辻哲郎〔わつじ
てつろう 明治22年 (1889) r-..-昭和 35年 (1960))
明治2
2年 (
1
8
8
9
) ~昭和 35年 (1960))
てつろう
和辻哲郎が確立した「人と人との間柄」を中心概念とする東洋的な倫理
和辻哲郎が確立した「人と人との間柄」を中心概念とする東洋的な倫理
学(~人間の学としての倫理学J) や「風土」を人間精神の自己了解ととら
学 C~人間の学としての倫理学J) や「風土」を人間精神の自己了解ととら
えた比較文化論(~風土J) は、日本文化を思索するための古典的業績となっ
えた比較文化論
ている。
r
c
風土 J
) は、日本文化を思索するための古典的業績となっ
ている O
和辻の学的軌跡は、 30代後半の欧州留学を境に大きく転換すると言え、
和辻の学的軌跡は、 3
0代後半の欧州留学を境に大きく転換すると言え、
それまでは今日なお人気が高い『古寺巡礼』に代表される日本文化史の探
それまでは今日なお人気が高い『古寺巡礼」に代表される日本文化史の探
究、実存哲学や仏教哲学の研究など、強靭な思弁と鋭い直感力に支えられ
究、実存哲学や仏教哲学の研究など、強靭な思弁と鋭い直感力に支えられ
た独創的な作品を次々に著した。帰国後の和辻は、 20年以上を費やして自
0年以上を費やして自
た独創的な作品を次々に著した。帰国後の和辻は、 2
らの倫理学大系を構築し、日本倫理思想史研究を完結させた。
らの倫理学大系を構築し、日本倫理思想史研究を完結させた。
和辻哲郎は、姫路市内を市川沿いに北上した仁豊野の村医者の家に生ま
和辻哲郎は、姫路市内を市川沿いに北上した仁豊野の村医者の家に生ま
れた。晩年の著作「自叙伝の試み』には、播磨の農村の移り変わりや姫路
れた。晩年の著作「自叙伝の試み』には、播磨の農村の移り変わりや姫路
中学校(現在の姫路西高等学校)の教育風景などが、和辻の家系の歴史と
中学校(現在の姫路西高等学校)の教育風景などが、和辻の家系の歴史と
和辻自身の精神成長とともに生き生きと記されている。
和辻自身の精神成長とともに生き生きと記されている。
姫路文学館の和辻哲郎・展示コーナーでは、和辻の自筆原稿、書簡、初
姫路文学館の和辻哲郎・展示コーナーでは、和辻の自筆原稿、書簡、初
版本、愛用品などの文学資料を常時見ることができる O
版本、愛用品などの文学資料を常時見ることができる O
人間としてあること
人間としてあること
裏表紙図版・和辻哲郎「面とペルソナ」
原
稿
平成 21年 (2009)
9 月 1 日発行
平成 2
1年 (
2
0
0
9
) 9月 1日発行
編集・発行姫路文学館
編集・発行姫路文学館
干 670-0021
〒6
7
0
0
0
2
1
兵庫県姫路市山野井町84番地
兵庫県姫路市山野井町8
4番地
電話 079-293-8228
FAX0
7
9
2
9
8
2
5
3
3
電話 0
7
9
2
9
3
8
2
2
8 FAX0
7
9
2
9
8
2
5
3
3
h
t
t
p
://www.
c
i
t
y.
h
i
m
e
j
i.
lg
.
j
p/bungaku
/
h
t
t
p
:
/
/
w
w
w
.
c
i
t
y
.
h
i
m
e
j
i
.
l
g
j
p
j
b
u
n
g
a
k
u
j
l
/
k
y
o
b
u
n
g
a
k
u
@
c
i
t
y
.
h
i
m
e
j
i
.
h
y
o
g
o
.
j
p
e
m
a
i
/k
y
o
b
u
n
g
a
k
u
@
c
i
t
y
.
h
i
m
e
j
i
.
h
y
o
g
o
.
j
p
e
m
a
il
E
I
J
門川ド
「←ド
裏表紙図版・和辻哲郎﹁面とペルソナ﹂
原
稿
-和辻哲郎文化賞 20年記念誌-
一和辻哲郎文化賞 2
0年 記 念 誌 -
刷
刷
株式会社ティー・エム・ピー
株式会社ティー・エム・ピー